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スパルタの栄光、その二、ペロポネソス戦争の勃発 [英語学習]

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* はじめに
ペルシアの敗退後、スパルタとアテネの同盟は長続きしなかった。両者の違いが際だっていたからである。軍事のスパルタと民主主義、経済、文化のアテネ。これだけでなくスパルタ女性の独特の地位。社会に積極的にでて発言、財産権をもつ。他の都市の女性にはない特徴である。スパルタはペロポネソスの奧にもどったがアテネは東地中海の覇権をにぎる。猜疑心をつのらせるスパルタが地震をきっかけにヘロットの反乱にあう。ここでアテネとのあいだに亀裂がうまれペロポネソス戦争に突入する。アテネの指導者、ペリクリースの死によりいったん小康をえるが、西の重要拠点パイロスをうばわれ百二十の兵が降服する。和平はなったがそれはあたらしい戦いのはじまりでもあった。
(The Spartans - Part 2 of 3、Timeline、World History Documentaries、2017/08/26 に公開)

* ちがいが際だつスパルタとアテネ
紀元前二千五百年前、西欧文明は破滅の危機にひんした。東からペルシア軍が侵入してきた。独立をたもってたギリシャの都市国家を従属させようとした。圧倒的な兵力にめんしてスパルタとアテネが抵抗に立ちあがった。テルモピレ、ここの隘路において三百のスパルタ兵が英雄的な戦いをおこなった。彼らは玉砕して敵の進軍をおくらせた。ギリシャの他の都市に戦いのやりかたをしめした。その数日後である。

アテネの海軍がペルシアの攻撃をうけた。彼らはアテネの中心から数マイルはなれたここサラミスの沖で彼らの艦船を攻撃した。この戦いでアテネとスパルタは同盟してたたかった。だが彼らは対称的であった。アテネの政治は民主主義、ギリシャにおいて経済と文化の中心であった。また対外的にひらかれたたかい文明をもつ社会であった。そこでは力は民衆とともにあった。他方、スパルタである。

彼らは軍事国家、えらばれた戦士が支配した。その生活を多数の奴隷がささえてた。スパルタの男子は常に試練がまってた。国がもうけた幼児殺しの関門をかりに生きのびたとして、七歳になったら母の手からはなれアゴギという訓練キャンプにはいる。きびしい訓練のなかで彼らに栄光か死というスパルタの倫理が教えこまれる。彼らはほとんど女性とは交流のない生活をおくる。ところで女性というと不可思議なもの独立したもの才知あるもの肉体的にも政治的にも強力な存在とみられてた。

* 同盟関係の破綻、ペルシア戦後のちがい
スパルタとアテネは対極にある。たがいに矛盾し両立しがたいもの。もし共通の敵がいなかったらたとえ協力をさぐっても結局は不安や猜疑心をさそい混乱におわるだろう。かって同盟関係にあったが両都市はたがいに武器をもって対立する事態となった。叙事詩に登場するようなスパルタとアテネの戦いがはじまる。その争いの結果はギリシャの運命をきめるだろう。

ペルシアが侵攻した時にスパルタ人がかんじてたものとアテネ人がかんじてたものはずいぶんちがってた。前線から数百マイル(百マイルは百六十キロ)はなれラコニアの牧歌的な田園地帯にあったスパルタ本土はまったく直接の影響はなかった。それにたいしてアテネは侵攻をうけそのアクロポリスは放火、破壊された。ここスパルタはペロポネソス半島の奧にあって戦争はとおいものだった。平和が回復するとスパルタ人は日常生活にもどった。それはいつもの規則にのっとり軍事優先のものだった。ここの社会は規則ただしく従順で、なかんずく家庭や個人の要求をおさえ国家のためにすべてを犠牲にするのをいとわないというものだった。必要だったら命をおしまない。その目的はただスパルタ人が作りあげたとしんじる理想郷をまもることだった。そのために必要なのはさらにおおくの重装装備の戦士を作りだすことだった。それ以上はほとんどない。ただ現状をまもりたい。それだけだった。しかし戦後のアテネはちがう。

事態は急速にかわっていった。くるしい占領の後に歓喜の勝利がやってきた。都市はおおきく変容する。戦争前に民主政治の基礎はきづかれてたけど実態のともなわない名前だけのものだった。それは一人の男、財力をもった男がおおきな権力移動をおこなった。うまれたばかりのアテネの民主主義にやってきたのだった。これは三段櫂船の展示である。これはほぼ二百の漕ぎ手がのる。このような船がペルシアの艦船をサラミスにおいて無力化した。たたかう艦船の漕ぎ手はアテネの貧困層の市民であった。彼らが攻撃の主体である。彼らは政治のなかで最下層にぞくする。筆者の注。伝統的兵力の主力は重装歩兵であった。鎧兜など高価な装備の調達は富裕層、地主層でなければむすかしかった。注おわり。サラミスの勝利の後に彼らは政治的要求を声高にさけぶようになった。

* アテネの民主主義の成熟、海軍をささえる下層民
アテネの民主主義は活気づいた。この艦船の漕ぎ手の頂上にたったのはペリクリースである。彼は富裕な貴族。何代にもわたりアテネの民主主義を牽引してきた。彼はするどい感覚で時代の変化を見ぬいてた。そしてその先頭にたつて牽引するという野望ももってた。その権力をたもつためには貴族から一定の距離をおき、平民の支持をえるようつとめた。彼はすぐれた演説家であった。議論や演説をとうして民衆の協力を獲得した。しか彼が民衆の支持をえたのはそれだけでない。巨大な建設計画を発表した。これは実際は貧民層のための仕事の創設だった。彼はいう。

* 新興勢力の指導者、ペリクリース
あらゆるかたちの事業とそのために必要な需要を作りだす。それはすべての芸術家の想像力、すべての働き手の参加が必要である。そこからすべての人々が報酬をうけられる。彼らは都市をうつくしくかざり維持する。

彼は市民のお祭りに公的支援をおこなった。パルテノンの建物のような記念的建物に公金をつぎこんだ。もっとも重要な業績は裁判の陪審員や戦争の兵たちに国が報酬をはらったことである。艦船の漕ぎ手たちはアテネの民主主義においてはじめて政治権力をにぎった。ここに人々により統治される民主主義がはじめて実現した。

ここ市場(いちば、アゴラ)では市民の声がきこえる。ここではアテネの日常生活がいとなまれる。ここに職人、法律家、商店主、哲学者など多様な人々があつまってきて都市の喧騒と活気をつくった。あつめられた彼らの声はアテネの民主主義の基盤となった。国家の公職は財力や地位に無関係にすべての人にひらかれてた。市民は政治活動に積極的に参加することが期待されてた。議場において演説や論爭がおこなわれる時には市場への入口はすべて閉鎖された。アテネでは民主主義に参加することが強制された。それはスパルタで軍隊の規律が強制されたのとおなじである。

* アテネの経済、文化の拡大、ペルシア対抗の盟主
ペルシアの敗北後に革命的に変化したのはアテネの政治だけでない。経済、文化の活動もそうである。それらには活力とあたらしい考えかたが吹きこまれた。ペルシアとの戦いでギリシャ同盟軍は勝利をおさめたがペルシアはなおもつづく脅威であった。ギリシャの都市は東の強敵とたたかう指導者を必要とした。スパルタはこの仕事を引きうける気がない。関心が内むきとなった。ところが旺盛な対外的関心をもったアテネの民主主義はこの仕事を引きるけることとなる。ペロポネソスにまもられている現状に満足してるスパルタとちがいアテネは常に海とともにあった。

ペルシアの敗北とともにアテネはパイリアスの港とのあいだに連絡路をつくりそれを壁でまもった。これはアテネが対外的に海上の覇権を主張したことを意味する。物資の交易、人の移動において帝国を作りあげれる力があることを宣言したようなもの。アテネはこの建設のため都市の資材を消費しつくした。都市の記念碑や墓場の墓石まで供出させた。その結果、十二マイル(十九キロメートル)の堅固な壁が完成した。これはアテネの富をまもり他の都市の干渉を排除できるものである。アテネは東地中海における警察官となった。

同盟国はアテネにしたがい貢納金をおさめることが期待された。もしこれにさからうならば彼らの港にアテネの艦船があらわれるであろう。これは三段櫂船外交というものである。このような力の均衡の変化をスパルタが見のがすはずがない。海軍の急激な発展はスパルタにとって充分な脅威だった。だがそのうえに防御壁の建設をしり彼らの憂慮はいっそう深刻となった。

* 台頭するアテネを懸念するスパルタ
スパルタは防御壁をきらう。壁は都市をつくり都市は注意してないと民主主義のようなものを輸出する。彼らは壁にまもられた都市をおそれ、それ以上に民主主義をおそれた。スパルタは壁をもたないことで有名であった。こういうことがいわれてる。壁は若者である。国境はその槍の先の刃である。スパルタ人にとって都市をつくるのは法、壁やおおきな建築物でない。それは彼らの思い、理想である。

アテネとスパルタは明快に違いをみせる二つの存在である。スパルタは軍事国家であり外国人ぎらいである。アテネは躍動的で世界に門戸をひらいてる。もちろん、実情はそれほど簡単でない。アテネは帝国主義的で傲慢で攻撃的だった。その民主主義は女性、外国人、奴隷を排除してる。ギリシャ人にとりアテネの問題は、彼らのはげしい移り気、ギリシャ人が大切にしてるよき秩序を破壊しようとしてることである。

紀元前五世紀の詩人、ピンダーがいう。よき秩序は都市をささえる強固な基盤である。これがおびやかされると何がおきるかギリシャ人はしってる。都市を二分する内乱、田園地帯で収穫の放置。都市での流血。スパルタのやりかたは平等主義と選抜主義をたくみに混合したもの。おおくのギリシャ人には魅力的であった。スパルタは良識、義務と一体性を重視しよき秩序を保障してくれるようにみえた。

* スパルタにおける女性の独特な地位
しかし他のギリシャの都市からみるとスパルタのよき秩序には極端な性にかんする政治的な扱いがある。これに他のギリシャ人はおどろきおそれた。保守的スパルタはあきらかに極端であった。紀元前五世紀頃のアテネで女性はどうだったか。その生活はけっしてたのしくなかった。都市における芸術、建築、民主主義はすべて男性が享受するものだった。女性ができることといえばおもに従順で男をたてる妻をえんじることだった。事実、古代のギリシャにおいては女性は外部の人からみられるものでも、その話しをきかれるものでもなかった。歴史家のゼネフォンがいう。女性は家庭にとどまるようすすめる。演説家、ペリクリースは公式の場において女性について言及することははずかしいこととおもってた。

アテネの女性は家庭のおくふかくにまもられ生活をおくる。家庭内で女性がおこなうべき仕事をこなす。そのための訓練をのぞいて彼女たちは最小限度の教育のみをあたえる。社会において女性の発言権はなかった。教育はよくいって無目的であり、もっとひどくいえば危険なものだった。ある風刺詩人がいう。女性に文字をおしえることは間違いである。それはおそろしい毒蛇にさらに毒液をあたえるようなもの。アテネの少女たちは十二歳のわかさで結婚するがめずらしいことでない。彼女のために適当な男がえらばれる。すると彼女は家族をはなれ夫の家庭のなかに姿をけした。女性の役割は家庭内を切りもりし雑用をこなし穀物を粉にひき、洗濯してパンをやく。奴隷をもつ富裕な女性は家計のお金を切り盛りする。こういうことなので女性はたまにある家庭の用事や宗教行事への出席、これらをのぞくと家庭内にとどまっていた。

ところがスパルタでは女性はどこにでもでかけた。もし六十や七十の年寄男性をのぞくとして空中から市街をながめる。すると少年より少女をおおくみつける。彼女たちは少年とちがい国の教育訓練の対象となってない。もし戦闘や訓練がないなら男たちは共餐仲間がすむ住居で休息してる。女性が街の日常生活を支配してた。スパルタの女性が外にでる生活様式は非スパルタ人男性からおそれられ魅惑の対象ともなった。ホーマーはスパルタを美女の土地とよんだ。トロイのヘレンの美貌はもともとスパルタにあった。トロイの王子と駆け落ちしてトロイのヘレンとなったと神話にある。もちろん、スパルタの女性がすべて美人であるはずがない。しかし彼女たちはその肉体をきたえていた。それはギリシャではみられないものだった。

* 肉体をきたえるスパルタの女性
国から彼女たちも少年とおなじ食事をあたえられた。ワインをのむこともゆるされた。国は歌唱や踊りの指導もした。レスリングも指導し投げ槍のなげかた円盤のなげかたも指導した。彼女たちは国により少年たちとおなじように競争にかつことをすすめられた。少年や少女の訓練は裸でやった。そしてそこには女性らしいつつしみはなかった。裸は規則である。というのは極端なつつしみぶかさをやめさせることが肉体をきたえることを増進するとかんがえたからである。そしてそれは効果をあげた。肉体的に彼女たちははるかにすぐれてた。アテネの喜劇作家はアテネの女性たちがスパルタの女性の肉体の美くしさを褒めたたえるセリフをのこしてる。

ここに神に願いをかける捧げ物として鉛のちいさな人形が展示されてる。当時のスパルタ女性のおどる姿を模型にしたものである。これをみるとアテネの男たちが熱狂したという理由がわかるような気がする。スパルタの踊りはその独特の躍動ぶりで有名であった。特に運動とちかいかたちの踊りはそうである。女性は飛びあがり臀部を踵でたたかねばならなかった。それをできるだけおおくやらねばならなかった。それは非常にむずかしかった。非常に重要なことはそれが裸の太腿部の大部分をあらわにすることだった。これはたぶん スパルタの少女たちを太腿露出狂とよぶ理由だった。国の教育の一部として彼女たちはここのような川岸にやってくる。ある詩人がいう。神々しい夜とよぶその時に彼女たちが性的興奮の儀式の踊りをおこない歌唱の競技会をおこなう。少女たちはたがいに歌いかける。下肢はゆるみ、ながい髪の毛を振りみだす。それは乗馬にのっている時のようである。愛の表現に疲れはてる。スパルタは非常にめずらしい性格をもつ古代の都市である。それはおどろくべきことでない。つまり女子同士の愛を奨励していた。

* スパルタ、独特な結婚観
スパルタの女性と男性は別々にくらすという生活になれていた。七歳になると少年は家族をはなれてアゴギにおくられる。きびしい妥協をゆるさない訓練をおこない戦争のやりかたをまなぶ。男同士のつながりは奨励されるというより強制される。十二歳の時に彼らは年長の男性と組をつくらされる。通常は二十歳から三十歳までの未婚の男性である。この男性は少年たちの物質的な必要をみたし世話をし住居の面倒もみる。彼らは母親と父親のかわりをつとめる。また教師であり家庭教師でもある。それにくわえて愛人、制度化された男色の愛人でもあった。

スパルタの戦士たちの対人関係の実相である。親密な関係は男たちの精神的、情緒的な側面に継続的な影響をあたえてるようである。結婚の時である。結婚に円滑にはいってゆくためにおおくの調整が必要となってくる。実際的なスパルタ人は普通でない方法で対応する。とらわれの結婚とよぶ方法を実践してる。結婚の夜、花嫁は頭をみじかく剃髪する。それはアゴギにいる少年のようである。花嫁は男の外套をき足にはサンダルをはく。そしてくらい部屋に一人おかれる。その頃夫は共餐仲間の館からしずかに抜けだす。彼女のもとにくる。彼女を藁のふとに横にする。愛の営みがある。抜けだした夫は共餐の館にもどる。同僚とともにねる。つまりふだんどおりの生活にもどる。古風でおもしろい。これは結婚の夜だけの風習でない。その後、数ヶ月あるいは数年もつづく。

このおどろくべき風習の意義についておおくの議論がある。だが女性の前で男性を最高に仕たてる舞台装置となってることはあきらかである。女性にとってはその時が男とのはじめての愛の経験である。スパルタ人がどれほどわかい男たちに結婚したくなるよう仕むけても、あるいは彼らに義務をはたすよう説得しようとしても問題はおきる。こんな話しがのこってる。たぶん誇張があるだろう。スパルタの女性が男の頭をなぐり祭壇のまわりを引きすりまわす。結婚を約束をすることをもとめる。またもっとありそうな話し。結婚してない男性が衣服を剥ぎとられ裸にされる。冬の最中、市場(いちば)の周りを行進させられる。そしてこの罰が正当であるという歌をうたう。これは彼らがスパルタの法がもとめるところをうまくすりぬけてるからである。スパルタには独身主義者をゆるす余地はなかった。

* スポーツをきそうスパルタの女性
これらの男子にあたえられる仕打ちは極端にみえる。しかしそのきびしさは次世代の戦士を生みだすことが本当に必要だということからきてる。女子に競争を持ちこみ肉体をきたさせる。そこにはおなじ不安が反映してる。女子に配慮された食事があたえられるのは健康な女子が健康な赤子を生みだす可能性をたかめるからである。これはイリシア、安産の女神の彫像である。一部がかけたものだが彼女の表情にはっきりとしたくるしみがある。妖精が彼女に寄りそい、その腹をなぜはげしい痛みにたえられるようたすけてる。スパルタの女性はこの女神にふかく帰依した。彼女たちは常に健康な男の子どもをうむべしという圧力をかんじていたからである。スパルタの戦士の数をおおきくたもつことがが何にも優先する目標であった。戦士の数は最大で一万であった。これは紀元前五世紀をとおしへりつづけた。その理由の一つがスパルタの女性は十八歳まで結婚せず、男性は二十四歳から二十九歳までは結婚しなかったという事情がある。これは他のギリシャと比較するとしんじられないほどおそいものだった。だがスパルタの女性は子どもをうむだけの存在ではなかった。

ある一定の時期になるとギリシャの女性は外にでなくなる。そうすることが期待されてた。だが彼女たちは彼女たちとして固有の力と責任をもっていた。スパルタの女性は政治の世界でも街中でも男に対抗する存在であった。特に神聖とみられてたスポーツ競技場においてたたかう人たちであった。外部のギリシャ人をおどろかせたのほスパルタの女性の肉体のうつくしさではない。彼女たちがしめす自由奔放さである。それが悪名として有名となった。アリストートルはいう。女たちがほしいままに社会をうごかしてるという。これはけっしてほめ言葉でない。アテネや他のギリシャの都市では女性は土地を所有すること、おおきな財産を所有することがゆされなかった。女性の相続人や未亡人は父の望みにそって結婚した。年長の兄弟あるいは従兄弟や叔父がそれをしたかもしれない。それは家族の富をへらさないためのことであった。

葬式や結婚式の出席に牛が引っはる車にのることはあるが乗馬はありえなかった。スパルタで女性は財産を管理する力がある。土地を所有することも財産を所有することもできた。彼女たちは財産を相続することもできた。結婚において誰と結婚するか、あるいは結婚するかしないかも自分できめた。経済的に独立した彼女たちは乗馬でスパルタから外にでゆき鞭をふるって物事をうごかしてゆく。アテネにおいて女性が公衆の面前にでることは制限されてたがスパルタで女性は社会的にみとめられる活躍をした。彼女たちは有名人となった。そのなかでもっとも有名なのはカイネスカ、スパルタの王女である。彼女はスポーツの世界で伝説の有名人となった。彼女の名前はちいさな犬という意味をもつ。

* 二輪戦車の優勝に名をのこすスパルタ女性
彼女はスポーツを愛好する家族にぞくし男の子のような活発な女性であった。彼女は二輪戦車競争で優勝したチームのオーナーである。カイネスカは乗馬の専門家であり非常に裕福であった。まさにつよいチームをつくる責任者として完璧な資格をもってた。彼女自身は競技に参加してないが男をやとい戦車をはしらせた。彼女は自分の野望をかくそうとはしてない。オリンピックゲームにチームを参加させた。そこにはギリシャ全土からすぐれた運動選手たちがあつまりその力を競いあった。彼女の勝利はおどろきだった。その四年後にもまた勝利した。残念なことだが彼女はその勝利を自分の目でみることはできなかっただろう。オリンピアにおい競技は男子のみが参加するという規則だった。

しかし彼女は自分の功績が忘れさられることがないよう手をうった。記念碑をオリンピアに奉納した。オリンピックの聖地の中心に記念碑がおかれた。そこにこうきざまれてる。

私、カイネスカは脚のはやい馬にひかれた二輪戦車の競争で勝利したので、ここに記念碑をたてこう宣言する。自分はギリシャ全土のなかでこの王冠を獲得したただ一人の女性である。

* 政治につよい影響力をもつスパルタ女性
しかし女性が 活躍したのはスポーツにおいてだけでない、彼女たちは都市の政治においても重要な役割をはたした。彼女たちは公衆の面前で演説するよう訓練されてた。彼女たちは公的な決定に権限をもっていなかったがその意見が尊重されるように手をうってた。彼女たちは戦士がその倫理を実行しようとする時にもっとも強硬な意見をいうようだ。スパルタの法律となってないが法について地域社会の声をきき何が正義かを見いだそうとする。その時に勇者をたたえ臆病者を非難する。その時声をあげる最前線にたつのが女性であった。スパルタの女性はおしゃべりで弁論の達人であった。適切にそれがつかわれた時には鎧、兜をまとった戦士たちをもうごかした。

戦士が同僚を勇敢な死と評価する時、女性はすばらしい高貴な旅立ちという。あなたもゆくべきだったのではという。ある男が自分の剣がみじかすぎると文句をいった時に一歩前に踏みこめば充分にながくなるとその母親がいった。スパルタの女性は言論の自由と経済的な権利をもっていたがスパルタを女性にとって夢の国とみなすのは間違いである。 スパルタの女性は軍の連隊の母である。社会の仕組みにおいてそれがスパルタの中心となる。彼女たちは子どもをうみ七歳にアゴギに手ばなす。スパルタは常に出生率の低下を懸念してる。スパルタの男子は母親にとって大切なものだった。奴隷がいて家事の雑事をやる必要がない。わが子に充分な時間をそそげる。しかし時がくればわが子をアゴギに手ばなさなければならない。それは非常な苦しみである。ためらうことはゆるされない。これがスパルタである。母の本能がみたされるより国の目的が優先される。我々がかんがえる母親の姿は母と子どもの関係を大切にしはぐくむものである。だがスパルタで感情的な側面が関与する余地はほとんどない。

* きびしい戦士の母、スパルタ女性
国家レベルではゆるぎない従順さ、生死の行動原理をつらぬく。彼ら個人の生命より重視される。母親においても息子がその義務をはたす。これをなによりも希望する。そのやりかたはまるでナチであり養育ではなかった。息子が戦いにむかつ時に母親がいう伝統的な別れのことばがある。盾をもて、そうでないならそのうえに。これは勝利の帰還、さもなくば死という意味である。もし息子がこの教えにそむくならば母親からの同情はほとんど期待できない。こんな話しがある。逃亡してきた息子に出あった母親が自分のスカートを引きあげ息子に自分がもともと生まれでたところにもどるかときいたという。

* スパルタとアテネの対立を誘発した地震
ペルシアが敗北したその後のこと。スパルタの男たちは母がほこらしくかんじるようなことをほとんどやらなかった。敗北の後からスパルタとアテネは平和裏に共存をつづけた。両者の同盟は問題があったものの維持されてた。しかし両者の考えかたはあまりにも違ってた。そのために相互信頼がうしなわれてしまった。あきらかな抗争の段階である。天変地異がおきた。これで両者の同盟が崩壊し対立から抗争の段階にはいった。紀元前四六五年、一連の地震がスパルタをおそった。被害はおおきかった。おおくの人命がうしなわれた。だがそれはスパルタ社会のなかにいる敵に絶好の機会だった。人口の大半をしめるヘロットが蜂起した。マイシニアの中心にあるアトミ山に反乱の奴隷がやってきた。

それは彼らの母国の象徴でありスパルタによりうばわれたものである。そこに要塞をきづきスパルタの到来をまった。スパルタは敵を山からおろすことができなかった。紛争はながびき、彼らは同盟都市であるアテネに助力をもとめざるをえなかった。アテネは反乱軍を山からおろすために部隊をおくり城攻めの機械をもってきた。それは伝統的戦術に固執するスパルタにはないものだった。この時である。ここでスパルタは不安をかんじた。さて概していうがギリシャで奴隷をもつことは問題でない。だがギリシャ人全体を奴隷とすることは簡単にはみとめることではない。

* ヘロットの反乱に干渉したアテネ
スパルタはこの事実をしってた。さらに彼らの偏執的な不安がある。もしアテネが 反乱者を支持したら、民主主義の病原菌をスパルタにひろめたらどうなるか。この危険を放置できなかった。アテネ軍には本国にもどってもらった。アテネはこの行為を侮辱ととり憤慨した。アテネは同盟を破棄した。そしてスパルタと衝突しはじめた。彼らはスパルタの敵と結託し妨害工作をし、さらに 反乱者をたすけ逃亡を援助した。そのためあたらしい都市まで用意した。あきらかな敵意があらわれた。

* あたらしい戦いのはじまり
今度は両者のあいだに戦いがはじまろうとする。戦いがはじまった。その原因はいろいろあっあったが、その中心には過去五十年のあいだにアテネがおおきな力を獲得した。それがスパルタのあるペロポネソス半島に影響がおよび脅威となったという事実である。紀元前四三一年、ささいな口実をとらえスパルタはアテネに戦争を宣言した。彼らは軍をアテネの領域におくった。彼らはアテネに七マイル(十一キロメートル)のところまで軍をすすめた。すでにのべたがアテネは厳重な壁によりまもられてる。かって友好国であったが今や不倶戴天の敵となった。

戦争最初の年、アテネの犠牲者である。ここの墓地にほうむられてる。都市の壁の外にあった。ペリクリースが公衆にむかって熱情的に演説した。この歴史的な名演説で彼はいった。この戦いでアテネがやったことすべてはただしくスパルタがやったことすべては間違いであるという前提があり、いうところ。

* 両者の違い、国に誘導された勇気と自発性による戦い
スパルタは幼少期から少年たちに重労働のようなくるしい訓練をしいている。ところがアテネでは少年たちはこのような制約なしで成長してきた。ところがおなじ脅威に立ちむかうに、我々は危機に自発的にむかう。国家が誘導した勇気をもってでなく自然な姿で立ちむかう。

彼はスパルタが社会の仕組みや政治、あるいは彼らの性格があまりに異質で平和的な共存は不可能であるといってる。演説はこの総力戦が前例のないほど大規模なもの残酷なものとなるとの見通しを示唆した。実際、戦いは西はシシリー東はダーダネルス海峡まで、また二十年以上もつづいた。残酷な戦いだったがどちらにも決定的な結果がでないまますぐ 停滞状況になった。スパルタは陸でアテネは海で支配を維持した。五年間にわたり毎年、スパルタはアテネの領土を侵略し田畑に放火し収穫物を台なしにした。アテネは田園地帯から逃げだし都市の壁のなかに退避した。その都市と港、パイリアスは壁で厳重にまもられてる。

* 停滞状況におちた戦い
孤立した都市は港町の艦船をつうじて住民の食糧、資材を確保した。一年すぎる頃、疫病が都市におきた。死体が道に積みあがった。人口のほぼ三分の一が死亡した。歴史家、ツキジデスは人間がたえられる限度をほぼこえてたといった。財力も権力もまもってくれなかった。ペリクリース自身もこの疫病にたおれた。スパルタにとってペリクリースの死は神の加護が自分たちにあることをしめすものだった。しかしそうでないこともおきた。ツキジデスがいう。こんなことがおきるとはとギリシャ全土がおどろいた。それはスパルタの裏庭というべきこの島でおきた。パイロスはペロポネソスの西端にある島である。戦略的な重要地点である。紀元前四二五年である。

* 西の重要都市をうばったアテネ
この島がそれまで奴隷でスパルタに反乱をおこした人々のたすけによりうばわれた。地震の後の出来事だった。スパルタはこの挑発に我慢ができず軍をおくりパイロスをうばいかえそうとした。彼らの計画は島と海でアテネを阻止しようというものだった。パイロスとアテネにたいし城攻めにうつった。ちいさな部隊を岩のうえにおいた。その岩は長さが一マイルと半分(二キロメートル強)パイロス湾を横ぎってのびていた。スファテリア島であった。スパルタは相手をみくびってたことをしる。アテネは海で活躍する人々である。

彼らは艦船をおくり数日後にやってきた。彼らはすぐ制海権をにぎった。戦況は一変した。スパルタは四百の部隊をのこし退却。部隊はスファテリア島に駐屯した。彼らは完全に包囲された七十二日がすぎた。ここでおどろくべき失敗をやった。何人かの兵たちが焚き火の管理に失敗し火はもえひろがり防禦施設を消滅させた。彼らは身をかくす場所をうしなった。アテネはこの状況からどこに何人の兵がいるのかをしった。彼らは島をうばうことにした。八百の弓の射手と八百の軽装の兵が参加した。
* 孤立したスパルタの守備隊
彼らは上陸したがスパルタとの接近戦はさけた。矢をいかけたり投げ槍の攻撃をしたがスパルタが接近してくるとすぐ距離をおいた。この戦い後に三百の死体をのこしスパルタはもどった。生きのこった者たちは防禦ができる島の北端に立てこもった。アテネは弓の部隊をおくった。距離をたもって矢の攻撃をおこなった。スパルタは完全に包囲された。かってのテルモピレの状況ににてきた。そこでは三百人がスパルタの栄光のためにたたかい玉砕した。しかしスファテリアではそのような栄光はなかった。アテネは巧妙な作戦をとった。彼らはしばらくの猶予をおいて使者をおくり丁寧に降服の意志をきいた。おそろいたことに彼らは降服に同意した。

* 百二十のスパルタ兵の降服
これがスパルタ以外だったらおどろくべきことではない。スパルタの兵たちは二ヶ月以上ものあいだ、ほとんどのまずくわずで閉じこめられてた。アテネの射手は毎日、弓矢の練習をかねて彼らを攻撃した。このような状況で彼らはスパルタ人として犠牲者をだしながら降服を拒否してた。ペリクリースがあざけっていった国により誘導さた勇敢さがアテネの巧さにより崩壊させられた。彼らはスパルタがもとめる体がぶつかりあう戦いをさけた。アテネは彼らに死か栄光かの選択以外の、彼らが予想してなかった選択をあたえた。スパルタがもっていた無敵神話がここでくずれた。

これはアテネをすくう勝利である。ここに戦利品がかざってある。盾である。その傷跡からみて投げすてられてあったものを持ちかえったのだろう。そこにアテネがラコニア人からパイロスで獲得したものとかいてある。これは簡潔な勝利の宣言である。このほかに百二十のスパルタ兵が捕虜としてアテネにおくられた。もしスパルタがアテネの領域で活動をするならば彼らは処刑されるとう脅しである。スパルタ人捕虜はアテネ人の好奇のまととなった。彼らは公衆にまるでめずらしい動物のように展示された。アテネ人は押しあいへしあいして捕虜をながめた。喚声をあげた。ツキジデスがいう。群集のなかの一人があざけるようにきいた。本物のスパルタは島でしんだ。針仕事をやってるのがちょうどよい。スパルタはこれにこたえた。針はスパルタでは矢の意味がある。彼らは矢をつかった攻撃は女々しく卑怯の攻撃といったという。

* スパルタの和平とあらたな戦いのはじまり
スファテリアの敗北はスパルタに大騒ぎを引きおこした。すぐ和平をもとめる動きがでた。アテネにはこれにおうじる寛容な雰囲気はまったくなかった。この機会を最大限に利用し有利な条件で合意しようとした。スパルタの捕虜が帰国できたのは五年後のことだった。彼らが帰国しての扱いであるが、臆病者として罰をあたえられることも市民権をうばわれることも街を散歩することを禁止されることも街中で棒でうたれることもなかった。アテネ人のあざけりをだまらすようにまた戦いがはじまった。血まみれの戦い、最後の幕である。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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アレクサンダー大王、その九、マリアン遠征作戦 [英語学習]

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* はじめに
ヒダスペスの戦いを勝利したアレクサンダーはさらに東進したがヒファシスで遠征を断念した。帰国の途についた彼はインダス川流域を船でくだり、そこの部族、マリアンを平定した。さらに南下し海岸線をすすみ沙漠横断をこころみるなどしてスーサについた。ペルシアとの融合のためペルシアの王女を妻とし、さらなる遠征を夢みたが突然の熱病にたおれかえらぬ人となった。
(Alexander the Great: Mallian Campaign 326 BC、BazBattles、2017/10/22 に公開)

* さらなる東進
紀元前三二六年七月、インド、ヒダスペスの勝利の後でアレクサンダーに引きいられたマセドニアの軍はパンジャブにいた。アレクサンダーのインド亜大陸の未知の土地にたいする征服意欲はおとろえることがなかった。当時のギリシャ人は世界の陸は海にかこまれてる。この大陸をぬけるとその海にぶつかるとしんじてた。

アレクサンダーの野望はパンジャブ征服だけではみたされなかった。彼は東にむけ出発する。ガンジス川流域の人口のおおい地域への遠征作戦に取りかかった。モンスーンの季節であった。はげしい雨がマセドニア軍の進軍をさまたげた。ヒマラヤの雪解け水の増水も川の横断をむずかしくした。だが彼らはハイドロオテス川を妨害にあわずすすんでいった。

* 四千八百キロ、東征のおわり
彼らが本土をたってから八年がすぎた。三三四年にダーダネルス海峡をわたりペルシアにむかった。すぐれた指揮官に引きいられマセドニア軍はほぼペルシア全土を征服した。そしてその遠征は東の端をこえた。母国から三千マイル(四千八百キロメートル)もはなれた。神話やおとぎ話の世界で地図にのってない場所にはいってしまった。彼らの装備は擦りきれ衣服もぼろぼろになった。常に雨がふってる湿気のおおい気候は彼らの進軍をますます困難にした。そしてとうとうアレクサンダーがモンスーンで増水した川、ヒファシスをわたろうとした時である。兵のおおくが川をわたることを拒否しもどりたいといったという。このあからさまな反逆行為はアレクサンダーに忠実な将校たちも支持した。部下のためにこの遠征作戦はこれ以上はすすめられないといった。アレクサンダーはこの反乱を予期したか彼らの意気阻喪ぶりをいかったのかはあきらかでない。あるいは、彼が軍の士気低下をしっていた、どこか適当なところで遠征をやめるつもりであったのかもしれない。彼の虚栄心が引きかえすと発言させなりかったのかも。たぶん彼はこの軍の士気低下とか突然月食がおきたとかわるい予兆を口実に彼の偉大な計画、征服を破棄することを正当化しようとしたのだろう。

成人した彼がこれまでてあじわってきたのは戦争の勝利だった。偉大な成果の連続であった。このことをかんがえると彼は神にあいされ神ともおもわれる特性をあたえられた人とであるとかんがえたかもしれない。真相はわからない。だが彼は部下たちの要求にまけヒファシスでとまった。ローマの記録によれば彼は帰国にむかうにさいし十二の祭壇の建立をめいじ野営地の大規模な要塞化をおこなった。これは後世の人々の記憶にのこる記念碑とするためのものだった

* 帰国準備、艦船隊の編成、南下
マセドニアの遠征軍がヒダスペスの川岸にもどってきた。アレクサンダーはすでに平定した地域を単純にもどることははずかしくてできなかった。それはまるで敗北の行軍にみえる。それで中央アジアの道をとるのをやめ南に進路をとることにした。インダス流域を南下し海にいたる。そこから海岸沿いにバビロニアにむかう。そのため次の二ヶ月を部隊をのせられる艦船の作成にかけた。これで川をくだるのである。

艦隊が完成する直前にスレイスから増援隊が到着した。一万五千の新規の兵だった。それといっしょに今まさに必要とする兵の衣服、鎧兜、武器、その他におおくの備品もおくられてきた。彼らは本隊に合流した。もし彼らがアレクサンダーが前進を断念したヒファシスにいたる前に合流していたら彼は部下にむかってさらに東にすすもうと呼びかけ部下を説得したかもしれない。だが紀元前二三六年十一月のはやくだが艦隊はできあがりモンスーンの季節はおわってた。マセドニアの軍は南にすすんでいった。

* オックスドラシァンとマリアンとの敵対
アレクサンダーはほぼ十万の兵を指揮下においた。兵站のため三つの部隊を編成した。プトレミとクラテラスがそれぞれの分遣隊を指揮しアレクサンダーも分遣隊を指揮し川をくだった。数週間後、これらの部隊はインドの二つの部族、警戒をようする部族がすむ土地に上陸した。オックスドラシァンとマリアンという。彼らはギリシャの軍に敵対的であった。

にわかに敵が出現したので二つの部族はあらそいをやめ一時的に同盟をむすんだ。マセドニアの軍はヒダスペスとアセシンズの川が合流してるところにやってきた。そこに野営地を気づ★き部隊は再合流した。ニアカスが指揮する艦隊はアセシンズ川をくだった。そして次のハイドロオティエス川と合流する地点に橋頭堡をきづいた。クラテラスの艦隊はその後にしたがい川をくだっていった。アレクサンダーは最大の部隊を指揮した。両方の川のあいだにある砂地においてインドの敵を攻撃するべく用意した。

* マリアンとの戦い、砂州での衝突
これは非常にむずかしい作戦である。アレクサンダーの攻撃はまったく効果がないかもしれない。しかしこんなことははじめてでない。彼は敵をおどろかすため予想外の手をうってくることがあった。彼はマリアンがこの地域でもっとも獰猛で好戦的な部族であるとしらされてた。この警戒のあまりマセドニア軍は進軍の道筋の街の住民を虐殺していった。さらに恐怖をあたえるために分遣隊を組織しおくった。これで征服の効率をあげ完璧にするためであった。複数以上のギリシャの部隊が巡回した。マリアンはこの侵入者の追及をのがれることがよりむずかしくなった。

安全に逃げだす惟一の方法は南のマリアンの首都にむかうことだった。アレクサンダーは首都にだんだんと近すいていった。それはハイドロオティエス川にそってすすむものだった。その進軍の途中でマセドニアは組織的な反撃をうけた。それは浅瀬をまもる警護隊だった。アレクサンダーは彼の騎馬隊とともに川をわたり攻撃を仕かけた。それはすぐ敵を恐慌におとしいれ防禦をわすれ逃げだした。あきらかにギリシャ軍の凶暴さが地域に周知となってるとわかった。マセドニアの騎馬隊はにげる敵を追いかけていった。しかし敵の指揮官はギリシャの騎馬隊の数が少数であることに気づいた。それでとどまりアレクサンダーとたたかうことにした。小規模な戦いがおきた。アレクサンダーは数で圧倒されているので本格的な戦いにはいるのをさけた。

* マリアンへの城攻め、アレクサンダーの負傷
まもなくこの戦いにギリシャの軽装歩兵隊が合流した。これでマリアンは総崩れになり彼らの砦に逃げかえった。マリアンの最後の抵抗はすぐ包囲されギリシャの軍は城攻めの態勢にはいたっ。その外壁はギリシャの軍の襲撃によりくずれた。しかしそのなかにある壁は強固だった。アレクサンダーはすぐ城攻めがはかどらないことに、いらつきはじめた。壁をのぼる梯子を取りだし壁の攻撃にかかった。彼にしたがうのは少数の親衛隊であった。マセドニアの兵はあわてて王の支援にはしった。彼はすでに壁のうえにたってたたかっていた。おどろくことでないが彼は胸に矢をうけた。彼の危険を無視した攻撃の結果だった。

しかし彼の無謀な行動は兵の急襲を加速した。砦はまもなくおちた。アレクサンダーが死亡したとの噂が彼の兵たちの怒りをよび都市住民の殺戮を加速した。数千人が刃にたおれた。復讐の行為だった。ささった矢は外科医のクリトメダスがぬいた。彼はその後数日、生死のあいだをさまよった。彼の健康がやや回復してマリアンの降服を公式に承認した。その地域にギリシャ人の行政長官をおいた。彼の傷はインダス川を南下してゆくあいだ痛みがつづいた。だがもはや生命の危険はなかった。

* マリアンで帰国準備
マリアンを平定してるあいだマセドニアはこの年の半分をつかって本国への帰国を準備した。紀元前三二五年、モンスーンの季節がおわろうとしてる時である。アレクサンダーが指揮した五万の兵が西に帰国の途についた。ニアカスは自分の艦隊を大洋の航海にたえるように整備した。この艦船は海岸線をすすむ軍にしたがった。だがう都市についた。そこはドランギアナの肥沃な土地からうまれるおおくの供給品をえることができた。

* スーサに到着、合同結婚式、王女を妻に
紀元前三二四年一月である。アレクサンダーはパソガディについた。そこから二ヶ月でスーサについた。そこで彼はニアカスと再会した。そこで彼はあたらしく征服した領土との一体性をたかめる努力をした。忠誠心に問題があるおおくの州長官を更迭し時には死罪とした。マセドニア人とペルシア人のあいだを強固にするためスーサにおいて合同結婚の宴をひらいた。おおくのマセドニアの高官はペルシア人女性を妻とした。アレクサンダー自身もペルシアの王女を妻とした。

* 突然の死
莫大な仕事と努力がこの広大な領土をもつペルシアを統合するのに必要だった。それにもかかわらずアレクサンダーはアラビアと西地中海への遠征を計画してた。しかしもはや征服の途にのぼることはなかった。紀元前三二三年六月である。

突然彼の軍人としての経歴がとだえた。彼は戦いでなくなった友人、ヘイフスティアンをしのぶ集まりをひらいていた。突然胸に痛みをかんじた。痛みをかんじたまま酒をのみつづけた。翌日、彼はおもい熱病を発症した。そして急激に健康をそこなっていった。六月十一日、三十三歳の誕生日をむかえる一月前、その力が頂点にある時に、死亡した。この突然の死は彼の友人や政府の高官にとってはまったく予期してなかった。その後には規則にそぐわない出来事がつづいた。アレクサンダーがきすいた帝国はだんだんとばらばらになりあわててあつまってきた承継者に引きつがれていった。

次は補注のようなもの。
一、アレクサンダーの提唱からはじまったギリシャ人とペルシア人との合同結婚はながくつづかななかった。彼の死後、ほとんどすべてのギリシャ人貴族は離婚した。これはあきらかにアレクサンダーが二つの文化を融合しようとしたことへの彼ら貴族の考えかたをしめしてる。


二、都市、アガディについてアレクサンダーはペルシャの王となろうとした。だが、この都市の滞在中にはできなかった。紀元前三三〇年にサイラス大王の墓があらされたことによって、ペルシアの王となる戴冠式はもう一度延期せざるをえなかった。

三、ヒファシスの反逆からアレクサンダーは保守派の将軍、クラテラスを宮廷からとおざけた。こうしてクラテラスの部隊はインダス流域の反乱を鎮圧するようめいじられ、またすでに平定ずみの中央アジアの道筋をたどりもどるようめいじられた。

(おわり)
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マイシニ文明の二
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スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
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ペロポネソス戦争の一
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ペロポネソス戦争の十五
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スパルタの覇権
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小アジアの騒乱
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コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
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二大政党ができるか [バカにされないクスリ]


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* はじめに
現状の分析では、総定員、四百六十五のところ与党の自民、公明が三百。のこりが希望、立憲民主、維新、共産など、百六十五となるらしい。テレビで解説してた東国原英夫氏が選挙後に野党再編がおきて百をこえる与党対抗勢力が誕生するかもといった。私はこれはすごい二大政党制の誕生か、とおもった。だが無理、まとまるはずがという。小池旋風の登場の当初、安保法制維持、憲法改正の姿勢から、この道筋がみえるかと期待した。だが希望への民進党の合流、選別宣言、小池人気の低落、合流できなかった民進議員をあつめ枝野新党、意外な人気。まことにめまぐるしい変化。風よみ小池氏の安倍一強批判。ぐちゃぐちゃになった野党勢力が選挙後にまとまればとも。せめてそれぐらいの成果をだしてくれといいたいが、どうもそうでないようだ。

* 二大政党の可能性をさぐる、立憲民主党は
立憲民主党は政治的主張をとおした。日本人特有の判官びいきもあり勢力が予想外にのびるかも。だが政治評論家、田崎史郎氏は筋をとおしたようにみえる人たちといってる。事実彼らは前原氏のあっせんで希望の党に希望者全員がうつれるとの説明に万歳した。ところが小池氏の選別方針でやむえず転換して新党結成にむかった。万歳したことはだまって、はじめからイヤといったという人も。

* では希望への転身組は
ところで希望に転身した人たちの政策は。当初のきびしい小池選別なら、いったい党として公式に安保法制を否定してた。ほとんどうつれなかったはず。小池人気がおちて本音がきこえてきた。誓約書をだしたはずだが選挙民相手に憲法改正や安保法制反対を。また離党まで口に。おそらく元民進系が当選するだろう。そうなるともはや求心力をうしなった小池さんのいうことは。自分の嗅覚をたよりに政界再々編にいどむ。

* 野党の再々編の目論見は
ここで意気あがる立憲民主と話しあう。これうまくゆくか。望みうす。気まずいわかれからの再会。もともと政策を突きつめて後の分裂でない。政策はなんとなく共通していても不愉快な気分が優先するだろう。とても二大政党制の一つの対抗勢力とまでにまとまらない。さて私は日本は「一大政党制」だとおもう。

* 日本は一大政党制では
与党は常にに政権をにない人材を内部にもつ。派閥が多様な意見を反映し社会の変化に対応する。党内抗争をつうじ党代表をだす。野党は政権をになう気持はなく人材もすくない。与党批判のみを存在意義とする。これが日本の政治だとおもう。これでうまくいってた。うまくゆくとしんじてる国民がおおいかも。ところが民主党が自民党から政権をうばった。政権の交代を実現させたという意義はみとめるが二大政党制の実現ではなかった。ご存知のとおり政権運営の実力も実態もなかった。二〇一二年の安倍政権復活でたちまち株価上昇、経済指標が好転が事実をしめした。つまり日本は一大政党制だということ。

* 二大政党制がのぞましいが
私は二大政党制、安全保障や憲法観はほぼおなじだが経済や社会政策で特徴をもつ二つの党が国民の選択をきそう。これがのぞましいとおもってるが日本の一大政党制も国民の選択である。今回の選挙の結果では一大政党制の維持だろう。私はそれは馬鹿な国民の選択とひそかにおもってるが、それを馬鹿の選択と切りすてずもうすこしかんがえてみる。

* これでも一大政党制か
一、一大政党制は時代おくれ。追いつき追いこせという時代はとっくにすぎたがあいかわらず一大政党制である。先進国となり未知の世界に足を踏みこんでる。多様な意見を受けとめ時には先進的な政策をこころみる必要がある。一大政党制にある日本の現状といえば現状維持最優先の官僚、特に財務官僚のお膳立てに政治家がのっかってる。政府がマクロ経済の運営を主導すべきだが、そのマクロを理解しているとおもえない。デフレ脱却にくるしんでるのに緊縮財政、予算ベースでなく決算ベースでみれがわかる。また何かといえば増税を持ちだすという頓珍漢をつづけてる。財務省主導の予算づくりに対抗して将来の投資は国債発行と主張する別の与党候補がでてきてほしい。時代おくれの一大政党でいいのか。

二、野党が政策を批判する政党か。日本の野党は政治に不満をもつ国民の受け皿にすぎない。野党が与党の揚げ足をとってるところみて鬱憤をはらし与党や政府がこまってるのに喝采してる国民にサービスしてるだけ。選挙の落選をおそれ希望に万歳してうつろうとした。希望に選別されて新党にはしった。選挙後には将来の選挙をかんがえて野党再々編に知恵をしぼる。そんな野党がほんとうに政策批判ができるか。

三、そんなにおおくの野党議員が必要か。おそらく与党が三百、野党が百五十程度だろう。一大政党制で百五十の批判勢力が必要か。与党のやってることに文句をつけるだけ、けっして政権をになう実力も意欲もない。こんなにたくさんの政治家が必要か。

さて結論である。

* 結論
選挙の結果がまもなくでる。どんなものかをみて、私は馬鹿な国民がどれほどいるか、あるいはいないのかをみるつもりである。

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スパルタの栄光、その一、テルモピレの戦いまで [英語学習]

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* はじめに
ギリシャの数ある都市国家で異彩をはなつスパルタについてのべる。かってさかえたマイシニア文明がおわった後に暗黒時代がおとずれ、やがて肥沃な土地をもとめてやってきたスパルタ人がギリシャ西南部、ユラテス川流域にスパルタを建設した。周囲のギリシャ人を奴隷化し国をつくった。数で圧倒的におとる彼らは軍事力で住民を支配した。軍事力の優先が他の都市国家から際だつ特殊な社会をつくった。三部作の第一でテルモピレの戦いまでをあつかう。
(The Spartans - Part 1 of 3 (Ancient Greece Documentary)、Timeline、2017/08/25 に公開)l

* 古代ギリシャを代表するスパルタ
古代ギリシャをかんがえるとアテネのパルテノンが思いうかぶ。そこは西洋文明の起源を象徴する。 哲学、科学、芸術、建築、民主主義の源泉がある。しかし古代ギリシャにはアテネよりもっとみるべきものがある。かっての都市の悲劇の記念碑である。三百人のスパルタの戦士が埋葬されてる塚である。彼らは紀元前四八〇年、テルモピレにおいて最後までたたかってちった戦士たちである。彼らは巨大なペルシア軍の侵攻に抵抗した。ほぼ四十倍の敵にかこまれ玉砕した。彼らはここに埋葬されている。碑文で彼らの行為を顕彰しこういってる。

ここに通りがかった異国の人よ。スパルタの人につたえてくれ。スパルタの法にしたがい我々がここにねむることを。

* スパルタの特徴
アテネとちがいスパルタには高名の哲学者はいない。政治家、芸術家についてもおなじである。彼らは二つで有名だった。

一、倹約ぶり、我々スパルタは言葉を節約する。寡黙な戦士が有名である。密接に関連するが、
二、厳格な行動規範。スパルタの社会でその行為にもとめられる。それは極端な規律遵守と自己犠牲にある


彼らの目的は完全な都市国家をつくり、それを完全な戦士でまもることである。

完璧性の追及はスパルタを奇妙なところにした。お金を法律で禁止した。平等を強制した。虚弱な子どもはすてた。男性中心主義を強制した。一定程度の社会的および性的自由が女性にみとめられた。これは古代の世界できいたことのないものだった。粗暴な軍国主義であり大規模な奴隷社会だった。現代の全体主義の政府をおもわせるものだった。

しかしそれと同時にスパルタは市民の権利と義務を最初にさだめた都市国家だった。スパルタはアテネとともにペルシア帝国からの奴隷化をすくった。それはつまり西洋社会の奴隷化をもすくった都市国家である。スパルタの硬直した理想主義にはアテネ文明がもってた魅力はなかったが西洋文明にとっておなじ程度に重要だった。それはパルテノンが象徴する崇高な理想とおなじ程度に崇高だった。スパルタの物語りは我々自身の物語りである。西洋文明に流しこまれたいくつかの考えが二千五百年前のギリシャの軍国主義国家においてその妥当性をとわれた。


* ペロポネソス半島にまもられたスパルタ
スパルタの物語りには私を劇的感動にさそう歴史がある。私はある旅行にむかった。そこにはその感動に合致する環境があった。それはペロポネソス半島である。そこには岩肌をみせる山脈があった。谷筋がいくつもはしってる。これらがギリシャ本土最南端の景観をつくってた。古代のギリシャ人はそれを島とかんがえてた。

これからする物語りよりもずっと前にスパルタにはかたるべき歴史があった。あのトロイ戦争をたたかったギリシャ人のおおくはここからやってきた。ギリシャを指揮するアガメムノンはペロポネソスの東部のマイシニアをおさめてた。南のスパルタにはメネレイアスとその妻ヘレンの宮殿があった。ヘレンはその美貌ゆえにトロイ戦争を引きおこした。だが紀元前千百年前にすべてがきえた。何がおきたのかたしかなことはわからない。地震、奴隷の反乱。あるいは小惑星が原因かもしれない。ヘレンがいた東地中海の地域のすべてが灰燼にきした。その残滓が数百年つづいたが、突然おわった。

* 北からやってきたスパルタ人
そしてギリシャに暗黒時代がやってきた。歴史の連続がとだえた 。中央で暗黒がつづくあいだに北からあたらしい人々がより肥沃な土地、より住みやすい土地をもとめてやってきた。彼らはあたらしいギリシャの方言をはなす。羊や山羊をつれわずかな財産をもってやってきた。彼らはペロポネソスの全域にひろがった。メネレイアス王がかって支配した土地にもやってきた。くるしい旅のかいがあった。やってきた人々はここに理想郷をみたとおもう。平原がひろがる。ユラテス川がながれる。川は南北に五十マイル(八十キロメートル)ををながれる。土地を渇望してたギリシャ人には肥沃な貴重な農地であった。川は一年中ながれてた。そこの七十パーセントは農地に適当でなかった。そのわずかの農地が山と海にはさまれてた。その西にはジーザス山脈が八千フィート(二千四百メートル)以上の高さの山があった。春から夏になろうとしてる頃にも残雪があった。その斜面で狩をすれば鹿、猪、またゆたかな山菜、木の実などがとれた。ここには数字であらわせないすばらいいものがあった。

安全の感覚である。 どこをみても、どこの水平線をみても丘や山並みがまもってくれる。まさに安全である。そうだから家畜をおう人々がオリーブの木の下で羊をうる。そしてそこに定住する。つまりあたらしいスパルタ人がうまれる。彼らはここにメネレイアスの寺院を伝説の王、メネレイアスとその妻ヘレンをたたえてたてた。暗黒時代がおわりあたらしい時代にスパルタのようなあたらしい都市がギリシャ各地にうまれた。

* 都市国家をつくるスパルタ
その規模、勢力はさまざまだった。しかし一つ共通する。たがいが合意した法と習慣にしたがい統治がおこなわれたことである。その規則の内容はことなるがそれが目的とするところはほぼおなじである。善良な秩序と正義をつくる。そして混乱と無法状態にたいしてそれらをまもる。今日の考古学者はここに三千年前に最初にやってきたスパルタの人々の生活を描きだそうとしてる。

理想を夢み都市を建設した人々、ユートピアを夢みた人々である。ほとんど手がかりになるものをのこしてない。彼らの再構築は容易でない。彼らがのこしたもの。それはうまったままか現代の都市が建設された時に破壊されたものである。建築計画がすすむ時はいつも小片があらわれ謎をおしえてくれる。スパルタ人はアテネ人とちがう。材料をのこさない。建築物をたてない、ものをつくらない、自分たちのことを記録にのこさない。これらで有名であった。このため古代都市と文明について関心をもつ人々にとりスパルタはことさらに関心をよぶ存在である。

* 二人の王の神話と歴史
たとえばスパルタの王である。スパルタはわかってる範囲でずっと王は二人、二つの王宮があった。この独特の仕組みについてスパルタ人はこう説明する。彼らは神話の英雄、ヘレクレスに直接むすびつく子孫である。伝説では双子の二人である。彼らはアガメムノンの子孫からペロポネソスの支配を安定させたという。人々がいう彼ら自身の物語りは示唆にとむ。これは攻撃的な王位簒奪者の二人による領土の奪取だが、神話では高名な英雄の子孫への継承である。これは周辺の人々の不安を掻きたてるメッセージとなってる。

* 奴隷化をすすめるスパルタ、ペリオイコイ
そしてほどなくスパルタ人はユラテス川流域の各地の測量をおこない季節の流量の調整をはじめた。また、それほどとおくない頃に非スパルタ人の奴隷化をはじめた。彼らの公民権をうばいペリオイコイ、周囲にすむ人々という意味だが、こうよぶようになる。彼らは職人と商人となりスパルタの経済活動をになう人々となった。この隣人の奴隷化がスパルタの最初の拡張だった。ユラテス谷に充分な広さがあったにもかかわらずスパルタは他の都市と同様に土地にうえて拡張をもとめた。他の都市はこれを植民都市の建設あるいは衛星都市の建設によってみたした。その西の極限はジブラルタル海峡である。東は クリミアの黒海にいたる。スパルタ人も自分たちの都市建設に取りかかる。

* 奴隷化をすすめるスパルタ、ヘロット
彼らの目は西にむいた。そして山をこしたむこうには彼らの欲求をみたす土地があるかも、また理想郷かもしれない。あるいはまた彼らの暗黒面をあらわにするところかもしれない。それはつまり彼らが主人となり奴隷国家をつくることであるからである。ジーザス山脈の谷筋の道を車でゆくが二千八百年の昔にはスパルタ軍がこうして西に遠征した。領土の獲得をめざし山中のきびしい行軍を数日つづける。そこはマイシニアである。スパルタは領土ばかりでなく住民の自由もうばう。彼らはマイシニアをヘロットにした。それはとらわれた者という意味つまり奴隷である。自分たちの生活のなかに奴隷がいることは古代ギリシャにおいて受けいれられる概念である。しかし奴隷は外国人、あるいは野蛮人とかんがえられギリシャ語をはなさない人々である。そうであれば奴隷という存在は受けいれやすい概念である。ところがおおきな規模でギリシャ人を奴隷にする。これはおなじといえない。マイシニアを奴隷化したことは他のギリシャの都市との違いをきわだたせた。それはまたスパルタが社会の不安定化におびえ反乱がおきることを極度に警戒しなければならない社会に仕たてることを意味する。マイシニア人を奴隷とすることは容易でなかった。

二回の全面戦争が必要だった。それぞれ二十年をようした。ここで二度目の戦争について我々がしってることをのべる。我々はその戦いの目撃者をもってる。その最初はターティエスというスパルタの兵士であり詩人である。

* 奴隷化戦争、マイシニアの侵略
勇敢な男が死ぬことはすばらしい。自分たちの祖国のため戦いの前線にでてたおれ死ぬことはすばらしいことである。この国土のため情熱をもやしたたかおう。我々の子どもたちのために死のう。もはや自分の命をおしむ時ではない。若者よきたれ。自分の心のなかにある情熱をもやし男々くたぎらせよ。戦いに身をおく時に自分の命をおしむべきでない。

ターティエスは戦争詩人である。彼が戦争に身をおく時にあわれみの心をもってなかったとおもう。これらの詩の文章はまるで戦いの雄叫びである。兵を引きいる軍曹のような率直さで意気地なく逃げだそうとする人にもし自分の国土をもとめるなら、たたかって奪取しなければならないとその性根に叩きこんだ。

* 重装兵士の誕生
これはターティエスが重装兵士(ホップライト)とよぶ兵士たちに語りかけたものである。彼らは八フィートの槍とまるい盾をもつ兵士たちである。紀元前七世紀のおわり頃すべてのギリシャの都市は彼ら自身の軍をもってた。彼らは重装兵士である。彼らはフルタイムの職業軍人でなかった。彼らは農民である。彼らは祖国をまもるため鋤をすて槍をとる。彼らは横につらなって敵に立ちむかう。この兵は勇気をしめすばかりでない市民という特権がある資格をもってることをしめしてる。

ここは各種競技がおこなわれることで有名なオリンピアである。そこはまた非公式の重装兵士の寺院でもある。そこに兵士たちが装備した武器を勝利の感謝の意味をこめてささげるところである。ここにかざってあるのは盾についてたホップロン(hoplon)である。重装兵士の装備品である。その兵士の名前がはいってるだろう。これは中央にある革の板に左腕をとおし、縁の革紐をつかむ。こうして盾をささえる。木と金属でできてる。その重量は二十ポンド(九キログラム)。これで一日たたかうから相当の重さである。しかし鎧や盾をおとすことは最大の恥辱であった。

* 密集歩兵隊のたたかいかた
重装兵士の戦法はチームプレイである。盾は自分をまもるともにその左の味方をまもる。重装兵士たちはたがいに近よって強固な防禦をつくる。これを密集歩兵隊とよぶ。七あるいは八の列が縦にかさなり、おそらくその一列は横に五十の盾がならぶ。協同と規律が重要となるがもっとも大事なのは信頼である。もし隣りの兵士がくずれ逃げだしたらその兵士は剥きだしになり敵の槍の餌食になりかねない。二つの密集歩兵隊がぶつかった時は兵は右に位置をかえようとする。これは本能的に隣りの兵の盾の後にかくれようとする動きである。この時、密集歩兵隊の規律がこわれる危険がある。これをまもるため兵たちは歯をくいしばり自分の位置をたもつことが大事である。ターティエスが有益な助言をしてる。しっかりとそれぞれが自分の位置をたもち敵の前線にむかい接近戦にいどむ。そうすれば死者はすくなくなる。そうすると彼らは後の部隊をより安全にする。

いったん密集歩兵隊がぶつかったら、その戦術はおおくない。戦場は粉塵のなかですべてがみえなくなる。そして相手を押しあげる。後列はラグビーのスクラムのように力をだしてこの押しあげをたすける。敵の槍の攻撃にさらされる範囲は前から三列までである。ここの状況が生死をわける。これは盾についてるゴルゴン、神話の女神の飾りである。彼女がにらむと男は石となるという。さてスパルタはこのような戦闘に関連する美術品では他のどの都市よりもすぐれている。彼らは隣人、マイシニア人たちをたおし奴隷にしなければならなかった。紀元前六五〇年頃にそれは完了した。次の三百年のあいだマイシニア人は奴隷となった。スパルタ人の田畑で農奴となりはたらき驢馬のようにおもい荷物をかついだ。ターティエスはそういってる。

* 軍事立国スパルタ、理想郷の維持
マイシニア人の征服をおえたら次にスパルタ人がかんがえたのはこれをどうして維持するかである。ギリシャのほかの都市においては市民戦争により富裕な人々とまずしい人々が分裂した。スパルタにおいてもマイシニア人の反乱の危険が非常にたかまった。ここでスパルタは思いきった方法をとった。まず彼らの理想郷の実現と維持を国家の目標とした。彼らのすべてをそんな完璧な社会にささげることにした。重装歩兵による密集歩兵隊、規律ある集団主義と自己犠牲のうえにつくられた理想郷。これを目ざす革命であった。

* 建国の指導者、ライカーガス
すべての革命には偉大な指導者が必要である。スパルタではライカーガスである。彼は狼の労働者(wolf worker)といわれる。彼が実在したと言いきれない。だがスパルタ人はそうしんじる。彼は奇跡をおこす労働者。神々の助言をえて天と地をつくったという。古代においてこんなに極端にはしたっ文明をつくったのは、彼かもしれない。あるいはある集団にぞくした人々かも。あるいはある複数世代にぞくする 人々かもしれない。

スパルタを変革した革命は紀元前六五〇年頃、スパルタの隣国マイシニアの奴隷化が完了した時である。ヘロットを平定し彼らの反乱をおさえるためスパルタは強力で規律ある専門軍人による重装兵士を作りあげた。かってのギリシャになかった。スパルタの社会は実質的に軍人養成の訓練場となった。スパルタ人は漁師でも農夫でもなく職人でも商人でもない彼らはただたたかう人々だった。彼らがたたかってない時は訓練をうけてる。訓練をうけてない時は同僚の兵士と外をぶらつく。家族のまとまりはほとんど重要視されなかった。大事なのは男子の同輩のあいだの連帯、密集歩兵隊の一体性を強化するものであった。

* スパルタ兵士の育成、きびしい選別
彼らはひたすら脇見もせずにそれを追及した。スパルタにうまれてもそれだけで充分でない。すべての男子はながい期間をかけてきびしい競争にたえて市民としての権利を勝ちとる。それは非常にくるしい訓練の連続だった。最初の関門はうまれてすぐである。ここの渓谷はスパルタから数マイルのところにある。デポゼータイ(処理場)とよばれてる。そこはまた拒絶の場所ともよばれた。生まれたばかりの赤子が投げすてられるところだったからである。スパルタの基準からみて適合してない、身体的能力が完全でないと判断された赤子である。幼児殺しは古代ギリシャにおいてどこでもおこなわれていた。必要とされない女児は山間に置きざりにされた。たびたびおきる普通のことである。時には籠または壺にいれられる。そうするともしかすると誰かがひろってくれる。またはなにかがおきて生きのびるかもしれない。スパルタにおいては事情がちがう。男子のほうが選別される。女子より男子が犠牲となる。判断するのは両親ではなく都市の長老である。神話にでてくるような子どもをそだてようとする女狐や羊飼いは絶対にいなかった。長老の判断は最終的で絶対だった。

最初の試練を生きのびた男子は七歳の時に家族からはなれる。アゴギといわれる一連の訓練にはいる。これはそだてるという意味だが動物よりすこしよい条件であつかうということである。スパルタ人の少年にとってはこれは教室である。ここ、ジーザス山脈のふもとで彼らはスパルタの言葉でブウアイ、蓄牛の一団に編成される。年長の子どもが世話する。彼は規律をまもらせ罰をあたえる。集まりの責任者である。そこで重視されるのは生きのびること。最低限の衣服があたえられる。秋の好天ではよいが冬の零下六度になる状況では不十分である。供給される食糧はわずかである。彼らは他人の配給品をかすめとることを奨励される。もしそれがみつかると彼らは棒でうたれるが理由はぬすみでなく発見されたからである。それは訓練というより悲惨な運命にたえることである。訓練によりきたえることでない。

この山を背景に本当かとうたがわれるスパルタの秘儀がある。クリプテアである。これは秘密の使命をおびた旅団という。極端な例がわかってる。ナイフが各自にあたえられ日中に散開、身をひそめる。夜に彼らは谷に侵入する。獲物をさがし見つけたヘロットをころす。この真相はあきらかでない。だがこのような血にうえた集団がいると噂となり地域にひろまる。これは恐怖による支配をつづけるのに好都合である。奴隷たちをしずめ従順にするのに完璧な戦術であるともいえる。スパルタは集団主義を重視したが個人の業績をよりたかく評価した。子どもたちは他の子どもと比較され評価され、また自分自身の限界との比較で恒常的に評価された。

* スパルタ、恐怖のアルテミス
ここは恐怖のアルテミス(artemis)の聖域があった場所である。ここでスパルタがもつ競争重視の考えが極端なかたちであらわれる。最初の五年のアゴギをこなした子どもたちは十二歳となる。彼らがここにくる。残酷な通過儀礼がおこなわれる。 そこ に祭壇をきづき、チーズがつまれる。そしてそこからチーズをぬすむ。どれだけおおくのチーズをぬすむかがためされる。その前に年長の男子がならんでる。彼らはそれぞれ鞭をもってる。彼らの使命は無慈悲にためらいなく祭壇をまもることである。彼らは忍耐とねばりづよさを徹底的に教えこまれてた。おおくの目があるなかで絶望にかられた十二歳の子どもたちが籠手、それは決闘におうじる印となるが彼らが年長にいどむ。何度も何度もいどむ。ひどいいたみにたえる。ひどい傷をおう。あるものはこれによりしぬものもいたという。このような残酷な訓練につよい嫌悪感をもつかもしれない。だがここアルテミスにかざられている素焼きの陶器の仮面は、このような暴力とはあまりにも縁どおいものとみえる。

こんなことにおどろくのは現代人だけでない。アリストートルもスパルタ人は彼らの子どもを動物におとしめたと批判してる。あるいは別のギリシャ人は蜂の巣のまわりにむらがる蜂とみなした。個性をまったくうしなったものとみてる。これが何世紀ものあいだにスパルタとはそういうものだといわれてきたものである。だが、集団行動のなかでその部分となることは限界からの解放である。もしフットボール場のなかのメキシコの波の集団行動のなかにいたり聖歌隊のなかで合唱したり抗議運動で行進したりすると群集のなかの部分となる。これは自己を極小にするよりむしろ自己を極大にさせ自己の限界を拡張させ自己の自覚を強大にする。このことに気づく。これらがスパルタ訓練の基本的魅力である。自己の限界を超越し自分よりおおきなもの、すぐれたものに属するという感覚になる。これが重要な点である。

* 集団行動を重視した訓練
十二歳になればきびしい訓練が可能になる。読み書き、現代に我々がいうところのものだが、それがおしえられる。これは必要なだけである。そして音楽と踊りは必須とかんがえられてた。重装兵士がぶつかる戦場は戦いの舞踏場といわれることがある。みごとな共同歩調をもってうごくことのできる密集歩兵隊はすばらしい舞踏の相手をつとめることができる。それでスパルタ人はおおくの時間をつかい戦争の音楽といわれる律動のある演習を完全なものにするのにつとめる。方向転換したり歩速を変化させたりを音楽的につたえる。スパルタ人はもっとも音楽をこのみ、かつ戦争をこのむ人々として有名となった。

* 最後の選別、共餐仲間への入会
二十歳のおわり頃に訓練もおわりに近づく。スパルタ人男子はもっとも重要な試験をうける。共餐仲間の一員にえらばれるかどうかである。えらばれたら彼らはほとんどの時間をそこですごす。もちろん、戦いと訓練がない時間である。この男性だけしかはいれない仲間にはいれるかどうかは保障されてない。この入会は現在の構成員の投票によりきめる。これに失敗することははずかしいことでありうまれた地域社会から排除されることである。もし受けいれらたらおおきな土地を国家からもらい、それをたがやす一定数のヘロットもつけられる。それで自分と自分の家族の生活をささえる。これで彼はホミオエの一人、えらばれた戦士となる。彼はスパルタの最上層にぞくすることになる。

共餐仲間のクラブはスパルタの中心から一マイルほどのところにあった。これは都市の政治をうごかす必須の仕組みであった。不協和音やあらそいを寄せつけないようにすることを意図してる。年長者と若者がまざりあい世代間の対立をやわらげる。この争いは他のギリシャでは恒常的にみられた。さらにもっと重要なのは富者と貧者が同一の条件で出あうことである。現実にある差があらわになることをきらう。それはほとんど強制である。この行動原理のうしろにスパルタの平等主義がひそんでいる。たとえもっていても見せびらかさない。それは家屋はもちろん、衣服、食事すら、これにあてはめる。ギリシャの他の場所では富裕なものは二人の売笑婦をしたがえ、仲間をよびワインをあけ雲雀の舌と蜂蜜づけの炙ったツナの食事を振るまう。スパルタでは贅沢な食事の時間はなく、共餐のクラブでは毎日きまった料理がでる。それは豚の血液を沸騰させ酢を調合してつくるスープである。これはメラスゾマスという。悪名たかいくろいスープである。こういう逸話がある。イタリアのシバラス、そこは贅沢で大食で悪名たかいところだがその住民がくろいスープの作りかたをきかされた。なるほどそれでスパルタ人がすぐしにたがるのか、といった。

スパルタの吝嗇ぶりはその同時代の人々をおどろかせ、また現代人もそうだろう。彼らの食事をさておいても、このくろいスープは栄養価がたかく健康的である。食事をとってるスパルタ人の彫像がある。満足そうな表情をうかべてる。この食事は充分に美味だったとおもう。栄養があり生活にあくせくすることなく隣人と協調している。これはスパルタの社会がもとめるきびしい条件にかかわらず、よき生活とは何かをしってる人である。それはまたまったくあたらしい種類の人間、つまり市民という身分の人間である。スパルタの社会は非常にはやい段階から社会契約を導入した社会である。そこでは個人の義務がある種の特権と権利によってバランスされていた。それはふかい意味をもった概念である。他のギリシャの都市よりも数百年もはやく取りいれたものである。

* ギリシャの危機でしめされたスパルタ精神
しかし理想郷は保護が必要である。紀元前四八〇年おそろしい知らせがスパルタにとどいた。ペルシャ帝国がうごきだした。巨大な軍が陸路と海路から西にむかってる。そこでスパルタがギリシャを崩壊からすくうこと、その有名をはせた兵士がその期待にこたえる実力があるのか。それをみせる時がきた。

考古学の目がスパルタにはいったのは近年のことである。一九〇六年、英国の一団が組織的に発掘作業にはいった。一九二五年、原寸大の上半身像が出土した。それがすこしづつ引きだされた時、すばらしい戦士像であることがわかった。ギリシャ人発掘作業員の一人が躊躇なくいった。レオナイデスだ。スパルタの傑出した王。彼は三百人の兵士とともに巨大なペルシアの軍に立ちむかい玉砕した。ギリシャ中部のテルモピレでの悲劇である。これが彼か、たしかな証拠はない。時代があうので可能性はある。私はこの作業員がこうかんがえたことはゆるせる。誰もがしってる伝説上の英雄に顔がないのはいやだろう。

近頃、この戦士はスパルタの博物館にかざられた。それをレオナイデスとよぶが、一応注釈がついてる。彼の彫像は印象的な作品であることは間違いがない。あの謎めいた笑いをうかべた表情はこの当時の典型的なものである。今は彼の目は眼窩だけがのこり空白だが、かっては水晶と貝殻がはめられてかがやいてたろう。その胸回りは将軍にふさわしく力づよい。髮の毛はととのえられ上唇のうえには髭がない。きれいにそられてる。それはライカーガスの改革にある身嗜みにそう。スパルタの男子は髭をたくわえてはいけないというものである。もしあなたがスパルタ人の典型をみたいのならこれがまさしくそれである我々はレオナイデスのことをほとんどしらない。彼はアガダイの家系の一人である。歴代王をだす家系の一つである。在位十年をへた。その時ペルシアが西に侵攻してきた。

* ペルシア帝国が侵攻
ペルシアはエジプトからインドの西端にひろがる超大国だった。東地中海の領域においても超大国だった。ギリシャはとるにたりない存在だったが、だんだんと彼らの西端をさわがす存在となった。ギリシャ人はその領土、小アジアにおいて何度か反乱をおこしてる。最初の軍をおくったのはダリウス王である。彼は懲罰のため軍を陸路、マラソンにおくったが、アテネとその同盟に敗北をきっした。その恥をはらす軍をおくろうとしたが、はたせずしんだ。その仕事は彼の息子、ゼクセスが引きついた。

ペルシャは陸路と海路で紀元前四八〇年のはやくに出発した。陸軍は非常にはやかった。歴史家のヘロドタスがいう。ペルシア軍は川の水を飲みほした。ペルシアは百五十万人にたっしたというが、より厳密な推測では三十万人をこえないという。ギリシャの都市を粉砕するのは充分である。スパルタはペルシアの侵攻時にデルファイに神託をうかがった。神託は神がはっした言葉であるとかんがえられてた。それは神がのりうつった女神官の唇をとおしてはっせられるとかんがえられてた。スパルタは純粋に神をしんじてた。彼らはそれをまるで軍隊の命令のようにあつかった。神託をまじめに読みとく必要がある。スパルタは謎にみちたまわりくどい文章から二つの選択肢を読みといた。降服せよ、さもなくばたたかえ。スパルタ人はスパルタ人である。後者をえらんだ。その侵略への抵抗の先頭にたった。

* テルモピレのたたかい
ペルシアの軍はおおきく南にふれてギリシャの心臓部にむかった。指揮をとるレオナイデスはこれを阻止するべく北にむかった。そこはテルモピレ、ギリシャ語で火の門である。紀元前四八〇年、ここは自然がつくった地形、瓶の首のようにせばまってる。現在は海岸線が数マイル沖にさがってるが南にぬける道は海岸線と山によってせばめられてた。七千から八千の重装兵士がギリシャ全土からやってきた。彼らがまずやったのは、もっもせまい場所に壁をつくること。彼らはここのうしろにしゃがんでペルシアをまつ。ここで進軍を阻止しようとした。

ギリシャの兵力は圧倒的におとってた。しかし彼らは地理をよくしる。ペルシアの進軍をおそくできたなら、もっと強力な陸と海の守りをつくれる。レオナイデスと彼に引きいられた三百の兵にとってはテルモピレは彼らにとりスパルタ人がなんたるかをしめす場所でもあった。ギリシャでは祖国のために貴族である彼らが死におもむく。その姿にさまざまな声があった。何をいわれようとも彼らがそこでもとめたのはカロス・タナトス、うつくしい死という意味の言葉、これの実践だった。

詩人ターティエスがいう。敵にしずかに前進してゆけ。けっして戦場から逃げださず死をまるで恋人のように抱きしめよ。戦いでは神に捧げ物をする。エロスは愛の神である。うつくしい死は真の意味で犠牲の捧げ物である。有限の命をもつものを神聖なものにかえることである。ここでレオナイデスは年長者と若者が心を一つにするようつとめた。彼は誰も祖国にもどることはないとかんがえてた。テルモピレでたたかつたスパルタ人は強力な神風特攻隊であった。

三日間、ギリシャはペルシアをまってた。壁のむこうに身をかくし、くればそこから反撃にでようとしてた。重装兵士の部隊は三度ペルシアの攻撃をうけ、三度反撃に成功した。ゼクセスはほとんど攻撃をあきらめかけた。そこで彼は秘密の抜け道があるといわれた。それは山をぬけギリシャの壁の後にまわることができるものである。レオナイデスはペルシアのこの動きをしった。勝敗の帰趨をさとった。まもなくギリシャは包囲される。まだ逃げだす時間があった。彼は同盟軍の戦場離脱をみとめた。そして歴史にのこる最後の戦いの舞台をととのえた。最後の日の朝、スパルタ人は戦場にむかう前の儀式を取りおこなった。はだかになった。準備運動をした。油を体にぬった。ながい髮を櫛でたがいにととのえあった。木の小枝に名前を書きこんだ。それを腕につけた。それで死体が特定できるようにするためである。ペルシアのスパイはこの奇妙な行動をみてゼクセスに報告すると彼はわらった。彼らはまるでパーティの準備をしてるようだとわらった。だが彼らは自分たちをより偉大にもっと高貴にもっとおそろしくしてた。

* スパルタ軍の玉砕
ヘロドタスがしるしてる。朝、ゼクセスはのぼる朝日にむかい神に神酒をささげた。そして前進をめいじた。レオナイデスの配下にある兵たちはこの戦いが最後の戦いになることをしってた。道のもっともひろいところにむかってすすんでいった。彼らは誰も助けにきてくれないなかで何者もおそれずたたかった。まだ剣をもっていたら剣で。なかったら手で。あるいは歯でたたかった。ペルシアは前からと後からも近づいてきた。

軍事の専門家からいえばテルモピレはたいした意味がない。これでペルシアの進軍は一週間たらずおくれた。そしてすぐまた南下をはじめた。この後にほどなくもう一つの戦いがはじまる。それはここにちかいサラミスである。そこではアテネに引きいられた艦隊がペルシアの艦船を撃破した。テルモピレは価値のない人にしられたくない虐殺であった。しかしサラミスはテルモピレがはじめたことをおわらせた。ペルシアはついにギリシャから追いだされた。この勝利の後である。

* テルモピレ、スパルタ精神の発揮
このテルモピレの悲劇における英雄たちの物語りがギリシャ人の心をつかんではなさなかった。テルモピレはスパルタ人がどのような人々であるかを世界にしめすかっこうの舞台となった。そこをつうじ彼らがその都市の理想を実現し彼らがもとめた理想郷がただしいことだとしめした。さらにヘロドタスがいう。テルモピレがスパルタ人に他の都市がけっしてえることのできないたかい栄誉を作りだした。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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希望まみれの衆院選 [バカにされないクスリ]


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* はじめに
十日公示、二十二日投票の衆院選挙がはじまった。ユーチューブで 高嶋ひでたけ氏と鈴木哲夫氏がこれをかたってる。前原誠司前民進党代表は乾坤一擲の手として衆議院民進党を解党し希望者全員を希望の党に移籍させるという考えをまとめ、大荒れが予想された臨時党大会をのりきった。これでなんとかなると小池さんのところにゆくと、予想外にきびしい条件がつけられ選別、排除がおきた。高嶋さんが前原さんがだまされたとおもってるのかときくと鈴木さんはそうでない。さらに枝野さんと前原さんはながいつきあいの仲間で、枝野さんは前原さんを信頼してた。やってくれるとおもってた。ところで小池さんも前原さんをだますなどの気持はないと側近からきいたという。当時、小池新党はあのまま選別がなければ百五十議席もいく。小池さんが総理となる目がでてきた。これで小池さんは気分が高揚しついあのようなきびしい言葉がでたという。鈴木さんによればどちらの側にもだますという気持はなく、成行きからの齟齬という。

現実は小池氏側の選別により希望の党には五十二名、野田氏などは無所属、さらに枝野新党の立ちあげとなった。高嶋さんは鈴木さんを選挙のプロとして評価してる。つねにデータにもとづき的確な分析をする。とこの見解を受けいれてる。さて感想である。

* 感想
私はこれは国民が馬鹿にされたこととおもう。安保法制反対は党の公式見解である。希望の党にはいるために誓約書をかいた。まさに変節である。もしこの五十二名が当選したとして北朝鮮の 激変にあったら具体的に安保法の適用がおきる。だが彼らは四の五のいって決断をおくらせる。なら彼らの姿勢をしんじて投票した国民を裏ぎってる。おおくの識者が臨時大会は大荒れ、きめられず徹夜となると予想した。ただ議員の職をのぞみ同床異夢の一同が希望の党にいこうとしただけ。さて小池さんは安倍政権の打倒をさけぶ。

友だちが得する政権という。だがいまだに不正の事実がでてこない。私は支持率が三十パーセントをわった時におどろいた。安倍さんは国民に殊勝にあやまった。私は安倍さんが自分と自分の夫人に関与があったらやめるといった。率直にいうが軽率である。ここをあやまるのは理解できる。だが加計学園の真実をみず既成マスコミの報道におどらされて国民の支持率がおちた。それは馬鹿な国民の責任であり安倍さんがあやまる必要はない。既成マスコミは加計学園で重要な当事者である加戸守行元愛媛県知事や特区の委員会の八田委員などの発言を無視した。安倍首相は今回の記者会見でこれを指摘、それを否定する朝日記者とのあいだで口論となった。だが当時、読者が判断するたすけになるほどの記事はなかったことを私はしってる。既存マスコミはネットの攻勢におびえてる。だから売らんかなの姿勢で売れる記事をかく。こんな事情もしらずやすやすと既成マスコミにおどらされる国民はまさに馬鹿である。いまやネットやユーチューブには既成マスコミがのせない真実があふれてる。

ことわっておくが既成マスコミは馬鹿でない。近頃のテレビである。長嶋一茂氏がコメンテーターをしてた。彼の正論にMCがやや持てあましてた。またカンニング竹山さんも正論をはく。これはマスコミの保険である。こうして国民の顔色をうかがってる。さて結論である

* 結論
小池さんはついに知事にとどまることとした。たしか二百九十万を得票した。希望の党を立ちあげ一躍時の人となった。いつもマスコミをあやつりアドバルーンをあげ風をよむ。大風呂敷をひろげたらすこし端に逃げ場所を用意してる。彼女は豊洲の移転で安全だが安心でないといった。私はソレ、キターとおもった。東京都には豊洲、築地のほかにも市場がある。そんなこといったら、ここでも安心の問題がおきる。彼女は見こみちがいからこんな言葉をはっしたとおもう。東京都は金持ち、おそらく豊洲だけなら数十億ですむだろう。ほかの市場にも同様な問題がおきると上念司氏がいってた。彼女はこれを持ちだす誠実さはないだろう。ところで私は彼女の実力を相当たかく評価するものである。単独で都知事選に打ってでた。安倍さんの解散発表にぶつけてすぐ新党宣言をした。どうしても準備不足がでる。大ボラ吹きときらうむきがある。このようなやりかたは日本ではきらわれる。私は男社会でがんばってる彼女に拍手をおくりたくなる。ただしそれは政治家としての実力、実績があってこそである。彼女の知事としての実力はまだわからない。ねがわくば都知事の任期をまっとうしその実力をみせてほしい。国政にてんじるのはその後にしてもらいたい。

(おわり)

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スパルタ、国の成り立ち [英語学習]

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* はじめに
スパルタは軍事最優先の国だった。ギリシャ人先住民を征服し支配を手にした。それを維持することが彼らの究極の目標となった。少数による多数の支配である。そのために社会の仕組みがうまれ維持された。宗教を主宰し軍を指揮する二人の王、五人のエフォースによる立法、監視の仕組み、二十八人の長老による拒否権をもった監視の仕組みが軍事大国スパルタをささえた。これらについてのべる。
(The Constitution of the Spartans、Historia Civilis、2017/09/11 に公開)

* 軍事大国の秘密
私はこんなことをおもった。スパルタは都市国家でもっとも人口がすくない。にもかかわらず、ギリシャでもっとも強力でもっとも尊敬されている都市である。私はスパルタの制度をかんがえた時、なるほどとおもった。それで「スパルタの成り立ち」という標題の本資料をつくった。さてゼネフォンという人がいる。紀元前四世紀の人物である。彼はアテネにうまれだがスパルタで数年間くらすことがゆるされた。彼はスパルタ人の生き方の説明をのこした。それは同様のもののうち最良のものである。彼がいなければこのスパルタという奇妙な生きかたをする人々を我々はほとんどしることができなかったろう。

ではどんな生き方か。古代スパルタ人は基本的に軍事最優先の社会を作りあげた。しんじられないほど厳格な規律とたかい能力。それを男子すべてにこの能力を発揮させる。これで人口寡少の都市をギリシャを支配できる有力国にすることができた。当時のギリシャ人はおなじ言葉をしゃべりおなじ神々を信仰してた。だが他のギリシャ人はスパルタ人をまるで異星の住民のようにみてた。ではスパルタの制度はどんなものか。また何故ゼネフォンがそれらをスパルタの強さの秘密とみてたか。

* 先住のギリシャ人を征服したスパルタ
スパルタは二頭政治の都市であった。二人の王がいた。彼らは二つの王家からでた。両者の力は同等であった。スパルタの誕生神話によればヘレクレスが海をわたってやってきた。彼は追随する人々といっしょだった。そこが後にスパルタとなった。そこに前からいた人々を奴隷とした。ヘレクレスはこれを双子の二人の子孫にあたえた。ユーリスティンズ(eurysthenes)とプロクレス(procles)である。この二人はアジアッド(agiad)とユロポンティド(eurypontid)という王朝をつくった。この二つがいっしょとなり、その後の七百年以上のあいだ都市をおさめた。スパルタ人は自分たちを異国からきた征服者であると説明する。これが他のギリシャ人とのちがいでありその中核である。そのため彼らは非スパルタ人を潜在的に敵とみなした。

彼らが支配した奴隷もまたそのような敵であった。先住民であったギリシャ人だがヘロットとよばれた。彼らはスパルタ人より多数いた。三対一。あるいは七対一。実はよくわからない。どにかく多数である。このためにスパルタは奴隷たちがいつか自分たちに反乱をおこす。その不安のなかでくらしてた。スパルタ人はそれはきっとおきるとおもってた。もしスパルタがたおれる。ならばそれはヘロットの反乱だろうとおもってた。それほど多数の ヘロットの潜在的恐怖はおおきかったがスパルタが存続できたのか。

* 少数支配をささえる強大な富
それはこの強大な軍事優先の社会が巨大な富をもたらしたからである。男子が成人にたっするとスパルタの国家は彼らに国家所有の農地をあたえる。その時、同時にそこではたらくヘロットの人々がつけられた。その農地からあがってくる富はスパルタ人すべてが土地持ち貴族となるのに充分なものだった。言いかえると彼らは生活のためにはたらく必要がない。それほど豊かだった。このように国が無償であたえる農地があるが、そのうえに私有財産があった。ここにスパルタ独特の相続の法がある。それは他のギリシャ人があきれるほど独特だった。スパルタの男子がしんだ時である。

* 相続により富が少数の女性に集中
国があたえた農地は国にもどされる。だが彼に私有の財産がある。するとそれは彼の妻にわたる。彼の息子ではない。これはささいな違いのようにみえるが、わかくして夫がなくなる。これはスパルタのような軍事優先の国では充分にありふれた出来事である。おおくのわかくして夫をなくした寡婦は夫の財産を相続する。それから自分たちがもってた小規模な財産を生涯をかけおおきなものにする。このような富裕な婦人がしんだ。するとその土地はその息子と娘たちに平等に配分される。これが極めて独特なところである。さて遺産相続で富裕となったわかい女がおなじようにわかい富裕な男と結婚する。するとこのわかい男がわかくして戦いでなくなる。よくあることである。すると彼のすべての財産はその妻にゆく。すると富裕な 者かさらに富裕となる。そして彼女はその生涯をかけて財産をふやす。そしてそれを彼女の息子と娘に引きつがせる。これは言いかえれば富裕な婦人はさらに富裕な婦人を生みだすということである。この富裕な婦人がまた富裕な男子と結婚する。おおくの夫はわかくしてしぬ。これはまた富裕化を促進する。

* 少数の女性の富が政治権力に
この極大となった富裕な婦人は時にはスパルタの相続の女主人といわれる。アリストートルはその当時で、ほぼ四十パーセントのスパルタの国土が少数の極大の富裕な婦人の所有、管理にあったという。その富が他のスパルタ人を矮小化させる。その程度はともかく二人の王にも影響がおよんでた。彼女たちは重要な政治的勢力であった。こんなことがある。スパルタの有力者、王ですらスパルタの女相続人たちからの借金にたよってた。その影響力はおおきかった。スパルタでは定期的に政治家から土地制度の改革のはなしがでた。するとそのたびにスパルタの女相続人たちは金を各所にばらまいてこの動きを阻止した。他のギリシャ人はほんのすこし の女性がそんななにつよい政治的影響力をスパルタでもってることに恐怖した。アリストートルは富裕なスパルタの女性が彼女のより富裕でない夫を支配し、スパルタの女性がわがままで贅沢であり害悪をふりまいてるとながながと文句をいってる。だがこれが彼女たちの惟一の楽しみであったということとおもう。このようにスパルタ人はおどろくほど富裕だったが数百年後においてすら彼らは自分たちは異国からの征服者であるという引け目をかんじてた。

* あつい信仰心、宗教の主宰者としての王
彼らの心のなかでは、いつも一歩間違えるとその文明がこわれる。そういうおもいがあった。このため彼らは極端なほど神のお告げや占いを重要視した。一連の神のお告げ、それは時にはたがいに矛盾する内容もあった。その管理を専門にする人がいた。王にはこのような二人の専門の補助者がいた。彼らがこれらのお告げを整理し処理してた。もし王の一人が領土内の神託の一つ、たとえばデルファイにお伺いをたてるとする。その補助者の一人をおくりお伺いをたてさせる。王たちはスパルタの神官のなかの長であった。王がいることでスパルタが永遠につづく。その宗教的正当性をしめしていた。これがスパルタの宗教の中核となる目的だった。

* 軍事力を行使する王
実際の話しである。スパルタが存続できたのはその強大な軍事力のおかげであった。厳密な意味では二人の王だけがスパルタ軍を引きいることができた。王が軍事作戦に従事してるあいだは、彼は基本的には絶対君主に変身した。彼の言葉は法であった。スパルタのすべての市民にたいし生殺与奪の権をもった。それがもし戦争の遂行に必要とみとめられれば財産を没収することもできた。王は戦いで戦利品に 取り分をもった。これで王がとても富裕であることを意味しない。

すでにのべたように王は定期的に、時には強制的に神託という行事をおこなう。この時、王は王にふさわしい量の捧げ物を寺院におこなう。これをやめたり寺院をかえたりするのは容易でない。かえるのはその寺院にまつられた神にたいする冒涜である。極めて信仰心のあついスパルタ人にできないことだった。見のがされがちだが王にはもう一つ費用がかかることがある。軍事作戦の時に王は自分私有の家畜をもってゆかねばならなかった。重要な決断をする時はいつも動物の犠牲をささげる。このために必要だった。犠牲の儀式がありお告げがある。それが彼らにとりよくないなら、さらに犠牲の儀式をおこなう。お告げがかわるまでつづく。おおくの動物の犠牲が軍事作戦には必要である。その費用もおおきい。動物の犠牲があまりにおおくなった。そのため王が破産しないようこんな法がつくれられた。一匹の母豚からうまれた子豚の一匹を王のものとする。王は携行する家畜にくわえるとの法がとおったほどである。しんじられないほどの子豚の数となったろう。法をとおしたといったがこのことに王は関係してない。王の仕事は宗教と軍事だけである。行政は他の人々にまかせられてる。

* 立法や監視をおこなうエフォース
法律を実際に作成する人々はエフォースとよばれた。その意味は監視する人という。何故スパルタではそうよばれたのか。すぐわかる。スパルタには五人のエフォースがいる。年齢が四十五歳以上、一年が任期である。一度任期をつとめると再任はみとめられない。この選任の手続の実態は複雑であるがその詳細はよくわからない。だがいえることはスパルタは一般から候補者を複数、その数はわからないが、えらぶ。そこから五人を選びだす。これは無作為の抽出である。ところで無作為抽出の対象がどの程度のおおきさかわからない。十なのか百なのか、まったくわからない。アリストートルがいう。この仕事は比較的まずしいスパルタ人にゆく。それが事実ならば抽出対象はおおきいだろう。

スパルタの新年のはじめ、その時にエフォースは職につく。そしてただちに儀式にのぞむ。それはヘロットへの戦いの象徴である。この儀式のすべてがスパルタ人は先住民でない。自分たちは先住民である奴隷たちとずっと戦争状態にある。これらをわすれないようにするものである。実際にスパルタ人が奴隷、ヘロットにやってることは残虐である。それを正当なものとしておこなってる。ヘロットにはまったくそんなことをされる理由がない。ひどいものとおもう。

* エフォース、王を監視
それでエフォースは仕事の最初の日にヘロットを政治の対象からはずす。で、残りの一年に何をするか。何を監視するのか。王を監視する。毎月、二人の王と五人のエフォースがあつまる。次の誓いを交換する。王からエフォースに自分はさだめられた法、スパルタの法にもとづき統治する。エフォースがこれにこたえる。その誓いをまもるあいだ我々は王の支配をゆるがすことなく受けいれる。これはどんな意味があるのか。エフォースはしんじられないほど強大な権力をもって監視する。もし王のやることに満足できないなら彼らは投票にかける。もし三対二の過半数できまれば公式に王を罪にとうこともできる。もしこれがおきれば、王は裁判にかけられる。エフォースは証拠をあつめ提出する責任がある。そうしたらグルウジアとよばれる組織とともに陪審員をつとめる。これについては後でのべる。もし有罪となれば、さまざまなことがおきる。一つは彼に罰金がかされる。また王位を剥奪されスパルタからの追放もある。追放の場合であるが王位はたんに次の王位継承権をもつ者にうつる。スパルタ人によればヘレクレスはスパルタの王たちにスパルタを支配する権利をあたえたということを思いだしてほしい。このように王を追放するが王位継承の順番をかえたり制度をかえたりしない。しかし王の追放はめったにおきない。たとえ王がある年のエフォースたちと仲違いしたとしても彼らの任期は一年間である。王たちは彼らの職がいつおわるかを充分に承知し低姿勢をつづける。

しかし戦争は事情がかわる。王は軍を引きいて外にでる。その時、二人のエフォースが随行する。王が作戦に従事してる時はこの二人は王に干渉できない。王を罪にとうことも戦争をおこなうこと、その方法に干渉することはできない。だが記録をつけることはできる。そしてそれを報告することができる。彼らがみたことを本国にのこってるエフォースに報告することができる。戦争がおわるとただちに、彼らは王が枠は踏みはずしたかどうかを判断する。では普通の、戦争でない状態である。

* エフォース、立法、政策づくり
エフォースは時間のおおくを政策立案にあてる。成案の決定は投票である。五人のエフォースが投票する。単純多数の三で採択がきまる。彼らの思いがまちまちであっても投票する。そのため彼らのあいだに波風がたつことはない。というのはエフォースが承認したことが法が成立したということを意味しないからである。どのように法が 成立するかは後にのべる。税と支出について彼らはおおくの時間をさく。また道徳についてふるくなった基本的なきまりやスパルタの生活習慣についてのきまりについても時間がさかれる。エフォースのあいだで立法について合意ができると、それはスパルタのすべての男子により構成される議会に提出される。立法案が説明されるとスパルタ人は然り(やあ)または否(ねい)という言葉で賛否をあらわす。修正案がだされることはなく、また議論も展開されない。ただ言葉で賛否をあらわすだけである。ここまでのべてきたことを要約すると、スパルタの王はスパルタの宗教行事をおこなう主宰者であり軍の指揮者である。他方、五人のエフォースは監視の役をはたし立法を立案する。それを議会の承認により成立させる。

* エフォース、出入国管理
この他にエフォースがこまかな事項を規制する。彼らはスパルタへの入国あるいは出国を希望する人間について可否を決定する。これには商人、外交官、書き物をする好奇心にとむ人物、ゼネフォンのような人物がはいってる。彼がかいたことがこの 文書をつくるのに重要だった。ゼネフォンはスパルタに数年間すむことをゆるされた。彼は王の一人としたしい友人だった。だがゼネフォンのような人間にとってもいつまでスパルタにいられるかわからない。毎年、あたらしいエフォースがやってきて彼らにつきその滞在、出入国を審査する。エフォースは常にスパルタ人を外国におくるのは消極的だった。相当な理由があってもである。これはスパルタ人は外国にでるとその振る舞いが粗暴になることで有名であったからである。大量の飲酒、博打、売春婦をかうこと、喧嘩、これらがスパルタ人がやることの典型である。スパルタ人は地域においてきびしい行動基準のもとに生活してる。その時は善良である。しかしいったん国外にでると何がおきるかわからない。この他にエフォース は何をするか。

* エフォース、教育
彼らは子どもたちの教育に積極的である。子どもたちの集団がそこから卒業し大人になる時、彼らは三人の卒業生をえらぶ。エフォースは他の同輩とくらべすぐれスパルタ人の手本となる者かどうかを判断する。この三人はそれぞれ百人の同輩をえらぶ。そのさいエフォースもその調査、質問、選択に参加する。これがすべて終了したらこの三人は役職につく。その配下にはそれぞれの百人がしたがう。それとともに王の一人の警護官となる。エフォースの一年の任期がおわると監査をうける。次のエフォースが引きつぐまえに任期中におこなったすべてのことを説明する。もし誰かが権限を乱用したとみとめられたら次のエフォースが彼を必要とみとめる方法で罰をあたえることができる。

* エフォース、任期終了時に自己監査
エフォースの無作為抽出による選出や一年の任期は制度を不安定にしうる。しかしこの監視の仕組みがエフォースの極端な措置を抑制するのに役だつ。エフォースについて現在のこってる記録のほかにもっと重要なものがあったかもしれない。立法において業績とみなされるようなものはのこってない。奇妙におもえるが次のような理由があるのかもしれない。任期のおわりにあるこのきびしい監視の仕組みをおそれ行動を抑制したのかもしれない。あるいは業績があったのかもしれないが記録にのこってないのかも。ゼネフォンがたまたま王の友人だったからこれだけのこったのかもしれない。我々は半分しかしらないのかも。あるいはエフォースは外部の機関から制約をうけてたのかもしれない。それがグルウジアを説明すべき理由となる。

* グルウジア、拒否権をもつ長老の監視機関
グルウジアはエフォースを監査する権限をもつ。その詳細である。グルウジアは年長者の審議機関である。二十八人の構成員がいる。二人の王は名誉構成員となる。すなわち全体で三十人の構成員がいる。王をのぞく他の構成員は六十歳をこえる男子である。なんらかのすぐれた業績をあげた男子であることが期待されている。実際をみると彼らは富裕な層や、それと関係のふかい極めてちいさな集団からやってくるようだ。この職には選出されてつく。任期は終年である。もし構成員がしぬと職があく。それにたいしきびしい競争がうまれる。その実情はさだかでないが、ある学者によれば政治勢力が二つの王宮のまわりにあつまり自分たちの候補者がえらばれるようあらそう。この機関が何をするか。

それはスパルタの議会が承認した決定を棚上げすることができる。別言すると彼らは拒否権をもつ。エフォースは立法として法をつくる。スパルタ人の市民はそれを承認するがグルウジアが最後に拒否権を発動できる。さらにこんなことができる。グルウジアは立法の審議日程を作成できる。彼らはここにのせないという方法で審議を拒否できる。一年しか任期がないエフォースの立法案を阻止することは終身任期のグルウジアには極めて簡単である。これでわかるようにグルウジアはスパルタの政治にたいし保守傾向をもたらすつよい圧力となる。改革はグルウジアがその気にならなければおこなわれない。

議会が投票する時にグルウジアは奇妙なことができる。その構成員が別の建物にはいる。そこは投票してる場所からとおくない。エフォースは会議に出席し立法案を提出する。そして議会が投票する。そこで投票は言葉でおこなわれる。グルウジアはちかい場所にいる。そこから何がおきてるかをみることはできない。しかし投票の様子をきくことができる。投票の後にグルウジアがやってくる。賛否のどちらの側の声がおおきかったかを発表する。そしておおきなほうが投票が勝利する。こんなことをするのはグルウジアを公平にたもつためという。どうだろうか。彼らはもし立法案をのぞまないのなら、それを拒否できる。

* エフォース、グルウジア、王が陪審員となる裁判
すでにのべたが、王、市民が裁判にかけられる。それは殺人のような深刻な罪である。エフォースとグルウジアが合同して三十五人の陪審員団をつくる。王はグルウジアの名誉構成員であるから彼ら自身の裁判においても陪審員となる。奇妙でないか。さて単純多数で結果がでる。そして二十八の陪審員の席につきエフォース五人とえらばれたグルウジアが参加する。彼らはいつも力の均衡をたもつ役割をもつ。もし事案が裁判にかけらる。すると決定がなされる前に王は非公式にグルウジアに相談することをこのむ。年長者は自分が尊重されてるとかんじるからである。もしエフォースが王の後にグルウジアにゆくとしたら彼らがグルウジアの同意にそって行動をしてたことがわかってることが常によいことだった。

* スパルタの保守性をささえるグルウジア
スパルタは極端なほど慎重で保守的な都市国家である。それをもたらす制度的な仕組みの主要部がグルウジアである。スパルタが衰退した頃かかれた書物であるが、シセロ(cicero)、ローマの政治家がスパルタの仕組みを非常にほめてる。彼は王は自分が職責からかんたんにはずされることを充分に自覚してたことを評価した。エフォースが任期のおわりに後継者に自分たちの行為の正当性を説明しなければならないということを評価した。グルウジアが極めて強力であることを評価しこの年長者たちが競合する利益の均衡をとってることを評価した。またもし事態が限度をこえたならその立法案を阻止したことを評価した。彼はこれはすぐれた制度をつくるたしかな方法であるとかんがえた。シセロは保守派として安定をあいした。ゼネフォン も賛意をあらわしてる。スパルタの制度と安定性が彼らの力の源泉であるという。しかし最後のところでその安定がたぶんすぎたのだろう。

* 保守性がもたらしたスパルタの衰退
その力の頂点にある時にスパルタはすべての男の市民を動員しすくなくとも二万人の軍をつくった。たぶんもっとだったろう。百五十年の後、アレクサンダー大王の時代に、この数は千人に縮小した。その理由はわかってない。これがアレクサンダー大王の父、フィリップ王がスパルタを脅威とかんじないですんだ理由だろう。これから百五十年の後に、ローマがギリシャに干渉してきた時にスパルタはもはやなんの存在感もない村落であった。おもしろいことだが、なおも王をいただく生活、エフォース、グルウジアがある生活、なおもきびしい古代からの習慣をまもっていた。このような急激な衰退の原因はわかってない。しかしたぶん三百年をこえる時間のなかでもし改革が取りいれられてたら回復をもたらしたかもしれない。たぶんゼロだった外国からの移民が回復をたすけたかもしれない。もしかしたらヘロット、奴隷に市民権をあたえることかもしれない。あるいは彼らのきびしい結婚の法をゆるめることであったかもしれない。改革、あたらしい発想が問題を解決する。これが政府がなすべきことである。彼らがもっともそおそれてたこと、スパルタの征服者である自分たちがヘロットの反乱によりたおされることはなかった。あるいはいかったギリシャの同盟によりたおされることもなかった。

そのかわりに彼らは彼ら自身の事情により衰退した。自ら萎縮していった。それは別の侵略者たちの征服をゆるしただけだった。この征服者たちは彼らを古代の習慣に固執したもの、かがやかしい時代がすぎて取りのこされて今にいたってる人々とみなしただけだった。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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