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ケーガン、ギリシャ歴史、13アテネ帝国(1の3)



* はじめに
エール大学ケーガン教授の古代ギリシャの歴史をあつかう。ミノア文明、マイシニア文明、暗黒時代をへてスパルタ、アテネの興隆、ペルシア戦争、ペロポネソス戦争、マセドンによるギリシャの統合まで、二十をこえる連作を紹介する。ここではペルシアの興隆から、世界帝国の形成、小アジアへの進出、沿岸にあるギリシャの都市の反乱、アテネの援助、ペルシアとのマラソンの戦いをのべる。

* ペルシア帝国の興隆
最初にペルシアの興隆についてはなす。用語の解説だが、彼らはミーズ(Medes)とよば人々にちかい。彼らはギリシャ人のちかくで生活してた。彼らはアーリアン(Aryan)人にふくまれる。またこれについて用語だがこれは十九世紀から二十世紀に人種をしめすものとして乱用された。ところがこれはインド・ヨーロッパ語族のなかの言語の集まりである。それはともかくギリシャ人はペルシア人とミーズを区別できない。

それはどちらでもよいが、彼ら、ミーズが主導し部族社会からはじめて国民的な王国をイランの高原につくった。彼らはここに最終的に定住した。ペルシア人たちは彼らたおし、その支配を確立させた。

* サイラス大王
その集団からサイラス(Cyrus)がうまれ大王となった。たぶん紀元前五五九年である。彼が偉大な征服者とみとめられそうよばれた。彼は最初にイランで彼の部族の武力をもってペルシアの支配を確立、拡大し、ペルシャ帝国とよばれるものとした。たぶん紀元前五五九年に大王となった。その驚異的ひろがりはこうである。紀元前五五〇年メディア(Medea)王国を征服、次にティグリス・ユーフラテスの峡谷におけるもっとも有力な勢力であるバビロニア(Babylonia)王国、今のイラクであるがこれを征服、小アジアの西部をしめるリディア(Lydia)王国。ただしこれはギリシャが占領したエーゲ海沿岸部をのぞくもの。

サイラスは紀元前五五九年に王となったが、それをアケメナス王朝(Achaemenid Dynasty)とよぶが、彼はおなじ種族のミーズを紀元前五五〇年に征服した。そしてすぐさまバビロニアを征服し、アルメニアを征服し、シリアを征服し、小アジアの王国、カッパドキア(Cappadocia)を征服し、前例のないほどの拡大をおこなった。リディアのことである。

* リディアへの攻撃
その創設は紀元前七世紀にさかのぼるが、この頃はクロイソス(Croesus)王だった。ヘロドタスが彼のペルシャ攻撃決断の逸話をのこしている。その頃、ペルシアは国境にまでせまってた。アポロをまつるデルファイにいってその神託者に相談する。その予言は難解なことが特徴だった。彼がきく。もしハリス(Halys)川をわたったらどうなるか。すると神託者がいう。偉大な帝国がほろびる。彼はもちろん、それはペルシャ帝国とおもってた。実際はペルシャ帝国が彼の帝国をほろぼした。これは、ただしい質問をしても、その答のただしい内容がわかるまでは、大喜びしてはならないことをおしえてくれる。

クロイソスは紀元前五四七年に攻撃し、首都が翌年にペルシアの手におちた。沿岸にあるギリシャの都市だが紀元前五四六年から紀元前五三九年までに支配下においた。紀元前五三九年はペルシアにとって重要な年である。その時に都市、バビロンを征服した。これですべてのメソポタミアを支配下においた。ペルシャ帝国のおおきな拡大だった。サイラスの後継であるケンバイシス(Canbyses)は紀元前五三〇年と紀元前五二二年のあいだに、おどろくべきことにエジプト王国を征服した。おそらく最古といえる王国で誰もがうらやむ富をもち、強大な帝国であった。紀元前五二二年にはケンバイシスがしんだ。

* 北方への拡大
西はエーゲ海、地中海、から東は現代のパキスタンであるインダス川までである。南はナイル川の南端、スーダンから、北にのぼると、欧州側の沿岸、ヘルスポント、欧州側のエーゲ海沿岸、ダニューブ川にまでひろがる。ケンバイシスはダニューブをこえ侵入していった。そこには国民的統合をもつ王国はなかった。多種類の民族がすみ、ギリシャ人は彼らをシシアンズ(Scythians)とよんでた。彼らをどんどんとロシアにまで追いやる。そこはコーカサス山脈の奥地だった。彼らは馬にのる人々、部族である。まだ農業でなく牧畜を生業としてた。

* ミルタイアディの登場
遠征はつづいたが、ここでマセドン(Macedon)のことをはなす。ペルシアの軍に一人の将軍がいた。ミルタイアディ(Miltiades)という。彼はもともとアテネの人である。だが彼の家族は海外追放にあい、専制政治の時代、スレイスの東沿岸、ゲリポリ(Gellipoli)半島におくられここを統治した。彼がここでくらしていた時にペルシアがやってきた。彼はペルシアにしたがい、ペルシアの軍の将軍となった。ダニューブ川にかかる橋の警備をめいじられた。王はシシアンズをおって遠征したのだが、彼らをまかすことはできなかった。彼らはこんな戦法で対抗した。騎馬にのって距離をたもつ。直接の衝突をさける。とおくから投石で損害をあたえる。そして逃走する。もし直接衝突するならばペルシアが勝利してたろう。王は長期間、遠征してた。ミルタイアディは、彼はもどってこない。ではこの橋をこわす。これで自分たちは自由になれる。こうかんがえた。実際はちがう。王はもどってきた。シシアンズ遠征は成功しなかったが、もどってきた。ミルタイアディは罰をおそれそこから逃亡した。最後に彼はアテネにもどった。彼については後にのべる。

これが紀元前五世紀の頃の状況である。ペルシアは小アジアのギリシャの都市をうばい支配下においていた。その支配はどことも同じ臣従関係だった。敗北し臣従する都市は王に土と水を差しだす。これが完全な臣従をみとめたことの象徴である。ペルシアの王にたいしては完全な臣従以外の関係は存在しなかった。ギリシャ人はそれは奴隷の一つとしてみた。実際の支配だが、ペルシアはけっして苛酷な支配者でなかった。彼らは人々に納税をもとめた。誰もがきらうが、彼らの経済をそこなうほどのものでなかった。次に軍役である。王の指揮命令にしたがい、軍役に参加する。これにしたがえば、彼らはそれ以上の要求はしない。ギリシャ人の都市に王は長官、支配者を派遣する。セットラプ(setrap)という。彼が完全に支配する。だがそれは特に苛酷なものでなかった。

* 反乱までのギリシャ、アテネの状況
イオニアのギリシャ都市の反乱をおこす時、ペルシアとギリシャに関係する状況であった。反乱までのギリシャの状況についてみるアテネである。クライストニ(Cleisthenes)革命がおきていた。これは重装歩兵による民主主義だった。これはすでにのべたが、非常にあたらしい、それだけ不安定なものだった。彼らには恐怖があった。内部に敵といえる反対勢力がいた。貴族にぞくする人々の友人である。貴族たちは政治の戦いにやぶれ逃亡してた。また何人かは専政主の友人や親戚である。あたらしい体制にたいする忠誠心はかならずしもあきらかでない。これが一つ目の恐れだが二つ目は、スパルタだった。

彼らは貴族などの友人の追放をみとめてなかった。友人たちはやがて軍をしたがえてにかえってくる。そして貴族政治の復活をはかる。

* アテネがペルシアに同盟をもとめる
三つ目の不安はアテネの隣人たちだった。アテネはいつも喧嘩をしてた。法的な問題で有利になろうとあらそい、攻撃にうつる。これらのことからアテネは非常に不安定な場所だった。ヘロドタスはこういう。このような状況でアテネは助けをえようとした。それで代表団をペルシアにおくった。彼らに同盟関係の構築をもとめた。こうして彼らの問題を緩和しようとした。ペルシアの王がみとめる関係はただ一つ。臣従関係である。そこで彼らに土と水を差しだすようもとめた。そうすれば友人となることができるといった。代表団はこれを了解し、アテネにもどった。アテネの人々は激怒した。

彼らは代表団に罰をあたえた。こうして両者の関係の構築は立ちぎえとなった。彼らがおそれていたことがおきた。スパルタがアティカ(Attica)に侵入した。アテネに恨みをだいてる他の都市がこれに参加した。ビオーシャ(Boeotia)、彼らはシーブス(Thebes)に引きいられてた。カルキース(Chalcis)これはアティカの東にあるユビーア(Euboea)の都市。イスミス(Isthmus)にあるコリンス(Corinth)。彼らがすべてアテネに攻撃を仕かける。ところがここでコリンスが別行動をとった。彼らはどんなかたちにせよアテネに専政主の復活をこのまなかった。というのは、それほど昔でない頃に自国内で専政政治を排除してた。彼らはこの動きへの参加をことわった。これが内部分裂の一つだったが、さらにスパルタである。

* 二人のスパルタ王の対立
二人のスパルタの王のあいだに論爭が発生した。クレイオメニズ(Cleomenes)は従来からアテネの貴族政治家と友人関係にあり、彼らの政治がもどることをのぞんでる。デモレイティス(Demoratis)はどんな理由であれ、外国への干渉をのぞまなかった。だが、彼は議論にまけ有罪となり、海外逃亡した。次に彼を見かけるのはペルシャ帝国である。彼は側近の助言者として王につかえる。こんな事情でスパルタの侵入はなくなった。

* アテネとシーブスなどとの争い
だがアテネは他の隣国を相手にする。シーブスに引きいられるビオーシャ、それからカルキース。アテネは彼らを敗北させた。ユビイアのカルキースでは、アテネがその領土の一部をうばった。四千人のアテネ人が入植した。これは従来の入植でない。彼らは定住するが、市民権はなおアテネにある。アテネの守備隊の役割をはたす。ビオーシャの状況もおなじである。これはローマの植民地の考えかたとよくにてる。他のイタリアの都市を征服し、そこに年長の兵をおく。そこの土地をえて定住し、守備隊の役割をはたし、現地の状況に問題がないかを監視する。

* アテネの強さの秘密
ヘロドタスは自由の意義について論じてる。アテネ人が自由をえる前、他の都市の住民とくらべ戦争が特につよかったわけでない。ところが専制政治の桎梏から解放され、クライストニ体制にはいったら彼らは反対者のすべてをたおすことができるようになったという。これはヘロドタスの偏見かもしれない。だがヘロドタスの歴史をつうじて一つのことがわかる。それはギリシャ人には自由に憧れ、自由の偉大さをよろこび、彼らの中心に自由がある。これがギリシャの歴史をかたる時にみてとれるとおもう。ところで彼は自由を賞賛するだけでなく、アテネにおいては発言の平等性もまた賞賛する。クライストニの体制において発言の平等性が民主主義という体制をより特徴づけるものである。すべての市民は自由に平等に議会で大衆にうったえることができるということである。これは誰もが政治において能動的役割をいっそうはたすことができるということである。また彼はこう賞賛する。自治、これはたんに外部から支配されないだけでない。自分たちの都市の内部からすべての人々のための政治を作りあげる。彼はこれをアテネ人が戦争でつよくなった理由にいれてる。さてあたらしい同盟関係がうまれた。

* あたらしい同盟関係でのアテネ
だがアテネへの敵意もうまれる。アジャイナ(Aegina)島である。これはソロニック湾(Soronic)にある。ちょうどアテネの沿岸のむかいである。両者は百年ほどもいろいろな問題であらそってきてる。アジャイナ人ははスパルタとくんだ。はっきりとこのアテネの体制をたおそうとしてきた。民主政治をかえ専政主、ヒピアス(Hippeis)をもどそうとした。彼は今はペルシアに亡命中、ペルシアの大王の保護をうけてた。アジャイナの動きはペルシアを巻きこむこととなった。だがここでもコリンスはそうはおもっていない。専政主に反感をもっている。こうして状況がさらにわるくなったのでアテネは第二回目の代表団をペルシアにおくった。今度はペルシアの王ははっきりと民主政治をたおし、ヒピアスを専政主にもどすことを要求した。これはアテネと小アジアのギリシャの都市を征服しペルシアの領土する。ヒピアスがそれを支配する州長官にするということ。ペルシアが征服領土を支配する通常のやりかただった。こんな状況にある時にイオニアの反乱がおきた。

* イオニアの反乱
紀元前四九九年である。マイリーダス(Miletus)、これは沿岸の主要都市である。ここは最初に準科学、あるいは合理主義がうまれたところと説明した。これは神話に根ざした従来のギリシャの考えかたを修正するものだった。神学(theology)について純粋な理性で説明しようとする。ここの哲学者が宗教をもってないというのでない。彼らは宗教を脇において、世界を観察と理性で説明する。ここは哲学発祥の地であり、自然科学の発祥の地でもある。この両者はこれからながく融合し分離せずにすすんでゆく。これが反乱がおきた都市の状況だった。これら哲学者とはまったく関係ないが、ここにはアリスタゴラスという専政主がいた。彼と大王とのあいだに問題がうまれた。

* アリスタゴラスの侵入
その事情である。彼は大王に外征をすすめた。彼はネクサス(Nexus)の攻撃を仕かけようとしてた。これはエーゲ海にあった島である。彼がいう。ネクサスはすばらしく富裕な島である。彼らは侵攻を予想してない。もし艦船をおくるなら、自分はただちに島をうばってみせる。こうなれば大王は領土を拡大し、彼自身ももまた利益をえる。それは財政上からも名誉の上からもである。ところが、情報がもれてた。ネクサスは準備をととのえてた。彼は戦いにやぶれ、大王の不興をかった。彼は自分は極めて不都合な状況にあることを自覚した。

* アリスタゴラスが反乱をすすめ、助けをもとめる
彼はここで小アジア沿岸の都市はペルシアからの自由を獲得すべき時だと決意した。彼は説得力にとむ雄弁家であった。都市をまわって説得した。ほとんどが反乱に賛成してくれた。これは彼らが現状の臣従に不満 をもってることをしめす。そうして彼らはかって大王と共同した専政主とともに反乱する。これは興味深い。彼らはこれから民主主義を設立する。以前には民主主義がなかった。それを経験したことがない。だがアテネがそれをつくった。私はアテネがよい実例を提供してくれた。彼らはここからおおくをまなんだ。この可能性がたかいと私はおもう。というのは前にもいったがアテネはマイリーダスや他のイオニアの都市とおなじにイオニアの都市ともいえる。彼らからみるとアテネは彼らを引っぱる都市とみなしてる。だから私はアテネを自分たちのモデルとした。そうおもう。

だがアリスタゴラスはこれからおそるべき強大な敵と対決しなければならないとしってた。ペルシア軍である。彼はたよるべき地のギリシャにもどった。助けをもとめる。ギリシャがもつ軍事力をもとめて、当然だがスパルタにいった。ここでもヘロドタスは興味深い話しをのこしてる。

* スパルタ王がきいた
彼はクレイオメニズの王のところにいった。彼は何をしようとしてるかをはなした。ペルシアの豊かさ。もし反乱が成功するならばそこにある財宝をペルシアの大王かうばうことができる。クレイオメニズにとってもわるくないだろう。クレイオメニズはきいた。ペルシアの首都までの距離は。それは小アジアの沿岸にある貴殿の都市からペルシアの首都までどれぐらいか。アリスタゴラスはなかなか頭がよい。彼はまってましたとばかり、ギリシャの歴史上最初の例となる地図を引っぱりだした。おそらく巻きもどして、みせたのだろう。

ここがマイリーダス、それからここが王がつくった道、これをとりスーサについて、これがペルシアの首都である。王がきく。どれくらいか。そこから行軍してどれくらい。三ヶ月といった。王はくらくなる前にこの町をでていきなさいといった。スパルタにとって海をわたって沿岸から三ヶ月も行軍するという考えはおこりえない。国内にいるヘロットが反乱をおこすだろう。これにたいしアリスタゴラスはこたえて、それほどわることでない。道は整備されてる。またここに銀をもってるが、それを貴下に差しあげることができる。かんがえなおしていただけまいか。彼は銀をさらにふやして王を金で籠絡しようとした。そこでそばにいた彼の娘、ゴーゴ(Gorgo)が父王にいった。彼をすぐでてゆかせて、彼はあなたを腐敗させる。彼女は常に王のそばにひかえてた。クレイオメニズはこの助言をいれてアリスタゴラスを追いやった。スパルタの支持、反乱への支持をもとめる努力は不成功におわった。

* アテネへの説得
ではアテネにいこう。そちらのほうが見込があるといった。アテネはイオニアの都市である。スパルタはドリアンの都市であるのとちがう。次にアテネはもっとペルシアにちかい。エーゲ海の沿岸に位置し、拡大をはかるペルシアの脅威をかんじてる。このような事情もあり私はアテネがすでにアリスタゴラスや小アジアの反乱をおこそうとする都市と接触があったとおもう。それは民主主義という考えが関係してるとおうもう。この真偽はともかく、アテネの議会は艦船をおくり、それに兵員をつけることをきめた。それによりマイリーダスと反乱をおこす都市をたすけた。これにつきヘロドタスがするどい指摘をしてる。

これは一人の人より多数の人をだますことのほうが簡単だということをしめしてる。彼らはアリスタゴラスにだまされた。ところがクレイオメニズはそうでなかった。彼の計算によればアテネ人は三万人という。それはともかくアテネは二十隻の艦船をおくった。学者のなかにはこの数字に疑問をもつ者がいる。だが後年には四百隻の艦船をもってた。これから発展しようとする初期の数字である。私は彼らが最大五十隻もってたとおもう。だからこの数字はけっしてちいさなものでない。何故、この行動をとったか。

* アテネの決断の理由
私はイオニアを心配した。そこにいる親戚を心配したからとおもう。またペルシアとの接触をつうじて彼らは友好的でなかった。大王は完全な臣従をもとめてたからである。もう一つの事情。それはギリシャは東方と貿易をしてる。これはソロンの頃からである。小アジアのヘルスポント(Hellespont)、マーマラ(Marmara)海、ボスポラス(Bosporus)、それから黒海につづく海域。ここでペルシアと国境をせっしてる。ここでもしペルシアが非友好的となり、行動をおこしたら、ギリシャ人が必要としてる物資にわるい影響をあたえる。穀物、魚である。このような事情がスパルタがやらないのに、アテネがやる。非常に危険な行動をとった事情とおもう。ヘロドタスはこの時を次のようにいう。

これらの艦船はギリシャと野蛮人にとって邪悪な訪れのはじまりだった。私にいわせれば、これがペルシア戦争である。これば私のテーマである。理論的にいえばイオニアの反乱はアテネにかかわりのない出来事だった。もしアテネがたすけなければ、ペルシアと対決はなかったろう。ヘロドタスはいう。アテネがイオニアとそこの親戚をたすけると決心したから、これはアテネにとってペルシア戦争のはじまりとなった。

* アテネの侵攻
アテネの艦船はマイリーダスについた。上陸し兵はすみやかに行軍した。リディア州の首都、サルディス(Sardis)についた。これはペルシアの州である。むかってきた軍をたおし、放火した。これでサルディスの都市に実害をあたえた。この時、エレットリア(Eretria)、ユビイアの北部の都市であるが、この艦船が小数だがくわわってる。これはカルキースと常に敵対してきた都市である。これがくわわってる。アテネがカルキースをやぶったという事情があるからである。二十隻の艦船はペルシアの都市に実害をあたえた。ペルシアはこれでイオニアの都市に遠征し全面的な攻撃を仕かける。反乱をおさえ、もとの支配を回復しようとする。だがこれは時間のかかることだった。

* ペルシアの反撃
これは紀元前四九九年にはじまり紀元前四九四年までつづいた。ペルシアは、これらの都市に城攻めをかけ、一つ一つうばっていた。さらに海からの攻撃もした。これはギリシャにとり致命的だった。陸はすでに包囲され、対抗できなくなった。降服を余儀なくされた。紀元前四九四年、ペルシアの艦船がやってきた。ペルシアは陸戦をこのむ。自分たちの海軍をもってない。だが彼らにその支配下にフェニキア海軍がいた。彼らは東地中海においてもっともはやくから活躍した海の民族である。さらにエジプトである。彼らも海軍をもってた。つまりフェニキア、エジプトからの船団、さらにイオニアでペルシアの支配にふくしてた船団があった。数で彼らが優位にあり、戦闘力にすぐれた船員をもってた。最終的にマイリーダスの沖、ラデ(Lade)の戦いでペルシアはギリシャの艦船をほろばした。反乱の人々をたおした。ここから彼らは全面的な報復に取りかかった。マイリーダスを徹底的にやいた。ペルシアはこうしてイオニアの反乱をおさえ彼らにとり栄光の終末を完成させた。では次に何がくるか。
* ペルシアによるアテネの報復
アテネに混乱がおきた。ペルシアの報復の恐れだった。混乱するだけの理由がある。大国はというものは小国に馬鹿にされることを看過することができない。罰をあたえねばならない。そうすることで将来おなじようなことがおきないようにする。アテネは当然、攻撃や侵略をおそれねばならない。それが次の出来事でわかる。これの意味するところをどうよむか困難であるが、こんな事件である。

* 反ペルシャの動き
紀元前四九四年、ラデの戦いががおきる前、紀元前四九六年から四百九十五のこと。だった。この年に大法官に選出されたのがヒッパルカス(Hipparchus)である。彼はカマス(Kamas)の息子、パイシスタラティス(Peisistratids)の親戚であり、伝承によれば最初に陶片追放の対象になった人物であるという。どうしてこのことがおきたのか。ペルシアはアテネの攻撃を計画し彼の親戚である専政主、ヒピアス(Hippeis)の復活をねらってた。どうしてアテネ人はヒッパルカスを選出したのか。惟一の解釈は次のとおりと私はおもう。すでに陶片追放の法についてのおとぎ話はのべた。クライストニス(Cleisthenes)がヒッパルカスにもしクライストニスの政府にくわわるのなら、おおくの問題を解決することができるといった。こんな話しをしたが、私はヒッパルカスがそのとおりした。彼が大法官にえらばれたことが、このことしめしてるとおもう。これはまだクライストニスの体制がつづいてたということである。これは仮説であることをみとめるが、そうおもう。

このことに関係する次の話しがある。紀元前四九六年から紀元前四九三年、アテネでおきたもの。アテネの悲劇作家、フレニカス(Phrynicus)が劇を上演した。内容がペルシアによるマイリーダスの陥落と破壊である。この劇は現在につたわってないが、その筋はヘロドタスがつたえてくれた。劇は極めて感動的であるので、アテネ人を非常にかなしませ、みじめな気持にさせる。それで上演が制限された。罰金の重罰がかされた。これはどういう意味か。フレニカスはこれを上演すればアテネ人をかなしませることを充分に承知してた。また非常な怒りももたらすこともしってた。私は彼がこの上演によりペルシアにたいする怒りをかきたてようとしたとおもう。これによりペルシアにたいする備えをととのえ、より積極的に立ちむかうように仕むけたのだとおもう。これもまた仮説ではある。

(1の3おわり)

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