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アレクサンダー大王、その四、イッソスの戦 [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はアレクサンダーがおさめた二度目の勝利でありペルシアの王が歴史上はじめてきっした敗北である。
(The Battle of Issus 333 BC、BazBattles、2016/11/19 に公開)

* ペルシアの王、ダリウスとの対決まで
紀元前三三三年、アレクサンダーのペルシア遠征作戦が頂点をきわめる。グラニカス川の戦いの勝利はそのはじまりであった。ペルシアの王、ダリウス三世は自ら十万の軍を引きいて侵攻したマセドニア軍に罰をあたえようとやってきた。アレクサンダーの次の戦いは古代の都市、イッソスのちかくで、まさにはじまろうとしてた。

* アレクサンダー、小アジアを攻略
紀元前三三四年、グラニカスの戦いのすぐ後にアレクサンダーはそこの州知事たちを服属させ西部小アジアを征服することに成功した。最初の敗北だったがペルシア帝国にはまだ侵入者をヨーロッパに簡単に押しもどす力があった。ペルシアの王、ダリウス、ギリシャ人からはコドマヌスとよばれてたが、マセドニアの侵略をおさえるため兵をあつめる 段階にはいってた。アレクサンダーはさらに前進しようとしたが、そのためにペルシアの艦船の脅威を取りのぞく必要があることをしってた。というのはその頃にはこの地域で抵抗できる惟一の力となってたからである。

* ペルシャの海軍力の攻略、ゴディアムの結び目
アレクサンダーには忠実、有能で装備のととのった兵士がいた。しかしマセドニアには海軍がなかった。それでアレクサンダーが取るべき次の手段はエフェソス、マイリーダス、ハリカマサスの港を攻撃しペルシア艦隊を無力化することだった。これをおえると彼は北進あるいは東進し次々と都市を攻略していった。フリジアの古代の首都、ゴディアムに滞在した時の伝説がある。そこには有名なゴディアムのけしてほどくことのできない結び目があった。この結び目をほどく者はアジアの王となるとされてた。彼は剣できりつけほどいた。こんな伝説である。この話しはこれくらいに次にすすむ。

* ダリウスの大軍がシリアに進出
ターソスのちかくで野営してたマセドニア軍に斥候からダリウスがバビロンで兵 をあつめ巨大な軍を編成しようとしてるという情報がはいった。ターソスは小アジアの南にありシリアにちかい。彼はただちに軍を二分し彼の右腕ともいえる副将パーメニオンと軍をイッソスにおくりその周辺を占領させた。これによりダリウスとペルシアの艦船が共同作戦にはいることをふせぐものだった。

紀元前三三三年、十一月のはじめアレクサンダーは巨大なペルシア軍がシリアに進軍しアマナス山脈の東に野営してるとの情報を受けとった。彼はイッソスを出発しアッシリアの門でパーメニオンと合流しようとした。ダリウスはアレクサンダーがベイランパスをまもってることをしった。それでダリウスはアマニアン門をぬけ北のルートをとりシリシアにはいった。そしてイッソスをうばった。そこにいたマセドニアの負傷兵や病気の兵をころした。

* 北進したダリウスをおうアレクサンダー
アレクサンダーはダリウスが東からくると予想し北にむかうとはおもってなかった。他方、ダリウスは自分がマセドニアの二つの軍のあいだをすすんでるとかんがえすでにパーメニオンがアレクサンダーに合流してたことをしらなかった。ダリウスはイッソスを出発し二分されて戦力を半分としてる軍を攻撃しようとした。アレクサンダーはダリウスをおって引きかえし北にむかった。彼は巨大なペルシア軍を背後にのこしペルシア帝国の内部に進出するという危険をおかす気はなかった。

* イッソスから南下したダリウスと対決へ
ダリウスはまもなく自軍がマセドニアの合流軍と出あう進路にいると気づいた。しかし巨大な軍を引きもどすのにはおそすぎた。それで彼の部隊を展開できる適地をさがすことにした。そしてピナラス川のそば、岸辺のせまい平原をつかうことにした。イッソスの南東にあり、たたかうには完璧な場所とはいえなかった。一から二キロメートルの幅の平原であるが、ダリウスが全軍を横一線に展開するには充分でなかった。もう一つの欠点は騎馬隊をおもうままにうごかすのにはせまいということであった。

* ピナラス川で対峙、開戦へ
その日は雨がふっていた。ピナラス川の岸辺はすべりやすかった。ペルシアの歩兵に優位をあたえるためマセドニアのすぐれた密集歩兵隊がかけてくる圧力を軽減するためダリウスは騎馬隊を岸辺のうえにおいた。これで敵の編隊をやぶる。ここだけが騎馬隊が充分にうごける広さがあった。のこりの中央と左翼は二列の編隊とした。ここで付けくわえるがギリシャ人傭兵隊はペルシアの歩兵隊の重要な戦力となってた。ダリウスはまた有名なペルシア不死部隊をつれてきてた。

十一月五日のお昼すぎアレクサンダーは戦場についた。そこでペルシア軍がすでにまってるのをみた。彼はグラニカスの戦いとおなじように軍を展開した。中央は長槍を装備した重装歩兵、みじかい槍で装備した部隊。軽装の盾持ち歩兵(hypaspist)の部隊、軽装歩兵(peltast)の部隊。騎馬隊は両翼の端においた。テッサリの騎馬隊は左翼。えらばれた騎馬隊はアレクサンダーの右翼のなかにおいた。副将、パーメニオンに引きいられた部隊は左翼だった。

* マセドニア、騎馬隊におされる左翼、もみあう中央
戦いはペルシアの騎馬隊の攻撃からはじまった。彼らは川をわたりパーメニオンの部隊を圧倒しようとした。同時にマセドニアの密集歩兵隊は前進しペルシア軍との戦いにむかった。すぐに彼らはペルシアの弓攻撃の射程にはいった。彼らは敵のはげしい火器による攻撃のなかで川をわたっていった。投石機による礫が鎧の装甲にあたりおそろしい音をたて兵の士気をくじいた。しかしこんな時にあってもマセドニアの密集歩兵隊は前進した。それはすぐれた訓練とたかい士気をしめすものだった。

* アレクサンダー、騎馬隊とともに攻撃
アレクサンダーの歩兵隊は編隊をたもってペルシアの中央をばらばらにしようとした。その頃に彼はえらばれた騎馬隊を引きいて攻撃をはじめた。これでダリウスの左翼を突破しようとした。はげしい戦いが戦場にひろがり両者におおくの犠牲がでた。中央においてペルシア側のギリシャ人傭兵隊は疎開した編隊を利用してマセドニアを押しこんだ。左翼における事態もうまくゆかなかった。パーメニオンはペルシアの騎馬隊の攻撃を阻止するのが困難だった。テッサリの騎馬隊は頑強で戦いなれてたが二倍の数をもつペルシアの騎馬隊は古代で最強とみられてた。

アレクサンダーに引きいられた騎兵隊はペルシアの歩兵を切りさいて侵入しその編隊に穴をあけた。ペルシアの左翼は徐々に崩壊しはじめた。アレクサンダーのえらばれた騎馬隊のすぐれた戦闘能力が惟一の勝利への道だった。二倍の数の敵を引きうけた中央の歩兵隊と左翼の騎馬隊は強力なペルシア部隊の攻撃にたえることが困難だった。アレクサンダーは高地にいてこの状勢をみた。ただちにペルシアの中央の側面を攻撃することにした。これは困難にたえてる密集歩兵隊の救援であった。この騎馬隊の攻撃の効果はすぐにでた。

* アレクサンダーの騎馬隊が戦況をかえダリウス退却へ
騎馬隊は編隊を頑強にくずさなかった敵の歩兵隊におおくの損害をあたえた。これで密集歩兵隊は前進することができ弱体化したペルシアの中央を無力化した。接近戦のなかアレクサンダーはダリウスがいることを発見した。彼はえらばれた騎馬隊とともに王がいる部隊をはげしく攻撃した。ダリウスは不利をさとって退却をきめた。アレクサンダーはダリウスをおった。その頃えらばれた騎馬隊のおおくは岸辺で崩壊しそうになってるマセドニア部隊の救援に急行した。ナバゼイナス、ペルシアの騎馬隊の指揮官が王が退却してゆくのをみて、もうすこしでその戦いに簡単に勝利できたにもかかわらず彼の部隊に退却をめいじた。

マセドニアは軍を立てなおし、にげる敵をおった。そして数百人をころした。時はすでに夕方であった。彼らの追撃はながくつづけられなかった。ダリウスは退却し軍は散開した。おおくがころされた。アレクサンダー側の犠牲も相当だった。マセドニアの兵力は四万、損失は七千。犠牲のおおくは中央の分断された部隊のもの。ペルシアの兵力は五万から十万、損失は二万であった。

* ペルシアの王が歴史上はじめて敗北
ダリウスははじめて戦いにやぶれた。しかし戦争はまだつづく。彼の組織を立てなおす能力はたかい。広大な帝国の資源をたくみにつかう能力がある。強大なペルシアにたいする偉大な二度目の勝利はアレクサンダーのシリア侵攻を可能にした。これは偉大な征服者としての彼のかがやかしい歴史にあたらしい章を書きしるすこととなる。以下は補注といえるものである。

この戦いでマセドニア軍は裕福な野営地をうばった。そこにはダリウスの母、妻、娘がいた。その娘はアレクサンダーの妻の一人となった。イッソスの衝撃的敗北はアケメネス朝ペルシア帝国、二百二十年の全歴史においてペルシアの王が敗北したはじめての戦いである。この戦いの前までアレクサンダーが王の称号をつかった証拠はない。人々が自分を王とよぶようもとめるようになったのはこの戦い以降である。

(おわり)

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