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アレクサンダー大王、その八、ヒダスペスの戦い [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はペルセポリスで事実上のペルシア支配を完成、その後、ダリウス、新王を排除、その王位を完璧とする。さらにインドの国境まですすみ東征をおわりにするところまでをのべる。
(Alexander the Great: Battle of the Hydaspes 326 BC、BazBattles、2017/06/23 に公開)

* アレクサンダー東征の行きつくところ
紀元前三二六年五月、無敗のマセドニア軍がインド亜大陸のパンジャブ地域に侵入した。どしゃぶりの天候のなか、あくまでも勢力の拡大をもとめマセドニア、アジアとペルシアの王、アレクサンダーはヒダスペス川の西岸にたってた。彼は対岸におきるであろう戦いをどのようにすべきかをかんがえてた。インドのおそるべき王とその巨大な軍との戦い、アレクサンダーの最後の主要な戦いがまさにはじまろうとしてる。

* ペルセポリスの奪取、ペルシアの王と宣言
紀元前三三〇年の春である。ザグロス山脈における困難な戦いに勝利しマセドニア軍は最後の目的地、ペルセポリスにやってきた。アレクサンダーはペルシア王の財宝の大部分がメディアのエクバタナに運びさらたことをしった。これはペルセポリスのはるか北西にある。戦いにやぶれたダリウスがさらに兵をあつめようとしてたからである。アレクサンダーはこれまでにペルシアの主要都市をうばっていた。そしてこの首都においてペルシアの新年をいわう儀式をおこなうことにした。

* エクバタナのダリウスを追撃
彼は地域の貴族たちに自分の支配にしたがう誓いをもとめた。しかしその儀式に出席したのはあらたに州長官に任命された者のほかわずかな貴族たちだった。彼は自分がアジアの王であるといってる。だが本当に全ペルシアの王であるのか疑問がのこってたことをしめす。まだ形式的にペルシアの王であるダリウスを殺害するほかない。彼はエクバタナに出発する前にペルセポリスを焼討ちにした。百五十年前にペルシアがアテネを焼討ちにしたお返しであった。

ダリウスの追撃がはじまった。六月にエクバタナにマセドニア軍がやってきた。ダリウスはいない。マセドニア軍の動きをよくしってた彼は数日前にそこをはなれてた。そして財宝と随行者を引きつれて北東にさった。その先はペルシアでまだ征服されてないもっとも東部の地域であった。そこにはまだダリウスにしたがう人々がいた。しかしマセドニアの追撃をしってダリウスの随行者のなかからつぎつぎと脱落者がでてきた。最後にはバクトリアの州長官ベッソスを長とする臣下によりとらえられた。彼はダリウスをマセドニアに引きわたし彼らが支配してる州の征服をまぬがれようとした。

* 殺害されたダリウス、新王となったベッソスを追撃
アレクサンダーはベッソスの申し出を拒否した。彼はペルシアの王位を主張してるのでよい選択であったろう。ベッソスはダリウスをころした。アレクサンダーはダリウスをペルセポリスで丁重に埋葬した。その頃ベッソスはペルシアの新王となった。アーティゼクシという。彼はマセドニア人は結局、ヨーロッパにもどるとおもってた。従来の普通の侵入者の考えだった。アレクサンダーには通用しなかった。また遠征作戦がはじまった。一年ほどのあいだにアレクサンダーは中央アジアの広大な平原を横断し平定した。

* 本国帰還をねがう兵の気持、 勢力拡大をもとめるアレクサンダー
ちょうどこの頃である。最初の対立がマセドニアの軍のなかにうまれた。ペルセポリスの征服の後、ダリウスの死の後におおくの兵士たちはアレクサンダーが本国にもどることをのぞんだ。ペルシアとたたかうためにダーダネルス海峡をわたってから五年がたった。兵の気持がかわったがそれ以上に敬愛する王がかわった。彼はたびたび自分を神のようにあつかうことをもとめた。おおくのペルシアの慣習を引きついだ。彼の周囲におおくのペルシア人助言者をおいた。彼はだんだんと猜疑心がつよくなった。彼の命をねらった陰謀が発見された。彼は配下の指揮官の一人、フィロタスを充分な証拠なしに裁判にかけころした。これは重大な問題を引きおこした。彼はパーメニオンの長男であった。パーメニオンはアレクサンダーがもっとも信頼をおいた部下であり筆頭の副将である。息子の処刑は父親の死を意味する。アレクサンダーはいそぎ使者をおくった。そこにはきびしい命令がかかれてた。おいた副将はエクバタナでしんた。そこで彼は王室の財宝をまもり軍の強化を監督してた。パーメニオンは最後までアレクサンダーを裏切らなかった。

* ベッソスを東に追いつめ処刑
その頃、アレクサンダーの軍はヒンズーのクシュの地域を横断しようとしてた。ベッソスの支配をおわらすため最後の障害だった。冬の晩期である。ベッソスはまさかアレクサンダーが雪におおわれた山岳の道を進軍してくるとはおもわなかった。彼はまたアレクサンダーのつよい意志を見あやまった。アレクサンダーは敵の抵抗にあわず兵をほとんどそこなうことなく山岳地帯を横断した。ベッソスは驚愕した。すぐマセドニアはバクトリアをうばった。ベッソスはオクソス川にそい北に逃走した。だが何者も彼をとどめることができない。妨害にもかかわらず彼は沙漠を横断し川をわたりベッソスの部隊と直接に対決した。ベッソスの最後である。アレクサンダーの怒りをおそれた彼の部下が牢獄にいれアレクサンダーに引きわたした。彼は十字架の刑にしょせられた。これでアレクサンダーをペルシアの王でないという者がいなくなった。

* 東部を安定させインドにむくアレクサンダー
あたらしい征服地が安定するのにほぼ一年かかった。彼は東部の州にすむ部族を安心させるためバクトリアの王女、ロクサナと結婚をした。こうして東部の国境が安定すると彼はおおくの人々がすむ肥沃なインド亜大陸の土地に目をてんじた。たぶんあたらしい遠征作戦の動機はアレクサンダーのおさえがたい征服欲であろう。どんな利益があるのかうたがわしい。失敗におわる危険性が充分にある。いずれにしてもマセドニア軍は紀元前三二七年の晩期、パンジャブに進出した。そしてまもなくタクサイルの人々がすむ土地にやってきた。

* 服従しないポラス王とヒダスペスで対決
アレクサンダーのところにその土地の王たちがあいさつにきた。彼はすべての周辺国が自分に友好をちかうことを期待した。実際、おおくの王たちがこの異国の王に膝をくっした。しかしヒダスペス川の対岸の王が服従を拒否した。ポレイビアの王、ポラスは高貴で勇気ある指導者であった。彼には充分な力をもつ軍と、ひろい川がまもるおかしがたい国境があった。この拒否はアレクサンダーのみとめるところでない。すぐにマセドニアの軍がヒダスペス川の西岸にやってきた。ポラスは渡河を阻止するべくそこにいた。五月であった。そこでしばらくのあいだアレクサンダーを足止めすることは簡単であった。

* 嵐のなかで渡河作戦
ヒマラヤの雪解け水とこれからやってくるモンスーンの雨季が川を数カ月間、ほぼ渡河不可能にする。アレクサンダーもこれをしってた。できるだけはやくうごきだそうとした。川をつぶさにしらべて彼は確信した。敵が対岸にまつのに渡河をする。兵をそこなう暴挙である。別の方策を見つけねばならない。マセドニア軍は渡河をねらいうごいた。ポラスの軍は警戒をおこたらない。だがマセドニアの動きは実はポラスの警戒心を一方に引きつける罠であった。三十キロメートル上流に渡河にてきした浅瀬を見つけた。アレクサンダーはよりすぐりの部隊をあつめ嵐の夜に彼らを渡河させた。ポラスにその情報がはいってきた。

* アレクサンダー渡河、阻止に失敗
彼は二千の騎馬の分遣隊を派遣した。その指揮は彼の息子だった。彼はちょうどアレクサンダーが渡河してるところに出くわした。ただちに攻撃した。これはマセドニア軍により簡単に阻止された。マセドニアは前哨戦の後に、たちまちポラスの偵察隊におおきな損害をあたえた。わかい王子はここでしんた。渡河を阻止できなかったがポラスはすくなくとも敵がたしかに渡河したことを確認した。

* 渡河部隊がポラスの左翼を攻撃
ただちに軍をうごかしこれにそなえた。マセドニアの兵力はポラスよりまさってた。しかし大部分はまだ対岸にとどまってた。渡河したアレクサンダーの分遣隊はポラスの軍より過少だった。だがマセドニア軍は充分な訓練、きびしい規律と豊富な経験をもってた。ポラスは百以上もの戦闘用象をうごかした。マセドニア部隊には脅威であった。彼らにとり戦場でこれだけ多数の象に対決するのははじめてだった。戦いはシシア人騎馬兵の射手による攻撃からはじまった。

彼らの目的は象の妨害だった。つづいてアレクサンダーとそれにしたがう騎馬隊がポラスの左翼をおそった。彼は象にぶつからないよう注意した。マセドニアの騎馬はこのような巨大な敵とたたかう訓練をうけてなかった。彼らは巨大な象をおそれ騎馬兵のいうことをきかない。長槍をもつ密集歩兵隊がポラスの中央の戦闘線にやってきた。そして部隊との戦闘にはいった。長槍は戦場でたたかう前に、さらにながくしてあった。だが象との戦いは困難なものだった。象の部隊は一時的には各所で戦線を突破した。ポラスはその左翼があきらかに窮地にいるとみた。たすけの二輪戦車と騎馬隊を左翼におくった。

* ポラスの右翼を攻撃、対岸からの部隊も参加
アレクサンダーの攻撃に参加せず待機してた騎馬隊の指揮官、コアナスはこれをみてすばやく部隊をポラスの右翼におくりそれを包囲した。また左翼を背後から急襲した。中央の戦闘用象の御者の幾人かがころされた。恐慌におちた象が逃げだし自軍の歩兵を踏みつぶした。中央でマセドニアの優位があきらになってきた。また左翼においてもそうであった。複数の象の部隊がたじろいて戦場を逃げだした。
だが彼らはすぐに対岸からやってきたクレイタスが指揮する部隊に追撃された。彼らをころしクレイタスとその部隊はポラスの背後を襲撃した。ポラスは象のうえにのってたたかってた。だが敗北を覚悟した。降服を拒否したが最後に彼はとらえられた。残りの部隊は殺戮をまぬがれた。ポラス側の損失はおおきかった。戦いの概要は次のとおりである。マセドニアは兵力が四万五千、損失が千。ほとんどが中央。ポラスは三万五千、損失は一万二千だが、騎馬隊は全滅、相当数の歩兵がうしなわれた。

* 圧倒的な勝利
ポラスは七フィートの偉丈夫であったがアレクサンダーからどのようなあつかいをのぞむかときかれた。彼は王が王をあつかうようにあつかってもらいたいとこたえた。アレクサンダーはこの返答に感銘をうけた。ポラスをあたらしいパンジャブの州長官に任命した。もはやアレクサンダーに敵対しようとする者がいなくなった。ヒダスペスの戦いがその最後だった。だが彼の物語りはなおもつづく。

* 東征のおわり、まだつづくアレクサンダーの物語り
もしあなたがこの話しのつづきがネットに登場するのをまてないというならアレクサンダーとその帝国についてもっとまなぶことができる。ネットをみてリンク先にたどりつけばできる。次は補注のようなものである。

ソグディアナの征服をいわうマラカンダの州長官宮殿の祝典があった。その酒席で争いがおきた。アレクサンダーはクレイタスをころした。彼はアレクサンダーの友人でありグラニカスの戦いでアレクサンダーの命をすくった。彼は翌日それをくやみ後悔のあまり自殺をこころみた。

ポラスのわかい王子がアレクサンダーの渡河を阻止しようとした。それはもっとうまくいってたかもしれないが嵐の天候と泥ですべりやすくなった地面のため彼の二輪戦車がほとんど役にたたなかった。

バクトリアの沙漠を横断してる時である。マセドニア軍はひどい飲料水不足におちいった。アレクサンダーは兵士の苦難を支援するため軍がオクソス川に到着するまで水をのまなかった。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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アレクサンダー大王、その七、ペルシアンゲイトの戦い [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はペルシアの軍事力を崩壊させペルシアの王となろうとするアレクサンダーに最後の抵抗をこころみるペルシアとの戦いをのべる。
(Alexander the Great: Battle of the Persian Gate 330 BC、BazBattles、2017/04/30 に公開)

* 軍事的勝利からペルシアの王への道
マセドニアがペルシアにガウガメラにおいて勝利をしてから三ヶ月がすぎた。アレクサンダーは次にペルシャ帝国の象徴の中心部に進軍する。彼は軍を引きつれて山岳地帯をすすんでいった。それは彼とペルシャの中心部のあいだにある最後の障害であった。マセドニアは戦争がここまですすんでこれほどおおきな抵抗があるとは予想してなかった。だがダリウスに忠誠をしめす州長官の一人が彼の前進を阻止しようと攻撃してきた。ダリウスはアレクサンダーの侵略に対抗する兵をあつめてた。予想外の反撃がザグロス山脈のこおった山頂をとおりぬけようとした時におきようとしてる。

* おおくの州長官の服属
紀元前三三一年十月おそくである。ダリウスがガウガメラで壊滅的敗北をきっした知らせは帝国全土にすぐひろまった。ダリウスの威信がすっかりおちた。ペルシャの州長官はペルシャ帝国への忠誠をつづけるのか、あるいはアレクサンダーにしたがうのかをきめていった。無敵をしらしめたマセドニア軍がペルシアの富裕な都市、バビロンやスーサに到着しようとしてる時である。アレクサンダーがペルシアの既存の支配階級をどうあつかったかという噂は間違いなくメソポタミアの州長官たちにとどいていた。

権力と地位を継続させるため彼らは手のひらをかえしアレクサンダーに降服した。これらの都市をしたがえアレクサンダーは莫大な財宝を手にいれた。それを彼はきびしい戦いにしたがった軍に分けあたえた。きびしい戦いにたえ忠誠をつらぬいた報酬であった。また相当額の金がギリシャにおくられた。それはアレクサンダー遠征中の留守をあずかってたアンティパータをたすけるためだった。彼はヘレニック同盟の盟主をつとめスパルタの反乱を鎮圧してた。

* バビロンとスーサの降服、守備隊、東進へ
バビロンとスーサはマセドニアの支配を受けいれ略奪をまぬがれた。従来の行政はほとんど変化しなかった。あのガウガメラの戦いでペルシアの左翼を指揮しバビロンの知事であったマザイアスがその職を維持した。あたらしく服属した者の忠誠をたしかなものにするためアレクサンダーはギリシャ人の守備隊を配置した。そして東方に進軍していった。それはペルシアの中心地域である。マセドニアは三度の勝利をとおしてペルシア軍の軍事力を壊滅させた。しかし彼は東部の州長官の何人かがなおもダリウスに忠誠をちかってることをしってた。噂ではダリウスはなおも侵略者に対抗するため兵をあつめてるという。

アレクサンダーが前方にみてるけわしいザグロス山脈はペルシアの中心地域の入口をまもってるようである。彼は軍を二分しリスクを低減した。おおきく、ゆっくりとはこぶ物資の車列と野営の工兵たちは山脈を迂回し南にすすんだ。それはパーメニオンが 指揮した。アレクサンダーはより俊敏にうごき、より数がすくない部隊を引きつれた。彼はザグロスの山岳地帯でせまく警戒を必要とする道をぬけペルシアに直行する。

* アレクサンダーのザグロス山脈越え
部隊はユキシアの人々がすむ地域にはいった。彼らは山岳民族でありペルシアの支配に服従してない。彼らはその地域をぬけるペルシアの部隊に貢ぎ物を差しだすよう要求してた。アレクサンダー は従来の慣習をみとめず、あたらしい支配を打ちたてたいとおもってた。彼はユキシアの人々を策略にかけ彼らの村をかこんだ。幾人かの村人をころし毎年貢ぎ物をするようめいじた。この反抗した部族の話しはひろまった。これでマセドニアに反抗する人々はいなくなった。

それから数日、アレクサンダーの部隊は何事もなく東進していった。まったく何事もなかったのでアレクサンダーは事前に斥候をおくるのをやめた。二キロメートルの幅の平原にでたが休養をとらなかった。そしてペルシアンゲイトにそのままはいっていった。道がせまくなり山には人々がいるのに気づいた。だが彼らはたぶん避難民だろうとおもった。そしてマセドニアは前進をつづけた。道が南東にまかった。まだ早朝であったので太陽の光がその先をてらしてなかった。その道をすすんでマセドニアの先駆け部隊がするどくまがってる地点にやってきた。その前方に土と岩でできた壁が立ちふさがってた。

* アリオバルザネスの待ち伏せに敗走
アレクサンダーはたぶんここで自分がおおきな間違いをしたことに気づいた。だが手遅れであった。数千のペルシアの軍が山の上から攻撃してきた。彼らは立ち往生してたマセドニア軍に雨、霰と投石攻撃をした。それは、なおも忠誠をちかうペルシアの州長官、アリオバルザネスがおこなった不意打ちだった。彼はアレクサンダーの進軍を妨害しペルシアの中核地域の抵抗を準備するための時間をかせごうとしたのだった。マセドニア軍はいそぎ防御態勢をととのえたが、おおくの兵が滑落していった。彼らは敵を切りぬけて平原にもどるか谷にとどまって全滅するか選択しかないことがあきらかとなった。アレクサンダーは損害をすこしでもへらすため全軍に退却をめいじた。それはばらばらにさせられたマセドニアの軍が優勢にあるペルシア軍に圧倒されている。この状態よりよい選択であった。これはアレクサンダーがペルシアの将軍に出しぬかれたはじめての敗北だった。アリオバルダネスはもっともよい場所をええらび待ち伏せし作戦を見事に成功させた。マセドニアは平原にもどり野営し負傷兵の手当をした。このアレクサンダーの状況は危機だった。

* アレクサンダー、平原において軍を立てなおす
彼は敵地において冬の最中、山岳の高地に足止めされた。この先にはおおくの敵が待ちかまえている。この周辺で軍がとおりぬけられる惟一の道はペルシアンゲイトであった。マセドニアの指揮官たちは数日どのようにこの封鎖を突破するか議論した。その土地の羊飼いがアレクサンダーを案内して山岳をとおりペルシア軍の後方にみちびいたという話しがある。これは百五十年も昔だがテルモピレの戦いでエフィアルテスがペルシアに裏道をおしえギリシャ軍の後方に案内した話しと奇妙なほどおなじである。これが事実かどうかはともかく、マセドニアはペルシアの攻撃を警戒しながらすすむことになった。彼らはどんどんと兵糧がへってゆくなかで、いそぎ攻撃態勢をつくっていった。夜がきた。アレクサンダーは相当数の部隊を引きいてひそかに北東の抜け道にすすんでいった。クラテラスに指揮された残りの部隊は敵の注意を引きつけるためおおくの明かりをともしつづけた。

* 反撃、ペルシアの象徴の首都への道をひらく
クラテラスは夜があけるすこし前に残りの部隊を引きいて山にはいっていった。これは偽りの攻撃であった。アリオバルザネスはまた攻撃をする態勢をととのえ、まさに攻撃にうつろうとした時である。マセドニアのトランペットがペルシアの野営地の後方でなりひびいた。アレクサンダーの分遣隊が攻撃してきた。ペルシア軍には完全な不意打ちだった。またヒロタスに引きいられたもう一つの部隊が山の上にいるペルシア軍を攻撃した。はげしい戦いがはじまった。だが今度はペルシアが不利な状況であった。こうなると勇敢で戦いになれたマセドニアの敵ではなかった。マセドニアの兵士はその優秀さをしめしアリオバルザネスの軍を圧倒した。アリオバルザネスはこの包囲をやぶり退却しようとした。しかし部隊はかこまれ彼は降服をいさぎよしとしなかったので最後の一人になるまでたたかった。アレクサンダーは最初の敗北でおおくのすぐれた兵をうしなったが最後にはペルシアの阻止作戦を突破することができた。このアリオバルザネスの抵抗がペルシア軍による組織的な最後の抵抗であった。最後の目標のペルセポリス、ペルシア帝国の象徴の首都といえるがこれが水平線のかなたにみえてきた。次は補注のようなものである。

アリオバルザネスはヨウタブ、ペルシアの女戦士でかつ貴族であるが彼女と彼自身の姉妹も同行させてた。彼女は勇敢にたたかったが最後の戦闘でたおされた。

ガウガメラの戦いの直後にダリウスはペルシアにもどったが、そこではあらたな軍のための兵をあつめることができなかった。そこでエクバタナで兵をあつめるのが彼の目標となった。

アリオバルザネスはダリウスのしたしい友人であったとおもわれる。ダリウスは彼のために特別に州長官の職をあたえた。それは紀元前三三五年であった。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
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アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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アレクサンダー大王、その六、ガーガメラの戦い [英語学習]


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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はダリウスとの最後の決戦を勝利しペルシアの覇権をうばったガウガメラの戦いを取りあげる。
(Alexander the Great: Battle of Gaugamela 331 BC、BazBattles、2017/04/18 に公開)

* 最終決戦にむかうアレクサンダー
紀元前三三一年九月、フェニキアとエジプトをうばった後にアレクサンダーはペルシャ帝国の内陸にむかって東進する。彼がチグリス川をわたった頃に斥候から報告があった。ペルシアの王、ダリウスがまた強大な軍をつくろうと兵を招集してる。マセドニアと最終的な対決を目ざすという。両軍はガウガメラという村のちかく、その広大な平原でとうとう遭遇した。古代において最強といえる二つの軍が最終決戦をおこなった。

* エジプトへの遠征、軍の休養
紀元前三三一年の年頭、タイヤとガザの服属に成功した後にマセドニア軍はナイルの肥沃な谷で次にそなえ休養をとった。エジプトをおさめる州長官はアレクサンダーを征服者というより解放者として受けいれた。エジプトはペルシアの州ではもっとも忠実な州ではなかった。イッソスにおける壊滅的な敗北の後に、ペルシアの王、ダリウスはマセドニアへの態度をあらためた。マセドニアがこれ以上ペルシアを侵攻するのを阻止するため外交を展開してきた。だがアレクサンダーは三度にわたるダリウスの提案を有利な条件にもかかわらず拒否した。

冬がすぎアレクサンダーはきたるべきバビロン遠征作戦の図をかいた。すべての準備がととのい充分な休養とととのった装備のマセドニアの軍が四月はじめにフェニキアに進軍を開始した。ここで見のがされがちだがアレクサンダーが征服作戦で戦線への補給、兵站に充分に配慮してたことを補足しておく。本国をとおくはなれ長期間を遠征してる大規模な軍の状態を最良にたもつこと。これは周到な準備と総合的な管理が必要であった。

* 北方ルートをとるアレクサンダー
マセドニアの軍はできるだけながく沿岸沿いに進軍した。艦船が補給の世話をできるためだった。ダリウスはマセドニアの動きを充分にしってた。アレクサンダーがユーフラテス川をわたる頃、ペルシア軍の兵の招集がおこなわれてた。ダリウスはマセドニアがユーフラテス川沿いに進軍しバビロンに直行すると予想してた。彼はユーフラテス地域の収奪をめいじた。焦土作戦である。しかし川にそった繁栄した都市への攻撃をひかえそこから補給をおこなう。これは非常にむずかしい作戦である。そのためアレクサンダーは遠距離となるが北方のルートをとった。そこでは田園に散在する村から水と食糧の補給をえることが容易であった。この予想外の展開にダリウスはすぐバビロンを出発しチグリス川東岸にそい北進した。

* チグリス川をさかのぼるダリウス
彼は騎馬隊の指揮官にマザイアス、バビロンの知事であったが、彼を任命した。これはチグリスの北でマセドニアが渡河するのを阻止し東岸の地域を収奪してマセドニアの進軍を妨害しようとするものだった。しかし渡河の阻止は間にあわなかった。九月、アレクサンダーはチグリスの東岸にやってきた。ダリウスは両軍がまもなく遭遇すると予想した。きたるべき戦いの適地をさがしはじめた。彼はガウガメラという村のちかく広大な平原を野営地とし準備をはじめた。その頃、アレクサンダーの部隊はペルシアの斥候部隊を捕捉した。

* 両軍、ガウガメラ村で遭遇
ダリウスはそこから東三十キロメートルの場所に野営してることをしった。アレクサンダーはすぐ自軍から斥候を派遣した。そして敵にちかよった。野営地を丘の背後、想定した戦場から十キロメートルのところに設営した。数日間の休養の後、九月末にアレクサンダーはペルシア軍にむけ出発した。両軍のあいだに丘があった。これはマザイアスの分遣隊がまもってた。マセドニアの全軍が近づくのをみるとすぐにマザイアスはたたかうことなく退却し主力の野営地にもどった。占拠してた丘を放棄したのである。

* アレクサンダー、丘を占拠
丘の占拠はペルシアに利益があった。しかしダリウスは兵の数でまさる。その戦いに有利な平原を前にしてた。丘は重要であるが、うしなうことの損失は許容できる。アレクサンダーは丘をうばった。周囲をたしかめて一時的な野営地を設営した。この野営地は彼にとり有利だった。高地からペルシアの野営地や部隊の配備がのぞける。さらに丘にいれば敵の不意打ちをおそれる必要がなくなる。

アレクサンダーはゆっくりと敵の攻撃の心配なく戦いの準備ができた。部隊に充分な食事と休養、それを快適な環境であたえることができた。これにたいしてダリウスは常にマセドニア側の不意打ちをおそれねばならなかった。夜になってもその可能性がのこった。彼の部隊は常に警戒態勢を維持しなければならなかった。そうはいってもダリウスには数の優位、強力な騎馬隊、戦いに好適な地勢とい有利があった。

* 昼すぎに開戦
ペルシアはひたすらまつだ。丘の上の敵を急襲するのは無理であったからマセドニアが動きだすのをただまっていた。太陽がしずみ夕方となった。アレクサンダーは将校とともに作戦会議をひらいた。副将のパーメニオンは敵のすきをついて夜襲する提案をした。アレクサンダーは危険がおおすぎるとみとめなかった。翌日朝に攻撃することにきまったという。夜がすぎ最初の太陽の光が戦場をてらした。十月一日のことだった。ペルシアはマセドニアの攻撃、実際にはなかったが、それにそなえて夜をすごした。ダリウスの編隊である。

* ペルシアの編隊
彼は巨大な兵力をたくみにつかった。十万にのぼる兵をあつめた。一万が不死歩兵隊という職業軍人によるものである。それにあわせて数千のギリシャ人傭兵部隊。これらがペルシア軍中央の中核をなしてた。しかし本当のダリウス軍の中核は両翼にいる騎馬隊であった。三万以上の騎馬隊。彼らはおおくのペルシアの州からやってきた。彼らはこのようなひろく平坦な場所では特に脅威であった。
ダリウスは数百のインドの大鎌をもつ二輪戦車、さらに十五の象をもってた。この象たちはたぶん戦いには参加しなったろう。その他にペルシアの各地からきた部族の歩兵隊がいた。だが戦闘能力には疑問がのこった。この大規模な軍の指揮はダリウスと信頼されてた副将のマザイアス、ベッソスによりおこなわれた。さらにバクトリアの騎馬隊、パルティアの歩兵隊がいた。

* マセドニアの編隊
たたかいは昼にはじまった。充分な睡眠をとったアレクサンダー充分な休養をとったマセドニアの兵が丘からおりてきた。そして編隊の配置についた。四万の歩兵隊、七千の強力な騎馬隊がやや傾斜した戦闘線をつくった。敵の包囲をさけるため両翼には騎馬隊が補助部隊をもち、わずかにうしろにひいたかたちでいた。マセドニアの中央には規律をほこる長槍の密集歩兵隊がいた。彼らには強力な盾持ち歩兵隊が支援をする。騎馬隊は二つにわかれる。そして両翼につく。テッサリの部隊は左翼、えらばれた騎馬隊は右翼である。後方、第二列にはスレイスとイリリアの歩兵隊がいた。これまでの戦いとまったくおなじだが指揮はアレクサンダーとパーメニオンがとる。両翼にひろがる利点をつかうためアレクサンダーはその編隊を右にうごかした。ダリウスはただちにその左翼をひろげてこれに対応した。

* 両騎馬隊の激突
ダリウスは平原のたいらなところをえらび障害物を取りのぞいた。これで二輪戦車が充分な働きをできるようにした。これでマセドニアの初動を牽制しようとした。ペルシアの騎馬隊が飛びだしてきた。彼らは最右翼にいるアレクサンダーを攻撃した。はげしい戦いがおきた。どちらが優勢かわからない。時間とともにマセドニアが優勢となりペルシアのいくつかの部隊におおきな損害をあたえた。しかし彼らの犠牲もおおかった。

* ペルシアから二輪戦車
苦境におちた左翼をみてダリウスは大鎌をもった二輪戦車をすべてをおくり敵の中央を急襲させた。しかしこの攻撃はさほど成功をおさめなかった。防禦側が隊列をあけ攻撃側をやりすごした。それと同時にはげしい投げ槍攻撃をした。これにつづいてマザイアスが指揮する右翼がパーメニオンの左翼を急襲した。この時におおくのギリシャ人をころした。これによりパーメニオンはおされていった。彼は深刻な危機においちいった。数で圧倒され部分的に包囲された。しかしこのような危機は彼にとりはじめてのことではなかった。彼の部隊は勇敢にたたかった。ペルシアの攻勢に犠牲をはらいながらたえた。アレクサンダーが編隊を右にずらした。この時である。マセドニアの左翼はその場所に釘づけになってたのでマセドニアの中央がまばらになった。

* アレクサンダーと騎馬隊、中央のすきを目がけ突撃
この時、ダリウスはここが弱点とみて衝動的に不死の歩兵隊をこのまばらになった場所におくった。しかしこれは相手が用意したエサだった。これによりダリウスの中央が剥きだしとなった。アレクサンダーはこの時をまってた。彼はえらばれた騎馬隊を引きつれ、それにつづく救援部隊とともにペルシアの中央を急襲した。そこでダリウスは剥きだしとなり親衛隊が立ちむかった。第二列にひかえてた部隊の支援があったがマセドニアの攻撃はきびしくペルシアの編隊をやぶった。すぐにダリウスは自分の危機をさとった。そして彼が二年前にとったおなじ行動をとった。戦場から逃亡した。

* 逃走するダリウス、自軍をたすけるアレクサンダー
アレクサンダーはただちにこれをおった。しかしすぐこれをやめ左翼、パーメニオンの救援にむかった。そこでははげしい戦いがつづいていた。救援がやってきた時にのこってたペルシアの騎馬隊はたちまち圧倒され、おおくの損害をうけた。ダリウスはまたしても逃走に成功したがアレクサンダーがペルシアの王位につくという複雑な政治的計画はまだだがペルシャ帝国の軍事力の破壊はおわった。この戦いの結果は次のとおりである。マセドニアの兵力は四万七千。損失は千。ペルシアは兵力が五万から十万、損失が四万である。

* ペルシアの覇権をうばったアレクサンダー
マセドニアはメソポタミアの中核都市をうばいペルシャを自由にできる立場についた。このかがやかしい勝利は彼が戦略、戦術にすぐれかつ勇敢であることをしめした。アレクサンダーは事実上、ペルシアの覇権をおわらせた。五年たらずの偉業である。このようにペルシアを服属させたことで彼は満足しなかった。さらにおおきな力をもとめ彼の物語りはなおもつづく。以下は補注のようなものである。

アレクサンダーは外交で成果をおさめた。ダリウスはアレクサンダーにユーフラテスから西の領土を提供し、ペルシア帝国の共同支配者をみとめダリウスの娘をアレクサンダーの妻とすると申しでた。

二輪戦車、たとえ大鎌を装備したものであっても戦いの時に編隊の隊列をやぶるものとしてはすでに時代遅れとなってた。アレクサンダーのたかい規律をほこる歩兵隊(pezhtairoi)にあっては簡単に対応できるものだった。

戦いの後にマセドニアはペルシアの野営地をおそった。そこには数々の戦利品があった。アレクサンダーはダリウス個人のための二輪戦車と弓を手にいれた。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その五、タイヤの戦い [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はアレクサンダーがペルシアの制海権をうばい、その拠点であったタイヤを城攻めでおとした戦いである。
(The Siege of Tyre 332 BC、BazBattles、2017/03/10 に公開)

* アレクサンダー、制海権をうばいフェニキア沿岸を平定
マセドニアがペルシアの王、ダリウスに偉大な勝利をイッソスのちかくでおさめた。それが数ヶ月前だった。マセドニアの王、アレクサンダーはフェニキアの海岸にたって古代において非常に強固なまもりをもつ拠点をながめてた。彼はこれをこのままにしておけない。またほこりたかいタイヤの市民たちがアレクサンダーに服従し降服することはないこともしってた。マセドニアにとってとりたくない選択、ながくてくるしい城攻め。これが現実のものとなろうとしてた。

* タイヤの城攻めまで
紀元前三三三年十一月、イッソスでの戦いの余燼がまださめやらぬ頃である。アレクサンダーがこれまであげてきたかがやかしい勝利をまだ一度もいわってない頃である。彼にとり東進への道がひらかれたがその遠征に乗りだそうという気持にはならなかった。彼は地中海においてペルシアの艦隊がなおも深刻な脅威となってることをしってた。これではペルシャ帝国内部への侵攻に力をそそぐことができない。それで彼は南進をきめフェニキアの裕福な海岸地帯を平定することにした。

紀元前三三二年一月、繁栄してる港町であり交易の中心であるアワッド、ビブロス、シドンは次々とマセドニアとの同盟関係にはいることをちかった。アレクサンダーの次の目標はシドンの三十キロメートル南の都市、タイヤにおかれた。これはフェニキアの都市でもっとも富裕で影響力をもってた。貴重な染料を産出し巨大な経済力で有名であった。また、なおもペルシャ帝国に海軍の基地を提供し、この地域でペルシャの影響力をのこしていた。この都市は二つの地区にわかれる。一つはふるいタイヤとよばれる沿岸の地区である。敵にたいする防禦施設がない。水、木材と墓地を提供する。

* アレクサンダーへの降服に抵抗
二つ目は沖の島の上、厳重に要塞化された地区である。あたらしいタイヤとよぶ。沿岸から七百メートル沖にある。この海の上の要塞は過去、おおくの城攻めにたえて今にいたってる。その有名な例が二百年も前のことバビロンの王がおこなった城攻めである。彼らは十三年もたえぬき最後に妥協が成立した。彼らがその抵抗力をしんじるのは無理がない。あつい城壁と強力な海軍、傭兵部隊をもってる。この都市を征服しようとの目論見はほとんど妄想にみえた。

マセドニアの意図を予見しタイヤはきたるべき城攻めにそなえ女子と子どもをカルタゴに避難させてた。このフェニキアの植民都市には四万の人々が自衛のためのこった。アレクサンダーはタイヤの城攻めは一年はかからなくとも数ヶ月をようする。おおくの資材と人力の投入を余儀なくさせられる。また彼はフェニキアの抵抗拠点をこのまま放置してエジプトに進軍することはできないとかんがえた。

当初、タイヤの使節はアレクサンダーの条件をのむとの印象をあたえた。しかしあたらしいタイヤにあるヘラクレスの寺院に彼が犠牲をささげることをみとめるという要求をことわった。使節はあきらかに罠が仕かけられることをおそれた。かわりにふるいタイヤにある寺院の使用を申しでた。それはアレクサンダーの受けいれるところとならなかった。本土側の施設は戦略的に意味がないとかんがえたからである。アレクサンダーはおおくの犠牲をしいる城攻めをさけるため最後の降服要求をおくった。しかしタイヤはマセドニアの使節を切りころし死体を海に投げいれた。

* 交渉の決裂
この非礼な行為はアレクサンダーを激怒させた。彼はただちにふるいタイヤの破壊と城攻めの準備をめいじた。ここですぐ疑問がうかぶ。アレクサンダーが船をつかわずどのように海上都市の城攻めをするのか、である。この答は簡単である。あたらしいタイヤは本土と自然にできた土の堤でつながってた。ただしそのほとんどが二メートルの水深にしずんでいる。アレクサンダーは破壊されたふるいタイヤの建築資材や残土をつかって本土と要塞都市をむすぶ連絡の道をつくろうとしたのである。

* アレクサンダー、城攻めの開始
はじめの建設は順調にすすんだ。ちかくに城攻め塔をつくる。そこから城壁にむけ投石、弓矢を発射するというもの。だがマセドニアの工作兵が城に近づくにつれ建設はすすまなくなった。水深がふかくなってきた。そのためよりおおくの資材や労力が必要となった。建設作業が相手の投石火器の攻撃の範囲にはいってタイヤの妨害もはげしくなった。牛皮でおおわれた二つの城攻めの塔がつくられ連絡の道の先頭におかれた。そこに装備された投石機が相手の妨害を邪魔した。これにより建設作業の進行をたすけた。

タイヤは自分たちの妨害工作がうまくいってないのをみてもっと積極的な妨害工作に乗りだした。ふるい馬を移送する船を持ちだした。そこにもえやすいものをつめ火をつけた。それを他の船で引っぱって桟橋にぶつけた。すると炎がひろがり柵や城攻めの塔に火がうつった。マセドニアは消火に躍起となってる工作兵たちはタイヤの海軍の攻撃をうけた。これで彼らを本土に逃走させた。アレクサンダーは攻撃をあきらめなかった。連絡の道の幅を二倍にすることをめいじた。そしてもっとおおくの城攻めの塔をつくることをめいじた。

* アレクサンダー、ペルシャの制海権をうばう
彼は海軍力で優位にたてないと城攻めに成功できないとさとった。シドンにもどり征服したフェニキアの都市の艦船にこの戦いに参加するようもとめた。またイオニアとマセドニアの船も招集することができた。こうして彼は百隻をこえる船をその指揮下においた。最後にはアレクサンダーの勝利をしったキプロスの王がマセドニアに味方してさらに百二十隻の船をマセドニア艦隊に参加させるよう願いでた。劇的に増大したマセドニアの海軍力を引きつれてアレクサンダーはタイヤに船でもどった

こうしてタイヤの艦船を港に追いやった。こうして制海権をにぎった。城攻めの塔は再建され連絡の道におかれた。今度はさらに艦船に装備された投石機から都市に投石の攻撃をおこなった。このように攻撃力が増強されたにもかかわらず島の要塞はくずれず降服の意志はなかった。タイヤから突撃があった。城攻めでマセドニア艦船が海上にいた。その錨の鎖を切断した。今度は反撃にあい港に逃げかえった。しかしなお縄を潜水兵が切断するという攻撃をくわえた。このため縄のかわりに鎖をつかわざるをえなかった。

* 攻撃が城壁に近づく
艦船の装備をかえ城攻めの打撃槌をそなえた船をつくった。これをつかうためにはマセドニアはクレーン船が必要となった。城壁にちかずけなくする外壁があった。それを取りのぞく必要がある。タイヤは城攻が危機的な状況にはいったことをしった。よりすぐった兵をあつめ突撃をおこなわせた。これをシドン側の港からおこなった。不意打ちは兵員が充分にいないキプロスの艦船がねらわれた。いくつかが破壊されその他は散開した。これで島北側の防禦への脅威が緩和された。アレクサンダーはすぐ反撃をめいじ彼らを港に追いもどした。彼らがやったことは一時的に包囲網に穴をあけただけだった。

妨害がつづいたがマセドニアは連絡の道を完成させた。彼らの妨害は不発におわった。マセドニアはさらに城内への侵入をはかったが人命の損失がふえた。船にのせた打撃槌が城壁に攻撃をくわえた。最後に効果がでた。南の壁にちいさなやぶれができた。トンネルの奧にぼんやりと明かりがみえた。城攻めが成功するとのわずかな希望である。アレクサンダーはその機会をずっとまってた。

* アレクサンダー、城内突撃をめいじる
アレクサンダーはよりすぐった盾持ち兵、特殊な兵(pezhetairoi)をやぶれへの攻撃にあてた。ここでマセドニアはあらゆる方向から火器による攻撃をくわえた。相手をこの対応に手いっぱいとした。この攻撃が引きおこした騒音や煙にかくされてアレクサンダーは崩壊が近づいた城壁の攻撃を指揮した。はげしい戦いがやぶれ周辺でおきた。まもなく攻撃側は都市に侵入した。このやぶれがおおきくなり、おおくの部隊がなかに侵入した。無慈悲な殺戮がおきた。マセドニアの兵は六ヶ月のくるしみをこの機会にはらした。六千のタイヤがころされ、さらに二千が海岸で十字架にかけられた。アレクサンダーは寺院に退避した者の命をすくった。のこりの三万の市民を奴隷にうった。マセドニアの王にさからうこと。その代償が極めてたかいことをしめした。

* 南進への道をひらいたタイヤの戦い
タイヤの服属がアレクサンダーの偉大な功績であることはうたがいがない。彼のたくみな外交技術、たしかな戦略眼、強烈な遂行の意志を血ぬられたかたちでみせつけた。フェニキアの沿岸地域を平定してはじめて彼は南に集中することができた。そして次の作戦にとりかかることができた。アフリカにはいりナイルの繁栄してる谷を支配してるペルシャにたたかいをいどむことができるようになった。以下は補注のようなものである。

アレクサンダーがつくった連絡の道はそのままのった。潮流が変化し何世紀ものあいだに拡張された。

ペラのダイアデスはアレクサンダーにしたがいタイヤをうばった。彼は才能にあふれるエンジニアである。マセドニアの城攻め塔におおくの発明をした。これらはアレクサンダーの遠征においてひろく活用された。

タイヤの守護神、メルカアトはギリシャ人からはヘラクレスとおなじとみなされている。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その四、イッソスの戦 [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はアレクサンダーがおさめた二度目の勝利でありペルシアの王が歴史上はじめてきっした敗北である。
(The Battle of Issus 333 BC、BazBattles、2016/11/19 に公開)

* ペルシアの王、ダリウスとの対決まで
紀元前三三三年、アレクサンダーのペルシア遠征作戦が頂点をきわめる。グラニカス川の戦いの勝利はそのはじまりであった。ペルシアの王、ダリウス三世は自ら十万の軍を引きいて侵攻したマセドニア軍に罰をあたえようとやってきた。アレクサンダーの次の戦いは古代の都市、イッソスのちかくで、まさにはじまろうとしてた。

* アレクサンダー、小アジアを攻略
紀元前三三四年、グラニカスの戦いのすぐ後にアレクサンダーはそこの州知事たちを服属させ西部小アジアを征服することに成功した。最初の敗北だったがペルシア帝国にはまだ侵入者をヨーロッパに簡単に押しもどす力があった。ペルシアの王、ダリウス、ギリシャ人からはコドマヌスとよばれてたが、マセドニアの侵略をおさえるため兵をあつめる 段階にはいってた。アレクサンダーはさらに前進しようとしたが、そのためにペルシアの艦船の脅威を取りのぞく必要があることをしってた。というのはその頃にはこの地域で抵抗できる惟一の力となってたからである。

* ペルシャの海軍力の攻略、ゴディアムの結び目
アレクサンダーには忠実、有能で装備のととのった兵士がいた。しかしマセドニアには海軍がなかった。それでアレクサンダーが取るべき次の手段はエフェソス、マイリーダス、ハリカマサスの港を攻撃しペルシア艦隊を無力化することだった。これをおえると彼は北進あるいは東進し次々と都市を攻略していった。フリジアの古代の首都、ゴディアムに滞在した時の伝説がある。そこには有名なゴディアムのけしてほどくことのできない結び目があった。この結び目をほどく者はアジアの王となるとされてた。彼は剣できりつけほどいた。こんな伝説である。この話しはこれくらいに次にすすむ。

* ダリウスの大軍がシリアに進出
ターソスのちかくで野営してたマセドニア軍に斥候からダリウスがバビロンで兵 をあつめ巨大な軍を編成しようとしてるという情報がはいった。ターソスは小アジアの南にありシリアにちかい。彼はただちに軍を二分し彼の右腕ともいえる副将パーメニオンと軍をイッソスにおくりその周辺を占領させた。これによりダリウスとペルシアの艦船が共同作戦にはいることをふせぐものだった。

紀元前三三三年、十一月のはじめアレクサンダーは巨大なペルシア軍がシリアに進軍しアマナス山脈の東に野営してるとの情報を受けとった。彼はイッソスを出発しアッシリアの門でパーメニオンと合流しようとした。ダリウスはアレクサンダーがベイランパスをまもってることをしった。それでダリウスはアマニアン門をぬけ北のルートをとりシリシアにはいった。そしてイッソスをうばった。そこにいたマセドニアの負傷兵や病気の兵をころした。

* 北進したダリウスをおうアレクサンダー
アレクサンダーはダリウスが東からくると予想し北にむかうとはおもってなかった。他方、ダリウスは自分がマセドニアの二つの軍のあいだをすすんでるとかんがえすでにパーメニオンがアレクサンダーに合流してたことをしらなかった。ダリウスはイッソスを出発し二分されて戦力を半分としてる軍を攻撃しようとした。アレクサンダーはダリウスをおって引きかえし北にむかった。彼は巨大なペルシア軍を背後にのこしペルシア帝国の内部に進出するという危険をおかす気はなかった。

* イッソスから南下したダリウスと対決へ
ダリウスはまもなく自軍がマセドニアの合流軍と出あう進路にいると気づいた。しかし巨大な軍を引きもどすのにはおそすぎた。それで彼の部隊を展開できる適地をさがすことにした。そしてピナラス川のそば、岸辺のせまい平原をつかうことにした。イッソスの南東にあり、たたかうには完璧な場所とはいえなかった。一から二キロメートルの幅の平原であるが、ダリウスが全軍を横一線に展開するには充分でなかった。もう一つの欠点は騎馬隊をおもうままにうごかすのにはせまいということであった。

* ピナラス川で対峙、開戦へ
その日は雨がふっていた。ピナラス川の岸辺はすべりやすかった。ペルシアの歩兵に優位をあたえるためマセドニアのすぐれた密集歩兵隊がかけてくる圧力を軽減するためダリウスは騎馬隊を岸辺のうえにおいた。これで敵の編隊をやぶる。ここだけが騎馬隊が充分にうごける広さがあった。のこりの中央と左翼は二列の編隊とした。ここで付けくわえるがギリシャ人傭兵隊はペルシアの歩兵隊の重要な戦力となってた。ダリウスはまた有名なペルシア不死部隊をつれてきてた。

十一月五日のお昼すぎアレクサンダーは戦場についた。そこでペルシア軍がすでにまってるのをみた。彼はグラニカスの戦いとおなじように軍を展開した。中央は長槍を装備した重装歩兵、みじかい槍で装備した部隊。軽装の盾持ち歩兵(hypaspist)の部隊、軽装歩兵(peltast)の部隊。騎馬隊は両翼の端においた。テッサリの騎馬隊は左翼。えらばれた騎馬隊はアレクサンダーの右翼のなかにおいた。副将、パーメニオンに引きいられた部隊は左翼だった。

* マセドニア、騎馬隊におされる左翼、もみあう中央
戦いはペルシアの騎馬隊の攻撃からはじまった。彼らは川をわたりパーメニオンの部隊を圧倒しようとした。同時にマセドニアの密集歩兵隊は前進しペルシア軍との戦いにむかった。すぐに彼らはペルシアの弓攻撃の射程にはいった。彼らは敵のはげしい火器による攻撃のなかで川をわたっていった。投石機による礫が鎧の装甲にあたりおそろしい音をたて兵の士気をくじいた。しかしこんな時にあってもマセドニアの密集歩兵隊は前進した。それはすぐれた訓練とたかい士気をしめすものだった。

* アレクサンダー、騎馬隊とともに攻撃
アレクサンダーの歩兵隊は編隊をたもってペルシアの中央をばらばらにしようとした。その頃に彼はえらばれた騎馬隊を引きいて攻撃をはじめた。これでダリウスの左翼を突破しようとした。はげしい戦いが戦場にひろがり両者におおくの犠牲がでた。中央においてペルシア側のギリシャ人傭兵隊は疎開した編隊を利用してマセドニアを押しこんだ。左翼における事態もうまくゆかなかった。パーメニオンはペルシアの騎馬隊の攻撃を阻止するのが困難だった。テッサリの騎馬隊は頑強で戦いなれてたが二倍の数をもつペルシアの騎馬隊は古代で最強とみられてた。

アレクサンダーに引きいられた騎兵隊はペルシアの歩兵を切りさいて侵入しその編隊に穴をあけた。ペルシアの左翼は徐々に崩壊しはじめた。アレクサンダーのえらばれた騎馬隊のすぐれた戦闘能力が惟一の勝利への道だった。二倍の数の敵を引きうけた中央の歩兵隊と左翼の騎馬隊は強力なペルシア部隊の攻撃にたえることが困難だった。アレクサンダーは高地にいてこの状勢をみた。ただちにペルシアの中央の側面を攻撃することにした。これは困難にたえてる密集歩兵隊の救援であった。この騎馬隊の攻撃の効果はすぐにでた。

* アレクサンダーの騎馬隊が戦況をかえダリウス退却へ
騎馬隊は編隊を頑強にくずさなかった敵の歩兵隊におおくの損害をあたえた。これで密集歩兵隊は前進することができ弱体化したペルシアの中央を無力化した。接近戦のなかアレクサンダーはダリウスがいることを発見した。彼はえらばれた騎馬隊とともに王がいる部隊をはげしく攻撃した。ダリウスは不利をさとって退却をきめた。アレクサンダーはダリウスをおった。その頃えらばれた騎馬隊のおおくは岸辺で崩壊しそうになってるマセドニア部隊の救援に急行した。ナバゼイナス、ペルシアの騎馬隊の指揮官が王が退却してゆくのをみて、もうすこしでその戦いに簡単に勝利できたにもかかわらず彼の部隊に退却をめいじた。

マセドニアは軍を立てなおし、にげる敵をおった。そして数百人をころした。時はすでに夕方であった。彼らの追撃はながくつづけられなかった。ダリウスは退却し軍は散開した。おおくがころされた。アレクサンダー側の犠牲も相当だった。マセドニアの兵力は四万、損失は七千。犠牲のおおくは中央の分断された部隊のもの。ペルシアの兵力は五万から十万、損失は二万であった。

* ペルシアの王が歴史上はじめて敗北
ダリウスははじめて戦いにやぶれた。しかし戦争はまだつづく。彼の組織を立てなおす能力はたかい。広大な帝国の資源をたくみにつかう能力がある。強大なペルシアにたいする偉大な二度目の勝利はアレクサンダーのシリア侵攻を可能にした。これは偉大な征服者としての彼のかがやかしい歴史にあたらしい章を書きしるすこととなる。以下は補注といえるものである。

この戦いでマセドニア軍は裕福な野営地をうばった。そこにはダリウスの母、妻、娘がいた。その娘はアレクサンダーの妻の一人となった。イッソスの衝撃的敗北はアケメネス朝ペルシア帝国、二百二十年の全歴史においてペルシアの王が敗北したはじめての戦いである。この戦いの前までアレクサンダーが王の称号をつかった証拠はない。人々が自分を王とよぶようもとめるようになったのはこの戦い以降である。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その三、グラニカスの戦い [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はアレクサンダーがはじめてペルシャに侵攻し小アジアのグラニカス川で勝利をおさめたものである。
(The Battle of Granicus 334 BC、BazBattles、2016/09/16 に公開)

* フィリップを引きついだアレクサンダの登場
紀元前三三四年、マセドニアの王、アレクサンダーはその父王がはじめたことを継続しようとダーダネルス海峡をわたりペルシャ帝国侵攻に乗りだした。小アジアのグラニカス川の川岸から彼の偉大な生涯がはじまる。彼の阻止をめざす強力なペルシャ軍をむかえうった。彼の力をみせる最初の機会となった。

* フィリップの暗殺からペルシャ進軍まで
紀元前三三七年、カロネイアの戦いの後にフィリップはヘレニック同盟をとうして全ギリシャのほとんどを支配下におさめた。そして東方遠征作戦の準備をすすめてた。しかしここで彼が暗殺されこの計画は数年間一頓挫した。彼の息子、アレクサンダーがあとをついだ。彼は王位をねらう競争者を排除し先王の死が引きおこした不安定な状況を鎮静させて王位についた。それはそれほど簡単なことではなかったがここではその事情は省略する。

* アレクサンダー、神話の英雄、アキレスをしのぶ
紀元前三三四年、アレクサンダーは戦争準備をおえ彼の軍をダーダネルス海峡にすすめ、そこから小アジアにわたった。彼はここでアジアの地に軍事力を展開し強大なペルシャ帝国を征服しアジアを神からの贈り物として受けとることをのべその決意をしめした。彼は父王とくらべ戦いに熱心だった。父は自分の得意の外交力をつかって問題を解決することをこのんだ。パーメニオン、第二指揮官が引きいた先遣隊がかえってきて合流した頃に彼はトロイを訪問し愛読したホーマーのイリアッドに登場する英雄、アキレスをしのんだ。

* 迎えうつペルシャの作戦
その頃、西部ペルシャの州長官たちは軍をあつめアレクサンダーをヨーロッパに押しもどそうとしてた。マセドニアの侵攻はすでに六年前から予測できた。だが彼らは戦争への充分な準備をおこたってた。彼らがやったことはただ先遣隊を追いやったことだった。概して彼らはアレクサンダーをわかいと過少評価してた。彼はまったく抵抗をうけず渡河した。それはこのマセドニアの軍事力より自軍がすぐれているとみてたからである。だがペルシャ軍にあってマセドニアの軍事力をおそるべきものと気づいてた人物がいた。それはギリシャ人傭兵隊の指揮官、メムノンであった。彼は焦土作戦を提案した。それは穀物、農園、村落を火で焼きつくすことである。

これによりマセドニアの軍への兵糧の獲得を阻止し同時にペルシャ軍を東方に移動させ戦いをさけるというねらいだった。だが州長官たちは受けいれなかった。その理由の一つは彼がギリシャ人で信頼できないとかんがえたこと。さらに自分たちの領地を破壊することは受けいれがたかったからである。かわりに彼らがやろうとしたことは防禦にてきした地点をえらびマセドニアを戦略的にそこに誘いこむことであった。こうしてアレクサンダーは彼が東に移動しその背後の安全と供給線を確保する前に州知事たちの作戦により戦いをはじめなければならない状況となった。

* グラニカス川での戦い
アレクサンダーの斥候かペルシャ軍がグラニカス川の東岸に野営してるとしらせてきた。彼はただちに彼らと遭遇するため進軍をめいじた。ペルシャ 軍は東岸に強固な防禦拠点をつくってた。その騎馬隊のすべてを前面におき、傭兵隊からなる歩兵隊を第二線においてた。彼らは丘のうえにいた。それは馬鹿げた編隊のようにみえた。というのは騎馬隊が川と歩兵隊に邪魔され充分な攻撃力を発揮できないからである。だが彼らの考えはアレクサンダーの騎馬隊を誘いこむことだった。

これで自分たちのほうがすぐれているとしんじてる騎馬隊により相手を圧倒しアレクサンダーを殺害する。マセドニアの部隊に決定的損害をあたえ戦争を初期の時点で効率的に終結させるという考えであった。第三日目の午後、アレクサンダーの軍はついにグラニカス川の西岸についた。そして横一線にならんだ。騎馬隊は両翼におかれ密集歩兵隊は中央におかれた。パーメニオンがむかいの岸にいるペルシャ軍をみて警告した。というのはアレクサンダーが当初かんがえていた前面からの攻撃は川の流れがはやく岸が急峻である。そのため渡河は容易でないとおもったからである。

* アレクサンダーの渡河作戦
アレクサンダーはもしグラニカスをおそれたらダーダネルス海峡を馬鹿にしたことになるといって、この警告を聞きいれなかった。そしてただちに攻撃をはじめペルシャの作戦の誤りを利用するといった。マセドニアの軍を二つにわけて指揮することとしパーメニオンが左翼、アレクサンダーが右翼である。最初にマセドニアがうごいた。騎馬隊と密集歩兵隊の混成部隊がさそいの攻撃をペルシャの最左端に仕かけた。そこは傭兵隊のメムノンが岸辺でまもってたところである。最初の兵が川にはいったところ相手は投げ槍や矢でいっせいに攻撃してきた。おおくの犠牲がでた。東岸で両軍によるはげしい前哨戦がたたかわれた。マセドニアのねらいはこのさそいの戦いにおいてできるだけおおくのペルシャ軍を引きつけることであった。

数でまさる敵におされながらも彼らはペルシャ騎馬隊をその編隊から引きはなすことに成功した。アレクサンダーが主攻撃を仕かける絶好の機会がやってきた。彼は親衛隊(Hetaioi)を引きいて攻撃にうつった。それに重装の密集歩兵隊がつづいた。そして編隊がばらばらとなってきた中央の攻撃にむかった。彼らはアレクサンダーがそこにいることに気がついた。彼はかがやく鎧とおおきなしろい羽根飾りがついたヘルメットをし攻撃の命令をだしてた。彼らはこの部隊に攻撃を集中した。きびしい接近戦がはじまった。騎馬にのった戦いであったがまるで密集歩兵隊の戦いのようだった。両者はたがいの優位をきそった。

* 命を危険にさらしたアレクサンダーの攻撃
アレクサンダーは騎馬隊の長槍で相手をさした。彼はペルシャの貴族をころしたが、そこでほかの貴族が彼の頭をうった。それですこし傷をおった。彼は剣で反撃した。また他のペルシャの騎馬兵が剣をあげて彼の背中をうった。しかし彼ののびた腕はクレイタス(Cleitus the Black)により切りおとされた。彼は騎馬隊の親衛隊分隊長であるが彼が王の命をすくった。ペルシャは頑強に抵抗したがマセドニアのえらばれた騎馬隊の進撃をとめることはできなかった。彼らはだんだんと急峻な岸辺で陣地を確保していった。とうとうアレクサンダーの右翼の残りも川をわたりペルシャの騎馬隊と戦いにはいった。

* アレクサンダーが中央を突破
最後にではあるがギリシャの左翼もテッサリの騎馬隊をつれて戦いに参加した。この騎馬隊の戦闘能力は極めてたかい。ここて一つ説明しておくがペルシャの騎馬隊はそれまで最強とみとめられてた。それでペルシャの指揮官たちは親衛隊の騎馬隊やマセドニアの騎馬兵一般のたかい戦闘能力におどろいた。ペルシャ軍の指揮はおおくの指揮官が分担する。だがマセドニアの指揮はすぐれた者だけにかぎる。ペルシャはおおくの貴族をうしなった。騎馬隊はだんだんと戦闘意欲をなくしていった。

* ギリシャ人傭兵隊をゆるさなかったアレクサンダー
彼らの戦闘線は中央でやぶられた。もっともはげしい戦いがあったところだった。アレクサンダーとそれにしたがう部隊がペルシャの戦闘線を突破し他の部隊の背後と両翼にむかった。これが敵に恐慌を生みだした。そして大量の逃走者をだした。マセドニアはにげるペルシャの騎馬隊を追撃できなかった。そこにはなおペルシャにいたギリシャ人傭兵隊がいたからである。傭兵隊はアレクサンダーに条件付きの降服を申しでた。アレクサンダーはこれを拒否し密集歩兵隊に前面からの攻撃を、騎馬隊には防禦がなくなった側面と背後からの攻撃をめいじた。

二千はたすかったが、残りはころされた。これらの幸運な者はおくられマセドニアの石切場ではたらかされた。アレクサンダーはギリシャ人が敵に協力することをゆるさないとはっきりとしめした。戦いはおわった。マセドニアは数百をうしなった。これは最初の誘いの攻撃の時のものがほとんどである。ペルシャの犠牲者はおおかった。千の騎馬兵、三千のギリシャ人傭兵、そこでペルシャの指揮官層にいる貴族がふくまれてる。アレクサンダーが死亡したものを軍隊の礼儀により埋葬するようめいじた。結果は次のとおり。

マセドニアの戦力は二万五千の歩兵、五千の騎馬隊、損失は三百から四百。たいしてペルシャの、戦力、一万の歩兵、一万の騎馬隊、ギリシャ人傭兵隊が五千、損失が四千であった。
* 西部侵攻の道をひらいた勝利
若い王はこの最初のおおきな戦いに勝利した。彼の作戦にはほとんと失敗はなかったが自分の命を危険にさらした。こうしてペルシャの西部の州への道はおおきくひらかれた。だがまたおおくの戦いがまってる。ダリウス、ペルシャのあたらしい王はこのわかきマセドニアの王をあなどれないことをしった。

(おわり)

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ここまできたのか北朝鮮 [バカにされないクスリ]


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* はじめに
 Jアラート(全国瞬時警報システム)がなったらしい。十五日朝、北朝鮮からミサイルが発射れ北海道地方を通過し襟裳岬の東約二千キロに着水したという。さてここまできたか、北朝鮮は。という気持になった。この事態は予想外でない。やっとものがいえる事態となった。だが嫌な気分である。この国の問題に何があったかグーグルもつかって思いだしてみた。次のとおりである。

* 何故、北朝鮮の原子炉に協力するのか
クリントン政権で北朝鮮の原子炉に協力する。日本も数百億円の資金援助をするという話しがでた。なんのことかとおもった。これはその当時、米が北の攻撃を検討し犠牲者のおおさに断念し、でてきた話しと後でしった。一九九〇年代のことだった。北からの不審船が撃沈された。北との関係がひえきってたのに北から定期船がやってきた。在日の北朝鮮にかえる人間の交流、さまざまな貿易のルートになってるという。後に暗殺された金正男氏が不法パスポートで入国しつかまった。いったいなんという国か。何故国交もないのにこれだけ縁があるのか。それもあやしげなものがあるのかとおもった。

* 拉致被害者の帰国
二〇〇二年に北から拉致被害者五人が帰国した。これですこし関係が正常化されそうになった。だが一時帰国だから拉致された人間をまた北にもどせ。約束違反だといって話しがこわれた。冗談ではない。拉致された人間を拉致した国にもどす理由などない。小泉政権の時だった。

* トランプ政権が攻撃するのか
今年の五月、トランプ政権がついに北を攻撃するとさかんにいわれた。大統領のツィッターでは強硬だったが外交交渉が政権の本音のようだ。中国を持ちあげ圧力をかけさせた。最近の情報では大統領は何もしなかったといったという。この中国である。

今まで中国が鍵だという解説が主流だった。米が中国に圧力をもとめた時、その報道官が主役でないと否定したのにはあきれた。事情をしる人から北京の中央政府の意向に北に隣接する軍区が面従腹背、利権構造がある。だから圧力はきかないという。建前では中国は非核化という。それを対話をつうじて解決といってる。その程度のものかと、馬鹿馬鹿しくなった。お隣の韓国のことである。

* 韓国の事情、文在寅大統領の気持
韓国と北は休戦だがまだ戦争はおわってない。昔、朴正煕大統領の頃、日本人旅行者の話しとして北をむくホテルの窓はあけない。そこからのぞくのもあぶない。定期的に避難訓練をやってる。ところがいつのまにか平和ムードがただよい今にいたる。北のミサイルや核実験とかまったく事情はかわってない。分断国家のドイツは一九九〇年に西が東を吸収するかたちで統一された。韓国もことあるごとに統一をとなえるが御題目以上の実質があるのか。また北が主体で高麗連邦をつくるかもしれない。トランプ大統領は最近、韓国が北に圧力をかけてないと不満をもらした。

* 日本は国連決議をたてに非難を繰りかえす
別にわるとはいわないが日本は国連決議をたてに非難を繰りかえしてるがそれが事態を好転させたか。その効果は疑問充分。最近の北朝鮮の事態に経済評論家の三橋貴明氏がいったこと二つをのべる。

一、戦後七十年ちかく戦争がなかった東アジアはもはや平和な地域でなくなった。すぐれた見識である。日本がかわらなくとも相手がかわれば平和はくずれる。韓国は同族だから自分たちを攻撃するまいとおもってる。文在寅大統領の融和策はあくまでも南北間だけ。そこからこぼれてひろがる紛争が日本におよぶことまで心配してない。

二、米のライス元国務長官が北の核保有を容認しようという発言がある。もし米がこれをみとめた時、安保条約の核の傘で日本がまもられてるという前提がくずれる。米は核保有国とたたかったことはない。日本のためにたたかうと期待するのは幻想である。もっともである。英、仏も核武装をしてる。これもおなじ論理で米が核保有国のロシアを攻撃してくれるか。この疑問があって核武装をしたときいた。インドの国防長官室には広島原爆の写真がかざってある。それをしめして日本人にインドはこのような悲惨な状況をさけるため核武装に踏みきったと説明してくれたそうだ。さて結論である。

* 結論
まず、日本は後悔が先だつ国。政策には特にいえる。あの時やっておけばとか、もうちょっとはやければ楽だったのにというわけだ。目の前に危機がかたちをみせないとうごこうとしない。いつも手遅れになる危険をおかしてる。この北の事態を心配してる人はおおかった。公言しなかっただけ。やっと核武装も敵基地攻撃能力もタブーとしないで議論できる状況がやってきた。米英仏など欧米や東南アジア、インドなどの理解をえて軍事力の強化に踏みきるべきである。政治家は国民に応分のリスクを引きうけるようもとめるべきである。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その二、カロネイアの戦い [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はギリシャ全土を統一しペルシャ帝国への攻勢につながるカロネイアの戦いをのべる。これは父王フィリップの戦いであるがアレクサンダー初参加の戦いでもある。
(The Battle of Chaeronea 338 BC、BazBattles、2016/06/23 に公開)

* マセドニアによるギリシャ統一の道程
紀元前三三八年八月のことである。ギリシャ半島の支配をすすめる第四回目の聖戦がその最高潮をむかえた。都市、カロネイアのちかくでフィリップ二世がひきいるマセドニア軍と侵攻を阻止しようとするシーブス、アテネ同盟軍がぶつかった。古代におけるもっとも重要な戦いの一つがはじまろうとしてる。

二十年前まではマセドニアはギリシャ北東にある弱小国だった。常に隣国からの侵略をうけてた。北からスレイシアンズ、イリリアンズ、パイオニアンズ、南からアテニアンズ。だがしかしマセドニアにあたらしい王が登場した。それは王、フィリップ、アレクサンダー大王の父である。

* 職業軍人の軍を創設、二倍のながさの槍を装備
それから事態がおおきくかわった。まず隣国との争いをさけ国の再建の時間をかせいた。特に軍事面での強化はみるべきものがあった。イリリアンの支配を排除しようとした先王が戦いで戦死しその軍もうしなったためマセドニア軍はなきも同然だった。あらたに兵が招集、訓練がはじまった。あたらしい軍がつくられた。これは当時としてはめずらしい職業軍人による軍であった。ほとんどのギリシャや未開の国は国が強制的に招集し編成したものだった。もうひとつ指摘すべきはあたらしい武器。サリッサの導入である。これは当時のギリシャや未開の国がつかうものの二倍の長さをもつ。これがマセドニアの密集歩兵隊の標準の武器となった。これで前面からの攻撃にたいしては無敵となった。

* フィリップによる隣国攻略、勢力拡大
あたらしい軍隊と立てなおされた経済によりフィリップはこれまで侵略をうけてきた隣国に対抗できるようになった。王位について数年後にスレイス、カルキディキ、エピラス、テッサリをやぶり服属させた。そして南部ギリシャ、特に、全ギリシャの指導的位置にあるアテネに対抗するようになった。彼の究極の目標は全ギリシャを支配し、それからペルシャ帝国の攻撃をねらうことであった。

* ギリシャの盟主、アテネへの対抗
しかしアテネはマセドニアを半未開の部族とみており誇りたかい彼らが服属することはありえなかった。紀元前三三九年、フィリップはアテネほかとたたかうため遠征作戦を開始した。そしてビオーシャの南に軍をすすめた。シーブスはテルモピレちかくの主要道路を閉鎖しマセドニアの中部ギリシャ侵入を阻止しようとした。しかしフィリップは別の目だたない道をえらんでシーブスの閉鎖作戦を迂回した。そしてエラティアにやってきた。

* マセドニア軍の南下
ここで友好的なホシアンズの部族の協力をえて冬の拠点としての砦を再建した。このしらせがはいった時、アテネは恐慌におちいった。といのはエラティアからアテネまでは三日の行軍の距離である。そこで当時有名であり、有力な指導者であったデモステネスがたたかえる男子はビオーシャにむかい戦争の準備をするよう呼びかけた。彼自身はシーブスにむかいアテネとの同盟を確保しようとした。そこにはフィリップからの派遣団がすでにいた。

* アテネとシーブスの同盟軍、カロネイアに集結
シーブスはその気になればビオーシャにいるマセドニアの進軍を黙認し戦いをさけることができた。シーブスにはアテネにたいしていやしがたい憎悪があった。だが同盟に参加することとしギリシャの自由をまもることをきめた。この同盟軍は二マイルの広さをもつ平原を戦場とすることにした。そこはカロネイアの北西、ケフィソス川がながれてる。その南北の境界は丘であり東は沼沢地となってるせまい平原だった。防禦にてきした地といえる。

* 両軍の編隊
マセドニアは紀元前三三八年八月に出発し、まもなくシーブスとアテネへの道をまもる同盟軍にぶつかった。両軍の規模はほぼおなじである。マセドニアは三万の歩兵、二千の騎馬兵。いくつかの部隊はマセドニアの同盟からの参加である。これにたいし、相手は三万五千の兵が平原にたってた。その歩兵隊のほとんどは重装歩兵だった。アテネは左翼。シーブスは右翼。その隊列の最後にはえらばれた聖なる部隊がたってた。編隊の前面線は斜めにかしいでアテネがもっとも敵にちかい位置にいた。

彼らは平原で防禦にてきした高所をしめた。フィリップは軍を敵の編隊形にあわせて調整した。彼は左翼にサリッサをもつ密集歩兵隊をおいた。彼自身が指揮しアテネの部隊を意識したものだった。左翼はえらばれた騎馬隊である。これは彼の息子、アレクサンダーが指揮する。当時、十八歳、はじめての指揮である。彼にはもっとも経験ゆたかな将軍がつけられてた。このような編隊となったのはアテネを意識したからである。フィリップは自軍の左翼にいる密集歩兵隊を危地におきたくなかった。またアテネの重装歩兵隊による圧力が騎馬隊におよぶことを予想し騎馬隊が危機にさらされることをさけた。もう一つ指摘しておくべきことだが大部分のマセドニア軍は二十年の戦いにより戦いに成熟してたことである。彼らは全ギリシャを代表するものだった。これにたいして同盟軍であるが彼らのおおくが戦争未経験の若者か四十から五十歳までの戦闘能力のピークをすぎた者だった。アテネは二十年間戦争をしてない。そうなると指揮官も戦争の経験をもたない。

* 戦いのはじまり
フィリップが最初にうごいた。マセドニアが隊列をととのえた時、興奮をおさえられないアテネは防禦にてきした高地をおり攻撃してきた。マセドニアの密集歩兵隊はながいサリッサをもってるので前面線をくずす心配はほとんどない。前哨戦がおわってフィリップはアテネの兵の行動は衝動的であり、すぐ戦闘にはいりたがることをしった。それでフィリップは密集歩兵隊にゆっくりと後退するようめいじた。これにより敵の編隊を二分しようとした。ギリシャはこのさそいにのって後退してゆくマセドニアの右翼を追いこんでいった。これと同時にアレクサンダーの左翼は前進しシーブスを攻撃した。マセドニアがやったことは車輪の戦法(wheeling manouver)であった。この結果、シーブスとアテネの部隊の連携が分断された。

マセドニアの騎馬隊の幾人かは敵の背後にまわりこんだ。彼らはアテネを背後から襲撃した。そこでフィリップのよく訓練された部隊はいつわりの退却をやめ、わなにはまったアテネを攻撃した。これは鉄槌と金床の戦法といわれるもの。騎馬隊が鉄槌、密集歩兵隊が金床である。これはアレクサンダー大王のアジアにおける戦いでよくもちいられた。数で圧倒され両方から攻撃されたので、すぐ彼らは戦場から逃亡しはじめた。

他方、アレクサンダーの左翼はアテネが退却してゆくのをみていっせいにシーブスに攻撃を仕かけた。こうして、まだたたかってる部隊はシーブスの聖なる部隊だけとなった。この戦場でもっともすぐれた戦いをしてた。しかし数で圧倒され降服をいさぎよしとしないのでマセドニアの騎馬隊によりころされ全滅した。フィリップはにげるギリシャを追撃することをみとめなかった。

* マセドニアの勝利、ギリシャの統一
それは彼が全ギリシャの統一をもとめており無用な殺戮をさけたかったからである。同盟軍の犠牲は三千をうしない、四千が捕獲された。マセドニアの犠牲はあきらかでないが二千から四千がころされたと推定される。戦いはおわり全ギリシャの統一への道がひらかれた。カロネイアの勝利はフィリップの最大の功績である。ギリシャのほとんどの都市国家の力を東にてんじペルシャ帝国にむかわせることができるようになった。

(おわり)

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アレクサンダー大王、その一、エリゴン峡谷の戦い [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回は大王の父、フィリップの戦い、エリゴン峡谷での戦いである。
(The Battle of Erigon Valley 358 BC、BazBattles、2016/06/02 に公開)

* 大王の父フィリップの登場まで
アレクサンダー大王は二千年以上の昔、当時しられていた世界の半分を征服した指導者である。彼はおそらくその父、王、フィリップがいなかったら歴史にこれほど名をのこす人物にはならなかっただろう。父、フィリップはギリシャの北にあった弱小国マセドニアをヘレニズム時代の主要勢力にかえていった人物である。今回はフィリップの、隣国とのあいだでおきた最初の主要な戦いであるエリゴン峡谷の戦いを取りあげる。

* フィリップの先王、ペルディカス三世の死
話しは紀元前三五九年頃からはじまる。マセドニアの王、ペルディカス三世は北西にあるダルダニアンとの交渉にのぞみ軍を進軍させる準備をしてた。ダルダニアンはしばしばマセドニアの境界線に展開してたが、ペルディカスはこの地域でのダルダニアンの支配を克服しマセドニアの人々への脅威を緩和しようとしてた。その考えはただしかった。だがダルダニアンの兵たちはすぐれていた。彼らはマセドニアを打ちまかした。ペルディカスはころされ兵の半分もころされ、軍は無力化された。

* フィリップの王位の継承、国の建て直し
おおくの敵にかこまれ、やぶれたマセドニアは征服の危機にひんした。さてここで今回の主役の登場となる。ペルディカス三世のもっともわかい兄弟のフィリップである。ペルディカスの息子たちは王位をつぐにはおさなかった。これは彼にとり有利にはたらいた。また彼は高官たちの協力をえてた。ただちに彼はマセドニアの建て直しに取りかかった。外交と贈り物によってフィリップは一息をつくとともに再建への猶予をえた。次にやるべきことは軍の建て直しとうしなわれた信頼の回復であった。

きびしい訓練がはじまった。兵たちはサリッサという六メートルものながい槍をもつ歩兵隊の編隊でたたかうことをまなんだ。これは従来のドルーとよぶ槍よりはるかにながいものだった。あたらしい戦法と装備はすぐ非常にすぐれたものだとわかった。翌年、パイオニアンの王がしんだ。

* 隣国、ダルダニアンとの対決へ
次のとるべき道はダルダニアンと交渉にはいりペルディカスの時にうしなった領土を取りもどすことだった。フィリップはきたるべき戦いにそなえマセドニアの動員可能な男子をすべて動員した。一万の歩兵、六百の騎馬兵をあつめた。ダルダニアンの王、バディリスにマセドニアの脅威の情報がしらされた。彼は現状を維持するという協定案を提案した。これはフィリップにはまったく受けいれることのできないものだった。彼の目標はマセドニアの北西の支配を獲得することだった。戦いは必然となった。

* エリゴン峡谷での戦いへ、部隊の編成
両軍は現在の都市、ビトラのちかくのエリゴン峡谷でぶつかった。王、バディリスは一万の歩兵と五百の騎馬兵を編成した。これはマセドニアとほぼ同等の兵力だった。しかしフィリップの軍は実戦経験がないが訓練と装備においてはるかにすぐれていた。ダルダニアンの兵のなかには実戦経験のある古老の兵たちがいた。バディリス王は九十歳である。だがなお戦場を馬でかけることができた。彼は軍を横一線にならべ最強の部隊を中央においた。たぶんペルディカスとの戦いの時とおなじ編隊だった。彼はかんたんに勝利できるものとおもってた。たいしてフィリップのほうである。右翼に最強の兵をあつめた。それは盾持ち歩兵であった。密集歩兵(phalangite)を左翼と中央におき、騎馬兵を両翼においた。全体の編隊は右翼がやや敵に近づく斜めのかたちだった。まさにたたかいがはじまろうとしてる。

* 戦いのはじまり
両軍はたがいに敵にむかって前進していった。ダルダニアンはいそいで前進しマセドニアは編隊のえすら序をたもちゆっくりとすすんだ。フィリップは、サリッサをもった歩兵隊がどのような種類の部隊と遭遇しようとも充分にたたかえるとかんがえてた。それで彼はえらばれた盾持ち歩兵(hypaspist)からなる右翼で相手に突撃できるとみてた。バディリス王は予想外の事態にたいする用意がなかった。彼は経験豊富な軍で相手と充分にたたかえるとおもってた。ついに両軍はぶつかった。はげしい戦闘が戦場全体にひろがった。マセドニアの歩兵隊はバディリス王に指揮されたすぐれたダルダニアンの軍ですら破壊できるほど強力だった。サリッサのながい槍ときびしい訓練の効果があらわれる。

しばらくのあいだ、両軍とも相手を圧倒し編隊をやぶることができない。両軍の兵力はそれほど均衡してた。だんだんとダルダニアンの右翼がおされはじめた。フィリップと盾持ち歩兵はおおきな打撃を敵の兵たちにあたえた。敵の隊列を押しこんだ。左翼と中央の兵が崩壊しそうな右翼をささえるためにやってきた。こうして包囲をふせごうとした。しかし事態はバディリスの部隊にとってわるい方向にすすんだ。左翼のよわい部隊はマセドニアのながい槍で装備した部隊に対抗できない。彼らがもつ最善の兵力を投入したにもかかわらず圧倒されはじめた。次に右翼である。フィリップの部隊は騎兵隊の支援をうけてた。このため彼らはダルダニアンのつかれはてた兵たちの背後を襲撃することができた。これはダルダニアンの軍全体を混乱におとしいれた。まもなく戦死をおそれ逃げだすものがでた。マセドニアの散兵(skirmisher)と騎兵隊は逃走するダルダニアンをはげしく追撃した。そしておおくをころした。これで戦いはおわった。バディリス王はおそらく戦闘の最中でころされた。この戦いでダルダニアンの兵力の半分がころされた。そのほかの部隊も捕獲されたり、数百人が虐待された。マセドニアの犠牲はすくなかった。三百ないし五百の兵士がころされた。

* マセドニアの勝利
この戦いはフィリップが成しとげた最初の戦果である。彼は隣国にわすれられないきびしい教訓をのこした。北西領域の安全は確保された。フィリップはリンケスタ湖のところまでダルダニアンの領土を併合した。イリリアンの部族がながい期間、フィリップの領土を襲撃することはなかったのでマセドニアの国境を侵略するものはなくなった。

(おわり)

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お金の話し、第十回、インフレとは [バカにされないクスリ]

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* はじめに
投資会社社長の瀧本憲治氏が経済評論家、三橋貴明氏にお金のことをきくユーチューブを取りあげる。対談形式で展開するので、ひたすらその筋をおい最後に私の感想をのべる。
(お金とは何か、インフレになるのは何時か、三橋貴明氏に教わる 第八回、takimoto kenji、2017/05/23 に公開)

* まずデフレの謎解きを
では、引きつづきインフレの話しを。約二十年間デフレがづいています。で、そもそもインフレとは何かから。はい。わかりやすくするため、その反対のデフレから話しを。ほう。デフレは異常事態。だが二十年もつづいて常態化してるが、やはり異常。デフレが何故おきるか。はい。これは比較的簡単。へえ。私たちがバブルにおどって金融の世界で。キャピタルゲインをねらう。はい、インカムゲインでなく。そう、このキャピタルゲイン目的で皆んなが借金して土地などをかう。はい。皆んながかうから値段があがる。

* バブルのはじまり
ほかの人がまたかう。またあがる。はあ、今のビットコインみたいですね。ああ、そう、中国のお金がはいってバブル化してるみたい。うん、歴史上はじめてのチューリップのバブルとおなじで。そう。皆んなかって価格があがる。またかう。またあがる。このプロセスにはいってしまうと、バブルへ。はい。たとえばゴルフ会員権。へえ。一九九一年、日本のゴルフ会員権は全国平均が四千二百万円。ほう。ところでビートたけしさん。あの方は二億円。はあ。それが。今は百万円。はい。たまたまビートたけしのも百万円。はい。

* ビートたけし、二億円ゴルフ会員権が百万円
ただね、ビートたけしは貯金でかったとおもう。へっ。だからダメージがない。はあ。問題は借金してかった人。四千二百万円が百万円になったら借金だけのこる。要はその人の貸借対照表がくずれて債務超過の状態。借方の資産がほぼゼロになって貸方の借金がのこる。これでどうするか。ううん。所得から借金をかえしはじめる。これがバブル崩壊後のデフレのはじまり。へえ。さらにバブルがくずれ不景気にはいる。はい。となると皆んな守りにはいる。ふうん、ココロが守りに。するとどんどん貯金に。ふやしてふやしてゆく。国民が不安から。はあ。

* バブル崩壊からデフレに
そう、それが問題。日本国民の銀行預金、一人当たり貯蓄額が米国の二倍に。へえっ。人口は米が三倍、総額でない。で、一人当たりでは断然世界第一位。それだけお金をつかわない。ふむ。というわけで我々がバブル崩壊後に借金返済、貯金にはしることは。ほう。その反対に消費や投資がへってるということ。はい。要は、消費や投資をしないで銀行預金、借金返してるという意味。へえ。これがデフレ、需要不足のはじまり。なるほど。その状況で緊縮財政にはしってゆくと、ただでさえひえてる消費や投資が激減する。

* デフレは需要不足、消費、投資不足、GDP不足
消費税増税で消費をつぶす。政府の公共事業削減で投資をつぶす。消費や投資のパイをどんどんちいさくする。その消費や投資の合計のことがGDP。はあ。ということはデフレとはGDPの不足ということ。別名は総需要の不足。ふうん。この図(インフレギャップとデフレギャップ)をみる。はい。本来の供給能力(潜在GDP)と総需要(名目GDP)をくらべる。はい。たとえると我々が百の供給能力がある。はい。ところが総需要がたりない。つくれないわけでないのに需要が。だからすぐたたきうり。価格暴落。はい。この前のテレビの話しを。へえ。スーパーでもやし一袋十円でうってる。はあ。目玉商品がほしいスーパーが生産者に圧力。はあ、まさか十円では。三十円くらいで納入させる。へえ。これで生産者がくるしむ。さらにその向こう側でも。ツケがおよぶ。つまりこの状態が伝播してゆく。競争激化と価格の下落。ふむ。クリーニング屋さん、ワイシャツが百円きってる。へえ。

* デフレ、街の景色、究極のブラック化
この分野、大手が進出し競争激化。地元クリーニング屋さんと熾烈な戦い。ううむ。そう、髪切りもやすくなりましたね。そう、すべてのモノやサービスの価格がさがる。ここに問題。価格がさがることにより生産者が打撃をうける。はい。ぜつたいもやしの生産者は貧乏になる。するとお金をつかわない。はい。だからモノやサービスの価格がさがる。ふうむ。この循環がえんえんとつづく。これがデフレ。はい。日本のデフレはいきつくところまでいってる。あらゆる 業界がブラック化してる。ふう。あらゆるもの。価格がやすく、しかも品質はたかく。はあ。こんなむちゃくちゃなことをやってた。はい、こんなやすくてサービスのいい国ってないです。

* 低価格、高品質サービスの典型、宅急便
特に宅急便、六百、七百円で全国配達。翌日、時間指定でとどく。こんな国はない。ふうん。さらにただみたいな値段で当日配達をやってる。うん、私はあれを否定しないが、ちゃんとお金をとれと。はい。高品質、低価格化が全国に、国民は総ブラック化。はい。これが今の日本の状況。へええ。デフレの問題は大変。取りあえず国民が貧困化。はあ。どれぐらい貧困化したかというと一九九七年、橋本内閣の時をピークとして、実質賃金がマイナス十五パーセント。

* 実質賃金が十五パーセント減
へええ、給料が。そう、名目でない。つまりその分モノやサービスがかえなくなった。はあ。物価がさがるだけ。名目が一定なら。実質はあがるから貧困化してない。はい。実際は逆の方向にいった。これが貧困化。さらに防衛費がふえない。えっ、ああ対GDP比率か。そう、GDPがまったくのびない。なら防衛費もふえない。なるほど。安全保障がたいへんになった。さらに交通インフラ、水道、下水道がぼろぼろ。さらに科学技術。これが一番かなしい。 政府のこの予算に財務省がシーリングをかけた。

* やせほそる社会インフラ、安全保障、科学技術
へえ。これは上限をもうける。前年よりさげろと。へえ。どんどんさがってゆく。ええ、技術は先生がいってる資本主義の三要素にありますよね。すると日本の論文数が激減。あたりまえ。ううん。これだけお金をつかってないから。はあ。もう日本は技術大国ではない。中国にぬかれてます。ええっ、くらくなってきますね。さらにもっと大変な問題が。はあ。実質賃金が十五パーセントさがった。わかい世代が結婚しなくなった。結婚できなくなった。はい。人口問題ははじまりはちがうが、もはやデフレが原因。

* ながびくデフレが結婚を阻害し人口をへらす
ほう、デフレが人口をへらす。といことはデフレは人災ですか。はい、かんぜんに人災です。特に財務省の人災。ふむ。最終的にどうなるか。はい。需要がないと私たちはモノやサービスをつくらない。すると結果的につくる力がうしなわれる。ええっ。今、生産についてる人もやがて退場。すると、もうつくらないからその技術、経験を継承できない。へえ。発展途上国に地震。救援隊をおくる。それは発展途上国に技術がないから外国に助けをもとめる。このままだと日本もにた状況になる。へえ。世界一の純資産国という。お金はあるが技術がない状況に。へえ。このままだと大変な状況になるでしょうね。これがデフレの究極の姿。ふむ、我々はその先をどうみればいいのですか。

* このデフレを抜けだす道があるのか
で、この時期にデフレから脱却してインフレになる可能性がおきようとしてる。へええ、あかるいきざしがあるのですか。はい。こんなことがおきるとは私もおもわなかった。はあ、皆さんしってますか。今の失業率。どんどんさがって三パーセントをきった。ほう、完全雇用。いや、それは2.3パーセントと。ほう。日本銀行風にいえばまださがってるとの状況。ふん。で、有効求人倍率が1.43。これは職をえらばなかったら百パーセント就職できる。ふむ。

* デフレでも雇用条件が劇的に改善
もっとすごいのが正規社員の有効求人倍率が一に近づいてる。これは歴史上はじめて。へえ。二〇〇一年この倍率が0.4をきった。はあ。リーマンショック後に。はあ。派遣になってた。論理的に正規社員になりたかったら全員なれる。ほう。へえ。何故こうなったか。はい。このシリーズでいってたように人口構造の変化。はい。総人口はほとんどかわってない。おそらく0.2パーセントほどのへりよう。でも生産年齢人口、十五歳から六十四歳までの人口がどんどんへってる。これと全人口との比率がバブル時代が七十パーセントだったものが、今、六十一パーセントになった。

* 人口構造の変化がインフレに近づける
まもなく六十パーセントをきるだろう。すると何がおきるか。はい。するとこの図の左。インフレギャップが。はあ、でも需要がふえたのでなく供給がへっただけ。でもこれはいい、わるいの問題でない。バブルの後にデフレになった。これも供給がのびたわけでなく需要がへったから。要はバランスの問題。はい、でも日本は頑張るから、どうしても供給がふえる。うん、そういう民族性。だからバブル崩壊後にこんなにながいデフレがつづいた。ブラック化した産業ではたらいた人は死にもの狂いではたらいた。で、懸命にはたらいてもなかなか給料がもらえない。これがデフレの悲惨なところだが。デフレだと人余りでそうなる。ふうん。

で、今、人口構造の変化によりインフレギャップ化しようとしてる。今からがチャンスですよ。はい。団塊の世代といわる方々。彼らが労働市場からひいてゆく。まあ七十歳ぐらい。人口の瘤といわれた集団。で、あらたにそれにかわる人口がはいってくるわけでない。だからぜったい人手不足になる。 一部の 産業では超人出不足。はい。で、ギブアップした。これはわるいことでない。人件費を引きあげるとか、過剰サービスをへらすというかたちで対応がはじまってる。

* インフレ化への道はもうはじまってる
いつからインフレになりますかと。ほう。もうはじまってる。はい。もちろん、全体の物価上昇はゼロ。はい。で、まったくデフレ脱却できてない。で、これは安倍政権のせい。へえ。緊縮財政のせい。それはそれとして人手不足がはじまってる。過剰サービスの提供はもうやめる。はい。だってコンビニで二十四時間営業は。もうやめると。ふえてる。はい、あとすき家とかの牛丼チェーン。もともと過剰サービスをやすく提供しすぎた。

あれがただしい方向。でも牛丼、コンビニも値段はかわってないとおもう。サービスの品質をさげて値段は一定。これは実質的なインフレだ。はい、価格面ではあらわれてないけれど。そう、あげなくてはと。でも皆んなこわくてできない。だから数量面でおとしてる。ふうん。ポテトティップスの中身がへったという話しも。ほう、今はそういう段階。そう。はじまってる。じゃあ金利があがったりとかは。本当のインフレの状況はいつぐらいから。それには何が必要かというと。

* 本格的にインフレがはじまる条件とは
これは継続的にインフレギャップがつづくことがぜったいに必要。ふうん。一年では駄目ってこと。ほう。インフレギャップを生産性向上によってうめる。そして一人当たりの生産量をふやす。こうしてうめる。すると皆んなの実質賃金があがる。これが三年くらいつづくと。適合性期待形成、これは今までこうだったから将来もそうという気持、これがうまれる。ふうん。日本人にこの傾向がつよい。それを日本銀行が証明してくれた。ふうん。

* 本格化にはもうすこし時間が
昨年八月に。これ本当。へえ、ということは実質賃金の上昇が三年くらいつづくと期待が形成されるということ。そう、これからもつづくだろうとおもいはじめる。なるほど、なら皆んながお金をつかいはじめますか。そう、するとまたインフレギャップがうまれる。生産性向上でうめたのにまたインフレギャップがうまれる。ほう、じゃあ本格的インフレギャップがうまれるのにはあと三年以上と。厳密には実質賃金の向上がはじまってから。はあ。三年ぐらいかかる。そうならないと私たちは消費をふやそうとは。へえ、しない。はい、でもその前に消費税増税があるかも。

* 消費増税、緊縮財政が気がかり
それやると消費はどんとおちるだろう。ふうん。だから今、日本は政府の緊縮財政によるデフレ圧力と人口構造の変化によるインフレ圧力がせめぎあってる。すぎたことだが安倍政権が消費税増税をやってなかったらとっくにインフレになってた。ええと、二〇一四年四月だったですね。あれがなければ。はい。あの時はじわじわきてる感じがしましたが。世界の経済成長においつこうとしてた。消費増税で翌年はすとんとおちた。

* 生産性向上への取り組み
話しをもどして、人口構造の変化によりものすごいインフレ圧力がきてる。ふうん。これへの対応は生産性向上以外にありえない。まあ最初はサービスの品質をさげる。これもあるが限界に。はい。今はその段階という。うん、で、値段をあげなくてはとなる。だから生産性向上。はい。これはとにかく必要。でもほかに。うん、政府の緊縮財政路線をあらためられるか。はい。前回はなしたPB目標。これがあるから消費税増税やらざるをえなかった。あれを撤廃して政府みずから生産性向上の投資をやりましょう。

交通インフラの整備とか技術開発の投資とかをはじめたらあっという間にインフレに。それでも二、三年はかかるだろう。ふうん。何故なら私たち国民が自信をもてないから。だって二十年間も給料がさがりつづけた。はい、そうですね。今の二十代はデフレしかしらないでしょう。瀧本さんは。四十五歳。バブルは十七、十八歳。ではデフレにつかってない。バブルで、あの頃世間はふわふわと。価値観の多様化とか。で、あの頃の状況がつづいたら東京湾の埋め立てができてた。

* バブル期のインフラ整備の遺産
ふうん。かんがえてみてください。東京都庁、アクアライイン、関西国際空港、四国連絡橋。はい。これらはバブルの時代につくった。あの頃のインフラ投資がなかったらすごいみじめな生活をしてた。へえ、バブル時の投資があったからここまで快適な生活ができたと。そう、あれがない状況でデフレに突入してたらとてもみじめだったでしょうね。へええ。だって四国には船でなければいけない状況だったろう。ふむ。だからインフラ投資がわるかったわけではない。土地の投機があったから。あれなしで。でも今からでも間にあう。ふん。人手不足だから。

まあお金はだすけど相当の人手不足だから。まずぜったいに労務単価があがる。でもそれだけではぜんぜん追いつかない。ふむ。ドローン、ロボットあるいは自動施工、これは建機が自動で施工する。これらをどんどん投入することにより日本が理想的な経済成長の循環にはいれる。そのチャンスではある。うん、それを阻害する要因もありますね。それをはねつけていってほしいですね。

* 阻害要因、緊縮財政、外国人労働者
で、おおきく二つある。一つ目は安倍政権の緊縮財政。これは転換するかも。六月になればわかるでしょう。ええ、それはどういうこと。骨太方針の閣議決定。へえ。そこにPB目標があればアウト。ほう。でもきえるかも。今、そのせめぎあいがつづいてる。

二つ目はインフレギャップの埋め方。はい。単純労働者がすごくたりない。それを外国人労働者でうめるとやったら駄目。それでなく生産性向上のための技術投資をがんがんやる。ええと、三橋さんがいってたコンビニの無人レジ、完全自動レジ。そう、あれはいい。籠にいれるだけでぴっと計算してくれる。へえ、籠にいれる時ですか。だが電子タグをつかのも。そっちはまだ四年ぐらいかかる。ただそっちはローソンだけでなく、ファミリマート、セブンイレブンなど大手五社が二千億枚をつかおうと。すると日本国内のすべての商品の全部に張りつけられる。そうするとたぶん単価一円をきる。ふうん。そうなるとわが国のコンビニのレジに人がいなくなる。ふむ。まあ万引対策はあるでしょうが。はい、はらうのもカード化されますね。はい。うん、プリペイドでもいい。はい。今、東京のコンビニがすごい。国籍が多様化してるから。うう、あれは外国人留学生。そんなことやらないで完全自動化でやればよい。はい。そうなら皆んな生産性があがってもうかるようになる。消費もそれつかえと。まあ三年ぐらいかかるだろうが。ふん。今の日本はわかりやすい状況。はい。

* やはりインフレになる、だからその準備を
だからインフレになるか、ならないかといわれたら。なると。ぜったいになると。はい。うん実際にサービスの品質をさげるかたちで目にみえてわかってきた。はい。これが循環してゆくかたちになると三、四年ぐらいかかるのではないか。はあ。我々は二十年、デフレだった。では金利はどうなるのですか。

* 銀行の金利はまだあがらない、投資のチャンス
それは銀行がインフレになると確信したら金利はあがる。ふうん。でないと銀行が損をする。はい。今、十年物の国債の金利はゼロ。そう。プレミアムついても0.4から0.5パーセントでしょう。だから銀行はインフレになるとはかんがえてない。へえ。日本人は 適合性期待形成をやる。はい。だから将来予測はあんまりやらない。へえ。今までこうだったから将来もそうとかんがえる。ふうん。たぶんインフレ率が一パーセントあるいは二パーセントで三年間つづく。すると金利はあがりはじめる。なるほど、三年ぐらいかかると。そう。つまり当面は銀行はインフレが確信できず金利をあげてこない。はい。今あげたら他行との競争にまける。はい。じゃあこの三年間が。はい、設備投資をやる人はラッキーです。ふうん、長期で固定金利でくんでかりる。それで人手不足をおぎなう設備投資をおこなう。

* 極度の人手不足にそなえよ
需要があるが、こっちの供給が追いつくのがたいへん。はい。非常にもうかる。金利はゼロ。で、今、人が大事。はい。人手を確保するのは今がラストチャンス。へえ。何故かというと大手は人の囲い込みをはじめてる。すると中小の人手不足はひどいものに。だから中小企業の経営者の皆さんがこの番組をみてられる。そうならどんなにたよりない人、ゆとり世代の人であっても、そだてなければいけない。これからはいないよりましという時代が。ほう。くるでしょう。若い人にとっては有利な時代。今の若い人は幸運だとおもう。はい。大事にされる。という時代がはじまってるのだけど、これは日本が世界ではじめて直面すること。人類がはじめて経験すること。デフレで少子高齢化で人手不足。というわけのわからない時代になる。でも希望がわきました。ありがとうございます。

(本文おわり)

* 感想
一、日本はバブル崩壊、ながいデフレに突入してる。デフレ下に政府は増税、公共投資削減などの愚策を実施した。生産者は低価格、高品質なモノやサービスを提供するという死に物狂いの努力をしいられた。実質賃金がさがりつづけ社会インフラがぼろぼろになり国民は総ブラック化した。ところが人口構造の少子高齢化が労働人口比率の急速な低下からきびしい人手不足の時代がはじまった。これを奇貨として技術による生産性向上をはかりデフレ脱却、理想的な経済成長の軌道にのるチャンスがおとづれている。これが三橋氏のいいたいこととおもう。

二、デフレで少子高齢化で人手不足。これは人類で日本人がはじめて経験することと三橋氏がいってる。巷間には道徳や家計で経済を論じる俗論が横行してるなか同氏のたかい見識にあらためて敬意をひょうしたい。

三、ところで三橋氏は日本のデフレを人災とよび、それは財務省だといってる。これはどうだろうか。私の率直な考えをのべさせていただく。財務省はデフレからの脱却に成功せず未知の問題にひるんでる。PB目標を棚上げするほどの大胆な政策よりむしろ従来路線に安住してる。安倍政権に盾つこうとしてるわけでない。まして外国勢力の陰謀にうごかされてるわけでもない。要は自己保身である。

自己保身の王道は自分からはうごかない。責任の目はうごく人間にきびしく、うごかない人間にやさしい。従来路線をつくってきた先輩の批判は自分の天下りをあやうくする。彼らは聡明で世間の動きをいつもみてる。自分でない誰かがうごきだしたら、また世間がかわったら。その時、従来路線の転換が自分の責任をとわないと見きわめたら、かわる。こうおもう。

(おわり)

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