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MMTの誘惑


* はじめに
平成最後の日にMMT(現代貨幣理論)の話しをする。評論家の中野剛志氏がユーチューブで解説してくれた。米国の下院議員で環境政策をうったえるオカシオコルテス議員が支持をを表明し、にわかに注目があつまった。この学説はニューヨーク州立大学のステファニー・ケルトン教授が主唱するが、異端の経済学としてノーベル賞受賞者のポール・クルーグマンなど既存の権威からつよい批判をあびてる。その内容である。

* いくらお金を発行しても政府は破産しない
日本、米国、英国のように自国通貨を発行しても政府(政府+中央銀行)はデフォルト(債務不履行)しない。いくらでも、好きなだけ支出できる。財源の心配はない。ただ、供給に制約があると、ほしいだけものが買えなくなるのでこまるという問題があるだけ。実に明解な主張、これだけきっぱり言いきった人は日本ではいなさそう。当然だが、では税金は無用か、何のためかとなる。

* 税の目的は財源確保にあらず
政府は納税を自国通貨によるようさだめてる。国民は納税義務をまぬがれるため、自国通貨をつかうのだが、これは当然、ひろがり物品の購入、貯蓄にもつかう。かくしてひろく流通するようになる。通貨の流通に税が密接に関係する。

経済の調整機能につかう。好景気で利益が拡大、税収がふえ、インフレ抑止に、不況で利益がなくなれば、納税がない。これで景気回復をたすける。

政策推進につかう。CO2抑止ならば環境税。消費抑止ならば消費税を導入とか。

税には自動安定化装置が組みこまれてる。好況時の税収増はインフレ抑止とか社会保障(失業保険とか)は不況時には支出がふえ景気回復を下支えし、好況時はおのずからへる。かくして税は財源確保のためでなく、多様な目的のために存在してる。

* 財政赤字は問題でない
当然、こうなれば政府は国債を発行し財政赤字を拡大する。問題ないかという。勿論、無闇な拡大はインフレを助長、だがデフレ脱却が問題の時に何が問題かと主張する。

赤字拡大で民間の預金がうばわれ金利が高騰する。これについては、誤解、間違いという。ここも面白い。

* 貸し出しがあって預金がふえる
銀行業務の実際をみると、このように貸し出しから預金がふえる。個人が銀行に預金する。これを財源にして銀行が貸しだすとおもってる人がおおい。これは誤解、間違いである。銀行は自らの判断で個人の口座に金額を書きこむ。それで個人の預金がふえる。ちなみにお金の種類はいくつか、この預金も立派なお金。これを業界では万年筆マネーとよんでたそう。ここまでいわれると、私にとっ衝撃的な指摘だ。これが国債発行から金利高騰につながらないとの主張になるという。ここでやめる。したにユーチューブを引用しておく。さて感想である。

* 感想
この学説の批判は強烈と中野氏がいってる。既存の権威の圧力にまけそうと弱気をみせる。私はここで既存勢力の肥大化した自己保身をかんじる。財務省である。政府はいくら支出してもデフォルトしない。こんな指摘だったら節約、節約といってた自分たちの立場はどうなるのか。彼らの財政審議会、四月の会合で、MMTに反論する資料をつけてた。財務省とくんでる政治家もおおかろう。選挙民からどういわれるか。財務省のレクをもらって国民の借金は一人あたり、たしか八百万円といってたマスコミもどうか。つぶされた自分たちの面子をどうしてくれるとおもってる。まことに傲慢なことだ。次に銀行である。

銀行は万年筆マネーでお金を製造してた。では町のパン屋さんはどうおもうか。ペン先をこねて百万円を製造してた。それをしった彼らはおこらないか。百万の借金をするのにどれだけ銀行に頭をさげたことか。ここで公平のためにいうが、銀行は金をかして利息をえる。これが彼らの製造物というほうが真実にちかいとおもう。だが雨降りに傘をかさず、天気に傘をさしだす。民間の恨みはつもりつもってるだろう。結論である。

* 結論
経済学の教授、田中秀臣氏はユーチューブで平成はじめに三万八千九百十五円をつけた後にバブル崩壊、その後、今にいたるまで日本はデフレを脱却できなかったという。この十月には消費増税が予定されてる。田中氏も失政を指摘してるが私も同感である。おなじようなことを繰りかえし、あたらしい世界に一歩を踏みださなかった。令和の新時代には一歩、踏みだしてもらいたい。

ユーチューブ:「日本の未来を考える勉強会」ーよくわかるMMT(現代貨幣理論)解説ー平成31年4月22日 講師:評論家 中野 剛志氏


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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(15、3の3)


* 対象の限定
アテネ人は投票の権利を制限した。公職につくこと、陪審員になる権利を成人、男子である市民に制限した。奴隷、居住する外国人、女性、男子で二十歳以下にはあたえなかった。現代の評論家はペリクリース時代の民主主義を批判する。ペリクリース時代の民主主義に疑問をていする。彼らは奴隷が存在し、女性の権利を制限してるという。このような権利の排除だが、文明がはじまった紀元前三〇〇〇年頃から他の文明にも同様にあったものでありアテネが特例でない。これは最近までつづいた。この批判のような近視眼的視点があることは興味をひくものでも、おどろくべきことでもない。

アテネ人がやった排除より重要なことがある。例をみないほどの大規模な人々をふくめたことと、その人々の参加の意義の重大さと、参加がもたらす成果の偉大さである。ここで有用なこととして指摘しておく。それは米国のジャクソン民主主義とよばれるものであるが、その最盛期には奴隷制度と共存した。二十世紀にいたるまで女性の選挙参加への権利は否定されてた。また年齢にかんしては、なおも制限がつづいてる。

おおくを排除してるとしてペリクリースの民主主義を否定することは、偏狭な価値観と時代錯誤の立場にとらわれてる。それは思いもよらぬ不幸な結果を産みだす。すくなくとも現代のギリシャ人は誰もアテネの民主主義を否定してない。ならば後にのこるのはそれがよいか、わるいかだろうが、現代の我々がかんがえることではない。ちがった立場からみてみよう。米国や英国が民主主義だというのをきいて、当時のアテネ人はおどろくだろう。

* 現代とちがう民主主義
彼らにとっては、民主主義の中核には、直接で完全な主権(sovereingty)がある。それは市民の過半数が代表するものである。とおれおが現代の特徴をみると、政府はその代表がおこなうこと。それの点検と均衡。権力の分離。重要な職の任命、選挙でえらばれない官僚組織、裁判官の終身任期。一年以上の任期をもった役職の規定。これらはすべてあきらかに合理的精神をもった市民が民主主義と理解するところに敵対するものである。古代と現代の考えかたに違いがある、その理解にはアテネの民主主義がどのように機能したかを簡単に検証することが必要となる。それはもし我々が偏見をすて世界の歴史でまったくまれな政府のありかたの特徴を把握しようとするなら、必要になってくるとおもう。そしてアテネの自治がおわった後に、どのようなかたちでも存在したことはないだろう。

* テネの行政、立法、司法
では時代を無視した分類だが、政府の機能は三つの機能、立法、行政、司法にわかれ、これをもとにかんがえてみたい。アテネの民主主義で立法とよぶものは議会、エクレシア(ecclesia)とよぶものだろう。これはペリクリースの時代においてはアテネの成人男子が参加するものである。これは四万から五万人のおおきさである。彼らのおおくは都市からはなれてすんでる。ほとんどは馬をもたない。だから議会出席には長時間の徒歩が必要となる。だから、実際の出席は五千から六千人だったろう。

* 議会の定足数、場所
ある活動についての定足数がさだめれれてる。それにはすくなくとも六千人の投票者が必要となる。これはそれ以上かもしれないが、そう以下であったかもしれない。会議はピニックス(Pnyx)とよばれる丘のうえでひらかれる。アクロポリスからそうとおくないところで、市場(アゴラ、agora)を見おろすところにある。市民は傾斜のつよい丘の土のうえにすわる。発言者はひくい場所にある舞台のうえにたつ。その声がきこえるようにするのは困難である。ここは戸外で、拡声器などない。紀元前四世紀の偉大な演説者、たとえばデモステネス(Demosthenes)は波がくだける音がひびく海岸において演説の練習をする。その練習をつうじてピニックスで声が充分にきこえるようきたえたという。おおきな声はアテネの政治家には貴重な資産だった。

* 議会開会の様子
議会開会の様子を今にのこってるアリストファネス(Aristophanes)の喜劇から想像することができる。紀元前四二五年にえんじられ題名はアカニアンズ(Achanias)である。そこに典型的な彼の喜劇の主人公が登場する。田舎からでてきた古風な老農夫が戦争に文句をつける。彼はそのため田舎の農場からアテネにまでやってこなければいけなかったからである。年齢は六十歳である。

* 喜劇がおしえるもの
一文を引用するが、その日は議会がひらかれる日である。彼はピニックスの土のうえにすわってる。まだ誰もきてない。彼がいう。

「もう議会が開会する日がはじまってる。誰もこの丘にきてない。あいつらはまだ市場(いちば)でお喋りをしてる。あかい液につけた縄をもってウロウロしてる」

アテネ人はいつも都市のセンターや市場からでてこない。おくれるとされてる。そのため役人がいて、彼らはお喋りに夢中になってる人々を追いだすため、あかい染物の液体につけた縄をもって彼らを追いだす。そして市場には誰もいなくなる。彼らはあかい液がつくのをいやがる。縄が近づくとにげる。それで彼らを追いだし、誰もいなくなるわけである。彼がいう。

「議会の議長もまだきてない」

そして議長があらわれ、やってきた。彼らは前列の席をあらそって大騒ぎをする。誰もしずかにと注意する者がいない。

「なんて奴等だ。いつも私が一番最初にここにくる。 席をとる。私は一人だから、うめく。あくび、足をのばし、屁をする。何をしようか。書きものか。髮を櫛でなでる。家計簿をつけるか。私の農場のほうをみるか」

「平和が一番。町はいやだ。村にかえりたい。ここで炭をかう、油も、名前がわからないがただのも。それでここにきた。思い切りさけぶ用意ができてる。発言の邪魔をする。もし平和以外のことをいったら、発言者に悪口をいう。でも、もう昼だ。議長、どうする。」

誰もが前列の席にやってくる。議会の役人がやってきていう。

「ここは駄目、さだめられた場所に」

そして議会の開会を声たからかに宣言する。次にいうのは簡単なものである。

「発言をもとめる者は誰か」

誰かが手をあげる。そして会議はすすむ。では喜劇の話しはおわり。ピニックスでの実際の会議はこんな喜劇でない。彼らは深刻な問題をあつかう。さだめられた会合がある。一年を十にわけた会期がある。必要なら特別な会合ももつ。

* 会議の詳細
その議題である。条約の承認また不承認。戦争の宣言。ある作戦への将軍の任命。派遣する軍の決定、それにあたえられる兵員、装備の決定。ある役職につく人物の承認、それの罷免。陶片追放をするかどうかの決定。宗教にかんする問題。遺産の問題。議会に持ちだされるもの、なんでもである

* 直接民主主義の姿
現代の代表制民主主義の市民にとって、このような大都市の会合のやりかたはおどろくことばかりである。そこで議論してる出席者たちの生死やその都市全体にかかわる外交政策の問題を直接にあつかってるのである。古代と現代の民主主義の違いをみるのに非常時の対応をみてみよう。

* 非常時の問題での対応
たとえば米国大使館が奪取されたとしよう。その最初の情報は複雑で巨大な組織である情報機関のある部署に秘密情報としてやってくる。それはもしかしたら政府がしる前にCNNの報道としてあらわれるかもしれないが、それは極秘情報である。ホワイトハウス、国務省、国防省のかぎられた一部の人たちにのみしらされる。

その政策も国家機密の保護から秘密としてあつかわれる。少数の集団のなかで議論され、最後に決定は一人の人物、すなわち米国大統領によりなされる。もし秘密がもれなければ、決断が公表された時にはじめて人々にしらされる。この例は典型例となってるキューバ・ミサイル危機である。そこでは秘密がまもられた。

新聞も近年は国の安全保障のために秘密をまもる。そのようなふるいやりかたで何がおきるか。関係部所で問題は一週間ほどころがされる。大統領がテレビにあらわれ、現状にどのような脅威があるかを説明し、どうしようとしてるかを説明する。もはや議論するにはおそすぎる。だがこれが我々の政治でおこなわれてることである。ペリクリースの時代には戦争か平和の問題がアテネにおいてもあった。そのたびに議会がひらかれ市民のまえで議論された。そして単純多数の投票により決議がなされた。これが厳密におこなわれたのか、このような重要な問題においてアテネ市民が完全で最終的な決定権を行使した。そんなやりかたをすることになってたという以上のたしかな証拠を私は見つけたわけでない。

* 五百人委員会の機能
数千人の構成員からなる議会が助けなしで、その任務をはたせない。そのために五百人委員会の助けをえてる。それはすべてのアテネ市民から籤引きによりえらばれたものである。それはおおきな組織では対応できないおおくの公務をはたしてるが、その主責任はこの点で立法の準備作業をすることである。五百人委員会は議会を輔助する機関であり、議会は彼らが作成した法律案を投票にかけることができるのである。

議会は再作成をもとめる指令をつけて送りかえすことができる。まったくの新法律案で置きかえることもできる。大衆の権威が完全な決定権(sovereignty)とその実効性、これがピニックスにあつまった議会の働きとして直接に機能してる。彼らがやりたいとおもったどのようなことも、その日からそのようにうごけるのである。

*行政の単一責任者の不存在
行政、我々がそうよべる行政についてみる。古代のアテネにおいて、こう区別してたわけでないが、我々の理解をたすけるため、これを区別して説明する。我々はこの行政を判断力と実行力もつものとして厳密にしぼってかんがえる必要がある。行政と司法の区別は現代の区別よりさらにはっきりしない。まず、責任者として大統領、総理大臣はいない。内閣もない。どのようなかたちにせよ国家を運営し、責任をはたす選挙によりえらばれた公職者はいない。政策一般を提案する責任者はいない。

米国人が政府(the administratio)とよぶものや英国人が政府(the government)とよぶものはない。十人の主たる公職者としてえらばれた十人の将軍がいる。彼らは一年の任期でえらばれる。その名前でわかるように彼らはおもに軍事の公職者である。彼らは陸軍や海軍を指揮する。彼らの再選は制限されないが、キーマンやペリクリースのような長期の再選は極めて異例である。

* 将軍の権能、評価、点検
彼らが発揮した政治力は議会の同輩市民を説得し、したがわせる個人的力である。彼らは陸海軍の作戦行動をのぞき特別な政治的、行政的権能をもたない。これをのぞき誰も命令する権能がない。将軍としての権能だが、きびしく制限されてる。外征作戦の指揮官は議会全員の投票によりえらばれる。

また議会は派遣軍の兵員、したがうべき作戦の目的をきめる。選出のまえには五百人委員会により、その能力、資格について審査をうける。その任期を満了した時には、その業績について審査をうける。特に、彼らの財産につき会計検査をうける。ユスナ(euthuna)とよばれる。

えらばれた人たちによる審査だけでなく、一年間に十度、議会全体から一年間に十度、将軍は評価をうける。もし満足できないと表決されたら、彼らは法廷で裁判にかけられる。そこで有罪とされると罰や罰金をかされる。もし無罪ならもとに復職する。彼らには特権があたえられるから、彼らが人々の支配にはんしてないかを慎重に審査する。これらの手続の裏にあるものである。このようなきびしい審査をようする公職者には、陸海軍、海軍の船建造、国庫の管理、都市の水道施設にかかわる公職者である。だが他のおおくの公職者については籤引きによりえらぶ。このようなやりかたはアテネ人が民主主義の支配的原則として平等を重視してることからくる。

* 籤引きによる公職者の選定
それは市民としての責任をはたす能力がある市民は充分にいるとの考えである。さらに行政の権能を少数の人間にゆだねる危険性への恐れがある。それが彼らの有能さ、あるひは経験をみとめても恐れをもってることでもある。この理由からアテネは相当量の公職を籤により割りあててる。一人にあてる公職は一度かぎりと制限してる。ただし例外には五百人委員会がある。それはその生涯につき二度である。将軍の再任には制限がない。これはその技術と能力がその職の必要不可欠の部分だからである。任期が非常に短期であることをのぞき、これが本当の例外といえる。現代の目からみておどろくべきことだが、アテネ人は公的活動の管理からは、教授、専門家、専門職、官僚、政治家をとおざけてる。これ以降は次回にはなす。

(3の3おわり)

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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(15、3の1)


* 関連年表
479 プラティアとマイカリの戦い
469 ユーリマダンの戦い
465 セイソスの反乱
462-1 キーマンの陶片追放
440-39 セイモスが独立をうしなう

* ペルシア帝国の脅威
これからアテネ帝国の発展についてはなす。それはデリアン同盟が発足しその性格か変化し、帝国にいたったものである。紀元前四六九年といわれるがユーリマダンの戦いでペルシアを陸と海でやぶった。これでペルシア帝国の脅威はおわったのでないかとの感覚がうまれた。そこでデリアン同盟にとどまり、拠出金をだすことを躊躇する気分がうまれた。アテネはその指導的地位をすてるつもりはない。ペルシアへの攻撃をやめるつもりもなかった。同盟国がはなれようとする動きをアテネは黙認するつもりもなかった。

* セイソスで鉱山をあらそう
同盟の性格をかえたもう一つのことだが、紀元前四六五年、エーゲ海の北、セイソス(Thasos)島で反乱がおきた。これは同盟員の義務とか拠出金支払いの問題でなかった。アテネとセイソス、両者の紛争だった。その島のむかいの本土に鉱山があった。非常に品位のたかい金と銀を産出した。パンジアン(Pangaean)山の鉱山である。両国はその所有権を主張した。

* セイソスの反乱
アテネはストライモン川(Strymon river)の上流に植民都市を建設した。そこは九つの道地方(ennea-hodoi)とよばれるところで、後年にアテネはアンフィポリス(Amphipolis)という植民都市をつくったところである。アテネ人はそこに移住して影響力がひろがった。問題がうまれ、セイソスは反乱をおこした。アテネは城攻めをかけた。比較的におおきな島であり、セイソス人は頑強に抵抗した。およそ二年をかけた。極めて長期の城攻めだった。いつものアテネ人の戦いかたではなかった。

* 降服、アテネの権益獲得
だがセイソスは降服した。アテネは通常の扱いをした。反乱をおこした都市にたいし壁をこわさせ艦船を引きわたさせる。当然、アテネは鉱山をうばい、賠償金をとった。戦争にかかった費用をはらわせ、今後、も同額の貢納金の支払いをめいじた。そして従属国とした。この処置は最初でないが違いがあった。この争いはあきらかにデリアン同盟にまったく関係がなかった。アテネが同盟の資金をつかい、アテネのためにその力をつかった。ただアテネのためにのみおこなった。言いかえれば、この鉱山をアテネがもってもセイソスがもっても、どちらでも同盟に利益をもたらすものでなかった。アテネは同盟の指導者の地位を利用し、自分自身の利益を獲得したのである。これは極めて重要な転換点である。後年のギリシャ本土でおきる出来事とあわせかんがえると、デリアン同盟の性格をかえる重要な転換点とかんがえる。

* ダイオドロスの批判
古代の歴史家もいってる。二つの代表的な意見である。ツキジデスとシシリー(Sicily)のダイオドロス(Diodorus)である。現代の歴史家の意見もよい。自然な連合体が共通の目標を追及していくうちに、どうして連合体が帝国に変化したのか、かんがえるのに参考となる。ダイオドロスの意見である。概して、アテネ人はおおいに力をつけて、もはや同盟国をかってのように品位をもってあつかわなくなった。今や傲慢と暴力であつかってる。このためほとんどの同盟国はこの粗野さにたえられなくなった。そして互いに反乱をかたりはじめてる。なかには同盟の会議(coucil)を軽蔑し、自分たちのやりたいようにしてる。アテネの変節をかたり、その行動を非難してる。それは専政主のやりかたと指摘してる。

* ツキジデスの批判
ツキジデスのはちがう。反乱にいたる原因がいろいろだが、貢納金をはらわず、艦船の割り当てにこたえないからである。またある場合は、軍役にこたえない。アテネは貢納金の支払いにきびしく、軍役の拒否にも強硬である。ある場合指導者としての責任から時には一部にきびしい措置をとる。外征への同盟側からの参加は均等でない。彼らは反乱をおこした人々の数を簡単にへらす。ここがツキジデスがダイオドロスとちがってるところである。

これらのことから、ほとんどの場合、同盟都市に責任がある。軍役を忌避する。家をはなれないですむよう艦船の拠出をさけ拠出金の増額ですまそうとする。その結果、アテネは資金をもとに艦船をふやす。他方、同盟側が反乱をかんがえても、準備、経験不足が露呈する。

ツキジデスがダイオドロスとおなじことをいってる。アテネが他の同盟国をあつかうやりかたについて高圧的な姿勢があることをみとめている。しかし彼はいう。同盟国側がやっておかなければならないことがある。これはダイオドロスが言及してない。彼らは要求をうけて、もうできない。艦船を提供し軍役にこたえることげきない。そうだが、自分たちはそれと同等の資金を提供するとつたえる。するとアテネは艦船をつくり、アテネ人の漕ぎ手をつかう。資金を艦船や漕ぎ手の費用にあてる。これで同盟国の軍はちいさくなり、アテネの艦隊はおおきくなる。だからツキジデスは、これは彼ら自身の問題であるという。かくしてアテネの帝国化がすすむとゆうわけである。

* 評価のまとめ
私は両者の言い分が相互に矛盾してるというべきでないとおもう。彼らはおなじことをちがった側面からいってる。ある点をアテネの立場から、あるいは同盟の立場から強調しているのである。それはともかく、五世紀のおわりに、ペロポネソス戦争がはじまる時だが、百五十の同盟国のうちたった三つが艦船をもつ。これがそのあいだにおきたことである。つまり実質的な自治がここまでへったとゆうことでもあるが、レスボス、セイモス、キオスの島々である。否、二つ。紀元前四四〇から四三九年、セイモスが独立をうしなってる。

* 同盟のおわり帝国のはじまり
同盟がおわり帝国がはじまる状況の話しである。アテネなど本土に目をうつす。ペルシア戦争がおわるまで外部から脅威がせまった時にスパルタは間違いなくギリシャの指導者だった。ペルシア戦争がおわった時、すくなくとも アテネが 対等者として登場してきた。スパルタの追随者でなく独立して行動できる都市としての登場である。次の五十年(BC469年、ユーリマダンの戦いからBC419年)だが、両者が競争する時代となった。誰が指導者となるのか、おおくの衝突がおきる。

* セミストクレスの登場
紀元前四七九年、セミストクレスが有力なな政治家としてアテネに登場してきた。彼はサラミス海戦に勝利し、その立役者となった。こんなことはよくある。第二次大戦後のウィンストン・チャーチルだが、終戦にさいして、彼は勝利の立役者となった。ところが最初の選挙で彼はほうりだされた。民主主義には常に選挙の洗礼がある。セミストクレスにはこうならなかった。だが彼にも問題があった。

* セミストクレスの追いおとし
彼はアテネの政治において一匹狼(maverlick)であった。彼は家系から貴族であったが、貴族社会の中心にいるような人物でなかった。他の政治家とのあいだで問題をおこす人柄だった。彼は勝利によりえた栄光をあえてかくそうとはしなかった。彼がやったことを思いだしてほしい。マラソンの戦いがおわり、サラミスがはじまるまえに、銀山の発見を奇貨として、議会を説得しアテネの生存戦略をたて、艦隊を創設した。だが私の歴史の記録の解釈がただしかったら、彼は陶片追放(ostracism)という政治手法をつかって対抗する政治家をことごとく追放した。八十年代の有力な政治家はセミストクレスをのぞいてすべてが追放された。だがペルシアがやってきて戦いはじまり彼らは本国に呼びもどされ、戦いで役割をはたした。戦争がおわった時、彼らと彼の間柄はよいものでなかった。セミストクレスはここで大立者だった。彼らは将来に不安をかんじてたろう。私はここでアテネの政治の世界で有力者のあいだに、何かしら取り決めがおこなわれたとかんがえる。彼らは結束してセミストクレスの追いおとしをはかったのだろう。

* キーマンの登場
デリアン同盟初期の作戦行動において、当然、アテネの指揮官が指揮する。だがそこにセミストクレスの名前はない。指揮官に指名されるには政治的力が必要だがそれをうしなってた。とってかわったのは若干わかいキーマン(Cimon)であった。彼は貴族で、その父はマラソンの立役者、ミルタイアディ(Miltiades)である。マラソン勝利の立役者である。しかし彼は非難決議をうけ死刑にしょせられた。莫大な負債をのこししんだ。キーマンは返済したが、彼はペルシア戦争において活躍した。デリアン同盟の作戦においては、すばらしい戦果をあげた。ユーリマダン(Eurymedon)の戦いの指揮もとった。キーマンは戦いに連戦連勝し極めて裕福となった。その活躍で彼は大衆の人気者となった。

* キーマンの人柄
ただし彼は貴族であり下層市民の人気をえようとしたことはない。スパルタの支持者であり友人であった。またスパルタの徳をほめ、その政治体制を評価した。アテネはそこからまなぶところがあるといった。このような人柄の彼が何故、連続して将軍にえらばれたのかとおもうが、その人柄にあったのだろう。ペルシアのいろんな所に外征し成功をおさめ、おおくの戦利品をえた。それらの一定部分は軍のなかで分配される。そこに参加した兵たちは利益をえた。だからその指揮官は人気がでる。ところで彼は民主政治のなかで特別な技術をもってた。ここで米国大統領だったアイゼンハワー(Eisenhower)のことをはなす。

* アイゼンハワーとの類似
彼は第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において勝利し、終戦後に政治家に転身した。彼は人気者となる特質をもってた。ささいなことだが、人々は彼の笑顔をこのんだ。そこで彼にかてる政治家はいなくなった。キーマンもこのようなところがあったのだろう。彼の立場は非常に保守的だった。ともあれ彼は十七年間のながきにわたり有力な政治家としてアテネを支配した。紀元前四七九年の勝利から政治の世界を駆けあがり紀元前四六二年にいたる。アテネの政治の世界では異例の長期である。将軍はアテネの政治においては有力者である。将軍は毎年選挙でえらばれる。彼の根づよい人気がどれほどかこれからわかる。

* キーマンの対外政策
彼の対外政策として、親スパルタ政策は重要である。もしセミストクレスがやってたら、間違いなくちがってた。彼は反スパルタであることは、スパルタに仕かけた策略からあきらかである。スパルタからの独立をはかり、その結果、関係は敵対したものとなった。反対にキーマンはスパルタの公式の代表をつとめた。彼はスパルタとながい家族同士の関係があった。彼がスパルタの徳についかたったのはすでにのべた。彼は常に両者が同盟関係にあり、 対等の協力関係にある。たとえばスパルタがプラティアの陸戦で指揮し勝利し、アテネがサラミスの海戦において指揮し勝利した関係のような関係である。これでペルシアの脅威に対抗し、繁栄するとゆうものである。

これは部分的には成功した。スパルタがエーゲ海に進出することにかならずしも反対しない。アテネはデリアン同盟の指導者の立場から帝国主義者としてどんどん力をつけてきた。ところが初期においてスパルタはそのようなことはしなかった。何故だろう。私はキーマンが関係するとおもう。キーマンがアテネの政治で有力者だった。彼らはキーマンを信頼してた。彼がその地位をもってるかぎりアテネはスパルタの脅威とならない。だから両者はよい関係をたもてたのだろう。十七年ものあいだ平和がつづいた。もし彼がいなければアテネ社会の発展はつづかなかったろう。アテネの諸問題を制御する力に彼の人柄と説得力がかかわる。それはおどろくべきこととおもう。

* キーマンの民主主義
マラソンの勝利は重装歩兵による。それは農民、中層とそれ以上の階層、彼らの勝利である。サラミスの勝利は、アテネの貧民層。彼らが三段櫂船をこぎ勝利した。彼らが原動力であった。勝利のあとに艦隊がアテネの力の基盤となった。それをささえるのがこの貧民層だった。もしセミストクレスが政治で活躍したら、さらに民主化をすすめる動きがでたとおもう。クライストニスの民主主義は重装歩兵による民主主義だった。これはおおくの活動から貧民層を排除してた。キーマンはこれに賛同しなかったがけっしてアテネの民主化を促進もしなかった。それと敵対したわけでないが、それを今あるがままにとどめておいた。

実際のところ、ある部分では後退した。アリストートルは紀元前四七九年から紀元前四六二年の時期の政体(constitution)についてアリオパジャイテス(Ariopagites)の政体(constitution)とよんでる。それはふるい貴族的合議体(coucil)、以前の行政の上層部からなるのだが、これが非公式だが実体のある力をもってた。これがどんなものか、把握は困難だったが、いくつかの重要な点がわかってきた。アリオパガス(Areopagus)がある種の監視を行政にするという権限を回復したということである。かっての貴族政治の時代にアリオパジャイテスがある種の権能をもってた。行政を監視し、評価し、必要な措置をとるとゆうものである。クライストニスの政体が確立し、そのしたに五百人の合議体が存続してるのだが、対外政策についてすこしずつアリオパガスの力がましてきた。

* キーマンの対外政治
アリオパガスは外交政策をきめるが、それが必要とかんがえると議会に動議をだす。彼らは五百人委員会(council)の権力をある種、うばってる。しかし私は、法律にはこれをみとめるような変化はないから、ちがうと言いつづけてる。彼らはできるとおもってることをやる。それを人々が受けいれただけである。アリストートルがこういってる。彼らはペルシアがアティカに侵入した時に英雄的役割をはたしたといってる。この時、貧民はサラミスやペロポネソスに避難しなければならなかった。アリオパジャイテスは彼らの資金をつかって貧民の生活をたすけた。これは彼らの自発的行動である。その寛大さ、愛国心、善意。これがアリオパジャイテスの政体の発展を可能にした。そのことがキーマンの二元政策にあらわれてたのだろう。保守的で温和な民主主義である。

保守性、貧民が政治的発言をたかめることを可能とする環境の変化をみとめようとはしない。またその保守性は全ギリシャの国際関係における二元性に対抗しようとしない。それはペルシア戦争のなかであらわれてきたものである。それにアテネがしたがうことで、おおきな成功をえたものである。キーマンがその政治家として活動した後期においてやったことである。その時、彼は最高責任者だったのだ。

その時もは十人いる将軍の一人にすぎなかった。これを私はずっといっていたが、つまり毎年、選挙でえらばれねばならなかったのだ。彼の影響力は非公式のものである。法律にさだめられたものでない。彼がそうかんがえた時に人々にそうするようもとめ、けっして強制しない。彼が基調をさだめ、人々がそれにしたがったのである。それから一世紀後、ローマの世界のこと、アウグストゥス(Augustus)は最高責任者になった。その時の話しである。

(3の1おわり)

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ケーガン、ギリシャ歴史、アテネ帝国(14)、(3の3)



* デリアン同盟の形成過程、同盟国の立場
欧州側と米国の両者はよろこんでこの立場を受けいれた。ではデリアン同盟である。紀元前四七八から四七七年にかけデリアン同盟が形成された。あきらかに国境をせっする都市や海にめんする都市は、もしペルシアがもどってきたら、極めて危険な状態になる。もしかりにアテネが関心をもたず、自国にかえってしまったら、エーゲ海のまずしい都市をのぞいてギリシャの軍はいなくなる。そこにペルシアがやってきたら抵抗できない。彼らにとっては生きるか死ぬかの問題となる。すくなくとも自由はなくなり奴隷のおそれがある。彼らはアテネを説得しなければならない。

* アテネの立場
ところがアテネの立場である。あきらかに彼ら自身の必要がある。黒海への交易路の必要性、彼ら自身の小アジアにたいする親密な感情、彼ら自身のペルシア脅威の恐れである。これからでてくるのは共通の結論である。これから両者は同盟を結成したのである。もしこれが誰かが強制したからできたといったら、おおきな間違いであるとおもう。プルタークによれば、アテネ人には説得する必要があったという。アリスタイディ(Aristides)、アテネの艦隊を指揮してたが、小アジアにおいて主導権をにぎってた。このアテネ人のところにやってきて、どうか指導者となってくれないいかとたのんだ。彼はこの約束をする前に要求した。きみたちがまず我々に確信をもてるように覚悟をみせねばならないといった。アテネを利用してスパルタはこちらにこないようにして、アテネねを都合よく利用する。そんなことをしないと約束せよといった。セイモス海軍の指揮官、ユライアディス(Uliades)が船をまわし旗艦のパウセニアスのところにいった。彼はまだそこにいたが、ユライアディスは船をぶつけた。そこでスパルタとのあいだに何かの取引があったかもしれない。それはともかく、この時点からアテネが指導権をにぎり、作戦をすすめるようになった。

* デリアン同盟の二つの規定、恒久条約
紀元前四七八年から四七七年の冬のあいだ、デロス島で関係するギリシャ人があつまって会合をひらいた。デロスはエーゲ海の真んなかにある。アポロ神、アルテミス神の生誕の島であり、アポロはイオニア人たちの信仰があつい。そこで会合するのは自然なことである。ここでデリアン同盟の考えを議論した。

彼らは同盟をどのようにうごかすか、それをさだめる規則を議論した。目的は、同盟国はペルシアに対抗してたたかうである。最初の条項は、ペルシアがギリシャにあたえた損害に報復する。次に、ペルシアから戦利品をあつめる。それで損害を補償する。規定はこれだけ。だが直接の規定はないが、ペルシアの支配をだっしギリシャの自由を確立、維持する。この目的をふくむことはあきらかである。ツキジデスはいってないが、幾人かの学者がそれはふくまれてないと誤解してる。だがこれがなければ同盟が機能しない。ペルシアの支配下におかれ自由がうしなわれる。これでは何もできない。規定にはないが、彼らにとっては当然に前提となってることである。

普通にやることだが、共通の敵と味方を規定する。これを合意した。共通の外交政策である。彼らはすべてを誓約した。それが彼らの条約署名だ。次に鉄を水中におとした。これは条約が永遠のものだという象徴である。というのは鉄片が水の表面に浮かびあがるまで有効につづく。すなわち永遠につづくというわけである。次のことをしるしておく。ギリシャでは条約は永遠でない。アテネとスパルタのあいだで紀元前四四五年の条約は三十年の平和だった。紀元前四二一年のは五十年だった。もう一つのは五年のだった。これが普通におこなわれるものだった。

* 百四十八の同盟員
その構成員だが若干正確でないが、二つの地域にわかれる。これはほぼ正確にいえることだが、エーゲ海の島々。その島々の二十の都市があった。イオニア、これは小アジアの沿岸だが、三十六の都市。ヘルスポントにそった都市、黒海につうじるルートにそう三十五。キャリア(Caria)、これは小アジアの南端部である。二十四。スレイス(Thrace)これはエーゲ海の北部にある。ギリシャにあるところ。三十三。合計で百四十八である。

およそ百五十の都市があつまってる。これはおどろくべきことである。ペロポネソス同盟はこれほどでない。とはいっても大袈裟にかんがえないでほしい。都市は極めてちいさいからである。特に島に限定するとまったく小規模なものだった。ただしそこにセイモス、キオス(Chios)、レスボス(Lesbos)というおおきな規模の島の都市がふくまれている。小アジアのも小規模だが、マイリーダス(Miletus)のような大規模で重要なのもふくまれている。ここで注目してほしいのはペロポネソス同盟の都市がふくまれてない。この同盟と関係がないということである。

* 三つの同盟の説明
次のことしるしておく。三つの組織がふくまれてる。まず、ギリシャ同盟、ペルシアに対抗するギリシャ同盟。これは紀元前四八一年に形成された。これはペロポネソスの都市とそれ以外がふくまれてる。それから最古の同盟、ペロポネソス同盟。これはすこしの例外があるが、この地域に限定される。それでも海をわたったところにある都市はない。そして最後にできたデリアン同盟、これをギリシャ人はギリシャ(theGreeks)とよぶ。これは前にある同盟とおなじ名称であるが、こうよんでる。この違いをあきらかにするためにはデリアン同盟とよぶのが簡明とおもう。

ここで比喩をつかう。ペルシアに対抗するためのギリシャ同盟、これは国連とみることができる。とゆうのは二つの立場の国々がはいってるからである。ペロポネソス同盟やデリアン同盟は国連の下部組織とかんがえられる。だから、一つをNATOとみて、もうひとつをワルシャワ条約機構とみることもできる。この両者の構成員はギリシャ同盟の構成員でもある。国連の憲章は地域の同盟をみとめてる。からである。NATOとワルシャワ条約機構は地域の同盟である。両者の関係について、特に規定があるわけでないが、両者は他者を否定するものでない。おなじくペロポネソス同盟はデリアン同盟を否定するものでない。これがギリシャの国際関係の現状である。ペルシア戦争の推移とともに出来上がってきたのである。

* デリアン同盟の拠出金、貢納金
もうすこしデリアン同盟についてのべる。これはペロポネソス同盟とおなじく、覇者をさだめる(hegemonial)同盟である。そこには指名された覇者、アテネがいるからである。だが新味といえるものがある。これは海軍同盟である。金がかかる。重装歩兵による軍事同盟ではかからない(兵自体が自弁する)。それは同盟の資金がいることである。この目的でフォロス(phoros)をあつめることが宣言された。これは政治的意味をぬいた言葉としては拠出金(cotribution)である。これは時間の経過とともに、強制的に賦課される貢納金(tribune)となっていった。はじまった当初のものを拠出金とよぶ。額や内容をさだめる査定官はアテネの将軍である。

* 査定、管理、指揮官
アリスタイディであるが、彼は事情をよくしってるので適任だった。構成員の都市がいくら拠出すべきかを査定した。一番最初には金をあつめることからはじまったが、はじめの頃には、艦船、船員の拠出もあった。だが、ペロポネソス戦争がすすむにつれ、艦船や船員がなくなった。たんに資金のみの拠出にかわっていった。そのはじめの頃のはなしである。アテネ人が査定官となり、アテネ人が資金管理官、ヘリオノトミアス(hellenotamias)となった。彼は資金あつめとその看守にあたる。デリアン同盟の陸上または海上の作戦行動だが、アテネ人の将軍がおこなう。ここで繰りかえすが、アテネのやりかたが帝国主義だ、強制だというかもしれないが、ちがう。同盟国がアテネにそうするようもとめたのである。

* 同盟国からもとめられたアテネ
彼らはアテネ人がにげることをおそれ、にげられないようにしたのである。これはギリシャのもった過去の同盟と比較していうと極めてすぐれた組織であった。まず効率的。とゆうのは指導者が指名され、その活動に充分に関与する。ふかい関心ももってた。意志決定機関(synod)は各国の代表者からなる。同盟がやるべきことをすべて決定することができる。この機関でのみ決定することができる。ほかとちがい、自分自身の資金をもっている。また軍隊ももってる。これはその憲章にさだめられてた。これらにより、効率的決定とその実施が可能となったのである。

* 議決権
この仕組みでは、一都市、一議決権であった。アテネも一議決権であった。彼らはほかの都市より圧倒的な勢力をもってたがそうだった。ではアテネがやりたいようにやることができたか。こんな疑問がでるが、アテネは権威と勢力をもつ。だからアテネはその羽根の下に弱小の都市をおいて保護する。だから、アテネがやりたい方向に彼らが忖度し賛同した。アテネがやりたい方向とちがう決定は一度もおきなかった。

* デリアン同盟の変質
しかし時間の経過とともに変化がおとづれた。都市の自治という問題とアテネがやりたいことがぶつかることがうまれるようになった。アテネがこの自治に干渉して、彼らの方向をかえることがおきた。これをアヘイ(arche)と彼らはよぶ。その意味は帝国のことである。それは紀元前四七七年まではおきなかったが将来におきることである。当時は共通の利害があった。それは非常に強力なものだった。ペルシアの脅威に対抗しし、それに報復し、賠償をもとめるという動きである。変質がおきたのは、ペルシア侵入のおそれがひいていったた時である。これはNATOに問題がしょうじてる事情とおなじである。同盟国がかんじる脅威の減少がおなじである。ということでデリアン同盟の当初の状況であった。

* アテネの帝国形成
ここから、どのようにしてアテネ帝国の形成にむかったかをはなす。最初にふれておくことである。デリアン同盟は大成功した同盟であったということである。紀元前四七七年、イオンという島の一つのちいさな都市がペルシアの支配下にあった。それはスレイスのストライモン(Strymon)川の河口にあった。アテネの指揮官が同盟の艦隊を引きつれてそこにいき、そこのペルシア人を追いだした。次の話しはツキジデスによるものである。時期はさだかでないが、話しの中心がそれでないので、そのままつづける。デリアン同盟が設立されて、数年がたった頃の話しである。この頃は、アテネの指揮官が同盟におおきな役割をはたし、同時にアテネの政治においてもそうであった。キーマン(Cimon)、アテネの指揮官であるが、彼は同盟の軍をつれて、エーゲ海のスキロス(Skyros)島にいった。スキロスはギリシャ人がすむ島でない。彼らは海賊を生業にしてた。はっきりしてることだが当時、この海域では同盟のみならずおおくの都市が海賊の横行に損害をうけてた。キーマンはこれを壊滅させ、島から追いだした。アテネ人による植民都市(cleruchy)とした。アテネ人の兵を植民し守備隊の役割をはたさせた。これはすでにカルキースでのべたが、彼らはアテネ市民権をもって、守備隊の役割をはたすものである。こうして島がまた悪者に占拠されないようにするためのものである。これは当然の処置とみとめられるが、これで海賊行為がこの海域でなくなった。次の話しはカルキースにうつる。

* カルキースの話し、従属国
ここはペルシア人のつよい圧力にまけて土と水を差しだした。これで判断すれば彼らはミダイザ(ペルシアに臣従する者)である。彼らは強制的にデリアン同盟に加盟させられ、貢納金をおさめることとなった。艦船の拠出をみとめられず、従属国との扱いをうけた。これはデリアン同盟に規定されてなかったが、最初の従属国となった。たぶん、紀元前四七〇年である。次にネクサスの話しである。

* ネクサスの紛争
ここは常に問題をおこす島である。彼らはもうペルシアの脅威はなくなったと判断し、ペルシアがせめてこないので同盟から脱退するといった。すでにのべたこの同盟は恒久のものである。脱退はできない。なので反乱とみなされ攻撃され降服した。これにより彼らの資格はうばわれ、もう一つの従属国となった。彼らは貢納金をおさめねばならない。都市の壁がこわされ、艦船はうばわれた。これが同盟としての責任をはたさない。あるいは反逆した同盟国にたいする処置である。これにたいして他の同盟国がどうおもってたか。反対する意見はきかれない。やはり彼らは同盟を必要としてたとおもう。

* ユーリマダンの攻撃
紀元前四六九年である。時代をかくする出来事がおきた。小アジアの南端にユーリマダン(Eurymedon)川がなれてる。そこにペルシアは艦隊と内陸に軍をもっていた。同盟はそこに出かけた。キーマンが指揮し攻撃し破壊した。艦船を破壊し、上陸して軍をやぶった。これはペルシアの東エーゲ海にある拠点への痛烈な打撃だった。とゆうのはペルシアはその地域から撤退したからである。この事態で人々は、紀元前四七九年当時に想定していた事態はなくなり、ペルシアの脅威はさった。こう判断しても不合理でないが、アテネの見方はちがう。 また他の同盟国のおおくもそうだった。ところがそうおもはない同盟国もあった。これまでどうり拠出金をはらい、あるいは艦船を提供することに疑問がうまれた。

* ペルシアの脅威の判断
名前はわすれたが、ウェスト・ポイント(米国士官学校)の卒業者でNATOの第二位の司令官。彼がツキジデスのことをしっておりデリアン同盟のこともしってたが、この当時と比較して、NATOの同盟側がソ連の脅威がうすれると拠出金をためらうようになり、逆に脅威がますと、あつまってきて拠出金をだすと言いだした。これはデリアン同盟においておきたこととおなじだといってる。この同盟をつづけてゆくのかどうか。これが問題となってゆくが、これは次にのべる。
(3の3おわり)

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ケーガン、ギリシャ歴史、アテネ帝国(14)、(3の2)


* 攻守同盟の結成
たしか紀元前四六一年だがアテネとスパルタのあいだで衝突があった。それまでずっと同盟関係を維持してたが、アテネがこの同盟から脱退した。紀元前四八一年に彼らは紛争の歴史があったが、それを脇において同盟をむすんだ。そしておなじ「友と敵」をもった。これは有名な条項だが、言いかえれば共通の外交政策をもったのである。繰りかえすがスパルタが政策をきめるのでなく、同盟が会議によりきめるのである。これは典型的なギリシャの同盟の方法である。このことをギリシャ語でいうとシマヒア(symmachia)というが、これは攻守同盟という意味である。

私はあなたの側にたってたたかう。あなたが攻撃された時だけでなく、もしあなたが他の誰かとたたかう時にもたたかうというわけである。その戦いはあなたの判断でおこなう戦いをふくむ。私はその時もあなたの側にいるとゆうわけである。この攻守同盟はギリシャ人がしってる惟一の同盟関係だった。お金のことは何もかいてない。同盟のための共同の基金にかんする条項はない。その意味は、各都市が自分の軍について自分が負担するとの考えかたなのだろう。定期的に招集される会合についての条項もない。会合は必要とかんがえた時に招集する。すべてのことは全員の合意により決定される。これは全員一致をもとめるものでない。ほぼ全員の合意が必要とゆう意味である。これはあたらしい事態であり、革新的なことである。これは最初の汎ギリシャ主義の戦争の出発ともいえる。トロイ戦争以来からみて初めてともいえる。

* 三つの島の要望への対応、スパルタとアテネ
さてすでにのべたが、三島防衛の要求をどうするかが議論となった。その時、そのため拠点に軍をおくるなどの約束をせず、スパルタはただ本国に引きあげていった。公式に表明された行動はない。何事も変化しなかった。そしてたんに帰国すると決定した。アテネだが、彼らはあたらしい政策を実行にうつしていく。彼らが前面にでる。彼らの主張を追及する。最初にいったことである。ペルシアはアティカに侵入し、おそるべき損害をあたえた。アクロポリスにのぼり、破壊した。そこにあった寺院、アテネ人からすればおそるべき神への冒涜である。彼らはこのようなことが二度とおこらないようにしたいとおもった。そこでアクロポリスの防禦および都市の壁の強化をはかった。他の都市はどうおもったか、興味ぶかいはなしがある。同盟国のいくつかから文句がでた。スパルタにいいつけた。アテネの行動に文句をつけた。これはわるい考えといった。そういったのはシーブス、メガラ(Megara)、コリンスというのが私の推測である。シーブスとメガラは隣国であり、アティカと隣接してる。またふるくからの敵である。コリンスは国境をせっしてないが近くの隣人である.アテネの強大化してゆく海軍と商業力に抵抗しようとしてる。コリンスは従来から巨大な海軍をもってた。商業においても勢力をほこってた。考古学的証拠によれば六世紀の昔からアテネに対抗してきたことがわかる。

* アテネへの文句、セミストクレスの謀略
その文句の中身だが、彼らがいう。もし壁が強化されたら、防衛力がたかまり、アテネは自信をもち、より攻撃的となる。その結果、問題を引きおこす。海の戦いでアテネはおどろくべきことをした。それはふるくからの敵対者や隣人たちの不安をたかめた。スパルタはこのことをしってた。また友人たちの文句を気にしてた。そこでアテネのセミストクレスがいったが、彼につき補足説明する。戦いのなかで偉大な英雄として登場してきた。かずかずのすばらしい業績をあげた。アテネの海軍を取りしきった。サラミスの海戦で重大な決断をした。人々は彼こそがこの勝利を引きだしたとおもってた。歴史家、プルターク(Plutarch)がいう。この後でおこなわれたオリンピックゲームのことだ。彼が登場した。ゲームをみてた観客はゲームをそっちのけにして彼に注目した。彼の人気はすさまじかった。これを何にたとえればよいか、たとえば、ルーズベルト(Rosevelt)、チャーチル(Churchill)、スターリン(Stalin)、彼らを一人の人間に詰めこんで、第二次大戦の後に登場させる。これがセミストクレスだ。これくらいかもしれない。で、セミストクレスはスパルタにいった。

彼はその頃、アテネの大立者になってた。アテネの壁の再建をできるだがはやく完成させる。そしてアテネの立場をできるだけ有利にする。彼はこれを海軍、国際関係、一般の問題においてかんがえてた。彼はこのため、ちょっとした策略をたくらんだ。ツキジデス(Thucydides)がいう。彼はスパルタにいった。スパルタも人をアテネにおくった。その時、彼はアテネ人に彼らを自分がもどってくるまで抑留しておけといった。次にこういった。アテネの壁が充分な高さになって防衛の機能がたかまったら、すぐおしえてくれ。そして彼はスパルタにいって、はなした。スパルタは彼に、アテネ人は壁をつくってるねといった。我々はそれをやるのはあなた方の問題と承知してるが、もしペルシアはやってきて、アテネの壁をつかって彼らの拠点をつくる。それを我々の攻撃の拠点にする。これが可能となる。するとセミストクレスがいう。そんな馬鹿なことをどこできいたのか。こんなことだったらしい。彼はいう。スパルタは代表団をアテネにおくれ。そして、私が帰国するまで彼らをそこに滞在させろといった。ある日、アテネから使者がやってきて壁が完成したことをしらせた。彼はスパルタ人にいった。あなた方は壁について文句をいってたが、あなた方のいってたとおりだった。我々は壁をつくった。これから我々は充分に巨大となった。充分に自分自身を防禦できる。では、あなた方は何ができるかと彼がいう。そしてそこで演説をした。

それは一種の独立宣言である。スパルタと 対等となったという意味である。我々はあなた方から命令をうけない。もし助言があるというなら、それはあなた方のなかにとどめてほしい。我々のことは我々がきめる。あなた方のことはあなた方でやってくれ。あなた方は我々の優越者ではない。我々はあなた方と対等者だ。ということをいった。ツキジデスはいう。セミストクレスはそれからスパルタで人気がなくなった。これでスパルタは彼にずっと打撃をあたえようとするだろう。また取りのぞこうとするだろう。それはともかく。彼は自分がやろうとしたことを実現した。アテネは壁でまもられた都市となった。スパルタとの公的な関係はともかく。ギリシャ同盟においてアテネは独立したプレーヤーとなったのである。

* アテネ、 対等の競争者
ツキジデスはいう。スパルタはこれを受けいれた。しかしひそかに恨みをだいてた。そういえる手掛りがある。これから彼らのあいだでおきる事態のなかにみえるものがある。スパルタには党派がある。事態は複雑だが、これだけはたしかなことである。あるスパルタ人はペロポネソスに引きこもる。これでよい。そしてペロポネソス以外の世界とはまったく関係をもたない。エーゲ海、それ以上の世界のことである。そうして、伝統的な生活にもどるというわけである。平和党、保守派である。当然、戦争の勝利の後にスパルタの勢力を拡大したいというものもいる。

ギリシャ全土、さらにそれ以上、海外までというわけである。この考えは表面的には表にでない。ひそかに存在してゆく。スパルタの公的な立場はアテネの立場をみとめるというものである。これは今後の動きのなかにあらわれてくるだろう。

* パウセニアスの悪業
プラティアのスパルタの軍の指揮官のパウセニアス(Pausasenius)だが、彼は戦いの後に指導的役割をはたすのだが、彼はスパルタの二人いる王の一人である。彼はその前に指揮をとってた王が引退しエーゲ海にでていった。艦隊も引きつれていったのだが、彼はビザンチウム、ヘルスポントや海峡でペルシアとたたかい成果をあげ、海峡を支配下においた。だがギリシャ人のなかに敵をつくった。その理由には同僚のギリシャ人を劣等な人々としてあつかった。あたかもスパルタの部下のようにあつかった。これは外にでたスパルタ人がみせる一般的な傾向である。その程度は人によりちがうがパウセニアスはそれがひどかった。同盟のギリシャ人にたいする態度にあらわれ放置できない問題となった。これにくわえてさらに問題があった。

彼は富や贅沢に取りこまれてしまった。ペルシア人がみせた富や贅沢にである。理論的にいうとほとんどのギリシャ人は非常に貧乏であり、ペルシア人の道徳心の欠如を彼らの観点から毛嫌いしてた。ペルシア人は何よりも非常に裕福であり、ギリシャ人はそうでない。その富を多様な目的につかう。それはギリシャ人にとってはギリシャ的でなく、また魅力的でもなかった。

しかしパウセニアスはそれに取りこまれた。それで彼はまるでペルシアの州長官のように振るまいはじめた。こんなことが同僚のギリシャ人をいらだたせた。そこで彼の罪状が問題になり彼はスパルタにおいて専政主として告発された。次は反逆であった。ペルシア側と州長官の地位につきなんらかの取引をしたらしい。これは本国送還、裁判にかけることとなった。彼は罷免されふたたび指揮官として派遣されなかった。 さらに別の罪状が告発されるはこびとなった。それは死刑にしょせられるべきものだった。

大事な点だがスパルタはひどい不名誉を同僚のギリシャ人にあたえこの指揮官を引つこめた。かわりの人物、ドーカス(Dorcus)という人物をおくった。同盟軍はスパルタの指揮官は今回は受けいれないと拒否した。彼を母国に送りかえした。これは非常に重要な出来事だった。同盟軍は、今やエーゲ海やその境界にいる人々である。彼ら はアテネの影響をうけ、将来的にはアテネ帝国にはいる人々である。これらの人々はスパルタの支配をよろこばない都市にいる人々である。どうしてこうなったか。

* スパルタの気持
最初はパウセニアスの愚行である。彼がスパルタへの信頼をうしなわせた。スパルタはこの種の海の活動は得意でなかった。その証拠はかならずしもはっきりできないが、紀元前四七九年に彼らは三つの島々の加入に反対している。また、そこには海戦に勝利したアテネがいる。この種の活動は彼らのもっとも関心のあるところである。アテネはそんな事態をまち、それに対抗する覚悟がある。送りかえした同盟の人々の気持のなかには、スパルタにたいし、もうおくってこないでくれというものがある。スパルタはドーカスのかわりをおくらなかった。そこにはそれを受けいれ、スパルタは将来のペルシアへの作戦には参加しないとの考えがある。それはもしおこればより攻撃的になることはあきらかだったからである。

* ペルシアはアテネにまかせればよいとの考え
ツキジデスはこのスパルタの判断についてこういってる。スパルタ人はペルシア戦争から手ををひきたい。アテネがその戦争を主導する、それだけの能力をもつ。スパルタがどうおもおうとやってゆく用意がある。自分たちがこの戦争をやってゆく必要がない。このようなことをやりたいともおもわないとおもってる。というのは、アテネがやってくれるから、すべてはうまくゆく。問題ない。彼らは我々の友人だ。だが、それは間違いなく、すべてのスパルタ人がかんがえてることでない。

それは一つの党派にいる人々の意見である。保守派、平和主義、ペロポネソスにとどまろうという党派である。彼らはなおも支配的な勢力である。私はうたがうが、パウセニアスの愚行によりうしなわれたスパルタの威信であるが、彼らの立場をつよめたとおもわない。あきらかにいえることだが、代替を他の同盟から拒否されたことについて、スパルタは無理に代替をおくろうとする必要があるのか、そうすることで我々を不人気にする必要があるのかとかんがえた。我々のところにかっておおくのギリシャ人がやってきて、我々に頼みこんだ。彼らのためにたたかってくれ、彼らをまもってくれといってきた。ところが今や彼らは我々を拒否した。だから我々はペロポネソスにとどまり、外にでる必要はない。これは我々の作戦でない。こんなことが議論されたのだろう。

* ペルシア攻撃の主導者、アテネ
ではペルシアへの攻撃がおわることを意味するのか。否、同盟はそうかんがえてない。そこで、彼らはアテネにむかった。そしてこれからやってくる戦いを主導するようもとめた。ヘロドタスはこういってる。アテネはパウセニアスの傲慢さ(hubris)を口実にしてそこでのギリシャ人の主導権をにぎった。その計画はこうだった。彼らは自分たちの作戦を実行することを希望してる。作戦をつくり、その考えを実行しようとしたという。

しかしそれはちがうとおもう。その根拠だが、部分的にただしいところがある。だが、はっきりいえることは、アテネは、彼らがアテネにもとめることをやる意志と用意がある。しかし彼らがその力と影響力、あるいは意志を発揮し同盟に決断させようとするとの考えがあったか。それが同盟がのぞんでないのにやるとの考えだが、それはちがうとおもう。私はすこし面倒な比較をおこなう。第二次大戦後の、北大西洋条約機構(NATO)の形成とデリアン同盟、これは最終的にはペルシア戦争の後にアテネ帝国につながった同盟だが、その形成についてである。

* NATO形成の過程
デリアン同盟についてである。ノルウェーやスウェーデンの学者がNATOの形成過程を説明してる。まず主導する者(hegemony)の確立が要請(invitation)されたという。それは一九四五から一九四八年にかけおきたことである。欧州人たちが究極にNATOの一部になる。そして米国人がこれにくわわることが必要だといってる。第一次大戦でやった失敗を繰りかえさない。それは米国が北米に引っこみ欧州と政治的関係をもたなくなることを意味する。それは欧州各国を恐怖に追いやる。欧州を崩壊させソビエトの勢力下におくことになるとおそれてたという。

彼らは米国が指導してくれることがぜひとも必要だとおもってた。米国はよろこんでそうすることにしてた。でもすべての米国人がのぞんでいたわけでない。ちがった考えの党派があり、ちがった意見があった。米国大統領や米国政府はことなる意見と一生懸命にたたかわねばならなかった。米国民を説得しなければならなかった。それが実現したのだが、米国の国益が欧州を以前の状態にもどすこと、共産主義者に抵抗し欧州をその勢力下におかさせないである。議論でこれが勝利した。
(3の2おわり)

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ケーガン、ギリシャ歴史、アテネ帝国(14)、(3の1)



* 関連年表
499 イオニアのギリシャ都市の反乱
4\\90 マラソンの戦い
480 サラミスの戦い
479 プラティアの戦い、マイカリの戦い
478-7 デリアン同盟の結成

* 敗戦でペルシアがかんがえたこと
ペルシア人たちはやるべきことがおおかった。それにギリシャにまたもどってくることもかんがえねばららなかった。大王はちっぽけなギリシャ人に敗北したといことをみとめたくない。個人な面子もあったろう。だからペルシア人は多忙だった。

* サラミスの戦いの意義、三十一の参戦
私はここで紀元前四八〇年の戦いの詳細をのべるつもりはない。一連の戦いが大ペルシア戦争をつくってる。そこの個々の戦いの意義であるが、紀元前四七九年のペルシアの敗北は、紀元前四九〇年のマラソンの敗北より、広範な影響をあたえるものだった。その一つは、ギリシャ国民への影響である。ここではおおまかな意味で国民といってるが、ギリシャには千をこえる都市国家がある。この戦いに参加したのが三十一だった。マラソンはアテネ、スパルタ、ほかだった。

紀元前四八〇年に、これだけがペルシアに抵抗すると署名した。そこにはギリシャの最重要、最大、最強規模の都市国家がふくまれてたが、全ギリシャの勝利というほどでないとおもう。マラソンはさらにそうである。次に自由の問題である。

* 自由への戦いだった
彼らがこれまでどおりの生活をつづけられるか、都市のなかで自由にくらし、彼らの生活のやりかたを発展させてゆく。独自の生活を発展させる。あるいは、そうでなく、ペルシアの支配にふくし、一つの州としてくらす。これはおおくの民族がやってることである。どちらだろうか。

イースカレス(アイスキュロス Aeschylus)があらわした最古の演劇脚本がある。そこに当時の人がペルシア人をどうかんがえたかをみることができる。

そこで中心事件はサラミスの海戦である。ここでギリシャがペルシアの艦船をやぶった。これは大ペルシア戦争でもはやペルシアがかつことはないという意味をもった。これから後の二つの決定的な戦いでペルシアを徹底的に追いやったのだが、かれの劇中人物がこういう。

おおきな声がひびく。ヘラス(Hellas)の息子たちよ。お前たちの母国の地を支配から解放せよ。子どもたちを、妻を、お前たちの父なる神々を、そして先祖の墓所を解放せよ、といってる。別のかたちで説明する。

この劇はサラミスの戦いからほぼ七年、同時代といえる出来事を取りあげたものである。これはわかるように中心テーマは自由である。そしてこの年の後に二つの決定的な戦いがおきた。

* プラティアとマイカリの戦いの意義
南部、ビオーシャ(Boeotia)のプラティア(Plataea)での戦い、ここでスパルタ、アテネをふくむギリシャの陸軍がペルシアの強力な陸軍を迎えうち、やぶった。ヘロドタスがいう。すばらしい偶然の一致がおきた。たぶん本当のことだろうが、おなじ日、小アジアの沖、マイカリ(Mycale)の戦いで勝利した。これはほとんどが海戦だった。ギリシャの艦船がペルシアの艦船をやぶった。ペルシアはただ逃走しただけだった。ギリシャはこれをおって、可能なかぎりおおくの敵をたおした。この戦いの後に重要な会合がひらかれた。

* デリアン同盟の発足へ
これは将来にわたって影響をあたえつづけたものである。小アジアの沖にある重要な島、セイモス(Samos)で キオス(Chios)、レスボス(Lesbos)、セイモスの人々があつまった。これはこれからの戦争を遂行してゆくため会合だった。彼らはアジアの非常に重要な島々である。彼らはこの会合を利用して、彼らは紀元前四八一年に結成されたペルシアに抵抗するための同盟への加入がみとめられるよう希望を表明した。彼らはこれを単純にギリシャ(Hellenes)同盟とよんでた。何故このような希望がでたのか、である。

* 三つの島の思惑
この同盟はペルシアとたたかうための同盟である。我々からみればペルシアとの戦争はおわった。ペルシアは追いだされた。またもどってくるとか、ギリシャの勝利を長期間にわたりみとめない。そんなことはないとおもう。しかしギリシャ人はこれをしらない。ペルシア帝国はまったくそこなわれてない。彼らはなおも宏大な地域を強力に支配しさかえてる。ギリシャ人にとってそのペルシアがまたやってこないとしんじないのは無理がないだろう。こんな事情がある。この三つの島の人々は、もしペルシアがやってきたら自分たちをまもる。そのための同盟にはいることを希望したのだ。

* スパルタの思惑
そこで会議が開催された。これにたいする思惑はいろいろだった。誰の参加をみとめるかどうか、問題となった時のスパルタの対応であるが、基本的に否だ。これには彼らの合理性がある。彼らは安全と安定を優先する。予測可能な将来に危険がないとおもってる。つまり、ペルシアがまたギリシャに侵攻してきた。そしてペロポネソスに覇権をもつスパルタに脅威をあたえる。その可能性をかんがえる。また国内事情から、スパルタは自国をとおくはなれることをもっともきらう。海をわたって戦場におもむくことをきらう。また恒久的に軍を外に駐留させることをきらう。これは伝統的な対応である。活動をおわらせ軍を本国にもどす。これをさまたげる責任を引きうけることをきらう。もしこの島々を同盟にいれたら、彼らのため、彼らの自由のためにたたかわねばならない。ところでアテネ人である。

* アテネの思惑
彼らは反対の見方をする。彼らは同盟に迎えいれることは極めて好意的である。これにも合理的理由がある。スパルタと状況がちがう。彼らは海上にいる。海になじんでいる。そこに彼らがいきてゆくうえで、極めて重要な供給路をもってる。彼らは外にでてゆかねばらず、海において自由が確保されてる必要がある。そのためにはペルシア人を排除する必要がある。エーゲ海、ヘルスポント、海峡など。自由な航行を確保する必要がある。

この理由だけでもこの三つの島の要求を真剣にかんがえねばならないが、さらにたとえばセイモスには親戚がいる。アテネ人はイオニア人にとっては模範とみなされる都市である。このような心情的な親近感もある。よりはっきりといえば、エーゲ海からペルシア人を排除する必要があるということである。紀元前四九九年の反乱からここまでアテネはペルシアから小アジアのギリシャ人たちが解放されることを希望してた。アテネは議論で勝利した。この三つの島の加入をみとめた。同盟がペルシアの脅威から彼らをまもる。

* スパルタ、ペロポネソスの離脱、戦いの継続
この合意の後にそこにいたスパルタ艦船の司令官、レオティキダス(Leotychidas)王は帰国した。当然、スパルタの兵たちも帰国した。私はそこにはペロポネソスの兵たちもふくまれてるとおもう。それにたいしアテネの司令官、クサンシッパス(Xanthippus)はとどまり、さらにその地にいたペルシア人との戦いを継続したとおもう。ちょっとした証拠である。

クサンシッパスの息子はペリクリース(Pericles)である。彼のことは後にもっとふかくふれる。ペルシアは逃走したがなお、ヨーロッパ側の都市のいくつかにはペルシア兵がのこってった。そこに非常に重要な都市、セストス(Sestos)がある。これはダーダネルスのヨーロッパ側にある。クサンシッパスはこれに城攻めをかけた。アテネとまだのこってたギリシャ人が参加した。すこし時間がかかったが、城攻めに成功し、ペルシア人を排除した。戦いの結果はギリシャの自由の擁護と正当性のあかしである。この勝利で彼らはこれまでやってきた生活をつづけることができる。

* アテネ海軍の増強
もう一つの重要なことがある。紀元前四八二年、アティカの南部で銀鉱山が発見された。極めて優良な品位の銀山だった。これがアテネの議会で取りあげら、銀をどうするか議論された。最初の考えは、皆んなによろこばれるもの。平等にわける。都市国家というものは資本を持ちよった企業のようなもの。だから素敵なものができると、投資家に配当する。こういう考えである。セミストクレスは別の考えだった。ペルシアの脅威が常に存在する。その戦いにそなえることが必要だ。彼は海軍力の増強が重要とかんがえた。これまでほかのギリシャ人たちがかんがえたことのないものだった。

彼は次の提案をした。アテネに艦隊をそなえる。そのため艦船をつくる。最終的に二百隻の三段櫂船(トライレム:trireme)をそなえた。これは古代ギリシャの戦艦である。サラミス、マイカリの海戦においてペルシアをまかした中核艦船だった。スパルタは陸海の二つにおいて指揮権をもった。だが彼らは海軍はすぐれてない。アテネはすぐれてた。アテネの艦隊が中核だった。それが最大のもっとも効率のよい働きをした。サラミスの海戦はアテネの内海の戦いだった。セミストクレスとそのすぐれた艦船は勝利の道をすすんだ。。最初は彼はギリシャ軍をサラミスでたたうようにしむけた。次にサラミスで勝利した。ペルシア侵攻の結果うまれたことがある。

それはそれまでなかったもの。アテネの強大な海軍力である。その威力のすばらしさが戦いで実証された。それは武力のなかのあたらしい要素、極めて決定的なものだが比較的にあたらしい要素である。海軍による戦いが重要なこともあった。だがこれはこれまでにない次元のものである。アテネはあたらしい軍事力を作りあげ、実績をあげた。もう一つの戦争の結果である。

* 汎ギリシャの意識高揚
それは ギリシャ人の自信を前例のないほどにたかめたことである。誰もが予測してなかった。それはおどろきである。このことは強調してもすぎることがない。もし大王が真剣になって、軍をおくってきたら、十万、二十万という数字になるだろう。ヘロドタスがそういっているが誇張されてるれるといわれてる。本当のところはわからないが、ギリシャを数で上まわってた。誰もがペルシアが簡単に勝利するとおもってた。ギリシャ人はペルシア戦争の勝利はギリシャ人が自分たちが他の人種よりすぐれているとの優越感をもつことを、ただしいとかんじるようになった。アテネ人も、その勝利で中心の役割をはたしたから、当然おなじようにかんじてた。これは従来なかったものである。彼らの心と頭脳のなかにあるものである。他人が注目するものである。彼らが誇りにおもって当然である。それを彼らがやったという感覚があった。私は彼らは壮大なこと、今後もつづけていってよいことをやったとかんがえたとおもう。

もうひとつの重要なことである。これは彼らがはじめてやった偉大な全ギリシャを包括する汎ギリシャ的(panhellenic)活動であった。バラバラにわかれがちな彼らのなかにはギリシャ的(Hellenes)とよぶような何かがある。そういう意識がだんだんとあきらかとなってきた。それはギリシャの人々をギリシャでない人々とちがったものとするものである。彼らがおこなう重要な体育競技大会、宗教的祭典であきらかなかたちとなっていった。

これらがギリシャ的であり、その感覚をそだてた。だが勝利がその感覚をそだてた程度はこれと比較にならないほどだった。この戦争で汎ギリシャ主義(Panhellenism)が水平線のうえに顔をだした。私はギリシャ人たちが単一のまとまった人々にかわったとか、地方主義(localism)、あるいは自らの都市をあいすることをやめたといってるのでない。だが、これらの伝統が汎ギリシャ主義とかならずしも対立するものでない。

これはローカリズムや個々のポリスを結びつける働きがある。これと比較できるものがある。第一次大戦の後のことである。戦勝国側の人々のなかには共同して世界平和をもとめようとした。さらに第二次大戦の後にもみられれた。いくらかの人々は準宗教感情をもって、偏狭な(parochialな)国益の主張をさけようとした。これが国際関係の役割をかんがえる時にあらわれた。これが機能するにはすべてのことが、まるで世界政府が存在し、それが管理してるかのように、きちんと事がはこばれねばならないことなのだが。しかし存在しないことが真実であることも人々はしってる。いずれにしても汎ギリシャ主義の考えにはよいところがある。というのは、あなたがこれからはじまる歴史において、いろいろな思想家や演説家があきらかにする意見にみとめられる考えである。国や政府がその主権や独立性、自治を制限するということは一つの考えなのである。

* ギリシャ世界の分断
もう一つの戦争の結果だが、ギリシャの世界の分断である。アテネがこの戦争のなかで強大な勢力に台頭してきた。誰もが勝利のなかでその指導的役割をみとめる。スパルタだが、誰もがみとめる公的指導者である。スパルタの王がプラティアの陸戦で指揮官であり、海戦においても彼らが指揮した。アテネは戦果をあげ実績をのこした。そこで疑問がうまれた。従来スパルタがもってた指導的役割はどうなるのか。スパルタが惟一の指導者の地位を保持するのか。アテネが台頭しこれに対抗するのか。それはすぐあきらかとなった。アテネが対抗し取ってかわろうとするのである。

これからくる五十年の主要な問題はアテネとスパルタの衝突である。私はそれを冷戦とよぶが紀元前四七九年から紀元前四六〇年頃まで、実際に戦いはなかった。両国が直接に衝突するのは紀元前四五七年である。この戦いは停止し平和が回復し、今度はペロポネソス戦争にはいっていった。これがこの世紀の最後の三分の一を支配した。これが将来の展開だが、今、ここの時点であきらかにいえること。それは体制がかわったのでその転換が必要だということである。

戦争の前は、一つだったがその後はあきらかに二つとなった。ギリシャ人はこの戦争が作りだした問題に答をださねばならない。その一つは誰が指導するか。さらに、問題がある。戦争をとおしていくつかの都市はペルシア側にはいった。これを人々はミダイザ(Medizer)とよぶ。これをどうするか。極論がある。こられの都市は完全に破壊してしまう。もう一つが過ぎたことは過ぎたことと放置するものである。この中間に答えがありそうだが、この問題も答えがでないまま問題としてのこってる。さらにである。

* 将来のペルシアの脅威、二つの考え
ペルシアは将来、脅威となるのか。もしなるのなら、いくつかの対応策をまとめた政策が必要となるのでないか。もしそうでない。ペルシア問題はなくなったとすると、我々はこれまであった正常な日常にもどれるのか。これまでの政策を修正しない。すでにのべたが、スパルタとペロポネソスの都市はペルシアの脅威はさったとかんがえがちである。アテネ人、島の人々、イオニ人たちは、否、まだまだ脅威があり、すぐにも現実化するとおもってる。ペルシャ問題はおわってない。たたかいつづけねばならないとかんがえる。

* 前のギリシャ同盟の結成
これから、あたらしいペルシアへの対応策についてのべるが、まず紀元前四八一年に逆のぼる。この年にゼクセスは進軍を開始した。ペルシャ帝国からギリシャにむかっての進軍だった。これをしってギリシャはコリンスに三十一の都市があつまった。そこで誓約し団結して、ペルシアとたたかうときめた。彼らは公式にスパルタを同盟の指導者(hegemon)と指名した。スパルタが陸においても海においても指揮する。戦いがはじまれば命令をはっする。もちろん、何をするか。どこにいってたたかうか。いつたたかうか、などの決定は三十一の同盟国からなる合議体が決定する。スパルタはこれらについて彼らの意志を制約しない。これが平等の参加者からなる同盟のやりかたである。だが実際は都市国家の力はちがう。当然、スパルタの力と他との差はあきらかである。また大規模の海軍をもつアテネの影響力もおおきい。これが実際のギリシャ同盟が機能するやりかたである。スパルタが指導者となるがこの同盟とペロポネソス同盟は別物である。相互の関係も同盟員の資格もちがう。ギリシャ同盟はペロポネソスの都市でない都市やスパルタと同盟関係にない都市もふくんでる。彼らは次の誓いをたててる。

ギリシャ人は共有する自由のためにたたかう。島々と小アジアのギリシャ人を解放するためにたたかう。恒久の組織である。
(3の1おわり)

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ケーガン、ギリシャ歴史、13アテネ帝国(3の3)



* アテネの勝利
おそらく戦いは二時間である。これはながい戦いであった。アテネはそこで食事と小休止をとり、アテネにもどるため出発した。アティカにペルシアの艦船がやってくる前につく。たぶんこんな様子だろう。ペルシアは最後の岬をまわってファラロン湾にやってきた。そこには誰もいない海岸がみえるはずだった。ところがそこにはアテネの軍が待ちうけてた。彼らは盾と槍を上にあげた、まぶしい太陽の光がペルシア兵の目をくらました。古代の軍はこの状況で上陸できない。彼らはもどって、大王にどう報告しようかとかんがえはじめた。

アテネは勝利した。犠牲である。多数のペルシアにたいしギリシャは 百九十二人だった。彼らはたたかった戦場に丁重に埋葬された。翌日、二千のスパルタがアティカにやってきた。彼らがいってたことに嘘などないことを証明した。彼らは戦いの説明をうけ、許しをえてペルシアの死者をしらべた。それまでまけたペルシアをみたギリシャ人はいなかった。アテネ人は偉大な栄光を勝ちえた。

* マラソンの戦いの意義
ではこの戦いの意義は。ギリシャ一万とペルシア一万五千の戦い、ささやかな、おろかな戦いである。数千年前の戦いの意義はなんであろうか。現代の人々はどうかんがえてるか。私は一九三九年のことを思いだす。平和主義者たちが英国で会合した。その演説者の主テーマが戦争は何を生みださない、だった。私がこれで面白いとおもったのは、この場所がヘイスティグス(Hastings)だったことである。

ギリシャの戦いのなかで、これは最初の重装歩兵による偉大な勝利とみられている。後年アテネでは海軍がずっと重要になったが、古風をよろこび保守的な集団の人々はマラソンが重要な戦いとかんがえ、重装歩兵であった農民がギリシャをすくったとみた。だが海軍の人々、貧民は紀元前四八〇年のサラミスの海戦がギリシャをすくったとかんがえたがった。それは民主主義の勝利のため、アテネの民主主義者のためにたたかわれたとみなされた。後でのべることとなるが、スパルタはそこにはいってないとおもう。彼ら自身のためと民主主義のためにたたかって勝ちとった彼ら自身の勝利が別にあるとおもう。

さて彼らははじめてペルシアを打ちまかした。ヘロドタスはいう。これまでペルシアの名前がでるだけでギリシャ人ほおそれをいだいた。アテネにとってこの勝利が甚大な国民的誇りと栄光の源泉となった。学者はこういう。アテネ人が自分たちをどんな人間かとかんがえる。その場合に重大な影響をあたえたのがマラソンの戦いである。それはスペインの無敵艦隊をエリザベスの英国艦隊が打ちやぶったことが栄光のエリザベス朝を生みだした。それとおなじ程度の影響があったという。それは自由の戦いだった。もしやぶれれば奴隷の世界がまってた。ギリシャ文明はまだ幼児期であった。それが成長することなく死滅しただろう。ところで学者のなかでは私のような評価はやりすぎという人たちがいることにふれたい。

英国の政治家、ネイヴィル・チェンバレンが戦争は無意味だ。何者をいやさず、何者も作りださないという。一九三六年、バートライド・ラッセルは軍備廃絶は完璧な平和主義であり、必然的に最良の政策であると宣言した。そして漸進的に英国の陸軍、海軍、空軍に軍縮をするようもとめた。ところがそれはヒトラーがライン地方に侵攻してきた時だった。戦争をやれば、よいか、わるいか。差がうまれるか。どうおもうか。私はそれを敗者にきけという。

犠牲者に、ホロコースト(Holocaust)の生存者に。アメリカ南部の奴隷の子孫にきけという。もしアテネがこの戦いにやぶれてたら。イースカレス(Aeschylus)は演劇の脚本をのこしたが彼はキャリアのほんのはじめにいた。ソフォクレス(Sophocles)は脚本をかかなかったろう。エウリピデス(Euripides)はもちろんも。アリストファネス(Aristophanes)もやってなかったろう。ソクラテス(Socrates)はうまれてなかった。プラトン(Plato)も。アリストートル(Aristotle)も、フィディアス(Phidius)もうまれてない。パルテノンもなかったろう。栄光にかがやく建築物のどれもがなかったろう。それは我々がギリシャを偉大とみるもの、ギリシャ人が作りあげたものである。

そしてどこにも民主主義はなかったろう。というのはここが惟一の場所、民主主義を生みみだした場所だからである。科学における革命、それはちょうど生まれかけてきたところだが、消しさられたろう。記憶にも記録にものこらなかったろう。ということは、西欧文明も政治の自由もうまれなかったろう。これらすべてが、ほかのどこにもおきなかった。この時代から後の歴史をみてもそうだった。これが私があなたたちにしっておいてほしいマラソンの戦いの意義である。というのは我々のすべて、今日の我々のすべてが、一万のマラソンの戦士たち(marathonmachoi)におおきなお陰をこうむってるのである。彼らはギリシャの自由と我々の自由のためにたたかったのである。

(3の3おわり)

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ケーガン、ギリシャ歴史、13アテネ帝国(2の3)


* アテネの二つの動き、反ペルシャ、プロペルシア
この同じ年にミルタイアディがかえってきた。ゲリポリ(Gelipoli)半島で問題を引きおこしアテネにもどってきた。この時点でのペルシアとの関係である。彼は反ペルシャである。ペルシャの王と問題を引きおこした。もしペルシアがヒピアス(Hippeis)を王位に回復すれば彼の立場は危険になる。だから反ペルシャである。次にアテネの政治状況である。ペルシアと戦争にはいることをよしとする。だがすべてがそうかんがえてるわけはない。正気の沙汰でないともいえる。ペルシアは当時、ギリシャ人がしってる世界のほとどすべてを征服した。彼らは小アジアのギリシャ人を簡単に打ちまかした。こんな相手を敵にするのか。そして彼らのような境遇になりたいか。それよりもペルシアとなんらかの妥協をはかる。私は彼らは間違いなくそのこともかんがえたとおもう。そしてヘロドタスそういってる。つまりヒピアスを専政主として受けいれペルシアの王の支配をみとめる。でなければ彼らはすべてころされる。

アテネはこの二つの集団にわかれた。プロ・ペルシアと反ペルシャである。実際の話しである。ミルタイアディは裁判にかけられた。彼はゲリポリ半島において専政主だった罪である。だが彼は無罪放免となった。これは陪審員たちがアテネの大衆の意見に影響をうけた。アテネ市民の多数がヒピアス、専政主の復活をのぞまなかった。そしてペルシアとの戦いの準備が必要とかんがえた、ということである。これももちろん、一つの仮説である。

* セミストクレスの登場
また別の興味ある出来事がある。紀元前四九三年、紀元前四三二年のことである。紀元前四九三年、セミストクレス(Themistocles)が大法官にえらばれた。彼は紀元前四八〇年のマラソンでの戦いに参加した。だが彼は海軍の偉大な将軍である。彼はアテネは従来以上におおきな海軍力をそなえるべきとかんがえた。彼はペルシアがやってくるとかんがえてる集団に参加、その集団はそれに準備し対抗すべきとかんがえてた。彼がやった一つのことは、海軍基地の移転だった。

ファラロン(Pharalon)湾、これは要塞の守りをもたないただの海岸だった。敵の攻撃に艦船はむきだしとなる。そのためアテネの艦船は砂浜に引きあげねばららなくなる。ファラロンの砂浜にあげる。このままの状況でペルシアがやってくると、こうなる。ではどうするかというと、五マイルはなれたパイリアス(Piraeus)にアテネの海軍基地をつくることだった。

そこは三つの港湾をもっことになる。もし壁でまもるなら、港湾は容易に保護することができる。要塞化したパイリアスは攻撃につよい港となる。そこから出撃するのに好都合の基地となる。セミストクレスはこのような自分の考えを後年に具体化していった。この大法官の選出はアテネの気分をしめすものであった。

* ペルシャの遠征、一回目
こうしてヒピアス受けいれ反対、ペルシア敵対の気分がたかまっていった。この頃、ペルシアの大王は報復することを決意してた。彼にさからった人々をとがめる。一番はアテネ、二番はちいさなエレットリアである。彼は強大な海軍とそれに付随する陸軍を編成した。最初、東のエーゲ海の沿岸から出発した。ヘルスポントをわたり、北の沿岸にそってすすんだ。これは彼でなく将軍、マドニアス(Mardonius)がやった。彼はスレイス、マセドンを征服していった。これはエーゲ海の北の海岸である。

紀元前四九二年、アトス山がある半島の沖で強烈な嵐がうまれた。まったく突然だった。ひどい被害を艦船にあたえた。あまりにひどかったので侵攻をあきらめざるをえなかった。ギリシャにたいする攻撃は最終、アテネにむいていた。これが紀元前四八〇年、攻撃の主目標だが、その経路とおなじだった。嵐のお陰で侵入は中止となった。ギリシャ人にとっては神の加護があったとおもってた。ペルシアが侵入の行動を実際にとったので、ギリシャ人たちはペルシアが本当にやっえてくるとおもった。では問題は何をするかである。たとえばアジャイナ(Aegina)島、彼らはアテネと非友好的。ペルシアがやってきたらアテネとともにほろぼばされるのは御免とおもってた。ペルシアに土と水をささげるつもりであった。彼らはペルシアにしたがう。

* スパルタとアテネが同盟関係へ
この時点でスパルタの王、クレイオメニズが心変わりした。彼はペルシアがやってきた場合、だまってすわってはいない。それで彼はアジャイナにいった。捕虜をとって彼らをアテネにおくった。これで両都市のあいだに良好な関係をつくった。今や両者は同盟関係にはいったのである。当面のあいだだがアテネもペロポネソス同盟にはいったということである。二人の王がスパルタにいる。二人のあいだに論爭がうまれた。デモレイダスは海外追放されクレイオメニズは非常にまずい状況になった。これはマラソンの戦いにおいて両者のあいだに不都合な関係がうまれるということである。では、ペルシアの侵入についてである。

その目的は明解である。ペルシアを侮辱した都市たちに罰をあたえる。アテネとエレットリアである。ヒピアスをアテネの専政主に復帰させ、彼がペルシアの州長官としてペルシアの支配をおこなうことである。それとともに全ギリシャを征服するための足がかりとすることである。そして何故、ギリシャを征服しようとするのか。

* ペルシアの目的は
ヘロドタスがいう。彼の親戚が彼に何故ギリシャを征服しようとするかきいたという。ギリシャにあるのは岩山ばかり、征服してなんの得があるのか。エジプトやバビロンは富裕である。多数の人々がいる。おおくの物資がある。それはすばらしい。だが、ギリシャはただ岩山があるだけ。何故征服しようとするのか。サー・エドモンド・ヒラリーの答を紹介する。

他人を支配するという考え、まず十九世紀以降はのぞく。キリスト教がやってくる以前の古代に限定してかんがえる。すると征服はよい事、つよい事、金持ちになる事、強大になる事はよい事である。もし誰かが自分の国境の向こうにいるならば彼らを征服する。そうすることによりかがやかしい栄光がえられる。だが我々、西欧人はどうか。そうかんがえることは自然なことでない。征服が栄光につながる。我々がキリスト教のどの宗派にぞくしていたとしても、そうかんがえない。そこでは山上の垂訓がある。まずしいものが地上を受けつぐ、さいわいなるかな貧しき者は。つよくない者、傲慢でない者はという。もし敵が頬をうつと、もうひとつの頬も差しだすという。もしギリシャ人がこれをきくと、この人々は狂人だ。もうかかわるなというだろ。ギリシャの道徳ではいう。友人には善良であれ。よきものをほどこせ。敵には害をあたえよ、という。次の点である。

最初とおなじぐらい重要であるが、それは我々の倫理感を校正する基盤、これが西欧の思想におおきな影響をあたえてるが、おおくの人々にとっては奇妙で狂気じみてるものである。もちろん、例外があるだろう東方の宗教はいれてない。古代の人々はけっしてこのようにかんがえない。だから隣人がいたら、彼らを征服する。これはおこりうる考えである。だから彼らはペルシアがやってくるとかんがえた。

* どれぐらがやってくるか
では、どれぐらいか。わからいないが、推定では二万から三万のあいだの歩兵、では二万五千歩兵とする。それから騎馬兵、戦いでほとんど役にたたなかったが何人かいる。これは戦場の選択に関係があった。ヘロドタスはこういう。戦いの場をマラソンにした理由に騎馬兵の存在があったといってる。騎馬兵が艦船にのってた。二人の将軍がいた。デイティ(Datis)とアルトファネス(Artaphernes)である。彼らはヒピアスを同行させてた。

* 同行したヒピアスの主張
ヒピアスは間違いなく大王に遠征をすすめてたろう。さらにマラソンを戦いの場所にすすめてたろう。これはすでにのべたがパイシスタラティスが専政主としてアテネに復活した時に上陸した場所である。そこには彼の支持者がおり、彼の武装集団がいた土地である。海外に亡命した者が常にいうが、ヒピアスも自分がやらねばならないこと、それはマラソンの砂浜に足を踏みいれること。そうすれば自分の支持者が一つになって立ちあがり自分の勢力にくわわる。ペルシアはたぶんたたかう必要がないでアテネにはいることができる。彼らは自分の帰還を大喜びし歓迎するからである。これはジェームズ王が英国にもどる時にルイ十四世にいったこととおなじだろう。

ここでマラソンの戦いの意義をかんがえるうえで重要なことがある。アテネには彼を熱狂的に受けいれようとする人々がいる。もし状況がゆるすなら、裏切りにつながる行為をする人々。民主主義を拒否しヒピアスの勢力に参加する人々がいる。この可能性が充分にあった。そしてこの可能性があることをすべての人がしってたことである。

私はペルシアの戦略にはこの裏切りを前提としていたものがあったろうとおもう。状況がうまくうごくとアテネは彼らの手におちるだろうとかんがえてたとおもう。

* 二度目の遠征
軍は出発したが、前の経路とはちがってる。沿岸の経路をとらず、エーゲ海を横断する、最短の経路をとった。島から島にうつっていった。ネクサス、これはアリスタゴラスの攻撃を撃退し大王をこまらせた島だが、彼らはこれをやぶった。次にデロス(Delos)にきた。エーゲ海の真んなかにあり、アポロとその姉妹のアルテミス(Artemis)の神聖な島である。ギリシャ人にとっては非常に神聖な場所である。ペルシアはどうしたか。彼らはデロスの人々と神官を非常な敬意をもってあつかった。なんの損害をあたえなかった。これは征服における典型的なペルシアの方法である。彼らの宗教とデロスのはちがってる。彼らはゾロアスター教である。太陽を崇拝してる。だが彼らは自分たちの宗教を押しつけない。ギリシャ人の宗教に干渉しない。彼らは旧約聖書を保持してた。彼らはヘブライを虐待しなかった。

彼らは他の侵入者がやるように、そこの宗教の慣行をやめるように強制しない。彼らはこう説明する。我々はギリシャの神々と戦争してない。さらにいえばギリシャ人とも戦争してない。我々は単純にこの二つの悪業の都市に罰をあたえるだけだ。彼らは我々を攻撃した。次にユビイアの南にあるカルキース(Chalcis)にいった。彼らはギリシャ人と戦争はしないという。だから彼らのやりかたにしたがい土と水を差しだすようにもとめた。彼らはこれを拒否したのでその都市を破壊し人々を奴隷におとした。さらに前進をつづけユビイア沿岸をすすんだ。北にあるエレットリアにきた。ここには四千人のアテネ人が定住してる。どうしたか。彼らは武器をとり立ちあがる。エレットリアの自由、アテネとエレットリアの友好のためにたたかおうとしたか。そうではない。四千人のアテネ人は母国、アティカにもどった。

* エレットリアからアテネ兵の帰還
何故か。彼らは当然の行動をしたというべきである。だがその決断はおおいなる躊躇のあとのことだろう。ヘロドタスについていう。彼は小アジア、ヘリカマサス(Helicarnassus) の出身である。彼はその歴史記述では非常にアテネに好意的だ った。また彼はアテネにすんだことがある。後年だがそこでペリクリースと友人関係にあった。彼は親切だった。小アジア出身だったがおおくの時間をアテネですごした。彼はプロ・アテネであったとおもう。さらに歴史の情報はおおくはアテネ人から入手した。ヘロドタスがいう。アテネ人は常にエレットリアのためたたかう用意はある。ところがエレットリア人はいう。それはまったく無意味だ。何故ここで命をすてるのか。ここはきみたちの都市でない。帰国したほうがよい。これをしんじるか、しんじないかは自由である。ここでたたかうことはアテネ人には災害である。もしアティカにかえると、母国に貢献できる。こうしてエレットリアからアテネ人はさった。

* マラソンの戦い、ペルシアの戦略
彼らは戦場をマラソンにした。まずエレットリアに非常にちかい。次にヘロドタスがいう。最適な場所である。長旅の疲れを回復する場所となる。すでにのべてるが、パイシスタラティスの帰還の縁がふかい土地である。軍が同行したヒピアスを専政主として復活させるのに好都合である。彼らの計画はこうである。もしアテネが戦いをいどむなら、これを崩壊させる。だが彼らはアテネはこれをおそれ戦いをいどまないとおもってた。そこでマラソンにとどまり、アテネからの知らせをまつ。革命がおこり、政権を彼らに移譲するというしらせがやってくる。それをまてばよいとおもってた。それが、すくなくともヒピアスが彼らに信じこませたかったものだったろう。もちろん、彼らはいつでもたたかう用意はできていた。だが彼らはそんな必要もないだろうとおもってた。紀元前四九〇年、八月四日、彼らはマラソンに上陸した。最近の日食の研究により正確な年月日があきらかになった。ネクサスの攻撃から艦船がアテネにやってくるとの事前情報をアテネはつかんでた。

* スパルタ救援の要請
彼らはスパルタに援軍をもとめる。ここにすばらしい話しがのこっている。ファイデピディ(Pheidippides)という偉大な走者が登場する。彼は全力で二日間を走りつづけてスパルタについた。そこで彼はペルシアがやってくる。我々をたすけてくれといった。スパルタがいう。我々は本当にたすけたいとおもってる。そうすることは我々のよろこびでもある。だがまことに不幸なことに我々は今まさに宗教行事の最中である。我々はここをはなれることができない。次の満月まではうごけない。これは八月十一日の夜になる。

それはペルシアが上陸してから一週間がたつ時期である。私はこれを態のよい言い訳とは思いたくない。最近の研究のなかにこれを口実だという皮肉な見方をする人もいる。だが彼らは宗教を非常に誠実にかんがえてた。私はこうかんがえる。アテネは次の二つのことをしった。スパルタは彼らをたすけるためやってくると約束した。しかんしそれはこれから一週間後のことである。ヘロドタスはいう。

* アテネの決断
アテネは町をでてマラソンにいった。そこで彼らはどうするか議論をした。私はこれは真相でないとおもう。議論はすでにおきてた。アテネ議会のなかで議論がかわされた。軍を派遣するか、しないか。もし派遣するなら、どれくらいの規模か。誰を司令官とするか。これらすべてが議会で議論されたろう。ある者は、アテネに立てこもる策を主張する。ではアテネの防御力はどれくらいか。もし壁がないか不十分。なら立てこもるのは不適。また立てこもることの損得。ペルシアがアティカを蹂躙することをゆるす。それを放置するのか。おそらく七十五から九十%のアテネ人は農業で都市の城外で生活してる。家屋も外にある。それらがペルシアの略奪にあう。これはあまり上策とはいえないだろう。ならばペルシアが上陸したらすみやかにその場所に軍を派遣する。彼らと対峙する。ここでミルタイアディが指導的人物とした登場した。

彼は将軍だが、かってペルシアにおり、その専門家であり軍の将軍でもっあた。これはしられてる。彼のいうことに耳をかたむけるのも当然である。彼は実績と能力のある人物である。それはマラソンの戦いであきらかとなった。これで彼はおおくいる将軍の一人にすぎなかったが事実上の司令官とみとめられた。彼の意見であるが、彼は都市をでてマラソンでペルシアを迎えうつと主張した。さらに彼らに余裕の時間をあたええスパルタがルシアと対峙することゆるしたくない。だが、それ以上の恐れがある。もし我々がとどまりペルシアのしたい放題をゆるす。この時間がながくなればなるほど、内部に裏切りの可能性がでてくる。それに内にとどまるのはギリシャの戦士の倫理観にまったくはんする。敵が略奪をほしいままにしてるのにそれを放置すること。これは重装歩兵にとっては特に痛切にひびくことである。それはアレテ(arete)というホーマーにみられる考えである。人は勇気をみせねばならない。敵が侵入してきたら立ちむかう勇気をもたねばならない。重装歩兵は外にでて敵を迎えうつ。彼らはでていった。彼らの戦略は城外にでて敵が上陸した場所で対峙し、そこから侵入することをゆるさない、ということである。

* ペルシアの上陸
彼らはマラソンに上陸した。歩兵は二万五千人、彼らは重装歩兵でない。この当時の姿をしめす資料があるがズボンをはき防備の装甲をしてない。盾は柳の木からつくったものである。装甲は重装歩兵とくらべてはるかにおとってた。さらにいうが、兵士はおおくの地方から召集された。ペルシア人でない民族もふくまれてた。ギリシャにくらべ統一性が不足してた。ミルタイアディの作戦は次のとおり。

* ミルタイアディの作戦
ほぼ一万人のギリシャ兵。うち九千人がアテネ人。千人がエレットリア人。これにたいするのは二万五千のペルシア。地図でみる。右が海で左が陸。上陸した海岸ちかくに沼沢が上部にひろがってる。ここの下部に左から川が流れこんでる。この川は蛇行しながら沼沢にそそぐ。この流れの下部に原がひろがる。ここの平原で戦いがあった。沼沢に流れこむところからやや上流に逆のぼるところ。その流れの下部にちいさな塚がある。ここにギリシャの戦死者が埋葬されてる。ここが戦いの中心とかんがえられてる。つまりここでマラソンの戦いがあった。

ギリシャは高地に陣をかまえ、ペルシアは低地に陣をかまえた。ギリシャの考えはこの状況をできるだけながくたもつ。もしペルシアが攻撃にうつろうとすると彼らは高地にむけ走りのぼる。これはのぞましくない。ギリシャ側は彼らにそうさせたい。自分からはうごきたくない。他方のペルシアである。裏切りがおきるのをまつ。一週間がすぎた。両方が互いをみつめ何もしなかった。ギリシャは相手にボールをわたし、それで相手が失敗するのをまった。これがミルタイアディの考えだったのだろう。

* ペルシア軍の作戦
そしてついにペルシアは水や食糧がなくなる。いつまでもまってはいられないと気づいた。もう一つの理由、大王が何をしてるのか、ききたがり、膠着状況にさわぎだした。ペルシアはこうかんがえたと私はおもう。一万の兵と騎馬兵を艦船にのせアティカを迂回してファラロン(Phaleron)湾におくる。そして残り、一万五千でアテネをそこにクギづけにする。アテネ城内には防護する兵がいない。それをしるとアテネはくるったようにペルシアにむかう。ペルシアはここでも多数の有利をたもってる。何も心配する必要がない。それでやったきた。

* 両軍の衝突
その日の指揮官はミルタイアディであった。彼は相手兵力が五千上まわってることをしってた。そこで両翼から圧倒されることを心配した。それで隊列の厚味をへらし、相手の戦列の長さに対抗することにした。これではペルシアが隊列を突破するおそれがある。それでも彼は両翼をあつくし、中央をうすくすることにした。彼は両翼でペルシアを圧倒し、それから中央に殺到することにより勝利することをねらった。そしてそれがまさしくおきたことである。ぎりぎりの状況にたえて、まさしく狙いどおりのことがおきた。ペルシアは中央を突破するのに成功した。だが両翼から殺到したアテネにより、彼らは逃走をはじめた。彼らは背後にあった沼沢にむけてはしった。その逃走は困難だった。多数がころされた。ついに戦いは終結した。

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ケーガン、ギリシャ歴史、13アテネ帝国(1の3)



* はじめに
エール大学ケーガン教授の古代ギリシャの歴史をあつかう。ミノア文明、マイシニア文明、暗黒時代をへてスパルタ、アテネの興隆、ペルシア戦争、ペロポネソス戦争、マセドンによるギリシャの統合まで、二十をこえる連作を紹介する。ここではペルシアの興隆から、世界帝国の形成、小アジアへの進出、沿岸にあるギリシャの都市の反乱、アテネの援助、ペルシアとのマラソンの戦いをのべる。

* ペルシア帝国の興隆
最初にペルシアの興隆についてはなす。用語の解説だが、彼らはミーズ(Medes)とよば人々にちかい。彼らはギリシャ人のちかくで生活してた。彼らはアーリアン(Aryan)人にふくまれる。またこれについて用語だがこれは十九世紀から二十世紀に人種をしめすものとして乱用された。ところがこれはインド・ヨーロッパ語族のなかの言語の集まりである。それはともかくギリシャ人はペルシア人とミーズを区別できない。

それはどちらでもよいが、彼ら、ミーズが主導し部族社会からはじめて国民的な王国をイランの高原につくった。彼らはここに最終的に定住した。ペルシア人たちは彼らたおし、その支配を確立させた。

* サイラス大王
その集団からサイラス(Cyrus)がうまれ大王となった。たぶん紀元前五五九年である。彼が偉大な征服者とみとめられそうよばれた。彼は最初にイランで彼の部族の武力をもってペルシアの支配を確立、拡大し、ペルシャ帝国とよばれるものとした。たぶん紀元前五五九年に大王となった。その驚異的ひろがりはこうである。紀元前五五〇年メディア(Medea)王国を征服、次にティグリス・ユーフラテスの峡谷におけるもっとも有力な勢力であるバビロニア(Babylonia)王国、今のイラクであるがこれを征服、小アジアの西部をしめるリディア(Lydia)王国。ただしこれはギリシャが占領したエーゲ海沿岸部をのぞくもの。

サイラスは紀元前五五九年に王となったが、それをアケメナス王朝(Achaemenid Dynasty)とよぶが、彼はおなじ種族のミーズを紀元前五五〇年に征服した。そしてすぐさまバビロニアを征服し、アルメニアを征服し、シリアを征服し、小アジアの王国、カッパドキア(Cappadocia)を征服し、前例のないほどの拡大をおこなった。リディアのことである。

* リディアへの攻撃
その創設は紀元前七世紀にさかのぼるが、この頃はクロイソス(Croesus)王だった。ヘロドタスが彼のペルシャ攻撃決断の逸話をのこしている。その頃、ペルシアは国境にまでせまってた。アポロをまつるデルファイにいってその神託者に相談する。その予言は難解なことが特徴だった。彼がきく。もしハリス(Halys)川をわたったらどうなるか。すると神託者がいう。偉大な帝国がほろびる。彼はもちろん、それはペルシャ帝国とおもってた。実際はペルシャ帝国が彼の帝国をほろぼした。これは、ただしい質問をしても、その答のただしい内容がわかるまでは、大喜びしてはならないことをおしえてくれる。

クロイソスは紀元前五四七年に攻撃し、首都が翌年にペルシアの手におちた。沿岸にあるギリシャの都市だが紀元前五四六年から紀元前五三九年までに支配下においた。紀元前五三九年はペルシアにとって重要な年である。その時に都市、バビロンを征服した。これですべてのメソポタミアを支配下においた。ペルシャ帝国のおおきな拡大だった。サイラスの後継であるケンバイシス(Canbyses)は紀元前五三〇年と紀元前五二二年のあいだに、おどろくべきことにエジプト王国を征服した。おそらく最古といえる王国で誰もがうらやむ富をもち、強大な帝国であった。紀元前五二二年にはケンバイシスがしんだ。

* 北方への拡大
西はエーゲ海、地中海、から東は現代のパキスタンであるインダス川までである。南はナイル川の南端、スーダンから、北にのぼると、欧州側の沿岸、ヘルスポント、欧州側のエーゲ海沿岸、ダニューブ川にまでひろがる。ケンバイシスはダニューブをこえ侵入していった。そこには国民的統合をもつ王国はなかった。多種類の民族がすみ、ギリシャ人は彼らをシシアンズ(Scythians)とよんでた。彼らをどんどんとロシアにまで追いやる。そこはコーカサス山脈の奥地だった。彼らは馬にのる人々、部族である。まだ農業でなく牧畜を生業としてた。

* ミルタイアディの登場
遠征はつづいたが、ここでマセドン(Macedon)のことをはなす。ペルシアの軍に一人の将軍がいた。ミルタイアディ(Miltiades)という。彼はもともとアテネの人である。だが彼の家族は海外追放にあい、専制政治の時代、スレイスの東沿岸、ゲリポリ(Gellipoli)半島におくられここを統治した。彼がここでくらしていた時にペルシアがやってきた。彼はペルシアにしたがい、ペルシアの軍の将軍となった。ダニューブ川にかかる橋の警備をめいじられた。王はシシアンズをおって遠征したのだが、彼らをまかすことはできなかった。彼らはこんな戦法で対抗した。騎馬にのって距離をたもつ。直接の衝突をさける。とおくから投石で損害をあたえる。そして逃走する。もし直接衝突するならばペルシアが勝利してたろう。王は長期間、遠征してた。ミルタイアディは、彼はもどってこない。ではこの橋をこわす。これで自分たちは自由になれる。こうかんがえた。実際はちがう。王はもどってきた。シシアンズ遠征は成功しなかったが、もどってきた。ミルタイアディは罰をおそれそこから逃亡した。最後に彼はアテネにもどった。彼については後にのべる。

これが紀元前五世紀の頃の状況である。ペルシアは小アジアのギリシャの都市をうばい支配下においていた。その支配はどことも同じ臣従関係だった。敗北し臣従する都市は王に土と水を差しだす。これが完全な臣従をみとめたことの象徴である。ペルシアの王にたいしては完全な臣従以外の関係は存在しなかった。ギリシャ人はそれは奴隷の一つとしてみた。実際の支配だが、ペルシアはけっして苛酷な支配者でなかった。彼らは人々に納税をもとめた。誰もがきらうが、彼らの経済をそこなうほどのものでなかった。次に軍役である。王の指揮命令にしたがい、軍役に参加する。これにしたがえば、彼らはそれ以上の要求はしない。ギリシャ人の都市に王は長官、支配者を派遣する。セットラプ(setrap)という。彼が完全に支配する。だがそれは特に苛酷なものでなかった。

* 反乱までのギリシャ、アテネの状況
イオニアのギリシャ都市の反乱をおこす時、ペルシアとギリシャに関係する状況であった。反乱までのギリシャの状況についてみるアテネである。クライストニ(Cleisthenes)革命がおきていた。これは重装歩兵による民主主義だった。これはすでにのべたが、非常にあたらしい、それだけ不安定なものだった。彼らには恐怖があった。内部に敵といえる反対勢力がいた。貴族にぞくする人々の友人である。貴族たちは政治の戦いにやぶれ逃亡してた。また何人かは専政主の友人や親戚である。あたらしい体制にたいする忠誠心はかならずしもあきらかでない。これが一つ目の恐れだが二つ目は、スパルタだった。

彼らは貴族などの友人の追放をみとめてなかった。友人たちはやがて軍をしたがえてにかえってくる。そして貴族政治の復活をはかる。

* アテネがペルシアに同盟をもとめる
三つ目の不安はアテネの隣人たちだった。アテネはいつも喧嘩をしてた。法的な問題で有利になろうとあらそい、攻撃にうつる。これらのことからアテネは非常に不安定な場所だった。ヘロドタスはこういう。このような状況でアテネは助けをえようとした。それで代表団をペルシアにおくった。彼らに同盟関係の構築をもとめた。こうして彼らの問題を緩和しようとした。ペルシアの王がみとめる関係はただ一つ。臣従関係である。そこで彼らに土と水を差しだすようもとめた。そうすれば友人となることができるといった。代表団はこれを了解し、アテネにもどった。アテネの人々は激怒した。

彼らは代表団に罰をあたえた。こうして両者の関係の構築は立ちぎえとなった。彼らがおそれていたことがおきた。スパルタがアティカ(Attica)に侵入した。アテネに恨みをだいてる他の都市がこれに参加した。ビオーシャ(Boeotia)、彼らはシーブス(Thebes)に引きいられてた。カルキース(Chalcis)これはアティカの東にあるユビーア(Euboea)の都市。イスミス(Isthmus)にあるコリンス(Corinth)。彼らがすべてアテネに攻撃を仕かける。ところがここでコリンスが別行動をとった。彼らはどんなかたちにせよアテネに専政主の復活をこのまなかった。というのは、それほど昔でない頃に自国内で専政政治を排除してた。彼らはこの動きへの参加をことわった。これが内部分裂の一つだったが、さらにスパルタである。

* 二人のスパルタ王の対立
二人のスパルタの王のあいだに論爭が発生した。クレイオメニズ(Cleomenes)は従来からアテネの貴族政治家と友人関係にあり、彼らの政治がもどることをのぞんでる。デモレイティス(Demoratis)はどんな理由であれ、外国への干渉をのぞまなかった。だが、彼は議論にまけ有罪となり、海外逃亡した。次に彼を見かけるのはペルシャ帝国である。彼は側近の助言者として王につかえる。こんな事情でスパルタの侵入はなくなった。

* アテネとシーブスなどとの争い
だがアテネは他の隣国を相手にする。シーブスに引きいられるビオーシャ、それからカルキース。アテネは彼らを敗北させた。ユビイアのカルキースでは、アテネがその領土の一部をうばった。四千人のアテネ人が入植した。これは従来の入植でない。彼らは定住するが、市民権はなおアテネにある。アテネの守備隊の役割をはたす。ビオーシャの状況もおなじである。これはローマの植民地の考えかたとよくにてる。他のイタリアの都市を征服し、そこに年長の兵をおく。そこの土地をえて定住し、守備隊の役割をはたし、現地の状況に問題がないかを監視する。

* アテネの強さの秘密
ヘロドタスは自由の意義について論じてる。アテネ人が自由をえる前、他の都市の住民とくらべ戦争が特につよかったわけでない。ところが専制政治の桎梏から解放され、クライストニ体制にはいったら彼らは反対者のすべてをたおすことができるようになったという。これはヘロドタスの偏見かもしれない。だがヘロドタスの歴史をつうじて一つのことがわかる。それはギリシャ人には自由に憧れ、自由の偉大さをよろこび、彼らの中心に自由がある。これがギリシャの歴史をかたる時にみてとれるとおもう。ところで彼は自由を賞賛するだけでなく、アテネにおいては発言の平等性もまた賞賛する。クライストニの体制において発言の平等性が民主主義という体制をより特徴づけるものである。すべての市民は自由に平等に議会で大衆にうったえることができるということである。これは誰もが政治において能動的役割をいっそうはたすことができるということである。また彼はこう賞賛する。自治、これはたんに外部から支配されないだけでない。自分たちの都市の内部からすべての人々のための政治を作りあげる。彼はこれをアテネ人が戦争でつよくなった理由にいれてる。さてあたらしい同盟関係がうまれた。

* あたらしい同盟関係でのアテネ
だがアテネへの敵意もうまれる。アジャイナ(Aegina)島である。これはソロニック湾(Soronic)にある。ちょうどアテネの沿岸のむかいである。両者は百年ほどもいろいろな問題であらそってきてる。アジャイナ人ははスパルタとくんだ。はっきりとこのアテネの体制をたおそうとしてきた。民主政治をかえ専政主、ヒピアス(Hippeis)をもどそうとした。彼は今はペルシアに亡命中、ペルシアの大王の保護をうけてた。アジャイナの動きはペルシアを巻きこむこととなった。だがここでもコリンスはそうはおもっていない。専政主に反感をもっている。こうして状況がさらにわるくなったのでアテネは第二回目の代表団をペルシアにおくった。今度はペルシアの王ははっきりと民主政治をたおし、ヒピアスを専政主にもどすことを要求した。これはアテネと小アジアのギリシャの都市を征服しペルシアの領土する。ヒピアスがそれを支配する州長官にするということ。ペルシアが征服領土を支配する通常のやりかただった。こんな状況にある時にイオニアの反乱がおきた。

* イオニアの反乱
紀元前四九九年である。マイリーダス(Miletus)、これは沿岸の主要都市である。ここは最初に準科学、あるいは合理主義がうまれたところと説明した。これは神話に根ざした従来のギリシャの考えかたを修正するものだった。神学(theology)について純粋な理性で説明しようとする。ここの哲学者が宗教をもってないというのでない。彼らは宗教を脇において、世界を観察と理性で説明する。ここは哲学発祥の地であり、自然科学の発祥の地でもある。この両者はこれからながく融合し分離せずにすすんでゆく。これが反乱がおきた都市の状況だった。これら哲学者とはまったく関係ないが、ここにはアリスタゴラスという専政主がいた。彼と大王とのあいだに問題がうまれた。

* アリスタゴラスの侵入
その事情である。彼は大王に外征をすすめた。彼はネクサス(Nexus)の攻撃を仕かけようとしてた。これはエーゲ海にあった島である。彼がいう。ネクサスはすばらしく富裕な島である。彼らは侵攻を予想してない。もし艦船をおくるなら、自分はただちに島をうばってみせる。こうなれば大王は領土を拡大し、彼自身ももまた利益をえる。それは財政上からも名誉の上からもである。ところが、情報がもれてた。ネクサスは準備をととのえてた。彼は戦いにやぶれ、大王の不興をかった。彼は自分は極めて不都合な状況にあることを自覚した。

* アリスタゴラスが反乱をすすめ、助けをもとめる
彼はここで小アジア沿岸の都市はペルシアからの自由を獲得すべき時だと決意した。彼は説得力にとむ雄弁家であった。都市をまわって説得した。ほとんどが反乱に賛成してくれた。これは彼らが現状の臣従に不満 をもってることをしめす。そうして彼らはかって大王と共同した専政主とともに反乱する。これは興味深い。彼らはこれから民主主義を設立する。以前には民主主義がなかった。それを経験したことがない。だがアテネがそれをつくった。私はアテネがよい実例を提供してくれた。彼らはここからおおくをまなんだ。この可能性がたかいと私はおもう。というのは前にもいったがアテネはマイリーダスや他のイオニアの都市とおなじにイオニアの都市ともいえる。彼らからみるとアテネは彼らを引っぱる都市とみなしてる。だから私はアテネを自分たちのモデルとした。そうおもう。

だがアリスタゴラスはこれからおそるべき強大な敵と対決しなければならないとしってた。ペルシア軍である。彼はたよるべき地のギリシャにもどった。助けをもとめる。ギリシャがもつ軍事力をもとめて、当然だがスパルタにいった。ここでもヘロドタスは興味深い話しをのこしてる。

* スパルタ王がきいた
彼はクレイオメニズの王のところにいった。彼は何をしようとしてるかをはなした。ペルシアの豊かさ。もし反乱が成功するならばそこにある財宝をペルシアの大王かうばうことができる。クレイオメニズにとってもわるくないだろう。クレイオメニズはきいた。ペルシアの首都までの距離は。それは小アジアの沿岸にある貴殿の都市からペルシアの首都までどれぐらいか。アリスタゴラスはなかなか頭がよい。彼はまってましたとばかり、ギリシャの歴史上最初の例となる地図を引っぱりだした。おそらく巻きもどして、みせたのだろう。

ここがマイリーダス、それからここが王がつくった道、これをとりスーサについて、これがペルシアの首都である。王がきく。どれくらいか。そこから行軍してどれくらい。三ヶ月といった。王はくらくなる前にこの町をでていきなさいといった。スパルタにとって海をわたって沿岸から三ヶ月も行軍するという考えはおこりえない。国内にいるヘロットが反乱をおこすだろう。これにたいしアリスタゴラスはこたえて、それほどわることでない。道は整備されてる。またここに銀をもってるが、それを貴下に差しあげることができる。かんがえなおしていただけまいか。彼は銀をさらにふやして王を金で籠絡しようとした。そこでそばにいた彼の娘、ゴーゴ(Gorgo)が父王にいった。彼をすぐでてゆかせて、彼はあなたを腐敗させる。彼女は常に王のそばにひかえてた。クレイオメニズはこの助言をいれてアリスタゴラスを追いやった。スパルタの支持、反乱への支持をもとめる努力は不成功におわった。

* アテネへの説得
ではアテネにいこう。そちらのほうが見込があるといった。アテネはイオニアの都市である。スパルタはドリアンの都市であるのとちがう。次にアテネはもっとペルシアにちかい。エーゲ海の沿岸に位置し、拡大をはかるペルシアの脅威をかんじてる。このような事情もあり私はアテネがすでにアリスタゴラスや小アジアの反乱をおこそうとする都市と接触があったとおもう。それは民主主義という考えが関係してるとおうもう。この真偽はともかく、アテネの議会は艦船をおくり、それに兵員をつけることをきめた。それによりマイリーダスと反乱をおこす都市をたすけた。これにつきヘロドタスがするどい指摘をしてる。

これは一人の人より多数の人をだますことのほうが簡単だということをしめしてる。彼らはアリスタゴラスにだまされた。ところがクレイオメニズはそうでなかった。彼の計算によればアテネ人は三万人という。それはともかくアテネは二十隻の艦船をおくった。学者のなかにはこの数字に疑問をもつ者がいる。だが後年には四百隻の艦船をもってた。これから発展しようとする初期の数字である。私は彼らが最大五十隻もってたとおもう。だからこの数字はけっしてちいさなものでない。何故、この行動をとったか。

* アテネの決断の理由
私はイオニアを心配した。そこにいる親戚を心配したからとおもう。またペルシアとの接触をつうじて彼らは友好的でなかった。大王は完全な臣従をもとめてたからである。もう一つの事情。それはギリシャは東方と貿易をしてる。これはソロンの頃からである。小アジアのヘルスポント(Hellespont)、マーマラ(Marmara)海、ボスポラス(Bosporus)、それから黒海につづく海域。ここでペルシアと国境をせっしてる。ここでもしペルシアが非友好的となり、行動をおこしたら、ギリシャ人が必要としてる物資にわるい影響をあたえる。穀物、魚である。このような事情がスパルタがやらないのに、アテネがやる。非常に危険な行動をとった事情とおもう。ヘロドタスはこの時を次のようにいう。

これらの艦船はギリシャと野蛮人にとって邪悪な訪れのはじまりだった。私にいわせれば、これがペルシア戦争である。これば私のテーマである。理論的にいえばイオニアの反乱はアテネにかかわりのない出来事だった。もしアテネがたすけなければ、ペルシアと対決はなかったろう。ヘロドタスはいう。アテネがイオニアとそこの親戚をたすけると決心したから、これはアテネにとってペルシア戦争のはじまりとなった。

* アテネの侵攻
アテネの艦船はマイリーダスについた。上陸し兵はすみやかに行軍した。リディア州の首都、サルディス(Sardis)についた。これはペルシアの州である。むかってきた軍をたおし、放火した。これでサルディスの都市に実害をあたえた。この時、エレットリア(Eretria)、ユビイアの北部の都市であるが、この艦船が小数だがくわわってる。これはカルキースと常に敵対してきた都市である。これがくわわってる。アテネがカルキースをやぶったという事情があるからである。二十隻の艦船はペルシアの都市に実害をあたえた。ペルシアはこれでイオニアの都市に遠征し全面的な攻撃を仕かける。反乱をおさえ、もとの支配を回復しようとする。だがこれは時間のかかることだった。

* ペルシアの反撃
これは紀元前四九九年にはじまり紀元前四九四年までつづいた。ペルシアは、これらの都市に城攻めをかけ、一つ一つうばっていた。さらに海からの攻撃もした。これはギリシャにとり致命的だった。陸はすでに包囲され、対抗できなくなった。降服を余儀なくされた。紀元前四九四年、ペルシアの艦船がやってきた。ペルシアは陸戦をこのむ。自分たちの海軍をもってない。だが彼らにその支配下にフェニキア海軍がいた。彼らは東地中海においてもっともはやくから活躍した海の民族である。さらにエジプトである。彼らも海軍をもってた。つまりフェニキア、エジプトからの船団、さらにイオニアでペルシアの支配にふくしてた船団があった。数で彼らが優位にあり、戦闘力にすぐれた船員をもってた。最終的にマイリーダスの沖、ラデ(Lade)の戦いでペルシアはギリシャの艦船をほろばした。反乱の人々をたおした。ここから彼らは全面的な報復に取りかかった。マイリーダスを徹底的にやいた。ペルシアはこうしてイオニアの反乱をおさえ彼らにとり栄光の終末を完成させた。では次に何がくるか。
* ペルシアによるアテネの報復
アテネに混乱がおきた。ペルシアの報復の恐れだった。混乱するだけの理由がある。大国はというものは小国に馬鹿にされることを看過することができない。罰をあたえねばならない。そうすることで将来おなじようなことがおきないようにする。アテネは当然、攻撃や侵略をおそれねばならない。それが次の出来事でわかる。これの意味するところをどうよむか困難であるが、こんな事件である。

* 反ペルシャの動き
紀元前四九四年、ラデの戦いががおきる前、紀元前四九六年から四百九十五のこと。だった。この年に大法官に選出されたのがヒッパルカス(Hipparchus)である。彼はカマス(Kamas)の息子、パイシスタラティス(Peisistratids)の親戚であり、伝承によれば最初に陶片追放の対象になった人物であるという。どうしてこのことがおきたのか。ペルシアはアテネの攻撃を計画し彼の親戚である専政主、ヒピアス(Hippeis)の復活をねらってた。どうしてアテネ人はヒッパルカスを選出したのか。惟一の解釈は次のとおりと私はおもう。すでに陶片追放の法についてのおとぎ話はのべた。クライストニス(Cleisthenes)がヒッパルカスにもしクライストニスの政府にくわわるのなら、おおくの問題を解決することができるといった。こんな話しをしたが、私はヒッパルカスがそのとおりした。彼が大法官にえらばれたことが、このことしめしてるとおもう。これはまだクライストニスの体制がつづいてたということである。これは仮説であることをみとめるが、そうおもう。

このことに関係する次の話しがある。紀元前四九六年から紀元前四九三年、アテネでおきたもの。アテネの悲劇作家、フレニカス(Phrynicus)が劇を上演した。内容がペルシアによるマイリーダスの陥落と破壊である。この劇は現在につたわってないが、その筋はヘロドタスがつたえてくれた。劇は極めて感動的であるので、アテネ人を非常にかなしませ、みじめな気持にさせる。それで上演が制限された。罰金の重罰がかされた。これはどういう意味か。フレニカスはこれを上演すればアテネ人をかなしませることを充分に承知してた。また非常な怒りももたらすこともしってた。私は彼がこの上演によりペルシアにたいする怒りをかきたてようとしたとおもう。これによりペルシアにたいする備えをととのえ、より積極的に立ちむかうように仕むけたのだとおもう。これもまた仮説ではある。

(1の3おわり)

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