SSブログ

アレクサンダー大王、その三、グラニカスの戦い [英語学習]

genpati_tyamise.gif

* はじめに
アレクサンダー大王の事蹟をその戦いをとおしておう。今回はアレクサンダーがはじめてペルシャに侵攻し小アジアのグラニカス川で勝利をおさめたものである。
(The Battle of Granicus 334 BC、BazBattles、2016/09/16 に公開)

* フィリップを引きついだアレクサンダの登場
紀元前三三四年、マセドニアの王、アレクサンダーはその父王がはじめたことを継続しようとダーダネルス海峡をわたりペルシャ帝国侵攻に乗りだした。小アジアのグラニカス川の川岸から彼の偉大な生涯がはじまる。彼の阻止をめざす強力なペルシャ軍をむかえうった。彼の力をみせる最初の機会となった。

* フィリップの暗殺からペルシャ進軍まで
紀元前三三七年、カロネイアの戦いの後にフィリップはヘレニック同盟をとうして全ギリシャのほとんどを支配下におさめた。そして東方遠征作戦の準備をすすめてた。しかしここで彼が暗殺されこの計画は数年間一頓挫した。彼の息子、アレクサンダーがあとをついだ。彼は王位をねらう競争者を排除し先王の死が引きおこした不安定な状況を鎮静させて王位についた。それはそれほど簡単なことではなかったがここではその事情は省略する。

* アレクサンダー、神話の英雄、アキレスをしのぶ
紀元前三三四年、アレクサンダーは戦争準備をおえ彼の軍をダーダネルス海峡にすすめ、そこから小アジアにわたった。彼はここでアジアの地に軍事力を展開し強大なペルシャ帝国を征服しアジアを神からの贈り物として受けとることをのべその決意をしめした。彼は父王とくらべ戦いに熱心だった。父は自分の得意の外交力をつかって問題を解決することをこのんだ。パーメニオン、第二指揮官が引きいた先遣隊がかえってきて合流した頃に彼はトロイを訪問し愛読したホーマーのイリアッドに登場する英雄、アキレスをしのんだ。

* 迎えうつペルシャの作戦
その頃、西部ペルシャの州長官たちは軍をあつめアレクサンダーをヨーロッパに押しもどそうとしてた。マセドニアの侵攻はすでに六年前から予測できた。だが彼らは戦争への充分な準備をおこたってた。彼らがやったことはただ先遣隊を追いやったことだった。概して彼らはアレクサンダーをわかいと過少評価してた。彼はまったく抵抗をうけず渡河した。それはこのマセドニアの軍事力より自軍がすぐれているとみてたからである。だがペルシャ軍にあってマセドニアの軍事力をおそるべきものと気づいてた人物がいた。それはギリシャ人傭兵隊の指揮官、メムノンであった。彼は焦土作戦を提案した。それは穀物、農園、村落を火で焼きつくすことである。

これによりマセドニアの軍への兵糧の獲得を阻止し同時にペルシャ軍を東方に移動させ戦いをさけるというねらいだった。だが州長官たちは受けいれなかった。その理由の一つは彼がギリシャ人で信頼できないとかんがえたこと。さらに自分たちの領地を破壊することは受けいれがたかったからである。かわりに彼らがやろうとしたことは防禦にてきした地点をえらびマセドニアを戦略的にそこに誘いこむことであった。こうしてアレクサンダーは彼が東に移動しその背後の安全と供給線を確保する前に州知事たちの作戦により戦いをはじめなければならない状況となった。

* グラニカス川での戦い
アレクサンダーの斥候かペルシャ軍がグラニカス川の東岸に野営してるとしらせてきた。彼はただちに彼らと遭遇するため進軍をめいじた。ペルシャ 軍は東岸に強固な防禦拠点をつくってた。その騎馬隊のすべてを前面におき、傭兵隊からなる歩兵隊を第二線においてた。彼らは丘のうえにいた。それは馬鹿げた編隊のようにみえた。というのは騎馬隊が川と歩兵隊に邪魔され充分な攻撃力を発揮できないからである。だが彼らの考えはアレクサンダーの騎馬隊を誘いこむことだった。

これで自分たちのほうがすぐれているとしんじてる騎馬隊により相手を圧倒しアレクサンダーを殺害する。マセドニアの部隊に決定的損害をあたえ戦争を初期の時点で効率的に終結させるという考えであった。第三日目の午後、アレクサンダーの軍はついにグラニカス川の西岸についた。そして横一線にならんだ。騎馬隊は両翼におかれ密集歩兵隊は中央におかれた。パーメニオンがむかいの岸にいるペルシャ軍をみて警告した。というのはアレクサンダーが当初かんがえていた前面からの攻撃は川の流れがはやく岸が急峻である。そのため渡河は容易でないとおもったからである。

* アレクサンダーの渡河作戦
アレクサンダーはもしグラニカスをおそれたらダーダネルス海峡を馬鹿にしたことになるといって、この警告を聞きいれなかった。そしてただちに攻撃をはじめペルシャの作戦の誤りを利用するといった。マセドニアの軍を二つにわけて指揮することとしパーメニオンが左翼、アレクサンダーが右翼である。最初にマセドニアがうごいた。騎馬隊と密集歩兵隊の混成部隊がさそいの攻撃をペルシャの最左端に仕かけた。そこは傭兵隊のメムノンが岸辺でまもってたところである。最初の兵が川にはいったところ相手は投げ槍や矢でいっせいに攻撃してきた。おおくの犠牲がでた。東岸で両軍によるはげしい前哨戦がたたかわれた。マセドニアのねらいはこのさそいの戦いにおいてできるだけおおくのペルシャ軍を引きつけることであった。

数でまさる敵におされながらも彼らはペルシャ騎馬隊をその編隊から引きはなすことに成功した。アレクサンダーが主攻撃を仕かける絶好の機会がやってきた。彼は親衛隊(Hetaioi)を引きいて攻撃にうつった。それに重装の密集歩兵隊がつづいた。そして編隊がばらばらとなってきた中央の攻撃にむかった。彼らはアレクサンダーがそこにいることに気がついた。彼はかがやく鎧とおおきなしろい羽根飾りがついたヘルメットをし攻撃の命令をだしてた。彼らはこの部隊に攻撃を集中した。きびしい接近戦がはじまった。騎馬にのった戦いであったがまるで密集歩兵隊の戦いのようだった。両者はたがいの優位をきそった。

* 命を危険にさらしたアレクサンダーの攻撃
アレクサンダーは騎馬隊の長槍で相手をさした。彼はペルシャの貴族をころしたが、そこでほかの貴族が彼の頭をうった。それですこし傷をおった。彼は剣で反撃した。また他のペルシャの騎馬兵が剣をあげて彼の背中をうった。しかし彼ののびた腕はクレイタス(Cleitus the Black)により切りおとされた。彼は騎馬隊の親衛隊分隊長であるが彼が王の命をすくった。ペルシャは頑強に抵抗したがマセドニアのえらばれた騎馬隊の進撃をとめることはできなかった。彼らはだんだんと急峻な岸辺で陣地を確保していった。とうとうアレクサンダーの右翼の残りも川をわたりペルシャの騎馬隊と戦いにはいった。

* アレクサンダーが中央を突破
最後にではあるがギリシャの左翼もテッサリの騎馬隊をつれて戦いに参加した。この騎馬隊の戦闘能力は極めてたかい。ここて一つ説明しておくがペルシャの騎馬隊はそれまで最強とみとめられてた。それでペルシャの指揮官たちは親衛隊の騎馬隊やマセドニアの騎馬兵一般のたかい戦闘能力におどろいた。ペルシャ軍の指揮はおおくの指揮官が分担する。だがマセドニアの指揮はすぐれた者だけにかぎる。ペルシャはおおくの貴族をうしなった。騎馬隊はだんだんと戦闘意欲をなくしていった。

* ギリシャ人傭兵隊をゆるさなかったアレクサンダー
彼らの戦闘線は中央でやぶられた。もっともはげしい戦いがあったところだった。アレクサンダーとそれにしたがう部隊がペルシャの戦闘線を突破し他の部隊の背後と両翼にむかった。これが敵に恐慌を生みだした。そして大量の逃走者をだした。マセドニアはにげるペルシャの騎馬隊を追撃できなかった。そこにはなおペルシャにいたギリシャ人傭兵隊がいたからである。傭兵隊はアレクサンダーに条件付きの降服を申しでた。アレクサンダーはこれを拒否し密集歩兵隊に前面からの攻撃を、騎馬隊には防禦がなくなった側面と背後からの攻撃をめいじた。

二千はたすかったが、残りはころされた。これらの幸運な者はおくられマセドニアの石切場ではたらかされた。アレクサンダーはギリシャ人が敵に協力することをゆるさないとはっきりとしめした。戦いはおわった。マセドニアは数百をうしなった。これは最初の誘いの攻撃の時のものがほとんどである。ペルシャの犠牲者はおおかった。千の騎馬兵、三千のギリシャ人傭兵、そこでペルシャの指揮官層にいる貴族がふくまれてる。アレクサンダーが死亡したものを軍隊の礼儀により埋葬するようめいじた。結果は次のとおり。

マセドニアの戦力は二万五千の歩兵、五千の騎馬隊、損失は三百から四百。たいしてペルシャの、戦力、一万の歩兵、一万の騎馬隊、ギリシャ人傭兵隊が五千、損失が四千であった。
* 西部侵攻の道をひらいた勝利
若い王はこの最初のおおきな戦いに勝利した。彼の作戦にはほとんと失敗はなかったが自分の命を危険にさらした。こうしてペルシャの西部の州への道はおおきくひらかれた。だがまたおおくの戦いがまってる。ダリウス、ペルシャのあたらしい王はこのわかきマセドニアの王をあなどれないことをしった。

(おわり)

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。