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ケーガン、ギリシャ歴史、アテネ帝国(14)、(3の3)



* デリアン同盟の形成過程、同盟国の立場
欧州側と米国の両者はよろこんでこの立場を受けいれた。ではデリアン同盟である。紀元前四七八から四七七年にかけデリアン同盟が形成された。あきらかに国境をせっする都市や海にめんする都市は、もしペルシアがもどってきたら、極めて危険な状態になる。もしかりにアテネが関心をもたず、自国にかえってしまったら、エーゲ海のまずしい都市をのぞいてギリシャの軍はいなくなる。そこにペルシアがやってきたら抵抗できない。彼らにとっては生きるか死ぬかの問題となる。すくなくとも自由はなくなり奴隷のおそれがある。彼らはアテネを説得しなければならない。

* アテネの立場
ところがアテネの立場である。あきらかに彼ら自身の必要がある。黒海への交易路の必要性、彼ら自身の小アジアにたいする親密な感情、彼ら自身のペルシア脅威の恐れである。これからでてくるのは共通の結論である。これから両者は同盟を結成したのである。もしこれが誰かが強制したからできたといったら、おおきな間違いであるとおもう。プルタークによれば、アテネ人には説得する必要があったという。アリスタイディ(Aristides)、アテネの艦隊を指揮してたが、小アジアにおいて主導権をにぎってた。このアテネ人のところにやってきて、どうか指導者となってくれないいかとたのんだ。彼はこの約束をする前に要求した。きみたちがまず我々に確信をもてるように覚悟をみせねばならないといった。アテネを利用してスパルタはこちらにこないようにして、アテネねを都合よく利用する。そんなことをしないと約束せよといった。セイモス海軍の指揮官、ユライアディス(Uliades)が船をまわし旗艦のパウセニアスのところにいった。彼はまだそこにいたが、ユライアディスは船をぶつけた。そこでスパルタとのあいだに何かの取引があったかもしれない。それはともかく、この時点からアテネが指導権をにぎり、作戦をすすめるようになった。

* デリアン同盟の二つの規定、恒久条約
紀元前四七八年から四七七年の冬のあいだ、デロス島で関係するギリシャ人があつまって会合をひらいた。デロスはエーゲ海の真んなかにある。アポロ神、アルテミス神の生誕の島であり、アポロはイオニア人たちの信仰があつい。そこで会合するのは自然なことである。ここでデリアン同盟の考えを議論した。

彼らは同盟をどのようにうごかすか、それをさだめる規則を議論した。目的は、同盟国はペルシアに対抗してたたかうである。最初の条項は、ペルシアがギリシャにあたえた損害に報復する。次に、ペルシアから戦利品をあつめる。それで損害を補償する。規定はこれだけ。だが直接の規定はないが、ペルシアの支配をだっしギリシャの自由を確立、維持する。この目的をふくむことはあきらかである。ツキジデスはいってないが、幾人かの学者がそれはふくまれてないと誤解してる。だがこれがなければ同盟が機能しない。ペルシアの支配下におかれ自由がうしなわれる。これでは何もできない。規定にはないが、彼らにとっては当然に前提となってることである。

普通にやることだが、共通の敵と味方を規定する。これを合意した。共通の外交政策である。彼らはすべてを誓約した。それが彼らの条約署名だ。次に鉄を水中におとした。これは条約が永遠のものだという象徴である。というのは鉄片が水の表面に浮かびあがるまで有効につづく。すなわち永遠につづくというわけである。次のことをしるしておく。ギリシャでは条約は永遠でない。アテネとスパルタのあいだで紀元前四四五年の条約は三十年の平和だった。紀元前四二一年のは五十年だった。もう一つのは五年のだった。これが普通におこなわれるものだった。

* 百四十八の同盟員
その構成員だが若干正確でないが、二つの地域にわかれる。これはほぼ正確にいえることだが、エーゲ海の島々。その島々の二十の都市があった。イオニア、これは小アジアの沿岸だが、三十六の都市。ヘルスポントにそった都市、黒海につうじるルートにそう三十五。キャリア(Caria)、これは小アジアの南端部である。二十四。スレイス(Thrace)これはエーゲ海の北部にある。ギリシャにあるところ。三十三。合計で百四十八である。

およそ百五十の都市があつまってる。これはおどろくべきことである。ペロポネソス同盟はこれほどでない。とはいっても大袈裟にかんがえないでほしい。都市は極めてちいさいからである。特に島に限定するとまったく小規模なものだった。ただしそこにセイモス、キオス(Chios)、レスボス(Lesbos)というおおきな規模の島の都市がふくまれている。小アジアのも小規模だが、マイリーダス(Miletus)のような大規模で重要なのもふくまれている。ここで注目してほしいのはペロポネソス同盟の都市がふくまれてない。この同盟と関係がないということである。

* 三つの同盟の説明
次のことしるしておく。三つの組織がふくまれてる。まず、ギリシャ同盟、ペルシアに対抗するギリシャ同盟。これは紀元前四八一年に形成された。これはペロポネソスの都市とそれ以外がふくまれてる。それから最古の同盟、ペロポネソス同盟。これはすこしの例外があるが、この地域に限定される。それでも海をわたったところにある都市はない。そして最後にできたデリアン同盟、これをギリシャ人はギリシャ(theGreeks)とよぶ。これは前にある同盟とおなじ名称であるが、こうよんでる。この違いをあきらかにするためにはデリアン同盟とよぶのが簡明とおもう。

ここで比喩をつかう。ペルシアに対抗するためのギリシャ同盟、これは国連とみることができる。とゆうのは二つの立場の国々がはいってるからである。ペロポネソス同盟やデリアン同盟は国連の下部組織とかんがえられる。だから、一つをNATOとみて、もうひとつをワルシャワ条約機構とみることもできる。この両者の構成員はギリシャ同盟の構成員でもある。国連の憲章は地域の同盟をみとめてる。からである。NATOとワルシャワ条約機構は地域の同盟である。両者の関係について、特に規定があるわけでないが、両者は他者を否定するものでない。おなじくペロポネソス同盟はデリアン同盟を否定するものでない。これがギリシャの国際関係の現状である。ペルシア戦争の推移とともに出来上がってきたのである。

* デリアン同盟の拠出金、貢納金
もうすこしデリアン同盟についてのべる。これはペロポネソス同盟とおなじく、覇者をさだめる(hegemonial)同盟である。そこには指名された覇者、アテネがいるからである。だが新味といえるものがある。これは海軍同盟である。金がかかる。重装歩兵による軍事同盟ではかからない(兵自体が自弁する)。それは同盟の資金がいることである。この目的でフォロス(phoros)をあつめることが宣言された。これは政治的意味をぬいた言葉としては拠出金(cotribution)である。これは時間の経過とともに、強制的に賦課される貢納金(tribune)となっていった。はじまった当初のものを拠出金とよぶ。額や内容をさだめる査定官はアテネの将軍である。

* 査定、管理、指揮官
アリスタイディであるが、彼は事情をよくしってるので適任だった。構成員の都市がいくら拠出すべきかを査定した。一番最初には金をあつめることからはじまったが、はじめの頃には、艦船、船員の拠出もあった。だが、ペロポネソス戦争がすすむにつれ、艦船や船員がなくなった。たんに資金のみの拠出にかわっていった。そのはじめの頃のはなしである。アテネ人が査定官となり、アテネ人が資金管理官、ヘリオノトミアス(hellenotamias)となった。彼は資金あつめとその看守にあたる。デリアン同盟の陸上または海上の作戦行動だが、アテネ人の将軍がおこなう。ここで繰りかえすが、アテネのやりかたが帝国主義だ、強制だというかもしれないが、ちがう。同盟国がアテネにそうするようもとめたのである。

* 同盟国からもとめられたアテネ
彼らはアテネ人がにげることをおそれ、にげられないようにしたのである。これはギリシャのもった過去の同盟と比較していうと極めてすぐれた組織であった。まず効率的。とゆうのは指導者が指名され、その活動に充分に関与する。ふかい関心ももってた。意志決定機関(synod)は各国の代表者からなる。同盟がやるべきことをすべて決定することができる。この機関でのみ決定することができる。ほかとちがい、自分自身の資金をもっている。また軍隊ももってる。これはその憲章にさだめられてた。これらにより、効率的決定とその実施が可能となったのである。

* 議決権
この仕組みでは、一都市、一議決権であった。アテネも一議決権であった。彼らはほかの都市より圧倒的な勢力をもってたがそうだった。ではアテネがやりたいようにやることができたか。こんな疑問がでるが、アテネは権威と勢力をもつ。だからアテネはその羽根の下に弱小の都市をおいて保護する。だから、アテネがやりたい方向に彼らが忖度し賛同した。アテネがやりたい方向とちがう決定は一度もおきなかった。

* デリアン同盟の変質
しかし時間の経過とともに変化がおとづれた。都市の自治という問題とアテネがやりたいことがぶつかることがうまれるようになった。アテネがこの自治に干渉して、彼らの方向をかえることがおきた。これをアヘイ(arche)と彼らはよぶ。その意味は帝国のことである。それは紀元前四七七年まではおきなかったが将来におきることである。当時は共通の利害があった。それは非常に強力なものだった。ペルシアの脅威に対抗しし、それに報復し、賠償をもとめるという動きである。変質がおきたのは、ペルシア侵入のおそれがひいていったた時である。これはNATOに問題がしょうじてる事情とおなじである。同盟国がかんじる脅威の減少がおなじである。ということでデリアン同盟の当初の状況であった。

* アテネの帝国形成
ここから、どのようにしてアテネ帝国の形成にむかったかをはなす。最初にふれておくことである。デリアン同盟は大成功した同盟であったということである。紀元前四七七年、イオンという島の一つのちいさな都市がペルシアの支配下にあった。それはスレイスのストライモン(Strymon)川の河口にあった。アテネの指揮官が同盟の艦隊を引きつれてそこにいき、そこのペルシア人を追いだした。次の話しはツキジデスによるものである。時期はさだかでないが、話しの中心がそれでないので、そのままつづける。デリアン同盟が設立されて、数年がたった頃の話しである。この頃は、アテネの指揮官が同盟におおきな役割をはたし、同時にアテネの政治においてもそうであった。キーマン(Cimon)、アテネの指揮官であるが、彼は同盟の軍をつれて、エーゲ海のスキロス(Skyros)島にいった。スキロスはギリシャ人がすむ島でない。彼らは海賊を生業にしてた。はっきりしてることだが当時、この海域では同盟のみならずおおくの都市が海賊の横行に損害をうけてた。キーマンはこれを壊滅させ、島から追いだした。アテネ人による植民都市(cleruchy)とした。アテネ人の兵を植民し守備隊の役割をはたさせた。これはすでにカルキースでのべたが、彼らはアテネ市民権をもって、守備隊の役割をはたすものである。こうして島がまた悪者に占拠されないようにするためのものである。これは当然の処置とみとめられるが、これで海賊行為がこの海域でなくなった。次の話しはカルキースにうつる。

* カルキースの話し、従属国
ここはペルシア人のつよい圧力にまけて土と水を差しだした。これで判断すれば彼らはミダイザ(ペルシアに臣従する者)である。彼らは強制的にデリアン同盟に加盟させられ、貢納金をおさめることとなった。艦船の拠出をみとめられず、従属国との扱いをうけた。これはデリアン同盟に規定されてなかったが、最初の従属国となった。たぶん、紀元前四七〇年である。次にネクサスの話しである。

* ネクサスの紛争
ここは常に問題をおこす島である。彼らはもうペルシアの脅威はなくなったと判断し、ペルシアがせめてこないので同盟から脱退するといった。すでにのべたこの同盟は恒久のものである。脱退はできない。なので反乱とみなされ攻撃され降服した。これにより彼らの資格はうばわれ、もう一つの従属国となった。彼らは貢納金をおさめねばならない。都市の壁がこわされ、艦船はうばわれた。これが同盟としての責任をはたさない。あるいは反逆した同盟国にたいする処置である。これにたいして他の同盟国がどうおもってたか。反対する意見はきかれない。やはり彼らは同盟を必要としてたとおもう。

* ユーリマダンの攻撃
紀元前四六九年である。時代をかくする出来事がおきた。小アジアの南端にユーリマダン(Eurymedon)川がなれてる。そこにペルシアは艦隊と内陸に軍をもっていた。同盟はそこに出かけた。キーマンが指揮し攻撃し破壊した。艦船を破壊し、上陸して軍をやぶった。これはペルシアの東エーゲ海にある拠点への痛烈な打撃だった。とゆうのはペルシアはその地域から撤退したからである。この事態で人々は、紀元前四七九年当時に想定していた事態はなくなり、ペルシアの脅威はさった。こう判断しても不合理でないが、アテネの見方はちがう。 また他の同盟国のおおくもそうだった。ところがそうおもはない同盟国もあった。これまでどうり拠出金をはらい、あるいは艦船を提供することに疑問がうまれた。

* ペルシアの脅威の判断
名前はわすれたが、ウェスト・ポイント(米国士官学校)の卒業者でNATOの第二位の司令官。彼がツキジデスのことをしっておりデリアン同盟のこともしってたが、この当時と比較して、NATOの同盟側がソ連の脅威がうすれると拠出金をためらうようになり、逆に脅威がますと、あつまってきて拠出金をだすと言いだした。これはデリアン同盟においておきたこととおなじだといってる。この同盟をつづけてゆくのかどうか。これが問題となってゆくが、これは次にのべる。
(3の3おわり)

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ケーガン、ギリシャ歴史、アテネ帝国(14)、(3の2)


* 攻守同盟の結成
たしか紀元前四六一年だがアテネとスパルタのあいだで衝突があった。それまでずっと同盟関係を維持してたが、アテネがこの同盟から脱退した。紀元前四八一年に彼らは紛争の歴史があったが、それを脇において同盟をむすんだ。そしておなじ「友と敵」をもった。これは有名な条項だが、言いかえれば共通の外交政策をもったのである。繰りかえすがスパルタが政策をきめるのでなく、同盟が会議によりきめるのである。これは典型的なギリシャの同盟の方法である。このことをギリシャ語でいうとシマヒア(symmachia)というが、これは攻守同盟という意味である。

私はあなたの側にたってたたかう。あなたが攻撃された時だけでなく、もしあなたが他の誰かとたたかう時にもたたかうというわけである。その戦いはあなたの判断でおこなう戦いをふくむ。私はその時もあなたの側にいるとゆうわけである。この攻守同盟はギリシャ人がしってる惟一の同盟関係だった。お金のことは何もかいてない。同盟のための共同の基金にかんする条項はない。その意味は、各都市が自分の軍について自分が負担するとの考えかたなのだろう。定期的に招集される会合についての条項もない。会合は必要とかんがえた時に招集する。すべてのことは全員の合意により決定される。これは全員一致をもとめるものでない。ほぼ全員の合意が必要とゆう意味である。これはあたらしい事態であり、革新的なことである。これは最初の汎ギリシャ主義の戦争の出発ともいえる。トロイ戦争以来からみて初めてともいえる。

* 三つの島の要望への対応、スパルタとアテネ
さてすでにのべたが、三島防衛の要求をどうするかが議論となった。その時、そのため拠点に軍をおくるなどの約束をせず、スパルタはただ本国に引きあげていった。公式に表明された行動はない。何事も変化しなかった。そしてたんに帰国すると決定した。アテネだが、彼らはあたらしい政策を実行にうつしていく。彼らが前面にでる。彼らの主張を追及する。最初にいったことである。ペルシアはアティカに侵入し、おそるべき損害をあたえた。アクロポリスにのぼり、破壊した。そこにあった寺院、アテネ人からすればおそるべき神への冒涜である。彼らはこのようなことが二度とおこらないようにしたいとおもった。そこでアクロポリスの防禦および都市の壁の強化をはかった。他の都市はどうおもったか、興味ぶかいはなしがある。同盟国のいくつかから文句がでた。スパルタにいいつけた。アテネの行動に文句をつけた。これはわるい考えといった。そういったのはシーブス、メガラ(Megara)、コリンスというのが私の推測である。シーブスとメガラは隣国であり、アティカと隣接してる。またふるくからの敵である。コリンスは国境をせっしてないが近くの隣人である.アテネの強大化してゆく海軍と商業力に抵抗しようとしてる。コリンスは従来から巨大な海軍をもってた。商業においても勢力をほこってた。考古学的証拠によれば六世紀の昔からアテネに対抗してきたことがわかる。

* アテネへの文句、セミストクレスの謀略
その文句の中身だが、彼らがいう。もし壁が強化されたら、防衛力がたかまり、アテネは自信をもち、より攻撃的となる。その結果、問題を引きおこす。海の戦いでアテネはおどろくべきことをした。それはふるくからの敵対者や隣人たちの不安をたかめた。スパルタはこのことをしってた。また友人たちの文句を気にしてた。そこでアテネのセミストクレスがいったが、彼につき補足説明する。戦いのなかで偉大な英雄として登場してきた。かずかずのすばらしい業績をあげた。アテネの海軍を取りしきった。サラミスの海戦で重大な決断をした。人々は彼こそがこの勝利を引きだしたとおもってた。歴史家、プルターク(Plutarch)がいう。この後でおこなわれたオリンピックゲームのことだ。彼が登場した。ゲームをみてた観客はゲームをそっちのけにして彼に注目した。彼の人気はすさまじかった。これを何にたとえればよいか、たとえば、ルーズベルト(Rosevelt)、チャーチル(Churchill)、スターリン(Stalin)、彼らを一人の人間に詰めこんで、第二次大戦の後に登場させる。これがセミストクレスだ。これくらいかもしれない。で、セミストクレスはスパルタにいった。

彼はその頃、アテネの大立者になってた。アテネの壁の再建をできるだがはやく完成させる。そしてアテネの立場をできるだけ有利にする。彼はこれを海軍、国際関係、一般の問題においてかんがえてた。彼はこのため、ちょっとした策略をたくらんだ。ツキジデス(Thucydides)がいう。彼はスパルタにいった。スパルタも人をアテネにおくった。その時、彼はアテネ人に彼らを自分がもどってくるまで抑留しておけといった。次にこういった。アテネの壁が充分な高さになって防衛の機能がたかまったら、すぐおしえてくれ。そして彼はスパルタにいって、はなした。スパルタは彼に、アテネ人は壁をつくってるねといった。我々はそれをやるのはあなた方の問題と承知してるが、もしペルシアはやってきて、アテネの壁をつかって彼らの拠点をつくる。それを我々の攻撃の拠点にする。これが可能となる。するとセミストクレスがいう。そんな馬鹿なことをどこできいたのか。こんなことだったらしい。彼はいう。スパルタは代表団をアテネにおくれ。そして、私が帰国するまで彼らをそこに滞在させろといった。ある日、アテネから使者がやってきて壁が完成したことをしらせた。彼はスパルタ人にいった。あなた方は壁について文句をいってたが、あなた方のいってたとおりだった。我々は壁をつくった。これから我々は充分に巨大となった。充分に自分自身を防禦できる。では、あなた方は何ができるかと彼がいう。そしてそこで演説をした。

それは一種の独立宣言である。スパルタと 対等となったという意味である。我々はあなた方から命令をうけない。もし助言があるというなら、それはあなた方のなかにとどめてほしい。我々のことは我々がきめる。あなた方のことはあなた方でやってくれ。あなた方は我々の優越者ではない。我々はあなた方と対等者だ。ということをいった。ツキジデスはいう。セミストクレスはそれからスパルタで人気がなくなった。これでスパルタは彼にずっと打撃をあたえようとするだろう。また取りのぞこうとするだろう。それはともかく。彼は自分がやろうとしたことを実現した。アテネは壁でまもられた都市となった。スパルタとの公的な関係はともかく。ギリシャ同盟においてアテネは独立したプレーヤーとなったのである。

* アテネ、 対等の競争者
ツキジデスはいう。スパルタはこれを受けいれた。しかしひそかに恨みをだいてた。そういえる手掛りがある。これから彼らのあいだでおきる事態のなかにみえるものがある。スパルタには党派がある。事態は複雑だが、これだけはたしかなことである。あるスパルタ人はペロポネソスに引きこもる。これでよい。そしてペロポネソス以外の世界とはまったく関係をもたない。エーゲ海、それ以上の世界のことである。そうして、伝統的な生活にもどるというわけである。平和党、保守派である。当然、戦争の勝利の後にスパルタの勢力を拡大したいというものもいる。

ギリシャ全土、さらにそれ以上、海外までというわけである。この考えは表面的には表にでない。ひそかに存在してゆく。スパルタの公的な立場はアテネの立場をみとめるというものである。これは今後の動きのなかにあらわれてくるだろう。

* パウセニアスの悪業
プラティアのスパルタの軍の指揮官のパウセニアス(Pausasenius)だが、彼は戦いの後に指導的役割をはたすのだが、彼はスパルタの二人いる王の一人である。彼はその前に指揮をとってた王が引退しエーゲ海にでていった。艦隊も引きつれていったのだが、彼はビザンチウム、ヘルスポントや海峡でペルシアとたたかい成果をあげ、海峡を支配下においた。だがギリシャ人のなかに敵をつくった。その理由には同僚のギリシャ人を劣等な人々としてあつかった。あたかもスパルタの部下のようにあつかった。これは外にでたスパルタ人がみせる一般的な傾向である。その程度は人によりちがうがパウセニアスはそれがひどかった。同盟のギリシャ人にたいする態度にあらわれ放置できない問題となった。これにくわえてさらに問題があった。

彼は富や贅沢に取りこまれてしまった。ペルシア人がみせた富や贅沢にである。理論的にいうとほとんどのギリシャ人は非常に貧乏であり、ペルシア人の道徳心の欠如を彼らの観点から毛嫌いしてた。ペルシア人は何よりも非常に裕福であり、ギリシャ人はそうでない。その富を多様な目的につかう。それはギリシャ人にとってはギリシャ的でなく、また魅力的でもなかった。

しかしパウセニアスはそれに取りこまれた。それで彼はまるでペルシアの州長官のように振るまいはじめた。こんなことが同僚のギリシャ人をいらだたせた。そこで彼の罪状が問題になり彼はスパルタにおいて専政主として告発された。次は反逆であった。ペルシア側と州長官の地位につきなんらかの取引をしたらしい。これは本国送還、裁判にかけることとなった。彼は罷免されふたたび指揮官として派遣されなかった。 さらに別の罪状が告発されるはこびとなった。それは死刑にしょせられるべきものだった。

大事な点だがスパルタはひどい不名誉を同僚のギリシャ人にあたえこの指揮官を引つこめた。かわりの人物、ドーカス(Dorcus)という人物をおくった。同盟軍はスパルタの指揮官は今回は受けいれないと拒否した。彼を母国に送りかえした。これは非常に重要な出来事だった。同盟軍は、今やエーゲ海やその境界にいる人々である。彼ら はアテネの影響をうけ、将来的にはアテネ帝国にはいる人々である。これらの人々はスパルタの支配をよろこばない都市にいる人々である。どうしてこうなったか。

* スパルタの気持
最初はパウセニアスの愚行である。彼がスパルタへの信頼をうしなわせた。スパルタはこの種の海の活動は得意でなかった。その証拠はかならずしもはっきりできないが、紀元前四七九年に彼らは三つの島々の加入に反対している。また、そこには海戦に勝利したアテネがいる。この種の活動は彼らのもっとも関心のあるところである。アテネはそんな事態をまち、それに対抗する覚悟がある。送りかえした同盟の人々の気持のなかには、スパルタにたいし、もうおくってこないでくれというものがある。スパルタはドーカスのかわりをおくらなかった。そこにはそれを受けいれ、スパルタは将来のペルシアへの作戦には参加しないとの考えがある。それはもしおこればより攻撃的になることはあきらかだったからである。

* ペルシアはアテネにまかせればよいとの考え
ツキジデスはこのスパルタの判断についてこういってる。スパルタ人はペルシア戦争から手ををひきたい。アテネがその戦争を主導する、それだけの能力をもつ。スパルタがどうおもおうとやってゆく用意がある。自分たちがこの戦争をやってゆく必要がない。このようなことをやりたいともおもわないとおもってる。というのは、アテネがやってくれるから、すべてはうまくゆく。問題ない。彼らは我々の友人だ。だが、それは間違いなく、すべてのスパルタ人がかんがえてることでない。

それは一つの党派にいる人々の意見である。保守派、平和主義、ペロポネソスにとどまろうという党派である。彼らはなおも支配的な勢力である。私はうたがうが、パウセニアスの愚行によりうしなわれたスパルタの威信であるが、彼らの立場をつよめたとおもわない。あきらかにいえることだが、代替を他の同盟から拒否されたことについて、スパルタは無理に代替をおくろうとする必要があるのか、そうすることで我々を不人気にする必要があるのかとかんがえた。我々のところにかっておおくのギリシャ人がやってきて、我々に頼みこんだ。彼らのためにたたかってくれ、彼らをまもってくれといってきた。ところが今や彼らは我々を拒否した。だから我々はペロポネソスにとどまり、外にでる必要はない。これは我々の作戦でない。こんなことが議論されたのだろう。

* ペルシア攻撃の主導者、アテネ
ではペルシアへの攻撃がおわることを意味するのか。否、同盟はそうかんがえてない。そこで、彼らはアテネにむかった。そしてこれからやってくる戦いを主導するようもとめた。ヘロドタスはこういってる。アテネはパウセニアスの傲慢さ(hubris)を口実にしてそこでのギリシャ人の主導権をにぎった。その計画はこうだった。彼らは自分たちの作戦を実行することを希望してる。作戦をつくり、その考えを実行しようとしたという。

しかしそれはちがうとおもう。その根拠だが、部分的にただしいところがある。だが、はっきりいえることは、アテネは、彼らがアテネにもとめることをやる意志と用意がある。しかし彼らがその力と影響力、あるいは意志を発揮し同盟に決断させようとするとの考えがあったか。それが同盟がのぞんでないのにやるとの考えだが、それはちがうとおもう。私はすこし面倒な比較をおこなう。第二次大戦後の、北大西洋条約機構(NATO)の形成とデリアン同盟、これは最終的にはペルシア戦争の後にアテネ帝国につながった同盟だが、その形成についてである。

* NATO形成の過程
デリアン同盟についてである。ノルウェーやスウェーデンの学者がNATOの形成過程を説明してる。まず主導する者(hegemony)の確立が要請(invitation)されたという。それは一九四五から一九四八年にかけおきたことである。欧州人たちが究極にNATOの一部になる。そして米国人がこれにくわわることが必要だといってる。第一次大戦でやった失敗を繰りかえさない。それは米国が北米に引っこみ欧州と政治的関係をもたなくなることを意味する。それは欧州各国を恐怖に追いやる。欧州を崩壊させソビエトの勢力下におくことになるとおそれてたという。

彼らは米国が指導してくれることがぜひとも必要だとおもってた。米国はよろこんでそうすることにしてた。でもすべての米国人がのぞんでいたわけでない。ちがった考えの党派があり、ちがった意見があった。米国大統領や米国政府はことなる意見と一生懸命にたたかわねばならなかった。米国民を説得しなければならなかった。それが実現したのだが、米国の国益が欧州を以前の状態にもどすこと、共産主義者に抵抗し欧州をその勢力下におかさせないである。議論でこれが勝利した。
(3の2おわり)

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ケーガン、ギリシャ歴史、アテネ帝国(14)、(3の1)



* 関連年表
499 イオニアのギリシャ都市の反乱
4\\90 マラソンの戦い
480 サラミスの戦い
479 プラティアの戦い、マイカリの戦い
478-7 デリアン同盟の結成

* 敗戦でペルシアがかんがえたこと
ペルシア人たちはやるべきことがおおかった。それにギリシャにまたもどってくることもかんがえねばららなかった。大王はちっぽけなギリシャ人に敗北したといことをみとめたくない。個人な面子もあったろう。だからペルシア人は多忙だった。

* サラミスの戦いの意義、三十一の参戦
私はここで紀元前四八〇年の戦いの詳細をのべるつもりはない。一連の戦いが大ペルシア戦争をつくってる。そこの個々の戦いの意義であるが、紀元前四七九年のペルシアの敗北は、紀元前四九〇年のマラソンの敗北より、広範な影響をあたえるものだった。その一つは、ギリシャ国民への影響である。ここではおおまかな意味で国民といってるが、ギリシャには千をこえる都市国家がある。この戦いに参加したのが三十一だった。マラソンはアテネ、スパルタ、ほかだった。

紀元前四八〇年に、これだけがペルシアに抵抗すると署名した。そこにはギリシャの最重要、最大、最強規模の都市国家がふくまれてたが、全ギリシャの勝利というほどでないとおもう。マラソンはさらにそうである。次に自由の問題である。

* 自由への戦いだった
彼らがこれまでどおりの生活をつづけられるか、都市のなかで自由にくらし、彼らの生活のやりかたを発展させてゆく。独自の生活を発展させる。あるいは、そうでなく、ペルシアの支配にふくし、一つの州としてくらす。これはおおくの民族がやってることである。どちらだろうか。

イースカレス(アイスキュロス Aeschylus)があらわした最古の演劇脚本がある。そこに当時の人がペルシア人をどうかんがえたかをみることができる。

そこで中心事件はサラミスの海戦である。ここでギリシャがペルシアの艦船をやぶった。これは大ペルシア戦争でもはやペルシアがかつことはないという意味をもった。これから後の二つの決定的な戦いでペルシアを徹底的に追いやったのだが、かれの劇中人物がこういう。

おおきな声がひびく。ヘラス(Hellas)の息子たちよ。お前たちの母国の地を支配から解放せよ。子どもたちを、妻を、お前たちの父なる神々を、そして先祖の墓所を解放せよ、といってる。別のかたちで説明する。

この劇はサラミスの戦いからほぼ七年、同時代といえる出来事を取りあげたものである。これはわかるように中心テーマは自由である。そしてこの年の後に二つの決定的な戦いがおきた。

* プラティアとマイカリの戦いの意義
南部、ビオーシャ(Boeotia)のプラティア(Plataea)での戦い、ここでスパルタ、アテネをふくむギリシャの陸軍がペルシアの強力な陸軍を迎えうち、やぶった。ヘロドタスがいう。すばらしい偶然の一致がおきた。たぶん本当のことだろうが、おなじ日、小アジアの沖、マイカリ(Mycale)の戦いで勝利した。これはほとんどが海戦だった。ギリシャの艦船がペルシアの艦船をやぶった。ペルシアはただ逃走しただけだった。ギリシャはこれをおって、可能なかぎりおおくの敵をたおした。この戦いの後に重要な会合がひらかれた。

* デリアン同盟の発足へ
これは将来にわたって影響をあたえつづけたものである。小アジアの沖にある重要な島、セイモス(Samos)で キオス(Chios)、レスボス(Lesbos)、セイモスの人々があつまった。これはこれからの戦争を遂行してゆくため会合だった。彼らはアジアの非常に重要な島々である。彼らはこの会合を利用して、彼らは紀元前四八一年に結成されたペルシアに抵抗するための同盟への加入がみとめられるよう希望を表明した。彼らはこれを単純にギリシャ(Hellenes)同盟とよんでた。何故このような希望がでたのか、である。

* 三つの島の思惑
この同盟はペルシアとたたかうための同盟である。我々からみればペルシアとの戦争はおわった。ペルシアは追いだされた。またもどってくるとか、ギリシャの勝利を長期間にわたりみとめない。そんなことはないとおもう。しかしギリシャ人はこれをしらない。ペルシア帝国はまったくそこなわれてない。彼らはなおも宏大な地域を強力に支配しさかえてる。ギリシャ人にとってそのペルシアがまたやってこないとしんじないのは無理がないだろう。こんな事情がある。この三つの島の人々は、もしペルシアがやってきたら自分たちをまもる。そのための同盟にはいることを希望したのだ。

* スパルタの思惑
そこで会議が開催された。これにたいする思惑はいろいろだった。誰の参加をみとめるかどうか、問題となった時のスパルタの対応であるが、基本的に否だ。これには彼らの合理性がある。彼らは安全と安定を優先する。予測可能な将来に危険がないとおもってる。つまり、ペルシアがまたギリシャに侵攻してきた。そしてペロポネソスに覇権をもつスパルタに脅威をあたえる。その可能性をかんがえる。また国内事情から、スパルタは自国をとおくはなれることをもっともきらう。海をわたって戦場におもむくことをきらう。また恒久的に軍を外に駐留させることをきらう。これは伝統的な対応である。活動をおわらせ軍を本国にもどす。これをさまたげる責任を引きうけることをきらう。もしこの島々を同盟にいれたら、彼らのため、彼らの自由のためにたたかわねばならない。ところでアテネ人である。

* アテネの思惑
彼らは反対の見方をする。彼らは同盟に迎えいれることは極めて好意的である。これにも合理的理由がある。スパルタと状況がちがう。彼らは海上にいる。海になじんでいる。そこに彼らがいきてゆくうえで、極めて重要な供給路をもってる。彼らは外にでてゆかねばらず、海において自由が確保されてる必要がある。そのためにはペルシア人を排除する必要がある。エーゲ海、ヘルスポント、海峡など。自由な航行を確保する必要がある。

この理由だけでもこの三つの島の要求を真剣にかんがえねばならないが、さらにたとえばセイモスには親戚がいる。アテネ人はイオニア人にとっては模範とみなされる都市である。このような心情的な親近感もある。よりはっきりといえば、エーゲ海からペルシア人を排除する必要があるということである。紀元前四九九年の反乱からここまでアテネはペルシアから小アジアのギリシャ人たちが解放されることを希望してた。アテネは議論で勝利した。この三つの島の加入をみとめた。同盟がペルシアの脅威から彼らをまもる。

* スパルタ、ペロポネソスの離脱、戦いの継続
この合意の後にそこにいたスパルタ艦船の司令官、レオティキダス(Leotychidas)王は帰国した。当然、スパルタの兵たちも帰国した。私はそこにはペロポネソスの兵たちもふくまれてるとおもう。それにたいしアテネの司令官、クサンシッパス(Xanthippus)はとどまり、さらにその地にいたペルシア人との戦いを継続したとおもう。ちょっとした証拠である。

クサンシッパスの息子はペリクリース(Pericles)である。彼のことは後にもっとふかくふれる。ペルシアは逃走したがなお、ヨーロッパ側の都市のいくつかにはペルシア兵がのこってった。そこに非常に重要な都市、セストス(Sestos)がある。これはダーダネルスのヨーロッパ側にある。クサンシッパスはこれに城攻めをかけた。アテネとまだのこってたギリシャ人が参加した。すこし時間がかかったが、城攻めに成功し、ペルシア人を排除した。戦いの結果はギリシャの自由の擁護と正当性のあかしである。この勝利で彼らはこれまでやってきた生活をつづけることができる。

* アテネ海軍の増強
もう一つの重要なことがある。紀元前四八二年、アティカの南部で銀鉱山が発見された。極めて優良な品位の銀山だった。これがアテネの議会で取りあげら、銀をどうするか議論された。最初の考えは、皆んなによろこばれるもの。平等にわける。都市国家というものは資本を持ちよった企業のようなもの。だから素敵なものができると、投資家に配当する。こういう考えである。セミストクレスは別の考えだった。ペルシアの脅威が常に存在する。その戦いにそなえることが必要だ。彼は海軍力の増強が重要とかんがえた。これまでほかのギリシャ人たちがかんがえたことのないものだった。

彼は次の提案をした。アテネに艦隊をそなえる。そのため艦船をつくる。最終的に二百隻の三段櫂船(トライレム:trireme)をそなえた。これは古代ギリシャの戦艦である。サラミス、マイカリの海戦においてペルシアをまかした中核艦船だった。スパルタは陸海の二つにおいて指揮権をもった。だが彼らは海軍はすぐれてない。アテネはすぐれてた。アテネの艦隊が中核だった。それが最大のもっとも効率のよい働きをした。サラミスの海戦はアテネの内海の戦いだった。セミストクレスとそのすぐれた艦船は勝利の道をすすんだ。。最初は彼はギリシャ軍をサラミスでたたうようにしむけた。次にサラミスで勝利した。ペルシア侵攻の結果うまれたことがある。

それはそれまでなかったもの。アテネの強大な海軍力である。その威力のすばらしさが戦いで実証された。それは武力のなかのあたらしい要素、極めて決定的なものだが比較的にあたらしい要素である。海軍による戦いが重要なこともあった。だがこれはこれまでにない次元のものである。アテネはあたらしい軍事力を作りあげ、実績をあげた。もう一つの戦争の結果である。

* 汎ギリシャの意識高揚
それは ギリシャ人の自信を前例のないほどにたかめたことである。誰もが予測してなかった。それはおどろきである。このことは強調してもすぎることがない。もし大王が真剣になって、軍をおくってきたら、十万、二十万という数字になるだろう。ヘロドタスがそういっているが誇張されてるれるといわれてる。本当のところはわからないが、ギリシャを数で上まわってた。誰もがペルシアが簡単に勝利するとおもってた。ギリシャ人はペルシア戦争の勝利はギリシャ人が自分たちが他の人種よりすぐれているとの優越感をもつことを、ただしいとかんじるようになった。アテネ人も、その勝利で中心の役割をはたしたから、当然おなじようにかんじてた。これは従来なかったものである。彼らの心と頭脳のなかにあるものである。他人が注目するものである。彼らが誇りにおもって当然である。それを彼らがやったという感覚があった。私は彼らは壮大なこと、今後もつづけていってよいことをやったとかんがえたとおもう。

もうひとつの重要なことである。これは彼らがはじめてやった偉大な全ギリシャを包括する汎ギリシャ的(panhellenic)活動であった。バラバラにわかれがちな彼らのなかにはギリシャ的(Hellenes)とよぶような何かがある。そういう意識がだんだんとあきらかとなってきた。それはギリシャの人々をギリシャでない人々とちがったものとするものである。彼らがおこなう重要な体育競技大会、宗教的祭典であきらかなかたちとなっていった。

これらがギリシャ的であり、その感覚をそだてた。だが勝利がその感覚をそだてた程度はこれと比較にならないほどだった。この戦争で汎ギリシャ主義(Panhellenism)が水平線のうえに顔をだした。私はギリシャ人たちが単一のまとまった人々にかわったとか、地方主義(localism)、あるいは自らの都市をあいすることをやめたといってるのでない。だが、これらの伝統が汎ギリシャ主義とかならずしも対立するものでない。

これはローカリズムや個々のポリスを結びつける働きがある。これと比較できるものがある。第一次大戦の後のことである。戦勝国側の人々のなかには共同して世界平和をもとめようとした。さらに第二次大戦の後にもみられれた。いくらかの人々は準宗教感情をもって、偏狭な(parochialな)国益の主張をさけようとした。これが国際関係の役割をかんがえる時にあらわれた。これが機能するにはすべてのことが、まるで世界政府が存在し、それが管理してるかのように、きちんと事がはこばれねばならないことなのだが。しかし存在しないことが真実であることも人々はしってる。いずれにしても汎ギリシャ主義の考えにはよいところがある。というのは、あなたがこれからはじまる歴史において、いろいろな思想家や演説家があきらかにする意見にみとめられる考えである。国や政府がその主権や独立性、自治を制限するということは一つの考えなのである。

* ギリシャ世界の分断
もう一つの戦争の結果だが、ギリシャの世界の分断である。アテネがこの戦争のなかで強大な勢力に台頭してきた。誰もが勝利のなかでその指導的役割をみとめる。スパルタだが、誰もがみとめる公的指導者である。スパルタの王がプラティアの陸戦で指揮官であり、海戦においても彼らが指揮した。アテネは戦果をあげ実績をのこした。そこで疑問がうまれた。従来スパルタがもってた指導的役割はどうなるのか。スパルタが惟一の指導者の地位を保持するのか。アテネが台頭しこれに対抗するのか。それはすぐあきらかとなった。アテネが対抗し取ってかわろうとするのである。

これからくる五十年の主要な問題はアテネとスパルタの衝突である。私はそれを冷戦とよぶが紀元前四七九年から紀元前四六〇年頃まで、実際に戦いはなかった。両国が直接に衝突するのは紀元前四五七年である。この戦いは停止し平和が回復し、今度はペロポネソス戦争にはいっていった。これがこの世紀の最後の三分の一を支配した。これが将来の展開だが、今、ここの時点であきらかにいえること。それは体制がかわったのでその転換が必要だということである。

戦争の前は、一つだったがその後はあきらかに二つとなった。ギリシャ人はこの戦争が作りだした問題に答をださねばならない。その一つは誰が指導するか。さらに、問題がある。戦争をとおしていくつかの都市はペルシア側にはいった。これを人々はミダイザ(Medizer)とよぶ。これをどうするか。極論がある。こられの都市は完全に破壊してしまう。もう一つが過ぎたことは過ぎたことと放置するものである。この中間に答えがありそうだが、この問題も答えがでないまま問題としてのこってる。さらにである。

* 将来のペルシアの脅威、二つの考え
ペルシアは将来、脅威となるのか。もしなるのなら、いくつかの対応策をまとめた政策が必要となるのでないか。もしそうでない。ペルシア問題はなくなったとすると、我々はこれまであった正常な日常にもどれるのか。これまでの政策を修正しない。すでにのべたが、スパルタとペロポネソスの都市はペルシアの脅威はさったとかんがえがちである。アテネ人、島の人々、イオニ人たちは、否、まだまだ脅威があり、すぐにも現実化するとおもってる。ペルシャ問題はおわってない。たたかいつづけねばならないとかんがえる。

* 前のギリシャ同盟の結成
これから、あたらしいペルシアへの対応策についてのべるが、まず紀元前四八一年に逆のぼる。この年にゼクセスは進軍を開始した。ペルシャ帝国からギリシャにむかっての進軍だった。これをしってギリシャはコリンスに三十一の都市があつまった。そこで誓約し団結して、ペルシアとたたかうときめた。彼らは公式にスパルタを同盟の指導者(hegemon)と指名した。スパルタが陸においても海においても指揮する。戦いがはじまれば命令をはっする。もちろん、何をするか。どこにいってたたかうか。いつたたかうか、などの決定は三十一の同盟国からなる合議体が決定する。スパルタはこれらについて彼らの意志を制約しない。これが平等の参加者からなる同盟のやりかたである。だが実際は都市国家の力はちがう。当然、スパルタの力と他との差はあきらかである。また大規模の海軍をもつアテネの影響力もおおきい。これが実際のギリシャ同盟が機能するやりかたである。スパルタが指導者となるがこの同盟とペロポネソス同盟は別物である。相互の関係も同盟員の資格もちがう。ギリシャ同盟はペロポネソスの都市でない都市やスパルタと同盟関係にない都市もふくんでる。彼らは次の誓いをたててる。

ギリシャ人は共有する自由のためにたたかう。島々と小アジアのギリシャ人を解放するためにたたかう。恒久の組織である。
(3の1おわり)

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