SSブログ

アレクサンダー大王、その八、ヒダスペスの戦い [英語学習]

genpati_tyamise.gif

* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はペルセポリスで事実上のペルシア支配を完成、その後、ダリウス、新王を排除、その王位を完璧とする。さらにインドの国境まですすみ東征をおわりにするところまでをのべる。
(Alexander the Great: Battle of the Hydaspes 326 BC、BazBattles、2017/06/23 に公開)

* アレクサンダー東征の行きつくところ
紀元前三二六年五月、無敗のマセドニア軍がインド亜大陸のパンジャブ地域に侵入した。どしゃぶりの天候のなか、あくまでも勢力の拡大をもとめマセドニア、アジアとペルシアの王、アレクサンダーはヒダスペス川の西岸にたってた。彼は対岸におきるであろう戦いをどのようにすべきかをかんがえてた。インドのおそるべき王とその巨大な軍との戦い、アレクサンダーの最後の主要な戦いがまさにはじまろうとしてる。

* ペルセポリスの奪取、ペルシアの王と宣言
紀元前三三〇年の春である。ザグロス山脈における困難な戦いに勝利しマセドニア軍は最後の目的地、ペルセポリスにやってきた。アレクサンダーはペルシア王の財宝の大部分がメディアのエクバタナに運びさらたことをしった。これはペルセポリスのはるか北西にある。戦いにやぶれたダリウスがさらに兵をあつめようとしてたからである。アレクサンダーはこれまでにペルシアの主要都市をうばっていた。そしてこの首都においてペルシアの新年をいわう儀式をおこなうことにした。

* エクバタナのダリウスを追撃
彼は地域の貴族たちに自分の支配にしたがう誓いをもとめた。しかしその儀式に出席したのはあらたに州長官に任命された者のほかわずかな貴族たちだった。彼は自分がアジアの王であるといってる。だが本当に全ペルシアの王であるのか疑問がのこってたことをしめす。まだ形式的にペルシアの王であるダリウスを殺害するほかない。彼はエクバタナに出発する前にペルセポリスを焼討ちにした。百五十年前にペルシアがアテネを焼討ちにしたお返しであった。

ダリウスの追撃がはじまった。六月にエクバタナにマセドニア軍がやってきた。ダリウスはいない。マセドニア軍の動きをよくしってた彼は数日前にそこをはなれてた。そして財宝と随行者を引きつれて北東にさった。その先はペルシアでまだ征服されてないもっとも東部の地域であった。そこにはまだダリウスにしたがう人々がいた。しかしマセドニアの追撃をしってダリウスの随行者のなかからつぎつぎと脱落者がでてきた。最後にはバクトリアの州長官ベッソスを長とする臣下によりとらえられた。彼はダリウスをマセドニアに引きわたし彼らが支配してる州の征服をまぬがれようとした。

* 殺害されたダリウス、新王となったベッソスを追撃
アレクサンダーはベッソスの申し出を拒否した。彼はペルシアの王位を主張してるのでよい選択であったろう。ベッソスはダリウスをころした。アレクサンダーはダリウスをペルセポリスで丁重に埋葬した。その頃ベッソスはペルシアの新王となった。アーティゼクシという。彼はマセドニア人は結局、ヨーロッパにもどるとおもってた。従来の普通の侵入者の考えだった。アレクサンダーには通用しなかった。また遠征作戦がはじまった。一年ほどのあいだにアレクサンダーは中央アジアの広大な平原を横断し平定した。

* 本国帰還をねがう兵の気持、 勢力拡大をもとめるアレクサンダー
ちょうどこの頃である。最初の対立がマセドニアの軍のなかにうまれた。ペルセポリスの征服の後、ダリウスの死の後におおくの兵士たちはアレクサンダーが本国にもどることをのぞんだ。ペルシアとたたかうためにダーダネルス海峡をわたってから五年がたった。兵の気持がかわったがそれ以上に敬愛する王がかわった。彼はたびたび自分を神のようにあつかうことをもとめた。おおくのペルシアの慣習を引きついだ。彼の周囲におおくのペルシア人助言者をおいた。彼はだんだんと猜疑心がつよくなった。彼の命をねらった陰謀が発見された。彼は配下の指揮官の一人、フィロタスを充分な証拠なしに裁判にかけころした。これは重大な問題を引きおこした。彼はパーメニオンの長男であった。パーメニオンはアレクサンダーがもっとも信頼をおいた部下であり筆頭の副将である。息子の処刑は父親の死を意味する。アレクサンダーはいそぎ使者をおくった。そこにはきびしい命令がかかれてた。おいた副将はエクバタナでしんた。そこで彼は王室の財宝をまもり軍の強化を監督してた。パーメニオンは最後までアレクサンダーを裏切らなかった。

* ベッソスを東に追いつめ処刑
その頃、アレクサンダーの軍はヒンズーのクシュの地域を横断しようとしてた。ベッソスの支配をおわらすため最後の障害だった。冬の晩期である。ベッソスはまさかアレクサンダーが雪におおわれた山岳の道を進軍してくるとはおもわなかった。彼はまたアレクサンダーのつよい意志を見あやまった。アレクサンダーは敵の抵抗にあわず兵をほとんどそこなうことなく山岳地帯を横断した。ベッソスは驚愕した。すぐマセドニアはバクトリアをうばった。ベッソスはオクソス川にそい北に逃走した。だが何者も彼をとどめることができない。妨害にもかかわらず彼は沙漠を横断し川をわたりベッソスの部隊と直接に対決した。ベッソスの最後である。アレクサンダーの怒りをおそれた彼の部下が牢獄にいれアレクサンダーに引きわたした。彼は十字架の刑にしょせられた。これでアレクサンダーをペルシアの王でないという者がいなくなった。

* 東部を安定させインドにむくアレクサンダー
あたらしい征服地が安定するのにほぼ一年かかった。彼は東部の州にすむ部族を安心させるためバクトリアの王女、ロクサナと結婚をした。こうして東部の国境が安定すると彼はおおくの人々がすむ肥沃なインド亜大陸の土地に目をてんじた。たぶんあたらしい遠征作戦の動機はアレクサンダーのおさえがたい征服欲であろう。どんな利益があるのかうたがわしい。失敗におわる危険性が充分にある。いずれにしてもマセドニア軍は紀元前三二七年の晩期、パンジャブに進出した。そしてまもなくタクサイルの人々がすむ土地にやってきた。

* 服従しないポラス王とヒダスペスで対決
アレクサンダーのところにその土地の王たちがあいさつにきた。彼はすべての周辺国が自分に友好をちかうことを期待した。実際、おおくの王たちがこの異国の王に膝をくっした。しかしヒダスペス川の対岸の王が服従を拒否した。ポレイビアの王、ポラスは高貴で勇気ある指導者であった。彼には充分な力をもつ軍と、ひろい川がまもるおかしがたい国境があった。この拒否はアレクサンダーのみとめるところでない。すぐにマセドニアの軍がヒダスペス川の西岸にやってきた。ポラスは渡河を阻止するべくそこにいた。五月であった。そこでしばらくのあいだアレクサンダーを足止めすることは簡単であった。

* 嵐のなかで渡河作戦
ヒマラヤの雪解け水とこれからやってくるモンスーンの雨季が川を数カ月間、ほぼ渡河不可能にする。アレクサンダーもこれをしってた。できるだけはやくうごきだそうとした。川をつぶさにしらべて彼は確信した。敵が対岸にまつのに渡河をする。兵をそこなう暴挙である。別の方策を見つけねばならない。マセドニア軍は渡河をねらいうごいた。ポラスの軍は警戒をおこたらない。だがマセドニアの動きは実はポラスの警戒心を一方に引きつける罠であった。三十キロメートル上流に渡河にてきした浅瀬を見つけた。アレクサンダーはよりすぐりの部隊をあつめ嵐の夜に彼らを渡河させた。ポラスにその情報がはいってきた。

* アレクサンダー渡河、阻止に失敗
彼は二千の騎馬の分遣隊を派遣した。その指揮は彼の息子だった。彼はちょうどアレクサンダーが渡河してるところに出くわした。ただちに攻撃した。これはマセドニア軍により簡単に阻止された。マセドニアは前哨戦の後に、たちまちポラスの偵察隊におおきな損害をあたえた。わかい王子はここでしんた。渡河を阻止できなかったがポラスはすくなくとも敵がたしかに渡河したことを確認した。

* 渡河部隊がポラスの左翼を攻撃
ただちに軍をうごかしこれにそなえた。マセドニアの兵力はポラスよりまさってた。しかし大部分はまだ対岸にとどまってた。渡河したアレクサンダーの分遣隊はポラスの軍より過少だった。だがマセドニア軍は充分な訓練、きびしい規律と豊富な経験をもってた。ポラスは百以上もの戦闘用象をうごかした。マセドニア部隊には脅威であった。彼らにとり戦場でこれだけ多数の象に対決するのははじめてだった。戦いはシシア人騎馬兵の射手による攻撃からはじまった。

彼らの目的は象の妨害だった。つづいてアレクサンダーとそれにしたがう騎馬隊がポラスの左翼をおそった。彼は象にぶつからないよう注意した。マセドニアの騎馬はこのような巨大な敵とたたかう訓練をうけてなかった。彼らは巨大な象をおそれ騎馬兵のいうことをきかない。長槍をもつ密集歩兵隊がポラスの中央の戦闘線にやってきた。そして部隊との戦闘にはいった。長槍は戦場でたたかう前に、さらにながくしてあった。だが象との戦いは困難なものだった。象の部隊は一時的には各所で戦線を突破した。ポラスはその左翼があきらかに窮地にいるとみた。たすけの二輪戦車と騎馬隊を左翼におくった。

* ポラスの右翼を攻撃、対岸からの部隊も参加
アレクサンダーの攻撃に参加せず待機してた騎馬隊の指揮官、コアナスはこれをみてすばやく部隊をポラスの右翼におくりそれを包囲した。また左翼を背後から急襲した。中央の戦闘用象の御者の幾人かがころされた。恐慌におちた象が逃げだし自軍の歩兵を踏みつぶした。中央でマセドニアの優位があきらになってきた。また左翼においてもそうであった。複数の象の部隊がたじろいて戦場を逃げだした。
だが彼らはすぐに対岸からやってきたクレイタスが指揮する部隊に追撃された。彼らをころしクレイタスとその部隊はポラスの背後を襲撃した。ポラスは象のうえにのってたたかってた。だが敗北を覚悟した。降服を拒否したが最後に彼はとらえられた。残りの部隊は殺戮をまぬがれた。ポラス側の損失はおおきかった。戦いの概要は次のとおりである。マセドニアは兵力が四万五千、損失が千。ほとんどが中央。ポラスは三万五千、損失は一万二千だが、騎馬隊は全滅、相当数の歩兵がうしなわれた。

* 圧倒的な勝利
ポラスは七フィートの偉丈夫であったがアレクサンダーからどのようなあつかいをのぞむかときかれた。彼は王が王をあつかうようにあつかってもらいたいとこたえた。アレクサンダーはこの返答に感銘をうけた。ポラスをあたらしいパンジャブの州長官に任命した。もはやアレクサンダーに敵対しようとする者がいなくなった。ヒダスペスの戦いがその最後だった。だが彼の物語りはなおもつづく。

* 東征のおわり、まだつづくアレクサンダーの物語り
もしあなたがこの話しのつづきがネットに登場するのをまてないというならアレクサンダーとその帝国についてもっとまなぶことができる。ネットをみてリンク先にたどりつけばできる。次は補注のようなものである。

ソグディアナの征服をいわうマラカンダの州長官宮殿の祝典があった。その酒席で争いがおきた。アレクサンダーはクレイタスをころした。彼はアレクサンダーの友人でありグラニカスの戦いでアレクサンダーの命をすくった。彼は翌日それをくやみ後悔のあまり自殺をこころみた。

ポラスのわかい王子がアレクサンダーの渡河を阻止しようとした。それはもっとうまくいってたかもしれないが嵐の天候と泥ですべりやすくなった地面のため彼の二輪戦車がほとんど役にたたなかった。

バクトリアの沙漠を横断してる時である。マセドニア軍はひどい飲料水不足におちいった。アレクサンダーは兵士の苦難を支援するため軍がオクソス川に到着するまで水をのまなかった。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:資格・学び

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。