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への力 [プロフィール]

yosizane_koinori3.gifはじめに

わたしは、氏素性をあかしてない。限られた友人しかこの寝耳袋の氏素性をしらない。その一人からいわれた。「お前は、職業生活で上の人にたてついてきた。それでもクビにならず。定年をむかえた。ブログをはじめたので、当時のうっぷんをはらしてるだろう。STAP騒動では、理研に厳しく小保方さんにやさしい。清武の乱では、ナベツネさんに厳しく清武さんに甘い。竹富町の教科書でも、文科省に厳しい」。なるほどと思った。悔しいがあたってる。

職業生活では、ずいずん一生懸命に仕事をした。おかしいと思うことは文句もいった。けっこう気をつかったつもりだが、失礼なことをいったかもしれない。だからこの程度なんだ。それで、今blogにのめりこんでる。こういわれると、ぐうの音もでない。そう、そんな悔しい気持があったのである。

定年間近、回転寿司の気持になったことがある。正確にはそれをみつめてる自分の気持をのぞいた。事情があっておそくに店にはいった。中には案外客がいた。様子をうかがうこともせず、目の前に流れてくる、寿司をとってくった。三か四か。皿が重なったところで一息ついて、見わたした。ちょっと場末臭がする。皿も紙みたいに軽い。ガリをとって、醤油をさして、粉茶をいれて、さてどうしよう。家族づれがいる。男女の客もいる。注文してもいいらしい。わたしは流れてゆく皿をみて、重なってる皿をみる。青みの魚がすきで、マグロもトロもとらない。皿が安っぽい。トロくらいになると皿が重厚である。また再開したがやはり青みだ。うまいからいいが、ビールをのんで、見わたした。客がへった。そろそろお仕舞いか。

とにかく手をだす。ちょっと乾燥ぎみだ。二周めか三周めだろう。と、ここで自分のことを考えた。もっと新鮮なうちに食べときゃよかった。きっと誰かが早く手をだせといってたに違いない。別のものをとるならともかく、そんな旬をすぎたものに手をだす。他の人がとっくに食べたものの中にもっとおいしいものがあった。今なら間に合うといってたのに、決断できなくて、見すごしたのがあったに違いない。流れてくる皿を見ると、まだあるといわれてる。でもどうもこれでおわりだ。勘定をはらえば、こっちのものだと店を出た。今日の後悔はこれでおわり。と、いって忘れた。友人からblogでうっぷんをはらしてるだろうといわれ、悔しい気分になった時、思いだしたのがこんなことだった。

ところで冒頭の、厳しいのとやさしいのがあるとの指摘は、違う。わたしはいつの間にか偉大な力にみちびかれてblogを書いていた。それに気づいたので、それをいう。

「への力」である。最近公判がひらかれた清武の乱で、たしかにナベツネさんに厳しい。この人は面白い。ヒールだから、それをいじる。いじりがいがある人だ。へこたれないところがいい。つい、いじりがすすめば、厳しくなる。だが、blogを書いているのはmarketを配慮した結果だ。世の中を見ればわかる。ナベツネさんみたいな経営者はすくない。清武さんみたいな中間管理職が多数だ。おおきなmarketにむけて発信する。marketが面白がってくれそうな方にゆく。STAP騒動の理研と小保方さんでも同じだ。小保方さんはかわいい女性だが、そんなことだけで筆がまがらない。自分では書きたいことを書く。そう思ってたが、どうやら偉大な力にみちびかれて書いていたようだ。への力は大衆にむいている。わたしの筆はいつの間にか、そちらを見てた。事実や真実を曲げるまいと意識しつつも、いつの間にか筆がおもむいているところは、への力がみちびくところだ。だから仕方がない。うっぷんばらしじゃない。

わたしの書くblogは限られた情報による。どちらに振るべきかとまようことがある。その時、への力のみちびくままに、筆がおもむくとろにゆく。そうするといつも大衆のいる近くにいることになる。これは偉大な力がみちびく結果だと思っている。すこし余談になる。

わたしのblogには「かの力」と「との力」もある。つまり「へかとの力」にみちびかれて出来ている。「かの力」は、なになに「か。」とくるやつだ。充分な情報をあつめ、時間をかけて整理すれば、「か」はいらない。だだ「。」だけですませられる。次に「との力」である。なになにだ、と思う。こうくる。なになにだ、といいきりたい。しかし限られた情報、時間ではできなかったから、こうなる。わたしは「へかとの力」でみちびかれてblogを書いてるが、「かとの力」はさけたいと思ってる。5月7日からblogを開始し一ヶ月がすぎたので、こんな感想を書いた。

私の奇妙な夢その2 [プロフィール]

yosizane_koinori3.gifその1を記載してから、気がついた。これはmy profileを記載してることになる。で、ながくなるが、一気にuploadすることにした。もしかして、わたしのprofileに関心のある方。よんでいただきたい。なお、登場人物が芸能人、政治家、外国人まで多彩である。夢だからしようがない。で、その雰囲気をこわさないため呼び捨てである。失礼にあたるかもしれない。お許しいただきたい。

4) 靴の片方を失う
喜劇俳優の左とん平が近づいて来た。靴の片方が落ちていたと教えてくれた。「えっ」といって、崖の上から下を見ると遠足の子どもたちがあちこちに散らばって遊んでいた。緑の線が入っている買い物用の紙袋が二、三ちらばっていた。この中に靴の片方が入っていると思った。慌てて下に降りてそこに行くと、もう誰かに拾われたらしい。見当たらない。仕方がないので回りの子どもたちに聞いた。Did someone get a shoe here ?

彼らはシンガポールの子どもたちであった。私の英語が分ったらしくて、紙袋を持って来た。受け取って開けると中には目の大きな子犬が入っていた。まわりから可愛いという声が聞こえた。私はこれでいいはずだ。おしめにも日本語が入っているはずだから、世話は大丈夫と自分で納得しようとしていた。この子犬を持って帰ると靴下裸足で来たので靴下が相当汚れるなど心配していた。

奇妙な夢だが可愛いらしい。しかし全体に展開が速い。左とん平から靴の喪失を知らされる。回収されたのは靴でなく子犬である。この子犬のおしめのことが問題となる。最後に靴が回収されていないことを示して終っている。もっと詳しい経緯が付随していたはずである。しかし思い出せないのでこのような簡略なものになったのだろう。シンガポールは仕事で関係があったのでこのような登場はおかしくない。テレビで見るような芸能人の登場もおかしくはない。

崖の上に家があるようだ。これはどう考えれば良いのか、何かの不安を表わしているのかもしれない。最後の靴の喪失はこれからも登場するだろがいつものことである。私の夢の基調である。




5) 犬型山
いつの間にか乗用車に二施設の所長と同車して、話しをしていた。南北に縦断する道路を走行する車の正面に山脈が見えた。その山形が何かに似ている。映画のネバーエンディグ・ストーリーに出てくる犬の横顔だった。胴体、耳、額、目、鼻、口となだらかに移動し、水平線に接続している。それがすぐ向いの山の稜線に立ち上がり続いていた。車内ではとりとめもない話しが続いていたが、私は高速道路の路面が起伏の少ない地形に沿ってどこまでも続いてゆくのに、この土地の性格を感じて気持が良くなった。

これは北海道に出張したときの印象が反映している。北海道の地形はいわゆる内地と随分異なっている。高緯度に位置して水田耕作が困難である。中央部の山地を除いて高山がない。このため全体になだらかな丘陵地帯が展開する。水田より畑作が主となるため、水平面を多数の矩形で区切った農村の風景は見られない。ゆるやかな起伏の斜面に畑作が展開される。輪作の弊害を避けるため隣接畑地には異なる作物が栽培される。それが豊かな色彩の連続をもたらす。美しい大地のパッチワーク作品のようである。

もともと人口の少ない地域に明治以降、欧米風の大規模農業が導入されたこともあり、集落がまばらに散在している。乗用車から観察していると、小さな集落を過ぎて、誰も住んでいない土地を見ながら数キロメートルも離れたところにやっと別の集落を発見する。まるで日本でないみたいだ。外国風の風景、数本のポプラの立木、そのもとの若い外国人男女という何かのテレビCMが放映された。これが北海道だったというので、この場所が観光客の爆発的人気を集めたことがある。北海道旅行がまるで外国旅行のようだった昔のことである。この話しを聞きながらこの場所を自動車で通り過ぎたことがあった。




6) 記念式典に欠席
三鷹の先にある東大の大型宿泊施設に泊っていた。十時開催の記念式典に出席しなければならない。なのに、起床が遅れ、中途半端な着替えのまま廊下をウロウロしていた。ちゃんと式典用に着替えなければいけないと自覚していたのに、それができない。何故なのか。前夜就寝が遅かったのか。前日、体を動かし過ぎて思わぬ疲労が出てしまったのか。何か理由があったのだと自分で納得していた。そこに先輩のKさんがやってきて、「そういうところがあんたらしいが、これでは駄目になるよ」といってくれた。

東大の式典は何なのか不明だが、各国の大使、公使を含む外交団も出席する。彼らはすでに、専用のバスでこの宿泊施設から会場に向けて出発したらしい。百人にのぼる人数だったという。費用は無視してタクシーで高速をとばせば間に合うはずだが、どうしても決心がつかなかった。

施設のなかをうろついていると、女性の団体が大食堂横の廊下を占拠していた。自分たちのやることに熱中していてその振舞いは傍若無人であった。きらびやかな衣装に身を包んで踊りの振りを確認している。何故このようなことをここでしているのか不思議であったが、とにかくそこを通り過ぎなければならない。周りかまわず振り回される手の動きを警戒しながら、身を低くして通り過ぎた。その先の赤い絨毯が敷き詰められている階段を降りたところで、さっきのKさんの助言をもらったのだと思い出していた。

私は仕事で人に会うときいつも気分が沈む。やはり人と会うのが苦手、特に多数の人に向うのが好きでなかったらしい。でもいつものことだからと気にしないようにしていた。また、そこで出会う懐しい人たち、愉快な人たちを思い浮かべて自分を励ましていた。ここにあるように自分たちのやりたいことに熱中している、(おそらく中年の)おばちゃんたち、それに踊りは絶対にフラダンスだったと思う。このような人たちのほうが記念式典より面白いというのは本音であった。




7) 職場の温泉旅行
職場の温泉旅行の夢を見た。同僚のT氏と同室だった。そこに同じく同僚のN氏が顔をのぞかせた。囲碁でもどうかということだったが、私もT氏も囲碁はやらない。それで残念がって私に話しかけてきた。これは温泉旅館の一室のことである。他に同僚あわせて十数人が宿泊していたはずである。

そこから尾籠な話しだが尿意のこととなる。トイレはどこかと私は気にしていた。ここは日本旅館である。長い板張りの廊下をうろついていたようである。他の団体も多数宿泊していた。ところが襖で区切られているものの、あまりプライバシーが守られる環境ではない。宿泊客もそれをたいして気にしていない。トイレを探しているうちに、そんな様子に気がついたので、ごく気軽に、「トイレはどこですかねぇ」と尋ねてみた。「下にしかないね」という返事が返ってきた。ここは二階である。下の玄関のほうに降りてゆかなければならないのかとやや気分が重くなった。

いつしか夫婦者が泊っている部屋を通り過ぎていた。そこに母に似た女性と相手の男性がいた。私はあまり違和感を感じることもなく、むしろ当然のことのように慣れ慣れしく挨拶をした。また別の宿泊客の部屋も通り抜けた。そこには中学校時代の友だちが煙草を喫っていた。

これらの部屋の構造である。部屋は外気からはただ一枚のガラス戸によって守られている。寒気が容赦なく侵入してくる。立て付けも悪い。朝、窓を開けようとすると、ガタピシと悲鳴をあげることだろう。といってもまだ夜中である。外は真っ暗である。建物は庭で囲まれている。敷地は生垣で囲まれ、そこから街区に続いている。騒音がまったく聞こえない。夢だからである。夜の闇のなかをタクシーが通り過ぎてゆく。そのライトが木造モルタル造りの家並みを浮かび上がらせる。このあたりの展開もいいかげんと思うが、数人の警官が交通整理に立っていた。赤色の警報灯が良く見える。

そこで私は、トイレはどこだと探していた。それと同時に用事も済まないのに、玄関はどうなっているのだろうかと考えていた。旅館の玄関はもう閉められている。その引き戸をガタピシと音をたてながら開けて外に出たのだった。たしか閉められたはずである。警官もいる外に出てトイレはどうするのかと考えた。公園にでも行かなければ用はたせないだろう。

思考が停滞し迷走する。旅館の部屋は庭に面している。窓の下には草花が植えられている。それに隠れて用をたせばよい。目立たないだろう。変な話しであるが先ほど、トイレの質問に答えてくれた男性が登場した。「そうですね。それがいいですね」という。私はここが一番良い場所である。ここで用をたそうと思っていた。庭をうろついて、また考えが変った。

道路の側溝には排水用鋳鉄覆いが付設されていた。そこが良い。もともと排水用だから目的もなじむ。他の人にも迷惑はかからないと勝手なこと考える。見られなければ良い。それでは立木の陰を探し、その根元で用をたそう。また考えが変る。庭で探そう。随所に適所がある。警官に注意されないだけ外より安心だ。外から明りの点灯した部屋が見えた。中にS氏がいる。うつ向きかげんの姿勢でじっと何やらにらんでいる。きっと囲碁の碁盤だろう。

また不安がおそってきた。私は外に裸足で出たようだ。足裏に砂粒が食い込む痛感が伝わってきた。それでも割合平気で歩き回っていたのだから不思議だ。しかし、土足で部屋に上がるのはまずかろう。どこかで足を拭く必要がある。雑巾、箒はどこか。さらに私はどうして外に出たのか自信がなくなってきた。本当に戻れるのだろうかと思った。出るときには少し不安があったのだが大丈夫だろうと思ったはずだ。同僚たちは当然のごとく部屋にいる。彼らとどこかが違うと思いながら、さあどうしようかと考えていた。

この夢は長々しい。ここでの私はくよくよし、たよりなげである。尿意はやらねばならないことをやっていないことの象徴である。現実には起床してトイレで用をたせば解決である。しかし夢のなかではずっと引きづっている。不安への対処である。迷う。後戻りする。他人の目を気にする。ささいなことを気にする。平穏な他人の様子を羨む。夢のなかとはいえ、小心翼翼としていて、恥かしい。現実の自分はもうすこし気丈に振る舞っていると思っていた。

さてここで、どのようにしてこんなことを記録したかを説明する。夢は自分の世界である。どんなものかを、しっかりしりたいと思った。それで一年間くらい、見た夢を起床直後にノートに記録することにした。ずっとやってると、上手になる。それほど困難ではない。通常、音、色はついている。形がなく、音がなく、気分だけの夢もある。これは記録が困難である。やはり楽しい夢、綺麗な夢をみたい。記録したいと思う。続けていると夢の中で記録することが気になっている。ちょっと変な感じがする。一年経過して、もういいだろうという気持になった。で、やめた。




8) 国際会議のパネリスト
経団連(日本経済団体連合会)で開催される国際会議に参加した。指名されパネリストとして出席することとなった。演壇に立って発言しよとしていた。そこに宅急便の包みが送られてきた。パネリスト用の机の裏側に置かれた。上司が私のことを心配して配慮してくれたらしい。なかには百円グッズといった品物が満杯だった。パネリストの席と議長の席を間違えてしまった。何故そうなったのかと考えながら、うつむきかげんで移動した。自分の席は端にあった。開会式の直前のことだった。

昼休みに食事に出た。そこで街の一角に生ゴミの一つであるキャベツを分別収集する場所を見つけた。場所全体の基調色が緑である。そこに掲示があった。環境保護について市民の理解と協力を呼びかける内容だった。これは経団連会長などが発起人となって始めたものという。これは会議の席上、議長から紹介があったことのようだ。こんな繁華な場所に小さいとはいえ家一軒分の広さがよく確保できたものだと感心した。

街を散策して腕時計を見て驚いた。午後の会議は一時から始まる。もう十五分しかない。そこで慌てだした。実はこのあたりの建物は同じような高層で個性がない。どの建物だったのか確信がまったくない。時間には間に合わない予感がしてきた。こんなことではせっかく私を推薦してくれた議長に失礼にあたる。その他のパネリストの皆さんにも迷惑をかける。二度と私を推薦してくれないだろう、などと不安がよぎる。

焦って通行人に尋ねたが良く分らない。適当に見当をつけて歩いていると色々なことに出会う。まず中国人高校生五、六人。彼らと一緒の男、その背広の服の端は泥まみれだった。その男は高校生の一人に襟首をつかまえられて吊るし上げられていた。そして「好意でやったのに、こんなひどい目に会うなら、やらなければよかった」と文句をいっていた。

さらに青信号を待つ間、歩道に立っているとタクシーが一台私の前を通り過ぎていった。それはまるで一昔前の米国車である。車高が低く、重たそうで角ばっている。形状がそうなのに日本の中型車にも及ばない大きさである。まるで子供用玩具の車だった。それが道路の凸凹に応じてひょうきんに飛び跳ねて通り過ぎた。

有楽町のビックカメラ店がある広場の横断歩道にいるのに気がついた。たくさんの人が行き来するなかで、何故こんなことを心配しているのか、自分のことを棚に上げてその責任の所在を捜していた。要するにこれは夢である。だから無責任で脳天気なのだ。本当の場合はもっと慎重な行動をとる。午後の開始時間をまったく意識しないて呑気に街中をうろつくことはない。そう自分を納得させていた。

これは細部の記憶が残っている夢である。おっかけていて面白い。事件が連続して継起し、それなりの連続性はあるが紆余曲折が激しい。さらに時々、突飛な展開が挟まる。しかし夢のなかにいるときは、こんな馬鹿なこととはほとんど思わない。当然のこととして自然に流れてゆく。最後に総括して冷静な批評を行なっている。目覚める直前である。これは夢に含めてよいものなのか。

この会議は何をテーマとしたのだろうか。キャベツのことから環境問題らしい。私には一般的関心以上のものはなかった。しかし夢では今後の推薦があるかどうかを気にしている。何かの専門分野をもって世の中に立つ。この夢は漠然と私の願望を示しているのかもしれない。




9) 猫と自動車
自動車のなかに猫がはいってきた。蛇かと思った。で、ぞうっとしたが、そうでない。ほっとした。左の肘の下から、背広に移った。その布地をとおして実に生々し接触感があった。こいつを外に出そうと運転席の同僚K氏がいった。そこでつかまえようとした。左手、私が座っているほう、その窓枠から出そうとした。しかし必死になった猫は窓わくにしがみついてなかなか出すことができない。それでも尻尾をつかみ、やっと放り出した。さあ出発だという気分になった。そのとき私は乗客、K氏は運転手であった。どこに行くのか不明だが、仕事が終って帰路につくところという感じであった。

席に座ってくださいという声が聞こえた。これから本格的に速度を上げて高速運転に移るという。高速道路に入り、速度が上がった。前方に車が見えた。これは高速道路であるのに、向こうからやって来る車を避けながら進んでいる気がした。またすこし速度を上げた。様子に変化はないと思っていると、突然、暗闇に入った。大型トレーラーの車の下だった。銀色の天井、その前方上方に赤色警告灯が点灯していた。まるで信号灯のようだった。K氏が解説してくれる。そのときは納得したが、今はこんなことができるようになったのだと感心していた。

今思うとおかしいが、とにかく、大きな空間部分に別の車を抱え込んで、搬送するこんな専用車があるのだと思った。たしかに両側に車を把持する大きな爪状のものが付設されていた。この部分が車を抱え込んでいないとこんな大きな空間となる。他の車が通り抜けられる。そのとおり我々の車も抜け出して、外が明るくなった。

私の他の人との関係は極めて薄い。この夢のように猫が体の周りをはいずりまわるような生々し感覚、それを二人で外に出すという親密感はまず生じない。考えてみると、K氏の仕事にたいする姿勢は極めてまともで、信頼できた。そのことを私が好きであったことは間違いない。そんなことがここに反映しているのかもしれない。




10) 学校のこと
私は学校が嫌いである。だから学校の夢を見てとても嫌な気分になった。というより不愉快でしようがなかった。腹が立った。自分がこれほど学校が嫌いだったとは、長く気がつかなかった。随分我慢してきたのだと思う。そうすると自分がかわいそうで涙が出そうになった。こう記録されているので、このままにしておく。大袈裟な気がするがこのときは本当にこんな気持になったのだろう。

卒業式終了後の場面だった。一生懸命、靴を探していた。下駄箱にあるはずなのにない。周囲を見る。もう卒業生たちは帰ったのかもしれない。一、二年生たちばかりが残っていた。母親たちもいた。後片付けをやっていたのかもしれない。下履きのスリッパを揃え、細々した荷物を整理していた。

こう見ると私は式に出なかったのかもしれない。学校は靴を脱いで上履きに履き替えて、教室に入る。そして、下校時にまた靴に履き替える。いつも同じ場所で履き替えた。出口の手前に部屋があり、そこに靴箱が何列も並んでいる。何人もの靴を収容する箱がおそらく学級単位で設けられている。そこで靴を履くことになる。靴箱と靴箱が作る暗い通路を抜けると外に出る。明るくなったなと思う。

すると、今日から電車、もしかしたら、バスの運行に変更があったことに気がついた。駅が変ったのか、バスの巡回路が変ったのかもしれない。私はそれも困ったことだと思いつつ、自分の靴がないのでしようがなく、下駄を履いていた。ところがこれは他人のものだったからうまく足に合わない。鼻緒が足指にひっかからない。そんなイライラした気分のときに、皆んなが帰ってしまった。自分はその後から帰らねばならない。何とも不幸だと思いつつ進むと、足先はぬかるみで歩行が困難となった。おそらく下駄は泥だらけであろう。見るのも嫌になって、見なかった。すると前方に肌の白い、少し酒気を帯びたせいで、綺麗な桃色を呈している男が見えた。

どうやら外務省のA氏らしい。ステッキを突いて踊っていた。夢のなかでは、普段よりスマートに見えた。足も長く腹も出ていなかった。前方に三々五々、人々が進んでいる。のろのろとした歩みである。駅のほうに向かうのだと思う。誰も彼も顔が薄汚れて見えた。ホームレスの人が何ヶ月も風呂に入らないでいる。そうすると垢まみれになって黒光りをしているように見える。そんな光景であった。そこでこの人たちは神戸の地震の被災者の人たちかもしれないと思っていた。

次に話しが散発的になる。K教授と大学の広報誌に登場した学生とが話している。卒業生らしい。褒められていた。その後ろに私がいた。私はこの二人と泥田上に架けられた木製の橋上で出会った。おとなしく後に続いて、建物の入り口に入った。これが卒業式会場への入り口だったのだろう。そのとき、卒業生としてここにいると思っていたら、どうやら大学の職員になっていると気がついた。何という変な設定だろうとこの夢が怨めしくなった。どうしてこんな変なことばかりが生じるのか。私が悪いのかと自らを呪った。この後は不愉快な感情ばかりで場面が浮んでこない。これで止める。

靴がなくなって、帰宅に困っている。先に行っ友人に追いつこうとして追いつけない、出席すべき式に遅れてしまった、などは私の夢の典型である。その後に話しがだんだんとずれてゆき最後の結末はだらしがない。これも典型的展開である。

学校が嫌いであるとある。タレントのタモリが学校に行くのが楽しくてしようがなかったという。家で起きたこと、テレビで見たことを教室で友だちに話してやろうと思ってわくわくしたそうである。私はこんな気持は絶対になかった。夢の総括である。嫌いだったのを改めて確認したという。大袈裟に感じられるかもしれない。自分の気持を反省している部分は本当に夢なのかと思う。他の人のはどうなのか。でも、これも含めて私の奇妙な夢である。ただし学校というとき大学は含めていない。大学は学校と違う解放感を感じた。むしろ好きだった。

さて学校のことである。小学校時代。私のクラスの生徒のことが新聞に掲載された。学校を無断欠席して動物園に遊びにいって、そこの動物、熊だったと思うが、それに指を齧られたというものである。私たちの校長先生は生徒会活動に非常に熱心だった。突然授業が終りになって私たちは様子の分らないまま家に帰らされ、周囲の清掃活動をやった。奉仕活動とかいわれたと思う。どうしてこのようなことを授業を中断して行なうのだろうかと思っていた。

この校長が非常に怒った。朝礼の台上にこの生徒を上げて先生自ら事件の顛末を説明をするとともにこの生徒を叱りつけた。この生徒は校長の横でうすら笑いを浮かべて、へこたれた風に見えなかった。私はこの校長の奉仕活動への熱情とこの生徒非難の熱情は同じものだと感じていた。私が学校がきらいなのは、大人への不信、不安に根差すだろう。小学校のころは、もっと感情的、生理的なものだった。

靴の話しは高校のことである。靴がないというのは上履きに履き替えることから生じる。忘れれないように、あるいは忘れて困ったとかいう煩わしい不愉快な気持が夢のなかでよみがえってきたのだろう。靴を履き替える必要がない大学に解放感を感じた。確かにこのことが関係している。

学校の規則が嫌いであった。集団生活に規則が必要なのは分るがそれは所詮便宜のための約束事である。靴を脱がないで上がったとしてどれほどのことがあるのか、まさか学校の建物が崩壊するわけでもあるまい。その他、細々と規則があったが、まるで守ることが理想の人格形成に必須であるかのごとく、あがめたてまつる。それは、大人の事情というのかもしれない。こんなことをわざわざここに書き記すことは大人気ないことだろう。上履きがないなら、友だちに借りるか、他人のを失敬するか、上手に立ち回って切り抜ければよい。まともにそんな建前とぶつかることもない、ということになるのかもしれない。

こんな声が聞こえてきそうだから、夢を見て不愉快でたまらない気持になったのであろう。昼間の私はそんな私の生理的な嫌悪感をけっして表に現わすことはなかったのだろう。だから幼なく傷つきやすかった自分をかわいそうに思ったのだろう。




11) 国際会議
国際会議に遅れそうになった。同僚のSさんの宿舎の玄関に立って戸を叩いた。そのとき腕時計を見て驚いた。会議が始まる十二時だった。慌てて家に戻った。取るものも取り敢えず着替えをしようとした。そこで家の中にある掛け時計を見たら、九時少し前だった。腕時計も十一時過ぎに変わっていた。一体、今は何時か、職場に連絡するかなどと考えつつ、靴下を履いていた。靴下が妙に暖かかったので脱ごうとした。良く見ると何枚も重なっている。それを履こうとしていたのだった。薄手のもの、厚手のもの、膝頭まであるもの、色もそれぞれ違っている。どうしようかと考えていた。

これも私の夢の典型である。時間に遅れている、いっしょにいるべき同僚に遅れている。自分は取り残されているという孤立感が漂う。何とかしようとする気持はある。何とかなりそうだとう気持もしてくる。ところが変なことが起きる。もういいか、やめようかなという気持が支配的になる。不安を抱えながら何もするでもなく事態が流れてゆく。

私はお洒落には関心がない。外見に異様な関心を持たれて仕事に差し支えが生じるのが嫌なので、さっぱりとした服装をするように気を付けている。靴下である。昔のことはおいて、靴下の色は一貫して黒である。面倒だからということもあったが、それ以外探したことはない。季節に合わせて厚さを考慮する。真夏は女性用のストッキングと同じ薄手のものである。黒に決めてから良く見ると材質の差かもしれないが、微妙に違う。まったく同じ黒の靴下は手に入らない。長さは膝の下まで、ふくらはぎの膨らみを包み込んでずり落ちない長さのものにしている。ときには見つからないこともある。ズボン、上着、靴、その場の状況により靴下の選択が変ることもあって良いはずだが、まったく知らぬ顔をすることにしている。

だからこの夢のように靴下の選択に迷う現実はなかったと思う。これは現実に馴染めなかった自分の姿が反映していたものと思う。




12) 家に帰る
友だちの自動車に乗せてもらって家に帰ろうとしていた。村を出ようとしたとき、良く分らないがこのあたりの山の上に登って行く。非常に急峻な道である。もしこのまま登って行ったら、自動車の前が持ち上がり、それでも無理に登ろうとするとひっくり返るように思った。友だちは何もいわずに道を進んでいく。私は慌ててどこか途中で食事をしようと誘った。そうすれば乗せてもらったお礼にもなるし、安全な道を選ばせる手立ても見つかるだろうと考えた。

二人で廃屋の屋根裏に登った。長い間、人が立ち入ったことがないので埃が各所に積っていた。周囲を見回したが探し物は見つからない。床にいくつもの穴が見つかった。そこコウモリが潜んでいた。物音に気づいて顔を出してきた。割合可愛い顔をしている。飛びつかれるのが嫌なので手にした紐で脅してやろうと思い二、三度床を叩いたが効き目がなかった。

コウモリは超音波が聞こえるのだから、鞭で脅すと良いと友だちがいう。高速に振り回された鞭からは超音波が発生する。さらにいう。これに飛びつかれても怖くはないが、錐のような口ばしで腕を突つかれたら、それが腕に突き刺ささることある。そこから雑菌が入って化膿することもあると脅された。ここで何を探そうとしていたのかどうしても思い出せない。

家に帰ろうとしていたが最後は探し物の話しに転換している。何を探そうとしたのかも分らないまま終っている。一貫性がないというより、場当たり的で、状況に流されている。友だちの好意に応えようとしているのにそれは果されていないようだ。食事はどうなったのだろうか。

これはアニメの場面の話しである。宮崎駿の「となりのトトロ」に登場する猫バスである。このバスはトトロを乗せて山向うに行ってしまうが、猫目が発する照明が光の道を作る。ひっくり返りそうな山道を登るときは空遠くまで道が走り、それが揺れる。山を下るとたちまち消えて暗闇となる。夢のひっくり返りそうな自動車行には楽しい雰囲気があった。

屋根裏部屋の話しは、職場の旅行と関連がある。温泉に旅行したとき、オプションの行動ではなるべく女性陣の行きそうなとこに参加するつもりだったが、温泉町の遊園地だというので、断念して町の散策のほうに参加した。すると地味な若い男と中年の男性と私というまったく面白くもないグループとなった。これは他からあまり誘われない連中が残って仕方なく参加したという風だった。

そこで、散策も飽きたころに屋根裏部屋のようなまあ洒落た喫茶店に入った。そこで地味にコーヒーを飲んだ。冴えない旅行の記憶である。それがコウモリの話しに展開している。ここで唐突にまた科学的知見が開陳されている。これは私の子供時代の記憶にたどり着く。私は子どもたちが集まったおり、自分が読んだ子どもの科学とかいう科学雑誌から面白そうなトピックを得意になって披露していた。自然にそんな友だちも周囲に集まるのでこのような会話が生まれても不自然ではない。

全体に、何かやるべきことがあるのに、それがあいまいなまま過ぎていくという構造である。




13) 名張の大学
これは名古屋に住んでいる名士から聞いた話し、あるいは、新聞の囲み記事から知った話しというもってまわった構造の夢である。

名古屋の大学に入ったが手続きにもたついた。そのため希望の授業が受けられなくなった。はたと困ったが、結局、思い切って三重県の名張にある学部の授業を受けることとした。そこは不人気で、大学としてはその人気挽回に梃入れを模索していた。そこで福沢諭吉が派遣された。

キャンパスで出会ったら向こうから気軽に挨拶してくれた。見ていると墨黒々と看板に学部名を書きあげた。そこを受講することにした。諭吉の授業は非常に面白かった。眠気を催すひまもない。二時間があっという間に過ぎた。一年間の最後のとき、失礼かもしれないが手に紙幣を数枚掲げて皆んなの拍手のなか、それを手渡した。

諭吉が文句をいったかもしれないが、それは受講生全部の正直な気持であった。後年、名古屋の駅の近くに文化活動の拠点施設を建設した。そこに落語家の団体が総会を開催する話しが持ちあがった。新設の施設に注目したのだろう。自分はその落語団体で何かの役員をしていたので、早速そこを利用するよう推薦した、という夢である。

これは奇妙な夢らし夢である。楽しい。登場人物はやや異様だがそれなりに縁がある。地名も同じである。物語はスムーズに進むが、良く見るとどれもずれて進む。なのに最後まで無理がない。これ以上の分析は止める。




14) 岩登、蜂、金魚
家に帰ろうとして崖の上の道を歩いていた。すると知人が崖の側面を巧みにバランスをとって登ってくるのに出会った。岩盤を削きとって出来た崖である。切り立っていればとても登るなどはできない。そう思って見ると急斜面だがピラミッドのような斜面である。人間が登れるくらいのものである。いやそれより急斜面であったが、そこに生じた断層の食い違いが、足の幅だけの一筋の道となって向こうの下からこちら側の上に向って走っていた。登山用ロープとかピッケルなどの助けなしに、まったくの手ぶら徒歩で上手に知人が登ってきたというわけである。

そこで知人に話を聞いた。一気に登りたい、また下りもそうして下りたいという。絶対に立ち止まることなく昇降するのだという。そう思ってこの崖登りに挑戦したという。私がいる、道の高さまで登ってきたので、これから下りに取りかかるところであった。さてこれは難しいと立ち止まって考え込んだところである。そこに別の知人がまた登って来た。この人のほうが技術は優れていた、下りもまったく手ぶらでそのまま巧みにバランスをとって下っていった。

場面が変る。家で寝ていた。もう起きる時間のようだったが、天井にプロジェクターが投影する映像が写っていた。雑誌の付録に家庭で楽しめるプラネットタリウムがっあった。これを室内で試したことがある。この映像を見ている感覚だった。どうやら何かのCMの映像だった。あれは何だと私が家人に尋ねている。何度も尋ねたが返事がない。そこにものすごく大きい蜂が飛んで来て大騒ぎになった。私は寝たまま動かないようにした。こうするのが一番安全だと思って我慢してそうした。あの映像は蜂のイラストであり、これは作業の途中で蜂が飛び出すかもしれないという警告の映像であることが分った。

また場面が変った。夜店などで売られているブリキ製の金魚の玩具のような形の、しかし色は青黒い魚らしいものが部屋の畳のうえにこちょこちょと動き回っていた。驚いて母にこれは何かと尋ねた。次の間にも同じものがいた。さらに何かよく分らないが小さなものもこのあたりにいた。しかし良く思い出せない。

場面は三つあるが一つづきなものである。全体として何を意味するのか良く分らない。もっと思い出せれば、背後の脈絡を説明できるかもしれない。というのは夢を見ているときには充分納得して見ていた。だから関連があったはずである。懐しいという気持がどの場面にも漂っている。それは、どこかで見たことがある。類似の経験があるということである。だから登場する知人は仕事仲間の一人だろう。登山経験のある人なのだろう。母はもっと若かったころの母である。当然私は幼なかった。付録のプラネタリウムは私が息子に見せていた。蜂は雀蜂が騒がれたころである。時代が新旧入り混じっているが、どれも懐しい。

帰る家も懐かしいが、崖の上の家はまったく経験がない。しかし懐しい。だから子どものころに夕方心細い気持で帰って行く。その気持が含まれた場面であろう。そこに知人が突然登場して、わけの分らない発言をする。その後の場面への展開はどう説明してよいのか困る。驚いて、家人や母に助けを求め、最後は気持の悪い場面で終る。




15) やまヒル
不気味で気持の悪い夢である。どこかの旅館二階か民家の二階、あるいは誰かの家に下宿していたのかもしれない。見慣れた部屋でないようだ。旅館だったようだ。十畳もありそうな畳の間に夜だったが、どうにも寝られず、中途半端な気分で周囲を見渡していた。布団が敷かれていた。一人分にしては広過ぎる空間だった。その布団カバーはさっぱりとした洗いざらしの気持の良いものだった。

そこでどうしようとしたのか。実は外は風雨が強く騒がしかった。どうやら災害の危険が迫まっている。寸前の雰囲気が漂っていた。だから大型の台風でも接近していたのだろう。外で大変なことが起きているのではないかと心配になってきた。それがどんどん近づいてきている。その綻びが内に侵入してくる。屋根瓦の一部が壊れて、雨漏りが始まっているようだ。点検しなければいけない。立ち上がり下に降りようとする。階段前の踊り場の壁を見た。濡れて光っていた。いやな気分があからさまになった。そしてもっといやなものを見た。やまヒルだった。壁に多数へばりついていた。そして動めいている。そこから慌てて後退りして、部屋にいった。布団の下に何かがいる。思わず見つめるとやまヒルの大群だった。白いカバーの下にいた。くろっぽく見えるものが次々に表に出てきて、形がはっきりとした。

実に気持が悪い。しかし誰かを呼ぼうとするのも、外に飛び出そというのも無駄だった。あきらめ、投げやりな気持があった。どうも何かをしたという記憶がない。ただしようがないとしてそこにいた。

たしかに気持の悪い、いやな夢である。余りに印象的なのでここに残した。台風の記憶はいくつかある。強風で屋根の瓦が巻き上げられ浮き上がる。浮き上がった瓦の姿が強風の移動とともに次々と移動する。まるで波の頂上が移動してゆくようだった。私が育った家の縫製工場には母屋の横に駐車スペースが設けられていた。そこで荷物の積み降ろしもやった。台風の襲来で小くなっていた私の前でその天井のスレートが浮き上がった。天井の支柱がそれに引きずられて浮き上がった。どうすることもできないでいた私の側を抜けて兄が飛び出した。下から棒でそのスレートを突き破った。これで風が通り抜けて、被害はそれだけですんだ。

私は自然にごく近い、山奥の職場にいたことがある。この夢の原因は間違いなくここにある。宿舎の二階で寝ていたときである。何かが枕カバーの下で動く。変だなと思っていると、髪の毛に何かがあたる。思わず手で払うと、それは百足だった。それで思い出した。仲間の噂話である。ある人は寝るとき布団の周囲にぐるっと両面テープを貼りつけておく。これで百足が這い上がるのを防げるという。また、長靴などを履くときは必ずまず、逆にして、中を振るってからする。それを怠って足を入れた人がいる。百足に刺された足が腫れて、ぬけなくなったという。入り口の玄関の扉を開けるときは、まず扉を押して、上から落ちてくるものがないか確かめてからにする。これは部下の一人の話しである。こうしてやれ安心と外に一歩踏み出したら、そこに蝮がとくろを巻いて待ち構えていたそうである。

私も含めこれらの人たちは都会育ちである。こんな経験はまったく初めである。私は百足に髪の毛を触わられただけであったが、このような恐怖と遭遇する可能性が常にあった。それがこんな形で夢に出る。




16) 二つの容器
兄と話をしていた。長短二種の暗黒色の容器を前に二人でそれぞれ分担して危険がないか確かめようとしていた。そこに至る経緯は分らない。でもそれが必要だと納得していた。兄は長いほう、私は短いほうを持ち帰ることにした。私のは小球形の容器だった。そこには危険なものが潜んでいる。実は毒蛇だと確信していたがそれをもって、兄と別れた。帰って初めて中をのぞくことになった。丸い容器を開けると、うつぼが出て来た。気持が悪かった。予想していたのは灰白色だったのに、黄色地に緑色の縞模様のけばけばしい姿であった。そして胴体の下部、地面に接するあたりに移動の便に必要なのであろう波形をした突起が連なっていた。

この後の経緯が分らないが、うつぼは蛇に変った。ペットボトルにこの蛇が入っていった。それがどうしたことか、容器に入ったままで移動してゆく。ここで私はこれを殺す決心をしていた。近くで発見した使い込んで摩耗の激しい鍬を取り上げ、それで殴りつけた。ペットボトルの上からとういう間接的方法によるから、たいして影響も受けず、依然として移動してゆく。少々焦って再度殴りつけた。今度は大いに影響があったようだ。隣家に蛇は逃げこんだ。

ここは元々住んでいた長屋から引越した先の、その隣家である。二つの土地は広さ、構造が双子のように同じであった。表側に住居、その裏に空き地があり、植物が植えられていた。たしか百坪だから町中の家としては広いものだった。隣家は裏側に花、梨、枇杷、柿のような果実のなる樹木、へちま、かぼちゃ、きゅうりといった野菜類を栽培していた。私のところもほぼおなじ状況であったが、新参者の植栽よりはるかに充実していた。ほとんど隣とは交流がなかったと思う。何故蛇が逃げ込んだのか分らない。笑顔の隣人に迎えられ裏に案内してもらった。そこで蛇は死んでいた。その死骸を引き取ったが、頭部は隣家に残されたままである。従ってこちらのほうにあるのは胴体部分だけである。その経緯は不明だが、肉が刮ぎ落された骨の筋だけが残った。

これは気味の悪い話しに入るだろう。何かミステリアスで昂奮を誘う部分がある。面白い。兄とは特に成人してからの交流は少なかった。何故、二人で分担して、しかも持ち帰るといいつつ、兄も住んでいた家なのに私しかいなくなったのか分らない。ただ蛇については心当りがある。マレーシアの蛇寺に飼育されているという毒蛇と同じ色合いであった。これは観光客に人気のある寺で、おそらく読経とともに焚かれるお香の臭いに酔ってまるで置物のように蛇たちは動かない。思いもかけない手近にいるので気がついてぎょっとするものである。隣家から猫が入り込んだことがあるが、蛇の記憶はない。もちろんこちらからもない。

面白い夢だと思う。しかし、どうも意味がつかめない。




17) 蝦蟇の大群
蝦蟇(ひきがえる)が畳の広間に一面に拡がっていた。奥のほうまで蝦蟇がうごめいて拡がっている。水気を含んだ皮膚が天井の裸電球の光を反射して、さざ波のように連なっている。畳の間は両側、奥がベニヤ板の粗末な壁に囲まれ空間だった。アメリカ大リーグで活躍していた当時の新庄がやってきた。打撃の説明を始めた。具体的に解説するという。このあたりの球を打てると良いが、このあたりではまだまだだと身振り手振りをまじえて熱心に説明する。蝦蟇が畳にまだら模様で拡がっていた。ここでは駄目、奥に近い蝦蟇の一群を指差してあそこぐらいだと説明する。その理由は分らないが、説得力があった。

次に往年の大投手金田が登場した。久し振りの投球を見せてくれた。新庄に説教をしている。この後、蝦蟇の見本を見せて、このように処理しろと説明する。蝦蟇は小さいのから大きいのまで様々にあった。私はそれをどうすれば良いのか考えていた。たたけば良い、たたいて、たたいて、また、たたいた。何故たたくのが良いのか分らない。それでもたたいていた。

馬鹿馬鹿しいが面白い。あまり深く考えてもしようがないと思うが、三ついう。単身赴任で九州に勤務していた。宿舎が田んぼのなかにあった。夏、夕日が落る直前は部屋がまるでサウナのように熱かった。帰宅すると部屋を開放する。やがて少し涼しくなる。蛙の鳴き声が聞こえてくる。窓を開けていると虫がやってくる。アルミサッシの引き戸を開けるが、網戸はそのままにしておく。良く見ると蛙が戸の端にへばりついている。これは虫をねらっているらしい。シュレーゲルアオガエルである。あるとき早朝に出たので布団をたたまず、そのままで出た。帰宅して、布団をめくったらその下に数匹、シュレーゲルアオガエルがもぐりこんだまま死んでいた。

新庄が渡米したとき、イチローも渡米した。イチローは日本の野球界においてタイプが違うが王に並ぶ強打者である。私は大リーグで彼が通用するのか、大丈夫か心配でしようがなかった。イチローは日本人のもつ優れた運動能力を世界に示した。私は本拠地シアトルの球場で見た。守備位置のライトスタンドであった。その当時、センターには強肩、俊足のキャメロンとい野手がいた。また一塁は長身、一塁線をぜったい抜かれないという堅守のオルルドという野手である。イチローはレーザビームで既に高い守備能力が定評となっていた。これに比べるとレフトは見劣りがした。他の外野手がカバーすることになる。イチローはセンターとライトの中間で守備していた。

子どものころ野球選手が憧れの的だった。私たちはゴムマリと木や竹の棒で野球をした。路地や車のこない道で三角ベースを作って遊んだ。中学生のとき補習塾に通っていた。勉強が始まる前に私たちはこの野球をして遊んだ。そのうちこの狭さに満足できなくなって、近くの学校の空き地に目をつけた。塀を乗り越えてこの空き地で仲間と遊んだ。うまく打てるとゴムマリでも遠くに飛ぶ。どこにも邪魔されずに飛んでゆくボールは本当のホームランの喜びを与えてくれた。

テッド・ウィリアムスの自叙伝を読んだことがある。彼は子ども時代にソフトボールを投げて友だちと遊んだという。これは名前はソフトだが少しも柔らかくない。革製である。当時の私たちにはまったく手に入らないものだった。それを投げるとき、工夫すると変化球が自由に投げられたという。つまり球を離す瞬間に中指に力を入れると、カーブ、人差し指に力を入れるとシュートである。楽しくてしようがなかった。いつまでも遊んでいたという。ところで私たちの楽しい野球は数回続いた後、その学校の先生に見つかってやめさせられた。




18) 下町の職場旅行
私の生家は下町で零細な縫製工場を営んでいた。ここで定期的に職場の皆んなが参加する旅行があった。この夢はこの旅行に参加した夢である。私鉄の小さな駅から出発することとなっている。職場の人たちも集まっていた。早く出発しないかなという声が出そうな雰囲気だった。

私は退屈で居眠りを始めた。それがこうじて場面が変ってゆく。病院の待合室でむやみに待たされている気分であった。何かを忘れている。それが気になってしようがなくなった。目を開けて周りを見渡すと高校時代の同級生のS君がいる。洒落者の彼はハイネックの黒いセーターを着ていた。やたらに胸をはって気取って立っていた。

私はまだ電車が出ないのかと周りに確認した。そうだという。これを聞いているうちにやはり一度家に戻らねばいけないという気になった。プラットホームから階段を降りて改札口に向かおうとした。そこで右側の出口は一般向でない駅員専用であるらしい。駅員が立っていない。そこで左に進むこととした。その時、時間が気になりだした。

夕方の六時を回っている。これでは目的地に着くのは夜になってしまう。戻るのが良いのか不安が生じた。しかしそのまま進む。その時、また時計を見ると、今度は七時を回っていた。時計が正確ではない。いったい何時なのか。知りたいような知りたくないようなどっちつかずの気分であった。結局知らないほうが安心と決めて、出口までやってきた。便所が右にあった。今度はズボンがずり落ちてきているのに気がついた。恥ずかしいので何とかしようと思ったが、そばを女の子が通る。しかたがなく便所に入ることにした。きちんとズボンを締めなおして出ると、また、さっきの女の子に出会った。くすくす笑っている。その後、家に戻ったのか分らないままこの夢は終わる。

生家の縫製工場のことである。まず四国から来てもらった若い女の子が五人から十人、中年の職人が一人、工場の雑用を担当する中年の女性が一人、ほかに賄いのおばさんが一人、これに父、母である。私や兄は時々手伝いというところである。

ほぼ毎年一度、近隣の行楽地に総勢十数名の規模で日帰りの旅行であった。そのとき彼らは普段の姿と違う姿を見せる。特に印象に残ったのは、酒に酔って上機嫌の職人さんの姿であった。気のいい下町の住人の典型であった。女性陣もきらびやかに見えた。父は自慢の写真機ニコンをもって盛んに写真を撮っていた。

山間の渓流を船で下るのが売り物の行楽地でのことである。私は酔っぱらいの酔態や女性の嬌声を避けて林の茂みを散策していた。どこからともなく花の甘い香りが漂ってきた。ふらふらとその辺りに向ってぎょっとした。蛇が数匹樹上の枝にしなだれ、落ちそうになっている。そのとき蛇も酔うのかと思った。

この夢には職場旅行の入り口しか記されていない。よそ行きの着飾った女の子たち、普段のラフな姿から改めた服装の職人さんやおばさん、それに父、母などがそこにいたはずである。夢のなかで私は少し浮き浮きとして大人のなかに混って電車を待っていたはずである。その雰囲気を伝えるために、旅行の様子を補足した。




19) サリンの恐怖
マイクを見せて某議員が議長を脅迫している。マイクは特殊な構造をもつようである。そこを通してくぐもったしゃべり声が聞こえてきた。議長は議員をたしなめていたが、ついにそのマイクを取り上げた。それは小振りのもので、声を拾う部分は半透明、薄茶のビニール状のものが被せられていた。触れてみると粘着性で柔らかであった。それを外すと金属の網目がむき出しとなった。議長が秘書に命じてマイクを捨てさせた。秘書が煉瓦造りの倉庫が並ぶあたりの道に思い切り良く放り投げた。それは空中で爆発音を発して砕け散った。そこから近くにいた人々の叫び声が聞こえてきた。びっくりして目を大きく見開いて一斉にこちらを見ている。やがて被害が明らかになった。顔面、手の甲の皮膚が桃色に変色している。そこに糜爛が現われた。私の手の甲にも桃色の糜爛が広がっている。

地下鉄サリン事件が発生したとき、私の勤務地は東京から離れていた。しかし週末には東京に戻ることとしていた。そのときこの地下鉄の路線を使った。この宗教の東京の拠点が渋谷の近くにあった。まだ事件が発生する前のことであるが恐る恐る見に行った。すでに問題となっていたので警察が装甲車を駐車させ、車両の進入を制限するバリケードを道路に何ヶ所も設置していた。




20) トイレの新築
両親が嬉しそうに新築の説明をしてくれた。壁に何かをぶらさげる必要ある。それが難しいという。それを兄が工夫してうまく作ってくれた。だから嬉しいという。トイレはベニヤ板に薄く塗装が施こしてある粗末なものだった。そこにタオルなどをぶら下げるため横長の釣手を付けたかったということだろう。そんなに嬉しいことなのかと思ったが、とにかく幸せそうな両親の様子であった。

私は、まず貧しい長屋で育った。そこから国道と運河に近い一軒家に引っ越した。そこは元はお好み焼き屋だった。やがて、そこに縫製工場と住居を新築した。その後、結婚した兄が住むための改装、妹が両親と住むための住居の新築と考えればずいぶん、家が変っていった。もちろん、零細企業の工場主である親父のやったことである。後のほうの改築、新築のころは私は家を出て別に暮していた。だから、ほとんど関知しなかった。そこで後から親父の話しを聞いたまでのことだった。

この話しは、もう別に暮していたころの改装、新築のことと、引越しに続く新築のことが混っている。

ベニヤ板のトイレの話には最初の新築に関連する思い出がある。縫製工場を経営していたから四国から女の子に来てもらっていた。彼女たちは同一の敷地内の平屋に住み込んでいたが食事は私たちが住む母屋の食堂でいっしょに食べていた。建て替えでは敷地の空きに仮設住宅を建てて、狭い畳の間で食事をすることになった。半年ほどだった。そこの便所はベニヤ板で囲まれていた粗末なものだった。臭いも強く、良い思い出はないと思っていた。しかし、これで思い出したのだけれど、狭い空間に寄り添って生活したことが何か嬉しく感じたことを覚えている。

台風が来襲した。そこで私は文鎮のようなものを糸に結び、柱の釘に吊るした。台風情報を聞きながら、風が強まるに応じてその重りがゆっくり揺れる。柱が垂直線からわずかにかしぐ。そのわずかな歪みが糸と線の食い違いに表われるのを見ていた。台風という大きな力が私たちの暮らしをゆさぶっている。それに耐えている私たちの姿を感じていたのだと思う。




21) 霞が関の異変
深夜、霞が関外務省建物の向いの道路側、公衆電話ブース内から外を見ている。多くの車が渋滞している。私はその車を監視していた。緩慢に流れる車列のなかに注意を惹くものがあった。すぐそれを待機の警官に知らせた。とたんに警官の一群が動き出した。私の仕事はそれだけで終った。集ってきた同僚に一生懸命に事態を説明していた。

これも外務省の向い、高層のビルの上部が光線を浴びて浮かび上がった。人々の注目を集めて場面が展開した。上のほうからスルスルと何本もの綱が下りてきた。阿弥陀籤の縦線のようだった。そこにホンダロボット型の装備をした五人の宇宙飛行士が吊り下げられていた。彼らは群集に向って何かを叫び手を振った。やがてスタートの合図があり、背中のロケットが噴射された。一斉に動き出した。すると整列が崩れ、二人が取り残され三人が元気良く上昇していった。

前半について、私の仕事にこのような緊迫した場面はない。中学生のころである。友だちが英語で書かれている赤と黄色の模様がある、長方形の薄い紙箱を示した。中から、注射液を入れるアンプル容器の一つを取り出した。その出所をいわない。私は彼の親戚の船員からもらったものだと思った。そのなかには、黄色の粉が入っていた。どんな経緯か忘れた。とにかく容器が割れた。中の粉がたちまち湿気を帯びて溶け出した。私たちは昂奮して、これを隠そうということになった。クラスの教室、前の黒板の上には、生徒の心得を示した額縁がかかっていた。私たちはこの後にこの箱を隠した。誰にもこのことはいわないと固く誓った。するといつのまにかそのことは私たちの間でも忘れられた。今でもあの後のことを思い出そうとするが残念ながら出てこない。このことがこの夢の背景にある。

ヨーロッパで開催されたオリンピックの開会式の一場面である。全身タイツ、スキンヘッドの男の集団が登場した。すべてが青づくめ、顔も青く塗ってある。青い壁の前、上から垂らされてロープにぶら下がり何やらロボットのような姿を演じている。夢の場面と似ている。私はややグロテスクで面白いが、この国では一般向ではない、アングラ演劇なら出てくるかもしれないなと思って見ていたが面白い。




22) 森総理が検品
アフリカ高原の爽やかな冷気が漂う某国が舞台である。複数の熱気球がゆるやかに浮上していった。繋ぎ止めようとして引き綱を延して手近な支柱に引っかけた。先端がフック状の短かい鉄柱だと思う。そこには電流が流れていた。引っかけられた綱がその先端を擦るごとに火花が飛散した。倉庫に何段もに積み上げられている段ボールの箱が崩れ、箱の角がへしゃげた箱が多数地面に散乱していた。これは熱気球の動きを止めようとした際に引き綱が暴走したためらしい。それらを屈み込んで調べていたのは、唐突なことだが森総理であった。笑顔でこちらを振り返って検品中であるといった。

二点いう。アフリカは酷熱の地というイメージがあるが、一年中冠雪の高山もある。避暑に適した高原もある。国際交流の仕事をしていたとき、JICA(青年海外協力隊)でアフリカに赴任の経験がある部下からいろいろ教えてもらった。次である。私の父は零細企業であるが縫製工場を営んでいた。大学生のころ製品を倉庫に納品するのを手伝った。大人の背の二、三倍もあるくらい段ボールが積み上げられていた。そこで検品を受けて納品を終えた。




23) 便所の話し
便所の夢を見た。汚ない。なのに見た。便所の用をたすところの構造物だが、もともと純和式だったのを改良した。その上に椅子状のものを積み上げ、しゃがまずに腰をかけて楽な姿勢でできるようになっていた。掃除をする便宜から、前に倒れる構造だった。その裏側を暴露して掃除を行なう。私はこれを定期的に行なっているので、あたりまえのように取り組んでいた。

そんな当然という日常の気持が流れるなかで、長柄の先に亀の子たわしがついた道具を手に持って、擦り落す作業を続けていた。裏側はステンレス製、銀色の肌がのぞき、それにふやけた黄土色の汚物が付着していた。その付着度合いが上下に段階を追うように変化していた。何故そうなるのか良く分らないが横線が走って、汚れの段階に応じて変化しているのが見てとれた。私は何でもきちんと整理されていないと気持が悪い。ここにも構造的理由でそうなっていると、その理由を見つけて、汚れが順次落ちてゆくことを納得していた。

それはともかく、臭いが嫌だった。嫌だなあと思いつつ清掃に取り組んでいた意識が強い。絶対に嫌な臭いがしたはずなのにどうもその記憶がよみがえらない。防毒マスクのようなもので防御していたのかもしれない。それでも臭っておかしくない。汚れは何ヶ所もあり一生懸命に掃除していた。しかし汚ればかりが記憶にあり、綺麗になったところは記憶にない。不公平な夢だった。

場面が変る。ベッドで考える。何か変なことをしたのではないかという不安感が漂っていた。それでいろいろ考えてみた。まるで夢のなかでまた夢を見てるような茫漠とした感がする。突然、しまった。掃除のあと水道の栓を止めるのを忘れた。すると脈絡もなく部屋中が水浸しになる。まるで湖の水面に浮んで寝ているような感覚となった。このままだとベッドまで濡れてしまう。それでは寝ていられない。そのはずなのにおかしなことにそのままじっとしている。不思議な不安感が漂う。それでもまだ動かない。何んてことだろう。そう思っても変らない。嫌な夢だなと思う。だからこれは夢なんだと自分を安心させ、このまま寝ていようと思った。

随分細部に拘った記録になっている。これはすこし尾籠な話しで申し訳ないが、私は朝方には常に尿意が強くなる。眠気が勝っているときにはそれを我慢して寝ている。そのせいか良く、起きる直前に見る夢は尿意に関連する夢、便所の夢を見る。すぐ起きて便所を済ませて記録に取り掛かると、記憶が新しいので描写が詳細になる。

私は寝小便をしたという記憶がない。だからどんなに便所の夢を見ていても大丈夫だと安心していられる。しかし、詳細な描写は控える。便所については私の実体験からいろいろとある。話せばきりがない。これも尾籠な話しで恐縮だが私は疣痔の気味がある。この発端が大学の便所である。大学で便所に入って、落書きを見つけた。「汝、神に見放されなば、手にて運をつかめ」とあり、著者の署名があった。これはすぐ分ると思うが、大学の便所などでは気をつけないと紙がなくて困るという経験を踏まて、ある意味親切で大きなお世話という格言である。このとき私は便秘気味だった。どうしても出てくれなかった。それでこの格言への反発もあったせいで思い切り頑張った。そのせいで便より肉のほうが先に出た気がする。私はこれいらい疣痔になったと思っている。

大学の便所は独特である。大学の事務局に授業料を払い込みにいった。国立大学だった。手続は無事に終り、ついでに事務局の便所を借りることとした。なかは広かった。大と小の二つを収容していた。私は小だけだったのだが、独特の構造に驚いた。両者の空間が違う。大は糞のくせに威張っている。床面が腰の辺りの高さに設定されていた。当時の技術水準を考えれば大の処理には床面を高くすることがどうしても必要だったのだろう。私は大は関係ない。なかの構造は知らない。小を済まそうとして気がついた。親切なのかお節介なのかまるで、ここに腰掛けてやれといわんばかりに床がせり出している。ちょっと後に退がると腰かけてしまいそうな構造であった。これにとまどったせいもある。親からもらった入学祝の万年筆を小便器のなかに落してしまった。

東大の便所の話しである。学寮の管理人のおばさんに話しを聞いた。若い人の尿は濃いらしい。すぐ詰まってしようがない。水洗装置があるのでそれで水を流したら水道代が高くついてとてもやってゆけない。しかたがないので水道を随分絞ってまかなっているという。このときのおばさんの話しぶりは妙に艶かしかった。山中湖にある夏の家の便所を使ったことがある。改装されないまま放置された旧式の便所だった。とても臭かった。暑い夏の日差しがいっぱいの便器の周りには虻とか蝿とかが集って来ていた。今は知っている人は少ないかもしれないが夕方になると立つ蚊柱みたいにブンブンと音をたてていた。

大学時代、私は東北で下宿していた。そこの母屋は洋風の洒落た建物だったが、私の部屋は敷地にそれようにしつらえた粗末なものだった。便所は汲み取り式であった。おそらく一年に一度汲み取りが来るくらいのものだろう。ここは下宿代が安く、大学には授業時間が始まってから自転車で駆けつけて丁度間に合うほど近かった。便所の話しである。東北は寒い。お尻も裸でかわいそうなくらい寒い。便が落ちると跳ね返りがあった。これがお尻にぶつかると寒くて臭い。私は新聞紙をあらかじめ落しておいて用を済ませていたが、やがて独特の構造に習熟した。跳ね返りを見計らって避けることを覚えた。ところがこれが問題を起こした。ある時、タイミングを測って見事に避けた、と思ったら跳ね返りの飛距離が予想以上に伸びた。そのため下唇にうまく着地してしまった。私は開いた口がふさがらなかった。用をすみやかに済ませて、流しに駆けつけて口を濯いだ。

便所の夢は沢山あるが詳細な記述は控えたほうがよい。そこで実体験の話しをした。




24) モンゴルの留学生
モンゴルに留学していた。ヤワラちゃんも一緒だった。その隣に名前を知らない女性がいた。この人がこの場の主人公である。この女性は世界中の柔道関係者にお婿さん候補の推薦を求めた。これがやっと決まり、今日はその発表の会見だった。この男性とも一緒のようである。この募集は二回繰り返され、その後に決まった。ヤワラちゃんはアメリカは二回とも同じ候補を推薦したと怒っていた。

ヤワラちゃんの名前を知ったのは柔道漫画の主人公からだった。本物はその後で知った。ご主人はプロ野球オリックスの谷外野手だった。彼はアメリカに行ったイチロー選手の後継者と期待されていた。やがて巨人に移籍して現在も現役で活躍している。モンゴル相撲は柔道と少し縁がありそうだが、朝青龍の奥さんと関係するのだろうか。全体に支離滅裂でも何処かでつながっているようだ。




25) 敦賀の船出


朝、目を醒すと土曜日だった。今週は月曜から仕事で出張だった。裏日本、敦賀のどこかの日本旅館に宿泊していたらしい。女中さんに障子を開けてもらって初めて気がついた。ここから海が見える。朝の冷気が気持ち良い。浴衣の裾を気にしながら朝食にした。この海も外国にまで続いている。漁船が数隻、舳先を上げて港から出港していった。

気持の良い夢である。私は敦賀を列車で通過したことがあるが宿泊の経験はない。これで思い出すのは、同じく裏日本であるが、北海道の積丹半島である。仕事は金曜日で終了して、おそらく少しお酒を飲んで朝は遅めの起床であったろう。海岸から岬の高台に登り海を眺めた。それから、ゆっくりと近辺を散策した。詳細は定かでないが、ヨットがたくさん集まった海岸の公園に行った。競技大会でもあったのだろうが多数の人出があった。そこでぼんやりとして、次の日曜に帰京したと思う。こじつけのようだが、裏日本は海流の関係もあり、出雲、敦賀、新潟、とんで北海道まで関係がある。柳田國男のいう裏日本の海岸沿いに点在する椿神社の存在は神話の世界、松前船による海運は江戸時代の世界と私の想像力を刺激する。裏日本は今よりもっと表舞台だった。




26) 外国人を埋葬する
外国人が急に死んだので埋葬などの後始末をしなければならなくなった。肉親は近くにはいないらしい。連絡が取れないのか、知人の女性が出てきた。そこでこの女性に任せようということになった。その際、この死亡に事件性がないのか、肉親と本当に連絡が取れないのか、確かめなければならなかった。しかし、面倒を嫌い異論の出ないうちに進めようという雰囲気になった。ところが、この女性が困っていう。どうゆう訳か分らないが葬儀屋の担当の女性が強硬に反対する。新聞に死亡の事実を公告して、関係者が申し出てくるのを待たねばならないという。しかし、結局は当面の必要に迫まられて、埋葬しようということになった。

これは奇妙な夢である。私は外国人留学生に関わる仕事をしたことがあるが、現場に関わる仕事ではない。あえていえば大学の学寮の管理に関わる仕事に関係があるかもしれない。女子寮で自殺があった。その事情はまったく知らない。そこで係りとして埋葬までの死亡の処理に関係が出てきた。警察による捜査もあったろう。私はただいわれたままに学寮に出向いた。その死亡した女性の遺体がまだ安置されていた部屋に詰めることとなった。父兄への連絡とか、大学上層部への説明など面倒な仕事があったろうが私には関係がない。ただ、初夏の夜、その部屋に詰めていて、何故死んだのだろうと、他人ごととして考えていた




27) 議員の背広
国会に呼ばれたようである。ある省のS局長と話しをしていた。少し話しをしてその後、私の出番を待っていた。その前の人の様子を見ていると私の座る場所はテレビが放映される外側でなく、内側らしい。S氏はその外側に座るらしかった。事情は良く分らないが酒が振るまわれた。私も少し飲んだ。そこで呼ばれたので立ち上がった。場面の中央に進もうとしたら、声が上がった。私への注意らしかった。気がつくと私は背広の上衣を脱いだ、下のベストだけの姿であることに気がついた。慌てて控えの席に戻り、私の背広を着ようとした。どうもおかしい。大きすぎる。しかし、服の模様はまったく同じであった。唐突だが森総理の背広を貰ったらしい。それでは合わないと納得した。さらに見ると服のあちこちは皺でいっぱいであった。さあ困った。どうしようと思っていた。

その後、同じ省のZ氏とも話しをした。新聞を見て囲み記事をチェックしていた。私の失敗の話しが終って、共通の知人の話しに移った。囲み記事と関連するらしい。ものすごい目付きで新聞に目を近づけて、「浮舟町」と読み上げる。そこに出ている住所らしい。その視線の先に「碧雲云々」という高級料亭の名前があった。

まったくとりとめのない夢であるが、雰囲気だけは感じるところがある。私は仕事を通じて種々の人たちと関わりをもつ。そのなかにどうしても違和感を感じ、自分とは別世界にあると感じる人たちがいる。それがここや、この他にも若干でてくる政治家の方たちである。この夢で私は本省の局長と対等のような振舞いである。夢とはいえ偉すぎる。勿論、政治家から背広など貰ったことはない。




28) 砂浜の遊び
子どもと二人の大人が浜辺で遊んでいる。斜めに傾斜する砂丘の向こうに砂浜があった。遠くに松原が見えた。青空と強い日差しに輝く海岸の対比が美しい。海辺の公園か。男の子が遊んでいる。ぐるぐる駆け回っている。楽しそうだった。その子には二人の大人がついていた。ボール投げをしている。シャボン玉のようなまるい玉だった。それを手で弾いて相手に渡す。それを返す。また弾いて戻す。これがルールのようだった。

それをしながら、走り回っている。甲高い声が波に混って聞こえてくれば典型的な光景だが、無声映画のように何も聞こえない。でも充分楽しそうだった。玉は丸いガラス玉のように見えた。昔、ラムネと呼んでいた炭酸飲料の壜の栓に使われたものだった。それとは大きさが違うのだが、まるでそれが行き来しているように見えた。その表面が銀色に輝いた。強い反射光がまぶしそうに見えた。だからガラスの表面に銀メッキをしているようだった。

こう思っていると、金属の冷たくて強靭な肌のような鋭い輝きを持った玉であることに気がついた。おかしいのだが、重量感が全然ない。依然として軽やかな楽しげな行き来のなか、玉が輝いていた。あれは金属であると閃光にまぶしさを感じながら確信していた。だけどあれは中空であるため、あんなに軽快に弾かれて、子どもも何の危険も感じずに楽しげに走り回っていられる。そう納得していた。ところがその表面の様子が変化しだした。鈍い灰白色、銀色になって液体の水銀の玉に見えてきた。でもあいかわらず重量感のまるでない感覚が継続している。そこからだろう、突然、液体の様子が変った。がスペースシャトルの無重力空間に浮揚しているようだった。ちょうど表面張力が液体の表面を引っ張る。重力のない空間であるから球形が保持できている。そんな状態だった。

さらに見ると、壊れもせず行き交う玉は表面に波を生み、ぶよぶよと揺動して、表面張力の均衡が破れそうで破れない危ういバランスの状態で浮揚していた。こんなことが本当にあるのだろうか、随分都合の良い場面が続くものだ思い始めていた。しかし、楽しかった。子どもはあいかわらず楽しげで、大人のなかに私も混っていた。玉を弾き子どもに渡す。大喜びの子どもの喚声が響き渡った。私は一生懸命に子どもをあやしていた。これは初秋の涼しさが少し感じられるどこかの海岸であった。

これは単純に楽しい夢である。先立つ場面が浮ばない。どこからも来ていない。一幕限りの舞台である。楽しい。終ることのない夢である。私はずっと夢を見続けたいと思っていたのだろう。

また随分と念入りな描写が続いている。表面張力の解説をしながら見る夢は多くの人にとってはわずらわしいだけだろう。すこし説明を加える。シャボン玉は科学的にも面白い教材となる。学校の図書館から借りた英国人の本にその作りかたがあった。勿論日本語訳である。大きなシャボン玉を作るためには、グリセリンを入れると良いとある。でも当時の私に入手困難であった。その解説を読んで想像するだけであった。でも楽しかった。大きな球をまず作る。それを石鹸で濡らした二つの針金の輪ですくい取る。そこで両方に引っ張る。ある一定の距離になるときゅうに不安定になる。そのとき水平に伸びた円柱形の側面が波状に搖れてやがて二つに分裂してしまう。これは原子レベルの分裂を実見したことになるという。薄い膜に当った光はその表面ともう一つの表面とにぶつかって反射する。そのとき干渉しあって多彩な色が浮びあがる。白色に見える太陽の光は多数の波長をもった色から構成されている。これが干渉のため一部の光が減光され他の色が出現する。

英国の戸外でシャボン玉を作っている写真を見ながら想像で頭のなかだけで作り出していた。




29) お婆さんのぐち
お婆さんからぐちを聞く。何故そうしているたのか、尾籠な話しだが、塀際で小用をすませた。するとその正面に突然顔を出して、実は十五日限りでこの店を閉めるといいだした。さらに小さな女の子も出てきた。

大きなお寺か神社の門前町、そこの茶店だった。そこにたどりつくのに小さなお地蔵さんが片側に連らなるように整列している道を通り過ぎた。それぞれの赤いよだれ掛けと肩のところに挿した風車が目に残った。唐突だが、そこで親しげにしかし偉そうに口をきく人に出会った。自分の施設で予定している会議の会場の下見に来ているという。

ここから話しが飛ぶ。会議場の懇親会の席である。正面に座っている人が随分親しげにしかし偉そうに口をきく。大きな丸テーブルに十人ほどが座り会食をしていた。そのテーブルの端から端に屆くように大きな声で話しかけられた。誰か分らない。どこかで会ったはずとは思いつつ顔の記憶すらない。困ってしまった。隣りの人に話しをふって、すませてしまった。割合いうまくできたので、目覚めたときの気分は良かった。

この場所は東京芝の増上寺である。赤いよだれ掛けのお地蔵さんも茶店もあった。東京タワーの近くであった。このおばあさんのこと。この人は別のところにいた。私は単身赴任のころ都会の会議に出席し夕方、宿舎に帰宅することが月に一、二度あった。私鉄の駅で下車し宿舎に向うバスを待つ。だいたい、最終かその一つ前くらいである。待合室には地元の人、下校の高校生が待っている。そこで私も待っていると、このお婆さんと孫に何度も顔を合せた。お婆さんは地元の人と挨拶を交す。女子高生の笑い声が響く。平和な光景である。ところがお婆さんが突然に怒りだす。とくべつに悪いことをしたとは思えないがこの孫の悪行を口を極めて罵しる。小さな体から絞りだすようにこの子を叱っている。ところがこの子はぜんぜんこたえた風はない。おこずかいで買ったキャラメルを舐めて知らぬげである。他の人も気にした風はない。

今思い出して考える。何故あんなに叱りつけたのだろうか。演出でもあったのか。山田洋次監督の「寅さん」シリーズの一場面を切り取ったように鮮やかに浮かんでくる。後の会食の場面は他人と上手に付き合えない私にしては上出来であったので、気分が良かったのだろう。




30) 観劇の裏方
外務省の関連行事らしい。英国の有名劇場で開催されるシェークスピアの演劇を見ることになった。夜の部に間に合うように行かねばならない。気をもんでいたが友人と二人で出かけることとし早めに家を出た。だが、作家でヤクザもやった安部譲二氏に会う。この人の部屋にいた。劇場に出発するまえに、ここで待機することとなった。部屋の様子を教えてもらった。壁いっぱいの本棚の下に蛇を二匹飼っているそうである。実際に顔をのぞかせた。これ以外にもたくさんいる。びっくりした。

観劇には有名人も来る。人気のある公演らしい。不審者をチェックする必要がある。その場所は警察の一室らしい。いつのまにかそこにいた。白板を前にして二人の男が話しをしている。いま問題になっているのは二人の人物らしい。男、Kurz、ドイツ人の政治家らしい。あとは女である。電話で身元を照会していた。

翌日、反響を英字新聞の関連記事で確かめていた。新聞に安部譲二氏の顔写真が出ていた。無駄が多い、行事の種類が多くて目的が散漫となっている。日本で評価されない集団が売名のために出演している、など批判的な記事が出ていた。昨夜の公演だけでなく、関連する行事を含めたものだった。昨夜の蛇の出現に関連するが、私の周囲には蛙が居間に一匹、風呂場に一匹いいた。

私の仕事はいつも裏方だった。この夢にもその雰囲気が漂っている。そのことに不満も違和感もない。しかし、仕事を通じて別の世界、人々と関わることがある。それが別の調子を持ち込む。具体名が出てしまって申し訳ないが、この方、蛇、蛙、不審人物などに、様子の分らない別世界、少し怖ろしい世界、もっといえば不気味な部分を感じている。それが出ている。しかし、けっしてそれがただちに嫌だとは思っていない。全体を通じて見えるわけの分らない馬鹿馬鹿しい展開、それを新聞を見ながら振り返っているオチ。興味津々でのぞき込んでいる私の姿がある。




31) 赤井秀和
あるタレントが不平をいった。多くの人が川で溺れている撮影場面であった。自分は溺死寸前、迫真の演技を要求された。しかし三船敏郎は既に岸に上がっている。用意された椅子に腰を下ろして、撮影を見学している。しかも側には女性を置いている。ということでの不平であった。すかざず元ボクサー、世界チャンピオンでタレントに転身した赤井秀和がフォローする。格が違う。三船敏郎は既に老齢でもある。糖尿病にも苦しんでいる。その後の打ち上げの場である。そのタレントと三船敏郎の間がすこし険悪となった。そこにまた赤井秀和が登場した。タレントと赤井は気が合ったらしい。突然赤井がワインを飲むかといって飲み始めた。

私の中学校の同級生にI君という愉快な仲間がいた。この子の家が郊外に引越した。私はそこに友だちと遊びにいった。そして数人で近くの川で遊んだ。赤井は毎週テレビで定時番組をもっていた。同僚の男性タレント、彼は大学のボクシング部の仲間だった。彼とともに出演している場面を見た。小川のふちに腰をかけて、とりとめもない話しをしているうちに番組は終了した。私はそのあまりの起伏のなさに驚いた。また、自分の日曜の午後の単調さにも腹が立った。その川の風景が実は先ほどの川と良く似ていたと思う。いやそうでないのかもしれない。この番組や自分への不満が、充分に満されなかった訪問への不満と重なった。平凡な日常に常に満されない思いをもっていた私は、この番組への不満から、こんな夢を見たのだろうと思う。

このことにはもう一つどうしてもいいたいことがある。I君の引越しは、ごみごみした下町から洒落た郊外への夢の引越、その実現という幻想を私がもっていた。私は、行ってみて、こんな言葉で申し分けないが、まるで工事現場の仮設小屋のようなものを見て、がっかりした気持があったことを思い出す。




32) 唐十郎のカイロ公演
唐十郎が劇団員、関係者をまえにカイロ公演を実施する旨説明した。エジプトでの公演が極めて重要であることを強調しているらしい。私も劇団員であり、どうやら主役級である。この公演は女優陣が中心となる。男優は私一人であるらしい。そこで公演準備、稽古はこのなかで行なわれなければならなかった。稽古場の壁の前に女性が一列に座し、準備している。その前を私は通り抜けて私の場所まで行かねばならない。主役と目される女優に、それの対抗馬の女優、小林聡美が話しかけた。二人の首には良く似たネックレスがあった。役造りからこのアクセサリが問題となった。話しているうち小林聡美のほうが分が悪くなったらしい。主役女優のアクセサリが採用されることとなった。そのとき、小林聡美がてれ隠しのように品を作り笑った。下顎の皮膚を思い切り延して、次に皺を寄せて、ことさらに私に笑いかけてきた。

唐十郎である。私はテレビの深夜放送で「少女仮面」を見た。この人ののっぺりした顔が語りかける物語に迫力があった。時間が草木も眠むる丑三つ時であったこともあり怖かった。映画である。「任侠外伝・玄界灘」で宍戸錠の演技が遠慮勝ちであった。迫力があると感心した。

後半である。ここでは私は女性のなかでただ一人の男であり、主役であるという。こんなことは現実にはない。あまりに違いすぎる。いくら何でも憧れが夢に現われたとは思えない。小林聡美は美人とはいえないが、実力派の女優である。脚本家である、三谷幸喜と結婚した。三谷幸喜も実力派である。面白い脚本を書いてくれる。お似合いのカップルであると思っていたら最近、離婚の事実が報道された。何があったのだろう。

ところで、私が彼女と主役女優のやりとりを見る目は、冷たい。いじわるかもしれない。しかし彼女への印象は既に述べた。おかしい。私には生理を異にする女性にたいし、所詮理解できないし、理解されないという諦めがある。どうして顎の皺を延したり縮めたりすような夢を見るのか。そんな具体的現実があったのかと考える。




33) フィリピン人の案内
久しぶりに出会ったフィリピン人と握手した。音信不通を詫び立ち去ろうとすると、車に乗ってゆけという。しかし別用もあり謝絶した。すると道案内がほしいという。それならと乗り込んだ。車内後部座席には奥さんが乗っていた。運転しながら彼が尋ねてきた。Which is the route tour ? であった。それへの答えは、the other way to the destination だった。そのとき、奥さんが夫に一言叱責の言葉を発した。

この英語はあやしい。私の英語もこの程度にあやしかった。通じなけれがこちらが困ると同時に相手も困る。仕事で用件があるから会う。別に世間話をしているわけではない。タイ相手に新しい交流事業を始めようとしたことがある。私は幹部訪問に先立ち相手側を訪問して説明しようとしたことがあった。早朝ホテルに相手大学の学長が尋ねてきた。私はあやしげな英語と紙上に粗末な図を描いて説明したことがある。

フィリピン人の英語は極めて流暢である。完璧な米語を喋るように思う。シンガポール人の英語は書いたものは完璧であるらしい。しかし話し言葉はひどい。中国訛りがでるのだろう。語尾が消えて、すごく早口であるのでついてゆけない。スコールの後、道路が水に漬かっている。そこを帰宅する小学生たちが口々に英語で文句をいっていたのに驚いた。こんなときから英語をやっていれば出来るようになると思った。

英語が使えることは、東南アジア諸国においては、外国留学ができる上流階級か優秀な学力をもつ印である。一般大衆が英語を使いこなせるわけではない。フィリピン人の英語の下にはタガログ語がある。マルチリンガルというシンガポール人の売り子がいた。英語、独語、仏語、日本語などで客の相手ができる子どもであった。家庭に帰れば中国語、それも北京官話でない南部の言葉である。こんな蘊蓄を傾けたのは、この夢が私の英語の夢だからである。




34) 通行人が叱る
国立施設の所長が集まる会議があった。M所長、K所長が大阪の祭太鼓の話しをしていた。話しの流れに合せるように突然太鼓の音が聞こえてきた。太鼓の鼓動が鳴り響いたので驚いた。

屋外に出た。右下の運動場から複数の女性の嬌声が聞こえてきた。この会議場の女子職員たちがソフトボールに興じているのだった。左崖下の広場にも男性職員がいた。幹部職員、若手職員たちが喚声を上げて走り回っていた。この道をまっすぐ行き、右折すれば街なかに出る。なじみのある店が並ぶ東京の街に出られると思っていた。そう考えただけで楽しい気分となった。久しぶりに帰京しゆっくりできる。ところがここで通行人に叱られることになるが、その詳細は思い出せない。

どうも面白くない夢である。二、三の場所に心当りがあるが、それらが混在し混乱がある。このため鮮やかさがまったくない。職場になじめない私の姿が隠れているのかなと思う。収録するほどものものでないようにも思ったがこのままにする。




35) 葬儀でもめる
二つの家が合同で葬儀を行なっていた。私の家のほうが香典の処理を担当していた。そこでもう一つの家から注文がでた。お釣りをださないようにしてほしいという。これにはこちらが反発した。商売をしている立場からいえば、お釣りをだすのは当然である。間違えれば今後の商売にも差しつかえる。これはどうしてもできないといって、結局、お釣りを強引にだすようにした。

私は貧しい下町に育った。そのため町の随所に小さな食べ物屋があり、古道具を扱う店、仕立て直しをするという看板があった。住民は損得をあけすけに口にすることを恥かしがらなかった。むしろそれが必要と考えていたと思う。お好み焼き屋に私は家から卵をもっていった。そこのおばちゃんにお好み焼きを注文するとき、卵をだす。それで卵入りお好み焼きを安く食べれることができた。

必要な代金は払う。しかしそれ以上を払う必要もなければ、それ以上受け取るべきでもないという考えかたは、貧しい生活を少しでも豊かに暮すために大切な心得であったと思う。ここの夢のように香典にお釣りを払った実例を知らないが、必要ならそれも当然という雰囲気のなかで育ってきた。




36) 東京駅の新地下鉄
国際会議の合間に買い物をしたいといい出して、参加者が集団で東京駅のほうに歩いていった。会議が深夜に及んだので、買い物ではなく、食事のためだったろう。私も暗い人影を追ってついていった。そのうちの数人から不満が出た。それにたいして、もう少しすると地下鉄が東京駅にも開通するといった返答が返って来た。ぶつぶついいながらも、集団は明りの見える東京駅のほうへ進んでいった。

地下鉄の開通式の準備らしい、早朝から若い人たちが右往左往している。場所は地下一、二階駐車場への入り口付近であった。私が何をして良いのか分らない。所在なさに困ってどうしようかと考えていた。そこの店主が奥さんと話しをしている。娘のことらしい。外国に留学するという。この時期にそのような勝手は許さないといきまいている。それを奥さんが小声でなだめていた。なおも父親はいう。駅前の開発のあおりで商店街はさびれる一方である。そのことで精一杯なのに、こんな面倒を持ちこんでと憤懣やるかたない。

私は何故かその二人の後に従い歩いている。すこし父親のほうに同情していると、突然に浴衣の帯がほどけて、腹の周りに詰めていた靴下の塊が三つころがり落ちた。いつのまにか浴衣で散歩しているようだった。そこで慌てて靴下の塊を拾い集める。と同時に浴衣を整えて、帯を締めなおして、また歩き出した。何故こんなときに浴衣を着ているのか考えるより、どうしてこの無様な姿を普通に戻すかに一生懸命であった。

出張などで深夜近くに東京駅に帰着する。丸の内口は真っ暗である。そこから地下鉄の連絡通路に降りて帰路につく。通路は明るいが、ほとんど人影はない。誰もいない構内を歩くのは実に味気ない。昼間の東京駅も、人通りの多い八重洲口も知っている。しかし夢にでてくる東京駅がこんなに暗いものとは思わなかった。

駅前は一等地である。だから権利関係が錯綜しやすい。再開発にとり残された駅前地下街には常に場末の臭いがする。私が知っているところである。低い天井、汚れた壁、串カツ屋と酔客のざわめき、蕎麦、饂飩のだしの臭い、古本屋、あやしげな店。近年の地下街とだいぶ違う。この夢には駅前再開発の一般的な雰囲気が感じられる。私は浴衣を着用しないのでこの話しもどこからくることやら分らない。痩身の身をやつして太めに見せるふりをしたこともない。




37) 普通でない
変っているのがよい。普通であるのではもの足りない。でも変っているというのには普通といわれないために変っているというふりをしているのが含まれている。どうもこのほうが多いようである。それがまた自慢気である。だから普通であることが余計に嫌である。けしからん。こんなことを人前で説教している夢を見た。先崎八段、この人は将棋のプロらしい。「せんざき」と呼ぶな、「さきざき」と呼べという。この人が変っている人だ。普通でない人であるという夢である。どうしてこの人が出てきたのか良く分らない。

この夢は光景がほとんど浮んでこない。私の夢は鮮かに浮んでくることが多い。珍しい。それに夢のなかでお説教をたれている。日ごろの不満が不満という感情のまま絵になることなく夢となった。あまり面白くない。

私は囲碁をやらない。高校のとき一時将棋に熱中したことがあるが、ある時、自分のあまりの下手さに呆れはてた。もうやらない。先崎八段の名前は新聞で読んだことがある。それがここに出てきたのだろう。棋士にはユニークな人が多い。

私はあらゆる面で人と同じでないと思っている。変っていようと努めたことはないが、いつも同じでないと感じてしまう。それは自分にとり不利に働くと思う。そのため若いときからそのことを他人に見せまいとしていたようだ。だからこんな説教はたれない。しかし本当は変っていたいと思っているのかもしれない。

将棋は囲碁と並んで古い伝統をもった遊戯である。伝統芸能といっても良いかもしれない。江戸、明治、大正、昭和と困難を乗り越えて今に至っている。プロの世界は新聞と結んで発展してきた。しかし早くその影響から自立してプロ棋士の組織が運営する世界となった。このような世界は実力が一番といいつつどこか既成の勢力との関係がいつのまにか生まれてくる。するとすっきりと割り切れないことが多くなる。

将棋の世界はごたごたを乗り越えて自立した。このために棋士は実力の世界という原則のなかで自立した個性豊かな人が多い。実力を競うから他人と同じでは勝てない。しかし違っていても勝てるとは限らない。名人初挑戦の棋士が対局時に足を投げ出して名人を怒らせたことがある。また仲間を集め研究会を立ち上げ、名人の戦法を批判し、その打倒を唱えた棋士もいた。最年少名人候補と目された棋士がいる。この人の対局態度も独特であった。相手が考慮中に、規則に反しているわけではない。対局者の背中のほうに回って自分の盤面を眺めている。こうすれば相手が何を考えているか分るという。高段者である。この人の好敵手で後に名人となった棋士がいる。「彼とは良く顔が会うが気は会わない」という。面白い。本当の個性が躍動している。




38) サッチャーに履歴書を説明する
サッチャーに履歴書の記入要領を説明していた。前後の事情は不明だが、A3の大きさで茶色の罫線をもったものに記入しようとしたが、空白部分が多く時間がかかる。説明は大変な仕事になりそうだった。誰かにやってもらいたい気分となっていた。それに自分の経歴を赤の他人のサッチャーに説明するということにも気が重くなっていた。

父が最近パソコンを始めた。この様式が変っているのはこのパソコンから打ち出したからだった。何かと私に聞いてきたので機種の選定を手伝ったが結局は自分で選んだ。私の全然しらない機種だった。

この夢の雰囲気をもう少し生々しく記せたら変な話しであるが事情が伝わっただろう。これだけでは自分でも唐突過ぎて説明に困る。サッチャーの話しは香りに関係があると思う。外人、女性、強い香水と国際交流の仕事。さらに、それにもってゆくちょっとしたお土産、お香の香りが漂う鳩居堂の絵葉書とつながるが、いちいち説明ができない。履歴書は人事異動の希望調査のため毎年提出する調書である。それで共通するものが違和感である。どれも仕事だから、必要だからと納得していたが、やはりどこかで納得していない違和感であったのだろう。もっと大袈裟にいえば、仕事そのものにも所詮身過ぎ世過ぎとの意識が隠れている。夢のなかでは違和感というより嫌悪感に近かったかもしれない。

パソコンについて、私は職場で一番早くワープロを使った。パソコンも自分の必要から購入して始めた。コンピュータとはまったく関係のない職場であった。秋葉原で当時 30 万円弱であった。プログラミングも職場ではまったく関係なく始めた。一番最初に購入したのはスウェーデン人の著作で英文原書「C++ プログラミング」であった。大変だったが、英語が読めればプログラミングは一人で勉強できるという自信をもった。日本語の解説書は入門書ばかりである。プログラミングの勉強は高性能のエディターを使い、初歩的でよいから実用のプログラムをたくさん書くことであると信じる。日本語で書かれた解説書でこの要求を満すものはほとんどない。ということで違和感である。

この説明はこじつけが過ぎるように思えるだろう。私自身もその感がいなめない。しかしこれだけ説明すると私が夢にもっていた臨場感が伝ってくる。本当はこんな夢を見ていたと思うので、あえてこのままとする。




39) クルド主義
月例経済報告を宮沢首相が行なった。日本はといったと思うが、クルド主義からみてまだ子どもの段階である。世界の現状を報告して、問題を指摘した後に、晴れ晴れとした顔で、私はクルド主義の説明に成功したと宣言した。

どうも訳の分らない夢である。戦後多くの首相が出現した。そのなかでこの方の頭の良さは際立っていた。難しいことを易しく説明する。そこにこの人の優秀さがでていたように思う。それは怜悧さにもなって同僚の政治家には愛されなかったようである。どうもこのようなタイプはこの国では人気がでないように思う。

この人は英語を喋るとたちまち生き生きとしてくる。「After you left」という言葉をこの人の発言で知った。記者の質問への対応で、答えないというかわりに、「貴方がいなくなった後に喋る」という応対だったと思う。米国のブッシュ大統領を迎えた晩餐会で大統領が疲れと風邪で食事中に嘔吐、倒れたことがあった。このときの沈着な対応はその存在を世界におおいにアピールしたと思う。この人とこの夢は好対照である。




40) マイケル謝す
劇場の舞台に異様な大きさの黒檀製仏壇が登場した。閉じられた扉のその羽目板には装飾としてアメリカのアニメのキャラクター、ミッキーマウス、ドナルドダック、白雪姫、ピーターパンなどが描かれていた。これが喧騒としかいえない音楽とともに舞台に引き出され、黒地に鈍い青色の模様となって見えた。

マイケル・ジャクソンが皆んなから文句をいわれて困った表情を浮べていた。何か良く分らないが喋った。勿論英語だから当然である。その後日本語で喋った。私が質問したらしい。それにたいする答えだった。

マイケル・ジャクソンの歌も踊りもほとんどまともに見たことがない。どうして登場したのかと思う。ディズニーランドが好きだったこと、ピーターパンの住むネバーランドが好きだったこと、いつまでも大人にならなかったことなど響くものがあったのかもしれない。




41) 北海道でサッカー
学校の教室で使われるような大きな北海道の色付き地図を見ていた。それには立体感が出るように山、谷、平地が彩色されていた。ほぼ中央から緑の二本線がXに交差して走っていた。四分された地域はそれぞれ異なる色で塗り分けられていた。

交差点が試合の開始地点である。kickoff の合図とともにサッカーの試合が開始される。なだらかな丘が続く北海道ではこのままどんどんと試合を進めてゆけばよい。各地を転戦し、得点数の合計で最終勝者を決めればよい。試合開始時刻の正確さも点数化すれば、得点差がなくても再試合の必要はないだろう。などとサッカー大会の運営の構想を大きな地図を前に議論していた。まだ他にいろんな議論を展開していたようだがもう思い出すことができない。ここまでである。

北海道には梅雨がない。六月の初夏に大会を開くことはヨーロッパの選手にとっては大歓迎だろう。サッカーの世界大会招致の議論にこんなのがあったと思う。この夢の季節は五、六月の初夏であった。体を動かしてもからりとしていて爽やかである。北海道全体をスタディアムにして思い切り駆け回る。そんな想像をしながらこの夢を見ていた。




42) お婆さんがやってきた
お婆さんがやってきたという夢だった。熱にうなされた後のような気分で、しかし、睡眠中であった。突然驚かされて眼が覚めた。家人が「何ですか」、「何ですか」と大声で尋ねていた。私も起きようとして努力するのだが、体が自分の意志では自由にならない。それでも何とかベッドから起き上がろうと努力している。何度もやったのでついに起き上がったらしい。それでも下半身はまったく力が入らない。酒に酔ったような気分であった。

相手は泥棒かもしれない。それなら用心しなければいけない。そういう焦燥感が支配していた。相手に備えて私は長さ1メートルほどの金属製の物差しだったが、それを手元に引付けて、思い切り引っ叩いた。この物差しというのは特別なもので、私の親父がやっていた縫製工場で使う相当に重量感のあるものだった。ところがこれが思いのほかに効果がない。ぺらぺらでこけ威しにしかならなかった。仕方がないので思い切りにらみ付けてやった。

誰だとただすと、「お婆さん」だという。「帰ってきた」のだそうである。おかしなことをいうと不審感が拭えなかった。家人が「何」、「何」と尋ねている。扉のところに行って、外の誰かに話しかけている。外の不審者もそれに答えて何かをいったようだ。どうも良い思案が浮かばない。体も相変わらず動かない。それでどうなったかというと、突然、私の目の前にもう既に亡くなって三十年以上もたつ母方のお婆さんの遺品といって送られてきた品物が次々に現われてきた。

送り状の金額の欄に数字が並んでいた。二、三万のものかと思っていたら、二、三十万である。びっくりした。しかしそれより驚いたのは、品物だった。大きな昔の銅貨の模造品、あるいはそれをもとにした何かの記念品、記念メダルだった。実物の十倍大、中央に方形の穴、厚味が1センチほどもある。それが十枚重ねられていた。その穴の縁に真珠が四、五個埋めこまれていた。それは模造品だった。要するに通信販売などで購入するようなあまり高価とはいえないものだった。

何故、今ごろ、こんな深夜に私のところに屆けられたのか。急に懐古の気持が溢れて涙が出そうになった。日常の多忙さにまぎれて忘れていた昔の懐しい人がやってきたと思った。とっくの昔に死んだのに変な話しだと思うより、夢のなかででも会えてよかったと思った。

これは風邪で体調を崩していたときの夢だった。本当に熱があった。そこで雰囲気が少し不気味だ。泥棒に入られたらどうしようかという恐怖感がある。そこでこけ威しの金属製物差しとは情無い。無駄ににらみ付けていると突然、三十年も前に亡くなったお婆さんが登場するという展開にはびっくりした。

このお婆さんは、母親から聞いたが、日本で二番目に貧しい漁村の出である。母を含め男女四人の子どもを育てた。母親の愛をまことに直截に表現した人だと思う。私たち孫にも同じような態度だった。自分の子ども、身内が可愛かった。孫がいじめられたといって小学校に怒鳴り込んだことがあった。孫が病弱で可哀そうだといって一年小学校に上がるのを遅らせた。そのため役所から叱られたのもたしかこの人のせいだった。

私は妹と違い、この人の直截な愛情が苦手だった。あまりこの人に愛されたことはない。葬式のとき皆んなが泣いているのに悲しくなかった。他人事のような気持だった。もっと甘えて愛されて然るべきだったという気持がずっと残っていたと思う。銅貨を蒐集するような趣味は私にもお婆さんにもない。何故こんなことが出現したのか、まったく見当がつかない。しかし、よそよそしかった私をそれでも許してくれたのだと思って嬉しかった。




43) 空を飛ぶ
ここまで記録してきて思う。もっと他にも奇妙な夢があった。空を飛ぶ夢である。

昔である。息子と近所の公園のジャグルジムで遊んでいる。そこから飛ぶ夢である。ジャグルジムの縦棒を握っている。体の重みはほとんどない。もう飛んでも不思議はないという気持でいる。そこで、手を離す。するとゆっくりと空中に浮かんで、降下してゆく。息子がジャグルジムの上から見て、喜んで手を叩いている。この後息子も真似してゆっくりと降下してきたかもしれない。この辺になると空想と夢が入り混じっているのでやめる。

本格推理小説の大家、島田荘司のネジ式ザセツキーの主人公である。彼は事件に遭遇して、脳に障害を受けた。重大で奇妙な記憶障害が残った。十分前の記憶もまったくない。医者の診断をうけていて十分後に再会したのに、初めましてという挨拶から始まる。さらに念のため、その十分後に再会しても同じ経過を繰り返す。彼はスェーデンの大学を卒業後、船医として世の中に出た。そこまでの記憶が残っている。彼の背中の肩のあたりに妙な膨らみが残っている。それは羽根がそこから生えていた後だという。

物語のなかにまた物語がある。「タンジール蜜柑共和国への帰還」というファンタジーである。ここで巨大な蜜柑の樹から蜜柑をもぐ、背中に羽根をつけた女の子たちが登場する。また、彼と一緒に活躍する女主人公の空を飛ぶ場面が出てくる。別の短編、「山高帽のイカロス」にも 空を飛ぶことができると豪語する画家が登場する。どちらも空を飛ぶことが当たり前という世界で事件が進展する。最後に残酷な現実が暴露されて解決に至る。解決に至るまでの世界には人間が空を飛ぶという広がりが与えられている。そこで事件が展開する。私の夢の世界と同じである。

夢の場面はいろいろである。小学校の運動場の片隅に付設された、沢山の竹の棒がある。これは運動用具である。これに掴まっているうちに空中に浮かぶ。二階の教室の窓から運動場を眺めているうちに空中に浮かぶ。もっと上空から地上を見下し、旅行しているような気分で飛んでいる。遥か地平線を望み空中を飛ぶ。このどのときにも人間は飛べると確信をもっている。さらにどうも他の人たちに飛べることを説教しているふしがある。たとえばまるで水中を平泳ぎで泳ぐように手足を掻いて進む。そのやり方を説教しているようだ。

私は自分が特殊な能力をもった人間と主張したことはない。しかしこの夢でそう主張しているように思う。




44) 風が泣いている
風が泣いている夢をみる。遠足で見た風景が重なっている。南向きの斜面に私たちの学校がある。その前の丘から海を眺めている。その下はお寺の墓地、境内の建物が続き、道路、海岸、海と連なる。風が強い。風に混って海鳴りが響く。高台にいたほうが潮騒はよく聞こえるらしい。道路は国道である。沢山のトラックが風を切って過ぎてゆく。私は先生に叱られたのであろう。泣いている。風とともに泣いているのである。

私は泣き虫であった。夏の林間学校の夢だった。お腹が痛いといって泣いていた。しかし本当は家が恋しかった。早く帰りたかった。ひとしきり泣いて、お寺の宿坊の窓から夕日に照された松の林を眺めていた。風が吹いてきた。山の斜面を風が下ってくる。松の枝が揺れ、それが順々にこちらにやって来ることに気がついた。日暮らしの鳴き声を聞いてまた悲しくなった。

泣かない話しもする。母親に買ってもらった本である。嬉しかった。山寺の和尚さんがお酒が大好きであった。山の寺で満月がこうこうと照る夜に上機嫌でお酒を飲んでいると、そこに狸、狐、うさぎなど山の動物たちがやってくる。和尚さんはますます機嫌が良くなった。月の明りの下に出て、動物たちと踊り出す。私はこれは絶対に夢に見ると思っていた。いつか見た。縁側に月見団子が供えられ、薄きが飾られている。満月である。歌が聞こえる。私はふもとから山の上のお寺に登ってゆく。これはたしか随分大人になってから見たと思う。




45) 若いときの夢
若いときの夢と年寄の夢がある。これは若いときの夢である。やっぱり元気がよかった。スキーに新潟県の赤倉に行った。ゲレンデの頂上に立って夕日を見ていた。とても輝かしく夢に溢れていた。これは現実に家族でいったので実は現実と夢の区別が難しくなっている。しかし、白銀に輝くスロープに私はこの春に大学入学が実現すると叫んでいた。単純で明快な夢である。そんなことを本当に感じたのかやや疑問が残るが。記憶に残っているからほぼそんなものだったのだろう。

スキー行の夢は良い夢を何度も見た。その中で、「何ていい気分だろう」、「綺麗な夢を見て、得をした」などと感じながら夢を見ていた。このときの世界は、春スキーである。晴れたときのゲレンデは白銀に輝く。青空を背景にスロープ、リフト、建物が目映い。樹木の枝に雪が留まり、凍った雪の粒が太陽の日射しのなかにキラキラと輝く。本当に美しいものだった。このころは希望に満ちた夢だったのかもしれない。しかし同時に、夏の海べの夢を思い出す。夏なのにやや肌寒い、日本旅館の黒塀に見越しの松が見える。そこに何故か私がいる。気分が暗い。空の色まで沈んでいる。だが、風景は綺麗である。黒塀も松も日本画に出てくるようによく調和して美しい。でも何故か寂しい。

スキーの話である。当時の人気は凄まじかった。夜行列車に乗り込むにも何百人もの人間の列に入って早くから並んでやっと乗り込む。ろくに寢むれぬままスキー場に到着してスキーをする。リフトに長蛇の列ができる。ぎりぎりまでゲレンデを滑走する。元気なものは帰りも夜行で早朝について、出勤したり、通学したりする。そんなスキーに関連して、夢を見た。

もうふらふらになって帰ってくるのである。春スキーのことであるから、雪国を離れ都会に戻ると春を感じる。暖かい陽気を感じるのに、何か危険な雰囲気を感じる。おかしな様子だった。町中に通勤電車が走る。その高架の随所に二、三人づつ男たちが立っている。それを私が電車のなかから目撃する。スキーに満足して喜んで帰路についたところなのに、様子がいつもと違う。自分がいない間に何かが変ってしまった。

これは皇族の訪問にたいする警備の警官たちであることが分る。それを見ているのだが、自分の楽しい世界があっという間に崩壊してしまった。これは何があったのか家に帰ってから母親に聞かねばいけないと思っている。この場面も映画の一シーンのように鮮やかで、美しい。けれど何かが変ってしまったという感じがする。大袈裟かもしれないが、若く希望に満ちた世界はもうなくなったと知らせてくれたような気がする。どうも話しが出来過ぎていて、あやしい気がするが、ここで私の人生は変ったのだとそう思った記憶が確かにある。不思議な夢である。


さて突然だが、これでおわる。ここまでよんでくれた人。ありがとう。
(おわり)

わたしの奇妙な夢1 [プロフィール]

yosizane_koinori3.gifここの夢は、将来の夢をかたるという時の夢でない。夜みる夢、実際にみたものである。それを紹介する。

1) 学園葬
「研究室の所属学生が自殺」、「英国王子も自殺」という張り紙が大学に掲示されていた。学園葬がこれから始まるという。目をあげると後退翼のジェット機が飛来したのが見えた。銀色の機体に濃い茜色の縁どりをもつ主翼の瀟洒な機体が急速に地上に降下してきた。
近づくにつれ機体の大きさが判然としてきた。地上近くの空中で一瞬停止したかと思うと、たちまち浮力を失ない着陸した。王室差し回しの航空機であった。せいぜい十数人乗りの小型ジェットであった。すぐ夕闇が迫まってきた。夕日の輝きが空と雲に反映して西は一面の茜色であった。
悲劇である。しかし私にとっては綺麗な夢だなあと感じる夢である。ジェット機が美しい。場面が鮮明である。登場人物に悪いが、おしゃれだなと感じてしまう。英国製の機体というが、これは絶対にフランスである。


2) 円形遊覧飛行機
蛍光灯がこうこうと輝いている。消灯されぬまま、寝てしまったことに気がついた。罪悪感と中途半端な眠りの不快感を感じながら、このまま寝ていようと思っていた。
空を見上げると円形大型飛行機が飛んでいた。基本構造は平べったい円柱形で、複数の層からなる。上部には後楽園の野球場のドーム部分が乗っかっている。これが巨大な翼の役割を果している。その下の部分に多数のプロペラが付設されている。浮力と推進力をこれらから得ている。プロペラの本体への設置である。太い管がこの平べったい円柱をを取り巻いている。そこに埋めこまれた軸を中心に多数のプロペラが回転している。この太い管は水平に単純に巻きついているのでなく、波状に上下しながら周囲を走っていた。まるで巨大な蛇が機体に巻きついてるようだった。最下部は客室部である。なかの照明の明りが輝いて鮮やかに浮かび上がっている。
驚いて見ているとまた一機が続いて飛んできた。比較すると 前機は長距離用であり、後機は 遊覧用である。後機は少し太めであると感じた。良く見ると円形翼がある。柔軟な材質らしい。飛行機が曲進すると翼の一部が波打って見えた。 これは単純に楽しい夢であるが、冒頭部分は違う。夕食を終えて、テレビを見ているうちについうたた寝をしてしまった。目覚めると教育テレビで木下順二の有名な朗読劇、「子午線の祀り」が放映されていた。女優の甲高い声が頭に響き、不快そのものの気分となった。この寝覚めの不快感はこれからの不幸を意味するような不吉な感じがした。
私の模型飛行機の話しである。小学校の前の店で購入した竹ヒゴの飛行機を自作した。当時の男の子の普通の姿だった。友だちのなかにはプロベラまで自作するのがいた。私のは幼稚なものだった。すぐ作らなくなった。仕事について休みに模型の紙飛行機を作るようになった。調布飛行場の敷地に入りこんで飛ばした。雑誌に挟まれた厚紙から切抜き、組み立てる。太めの輪ゴムで引っ張って飛すと、予想以上に飛ぶ。本当は尾翼を曲げて輪を描いて飛行するようにするのだけれど、細工なしで飛すと上昇し、10 メートルくらいの高さを保ったまま、おそらく 100 メートル以上飛行した。私は慌てて追い駆けて飛行機を回収した。
プラモデルの飛行機の組み立てもやった。F14、F16のジェット戦闘機は実際に作ると微妙なところが実感できる。14は重厚、16は軽快である。両者とも三角翼であるが尾翼を持つ。14は可変翼であり後退角によっては尾翼と重なりそうになる。16は胴体と主翼が一体で成形されるという。胴体のなかほどから主翼にむけて流れるように接続している。昔の飛行機にこんな構造はなかった。両者とも主翼の上反角がない。これでは機体が不安定になるはずである。私が熱心に読んで勉強した当時の設計思想とは全然違っている。それ自体が面白かった。しかしもうそれ以上勉強しようとはしなかった。
この夢は楽しくて懐しい。


3) のぞみに乗車
新幹線のぞみのような洒落た列車に乗っていた。しかし郊外電車であったから結局は通勤の帰路のことだった。疲れて居眠り。目覚めて慌てて車外を確かめる。しまったという感覚が生じる。線路が急に曲折しているところが見える。乗るべき方向が反対だった。あるいは山手線のように時間はかかるがまた戻ってきて目的の駅に到着するのか。時間がおそろしくかかると覚悟した。
とにかく落ち着いて事後処理をしよう。立ち上がって車内をうかがった。周囲を見回して目につくことがおかしい。隣りにお爺さんが寢ている。寝台車みたいである。この人はのんびりとその隣りの仲間の人と談笑している。それは長椅子のような席だったのだろうがまるでベッドのように居心地が良さそうだった。随分変な列車と思った。まるで長距離夜行バスの寝台に転用できる席のようだった。
乗客にはあまりかかわらないほうが良さそうだった。係員を捜して歩いた。車内の広さは相当のものだった。これはバスではない。そこでモノレールかと感じた。どうもやっぱり新幹線だと思い直した。とても通勤電車ではない。乗客は車内にまばらだ。広い空間のなかのどこにいるのか探さねばならなかった。車内の中央部には展示コーナーが設けられていた。相当大きな地球儀が据えつけられていた。世界地図を示すものだった。階下に降りた。そこも同じ構造である。また展示コーナーがあった。
そこには、THAI云々とある。良く見るとタイ国の観光宣伝であった。大きなポスター、舞踊中の女性と長い海岸線の風景が組み合わさったものであった。これはジャンポジェットの機内でなかろうか。そこでやっと見つけた係員に声をかけた。この後の記憶がない。
場面が変った。終点の手前で急に単線が複線になる。つまり終点に到着する線路と終点から出発する線路が別々にある。しかしその終点から少し離れた地点で二つの線路は合流する。このところで不思議な光景がみえる。対行する列車がまるでぶっつかりそうに近づいてくる。衝突すると思って体がのけぞる。とこれが列車同士はなんでもなく通過してゆく。どうしてこのような仕組みが必要かと考えていた。と、いつの間にか終点だった。
改札から表に出て駅前広場を散策した。駅前の店をのぞく。それから帰路の列車の時刻を確認した。特別な用事や職務があったようではない。しかし、念のためと広場、施設、人々の様子を点検して、メモした。駅の入り口まで人車のための誘導路があった。鉄柵で区切られていた。今は誰もいない。しかし出発時刻が近づくと帰りの人々が集まってくるという。それに遅れると、ここで宿泊するはめになる。列車は一時間後に出発する。私はとにかく、それで帰路につく。徐々に人々が集まってくる。
今は充分な余裕がある。ただ待っているだけでは芸がない。暇つぶしに散歩でもしようと思った。準備は終えた。何も心配することはないといいきかせていた。それで駅前からすこし足をのばして好奇心のおもむくままにあたりを散策したらしい。はっと気がついて戻ってきたら、もう改札が始まっている。結局帰宅したのだけれども、そこに至るまでに一騒動があったはずである。
話しの筋が少しづつずれていったり、いきつもどりつする感じや、やるべきことを気にしながらやらないで流されてゆく、これが私の夢の基調である。これは何だろう。実生活における不安や心の葛藤である。私が常に抱えているものである。どこまでも引きづっているものだなあ、と思う。それから改めて気がついたのだけれども、すべて単独行動である。私は仕事を除くと実生活においても単独行動であった。それがならいになっているので違和感がないけれども、やはり夢のなかでそれがはっきりと出てきていると思う。




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