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ケーガン、ギリシャ歴史、13アテネ帝国(3の3)



* アテネの勝利
おそらく戦いは二時間である。これはながい戦いであった。アテネはそこで食事と小休止をとり、アテネにもどるため出発した。アティカにペルシアの艦船がやってくる前につく。たぶんこんな様子だろう。ペルシアは最後の岬をまわってファラロン湾にやってきた。そこには誰もいない海岸がみえるはずだった。ところがそこにはアテネの軍が待ちうけてた。彼らは盾と槍を上にあげた、まぶしい太陽の光がペルシア兵の目をくらました。古代の軍はこの状況で上陸できない。彼らはもどって、大王にどう報告しようかとかんがえはじめた。

アテネは勝利した。犠牲である。多数のペルシアにたいしギリシャは 百九十二人だった。彼らはたたかった戦場に丁重に埋葬された。翌日、二千のスパルタがアティカにやってきた。彼らがいってたことに嘘などないことを証明した。彼らは戦いの説明をうけ、許しをえてペルシアの死者をしらべた。それまでまけたペルシアをみたギリシャ人はいなかった。アテネ人は偉大な栄光を勝ちえた。

* マラソンの戦いの意義
ではこの戦いの意義は。ギリシャ一万とペルシア一万五千の戦い、ささやかな、おろかな戦いである。数千年前の戦いの意義はなんであろうか。現代の人々はどうかんがえてるか。私は一九三九年のことを思いだす。平和主義者たちが英国で会合した。その演説者の主テーマが戦争は何を生みださない、だった。私がこれで面白いとおもったのは、この場所がヘイスティグス(Hastings)だったことである。

ギリシャの戦いのなかで、これは最初の重装歩兵による偉大な勝利とみられている。後年アテネでは海軍がずっと重要になったが、古風をよろこび保守的な集団の人々はマラソンが重要な戦いとかんがえ、重装歩兵であった農民がギリシャをすくったとみた。だが海軍の人々、貧民は紀元前四八〇年のサラミスの海戦がギリシャをすくったとかんがえたがった。それは民主主義の勝利のため、アテネの民主主義者のためにたたかわれたとみなされた。後でのべることとなるが、スパルタはそこにはいってないとおもう。彼ら自身のためと民主主義のためにたたかって勝ちとった彼ら自身の勝利が別にあるとおもう。

さて彼らははじめてペルシアを打ちまかした。ヘロドタスはいう。これまでペルシアの名前がでるだけでギリシャ人ほおそれをいだいた。アテネにとってこの勝利が甚大な国民的誇りと栄光の源泉となった。学者はこういう。アテネ人が自分たちをどんな人間かとかんがえる。その場合に重大な影響をあたえたのがマラソンの戦いである。それはスペインの無敵艦隊をエリザベスの英国艦隊が打ちやぶったことが栄光のエリザベス朝を生みだした。それとおなじ程度の影響があったという。それは自由の戦いだった。もしやぶれれば奴隷の世界がまってた。ギリシャ文明はまだ幼児期であった。それが成長することなく死滅しただろう。ところで学者のなかでは私のような評価はやりすぎという人たちがいることにふれたい。

英国の政治家、ネイヴィル・チェンバレンが戦争は無意味だ。何者をいやさず、何者も作りださないという。一九三六年、バートライド・ラッセルは軍備廃絶は完璧な平和主義であり、必然的に最良の政策であると宣言した。そして漸進的に英国の陸軍、海軍、空軍に軍縮をするようもとめた。ところがそれはヒトラーがライン地方に侵攻してきた時だった。戦争をやれば、よいか、わるいか。差がうまれるか。どうおもうか。私はそれを敗者にきけという。

犠牲者に、ホロコースト(Holocaust)の生存者に。アメリカ南部の奴隷の子孫にきけという。もしアテネがこの戦いにやぶれてたら。イースカレス(Aeschylus)は演劇の脚本をのこしたが彼はキャリアのほんのはじめにいた。ソフォクレス(Sophocles)は脚本をかかなかったろう。エウリピデス(Euripides)はもちろんも。アリストファネス(Aristophanes)もやってなかったろう。ソクラテス(Socrates)はうまれてなかった。プラトン(Plato)も。アリストートル(Aristotle)も、フィディアス(Phidius)もうまれてない。パルテノンもなかったろう。栄光にかがやく建築物のどれもがなかったろう。それは我々がギリシャを偉大とみるもの、ギリシャ人が作りあげたものである。

そしてどこにも民主主義はなかったろう。というのはここが惟一の場所、民主主義を生みみだした場所だからである。科学における革命、それはちょうど生まれかけてきたところだが、消しさられたろう。記憶にも記録にものこらなかったろう。ということは、西欧文明も政治の自由もうまれなかったろう。これらすべてが、ほかのどこにもおきなかった。この時代から後の歴史をみてもそうだった。これが私があなたたちにしっておいてほしいマラソンの戦いの意義である。というのは我々のすべて、今日の我々のすべてが、一万のマラソンの戦士たち(marathonmachoi)におおきなお陰をこうむってるのである。彼らはギリシャの自由と我々の自由のためにたたかったのである。

(3の3おわり)

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ケーガン、ギリシャ歴史、13アテネ帝国(2の3)


* アテネの二つの動き、反ペルシャ、プロペルシア
この同じ年にミルタイアディがかえってきた。ゲリポリ(Gelipoli)半島で問題を引きおこしアテネにもどってきた。この時点でのペルシアとの関係である。彼は反ペルシャである。ペルシャの王と問題を引きおこした。もしペルシアがヒピアス(Hippeis)を王位に回復すれば彼の立場は危険になる。だから反ペルシャである。次にアテネの政治状況である。ペルシアと戦争にはいることをよしとする。だがすべてがそうかんがえてるわけはない。正気の沙汰でないともいえる。ペルシアは当時、ギリシャ人がしってる世界のほとどすべてを征服した。彼らは小アジアのギリシャ人を簡単に打ちまかした。こんな相手を敵にするのか。そして彼らのような境遇になりたいか。それよりもペルシアとなんらかの妥協をはかる。私は彼らは間違いなくそのこともかんがえたとおもう。そしてヘロドタスそういってる。つまりヒピアスを専政主として受けいれペルシアの王の支配をみとめる。でなければ彼らはすべてころされる。

アテネはこの二つの集団にわかれた。プロ・ペルシアと反ペルシャである。実際の話しである。ミルタイアディは裁判にかけられた。彼はゲリポリ半島において専政主だった罪である。だが彼は無罪放免となった。これは陪審員たちがアテネの大衆の意見に影響をうけた。アテネ市民の多数がヒピアス、専政主の復活をのぞまなかった。そしてペルシアとの戦いの準備が必要とかんがえた、ということである。これももちろん、一つの仮説である。

* セミストクレスの登場
また別の興味ある出来事がある。紀元前四九三年、紀元前四三二年のことである。紀元前四九三年、セミストクレス(Themistocles)が大法官にえらばれた。彼は紀元前四八〇年のマラソンでの戦いに参加した。だが彼は海軍の偉大な将軍である。彼はアテネは従来以上におおきな海軍力をそなえるべきとかんがえた。彼はペルシアがやってくるとかんがえてる集団に参加、その集団はそれに準備し対抗すべきとかんがえてた。彼がやった一つのことは、海軍基地の移転だった。

ファラロン(Pharalon)湾、これは要塞の守りをもたないただの海岸だった。敵の攻撃に艦船はむきだしとなる。そのためアテネの艦船は砂浜に引きあげねばららなくなる。ファラロンの砂浜にあげる。このままの状況でペルシアがやってくると、こうなる。ではどうするかというと、五マイルはなれたパイリアス(Piraeus)にアテネの海軍基地をつくることだった。

そこは三つの港湾をもっことになる。もし壁でまもるなら、港湾は容易に保護することができる。要塞化したパイリアスは攻撃につよい港となる。そこから出撃するのに好都合の基地となる。セミストクレスはこのような自分の考えを後年に具体化していった。この大法官の選出はアテネの気分をしめすものであった。

* ペルシャの遠征、一回目
こうしてヒピアス受けいれ反対、ペルシア敵対の気分がたかまっていった。この頃、ペルシアの大王は報復することを決意してた。彼にさからった人々をとがめる。一番はアテネ、二番はちいさなエレットリアである。彼は強大な海軍とそれに付随する陸軍を編成した。最初、東のエーゲ海の沿岸から出発した。ヘルスポントをわたり、北の沿岸にそってすすんだ。これは彼でなく将軍、マドニアス(Mardonius)がやった。彼はスレイス、マセドンを征服していった。これはエーゲ海の北の海岸である。

紀元前四九二年、アトス山がある半島の沖で強烈な嵐がうまれた。まったく突然だった。ひどい被害を艦船にあたえた。あまりにひどかったので侵攻をあきらめざるをえなかった。ギリシャにたいする攻撃は最終、アテネにむいていた。これが紀元前四八〇年、攻撃の主目標だが、その経路とおなじだった。嵐のお陰で侵入は中止となった。ギリシャ人にとっては神の加護があったとおもってた。ペルシアが侵入の行動を実際にとったので、ギリシャ人たちはペルシアが本当にやっえてくるとおもった。では問題は何をするかである。たとえばアジャイナ(Aegina)島、彼らはアテネと非友好的。ペルシアがやってきたらアテネとともにほろぼばされるのは御免とおもってた。ペルシアに土と水をささげるつもりであった。彼らはペルシアにしたがう。

* スパルタとアテネが同盟関係へ
この時点でスパルタの王、クレイオメニズが心変わりした。彼はペルシアがやってきた場合、だまってすわってはいない。それで彼はアジャイナにいった。捕虜をとって彼らをアテネにおくった。これで両都市のあいだに良好な関係をつくった。今や両者は同盟関係にはいったのである。当面のあいだだがアテネもペロポネソス同盟にはいったということである。二人の王がスパルタにいる。二人のあいだに論爭がうまれた。デモレイダスは海外追放されクレイオメニズは非常にまずい状況になった。これはマラソンの戦いにおいて両者のあいだに不都合な関係がうまれるということである。では、ペルシアの侵入についてである。

その目的は明解である。ペルシアを侮辱した都市たちに罰をあたえる。アテネとエレットリアである。ヒピアスをアテネの専政主に復帰させ、彼がペルシアの州長官としてペルシアの支配をおこなうことである。それとともに全ギリシャを征服するための足がかりとすることである。そして何故、ギリシャを征服しようとするのか。

* ペルシアの目的は
ヘロドタスがいう。彼の親戚が彼に何故ギリシャを征服しようとするかきいたという。ギリシャにあるのは岩山ばかり、征服してなんの得があるのか。エジプトやバビロンは富裕である。多数の人々がいる。おおくの物資がある。それはすばらしい。だが、ギリシャはただ岩山があるだけ。何故征服しようとするのか。サー・エドモンド・ヒラリーの答を紹介する。

他人を支配するという考え、まず十九世紀以降はのぞく。キリスト教がやってくる以前の古代に限定してかんがえる。すると征服はよい事、つよい事、金持ちになる事、強大になる事はよい事である。もし誰かが自分の国境の向こうにいるならば彼らを征服する。そうすることによりかがやかしい栄光がえられる。だが我々、西欧人はどうか。そうかんがえることは自然なことでない。征服が栄光につながる。我々がキリスト教のどの宗派にぞくしていたとしても、そうかんがえない。そこでは山上の垂訓がある。まずしいものが地上を受けつぐ、さいわいなるかな貧しき者は。つよくない者、傲慢でない者はという。もし敵が頬をうつと、もうひとつの頬も差しだすという。もしギリシャ人がこれをきくと、この人々は狂人だ。もうかかわるなというだろ。ギリシャの道徳ではいう。友人には善良であれ。よきものをほどこせ。敵には害をあたえよ、という。次の点である。

最初とおなじぐらい重要であるが、それは我々の倫理感を校正する基盤、これが西欧の思想におおきな影響をあたえてるが、おおくの人々にとっては奇妙で狂気じみてるものである。もちろん、例外があるだろう東方の宗教はいれてない。古代の人々はけっしてこのようにかんがえない。だから隣人がいたら、彼らを征服する。これはおこりうる考えである。だから彼らはペルシアがやってくるとかんがえた。

* どれぐらがやってくるか
では、どれぐらいか。わからいないが、推定では二万から三万のあいだの歩兵、では二万五千歩兵とする。それから騎馬兵、戦いでほとんど役にたたなかったが何人かいる。これは戦場の選択に関係があった。ヘロドタスはこういう。戦いの場をマラソンにした理由に騎馬兵の存在があったといってる。騎馬兵が艦船にのってた。二人の将軍がいた。デイティ(Datis)とアルトファネス(Artaphernes)である。彼らはヒピアスを同行させてた。

* 同行したヒピアスの主張
ヒピアスは間違いなく大王に遠征をすすめてたろう。さらにマラソンを戦いの場所にすすめてたろう。これはすでにのべたがパイシスタラティスが専政主としてアテネに復活した時に上陸した場所である。そこには彼の支持者がおり、彼の武装集団がいた土地である。海外に亡命した者が常にいうが、ヒピアスも自分がやらねばならないこと、それはマラソンの砂浜に足を踏みいれること。そうすれば自分の支持者が一つになって立ちあがり自分の勢力にくわわる。ペルシアはたぶんたたかう必要がないでアテネにはいることができる。彼らは自分の帰還を大喜びし歓迎するからである。これはジェームズ王が英国にもどる時にルイ十四世にいったこととおなじだろう。

ここでマラソンの戦いの意義をかんがえるうえで重要なことがある。アテネには彼を熱狂的に受けいれようとする人々がいる。もし状況がゆるすなら、裏切りにつながる行為をする人々。民主主義を拒否しヒピアスの勢力に参加する人々がいる。この可能性が充分にあった。そしてこの可能性があることをすべての人がしってたことである。

私はペルシアの戦略にはこの裏切りを前提としていたものがあったろうとおもう。状況がうまくうごくとアテネは彼らの手におちるだろうとかんがえてたとおもう。

* 二度目の遠征
軍は出発したが、前の経路とはちがってる。沿岸の経路をとらず、エーゲ海を横断する、最短の経路をとった。島から島にうつっていった。ネクサス、これはアリスタゴラスの攻撃を撃退し大王をこまらせた島だが、彼らはこれをやぶった。次にデロス(Delos)にきた。エーゲ海の真んなかにあり、アポロとその姉妹のアルテミス(Artemis)の神聖な島である。ギリシャ人にとっては非常に神聖な場所である。ペルシアはどうしたか。彼らはデロスの人々と神官を非常な敬意をもってあつかった。なんの損害をあたえなかった。これは征服における典型的なペルシアの方法である。彼らの宗教とデロスのはちがってる。彼らはゾロアスター教である。太陽を崇拝してる。だが彼らは自分たちの宗教を押しつけない。ギリシャ人の宗教に干渉しない。彼らは旧約聖書を保持してた。彼らはヘブライを虐待しなかった。

彼らは他の侵入者がやるように、そこの宗教の慣行をやめるように強制しない。彼らはこう説明する。我々はギリシャの神々と戦争してない。さらにいえばギリシャ人とも戦争してない。我々は単純にこの二つの悪業の都市に罰をあたえるだけだ。彼らは我々を攻撃した。次にユビイアの南にあるカルキース(Chalcis)にいった。彼らはギリシャ人と戦争はしないという。だから彼らのやりかたにしたがい土と水を差しだすようにもとめた。彼らはこれを拒否したのでその都市を破壊し人々を奴隷におとした。さらに前進をつづけユビイア沿岸をすすんだ。北にあるエレットリアにきた。ここには四千人のアテネ人が定住してる。どうしたか。彼らは武器をとり立ちあがる。エレットリアの自由、アテネとエレットリアの友好のためにたたかおうとしたか。そうではない。四千人のアテネ人は母国、アティカにもどった。

* エレットリアからアテネ兵の帰還
何故か。彼らは当然の行動をしたというべきである。だがその決断はおおいなる躊躇のあとのことだろう。ヘロドタスについていう。彼は小アジア、ヘリカマサス(Helicarnassus) の出身である。彼はその歴史記述では非常にアテネに好意的だ った。また彼はアテネにすんだことがある。後年だがそこでペリクリースと友人関係にあった。彼は親切だった。小アジア出身だったがおおくの時間をアテネですごした。彼はプロ・アテネであったとおもう。さらに歴史の情報はおおくはアテネ人から入手した。ヘロドタスがいう。アテネ人は常にエレットリアのためたたかう用意はある。ところがエレットリア人はいう。それはまったく無意味だ。何故ここで命をすてるのか。ここはきみたちの都市でない。帰国したほうがよい。これをしんじるか、しんじないかは自由である。ここでたたかうことはアテネ人には災害である。もしアティカにかえると、母国に貢献できる。こうしてエレットリアからアテネ人はさった。

* マラソンの戦い、ペルシアの戦略
彼らは戦場をマラソンにした。まずエレットリアに非常にちかい。次にヘロドタスがいう。最適な場所である。長旅の疲れを回復する場所となる。すでにのべてるが、パイシスタラティスの帰還の縁がふかい土地である。軍が同行したヒピアスを専政主として復活させるのに好都合である。彼らの計画はこうである。もしアテネが戦いをいどむなら、これを崩壊させる。だが彼らはアテネはこれをおそれ戦いをいどまないとおもってた。そこでマラソンにとどまり、アテネからの知らせをまつ。革命がおこり、政権を彼らに移譲するというしらせがやってくる。それをまてばよいとおもってた。それが、すくなくともヒピアスが彼らに信じこませたかったものだったろう。もちろん、彼らはいつでもたたかう用意はできていた。だが彼らはそんな必要もないだろうとおもってた。紀元前四九〇年、八月四日、彼らはマラソンに上陸した。最近の日食の研究により正確な年月日があきらかになった。ネクサスの攻撃から艦船がアテネにやってくるとの事前情報をアテネはつかんでた。

* スパルタ救援の要請
彼らはスパルタに援軍をもとめる。ここにすばらしい話しがのこっている。ファイデピディ(Pheidippides)という偉大な走者が登場する。彼は全力で二日間を走りつづけてスパルタについた。そこで彼はペルシアがやってくる。我々をたすけてくれといった。スパルタがいう。我々は本当にたすけたいとおもってる。そうすることは我々のよろこびでもある。だがまことに不幸なことに我々は今まさに宗教行事の最中である。我々はここをはなれることができない。次の満月まではうごけない。これは八月十一日の夜になる。

それはペルシアが上陸してから一週間がたつ時期である。私はこれを態のよい言い訳とは思いたくない。最近の研究のなかにこれを口実だという皮肉な見方をする人もいる。だが彼らは宗教を非常に誠実にかんがえてた。私はこうかんがえる。アテネは次の二つのことをしった。スパルタは彼らをたすけるためやってくると約束した。しかんしそれはこれから一週間後のことである。ヘロドタスはいう。

* アテネの決断
アテネは町をでてマラソンにいった。そこで彼らはどうするか議論をした。私はこれは真相でないとおもう。議論はすでにおきてた。アテネ議会のなかで議論がかわされた。軍を派遣するか、しないか。もし派遣するなら、どれくらいの規模か。誰を司令官とするか。これらすべてが議会で議論されたろう。ある者は、アテネに立てこもる策を主張する。ではアテネの防御力はどれくらいか。もし壁がないか不十分。なら立てこもるのは不適。また立てこもることの損得。ペルシアがアティカを蹂躙することをゆるす。それを放置するのか。おそらく七十五から九十%のアテネ人は農業で都市の城外で生活してる。家屋も外にある。それらがペルシアの略奪にあう。これはあまり上策とはいえないだろう。ならばペルシアが上陸したらすみやかにその場所に軍を派遣する。彼らと対峙する。ここでミルタイアディが指導的人物とした登場した。

彼は将軍だが、かってペルシアにおり、その専門家であり軍の将軍でもっあた。これはしられてる。彼のいうことに耳をかたむけるのも当然である。彼は実績と能力のある人物である。それはマラソンの戦いであきらかとなった。これで彼はおおくいる将軍の一人にすぎなかったが事実上の司令官とみとめられた。彼の意見であるが、彼は都市をでてマラソンでペルシアを迎えうつと主張した。さらに彼らに余裕の時間をあたええスパルタがルシアと対峙することゆるしたくない。だが、それ以上の恐れがある。もし我々がとどまりペルシアのしたい放題をゆるす。この時間がながくなればなるほど、内部に裏切りの可能性がでてくる。それに内にとどまるのはギリシャの戦士の倫理観にまったくはんする。敵が略奪をほしいままにしてるのにそれを放置すること。これは重装歩兵にとっては特に痛切にひびくことである。それはアレテ(arete)というホーマーにみられる考えである。人は勇気をみせねばならない。敵が侵入してきたら立ちむかう勇気をもたねばならない。重装歩兵は外にでて敵を迎えうつ。彼らはでていった。彼らの戦略は城外にでて敵が上陸した場所で対峙し、そこから侵入することをゆるさない、ということである。

* ペルシアの上陸
彼らはマラソンに上陸した。歩兵は二万五千人、彼らは重装歩兵でない。この当時の姿をしめす資料があるがズボンをはき防備の装甲をしてない。盾は柳の木からつくったものである。装甲は重装歩兵とくらべてはるかにおとってた。さらにいうが、兵士はおおくの地方から召集された。ペルシア人でない民族もふくまれてた。ギリシャにくらべ統一性が不足してた。ミルタイアディの作戦は次のとおり。

* ミルタイアディの作戦
ほぼ一万人のギリシャ兵。うち九千人がアテネ人。千人がエレットリア人。これにたいするのは二万五千のペルシア。地図でみる。右が海で左が陸。上陸した海岸ちかくに沼沢が上部にひろがってる。ここの下部に左から川が流れこんでる。この川は蛇行しながら沼沢にそそぐ。この流れの下部に原がひろがる。ここの平原で戦いがあった。沼沢に流れこむところからやや上流に逆のぼるところ。その流れの下部にちいさな塚がある。ここにギリシャの戦死者が埋葬されてる。ここが戦いの中心とかんがえられてる。つまりここでマラソンの戦いがあった。

ギリシャは高地に陣をかまえ、ペルシアは低地に陣をかまえた。ギリシャの考えはこの状況をできるだけながくたもつ。もしペルシアが攻撃にうつろうとすると彼らは高地にむけ走りのぼる。これはのぞましくない。ギリシャ側は彼らにそうさせたい。自分からはうごきたくない。他方のペルシアである。裏切りがおきるのをまつ。一週間がすぎた。両方が互いをみつめ何もしなかった。ギリシャは相手にボールをわたし、それで相手が失敗するのをまった。これがミルタイアディの考えだったのだろう。

* ペルシア軍の作戦
そしてついにペルシアは水や食糧がなくなる。いつまでもまってはいられないと気づいた。もう一つの理由、大王が何をしてるのか、ききたがり、膠着状況にさわぎだした。ペルシアはこうかんがえたと私はおもう。一万の兵と騎馬兵を艦船にのせアティカを迂回してファラロン(Phaleron)湾におくる。そして残り、一万五千でアテネをそこにクギづけにする。アテネ城内には防護する兵がいない。それをしるとアテネはくるったようにペルシアにむかう。ペルシアはここでも多数の有利をたもってる。何も心配する必要がない。それでやったきた。

* 両軍の衝突
その日の指揮官はミルタイアディであった。彼は相手兵力が五千上まわってることをしってた。そこで両翼から圧倒されることを心配した。それで隊列の厚味をへらし、相手の戦列の長さに対抗することにした。これではペルシアが隊列を突破するおそれがある。それでも彼は両翼をあつくし、中央をうすくすることにした。彼は両翼でペルシアを圧倒し、それから中央に殺到することにより勝利することをねらった。そしてそれがまさしくおきたことである。ぎりぎりの状況にたえて、まさしく狙いどおりのことがおきた。ペルシアは中央を突破するのに成功した。だが両翼から殺到したアテネにより、彼らは逃走をはじめた。彼らは背後にあった沼沢にむけてはしった。その逃走は困難だった。多数がころされた。ついに戦いは終結した。

(2の3おわり)

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ケーガン、ギリシャ歴史、13アテネ帝国(1の3)



* はじめに
エール大学ケーガン教授の古代ギリシャの歴史をあつかう。ミノア文明、マイシニア文明、暗黒時代をへてスパルタ、アテネの興隆、ペルシア戦争、ペロポネソス戦争、マセドンによるギリシャの統合まで、二十をこえる連作を紹介する。ここではペルシアの興隆から、世界帝国の形成、小アジアへの進出、沿岸にあるギリシャの都市の反乱、アテネの援助、ペルシアとのマラソンの戦いをのべる。

* ペルシア帝国の興隆
最初にペルシアの興隆についてはなす。用語の解説だが、彼らはミーズ(Medes)とよば人々にちかい。彼らはギリシャ人のちかくで生活してた。彼らはアーリアン(Aryan)人にふくまれる。またこれについて用語だがこれは十九世紀から二十世紀に人種をしめすものとして乱用された。ところがこれはインド・ヨーロッパ語族のなかの言語の集まりである。それはともかくギリシャ人はペルシア人とミーズを区別できない。

それはどちらでもよいが、彼ら、ミーズが主導し部族社会からはじめて国民的な王国をイランの高原につくった。彼らはここに最終的に定住した。ペルシア人たちは彼らたおし、その支配を確立させた。

* サイラス大王
その集団からサイラス(Cyrus)がうまれ大王となった。たぶん紀元前五五九年である。彼が偉大な征服者とみとめられそうよばれた。彼は最初にイランで彼の部族の武力をもってペルシアの支配を確立、拡大し、ペルシャ帝国とよばれるものとした。たぶん紀元前五五九年に大王となった。その驚異的ひろがりはこうである。紀元前五五〇年メディア(Medea)王国を征服、次にティグリス・ユーフラテスの峡谷におけるもっとも有力な勢力であるバビロニア(Babylonia)王国、今のイラクであるがこれを征服、小アジアの西部をしめるリディア(Lydia)王国。ただしこれはギリシャが占領したエーゲ海沿岸部をのぞくもの。

サイラスは紀元前五五九年に王となったが、それをアケメナス王朝(Achaemenid Dynasty)とよぶが、彼はおなじ種族のミーズを紀元前五五〇年に征服した。そしてすぐさまバビロニアを征服し、アルメニアを征服し、シリアを征服し、小アジアの王国、カッパドキア(Cappadocia)を征服し、前例のないほどの拡大をおこなった。リディアのことである。

* リディアへの攻撃
その創設は紀元前七世紀にさかのぼるが、この頃はクロイソス(Croesus)王だった。ヘロドタスが彼のペルシャ攻撃決断の逸話をのこしている。その頃、ペルシアは国境にまでせまってた。アポロをまつるデルファイにいってその神託者に相談する。その予言は難解なことが特徴だった。彼がきく。もしハリス(Halys)川をわたったらどうなるか。すると神託者がいう。偉大な帝国がほろびる。彼はもちろん、それはペルシャ帝国とおもってた。実際はペルシャ帝国が彼の帝国をほろぼした。これは、ただしい質問をしても、その答のただしい内容がわかるまでは、大喜びしてはならないことをおしえてくれる。

クロイソスは紀元前五四七年に攻撃し、首都が翌年にペルシアの手におちた。沿岸にあるギリシャの都市だが紀元前五四六年から紀元前五三九年までに支配下においた。紀元前五三九年はペルシアにとって重要な年である。その時に都市、バビロンを征服した。これですべてのメソポタミアを支配下においた。ペルシャ帝国のおおきな拡大だった。サイラスの後継であるケンバイシス(Canbyses)は紀元前五三〇年と紀元前五二二年のあいだに、おどろくべきことにエジプト王国を征服した。おそらく最古といえる王国で誰もがうらやむ富をもち、強大な帝国であった。紀元前五二二年にはケンバイシスがしんだ。

* 北方への拡大
西はエーゲ海、地中海、から東は現代のパキスタンであるインダス川までである。南はナイル川の南端、スーダンから、北にのぼると、欧州側の沿岸、ヘルスポント、欧州側のエーゲ海沿岸、ダニューブ川にまでひろがる。ケンバイシスはダニューブをこえ侵入していった。そこには国民的統合をもつ王国はなかった。多種類の民族がすみ、ギリシャ人は彼らをシシアンズ(Scythians)とよんでた。彼らをどんどんとロシアにまで追いやる。そこはコーカサス山脈の奥地だった。彼らは馬にのる人々、部族である。まだ農業でなく牧畜を生業としてた。

* ミルタイアディの登場
遠征はつづいたが、ここでマセドン(Macedon)のことをはなす。ペルシアの軍に一人の将軍がいた。ミルタイアディ(Miltiades)という。彼はもともとアテネの人である。だが彼の家族は海外追放にあい、専制政治の時代、スレイスの東沿岸、ゲリポリ(Gellipoli)半島におくられここを統治した。彼がここでくらしていた時にペルシアがやってきた。彼はペルシアにしたがい、ペルシアの軍の将軍となった。ダニューブ川にかかる橋の警備をめいじられた。王はシシアンズをおって遠征したのだが、彼らをまかすことはできなかった。彼らはこんな戦法で対抗した。騎馬にのって距離をたもつ。直接の衝突をさける。とおくから投石で損害をあたえる。そして逃走する。もし直接衝突するならばペルシアが勝利してたろう。王は長期間、遠征してた。ミルタイアディは、彼はもどってこない。ではこの橋をこわす。これで自分たちは自由になれる。こうかんがえた。実際はちがう。王はもどってきた。シシアンズ遠征は成功しなかったが、もどってきた。ミルタイアディは罰をおそれそこから逃亡した。最後に彼はアテネにもどった。彼については後にのべる。

これが紀元前五世紀の頃の状況である。ペルシアは小アジアのギリシャの都市をうばい支配下においていた。その支配はどことも同じ臣従関係だった。敗北し臣従する都市は王に土と水を差しだす。これが完全な臣従をみとめたことの象徴である。ペルシアの王にたいしては完全な臣従以外の関係は存在しなかった。ギリシャ人はそれは奴隷の一つとしてみた。実際の支配だが、ペルシアはけっして苛酷な支配者でなかった。彼らは人々に納税をもとめた。誰もがきらうが、彼らの経済をそこなうほどのものでなかった。次に軍役である。王の指揮命令にしたがい、軍役に参加する。これにしたがえば、彼らはそれ以上の要求はしない。ギリシャ人の都市に王は長官、支配者を派遣する。セットラプ(setrap)という。彼が完全に支配する。だがそれは特に苛酷なものでなかった。

* 反乱までのギリシャ、アテネの状況
イオニアのギリシャ都市の反乱をおこす時、ペルシアとギリシャに関係する状況であった。反乱までのギリシャの状況についてみるアテネである。クライストニ(Cleisthenes)革命がおきていた。これは重装歩兵による民主主義だった。これはすでにのべたが、非常にあたらしい、それだけ不安定なものだった。彼らには恐怖があった。内部に敵といえる反対勢力がいた。貴族にぞくする人々の友人である。貴族たちは政治の戦いにやぶれ逃亡してた。また何人かは専政主の友人や親戚である。あたらしい体制にたいする忠誠心はかならずしもあきらかでない。これが一つ目の恐れだが二つ目は、スパルタだった。

彼らは貴族などの友人の追放をみとめてなかった。友人たちはやがて軍をしたがえてにかえってくる。そして貴族政治の復活をはかる。

* アテネがペルシアに同盟をもとめる
三つ目の不安はアテネの隣人たちだった。アテネはいつも喧嘩をしてた。法的な問題で有利になろうとあらそい、攻撃にうつる。これらのことからアテネは非常に不安定な場所だった。ヘロドタスはこういう。このような状況でアテネは助けをえようとした。それで代表団をペルシアにおくった。彼らに同盟関係の構築をもとめた。こうして彼らの問題を緩和しようとした。ペルシアの王がみとめる関係はただ一つ。臣従関係である。そこで彼らに土と水を差しだすようもとめた。そうすれば友人となることができるといった。代表団はこれを了解し、アテネにもどった。アテネの人々は激怒した。

彼らは代表団に罰をあたえた。こうして両者の関係の構築は立ちぎえとなった。彼らがおそれていたことがおきた。スパルタがアティカ(Attica)に侵入した。アテネに恨みをだいてる他の都市がこれに参加した。ビオーシャ(Boeotia)、彼らはシーブス(Thebes)に引きいられてた。カルキース(Chalcis)これはアティカの東にあるユビーア(Euboea)の都市。イスミス(Isthmus)にあるコリンス(Corinth)。彼らがすべてアテネに攻撃を仕かける。ところがここでコリンスが別行動をとった。彼らはどんなかたちにせよアテネに専政主の復活をこのまなかった。というのは、それほど昔でない頃に自国内で専政政治を排除してた。彼らはこの動きへの参加をことわった。これが内部分裂の一つだったが、さらにスパルタである。

* 二人のスパルタ王の対立
二人のスパルタの王のあいだに論爭が発生した。クレイオメニズ(Cleomenes)は従来からアテネの貴族政治家と友人関係にあり、彼らの政治がもどることをのぞんでる。デモレイティス(Demoratis)はどんな理由であれ、外国への干渉をのぞまなかった。だが、彼は議論にまけ有罪となり、海外逃亡した。次に彼を見かけるのはペルシャ帝国である。彼は側近の助言者として王につかえる。こんな事情でスパルタの侵入はなくなった。

* アテネとシーブスなどとの争い
だがアテネは他の隣国を相手にする。シーブスに引きいられるビオーシャ、それからカルキース。アテネは彼らを敗北させた。ユビイアのカルキースでは、アテネがその領土の一部をうばった。四千人のアテネ人が入植した。これは従来の入植でない。彼らは定住するが、市民権はなおアテネにある。アテネの守備隊の役割をはたす。ビオーシャの状況もおなじである。これはローマの植民地の考えかたとよくにてる。他のイタリアの都市を征服し、そこに年長の兵をおく。そこの土地をえて定住し、守備隊の役割をはたし、現地の状況に問題がないかを監視する。

* アテネの強さの秘密
ヘロドタスは自由の意義について論じてる。アテネ人が自由をえる前、他の都市の住民とくらべ戦争が特につよかったわけでない。ところが専制政治の桎梏から解放され、クライストニ体制にはいったら彼らは反対者のすべてをたおすことができるようになったという。これはヘロドタスの偏見かもしれない。だがヘロドタスの歴史をつうじて一つのことがわかる。それはギリシャ人には自由に憧れ、自由の偉大さをよろこび、彼らの中心に自由がある。これがギリシャの歴史をかたる時にみてとれるとおもう。ところで彼は自由を賞賛するだけでなく、アテネにおいては発言の平等性もまた賞賛する。クライストニの体制において発言の平等性が民主主義という体制をより特徴づけるものである。すべての市民は自由に平等に議会で大衆にうったえることができるということである。これは誰もが政治において能動的役割をいっそうはたすことができるということである。また彼はこう賞賛する。自治、これはたんに外部から支配されないだけでない。自分たちの都市の内部からすべての人々のための政治を作りあげる。彼はこれをアテネ人が戦争でつよくなった理由にいれてる。さてあたらしい同盟関係がうまれた。

* あたらしい同盟関係でのアテネ
だがアテネへの敵意もうまれる。アジャイナ(Aegina)島である。これはソロニック湾(Soronic)にある。ちょうどアテネの沿岸のむかいである。両者は百年ほどもいろいろな問題であらそってきてる。アジャイナ人ははスパルタとくんだ。はっきりとこのアテネの体制をたおそうとしてきた。民主政治をかえ専政主、ヒピアス(Hippeis)をもどそうとした。彼は今はペルシアに亡命中、ペルシアの大王の保護をうけてた。アジャイナの動きはペルシアを巻きこむこととなった。だがここでもコリンスはそうはおもっていない。専政主に反感をもっている。こうして状況がさらにわるくなったのでアテネは第二回目の代表団をペルシアにおくった。今度はペルシアの王ははっきりと民主政治をたおし、ヒピアスを専政主にもどすことを要求した。これはアテネと小アジアのギリシャの都市を征服しペルシアの領土する。ヒピアスがそれを支配する州長官にするということ。ペルシアが征服領土を支配する通常のやりかただった。こんな状況にある時にイオニアの反乱がおきた。

* イオニアの反乱
紀元前四九九年である。マイリーダス(Miletus)、これは沿岸の主要都市である。ここは最初に準科学、あるいは合理主義がうまれたところと説明した。これは神話に根ざした従来のギリシャの考えかたを修正するものだった。神学(theology)について純粋な理性で説明しようとする。ここの哲学者が宗教をもってないというのでない。彼らは宗教を脇において、世界を観察と理性で説明する。ここは哲学発祥の地であり、自然科学の発祥の地でもある。この両者はこれからながく融合し分離せずにすすんでゆく。これが反乱がおきた都市の状況だった。これら哲学者とはまったく関係ないが、ここにはアリスタゴラスという専政主がいた。彼と大王とのあいだに問題がうまれた。

* アリスタゴラスの侵入
その事情である。彼は大王に外征をすすめた。彼はネクサス(Nexus)の攻撃を仕かけようとしてた。これはエーゲ海にあった島である。彼がいう。ネクサスはすばらしく富裕な島である。彼らは侵攻を予想してない。もし艦船をおくるなら、自分はただちに島をうばってみせる。こうなれば大王は領土を拡大し、彼自身ももまた利益をえる。それは財政上からも名誉の上からもである。ところが、情報がもれてた。ネクサスは準備をととのえてた。彼は戦いにやぶれ、大王の不興をかった。彼は自分は極めて不都合な状況にあることを自覚した。

* アリスタゴラスが反乱をすすめ、助けをもとめる
彼はここで小アジア沿岸の都市はペルシアからの自由を獲得すべき時だと決意した。彼は説得力にとむ雄弁家であった。都市をまわって説得した。ほとんどが反乱に賛成してくれた。これは彼らが現状の臣従に不満 をもってることをしめす。そうして彼らはかって大王と共同した専政主とともに反乱する。これは興味深い。彼らはこれから民主主義を設立する。以前には民主主義がなかった。それを経験したことがない。だがアテネがそれをつくった。私はアテネがよい実例を提供してくれた。彼らはここからおおくをまなんだ。この可能性がたかいと私はおもう。というのは前にもいったがアテネはマイリーダスや他のイオニアの都市とおなじにイオニアの都市ともいえる。彼らからみるとアテネは彼らを引っぱる都市とみなしてる。だから私はアテネを自分たちのモデルとした。そうおもう。

だがアリスタゴラスはこれからおそるべき強大な敵と対決しなければならないとしってた。ペルシア軍である。彼はたよるべき地のギリシャにもどった。助けをもとめる。ギリシャがもつ軍事力をもとめて、当然だがスパルタにいった。ここでもヘロドタスは興味深い話しをのこしてる。

* スパルタ王がきいた
彼はクレイオメニズの王のところにいった。彼は何をしようとしてるかをはなした。ペルシアの豊かさ。もし反乱が成功するならばそこにある財宝をペルシアの大王かうばうことができる。クレイオメニズにとってもわるくないだろう。クレイオメニズはきいた。ペルシアの首都までの距離は。それは小アジアの沿岸にある貴殿の都市からペルシアの首都までどれぐらいか。アリスタゴラスはなかなか頭がよい。彼はまってましたとばかり、ギリシャの歴史上最初の例となる地図を引っぱりだした。おそらく巻きもどして、みせたのだろう。

ここがマイリーダス、それからここが王がつくった道、これをとりスーサについて、これがペルシアの首都である。王がきく。どれくらいか。そこから行軍してどれくらい。三ヶ月といった。王はくらくなる前にこの町をでていきなさいといった。スパルタにとって海をわたって沿岸から三ヶ月も行軍するという考えはおこりえない。国内にいるヘロットが反乱をおこすだろう。これにたいしアリスタゴラスはこたえて、それほどわることでない。道は整備されてる。またここに銀をもってるが、それを貴下に差しあげることができる。かんがえなおしていただけまいか。彼は銀をさらにふやして王を金で籠絡しようとした。そこでそばにいた彼の娘、ゴーゴ(Gorgo)が父王にいった。彼をすぐでてゆかせて、彼はあなたを腐敗させる。彼女は常に王のそばにひかえてた。クレイオメニズはこの助言をいれてアリスタゴラスを追いやった。スパルタの支持、反乱への支持をもとめる努力は不成功におわった。

* アテネへの説得
ではアテネにいこう。そちらのほうが見込があるといった。アテネはイオニアの都市である。スパルタはドリアンの都市であるのとちがう。次にアテネはもっとペルシアにちかい。エーゲ海の沿岸に位置し、拡大をはかるペルシアの脅威をかんじてる。このような事情もあり私はアテネがすでにアリスタゴラスや小アジアの反乱をおこそうとする都市と接触があったとおもう。それは民主主義という考えが関係してるとおうもう。この真偽はともかく、アテネの議会は艦船をおくり、それに兵員をつけることをきめた。それによりマイリーダスと反乱をおこす都市をたすけた。これにつきヘロドタスがするどい指摘をしてる。

これは一人の人より多数の人をだますことのほうが簡単だということをしめしてる。彼らはアリスタゴラスにだまされた。ところがクレイオメニズはそうでなかった。彼の計算によればアテネ人は三万人という。それはともかくアテネは二十隻の艦船をおくった。学者のなかにはこの数字に疑問をもつ者がいる。だが後年には四百隻の艦船をもってた。これから発展しようとする初期の数字である。私は彼らが最大五十隻もってたとおもう。だからこの数字はけっしてちいさなものでない。何故、この行動をとったか。

* アテネの決断の理由
私はイオニアを心配した。そこにいる親戚を心配したからとおもう。またペルシアとの接触をつうじて彼らは友好的でなかった。大王は完全な臣従をもとめてたからである。もう一つの事情。それはギリシャは東方と貿易をしてる。これはソロンの頃からである。小アジアのヘルスポント(Hellespont)、マーマラ(Marmara)海、ボスポラス(Bosporus)、それから黒海につづく海域。ここでペルシアと国境をせっしてる。ここでもしペルシアが非友好的となり、行動をおこしたら、ギリシャ人が必要としてる物資にわるい影響をあたえる。穀物、魚である。このような事情がスパルタがやらないのに、アテネがやる。非常に危険な行動をとった事情とおもう。ヘロドタスはこの時を次のようにいう。

これらの艦船はギリシャと野蛮人にとって邪悪な訪れのはじまりだった。私にいわせれば、これがペルシア戦争である。これば私のテーマである。理論的にいえばイオニアの反乱はアテネにかかわりのない出来事だった。もしアテネがたすけなければ、ペルシアと対決はなかったろう。ヘロドタスはいう。アテネがイオニアとそこの親戚をたすけると決心したから、これはアテネにとってペルシア戦争のはじまりとなった。

* アテネの侵攻
アテネの艦船はマイリーダスについた。上陸し兵はすみやかに行軍した。リディア州の首都、サルディス(Sardis)についた。これはペルシアの州である。むかってきた軍をたおし、放火した。これでサルディスの都市に実害をあたえた。この時、エレットリア(Eretria)、ユビイアの北部の都市であるが、この艦船が小数だがくわわってる。これはカルキースと常に敵対してきた都市である。これがくわわってる。アテネがカルキースをやぶったという事情があるからである。二十隻の艦船はペルシアの都市に実害をあたえた。ペルシアはこれでイオニアの都市に遠征し全面的な攻撃を仕かける。反乱をおさえ、もとの支配を回復しようとする。だがこれは時間のかかることだった。

* ペルシアの反撃
これは紀元前四九九年にはじまり紀元前四九四年までつづいた。ペルシアは、これらの都市に城攻めをかけ、一つ一つうばっていた。さらに海からの攻撃もした。これはギリシャにとり致命的だった。陸はすでに包囲され、対抗できなくなった。降服を余儀なくされた。紀元前四九四年、ペルシアの艦船がやってきた。ペルシアは陸戦をこのむ。自分たちの海軍をもってない。だが彼らにその支配下にフェニキア海軍がいた。彼らは東地中海においてもっともはやくから活躍した海の民族である。さらにエジプトである。彼らも海軍をもってた。つまりフェニキア、エジプトからの船団、さらにイオニアでペルシアの支配にふくしてた船団があった。数で彼らが優位にあり、戦闘力にすぐれた船員をもってた。最終的にマイリーダスの沖、ラデ(Lade)の戦いでペルシアはギリシャの艦船をほろばした。反乱の人々をたおした。ここから彼らは全面的な報復に取りかかった。マイリーダスを徹底的にやいた。ペルシアはこうしてイオニアの反乱をおさえ彼らにとり栄光の終末を完成させた。では次に何がくるか。
* ペルシアによるアテネの報復
アテネに混乱がおきた。ペルシアの報復の恐れだった。混乱するだけの理由がある。大国はというものは小国に馬鹿にされることを看過することができない。罰をあたえねばならない。そうすることで将来おなじようなことがおきないようにする。アテネは当然、攻撃や侵略をおそれねばならない。それが次の出来事でわかる。これの意味するところをどうよむか困難であるが、こんな事件である。

* 反ペルシャの動き
紀元前四九四年、ラデの戦いががおきる前、紀元前四九六年から四百九十五のこと。だった。この年に大法官に選出されたのがヒッパルカス(Hipparchus)である。彼はカマス(Kamas)の息子、パイシスタラティス(Peisistratids)の親戚であり、伝承によれば最初に陶片追放の対象になった人物であるという。どうしてこのことがおきたのか。ペルシアはアテネの攻撃を計画し彼の親戚である専政主、ヒピアス(Hippeis)の復活をねらってた。どうしてアテネ人はヒッパルカスを選出したのか。惟一の解釈は次のとおりと私はおもう。すでに陶片追放の法についてのおとぎ話はのべた。クライストニス(Cleisthenes)がヒッパルカスにもしクライストニスの政府にくわわるのなら、おおくの問題を解決することができるといった。こんな話しをしたが、私はヒッパルカスがそのとおりした。彼が大法官にえらばれたことが、このことしめしてるとおもう。これはまだクライストニスの体制がつづいてたということである。これは仮説であることをみとめるが、そうおもう。

このことに関係する次の話しがある。紀元前四九六年から紀元前四九三年、アテネでおきたもの。アテネの悲劇作家、フレニカス(Phrynicus)が劇を上演した。内容がペルシアによるマイリーダスの陥落と破壊である。この劇は現在につたわってないが、その筋はヘロドタスがつたえてくれた。劇は極めて感動的であるので、アテネ人を非常にかなしませ、みじめな気持にさせる。それで上演が制限された。罰金の重罰がかされた。これはどういう意味か。フレニカスはこれを上演すればアテネ人をかなしませることを充分に承知してた。また非常な怒りももたらすこともしってた。私は彼がこの上演によりペルシアにたいする怒りをかきたてようとしたとおもう。これによりペルシアにたいする備えをととのえ、より積極的に立ちむかうように仕むけたのだとおもう。これもまた仮説ではある。

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