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アレクサンダー大王、その六、ガーガメラの戦い [英語学習]


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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はダリウスとの最後の決戦を勝利しペルシアの覇権をうばったガウガメラの戦いを取りあげる。
(Alexander the Great: Battle of Gaugamela 331 BC、BazBattles、2017/04/18 に公開)

* 最終決戦にむかうアレクサンダー
紀元前三三一年九月、フェニキアとエジプトをうばった後にアレクサンダーはペルシャ帝国の内陸にむかって東進する。彼がチグリス川をわたった頃に斥候から報告があった。ペルシアの王、ダリウスがまた強大な軍をつくろうと兵を招集してる。マセドニアと最終的な対決を目ざすという。両軍はガウガメラという村のちかく、その広大な平原でとうとう遭遇した。古代において最強といえる二つの軍が最終決戦をおこなった。

* エジプトへの遠征、軍の休養
紀元前三三一年の年頭、タイヤとガザの服属に成功した後にマセドニア軍はナイルの肥沃な谷で次にそなえ休養をとった。エジプトをおさめる州長官はアレクサンダーを征服者というより解放者として受けいれた。エジプトはペルシアの州ではもっとも忠実な州ではなかった。イッソスにおける壊滅的な敗北の後に、ペルシアの王、ダリウスはマセドニアへの態度をあらためた。マセドニアがこれ以上ペルシアを侵攻するのを阻止するため外交を展開してきた。だがアレクサンダーは三度にわたるダリウスの提案を有利な条件にもかかわらず拒否した。

冬がすぎアレクサンダーはきたるべきバビロン遠征作戦の図をかいた。すべての準備がととのい充分な休養とととのった装備のマセドニアの軍が四月はじめにフェニキアに進軍を開始した。ここで見のがされがちだがアレクサンダーが征服作戦で戦線への補給、兵站に充分に配慮してたことを補足しておく。本国をとおくはなれ長期間を遠征してる大規模な軍の状態を最良にたもつこと。これは周到な準備と総合的な管理が必要であった。

* 北方ルートをとるアレクサンダー
マセドニアの軍はできるだけながく沿岸沿いに進軍した。艦船が補給の世話をできるためだった。ダリウスはマセドニアの動きを充分にしってた。アレクサンダーがユーフラテス川をわたる頃、ペルシア軍の兵の招集がおこなわれてた。ダリウスはマセドニアがユーフラテス川沿いに進軍しバビロンに直行すると予想してた。彼はユーフラテス地域の収奪をめいじた。焦土作戦である。しかし川にそった繁栄した都市への攻撃をひかえそこから補給をおこなう。これは非常にむずかしい作戦である。そのためアレクサンダーは遠距離となるが北方のルートをとった。そこでは田園に散在する村から水と食糧の補給をえることが容易であった。この予想外の展開にダリウスはすぐバビロンを出発しチグリス川東岸にそい北進した。

* チグリス川をさかのぼるダリウス
彼は騎馬隊の指揮官にマザイアス、バビロンの知事であったが、彼を任命した。これはチグリスの北でマセドニアが渡河するのを阻止し東岸の地域を収奪してマセドニアの進軍を妨害しようとするものだった。しかし渡河の阻止は間にあわなかった。九月、アレクサンダーはチグリスの東岸にやってきた。ダリウスは両軍がまもなく遭遇すると予想した。きたるべき戦いの適地をさがしはじめた。彼はガウガメラという村のちかく広大な平原を野営地とし準備をはじめた。その頃、アレクサンダーの部隊はペルシアの斥候部隊を捕捉した。

* 両軍、ガウガメラ村で遭遇
ダリウスはそこから東三十キロメートルの場所に野営してることをしった。アレクサンダーはすぐ自軍から斥候を派遣した。そして敵にちかよった。野営地を丘の背後、想定した戦場から十キロメートルのところに設営した。数日間の休養の後、九月末にアレクサンダーはペルシア軍にむけ出発した。両軍のあいだに丘があった。これはマザイアスの分遣隊がまもってた。マセドニアの全軍が近づくのをみるとすぐにマザイアスはたたかうことなく退却し主力の野営地にもどった。占拠してた丘を放棄したのである。

* アレクサンダー、丘を占拠
丘の占拠はペルシアに利益があった。しかしダリウスは兵の数でまさる。その戦いに有利な平原を前にしてた。丘は重要であるが、うしなうことの損失は許容できる。アレクサンダーは丘をうばった。周囲をたしかめて一時的な野営地を設営した。この野営地は彼にとり有利だった。高地からペルシアの野営地や部隊の配備がのぞける。さらに丘にいれば敵の不意打ちをおそれる必要がなくなる。

アレクサンダーはゆっくりと敵の攻撃の心配なく戦いの準備ができた。部隊に充分な食事と休養、それを快適な環境であたえることができた。これにたいしてダリウスは常にマセドニア側の不意打ちをおそれねばならなかった。夜になってもその可能性がのこった。彼の部隊は常に警戒態勢を維持しなければならなかった。そうはいってもダリウスには数の優位、強力な騎馬隊、戦いに好適な地勢とい有利があった。

* 昼すぎに開戦
ペルシアはひたすらまつだ。丘の上の敵を急襲するのは無理であったからマセドニアが動きだすのをただまっていた。太陽がしずみ夕方となった。アレクサンダーは将校とともに作戦会議をひらいた。副将のパーメニオンは敵のすきをついて夜襲する提案をした。アレクサンダーは危険がおおすぎるとみとめなかった。翌日朝に攻撃することにきまったという。夜がすぎ最初の太陽の光が戦場をてらした。十月一日のことだった。ペルシアはマセドニアの攻撃、実際にはなかったが、それにそなえて夜をすごした。ダリウスの編隊である。

* ペルシアの編隊
彼は巨大な兵力をたくみにつかった。十万にのぼる兵をあつめた。一万が不死歩兵隊という職業軍人によるものである。それにあわせて数千のギリシャ人傭兵部隊。これらがペルシア軍中央の中核をなしてた。しかし本当のダリウス軍の中核は両翼にいる騎馬隊であった。三万以上の騎馬隊。彼らはおおくのペルシアの州からやってきた。彼らはこのようなひろく平坦な場所では特に脅威であった。
ダリウスは数百のインドの大鎌をもつ二輪戦車、さらに十五の象をもってた。この象たちはたぶん戦いには参加しなったろう。その他にペルシアの各地からきた部族の歩兵隊がいた。だが戦闘能力には疑問がのこった。この大規模な軍の指揮はダリウスと信頼されてた副将のマザイアス、ベッソスによりおこなわれた。さらにバクトリアの騎馬隊、パルティアの歩兵隊がいた。

* マセドニアの編隊
たたかいは昼にはじまった。充分な睡眠をとったアレクサンダー充分な休養をとったマセドニアの兵が丘からおりてきた。そして編隊の配置についた。四万の歩兵隊、七千の強力な騎馬隊がやや傾斜した戦闘線をつくった。敵の包囲をさけるため両翼には騎馬隊が補助部隊をもち、わずかにうしろにひいたかたちでいた。マセドニアの中央には規律をほこる長槍の密集歩兵隊がいた。彼らには強力な盾持ち歩兵隊が支援をする。騎馬隊は二つにわかれる。そして両翼につく。テッサリの部隊は左翼、えらばれた騎馬隊は右翼である。後方、第二列にはスレイスとイリリアの歩兵隊がいた。これまでの戦いとまったくおなじだが指揮はアレクサンダーとパーメニオンがとる。両翼にひろがる利点をつかうためアレクサンダーはその編隊を右にうごかした。ダリウスはただちにその左翼をひろげてこれに対応した。

* 両騎馬隊の激突
ダリウスは平原のたいらなところをえらび障害物を取りのぞいた。これで二輪戦車が充分な働きをできるようにした。これでマセドニアの初動を牽制しようとした。ペルシアの騎馬隊が飛びだしてきた。彼らは最右翼にいるアレクサンダーを攻撃した。はげしい戦いがおきた。どちらが優勢かわからない。時間とともにマセドニアが優勢となりペルシアのいくつかの部隊におおきな損害をあたえた。しかし彼らの犠牲もおおかった。

* ペルシアから二輪戦車
苦境におちた左翼をみてダリウスは大鎌をもった二輪戦車をすべてをおくり敵の中央を急襲させた。しかしこの攻撃はさほど成功をおさめなかった。防禦側が隊列をあけ攻撃側をやりすごした。それと同時にはげしい投げ槍攻撃をした。これにつづいてマザイアスが指揮する右翼がパーメニオンの左翼を急襲した。この時におおくのギリシャ人をころした。これによりパーメニオンはおされていった。彼は深刻な危機においちいった。数で圧倒され部分的に包囲された。しかしこのような危機は彼にとりはじめてのことではなかった。彼の部隊は勇敢にたたかった。ペルシアの攻勢に犠牲をはらいながらたえた。アレクサンダーが編隊を右にずらした。この時である。マセドニアの左翼はその場所に釘づけになってたのでマセドニアの中央がまばらになった。

* アレクサンダーと騎馬隊、中央のすきを目がけ突撃
この時、ダリウスはここが弱点とみて衝動的に不死の歩兵隊をこのまばらになった場所におくった。しかしこれは相手が用意したエサだった。これによりダリウスの中央が剥きだしとなった。アレクサンダーはこの時をまってた。彼はえらばれた騎馬隊を引きつれ、それにつづく救援部隊とともにペルシアの中央を急襲した。そこでダリウスは剥きだしとなり親衛隊が立ちむかった。第二列にひかえてた部隊の支援があったがマセドニアの攻撃はきびしくペルシアの編隊をやぶった。すぐにダリウスは自分の危機をさとった。そして彼が二年前にとったおなじ行動をとった。戦場から逃亡した。

* 逃走するダリウス、自軍をたすけるアレクサンダー
アレクサンダーはただちにこれをおった。しかしすぐこれをやめ左翼、パーメニオンの救援にむかった。そこでははげしい戦いがつづいていた。救援がやってきた時にのこってたペルシアの騎馬隊はたちまち圧倒され、おおくの損害をうけた。ダリウスはまたしても逃走に成功したがアレクサンダーがペルシアの王位につくという複雑な政治的計画はまだだがペルシャ帝国の軍事力の破壊はおわった。この戦いの結果は次のとおりである。マセドニアの兵力は四万七千。損失は千。ペルシアは兵力が五万から十万、損失が四万である。

* ペルシアの覇権をうばったアレクサンダー
マセドニアはメソポタミアの中核都市をうばいペルシャを自由にできる立場についた。このかがやかしい勝利は彼が戦略、戦術にすぐれかつ勇敢であることをしめした。アレクサンダーは事実上、ペルシアの覇権をおわらせた。五年たらずの偉業である。このようにペルシアを服属させたことで彼は満足しなかった。さらにおおきな力をもとめ彼の物語りはなおもつづく。以下は補注のようなものである。

アレクサンダーは外交で成果をおさめた。ダリウスはアレクサンダーにユーフラテスから西の領土を提供し、ペルシア帝国の共同支配者をみとめダリウスの娘をアレクサンダーの妻とすると申しでた。

二輪戦車、たとえ大鎌を装備したものであっても戦いの時に編隊の隊列をやぶるものとしてはすでに時代遅れとなってた。アレクサンダーのたかい規律をほこる歩兵隊(pezhtairoi)にあっては簡単に対応できるものだった。

戦いの後にマセドニアはペルシアの野営地をおそった。そこには数々の戦利品があった。アレクサンダーはダリウス個人のための二輪戦車と弓を手にいれた。

(おわり)

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