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韓国、六万人分補償


* はじめに
韓国のホワイト国はずしがこの七月に閣議決定し、新規制は八月にできるだろう。韓国ではWTOでの日本非難や議員たちの日本戦犯呼ばわりなどあいかわらずである。だがこんな反応の他に、韓国の現代経済研究院が面白い報告をだした。ユーチューブで見つけたので紹介する。

* 韓国の半導体や液晶などに深刻な影響
まず全体の話し。日本からの総輸入額が158億5000万ドル、総輸入品目が4227品目だが、依存度が50%超が200をこえ、90%超が48品目である。依存度がたかいので悪影響はさけられない。特に半導体・フラットパネルディスプレイ用装置などの精密機械産業では現状が劣勢だが、将来においても改善が見こめないという深刻な状況といってる。これについての韓国の反応が興味ぶかい。

文在寅政権への批判は当然だが、いわゆる徴用工判決は一人、1000万ウォンだったが、これを想定される半導体の被害額で換算すると六万人分にものぼるとあきれてた。この報告もそうだが、やっとでてきた現実的感覚である。

* 感想
どちらもわるいとか、話し合いがとか従来の日本のマスコミの無責任さをあらためてかんじる。こんな対応では現実の被害を異常判決の額で換算するとか、韓国の劣勢を冷静に指摘する動きはけっして表にでない。おそらく冒頭の異常さがつづくだけだろう。私はやっと韓国と正常な関係をつくる時代がきたとよろこんだ。だが韓国民が全部ほろべばよいとおもってない。WTOにかんしてである。

世界は韓国に賛同しなかった。だが日本のもつ破壊的な経済力がどううごくか息をひそめてみてたのである。日本は日本と世界のことをかんがねばならない。結論である。

* 結論
おそらく徴用工で韓国は裁判にもおうじないだろう。国際政治学者の藤井厳喜氏もいってたが、日韓基本条約の否定には日本は五億ドルの援助を念頭に賠償請求ができる。私も賛成だ。安倍政権の歴史的転換で韓国に実効性ある力で対抗できるようになった。快哉をさけぶ人もおおいが、韓国にあたえる影響を具体的に計算し、それを踏まえた対抗措置。根拠のある措置をとるべきである。ここでいろいろと数字をあげたが、どれも根拠となるだろう。はじめてのことだから感情的にながれるおそれがあるが世界が日本をみてる。政府には毅然とした態度と合理的な対抗をおねがいする。


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対韓輸出規制、足早な韓国



* はじめに
日本がフッ化水素など戦略物資の輸出管理を実質強化した。これへの韓国の対応が俊敏だ。この二十四日からの世界貿易機構(WTO)理事会で韓国緊急提案し議論されるという。七月一日に発表し四日に個別審査に切りかえた。これから現在にいたる韓国のあわただしい動きである。

韓国はすでにWTOでこれを不当措置と主張した。文在寅大統領も声明をだし、韓国側に損害がでたら、対抗措置をとると声明した。また米国に大統領府から次長が派遣された。仲裁をもとめたらしい。これに先だって電話会談も実行された。またこの措置の事務説明会が日本側であった。韓国から二人の課長が来日、三十分を予定してたのに四時間もかけたという。さて感想である。

* 感想
ユーチューブで面白いことをきいた。まずフッ化水素など戦略物資の輸出管理である。一般的には申請にもとづき個別審査し許可する。自由貿易の振興から簡易の手続が採用された。小泉政権の頃という。これにより日本の友好国についてホワイト国として三年間の申請で個別審査を省略できる。アジアでは韓国だけがホワイト国となった。ちなみにEUでは韓国はそうでない。問題は韓国の実情だ。

フッ化水素の輸出だが、千七百トンから二千トンで推移してたものが最大三千四百トンまで急増した。これは文在寅政権発足した二〇一五年以降のことである。さらに二〇一八年後半、半導体不況深刻となったのにこの数字という。この他に不審な事案を把握してのだろう。日本の経産省は不審におもい問いあわせをした。

実ははホワイト国認定には三年に一度両国が協議するという手続がある。企業からの説明がない。韓国政府に照会したら、余計なことをいうなという態度だった。日本側はこのままでは日本がフッ化水素横流しの主犯国にされると危機感をもった。大臣まであげ、すぐ自民党に根回しをした。こんな微妙な時期に寝た子をおこすなと難行した。ところが彼らにとっては幸運がおとずれた。いわゆる徴用工の判決がおり、もうややむ得ないと一気にすすんだ。これがG20をへて今回の措置となった。国民にはしらされない裏の事情だったという。結論である。

* 結論
いまだにマスコミには韓国もわるいが日本もわるいとか、話し合いでとか、まことに無責任な議論が横行してる。韓国はいわゆる徴用工について日本側の要求を無視してる。さだめられた手続が一歩もすすまない。フッ化水素輸出においてもさだめられた協議におうじず、説明もしていない。

国民の皆さん、これが無責任なマスコミの主張の顛末だ。韓国のドタバタ振りは滑稽でもあるが、日本の措置でサムソンが倒産、大打撃と具体像がみえた。これがドタバタをもたらした。これで韓国は日本とまともに向きあわねばならなくなった。国民の皆さん、これは経済戦争です。絶対まけてはいけません。すこしでも日本の有利でおわりましょう。


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ケーガンギ歴、ペロポネス戦争(18、3の3)


* ルケムニの戦い
彼らがアテネの同盟国に脅威をあたえようとした時に、アテネは自由にだれの干渉なしに自由に彼らを受けいれることができると理解してた。三十年和平協定をやぶることは重大な問題となりうる。では、もはや平和はない。両者は海軍を編成した。平和時にコリンスは常備のおおきな海軍をもってない。その整備に取りかかった。紀元前四三五年、ルケムニ(Leucimne)で両者の戦いがあった。

そこでコサイラは勝利した。コリンスはこれでへこたれなかった。軍の強化につとめ、九十艘の艦隊をつくった。アテネ以外では例がない。彼らは公式、非公式にペロポネス同盟に助けをもとめた。同盟国はこれにくわえ六十艘をおくった。これでコリンスは都合百五十艘の艦船をもつこととなった。コサイラの艦隊は百二十艘である。彼らはこれを常時保持してた。彼らこれで自国の軍事力に自信をもっていた。だが今やコリンスはこれを数で追いぬいた。コサイラは恐慌においちいった。彼らはコリンスが彼らより強大な海軍を引きいてやってくるとしってた。それで紀元前四三三年九月にアテネにやってきた。

* アテネに助けをもとめる
さて、ここで皆さん、アテネのピニックスの丘にすわってる自分を想像してください。四三三年九月である。コサイラの派遣団があなたの町にやってきた。彼らはあなたに同盟にはいるようもとめる。その目的はコリンスとコリンスの友人たちに恐れをあたえることである。これをきいたコリンスもアテネに代表団を覇権した。彼らもおなじ丘にあらわれた。彼らはアテネが要求に否というべきであると主張することになる。ツキジデスは両者の演説を収録してる。私は彼がこの演説を丘にすわって、そこの議会においてきいていたと確信してる。コサイラの演説の要点をこうである。

* コサイラの演説
コリンスは間違ってる。これは三十年和平協定の違反でない。アテネはコサイラを同盟に受けいれることができる。中立国はゆるされる。次に彼らはコリンスが悪人であるとか、道徳上あるいはその振る舞いに問題があるとか、法をまもらないとか、主張した。だがこれらは彼らが本当にいいたいことでなかった。彼らがいいたかったのは、勢力均衡において重大な影響がある。その重要性をアテネに認識させようとしたことである。特にギリシャの海軍力において重要なのである。コサイラは海軍力において重要な場所をしめてる。これはシシリー、イタリアへの航海に影響がある。この二つはアテネやその他が常にねがってるところである。

だからあなたは我々の側にたちたいはずである。というのはどの町も都も戦時をのぞき、その港をとじることはない。彼らはこのことを常に意識してる。コサイラと同盟をもつことの重要性さはこれからである。これがもっとも強力な論点である。戦争がはじまりそうな時にアテネもけっして軽視できない。もし戦争がおきた時に我々をおなじ側におきたいとおもうだろう。というのは我々は戦略的場所におり、そこから便宜がえられるからである。他方別の論点もある。より強力なものだが、我々がもってる百二十艘の艦船である。もし我々がまければ、あるいはあなた方が我々がやぶれるのを放置するならば我々の艦船はコリンスの手におちる。ならば彼らはもっと強力な海軍力をもつ。合体した海軍力はあなた方の海軍力、海の支配をはじめておびやかすこととなる。これは想像上の産物でない。事実となる。戦争がおきそうになった時に、たくさんの出来事がおきる。戦争は不可避なのか。抑制して平和が維持できるのか、深刻な問題がおきる。

* アテネが決断しない時の問題
これがアテネが直面する非常に興味ぶかい問題である。というのは戦争がまさにおきるかもしれない時に、人々がどう行動するか、反応するかをきめる問題であるからである。もし彼らが決断しなければどうなるか。残念ながらおきることがある。もし戦争はおきないとかんがえたら、行動をとらない。でもこのことが戦争を引きおこすかもしれない。

もし反対に戦争がおきるとかんがえたなら、自分がもってる勝利できる能力を発揮しないのは危険とかんじる。それで戦争がおきそうになる手段をとる可能性がます。これはギャンブルである。どちらがよいかわからない。あなたは予測しなければならない。わからない状況がそこにある。それはもしあなたが単純に攻撃をこのむ。あなたがのぞむのは征服、ただそれだけ、というのでなければである。

あなたは常にたたかうことがより安全か、たたかわないことがそうかかんがえる。妥協することがより安全か。それはより危険をますのか。これは常に問題だ。私がみつけた大馬鹿者(imbecilities)は、人々がことなる時点で戦争をおこすことをかんがえる。それは行動をおこすことは危険だ。抑制すること、行動をおこすことをやめることがより安全とかんがえる。これがしずかな仮定であるが、これを疑問視せず、検証せず、この仮定で戦争をかんがえることである。我々の経験、私の人生経験においても、しばしば間違ってたことがわかる。どれもはっきりいえることはないのだが、私はおもう。ヒトラーの問題を研究してる人々にとり、ヨーロッパの平和をすこしずつ侵略してゆくのに順次対抗してゆくことが極めて危険な手段である。彼は一九三六年にラインランド(Rhineland)を侵攻した。そこで彼に対抗したが、これより危険といえる。

* コリンスの演説
こんなことは惟一の出来事でない。簡単な原則はない。行動しないことが良策かも。時には行動することが良策かも。だがどちらが平和と安全を生みだすかあきらかでない。そしてそれをアテネの人々はその日に考えださねばならない。コリンスはコサイラの主張に反応した。そこでコサイラがみせた姿を否定した。あなた方がコサイラと署名したとしたら、あなた方は三十年和平協定に違反するだろう。コリンスのいったことを推測するが、彼らは協定の文言を気にするな。というのはそこにはあきらかに同盟をみとめてる。

違反というのはその精神にたいしである。彼らがいう。この協定をきめた時に誰も中立国があなた方に同盟をもとめてる事態を想定してなかった。また我々の一つと戦争状態にある時を想定してなかった。誰もかんがえてなかった。問題である。法的点からはアテネは有利な立場にいるとおもう。それは基本的法原則にもとづけば中立国があなた方に同盟をもとめたら、それをみとめることができるかもしれない。そこではその中立国が我々を攻撃した場合をのぞいて違反しないというべきである。他方、ただしい判断力でこれをかんがえる。そうすることはよいか。

このようにコリンスは違反しないという主張に問題点を指摘してる。また別のことをいってるが、法的な観点から私はコリンスの主張、三十年和平協定でさだめられた原則についてでは、よわかったとおもう。どちらもその側の同盟国を他の同盟の干渉なしで罰することができる。実際はここまではっきりといってない。だが、アテネは同盟であるセイモスを罰してる。それについてコリンスはそれはよい。そちらの問題として干渉をしないといってる。コサイラはコリンスの同盟ではない。それは従来からの敵である。コサイラを攻撃するコリンスの権利をみとめる部分は三十年和平協定にはない。

* 戦争をさけようとするコリンスの主張
コリンスの立場はよわい。だが彼らの主張の妥当性、真実を見おとしてはならない。コサイラは戦争は不可避というが、そうでない。コリンスはアテネが賢明な判断して我々と同盟をくめといってるだけだ。そして共同してコサイラをたたく。そうすれば問題はないといってる。かりにそうしないとしても、最低でも彼らと同盟にはいるな。その時は友人となれる。将来にも平和があるだろう。しかし間違はないでほしいが、もしあなた方がコサイラを同盟にいれたら戦争となるといってる。ここから戦争は不可避ではないといえる。

* 決断をせまられるアテネ人たち
しかしあなた方の行動で不可避となる。それでアテネは決断をせまられる。まさにその時がきた。これは極めて重要なところである。なのでよくしってもらいたいことをいう。彼らはそこにすわってる。私がかたったことすべては一日でおきたことである。で、アテネ人たちはどうするべきかを議論しはじめた。これは同じ日である。夜があければふだんのアテネがもどってくる。するとピニックスにすわってる人々には、アティカのむこう、北方にみえるものがある。そこにはスパルタとペロポネスの国の軍が三日の時間をつかえばやってこれる地域である。もしやってきたら、彼らは田畑を破壊することだろう。

戦争がはじまれば誰がたたかうのか。我々である。ピニックスにすわってる人々である。彼らが戦争するか、どうするかを投票する。私は常に彼らの決断の直截さ、重大さに感銘をうける。ある人が私にいった。これは民主主義でない。だが、紀元前四六一年にも彼らは直面した。メガラを同盟にいれるかどうか、決断しなければならなかった。再度であるが、おおきな違いがある。だが基本となる問題はおなじだ。もし目をそむけ同盟を拒否すれば、もしかすると問題はおわり、彼らはそれから幸せにくらす。こうなるかもしれない。

また、別の可能性もある。彼らは間違いをおかす。コリンスが彼らの艦船をうばい、突然、彼らは帝国をきづいてきてはじめて脆弱性に直面するかもしれない。私は常に説明のために比較をする。十九世紀末から二十世紀はじめの大英帝国である。彼らは十九世紀初頭から、中頃、それ以降の十九世紀に間違いなく世界最大の海軍をもってた。

それは世界最強だったがフランスとロシアに対抗してた。強大な帝国の支配力の維持、その脆弱性の防護から彼らがもっとも心配してた帝国の対抗国だった。彼らはこの二国の艦隊が共同したとして、その規模をふまえ彼らの艦隊の規模を決断した。戦争が勃発しても安全が保持できるように、そうした。それですべてがうまくいってた。だがそれは、ドイツの皇帝、カイザー・ウィリアム(Kaiser William)が登場するまでである。彼は十九世紀末にむかってドイツが強大な海軍をつくるときめた。それは世界帝国となる。大英帝国に挑戦する。彼らは軍事力をもつ艦隊をつくりはじめた。

その惟一の目的は英国の艦船の破壊である。それで英国に侵入するという。あるいはそれにより脅威をあたえ譲歩をえる。それでドイツがやりたいことをみとめさせる。ドイツが艦船の建造をはじめた頃は英国艦隊をやぶるほど強大ではなかった。そして英国は海軍の競争にはいった。ドイツが英国をおびやかすほど強大とならないように配慮してやっていった。しかしそれには莫大な経費がかかった。英国はこれをよろこばなかった。彼らは可能性をさぐり、思いきってを外交方針をかえた。それは彼らが百年も維持してたものだった。彼らはフランス、ロシアと同盟をむすんだ。これでドイツを牽制しようとした。

* 海上の支配を擁護するアテネ
英国がやろうとしてたことをさまたげてた。私はこれがアテネが、英国のように島国国家として、やろうとしてたことを理解するのに役にたつとおもう。アテネは食糧供給を輸入にたよってる。それを確保するのに海上の支配が必須である。そのため勢力の均衡をゆるがすことはとてもできない。戦争になれば重大な弱点となる。

* アテネの決断
ここで指摘しておきたいことである。英国はドイツが同等の海軍力をもつまでまたなかった。彼らは方針を変更し、さけようとしてた戦争にむかっていった。あるいはその時、私がおもうにはアテネがまさにおなじ場所にいた。それは彼らがある点ではやりたくないこと。だがさけることのできない問題だった。ながい議論があったという。決定がなされるまえにくらくなった。決定に持ちこまれるかもしれない。ツキジデスがいう。くらくなった頃には同盟に反対する意見がだされた。彼らは翌日にまた会合することにした。ここで彼らはコサイラがもとめてたもの、典型的な同盟とすこしちがうことを投票できめた。

ギリシャの軍事同盟の方式である。スマヒア(symamchia)、攻守同盟である。これではアテネは外にでてコリンスとたたかうこととなる。たとえコリンスがコサイラとたたかってなくてもである。これはアテネをコリンスにたいし全面攻撃の立場におくとおもう。アテネが採択したのはこれでない。翌日である。彼らはエピマヒア(epimachia)とよばれる提案を採択した。それはもっぱら防御同盟といえる。それは敵がコサイラを攻撃し、その地域に上陸しようとしたら、その時にだけ攻撃するものである。

* 防禦同盟
これが最終的にアテネが採択したものである。もう一度いうが、以前になかったものである。これはただちに軍事の結果をもとめるより、ほぼ外交行動の仕組みである。それは、ペリクリースが関係してるとおもう。プルターク(Plutarch)がそういってる。良策とおもう。またツキジデスはそれを提案したのはペリクリースだといってないのだが、それはあきらにペリクリースがのぞんでたことだ。彼がこれにこだわってた。二つの方向、制約の条件がアテネを制約する。何がおきても制約をあたえてる。

* その考えかた、ペリクリース
これをわかってほしいとおもう。ある枠組みのなかでやってゆくということである。これはペリクリースの政治であることはあきらかである。平和を維持する政策である。我々の時代において問題にむかう時に、もし平和を維持したいなら普通の人々がとる態度である。つまり好人物をえんじたいだろう。妥協をもとめる。潜在的な敵に恐怖をあたえない。敵に悪意はないとしめす。という態度である。その合理性が理解されれば、あなたは話し合をうまくすすめられる。お茶をともにすることができるだろう。これはもちろん、次のような方策でない。平和を維持しようとする国が戦争抑止めざすやりかたではない。これは幸福な合意を生みだす希望はまったくないにもかかわらず、とれれる方法である。

もしあなたが優位ではない立場にいたら、やるべきことは敵に彼がもとめてることが実現できないとしめすことである。もし彼が戦争をしかけてきたなら、まさにそうすべきである。だがあなたは非常につよい必要がある。軍事的に、あるいは交渉においても強硬である必要がある。もし戦争の抑止があなたの目標なら、あなたは彼を打ちまかそうとしてる。そうおそれさせることに非常に注意ぶかくならねばならない。もしあなたがなりたがってるほどに、つよくなるのをみとめてたら、あなたは彼の合理性をうしなわせるほどの行動をとることをさけるべきだろう。それは彼を非常におこらせること。成功か失敗の合理的判断をわすれさせること。彼はこういう。私はやりたいことをやる。そうならないことがペリクリースが追及してたことと私はおもう。

戦争抑止と穏健の試みを同時におこなうことは、抑止で相手をおそれさせ、その意図をくじくこと。アテネが戦争の危機をさけつつ彼らができることをやってるということである。だが、また彼の怒りを駆りたてるこをさけることである。ようするに、アテネはコサイラをたすけるために十艘だけ艦船をおくった。これは私の考えから説明がつかない。ただし私がいってた戦略的の観点をのぞけばである。彼がおくったのは軍でなく外交的メッセージである。彼はコリンスにこういってる。我々はこれにつき局外者でいることを期待してたがそうはできない。我々はあなたがコサイラの海軍をまかすことはゆるさない。というのは我々がそれをみとめることができず、危険だからである。我々はコサイラをたすけるためにこの戦力をおくるがそれは、あなたとたたかいたいためでなく、このことを深刻に受けとめてるからである。戦いをはじめないでほしい。

* シボータの戦い
コリンスはコサイラに艦船をおくった。そして戦いがおきた。シボータ(Sybota)の戦いという。ツキジデスがこの戦いをかたる。非常にきびしいものだった。ここで言いわすれてたことをのべる。アテネはコサイラの戦列の最後にいた。十艘。その艦船の指揮官は三人だった。十艘にはおおすぎる数である。そこに一人の重要人物がいた。ラサダイモニアス(Lacedaemonius)である。キーマンの息子である。

* キーマンの息子、ラサダイモニアス将軍
皆んながはっきりしってることだが、彼はペリクリース傘下の一人でない。彼の意のままにうごく人物でない。彼は独立してた、彼の名前は何を意味するか。スパルタの同調者である。もしアテネがこの戦いに巻きこまれ、たたかうとしたら、それはラサダイモニアスがおこなう。それはアテネが分裂したことを意味するのでない。アテネを分裂させるのはより困難とさせるのである。私はこれで、スパルタにもっとも友好的な人々であってもこれは必要の戦いだったといえる。

* ペリクリースの仕掛け
私がいってたことはコリンスをねらいにしてたものでない。もちろん、アテネの政治だが、それとスパルタのそれである。というのは、もしスパルタがコリンスに助けをもとめられたとして、これをみて、アテネに対抗してたすけにゆく。すると彼らはラサダイモニアスがこの戦いは必要だとかんがえてるという事実に向きあわねばならない。これはおなじようなゲームのやりかたである。これはペリクリースがしかけた慎重にかんがえられた計画である。彼は非常に複雑な、仕掛けのおおい、そんな戦略を追及してたのである。時間がすぎたので次回に話しをつづける。
(3の3おわり)

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ケーガンギ歴、ペロポネス戦争(18、2の3)



* ビザンチウム反乱の動き
セイモスの人々は樹立したばかり、寡頭政治から発展しはじめた民主主義政府をたおした。事態は深刻であるがさらに深刻な知らせがはいってきた。都市国家、ビザンチウム(Byzantium)、これは後にコンスタンチノープル(Constantinople)となり、イスタンブール(Istanbul)となるところだが、ここは非常に重要な戦略の要地である。ボストラス(Bostras)にあるが、ここで反乱がおきた。またであるが、ツキジデスは後におしえてくれるが、その時期は明確でない。ミタリニ(Mitilini)島、これは有力な独立した都市国家、海軍をもつ重要な都市国家であるが、ここが反乱をかんがえていた。この時期はいくつか曖昧だが、アテネはここで突然、従来にないような危機にめんしたのである。まず、これが拡大してゆくと反乱が全帝国にひろがりかねない。次に、ペルシアがアテネ帝国にたいし積極的攻勢にでている。セイモスの反乱をたすけたのはすでにのべた。我々にも、アテネにもわからないことだが、州長官、ピサスニイスが大王の命令におうじ行動をとるが、大王の指示にしたがう行動か、あるいは彼独自の判断によるかわからない。最初なら非常に深刻である。これはペルシアからの主要な脅威といえる。次のはすこし緩和された脅威である。判断がつきかねるというのは、まったく時間があたえられてないのか、ピサスニイスが大王に相談するのか。それにより時間がかわる。大王がすんでるスーサ(Susa)から命令がもどってくるには数ヶ月かかる。まずかんがえるのは、ピサスニイスが彼独自の行動にでるということである。問題は彼が大王がどのように反応するかをしってるのかである。我々はただ推測するのみである。しかしここでアテネにとり本当の災厄といえる三つ(trinity)ある。うちの二つである。

* ペルシアの策謀
これはアテネにとり大厄災だった。もし我々がペロポネソス戦争を将来にみるならば、それをしらべればわかるが、アテネをおわらせ、その帝国をおわらせるものとわかる。それは帝国における反乱の頻発であり、ペルシアによる反乱の幇助だった。三つ目だが、スパルタが戦争に参加すること。決定的な事態である。その内容はアティカに侵入体制をととのえ、あるいはその実行とアテネとの陸上における戦闘である。この三つ目だが、紀元前四四〇年、スパルタはペロポネス同盟の会合を招集した。そこでアテネと戦争するかも。そこにはアティカへの侵入もある。ここで戦争が発生する。ではアテネをまかすに何が必要か。この問題が取りあげられた。紀元前四三一年、四三二年にしることとなるが、四三三年になされた演説がある。それを私は取りあげる。そこにコリンスの態度がどうだったか。これが戦争に突入する決定的事項だった。コリンスの戦争への動きは紀元前四三三年からはじまってた。すくなくとも戦争への動きはそうだった。

* 内政干渉に反対するコリンス
コリンスの蠢動<はスパルタが戦争にはいるのに決定的な役割をはたしたとおもってる。彼らは何をした。彼らはアテネにゆき、アテネが戦争に突入するような手段をとらないように主張した。彼らはこういった。セイモスが反乱をおこした時に、ペロポネス同盟の国のなかでこれをたすけるかどうかの問題で投票をおこなった。意見がわかれた。コリンスはアテネに対抗する意見をとらなかった。それだけでなく我々は二つの同盟はそれぞれの規律をまもり他の同盟の内政干渉をすべきでないと公然と主張した。これは極めて重要である。当時は全員が合意してアテネを攻撃するとなったかもしれない。それを我々が阻止した。そう主張したのである。これは真っ赤な嘘とはいえない。というのは、アテネもギリシャの世界の誰もその会議でおきたことしってた。おそらく彼らは自分の役割を都合よく誇張しただろう。だが、彼らがスパルタに同調し戦争に参加すると誤解させることをしなかったろう。

私はこんな疑問をもってる。アテネがどうでるかを憂慮してたコリンスのことである。紀元前四六一年、四六〇年にアテネとメガラが同盟してコリンスに敵対した。これで最初のペロポネソス戦争がおきた。彼らはこれをわすれたのかということである。ツキジデスはコリンスがアテネを憎悪する原因となったといってることである。にもかかわらず、戦争に反対するという立場をとったという。何故なのか。

* 平和維持の可能性
私の答。それはイタリアの植民都市、シリアイである。私はペリクリースやアテネ人たちがこれをとおしておくった外交的メッセージをコリンスは受けとってたとおもう。それを理解し彼らの外交政策を変更した。アテネが彼らの支配領域の外にいるかぎり彼らは平和をまもってゆくとした。もしあなたがこの類推に同意するならばこれは非常に重要な話しである。四四〇年には戦争への危機がたかまった。平和はの維持はむずかしくなった。だがなおも私は平和への道は可能であったとしんじる理由がここにあった。

私はさらにいいたい。この重大な危機を切りぬけ、平和への道がさらにあったとおもう。両方が相手を信頼することができるとしんじる理由があり、両方が構築してきた規則にのっとり行動するとしんじる理由があったからである。だがちいさな問題、それは非常にちいさいとはいえないのだが、問題があった。それはコリンスがかんがえていた平和の内容が、アテネがかんがえてたものと、まったくおなじといえないことである。そしてこれが最後の危機にめんした時に深刻となりうるものだった。

* スパルタが会議を招集
紀元前四四〇年にいたるまでは、セイモスの反乱は戦争が必然といえない状況だったと私はおもう。両方の頭のなかにある考えは完全におなじだった。現代の言葉でいうところの力の均衡が成立、両方ともが相手をみて同等とみてた。両者はそれぞれの勢力範囲を確立し、その外に相手がいた。その状況はどちらにとっても満足できるものだった。スパルタが直面する問題とその対処の議論はまさにこの点に集約してた。ある学者はいう。スパルタはアテネとの戦争をやりたがっててたと強調する。そして、そうでなかったらこのペロポネス同盟の会議を招集しないという。そのとおり会議は招集された。彼はその事実を戦争は決定されたと主張する。それがコリンスや同盟国の話しにより外にもれたのだという。私はそうでないと解釈する。私は紀元前四四〇年のスパルタは第二次ペロポネソス戦争がはじまる頃とおなじ。つまり意見はわかれ、決断できなかった。攻撃的スパルタの一派はセイモスの反乱が絶好の機会をあたえたととらえた。

* ツキジデスは戦争不可避と
だが、より保守的、伝統的なスパルタの一派はアテネとの戦争には慎重であった。タカ派はスパルタを強制して同盟国にうったえる、その力を充分にもってた。同盟国に決断をせまることができた。私の見解はこうである。保守的スパルタは通常多数派である。彼らは極めて特殊な環境、条件でなければ戦争を決断しない。そしてコリンスはこんな状況はめったにおきないとおもってた。注意してほしいが、これはすべて解釈の問題である。ツキジデスは、結局のところ戦争はおきるとかんがえてた。私もおおくの人も、それが彼の考えとおもう。

* 両者の戦争への思惑
私がのべた両者の存在が事態の進展に影響をあたえたと彼自身はのべてない。しかし我々は証拠をもっており、それで、自分の考えをまとめる。私の結論はのべたとおりだ。この後に、アテネはセイモスの反乱を制約なしで鎮圧した。ビザンチウムでは帝国を回復させた。さらにのこりの年月、あるいは戦争にむかう年月において彼らはエーゲ海の支配を強化し、当面の帝国の支配を強化してゆく。

また戦争は不可避と主張する学者はこの後に帝国を強化してゆく、それはアテネの勢力の拡大であるというが、私にはこの言葉の意味の拡大解釈のようにおもえる。それは彼らがすでにもっていたものをよりたしかなものとしたいうべきとおもう。

* 第二次ペロポネス戦争
私がのべたところだが、アテネの行動がスパルタにおそれをあたえ、あるいは困惑させたかどうか、まったく証拠はない。これは重要なことだった。それは最後の危機状況となった時にアテネがやったことにおおくの不満がきかれたからである。だが、アテネが拡大していったとの事実、いくらかの学者がそうかんがえているが、それへの言及はまったくない。それはともかく、また危機は乗りこえられた。私がここでいいたいことだが、状況をかえるようなあたらしい要素がないにもかかわらず戦争がおきるという主張に理由がまったくないとゆうことである。こんな状況で最後の危機状況にうつった。これが私が戦争は不可避でなかったといいつづけてた事情である。 それでも戦争がおきた。なら私は何故戦争がおきたか、いわねばならない。それをいおうとおもう。まずツキジデスが話しをはじめようとしたところからはじめる。それはどのようにアテネが帝国となっていったかをのべたところからである。

* 戦争のはじまり
彼の歴史書のIの最初の部分で、アテネとスパルタはギリシャをそのあいだで分割した。その姿をあつかってる。これはIの第二十四章にうつる。ここで突然危機が発生する。どこではじまったか。それはエピデムニス(Epidamnus)という町からである。ギリシャ半島の西部沿岸、イオニア海(Ionian sea)にせっするところ。ローマ時代ではディラキウム(Dyrrachium)とよばれてた。当時は重要な道路がはしってた。だがギリシャ時代では僻地だった。当時の重要な都市につながってもいなかった。私はネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)を思いだす。戦争の危機が中欧のチェコスロヴァキア(Czechoslovakia)という場所でうまれた時に彼がいった。それは常に我々がまったくしらない僻地でおきるといった。私は一九三七年にそういわれてもおどろかない。でもこれをエピデムニスにいうのは相当のことである。つまり当時のギリシャ人にとってまったくしらないとんでもない僻地であったからである。その町はまったく重要といえないものである。これは本来ではまったく重要でない場所だが、ある条件のもとで重要となった場所である。そこから大戦争がはじまるというおおくの例の一つである。エピデムニスがこの場合に重要となったのは、それがコサイラ(Corcyra)により創設されたという事情である。これはエピデムニスのずっと南にあるコフウ(corfu)という島にある。

* エピデムニスとコサイラ
ところでこのエピデムニスだが現代はアルバニアになる。そこのドゥレス(Durres)とでもいうところである。それはともかく、コサイラがそこに植民都市をつくった。数百年前のことだった。ところでコサイラ自身はコリンスがつくった植民都市だった。すでに前の学期でのべたが、それは非常に特殊な植民都市だった。それと母都市との関係はまったくかわってた。ツキジデスがいう。歴史上、両者のあいだで最初の三段櫂船による戦闘がおこなわれた。紀元前七世紀のことだった。

* エピデムニスの内乱
それから繰りかえし戦いが両者間で百年間に何度もおきた。両者は互いに憎みあった。長年の憎悪が数百年間も伝承されてきた。これがここでおきる事態を理解するのに重要な点である。それはさておき、紀元前四三六年頃、エピデムニスにおいて内乱がおきた。これはギリシャ世界ではめずらしいことではない。民主主義側と寡頭政治側のあいだに発生し、一方が政権をにぎり、他方を追放した。追放された側は近隣の蛮族に助けをもとめた。

* コサイラの中立政策
これは辺境で非ギリシャ系の蛮族がいる地域でおきることである。そこで城攻めにあった側がその母都市に代表団をおくった。つまりコサイラに助けをもとめ、城攻めを解放し平和をもたらすようもとめた。だがコサイラはこれに興味をしめさなかった。たすけようとしなかった。彼らはどちらかに味方しようとした形跡がなかった。この争いに関与する意義を見いださなかった。コサイラにとっては戦争がおきるかもしれないという事態に意味を見いださず関心ももたない。すべてに中立を維持するという立場だった。彼らはペロポネス同盟に参加してなかった。またアテネ同盟にも、どことも連合してなかった。

* コリンスに助けをもとめるエピデムニス
実際、彼らは有名だった。もしコリンスのいうことをしんじるなら、彼らは極めて横柄であり、誰とも連合しなかった。もしコサイラ人にたずねると、彼はソルズベリー卿(Lord Sallsbury)の言葉、十九世紀末期の英国は偉大な孤立をたのしむという彼の言葉をつかうだろう。だがソルズベリー卿や他の人々が孤立主義がそれほどすばらしいものでないことに気づくのにはおおくの年月がかからなかった。それはコサイラもおなじだった。コサイラは当面の対応として、そんな内部の争いは関係ないとの態度をとった。そこでエピデムニスは船にのってコリンスにいった。ここから人間の行動の原理、その重要なものをしることができる。

あなたが、お母さんのところにゆき、車の鍵をかしてくれといたら、何がおきるか。彼女はいうだろう。駄目お婆さんのところゆきなさい。するとお婆さんはなんというか。ふるくからある話しの筋はこうだ。どこかの隣人がお婆さんにいう。あなたの孫は隣人の子どもをつかまえ、三階の窓から放りなげた。お婆さんがいうには、それはでかした。元気がいい。それでコリンスの反応だが、お婆さんのようなものだった。彼らは城攻めにあってるエピデムニスの人々に助けをおくることを了解した。そして陸軍をおくることも了解した。まず艦隊をおくった。次に陸軍をおくるという。彼らはそこにゆき、あらたに植民都市の再建をやるつもりである。というのは都の内部は分裂してた。

* コリンスの介入
もし内部の市民が最終的に勝利するなら、彼らはあたらしい市民を必要とする。というのは、彼らは自分たちをころそうとしてた人々にもどってほしいとおもわない。そこでコリンスはそこに移住する植民集団を組織した。そしてエピデムニスにかんがえられるすべての便宜をあたえた。さて、コリンスがどうしてこのような莫大な便宜を遠隔の地のあらそいにあたえたようとしたか。その理由である。学者は数百年以上、現地調査をして、具体的な利益が何かかんがえたが、まったく見つからなかった。コリンスにとっての経済的利益、説得力のある理由はない。もしエピデムニスにたいする何かの支配力を手にするのか。否である。そこで我々はツキジデスの質問と答の記述にもどってしまう。コリンスとコサイラのあいだのいざこざがが何に起因するか。彼は両者のあいだにある憎悪感情といった。そこの文章をよくみてかんがえる。というのはツキジデスは我々がこれに首をかしげるだろうとしってたからである。では彼はいう。毎年、コリンスは宗教の祭事をひらく。彼らの土地にすべての同盟都市の代表団がやってくる。これは本当に普通のこと。母都市として彼ら、代表団を待遇する。敬意、尊敬、感謝、親切をもって待遇する。コサイラについてはどうする。彼らには公然と馬鹿にする。名前をよび侮辱する。

* コリンスのコサイラへの憎悪
まるで彼らをゴミのようにあつかう。つまり家族の前で侮辱するようなもの。つまり、コリンスは彼らを本当に毛嫌いしてる。彼らがやってることはこの結果である。これは現代の学者を困惑させる。学者たちは人々が戦うのは二つのことからと理解してる。まず過去にもあり、現代にもおおくがみとめてるもの、すなわち金である。経済的な利得。これはマルクス(Marx)に感謝できることである。

数百年以上ものあいだ人々はお金という利得をのぞいて大切なものはないということを理解できなかった。そうであることを説明しよと学者は努力したができなかったのである。もう一つは力なのだが、もしあなたがこの国にくみするなら、それは勢力の均衡をあなたに有利にする。ところでエピデムニスの場合は本質的に力の問題は無関係である。つまりコリンスとコサイラの力関係はかわらないとゆうことである。

* 両者の争いの不思議さ
コリンスがエピデムニスを取りこんだとしても、あるいは非常に戦略的な利益をあたえたとしても、コサイラがそれだけまずしくなるわけでなく、弱体化するわけではない。もしあなたがエピデムニスを利用して攻撃できるならば、それ以外の領域ではなく、ここエピデムニスからだとして、否である。結局、ツキジデスがいってることの他に理由はない。つまり名誉と不名誉で損害をあたえることである。非常に迂遠な理由といえないか。二十世紀、二十一世紀において名誉をどれほど重要視するのか。なんと馬鹿げたことか。私は今日の世界で、あなた方や他の人がどんな問題でもしめせるが、特に衝突についてはそうだが、これ以外の理由でおきてることをしめせる。

名誉とあなたの生き方や生活への影響をかんがえる。具体的な説明をしよう。重要なのは否定的な側面である。名誉より不名誉が重要である。人々は不名誉にさらされることをきらう。こんな時につかう俗語がある。私が子どもの頃にはつかえなかった。あったのだが、つかうのはゆるされなかった。それをいうと、彼は私を侮辱したである。この意はわかりますか。これをいうとあなたの前歯が危険になる。もしわるい連中をそうした場合のことである。こんなことが人々に常に影響をあたるとおもいますか。

私はそれをあなたにしめしてきた。不名誉が常に国民をうごかす世界について説明してきた。今日において、また、二十年前、あるいは五百年前、あるいは二千年前についてである。まさにツキジデスがここで我々にしめしてることである。これは重要で普遍の真実である。これがツキジデスが現代の政治学の学者、国際関係を研究分野としてる学者よりすぐれているところである。彼らはこれらを理解しようとしないが、ツキジデスは理解してる。それで私はここでおきてることを指摘するが、コサイラにとってはっきりしてきたことは、コリンスが関与し、戦いにむかおうとすること、コサイラに不名誉をあたえて、彼らの植民都市をうばおうとしてることである。

コサイラは一つに怒りをはっし、他方で恐怖をもった。というのはコリンスが強大な力をもつ国であり、さらに重要なのはコリンスがスパルタの非常に強力な同盟国である事実である。もしコリンスがコサイラに苦しみをあたえようとするなら、これはペロポネス同盟がさらにコサイラを圧迫する事態の前の段階である。そう認識すると、コサイラはコリンスに協議をもとめる。そしてやってきたのだ。そしてこの問題を平和裏に片づける道を見つけようとした。それは和平交渉だった。コリンスは強硬だった。彼らはいった。あなた方は平和をもとめる。それはあなた方がやらねばならないことである。軍をこの都市、城攻めをかけてるところから引きあげねばならない。というのはコサイラは艦隊を繰りだし、たたかい勝利したからである。

* 両者の交渉の膠着
コサイラは何をしてたか。彼らの陸軍は平野にいて、海軍は海にいる。これらは都の内部にいて抵抗してる人々にむかってるのである。そこでコリンスがいう。あなた方は彼らとたたかってる。だがそこであなた方の軍を引きあげる。そうすると我々は和平について話しあう。これは抵抗する人々を有利にするものである。コサイラはとんでもないという。またいう。あなた方が人々を引きあげるなら、我々も引きあげるという。コリンスはとでもないという。

このやりとりは実は重要とおもう。コサイラはこの争いを拡大しようとおもってない。おわらせたいとおもってる。それは彼らが平和をあいし、好人物であるからではない。この状態が進展する先に不安をかんじてるからである。我々は今や二十世紀で成果があがる取引をおこなってる。紛争の拡大は彼らがねがうところでない。我々はここでちいさな争いをすすめてる。しかし次の段階ならばペロポネス同盟が関与してくるだろう。コリンスはあきらかにこれを心配してない。これがまさに我々が心配しなければならないことである。コサイラがいう。この交渉が成功させられないなら我々は同盟をもとめることになるだろう。それは我々がもってる以外のものである。ツキジデスが我々にいう。

彼らは現在他に同盟をもたない。では彼らがもとめるという同盟はどこか。どこか、わかる人は。そう、アテネである。まさにそうである。誰もが彼らがしめしてることは、わかる。これは脅威である。交渉でコリンスは強硬姿勢をしめしてる。それは彼らはスパルタをたよりにしてるからである。では、もしそうするなら、我々はアテネに助けをもとめる。するとどうなるか。これで事態はまた一歩前進した。コリンスは脅しにまけない。もしそれが脅しだけだったらということである。私はコサイラはこの会合でこの争いを調停者に提出するといったとおもう。

* アテネとの同盟へ
これは仲介(mediation)でない。それを第三者に提出しその解決にまかせるのである。だがコリンスはこれを拒否した。私はこのことだけでも、この時点で誰が戦争をのぞみ、誰が平和をのぞんでたかをしめすとおもう。さらに三十年和平協定で中立国は自由にどちらの側にも参加できると規定されていたことを注意する。
(2の3おわり)

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ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(18、1の3)



* はじめに
はじめにおことわりする。ケーガン教授の該博な知識、精密な論理についてゆけない。そのため説明がわからない。やむえず大勢をあやまらない。これで割りきった。一体こいつは何をいってるのかとかんじたら、それは私の無能ゆえである。
引用:18. The Peloponnesian War, Part I (cont.)、YaleCourses、2008/11/20 に公開

* 年表
449 キャリアスの和平
445 三十年和平協定
443 イタリアの植民都市建設
440 セイモスの反乱、スパルタで会議
435 ルケムニの戦い
433 シボータの戦い
431 第二次ペロポネソス戦争

* 和平から戦争までの話し
紀元前四四五年に三十年の和平がむすばれた。もちろん、彼らはしらなかったが、大ペロポネス戦争が十四年後にはじまる。二つの戦争のあいだにおきたことを我々はすこししってるが、それは興味ぶかい。我々がはなしてきた和平、その性格をしる証拠がある。これの解釈はなかなか容易ではないのだが、これからもつづく和平なのかを見きわめることが必要である。またそれが長期にわたる国際関係を制御してゆくものなのかも必要である。あるいはであるが、たんなる和平、不可避の戦いがやってくるあいだ、束の間の和平であるのか。これらはこれからの十四年間におきることでたしかめることができる。

* 和平、長期にわたるものか
問題とせざるをえない疑問がある。両方の意図だ。それは和平の客観的要素といえず、だがより重要なもの、たぶんそうだが、それをある程度たしかめることができる。ペリクリースはなおアテネの政界における指導者の地位にある。あきらかにアテネ側の和平の交渉者である。裁定者の条項が彼の発明という私の考えがだが、このとおりならば彼はこの和平の性格をきめるうえで、おおきな役割をはたしたとみる。すると当然の結論だが、彼は将来にわたる和平遵守を確固たる方針としてる。あるいは可能なかぎり、それを遵守するだろう。それは、和平がはじまる前の数年間にみることができる。それは戦争ははじまる前の数年間でもある。アテネはペルシアの王と和平をむすんだ。アテネの交渉者はキャリアス(Callias)という人物であり、歴史の本にはキャリアスの和平という。ここには古代のギリシャの歴史において議論される問題がある。つまり本当に和平なのかという点である。あるいは公式なのかそうでないのか。古代の歴史家においてもこれは史実といえるのかと疑問もある。これについての論爭であなた方をわずらわせるつもりはない。公式の和平だったというのが私の意見である。しかし、公式か否かはたいした問題でない。というのはアテネ側とペルシア側の両方がこれを事実上の和平だとしんじてる。それも長期間にわたりしんじてる。またこれは大ペロポネス戦争のなかでもやぶられなかった。紀元前四一二年にスパルタとペルシアのあいだに条約がむすばれたが、そこまでやぶられなかった。

* キャリアスの和平の性格
ここでペルシアはアテネにたいし戦争にはいった。だからペルシアとの和平は相当期間つづいたといえるのである。キャリアスの和平のはじまりは紀元前四四九年が、従来の見解である。プルタークが惟一指摘してる。これをうたがってる歴史家もいる。というのはペリクリースが全ギリシャの会議を呼びかけたが、そこの主題の一つがペルシア戦争の後に我々が約束をどのようにまもってゆくかであったからである。そうして戦争のなか、ペルシア人により破壊された神殿を再建するかの議論につづく。また、海上の自由をどのようにまもってゆくかであった。この戦争で破壊された神殿は、結局のところすべてアティカにあるものをさす。アテネはこの機会にあきらかにすべてのギリシャ人を巻きこみこれらの神殿の再建の費用を分担させようとしてた。そこでもっとも利益をえるのはアテネである。そして海上の自由の維持は艦船の提供を意味する。それらはペルシア戦争を遠さけ海賊を排除するものである。

* ペリクリースの再建計画
アテネがあきらかにこの艦船をもつ。 これにより、すべてのギリシャ人はこの艦船の活動に参加するならば、アテネ帝国とそれを偉大なものとする海軍の両方を正当化する方法となる。またさらにペリクリースがかんがえてる構想を正当化する方法ともなる。それがこのとおり最大限に実行されたとすると、神殿を再建し、さらにアティカの別の場所のアクロポリスのうえにも新築する。これらはアテネの偉大さと栄光の証しとして建築される。この建築計画は彼のこれからの生涯のなかで彼の国内の政策の中心となる。

* ペリクリースの考え
彼はすべてのギリシャ人をこれにさそった。だが、そこにはスパルタとその友邦が登場するべくえらばれてはなかった。何故か。アテネにとり魅力的だが、スパルタにとりそうでない理由がある。こんな主張がある。ペリクリースはスパルタが受けいれるとかんがえてなかった。あるいはスパルタと他のギリシャの人々はこれに参加しないとかんがえるから、アテネが一方的にやっていく。これを彼のやりかたでやったのだという主張である。一つの考えはこうである。スパルタがあらわれず、また、その同盟国もあらわれず、彼らが約束をまもるともいわない。なら、アテネがやるという。これは偉大な神殿をアクロポリスに最初に建築する正統な理由となる。この建物、パルテノン神殿はギリシャ世界でそれ以降、偉大な誇りとなったのだ。

* 建築計画と海軍整備の正当性
そして、莫大となる費用に彼は同盟の資金をつかうつもりである。これを正当化しなければならない。彼はそれが議論されることを希望してる。海上の自由の維持である。おおきな艦隊が存在することに正当性をあたえる。費用について同盟の資金がつかわれる。言いかえるとこれはアテネ帝国の正当性をあたえる。彼は間違いなくこの神殿の建築と海上の自由が必要とかんがえていた。というのは彼がペルシアと正式な和平を成立させたのはそうかんがえたからである。ペルシアにさらにおおくの攻撃をかけてゆく。ペルシアを追いだし、もはや脅威でなくする。こうなったらどうして同盟国は彼らの艦船を提供し資金を提供するだろうか。参考までにいうが、当時は彼らが提供するほとんどは資金でなかった。そしてアテネは艦船の乗員すべてを提供していた。

戦争がおわった。なら何故つづけるのか。ペリクリースはアテネは彼らの艦隊、帝国、これらをささえる貢納金を放棄することをかんがえたことがない。彼はこれを維持する理由を必要とする。私の見解はこうである。他のおおくの学者の見解もそうだが、この会議の宣言(decree)はその動機をふくんでた。彼は本気か。もしスパルタが我々もやると言いだしたら彼はどうしたか。私は彼らはそうしないと予測してたとする。だがそうなる事態にもそなえてた。というのは次の理由からである。スパルタが合意する。そうなら貢納金をはらう。また彼らはアテネに海軍の活動の正当性をみとめる。するとこれは両者のあいだのある種の統一が戦争をしにくくするのに役だつ。だから、これはすばらしい状況といえるのだ。

* ペリクリースの平和への見通し
ペリクリースの建築計画は平和を必要とする。というのはアテネが戦争するならば資金がつかえない。つまりこの理由から彼はやったといえる。これは私の推測だが、ほぼあたってた。だが別の展開もありえた。その場合の備えももってたとおもう。この推測をささえる証拠がある。ペリクリースは本気で三十年和平をつづけることを希望してた。あるいはこれが促進剤となって、恒久の平和、そうでなくとも数年間の将来にわたる平和につながるとおもってた。

* イタリアに植民都市建設
もう一つの証拠がある。これは議論があるが、これで事情があきらかとなる出来事である。紀元前四四三年だが、アテネはイタリアの南部、そこに植民都市をつくるのに協力した。シリアイ(Thrii)という名前である。ここに興味あることがある。それはギリシャ世界において前例がないことである。アポイキア(apoikia)、母都市だが、これは都市の植民地、その都市の母都市である。この両者の関係をしってるともうが、めずらしいが複数の都市が共同しその都市の母都市となることがある。

* 汎ギリシャの性格
これは汎ギリシャの植民都市として最初からつくられたもの。言いかえるとアテネの植民都市ではない。たとえアテネが主導したとしてもである。またアテネがその植民地をつくるのに重要な役割をえんじる人物を指名してもである。創設者(oikos)はアテネ人だった。ペリクリースは指導的人物を管理者におくった。宗教の指導者もおくった。彼らはこの都市の創設に役だつようにとおくったのである。

* アテネの協力
ヘロドタス(Herodotus)、彼はペリクリースの友人だったが、彼は歴史の父といわれてる。彼はこの都市の歴史家としておくられた。ヒポデイマス(Hippodamus)、紀元前五世紀の有名な都市設計者であるが、そんな大物がかかわるかとおもうかもしれない。だが、彼はこの都市の道路が直角に交差するよう設計した。ふるい都市の例である。アテネについていうと、牛のかよう道が発展して道となった。だからあちこちでうねってる。ということで、現代の格子状の道路はヒポデイマスのはじめたことである。これらの人々はペリクリースの友人とその仲間であり思想集団といえる。そしてこれらの人々がシリアイにゆきこれをつくった。

* ペリクリースの協力
これらがすべてが興味ぶかい。何故、汎ギリシャ植民都市なのか。それはペリクリースが主導したから。私はそうおもう。また、この都市の構成員はさまざまな都市からきた。だがアテネが単独で最大をしめる都市だった。この都市の他都市の出身者はアテネであった。この都市の構成の比率は、哲学者のプロタゴラス(Protagoras)が設計した。彼もまたペリクリースの友人だった。そこでは十の部族から構成されてる。アテネとおなじように民主主義だった。その政体(constitution)はアテネを模範とし、よくにてた。十の部族といったが、その数は均等になってた。それは陸軍の部隊の数がおなじになるようにそうしてる。これらの人々の十分の一がアテネである。全体でアテネ人が他の都市よりおおかった。他にいくつかの部族がいた。ペロポネソスの人々だった。

* アテネ、独裁をゆるさない体制
それは特定の都市からではない。すべてのペロポネソスからやってきた。私は市民の構成からアテネが支配権を独占することをゆるさない体制だと指摘しておく。これを私は汎ギリシャとよぶがその理由は次のとおりである。ペリクリースがこの性格が重要とみてた。この都市はイタリアからの要望にこたえて設立された。彼らは彼ら自身の都市で問題をかかえ、あたらしい都市をつくる必要があった。それがうまくゆくために、もっとおおくの市民を必要とした。

そこでスパルタにいった。興味がないとことわられた。で、アテネにいった。了解し我々はこれに協力するといった。さて、アテネの別の反応だが、否、あるいは普通のやりかたでは、了解といって、アテネの植民都市をつくることもできた。何故アテネが前例のないあたらしい都市の考えをだしてきたのか。それはペリクリースがアテネが今、そして将来にわたってしめしたいとおもってるものをしめす。そのよい機会だとおもったからとおもう。

* 帝国主義の否定
それは彼らが西に勢力を拡大するつもりはない。これをあきらかにしめすもっともよい方法だった。その気になればアテネの植民都市をつくれたはずである。他の学者はそうおもわない。これを帝国主義的意図の最初のあらわれとみてる。これはペリクリースとアテネ人がおかした、実質的条約違反のはじまりだ。条約の精神をおかしてるという。私は間違いである、それは容易にわかる。まず、都市内の状況、これはすでにのべたとおりである。次に、あなた方は、それは西への帝国主義的試行でないか、というかもしれない。だがそれはアテネの植民都市でない。そこのアテネ人は十分の一である。また他の証拠もしめすことができる。

都市設立の一年後だが、隣りの都市と戦争にはいった。タラス(Taras)という都市である。これはローマのタレンツム(Tarentum)地方の都市である。現代のタラント(Taranto)である。それはスパルタだけの植民都市である。ここにシリアイとたたかうスパルタの植民都市がいたのである。ここで想像してほしい。これはアテネの植民都市ともいえるが、多数の考えをもつ人々はどういうか。アテネはどうするか。これはもっとも重要とおもう。それへの答は無だった。タラスはシリアイをやぶった。それをはっきりさせるために彼らは勝利で獲得したものをオリンピアにかざった。そこでは競技会が開催されてる。そこにすべてのギリシャ人がやってきて、それをみる。そこで彼らはシリアイへの勝利をほこらしげにみせた。これにアテネはどうしたか。無である。これは帝国をシシリーに、あるいは他のイタリアの地に拡大してゆこうとするやりかたでない。

* シリアイの所属,デルファイの神託
これは帝国主義がそこで機能してたという主張にはおおいにこまる事実である。それから数年、紀元前四三四から四三三年のこと、危機がうまれた。そこではすでに大ペロポネス戦争がはじまってた。誰もがアテネとスパルタのあいだに戦争がはじまると予想してた。当時はシリアイではおおきな議論がおきてた。我々はどこの植民都市なのか。アテネであるといえない。論爭のなかでは、シリアイのアテネ人はアテネと主張した。というのは他のどこよりもおおくのアテネ人がいるからである。たしかにおおくのアテネ人がいる。だが都合すればアテネ人よりペロポネソスの人々がおおくいたのである。

そうなら、我々はペロポネソスの植民都市である。我々はスパルタの植民都市である。結局、合意ができなかった。そのため、デルファイのアポロ神の神託によりきめようとした。これは興味ぶかいことである。ではデルファイの神託は誰にかたむくか。我々はこれにつき明確な根拠をしめすことができる。紀元前四四〇年代においては、スパルタよりである。あらそいがありフォシス人に対抗し神官たちをまもったのはスパルタ人であった。アポロの神官の決定がスパルタよりとなるとの根拠である。実際はどうなったか。神官がいうのは、あなた方はアテネの植民都市でない。また、スパルタの植民都市でもない。あなた方は私の植民都市である。アポロのものである。非常にうまいやりかたである。しかしたしかなことは、あなた方はアテネの植民都市ではない。では帝国主義のアテネ人はどうするか。

無である。これは西をめざすアテネの帝国主義者たちがいたとして、その主張を完全に否定してる。ではかんがえる。何故、彼らは帝国主義をすすめなかったか。何故、彼はかってやったようなやりかたですすめなかったか。あるいは何故、彼は反応したか、あるいは反応しなかったか。私が示唆するところはこうである。歴史のうえに直接の証拠はない。だがそれは現代の用語をつかえば、外交上の象徴といえる。ペリクリースがアテネ以外の世界にたいし、特にスパルタとペロポネソス同盟国にたいして理解してもらいたいことである。アテネはその帝国をギリシャ本土、あるいは西に拡大しようとする野心はない。これである。これは三十年和平協定にしめされてる。アテネ帝国はエーゲ海とその沿岸地域、ペルシアにむかう東の方面である。これは現状だが、現代の用語でいうとアテネの影響がおよぶ領域である。

* コリンスへむけられたメッセージ
それより西にアテネは立ちいらない。関与しない。私の見解であるが、ペリクリースはシリアイの問題においてメッセージをだしてた。そうなることをしってた。西についてもっとも関係がふかいのはコリンスである。というのはコリンスの植民都市の連鎖は西にある。その商業の中心もイタリア、シシリーなどの西にあるからである。ということで彼がこのメッセージをもっとも受けとってほしかったのはコリンスとおうもう。これが役にたったか。我々はもうすこし後にしることとなる。これが成功、不成功のいずれにせよ、私がのべたこれらの出来事を説明できる惟一の考えととおもう。だが、すでにのべたが他の学者たちはこのように理解していない。

* セイモスの反乱
紀元前四四〇年となる。和平の成否にかかわる大事件がおきた。セイモス島(Samos)の体制は寡頭政治だった。これは帝国における有力国だった。自治体制をもってた。すなわち自分の艦隊、政府をもってた。アテネが征服した時にはその政府は寡頭政治であり、民主政治ではなかった。そこに反乱がおきた。それはまず二つの都市の紛争からはじまった。セイモスと、小アジアの沿岸にちかい島、その町であるマイリーダス(Miletus)。そこは哲学の都市として有名だった。セイモスから反対にあるところだった。この二つの町のあいだにあたるところで、本土のちいさな町。これはプライイニ(Preine)だが、これを両者がその領有権を主張した。これは都市国家間の領土についてで従来からよくおきる紛争である。だがアテネにとって特別な問題だった。一つはアテネは有力な島、セイモスとの戦いに巻きこまれたくない。彼らとは長期間にわたり関係をもってた。他方、同盟の覇権をにぎる勢力として同盟有力国が他の小国を侵食するのをゆるせるか。これがまさに今おきてる。もしあなたが自分がもつ覇権をただしく適用しようとするならこれはゆるすことができない。そこでアテネは可能な最善策として相違をちいさくしようとした。

* セイモスを鎮圧
彼らは裁定者としてこの争いにかかわろうとした。これにより戦争をさけようとしたのだ。セイモスはこれを聞きいれようとはしなかった。セイモスは当然、マイリーダスを打倒しようとした。そしてそれをやった。彼らは彼らがこれまでやってることをやってる 。それだけだった。それが過去にアテネが主張してた自治だった。しかし、アテネはそれをゆるすことができなかった。これは両方がその立場から主張できる権利であり、そこにおきる紛争だった。これは必然的に争いと問題を引きおこす、二つの正義の問題だった。で、アテネが最後に勝利したが、セイモスは裁定者をことわり、マイリーダスとたたかった。ペリクリースはただちに艦船をあつめ海をわたり、反乱を鎮圧した。力によりそうした。その次に反乱をおこした都市国家に十年来やってたことをやった。

* ペルシアの介入
従来の政権をおわらせ民主主義を樹立した。彼は貴族政治家あるいは寡頭政治家から人質をとった。彼らがただしく行動するよう彼らをちかくの島においた。その他のことは融和策だった。誰にも賠償をもとめず、誰も処刑せず、市民の土地を取りあげなかなった。彼はそれ以上の強権措置をとらなかった。それが彼の希望だったとおもう。今後、セイモスは、民主主義をつづけ、それをつうじ信頼を回復し、友好的に振るまい、これ以上の問題を引きおこさないと希望したのだ。人質はこれらを確保する手段だつた。しかしやぶれた寡頭政治家は敗北を受けいれなかった。彼らはペルシアの州長官のところにいった。イオニアの州長官であり、その名前はピサスニイス(Pissuthnes)という。彼は援軍をあたえた。まず、人質のいる島に軍をおくった。彼らを国にもどし、その友人たち、家族のもとにもどし、それでこれ以上問題をおこさないよう自由をあたえた。
(1の3おわり)

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雨上がり、宮迫さんを助けよう



* はじめに
申し訳ないが雨上がり決死隊、宮迫さんの闇営業騒動はまだおさまってないらしい。ラジオで爆笑問題、太田光さんがおおいになげいて、宮迫さんを何とかしてといってた。彼が闇営業先で漫才をせず、歌をうたったこと非難しつつ、その才能をおしむ気持のようだ。この問題はまだテレビで取りあげられ拡大するという。

その批判は二つにわかれ、1) 反社会とのかかわり、2) 吉本など芸能事務所をとおさない契約違反だ。私の感想である。

* 感想
反社会との係わりを擁護する人はいないが、そのようなあやしげな関係を温存してることにつよい不信がある。それが芸人をくるしめ、芸能事務所もくるしめる。言い訳をまともにきいてもらえない。世話できないほどの芸人をかかえる事務所。だがそれが力の源泉で、否定もできない。それなら、うれない芸人があやしげな関係にはしるのを事務所が非難できるか。これは前回にのべた。結局、時間をかけ正常な関係を構築する以外に方法はない。

宮迫さん、ロンドンブート1号2号、田村亮さんを擁護する声はおおきい。おなじく吉本の松本人志さんもそうだが、擁護とともにフライデーの写真で顔出しとなった彼らと詐欺グループ側の目隠を比較し、マスコミの態度を非難してた。マスコミの態度がきびしいのはスポンサーのせいらしい。CMに登場するのは人格高潔、社会の模範といわんばかりである。大田さんの擁護論にはうすっぺらな正義で芸人人生を全否定されてよいのかという正当な主張がある。で、結論である。

* 結論
私はこの問題では国民一般の立場からちゃんと税金をはらえ、そうすれば正常な社会に近づく。それがよいとの結論だった。だが個人の人生を心配する気持もわかる。なので金はださないが、知恵をだす。こうである。

振り込め詐欺に巻きこまれた被害者のために寄付をする。すくなくともお二人はもらった金と同額を寄付し、反省をしめす。それから同情する芸人の皆さんも寄付をする。ここからはマスコミである。フライデーさんは、今回かせいだ額の半分を寄付をする。これでどうですか、松本さん。私は失敗した人にもチャンスをあたえる寛容な社会を支持しています。

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韓国に制裁措置


* はじめに
政府は韓国に実質、制裁措置を発表した。これはフッ化水素など三品目の輸出、製造技術の移転の規制を七月四日から強化するもの。また国際的枠組みの輸出管理で手続が免除されるホワイト国の指定から韓国をはずす手続にもはいったという。これらは韓国経済を牽引するサムソン、LGエレクトロニクスにおおきな影響が予想される。ついにはじまった。

これが私の感想だ。韓国は当然反発、WTOへの提訴もという。日韓基本条約による委員会設置要求にまったくこたえず、いまさら何をいってるのか。これまでの経緯を思いだしてみた。

* これまで、韓国は何をしてきたか
いわゆる慰安婦財団の解散、レーザー照射問題、前天皇陛下への謝罪要求、いわゆる徴用工訴訟など理不尽な反日姿勢の文在寅政権におどろく。評論家の長谷川幸洋氏が、左翼革命運動に支配された政権と紹介した。その親北姿勢から成程といわざるをえない。感想である。

* 感想
やっと異常な韓国との関係が正常となった。これから時間がかかるがまともな関係をつくってゆけばよい。一安心。これまで主張すべきこと、反論すべきことが国民の前にしめされない。常に何か日本側に不都合な真実があるかのか。私は不安をもってた。安倍政権により、やっと公的手段をつうじ正常に交渉がおこなわれた。それにこたえない韓国の異常さがあきらかとなった。だから、あらたに関係構築にむけ出発点にたったというわけである。

おそらく六月二十八日、開催のG20サミットで見極めをつけたのだろう。これからどうなる。非常におおきな影響が韓国に、すくなからぬ影響が日本に、となる。民労総という労働組合が文政権の裏にいる。経済界の不満はおおきい。米朝関係にゆさぶられ時には悲惨な国内対立が露呈するだろう。

日本はまだ日韓友好議連が健在らしい。経済の損得につられ、おそらく国民の目からは不思議な動きがでるだろう。だが韓国の没落は日本復活の動きにつながる。困難をのりこえた頑張りをおおいに期待する。さて結論のようなもの。

* 結論のようなもの
まだ両国の関係構築ははじめにある。予測がつかないし、米中、米朝関係の動向も不確定だ。結論めいた話しもできない。G20で劇的な動きはなかったが日韓関係の節目となるので、ここにまとめた次第である。


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