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いまでも憲法論議 [安全保障]


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* はじめに
四月二十六日に集団訴訟があった。安保法改正により憲法が保障する平和的生存権の侵害などをうけたとうったえるものである。評論家、宮崎哲弥氏が五月三日の憲法記念日にちなみ憲法論議を取りあげた。ここで新聞の特集や野党がきたる参議院選で争点化する動きに首をかしげながら法律と憲法は性格がちがう。法律の上位にありそれらを統括するという憲法の特徴にふれ、憲法論議をふかめたいものだといってた。

* 革命で日本国憲法がうまれたという擬制
宮崎哲弥氏は日本国憲法はそれが規定する国民投票をへずに明治憲法により制定された。正当性が欠如する。これは私の理解である。そのつづきである。明治憲法を継承して日本国憲法はうまれたのでない。その完全な否定である。なのに明治憲法の改正手続により制定した。だから正当性をかく、ということだろう。

ほとんどの日本人には驚きだろうが、憲法は革命により制定されたのだ。そう主張する憲法学者を紹介してる。宮澤俊義氏である。これは法解釈上の擬制とするが、憲法誕生の異様な側面をしめしてる。さらにその関係は不詳だが井上達夫氏の名前をあげ対談をしたいものだといった。

* 井上達夫氏が九条削除を提案
安保法制の議論がかまびすしかった昨年の夏に井上達夫氏は憲法九条の削除を主張した。安全保障の議論が憲法解釈の違憲、合憲に終始し本来の戦略的議論をさまたげ不毛な状況である。そこで政府は憲法改正で九条を削除し本来の議論をふかめるべきという。その際、同氏は、米国や特定地域と連携する集団的自衛権の行使を否定し国連の傘下でおこなうべきとしてる。

* 対立する議論も統合できるかも
古代ギリシャに民主主義がうまれ、それが現在の欧米に綿々と引きつがれてきた。憲法における立憲主義もその成果である。日本にはこの伝統はない。であるから、ここいらあたりで自分たちの憲法にたいする意識を見つめなおし、かんがえては、どうだろうか。

擬制革命による憲法制定は日本国憲法誕生の異様さをしめしてる。ところが九条削除論は政府の解釈と通いあう。それは政府が憲法をすなおに立憲主義をふまえてよむと、自衛隊はあきらかに違憲である。しかし国民をまもらない憲法などない。こういったら何がでたか。神話の国のはじまりみたいな前提である。そこからよくかんがえられた議論がつづく。で、おわりは。集団的自衛権を完全に否定する解釈だった。これだけ曖昧な前提でこれだけ明確な結論をだす。このかっての政府解釈はまことに奇妙である。ところがである。

井上氏のいう九条削除を考えあわすと政府解釈は通いあう。つまり九条をなきものにして解釈すればよく理解できる。私は安全保障につきブログを二件かいた。私の意識にあったものを言葉にする。それは国民の「立憲意識」である。これは上記の論点をすなおに受けとめてくれるのだが、その内容である。

* 国民の立憲意識
1) 自衛隊は容認する。日本国憲法と立憲主義からあきらかに違憲であるのに。
2) 憲法を尊重する。憲法を抽象的な枠組みとせず、成文法の日本国憲法としたら、その尊重は自衛隊の否定となるのに。

これが戦後七十年をへて形成された立憲意識である、とおもう。ところがこれは、立憲主義にはんするばかりでなく論理性も欠如する。一筋縄でいかない。手強い。だがこれが国論を二分した安保論争や数々の選挙をつうじて確立された。だからこれを出発点にすることが民主主義の王道である。欧米の立憲主義の伝統は日本にない。それに拘泥する必要もない。さて結論である。

* 結論
米国大統領選、トランプ候補は日本や韓国に駐留する米軍を撤退させるといった。もしそうならば日本は集団的自衛権をもっと拡大する議論が必要となる。困難なことだが、くるしみながらも確立してきたこの国民の意識をふまえてかんがえる。このことを期待する。




安保法は違憲か [安全保障]

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*はじめに
あたらしい安保法が成立したが、一部には根強い反対がある。SEALDsや知識人の動き、政治でも共産党がきゅうに野党共闘をよびかけてる。政治的にチャンスととらえてるのかもしれない。わたしは、これについて妥当という考えを(blog、2015.10.2)でいった。ここで元法制局長官の解説で自衛隊を合憲とするには、わたしの感想だが、9条をまるで空文化するような解釈がおこなわれてることをしった。

そこで憲法学者の方々がどのように自衛隊を合憲としておられるのかをしりたいとwebを渉猟した。しかし、阪田元法制局長官の解説のようなまとまったものがなかった。やむ得ない。昔、勉強した憲法の本をひらいてみた。佐藤功氏の日本国憲法概説である。

*で は、教科書
1) 9条の第1項において、わたしのblogの元法制局長官の解説では可能としてるが、自衛のための戦争も放棄しているという。
2) 第2項についてもすべての交戦権を否認してる。
3) なお、どちらにおいても自衛のためなら可能とする説を紹介しているが勿論、否定している。

すると、わたしたちはどうすればいいのかとなる。これについては、
4) 憲法は自衛権はみとめてる。
5) しかしそれは上記1)、2)に該当しない形である。すなわち侵略してきた敵国に警察力で抵抗するという説明があった。
6) 勿論、自衛隊は違憲である。

9条をずいぶん神格化してると思う。だが、憲法学の分野では根強いものだろう。合憲論はあきらめた。

*長谷部さんの違憲論
早稲田大教授の長谷部恭男氏は衆議院憲法審査会などで、集団的自衛権の行使が許されるかという点について、憲法違反として、その理由に次の2点をあげておられる。
1) 従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない。
2) 法的な安定性を大きく揺るがすものだ。

この発言で長谷部氏は一躍、時の人となった。そのほか憲法学者の90%以上は同意見だといい、激烈な意見も散見された。中には感情的といわざるを得ないものもあった。その考えの当否はさておいて、わたしは何かしら、現実ばなれしたもの、よく理解できない違和感を感じた。その説明である。

* わたしの疑問
1) まず、政府解釈は改訂され、現行では集団的自衛権の一部行使は容認されている。
2) 従来の論理の枠内では説明がつかないとするが、解釈は政府の責任においておこなう。新解釈は従来の解釈をふまえ担当部局の法制局が検討し閣議決定をへて決定した。わたしの感想だが、その論理は妥当と思う。
3) 法的安定性をおおきくゆるがすとするが、行政の柔軟な対応は当然であり、事情がかわれば改訂される。もし問題があれば経過措置を検討すればよい。

どう考えても憲法違反とする根拠としてよわい。まあ感想になるが、何故、学者が政府解釈、それもすでに改訂、過去のものとなった解釈を論拠とするのか理解しがたい。ここでもただ違和感がのこる。で、感想をのべる。

*感想、違和感の正体
1) 何故、自衛隊は違憲でないのか。わたしは子どもの頃おなじ感想をもった。つまり常識的に考えれば違憲だ。そして憲法学者のおおくがそうだというのも元法制局長官の解説でしった。論理を基盤とする世界で当然の結論と思う。
2) くりかえしになるが、もし自衛隊を合憲とする。ならばその根拠を政府解釈にたよらず学者の見解をおしえてほしい。どうもそれがYoutube、Webでみつからなかった。

わたしは政府の解釈が妥当というのを前のblogでのべた。さらに話しをすすめるには、すこし説明がいるのできいてもらいたい。

民主主義は、多様な考え、生き方をみとめようとする。できるならば、そのままにして共存してゆく社会である。だから現状をみる。すると安保法が成立したが依然として反対する人がいる。それは犯罪でない。そればかりでなく、健全な民主主義では自然なことである。もう一つ説明しなければならない。

この問題では、政府、一般の国民(つまり、わたしでもある、憲法学者と三つにわけることができる。

3) 政府解釈についてはなす。それはわたしの解釈でない。わたしがその意図や理由を説明する責任はない。そしてわたしの解釈はちがうのは上述のとおりである。責任のことだが、わたしは政府解釈を妥当かどうかを判断し、それを投票活動でしめすべきと思う。その意味でわたしの責任はここにある。「わたし」を「憲法学者」におきかえればほとんど、おなじだろう。
4) 憲法学者の解釈についてはなす。それは政府の解釈でない。政府の解釈にかかわらず、自分の解釈を率直にかたるべきである。それが出来てるか。長谷部氏も自衛隊を違憲としてるのでないか。憲法学者の感情的発言におどろいたが、その裏に率直にかたりたいが、かたれないという心の葛藤を感じる。

これがどうしても理解できない違和感の正体と思う。

* 結論
率直な意見がでて、多様な意見の中から、よりただしい結論がでるよう期待する。

安保法が成立 [安全保障]

* はじめに
この9月に安保法が成立した。これで世界によきメッセージを発信することができた。この国は世界の良識から孤立することで破滅にむかう。と感じてるわたしにとって、ほっとした。かってのPKO法の成立の時に感じたとおなじ感想である。

今回はマスメディアのみならず、Youtubeで多様、種々雑多な意見、それは率直なもの、独特なもの、あやしげなものの多数が登場した。これは民主主義にとって健全なことである。ところでびっくりしたことがあった。国会の参考人陳述で、憲法学者の方がこの法案が違憲と断定する。この報道におどろいた。この法案は集団的自衛権を一部みとめたものである。それを違憲とするものだった。そこで、あらためて憲法解釈について、考えてみた。

* 憲法で何といってるか
わたしは法律の専門家でない。元法制局長官の阪田雅裕氏の説明を参考とした。

** 1) わたしの結論
1) 主権国家には、本来、個別的自衛権、集団的自衛権がある。
2) しかし憲法を制定し、これに制限をくわえてる。そこから集団的自衛権はみとめられないという解釈がうまれる。

これが、解釈の結論だが、ここにいたるには相当の紆余曲折がある。そこで立場により見解がわかれる。できるだけ端的に説明をたどる。

** 2) 憲法9条1項の戦力の放棄は違法な戦争の禁止という解釈
1) 憲法の第9条第1項は武力の放棄、第2項は交戦権の否認を規定。まず1項についてである。国際法の世界に移行する。1928年の不戦条約で同様の規定がある。それをひきついだ国連憲章、第2条の第3項、第4項もそう。いまの国際法上で、武力の行使は次がみとめられてる。
2) 個別的または集団的自衛権を行使
3) 国連決議にもとづいて行使
つまりこれ以外は違法として禁止されてる。だから憲法の規定が第1項だけだったら、国連憲章、あるいは世界の各国とおなじように、侵略戦争のような違法な戦争を禁止してると解釈できる。

** 3) 9条2項の交戦権の否認、これで政府がこまる
ところが事が簡単にすまない。2項がある。交戦権を否認してる。この両者をあわせ考えれば、おどろくべき結論となる。正義の戦争であれ、違法な戦争であれすべての戦争を否定してる。だから徹底的に平和主義の国になる。そういってる。ほとんどの憲法学者は、現在の自衛隊は戦力にあたるとみなしてる。つまり違憲だという。

** 4) で、こまった政府が憲法全体をみる
ここで政府が登場する。政府は自衛隊が合憲とみなしてる。ではその論理である。

1) 国家には国民がいる。その国民は平和にいきる権利がある。たとえば憲法第13条の幸福追求権の保障がその証左。主権国家として国民の生命、財産をまもる義務がある。9条がその意味で自衛権まで放棄した規定でない。とても頭のいい人が考えた理屈だ。ツッコミ所が相当ありそうだがが先にゆく。

2) 1959年に最高裁で砂川判決があった。米軍駐留をめぐってあらそわれた。そこで自衛隊に言及されたわけでないが、自衛権があるとみとめた。すると自衛権を執行する措置として自衛隊の存在をみとめる根拠ができた。それは必要最小限の組織であり、それが必要最小限の実力行使をするという。なかなか見事な論理だと思う。でも大方の憲法学者とは見解がことなるとみとめている。

** 5) 必要最小限の内容ならゆるす
ここからが大切なところ。自衛隊が必要最小限ならゆるす。で、これをこえてるかどうかは国会が予算審議等をとおして国会が判断する。これすなわち国民の判断であると政府は考える。量的にどうだとかは一概にいえない。ただ、その性質からいえることがある。

1) 専守防衛という考えから、もっはら攻撃を目的とする航空母艦、長距離ミサイルは駄目
2) さらに自衛隊が国民の生命、財産をまもるために存在することから、海外での武力行使は基本的にない。
3) この「基本的に」というのは、たとえば自衛のために外国の武力攻撃があった。それを排除するための行動が領土、領空、領海の外に及んだ。これはあり得る。さらに自国の防衛のために必要最小限度の範囲内で公空、公海に及ぶ。これもあり。としても、それ以外の場合に海外、特に外国の領土、領海、領空で武力を行使することは許されない、というのが政府の解釈である。

ここでちょっと首をかしげる。航空母艦も長距離ミサイルも専守防衛に不必要か。とりあえず先にすすむ。

** 6) 集団的自衛権の否認
したがって集団的自衛権であれ、集団安全保障であれ、それは直接的には国民の生命、財産が危険にさらされている状況ではない。にもかかわらず、自衛隊が海外に行って、たとえ国際法上違法でないにしても、武力を行使することを憲法9条が容認していると解釈する論拠は憲法をどう読んでみても見出すことができない、ということ。

この「危険にさらされている状況でない」。だからみとめられない。本当か。疑問を感じる。

* 感想
法制局といえば政府でもっとも頭のよい人たちがあつまるところ、その長官である。平明な説明の中で的確に重要事項を指摘し結論をみちびいてくれる。まず感謝する。さてわたしの感想である。

** 1) 集団的自衛権の否認、それほど確かなのか
では集団的自衛権である。世界に戦争があり、敵性国家もある。この国はそれにそなえる必要がある。あらためていうが、憲法で明文の規定がないので、自衛権の保持も個別的あるいは集団的自衛権も解釈によるしかない。その論拠は1928年の不戦条約や国連憲章、国際法や慣行である。それで自衛隊を合憲として、その組織、自衛力の多少は国会、国民の判断とする。そういっても、その性質から、航空母艦、長距離ミサイルを否定、また基本的に集団的自衛権を否認する。安全保障の状況は冷戦以降ずいぶんかわった。その時の都合でかかれた古証文を金科玉条のようにありがたがってるだけ、と思う。

** 2) 政府の事情、政治的判断
1) 法制局長官の解釈は政府の解釈である、憲法学者の解釈でない。この解釈は政治の現場でおこなわれる。政府の解釈は政治を影響をうける。

2) 自衛権から集団的自衛権の発揮を極力なくそうとしたのは、戦前の日本の軍隊を連想させることをおそれた。まだ警戒心がとけない世界があり、さらに安保条約の当事国である米国にすら、戦前の日本の復活を警戒してた。

3) 過去の惨禍を想起する国民の理解はとても得られない。野党勢力が政府を攻撃するかっこうの材料となる。改憲などとんでもない。それより経済の発展に集中したほうがよい。

4) 冷戦がおわり、現状にあらたな問題がうまれた。それを認識してたが、それでもなお、改憲のような根本的手段をとるよりいわば弥縫策のほうを選択した。憲法において何よりも重要なも国民の生命、財産の保護より、率直にいうが、政府、与党の保身を優先した。論争をさけ、そのため集団的自衛権の放棄は国是のようになった。

** 3) 政府の対応をどう評価するか
1) 政治は、いたずらに理想論にはしることなく、日々の問題の解決にあたるべきとの考えがある。わたしは政府や与党の選択は妥当だったと思う。そして、このことを何度もの選挙をつうじ国民は了承してる。けっして政府、与党の独断ではない。民主主義の政治でゆるされる。

2) わたしは、必要な自衛権を発動すべきである。これが望ましい政府の憲法解釈と思ってる。今回の安保法はその意味で了解できる。

さて結論である。

* 結論
1) 自衛隊を違憲とする方に、何故そうか、特に憲法全体から考えて何故そうなのか。そう解釈するならば、憲法が想定する国家像は何か。

2) 安保法を違憲とするが自衛隊は合憲とする方に、憲法は自衛権、集団的自衛権、個別的自衛権について明文の規定がない。何故、自衛隊が合憲なのか。さらに、今回の安保法の集団的自衛権の一部容認について、その適否は法律家より安全保障の専門家が判断すべきと思う。にもかかわらず違憲と断じる論拠は何か。

これはおもに憲法学者の皆さんへのお願いである。今後の選挙の争点ともなるだろう。できればYoutubeでおおくの人にむけて説明いただけると、ありがたい。

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