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アレクサンダー大王、その二、カロネイアの戦い [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はギリシャ全土を統一しペルシャ帝国への攻勢につながるカロネイアの戦いをのべる。これは父王フィリップの戦いであるがアレクサンダー初参加の戦いでもある。
(The Battle of Chaeronea 338 BC、BazBattles、2016/06/23 に公開)

* マセドニアによるギリシャ統一の道程
紀元前三三八年八月のことである。ギリシャ半島の支配をすすめる第四回目の聖戦がその最高潮をむかえた。都市、カロネイアのちかくでフィリップ二世がひきいるマセドニア軍と侵攻を阻止しようとするシーブス、アテネ同盟軍がぶつかった。古代におけるもっとも重要な戦いの一つがはじまろうとしてる。

二十年前まではマセドニアはギリシャ北東にある弱小国だった。常に隣国からの侵略をうけてた。北からスレイシアンズ、イリリアンズ、パイオニアンズ、南からアテニアンズ。だがしかしマセドニアにあたらしい王が登場した。それは王、フィリップ、アレクサンダー大王の父である。

* 職業軍人の軍を創設、二倍のながさの槍を装備
それから事態がおおきくかわった。まず隣国との争いをさけ国の再建の時間をかせいた。特に軍事面での強化はみるべきものがあった。イリリアンの支配を排除しようとした先王が戦いで戦死しその軍もうしなったためマセドニア軍はなきも同然だった。あらたに兵が招集、訓練がはじまった。あたらしい軍がつくられた。これは当時としてはめずらしい職業軍人による軍であった。ほとんどのギリシャや未開の国は国が強制的に招集し編成したものだった。もうひとつ指摘すべきはあたらしい武器。サリッサの導入である。これは当時のギリシャや未開の国がつかうものの二倍の長さをもつ。これがマセドニアの密集歩兵隊の標準の武器となった。これで前面からの攻撃にたいしては無敵となった。

* フィリップによる隣国攻略、勢力拡大
あたらしい軍隊と立てなおされた経済によりフィリップはこれまで侵略をうけてきた隣国に対抗できるようになった。王位について数年後にスレイス、カルキディキ、エピラス、テッサリをやぶり服属させた。そして南部ギリシャ、特に、全ギリシャの指導的位置にあるアテネに対抗するようになった。彼の究極の目標は全ギリシャを支配し、それからペルシャ帝国の攻撃をねらうことであった。

* ギリシャの盟主、アテネへの対抗
しかしアテネはマセドニアを半未開の部族とみており誇りたかい彼らが服属することはありえなかった。紀元前三三九年、フィリップはアテネほかとたたかうため遠征作戦を開始した。そしてビオーシャの南に軍をすすめた。シーブスはテルモピレちかくの主要道路を閉鎖しマセドニアの中部ギリシャ侵入を阻止しようとした。しかしフィリップは別の目だたない道をえらんでシーブスの閉鎖作戦を迂回した。そしてエラティアにやってきた。

* マセドニア軍の南下
ここで友好的なホシアンズの部族の協力をえて冬の拠点としての砦を再建した。このしらせがはいった時、アテネは恐慌におちいった。といのはエラティアからアテネまでは三日の行軍の距離である。そこで当時有名であり、有力な指導者であったデモステネスがたたかえる男子はビオーシャにむかい戦争の準備をするよう呼びかけた。彼自身はシーブスにむかいアテネとの同盟を確保しようとした。そこにはフィリップからの派遣団がすでにいた。

* アテネとシーブスの同盟軍、カロネイアに集結
シーブスはその気になればビオーシャにいるマセドニアの進軍を黙認し戦いをさけることができた。シーブスにはアテネにたいしていやしがたい憎悪があった。だが同盟に参加することとしギリシャの自由をまもることをきめた。この同盟軍は二マイルの広さをもつ平原を戦場とすることにした。そこはカロネイアの北西、ケフィソス川がながれてる。その南北の境界は丘であり東は沼沢地となってるせまい平原だった。防禦にてきした地といえる。

* 両軍の編隊
マセドニアは紀元前三三八年八月に出発し、まもなくシーブスとアテネへの道をまもる同盟軍にぶつかった。両軍の規模はほぼおなじである。マセドニアは三万の歩兵、二千の騎馬兵。いくつかの部隊はマセドニアの同盟からの参加である。これにたいし、相手は三万五千の兵が平原にたってた。その歩兵隊のほとんどは重装歩兵だった。アテネは左翼。シーブスは右翼。その隊列の最後にはえらばれた聖なる部隊がたってた。編隊の前面線は斜めにかしいでアテネがもっとも敵にちかい位置にいた。

彼らは平原で防禦にてきした高所をしめた。フィリップは軍を敵の編隊形にあわせて調整した。彼は左翼にサリッサをもつ密集歩兵隊をおいた。彼自身が指揮しアテネの部隊を意識したものだった。左翼はえらばれた騎馬隊である。これは彼の息子、アレクサンダーが指揮する。当時、十八歳、はじめての指揮である。彼にはもっとも経験ゆたかな将軍がつけられてた。このような編隊となったのはアテネを意識したからである。フィリップは自軍の左翼にいる密集歩兵隊を危地におきたくなかった。またアテネの重装歩兵隊による圧力が騎馬隊におよぶことを予想し騎馬隊が危機にさらされることをさけた。もう一つ指摘しておくべきことだが大部分のマセドニア軍は二十年の戦いにより戦いに成熟してたことである。彼らは全ギリシャを代表するものだった。これにたいして同盟軍であるが彼らのおおくが戦争未経験の若者か四十から五十歳までの戦闘能力のピークをすぎた者だった。アテネは二十年間戦争をしてない。そうなると指揮官も戦争の経験をもたない。

* 戦いのはじまり
フィリップが最初にうごいた。マセドニアが隊列をととのえた時、興奮をおさえられないアテネは防禦にてきした高地をおり攻撃してきた。マセドニアの密集歩兵隊はながいサリッサをもってるので前面線をくずす心配はほとんどない。前哨戦がおわってフィリップはアテネの兵の行動は衝動的であり、すぐ戦闘にはいりたがることをしった。それでフィリップは密集歩兵隊にゆっくりと後退するようめいじた。これにより敵の編隊を二分しようとした。ギリシャはこのさそいにのって後退してゆくマセドニアの右翼を追いこんでいった。これと同時にアレクサンダーの左翼は前進しシーブスを攻撃した。マセドニアがやったことは車輪の戦法(wheeling manouver)であった。この結果、シーブスとアテネの部隊の連携が分断された。

マセドニアの騎馬隊の幾人かは敵の背後にまわりこんだ。彼らはアテネを背後から襲撃した。そこでフィリップのよく訓練された部隊はいつわりの退却をやめ、わなにはまったアテネを攻撃した。これは鉄槌と金床の戦法といわれるもの。騎馬隊が鉄槌、密集歩兵隊が金床である。これはアレクサンダー大王のアジアにおける戦いでよくもちいられた。数で圧倒され両方から攻撃されたので、すぐ彼らは戦場から逃亡しはじめた。

他方、アレクサンダーの左翼はアテネが退却してゆくのをみていっせいにシーブスに攻撃を仕かけた。こうして、まだたたかってる部隊はシーブスの聖なる部隊だけとなった。この戦場でもっともすぐれた戦いをしてた。しかし数で圧倒され降服をいさぎよしとしないのでマセドニアの騎馬隊によりころされ全滅した。フィリップはにげるギリシャを追撃することをみとめなかった。

* マセドニアの勝利、ギリシャの統一
それは彼が全ギリシャの統一をもとめており無用な殺戮をさけたかったからである。同盟軍の犠牲は三千をうしない、四千が捕獲された。マセドニアの犠牲はあきらかでないが二千から四千がころされたと推定される。戦いはおわり全ギリシャの統一への道がひらかれた。カロネイアの勝利はフィリップの最大の功績である。ギリシャのほとんどの都市国家の力を東にてんじペルシャ帝国にむかわせることができるようになった。

(おわり)

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