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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(15、3の3)


* 対象の限定
アテネ人は投票の権利を制限した。公職につくこと、陪審員になる権利を成人、男子である市民に制限した。奴隷、居住する外国人、女性、男子で二十歳以下にはあたえなかった。現代の評論家はペリクリース時代の民主主義を批判する。ペリクリース時代の民主主義に疑問をていする。彼らは奴隷が存在し、女性の権利を制限してるという。このような権利の排除だが、文明がはじまった紀元前三〇〇〇年頃から他の文明にも同様にあったものでありアテネが特例でない。これは最近までつづいた。この批判のような近視眼的視点があることは興味をひくものでも、おどろくべきことでもない。

アテネ人がやった排除より重要なことがある。例をみないほどの大規模な人々をふくめたことと、その人々の参加の意義の重大さと、参加がもたらす成果の偉大さである。ここで有用なこととして指摘しておく。それは米国のジャクソン民主主義とよばれるものであるが、その最盛期には奴隷制度と共存した。二十世紀にいたるまで女性の選挙参加への権利は否定されてた。また年齢にかんしては、なおも制限がつづいてる。

おおくを排除してるとしてペリクリースの民主主義を否定することは、偏狭な価値観と時代錯誤の立場にとらわれてる。それは思いもよらぬ不幸な結果を産みだす。すくなくとも現代のギリシャ人は誰もアテネの民主主義を否定してない。ならば後にのこるのはそれがよいか、わるいかだろうが、現代の我々がかんがえることではない。ちがった立場からみてみよう。米国や英国が民主主義だというのをきいて、当時のアテネ人はおどろくだろう。

* 現代とちがう民主主義
彼らにとっては、民主主義の中核には、直接で完全な主権(sovereingty)がある。それは市民の過半数が代表するものである。とおれおが現代の特徴をみると、政府はその代表がおこなうこと。それの点検と均衡。権力の分離。重要な職の任命、選挙でえらばれない官僚組織、裁判官の終身任期。一年以上の任期をもった役職の規定。これらはすべてあきらかに合理的精神をもった市民が民主主義と理解するところに敵対するものである。古代と現代の考えかたに違いがある、その理解にはアテネの民主主義がどのように機能したかを簡単に検証することが必要となる。それはもし我々が偏見をすて世界の歴史でまったくまれな政府のありかたの特徴を把握しようとするなら、必要になってくるとおもう。そしてアテネの自治がおわった後に、どのようなかたちでも存在したことはないだろう。

* テネの行政、立法、司法
では時代を無視した分類だが、政府の機能は三つの機能、立法、行政、司法にわかれ、これをもとにかんがえてみたい。アテネの民主主義で立法とよぶものは議会、エクレシア(ecclesia)とよぶものだろう。これはペリクリースの時代においてはアテネの成人男子が参加するものである。これは四万から五万人のおおきさである。彼らのおおくは都市からはなれてすんでる。ほとんどは馬をもたない。だから議会出席には長時間の徒歩が必要となる。だから、実際の出席は五千から六千人だったろう。

* 議会の定足数、場所
ある活動についての定足数がさだめれれてる。それにはすくなくとも六千人の投票者が必要となる。これはそれ以上かもしれないが、そう以下であったかもしれない。会議はピニックス(Pnyx)とよばれる丘のうえでひらかれる。アクロポリスからそうとおくないところで、市場(アゴラ、agora)を見おろすところにある。市民は傾斜のつよい丘の土のうえにすわる。発言者はひくい場所にある舞台のうえにたつ。その声がきこえるようにするのは困難である。ここは戸外で、拡声器などない。紀元前四世紀の偉大な演説者、たとえばデモステネス(Demosthenes)は波がくだける音がひびく海岸において演説の練習をする。その練習をつうじてピニックスで声が充分にきこえるようきたえたという。おおきな声はアテネの政治家には貴重な資産だった。

* 議会開会の様子
議会開会の様子を今にのこってるアリストファネス(Aristophanes)の喜劇から想像することができる。紀元前四二五年にえんじられ題名はアカニアンズ(Achanias)である。そこに典型的な彼の喜劇の主人公が登場する。田舎からでてきた古風な老農夫が戦争に文句をつける。彼はそのため田舎の農場からアテネにまでやってこなければいけなかったからである。年齢は六十歳である。

* 喜劇がおしえるもの
一文を引用するが、その日は議会がひらかれる日である。彼はピニックスの土のうえにすわってる。まだ誰もきてない。彼がいう。

「もう議会が開会する日がはじまってる。誰もこの丘にきてない。あいつらはまだ市場(いちば)でお喋りをしてる。あかい液につけた縄をもってウロウロしてる」

アテネ人はいつも都市のセンターや市場からでてこない。おくれるとされてる。そのため役人がいて、彼らはお喋りに夢中になってる人々を追いだすため、あかい染物の液体につけた縄をもって彼らを追いだす。そして市場には誰もいなくなる。彼らはあかい液がつくのをいやがる。縄が近づくとにげる。それで彼らを追いだし、誰もいなくなるわけである。彼がいう。

「議会の議長もまだきてない」

そして議長があらわれ、やってきた。彼らは前列の席をあらそって大騒ぎをする。誰もしずかにと注意する者がいない。

「なんて奴等だ。いつも私が一番最初にここにくる。 席をとる。私は一人だから、うめく。あくび、足をのばし、屁をする。何をしようか。書きものか。髮を櫛でなでる。家計簿をつけるか。私の農場のほうをみるか」

「平和が一番。町はいやだ。村にかえりたい。ここで炭をかう、油も、名前がわからないがただのも。それでここにきた。思い切りさけぶ用意ができてる。発言の邪魔をする。もし平和以外のことをいったら、発言者に悪口をいう。でも、もう昼だ。議長、どうする。」

誰もが前列の席にやってくる。議会の役人がやってきていう。

「ここは駄目、さだめられた場所に」

そして議会の開会を声たからかに宣言する。次にいうのは簡単なものである。

「発言をもとめる者は誰か」

誰かが手をあげる。そして会議はすすむ。では喜劇の話しはおわり。ピニックスでの実際の会議はこんな喜劇でない。彼らは深刻な問題をあつかう。さだめられた会合がある。一年を十にわけた会期がある。必要なら特別な会合ももつ。

* 会議の詳細
その議題である。条約の承認また不承認。戦争の宣言。ある作戦への将軍の任命。派遣する軍の決定、それにあたえられる兵員、装備の決定。ある役職につく人物の承認、それの罷免。陶片追放をするかどうかの決定。宗教にかんする問題。遺産の問題。議会に持ちだされるもの、なんでもである

* 直接民主主義の姿
現代の代表制民主主義の市民にとって、このような大都市の会合のやりかたはおどろくことばかりである。そこで議論してる出席者たちの生死やその都市全体にかかわる外交政策の問題を直接にあつかってるのである。古代と現代の民主主義の違いをみるのに非常時の対応をみてみよう。

* 非常時の問題での対応
たとえば米国大使館が奪取されたとしよう。その最初の情報は複雑で巨大な組織である情報機関のある部署に秘密情報としてやってくる。それはもしかしたら政府がしる前にCNNの報道としてあらわれるかもしれないが、それは極秘情報である。ホワイトハウス、国務省、国防省のかぎられた一部の人たちにのみしらされる。

その政策も国家機密の保護から秘密としてあつかわれる。少数の集団のなかで議論され、最後に決定は一人の人物、すなわち米国大統領によりなされる。もし秘密がもれなければ、決断が公表された時にはじめて人々にしらされる。この例は典型例となってるキューバ・ミサイル危機である。そこでは秘密がまもられた。

新聞も近年は国の安全保障のために秘密をまもる。そのようなふるいやりかたで何がおきるか。関係部所で問題は一週間ほどころがされる。大統領がテレビにあらわれ、現状にどのような脅威があるかを説明し、どうしようとしてるかを説明する。もはや議論するにはおそすぎる。だがこれが我々の政治でおこなわれてることである。ペリクリースの時代には戦争か平和の問題がアテネにおいてもあった。そのたびに議会がひらかれ市民のまえで議論された。そして単純多数の投票により決議がなされた。これが厳密におこなわれたのか、このような重要な問題においてアテネ市民が完全で最終的な決定権を行使した。そんなやりかたをすることになってたという以上のたしかな証拠を私は見つけたわけでない。

* 五百人委員会の機能
数千人の構成員からなる議会が助けなしで、その任務をはたせない。そのために五百人委員会の助けをえてる。それはすべてのアテネ市民から籤引きによりえらばれたものである。それはおおきな組織では対応できないおおくの公務をはたしてるが、その主責任はこの点で立法の準備作業をすることである。五百人委員会は議会を輔助する機関であり、議会は彼らが作成した法律案を投票にかけることができるのである。

議会は再作成をもとめる指令をつけて送りかえすことができる。まったくの新法律案で置きかえることもできる。大衆の権威が完全な決定権(sovereignty)とその実効性、これがピニックスにあつまった議会の働きとして直接に機能してる。彼らがやりたいとおもったどのようなことも、その日からそのようにうごけるのである。

*行政の単一責任者の不存在
行政、我々がそうよべる行政についてみる。古代のアテネにおいて、こう区別してたわけでないが、我々の理解をたすけるため、これを区別して説明する。我々はこの行政を判断力と実行力もつものとして厳密にしぼってかんがえる必要がある。行政と司法の区別は現代の区別よりさらにはっきりしない。まず、責任者として大統領、総理大臣はいない。内閣もない。どのようなかたちにせよ国家を運営し、責任をはたす選挙によりえらばれた公職者はいない。政策一般を提案する責任者はいない。

米国人が政府(the administratio)とよぶものや英国人が政府(the government)とよぶものはない。十人の主たる公職者としてえらばれた十人の将軍がいる。彼らは一年の任期でえらばれる。その名前でわかるように彼らはおもに軍事の公職者である。彼らは陸軍や海軍を指揮する。彼らの再選は制限されないが、キーマンやペリクリースのような長期の再選は極めて異例である。

* 将軍の権能、評価、点検
彼らが発揮した政治力は議会の同輩市民を説得し、したがわせる個人的力である。彼らは陸海軍の作戦行動をのぞき特別な政治的、行政的権能をもたない。これをのぞき誰も命令する権能がない。将軍としての権能だが、きびしく制限されてる。外征作戦の指揮官は議会全員の投票によりえらばれる。

また議会は派遣軍の兵員、したがうべき作戦の目的をきめる。選出のまえには五百人委員会により、その能力、資格について審査をうける。その任期を満了した時には、その業績について審査をうける。特に、彼らの財産につき会計検査をうける。ユスナ(euthuna)とよばれる。

えらばれた人たちによる審査だけでなく、一年間に十度、議会全体から一年間に十度、将軍は評価をうける。もし満足できないと表決されたら、彼らは法廷で裁判にかけられる。そこで有罪とされると罰や罰金をかされる。もし無罪ならもとに復職する。彼らには特権があたえられるから、彼らが人々の支配にはんしてないかを慎重に審査する。これらの手続の裏にあるものである。このようなきびしい審査をようする公職者には、陸海軍、海軍の船建造、国庫の管理、都市の水道施設にかかわる公職者である。だが他のおおくの公職者については籤引きによりえらぶ。このようなやりかたはアテネ人が民主主義の支配的原則として平等を重視してることからくる。

* 籤引きによる公職者の選定
それは市民としての責任をはたす能力がある市民は充分にいるとの考えである。さらに行政の権能を少数の人間にゆだねる危険性への恐れがある。それが彼らの有能さ、あるひは経験をみとめても恐れをもってることでもある。この理由からアテネは相当量の公職を籤により割りあててる。一人にあてる公職は一度かぎりと制限してる。ただし例外には五百人委員会がある。それはその生涯につき二度である。将軍の再任には制限がない。これはその技術と能力がその職の必要不可欠の部分だからである。任期が非常に短期であることをのぞき、これが本当の例外といえる。現代の目からみておどろくべきことだが、アテネ人は公的活動の管理からは、教授、専門家、専門職、官僚、政治家をとおざけてる。これ以降は次回にはなす。

(3の3おわり)

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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(15、3の1)


* 関連年表
479 プラティアとマイカリの戦い
469 ユーリマダンの戦い
465 セイソスの反乱
462-1 キーマンの陶片追放
440-39 セイモスが独立をうしなう

* ペルシア帝国の脅威
これからアテネ帝国の発展についてはなす。それはデリアン同盟が発足しその性格か変化し、帝国にいたったものである。紀元前四六九年といわれるがユーリマダンの戦いでペルシアを陸と海でやぶった。これでペルシア帝国の脅威はおわったのでないかとの感覚がうまれた。そこでデリアン同盟にとどまり、拠出金をだすことを躊躇する気分がうまれた。アテネはその指導的地位をすてるつもりはない。ペルシアへの攻撃をやめるつもりもなかった。同盟国がはなれようとする動きをアテネは黙認するつもりもなかった。

* セイソスで鉱山をあらそう
同盟の性格をかえたもう一つのことだが、紀元前四六五年、エーゲ海の北、セイソス(Thasos)島で反乱がおきた。これは同盟員の義務とか拠出金支払いの問題でなかった。アテネとセイソス、両者の紛争だった。その島のむかいの本土に鉱山があった。非常に品位のたかい金と銀を産出した。パンジアン(Pangaean)山の鉱山である。両国はその所有権を主張した。

* セイソスの反乱
アテネはストライモン川(Strymon river)の上流に植民都市を建設した。そこは九つの道地方(ennea-hodoi)とよばれるところで、後年にアテネはアンフィポリス(Amphipolis)という植民都市をつくったところである。アテネ人はそこに移住して影響力がひろがった。問題がうまれ、セイソスは反乱をおこした。アテネは城攻めをかけた。比較的におおきな島であり、セイソス人は頑強に抵抗した。およそ二年をかけた。極めて長期の城攻めだった。いつものアテネ人の戦いかたではなかった。

* 降服、アテネの権益獲得
だがセイソスは降服した。アテネは通常の扱いをした。反乱をおこした都市にたいし壁をこわさせ艦船を引きわたさせる。当然、アテネは鉱山をうばい、賠償金をとった。戦争にかかった費用をはらわせ、今後、も同額の貢納金の支払いをめいじた。そして従属国とした。この処置は最初でないが違いがあった。この争いはあきらかにデリアン同盟にまったく関係がなかった。アテネが同盟の資金をつかい、アテネのためにその力をつかった。ただアテネのためにのみおこなった。言いかえれば、この鉱山をアテネがもってもセイソスがもっても、どちらでも同盟に利益をもたらすものでなかった。アテネは同盟の指導者の地位を利用し、自分自身の利益を獲得したのである。これは極めて重要な転換点である。後年のギリシャ本土でおきる出来事とあわせかんがえると、デリアン同盟の性格をかえる重要な転換点とかんがえる。

* ダイオドロスの批判
古代の歴史家もいってる。二つの代表的な意見である。ツキジデスとシシリー(Sicily)のダイオドロス(Diodorus)である。現代の歴史家の意見もよい。自然な連合体が共通の目標を追及していくうちに、どうして連合体が帝国に変化したのか、かんがえるのに参考となる。ダイオドロスの意見である。概して、アテネ人はおおいに力をつけて、もはや同盟国をかってのように品位をもってあつかわなくなった。今や傲慢と暴力であつかってる。このためほとんどの同盟国はこの粗野さにたえられなくなった。そして互いに反乱をかたりはじめてる。なかには同盟の会議(coucil)を軽蔑し、自分たちのやりたいようにしてる。アテネの変節をかたり、その行動を非難してる。それは専政主のやりかたと指摘してる。

* ツキジデスの批判
ツキジデスのはちがう。反乱にいたる原因がいろいろだが、貢納金をはらわず、艦船の割り当てにこたえないからである。またある場合は、軍役にこたえない。アテネは貢納金の支払いにきびしく、軍役の拒否にも強硬である。ある場合指導者としての責任から時には一部にきびしい措置をとる。外征への同盟側からの参加は均等でない。彼らは反乱をおこした人々の数を簡単にへらす。ここがツキジデスがダイオドロスとちがってるところである。

これらのことから、ほとんどの場合、同盟都市に責任がある。軍役を忌避する。家をはなれないですむよう艦船の拠出をさけ拠出金の増額ですまそうとする。その結果、アテネは資金をもとに艦船をふやす。他方、同盟側が反乱をかんがえても、準備、経験不足が露呈する。

ツキジデスがダイオドロスとおなじことをいってる。アテネが他の同盟国をあつかうやりかたについて高圧的な姿勢があることをみとめている。しかし彼はいう。同盟国側がやっておかなければならないことがある。これはダイオドロスが言及してない。彼らは要求をうけて、もうできない。艦船を提供し軍役にこたえることげきない。そうだが、自分たちはそれと同等の資金を提供するとつたえる。するとアテネは艦船をつくり、アテネ人の漕ぎ手をつかう。資金を艦船や漕ぎ手の費用にあてる。これで同盟国の軍はちいさくなり、アテネの艦隊はおおきくなる。だからツキジデスは、これは彼ら自身の問題であるという。かくしてアテネの帝国化がすすむとゆうわけである。

* 評価のまとめ
私は両者の言い分が相互に矛盾してるというべきでないとおもう。彼らはおなじことをちがった側面からいってる。ある点をアテネの立場から、あるいは同盟の立場から強調しているのである。それはともかく、五世紀のおわりに、ペロポネソス戦争がはじまる時だが、百五十の同盟国のうちたった三つが艦船をもつ。これがそのあいだにおきたことである。つまり実質的な自治がここまでへったとゆうことでもあるが、レスボス、セイモス、キオスの島々である。否、二つ。紀元前四四〇から四三九年、セイモスが独立をうしなってる。

* 同盟のおわり帝国のはじまり
同盟がおわり帝国がはじまる状況の話しである。アテネなど本土に目をうつす。ペルシア戦争がおわるまで外部から脅威がせまった時にスパルタは間違いなくギリシャの指導者だった。ペルシア戦争がおわった時、すくなくとも アテネが 対等者として登場してきた。スパルタの追随者でなく独立して行動できる都市としての登場である。次の五十年(BC469年、ユーリマダンの戦いからBC419年)だが、両者が競争する時代となった。誰が指導者となるのか、おおくの衝突がおきる。

* セミストクレスの登場
紀元前四七九年、セミストクレスが有力なな政治家としてアテネに登場してきた。彼はサラミス海戦に勝利し、その立役者となった。こんなことはよくある。第二次大戦後のウィンストン・チャーチルだが、終戦にさいして、彼は勝利の立役者となった。ところが最初の選挙で彼はほうりだされた。民主主義には常に選挙の洗礼がある。セミストクレスにはこうならなかった。だが彼にも問題があった。

* セミストクレスの追いおとし
彼はアテネの政治において一匹狼(maverlick)であった。彼は家系から貴族であったが、貴族社会の中心にいるような人物でなかった。他の政治家とのあいだで問題をおこす人柄だった。彼は勝利によりえた栄光をあえてかくそうとはしなかった。彼がやったことを思いだしてほしい。マラソンの戦いがおわり、サラミスがはじまるまえに、銀山の発見を奇貨として、議会を説得しアテネの生存戦略をたて、艦隊を創設した。だが私の歴史の記録の解釈がただしかったら、彼は陶片追放(ostracism)という政治手法をつかって対抗する政治家をことごとく追放した。八十年代の有力な政治家はセミストクレスをのぞいてすべてが追放された。だがペルシアがやってきて戦いはじまり彼らは本国に呼びもどされ、戦いで役割をはたした。戦争がおわった時、彼らと彼の間柄はよいものでなかった。セミストクレスはここで大立者だった。彼らは将来に不安をかんじてたろう。私はここでアテネの政治の世界で有力者のあいだに、何かしら取り決めがおこなわれたとかんがえる。彼らは結束してセミストクレスの追いおとしをはかったのだろう。

* キーマンの登場
デリアン同盟初期の作戦行動において、当然、アテネの指揮官が指揮する。だがそこにセミストクレスの名前はない。指揮官に指名されるには政治的力が必要だがそれをうしなってた。とってかわったのは若干わかいキーマン(Cimon)であった。彼は貴族で、その父はマラソンの立役者、ミルタイアディ(Miltiades)である。マラソン勝利の立役者である。しかし彼は非難決議をうけ死刑にしょせられた。莫大な負債をのこししんだ。キーマンは返済したが、彼はペルシア戦争において活躍した。デリアン同盟の作戦においては、すばらしい戦果をあげた。ユーリマダン(Eurymedon)の戦いの指揮もとった。キーマンは戦いに連戦連勝し極めて裕福となった。その活躍で彼は大衆の人気者となった。

* キーマンの人柄
ただし彼は貴族であり下層市民の人気をえようとしたことはない。スパルタの支持者であり友人であった。またスパルタの徳をほめ、その政治体制を評価した。アテネはそこからまなぶところがあるといった。このような人柄の彼が何故、連続して将軍にえらばれたのかとおもうが、その人柄にあったのだろう。ペルシアのいろんな所に外征し成功をおさめ、おおくの戦利品をえた。それらの一定部分は軍のなかで分配される。そこに参加した兵たちは利益をえた。だからその指揮官は人気がでる。ところで彼は民主政治のなかで特別な技術をもってた。ここで米国大統領だったアイゼンハワー(Eisenhower)のことをはなす。

* アイゼンハワーとの類似
彼は第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において勝利し、終戦後に政治家に転身した。彼は人気者となる特質をもってた。ささいなことだが、人々は彼の笑顔をこのんだ。そこで彼にかてる政治家はいなくなった。キーマンもこのようなところがあったのだろう。彼の立場は非常に保守的だった。ともあれ彼は十七年間のながきにわたり有力な政治家としてアテネを支配した。紀元前四七九年の勝利から政治の世界を駆けあがり紀元前四六二年にいたる。アテネの政治の世界では異例の長期である。将軍はアテネの政治においては有力者である。将軍は毎年選挙でえらばれる。彼の根づよい人気がどれほどかこれからわかる。

* キーマンの対外政策
彼の対外政策として、親スパルタ政策は重要である。もしセミストクレスがやってたら、間違いなくちがってた。彼は反スパルタであることは、スパルタに仕かけた策略からあきらかである。スパルタからの独立をはかり、その結果、関係は敵対したものとなった。反対にキーマンはスパルタの公式の代表をつとめた。彼はスパルタとながい家族同士の関係があった。彼がスパルタの徳についかたったのはすでにのべた。彼は常に両者が同盟関係にあり、 対等の協力関係にある。たとえばスパルタがプラティアの陸戦で指揮し勝利し、アテネがサラミスの海戦において指揮し勝利した関係のような関係である。これでペルシアの脅威に対抗し、繁栄するとゆうものである。

これは部分的には成功した。スパルタがエーゲ海に進出することにかならずしも反対しない。アテネはデリアン同盟の指導者の立場から帝国主義者としてどんどん力をつけてきた。ところが初期においてスパルタはそのようなことはしなかった。何故だろう。私はキーマンが関係するとおもう。キーマンがアテネの政治で有力者だった。彼らはキーマンを信頼してた。彼がその地位をもってるかぎりアテネはスパルタの脅威とならない。だから両者はよい関係をたもてたのだろう。十七年ものあいだ平和がつづいた。もし彼がいなければアテネ社会の発展はつづかなかったろう。アテネの諸問題を制御する力に彼の人柄と説得力がかかわる。それはおどろくべきこととおもう。

* キーマンの民主主義
マラソンの勝利は重装歩兵による。それは農民、中層とそれ以上の階層、彼らの勝利である。サラミスの勝利は、アテネの貧民層。彼らが三段櫂船をこぎ勝利した。彼らが原動力であった。勝利のあとに艦隊がアテネの力の基盤となった。それをささえるのがこの貧民層だった。もしセミストクレスが政治で活躍したら、さらに民主化をすすめる動きがでたとおもう。クライストニスの民主主義は重装歩兵による民主主義だった。これはおおくの活動から貧民層を排除してた。キーマンはこれに賛同しなかったがけっしてアテネの民主化を促進もしなかった。それと敵対したわけでないが、それを今あるがままにとどめておいた。

実際のところ、ある部分では後退した。アリストートルは紀元前四七九年から紀元前四六二年の時期の政体(constitution)についてアリオパジャイテス(Ariopagites)の政体(constitution)とよんでる。それはふるい貴族的合議体(coucil)、以前の行政の上層部からなるのだが、これが非公式だが実体のある力をもってた。これがどんなものか、把握は困難だったが、いくつかの重要な点がわかってきた。アリオパガス(Areopagus)がある種の監視を行政にするという権限を回復したということである。かっての貴族政治の時代にアリオパジャイテスがある種の権能をもってた。行政を監視し、評価し、必要な措置をとるとゆうものである。クライストニスの政体が確立し、そのしたに五百人の合議体が存続してるのだが、対外政策についてすこしずつアリオパガスの力がましてきた。

* キーマンの対外政治
アリオパガスは外交政策をきめるが、それが必要とかんがえると議会に動議をだす。彼らは五百人委員会(council)の権力をある種、うばってる。しかし私は、法律にはこれをみとめるような変化はないから、ちがうと言いつづけてる。彼らはできるとおもってることをやる。それを人々が受けいれただけである。アリストートルがこういってる。彼らはペルシアがアティカに侵入した時に英雄的役割をはたしたといってる。この時、貧民はサラミスやペロポネソスに避難しなければならなかった。アリオパジャイテスは彼らの資金をつかって貧民の生活をたすけた。これは彼らの自発的行動である。その寛大さ、愛国心、善意。これがアリオパジャイテスの政体の発展を可能にした。そのことがキーマンの二元政策にあらわれてたのだろう。保守的で温和な民主主義である。

保守性、貧民が政治的発言をたかめることを可能とする環境の変化をみとめようとはしない。またその保守性は全ギリシャの国際関係における二元性に対抗しようとしない。それはペルシア戦争のなかであらわれてきたものである。それにアテネがしたがうことで、おおきな成功をえたものである。キーマンがその政治家として活動した後期においてやったことである。その時、彼は最高責任者だったのだ。

その時もは十人いる将軍の一人にすぎなかった。これを私はずっといっていたが、つまり毎年、選挙でえらばれねばならなかったのだ。彼の影響力は非公式のものである。法律にさだめられたものでない。彼がそうかんがえた時に人々にそうするようもとめ、けっして強制しない。彼が基調をさだめ、人々がそれにしたがったのである。それから一世紀後、ローマの世界のこと、アウグストゥス(Augustus)は最高責任者になった。その時の話しである。

(3の1おわり)

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