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スパルタの栄光、その二、ペロポネソス戦争の勃発 [英語学習]

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* はじめに
ペルシアの敗退後、スパルタとアテネの同盟は長続きしなかった。両者の違いが際だっていたからである。軍事のスパルタと民主主義、経済、文化のアテネ。これだけでなくスパルタ女性の独特の地位。社会に積極的にでて発言、財産権をもつ。他の都市の女性にはない特徴である。スパルタはペロポネソスの奧にもどったがアテネは東地中海の覇権をにぎる。猜疑心をつのらせるスパルタが地震をきっかけにヘロットの反乱にあう。ここでアテネとのあいだに亀裂がうまれペロポネソス戦争に突入する。アテネの指導者、ペリクリースの死によりいったん小康をえるが、西の重要拠点パイロスをうばわれ百二十の兵が降服する。和平はなったがそれはあたらしい戦いのはじまりでもあった。
(The Spartans - Part 2 of 3、Timeline、World History Documentaries、2017/08/26 に公開)

* ちがいが際だつスパルタとアテネ
紀元前二千五百年前、西欧文明は破滅の危機にひんした。東からペルシア軍が侵入してきた。独立をたもってたギリシャの都市国家を従属させようとした。圧倒的な兵力にめんしてスパルタとアテネが抵抗に立ちあがった。テルモピレ、ここの隘路において三百のスパルタ兵が英雄的な戦いをおこなった。彼らは玉砕して敵の進軍をおくらせた。ギリシャの他の都市に戦いのやりかたをしめした。その数日後である。

アテネの海軍がペルシアの攻撃をうけた。彼らはアテネの中心から数マイルはなれたここサラミスの沖で彼らの艦船を攻撃した。この戦いでアテネとスパルタは同盟してたたかった。だが彼らは対称的であった。アテネの政治は民主主義、ギリシャにおいて経済と文化の中心であった。また対外的にひらかれたたかい文明をもつ社会であった。そこでは力は民衆とともにあった。他方、スパルタである。

彼らは軍事国家、えらばれた戦士が支配した。その生活を多数の奴隷がささえてた。スパルタの男子は常に試練がまってた。国がもうけた幼児殺しの関門をかりに生きのびたとして、七歳になったら母の手からはなれアゴギという訓練キャンプにはいる。きびしい訓練のなかで彼らに栄光か死というスパルタの倫理が教えこまれる。彼らはほとんど女性とは交流のない生活をおくる。ところで女性というと不可思議なもの独立したもの才知あるもの肉体的にも政治的にも強力な存在とみられてた。

* 同盟関係の破綻、ペルシア戦後のちがい
スパルタとアテネは対極にある。たがいに矛盾し両立しがたいもの。もし共通の敵がいなかったらたとえ協力をさぐっても結局は不安や猜疑心をさそい混乱におわるだろう。かって同盟関係にあったが両都市はたがいに武器をもって対立する事態となった。叙事詩に登場するようなスパルタとアテネの戦いがはじまる。その争いの結果はギリシャの運命をきめるだろう。

ペルシアが侵攻した時にスパルタ人がかんじてたものとアテネ人がかんじてたものはずいぶんちがってた。前線から数百マイル(百マイルは百六十キロ)はなれラコニアの牧歌的な田園地帯にあったスパルタ本土はまったく直接の影響はなかった。それにたいしてアテネは侵攻をうけそのアクロポリスは放火、破壊された。ここスパルタはペロポネソス半島の奧にあって戦争はとおいものだった。平和が回復するとスパルタ人は日常生活にもどった。それはいつもの規則にのっとり軍事優先のものだった。ここの社会は規則ただしく従順で、なかんずく家庭や個人の要求をおさえ国家のためにすべてを犠牲にするのをいとわないというものだった。必要だったら命をおしまない。その目的はただスパルタ人が作りあげたとしんじる理想郷をまもることだった。そのために必要なのはさらにおおくの重装装備の戦士を作りだすことだった。それ以上はほとんどない。ただ現状をまもりたい。それだけだった。しかし戦後のアテネはちがう。

事態は急速にかわっていった。くるしい占領の後に歓喜の勝利がやってきた。都市はおおきく変容する。戦争前に民主政治の基礎はきづかれてたけど実態のともなわない名前だけのものだった。それは一人の男、財力をもった男がおおきな権力移動をおこなった。うまれたばかりのアテネの民主主義にやってきたのだった。これは三段櫂船の展示である。これはほぼ二百の漕ぎ手がのる。このような船がペルシアの艦船をサラミスにおいて無力化した。たたかう艦船の漕ぎ手はアテネの貧困層の市民であった。彼らが攻撃の主体である。彼らは政治のなかで最下層にぞくする。筆者の注。伝統的兵力の主力は重装歩兵であった。鎧兜など高価な装備の調達は富裕層、地主層でなければむすかしかった。注おわり。サラミスの勝利の後に彼らは政治的要求を声高にさけぶようになった。

* アテネの民主主義の成熟、海軍をささえる下層民
アテネの民主主義は活気づいた。この艦船の漕ぎ手の頂上にたったのはペリクリースである。彼は富裕な貴族。何代にもわたりアテネの民主主義を牽引してきた。彼はするどい感覚で時代の変化を見ぬいてた。そしてその先頭にたつて牽引するという野望ももってた。その権力をたもつためには貴族から一定の距離をおき、平民の支持をえるようつとめた。彼はすぐれた演説家であった。議論や演説をとうして民衆の協力を獲得した。しか彼が民衆の支持をえたのはそれだけでない。巨大な建設計画を発表した。これは実際は貧民層のための仕事の創設だった。彼はいう。

* 新興勢力の指導者、ペリクリース
あらゆるかたちの事業とそのために必要な需要を作りだす。それはすべての芸術家の想像力、すべての働き手の参加が必要である。そこからすべての人々が報酬をうけられる。彼らは都市をうつくしくかざり維持する。

彼は市民のお祭りに公的支援をおこなった。パルテノンの建物のような記念的建物に公金をつぎこんだ。もっとも重要な業績は裁判の陪審員や戦争の兵たちに国が報酬をはらったことである。艦船の漕ぎ手たちはアテネの民主主義においてはじめて政治権力をにぎった。ここに人々により統治される民主主義がはじめて実現した。

ここ市場(いちば、アゴラ)では市民の声がきこえる。ここではアテネの日常生活がいとなまれる。ここに職人、法律家、商店主、哲学者など多様な人々があつまってきて都市の喧騒と活気をつくった。あつめられた彼らの声はアテネの民主主義の基盤となった。国家の公職は財力や地位に無関係にすべての人にひらかれてた。市民は政治活動に積極的に参加することが期待されてた。議場において演説や論爭がおこなわれる時には市場への入口はすべて閉鎖された。アテネでは民主主義に参加することが強制された。それはスパルタで軍隊の規律が強制されたのとおなじである。

* アテネの経済、文化の拡大、ペルシア対抗の盟主
ペルシアの敗北後に革命的に変化したのはアテネの政治だけでない。経済、文化の活動もそうである。それらには活力とあたらしい考えかたが吹きこまれた。ペルシアとの戦いでギリシャ同盟軍は勝利をおさめたがペルシアはなおもつづく脅威であった。ギリシャの都市は東の強敵とたたかう指導者を必要とした。スパルタはこの仕事を引きうける気がない。関心が内むきとなった。ところが旺盛な対外的関心をもったアテネの民主主義はこの仕事を引きるけることとなる。ペロポネソスにまもられている現状に満足してるスパルタとちがいアテネは常に海とともにあった。

ペルシアの敗北とともにアテネはパイリアスの港とのあいだに連絡路をつくりそれを壁でまもった。これはアテネが対外的に海上の覇権を主張したことを意味する。物資の交易、人の移動において帝国を作りあげれる力があることを宣言したようなもの。アテネはこの建設のため都市の資材を消費しつくした。都市の記念碑や墓場の墓石まで供出させた。その結果、十二マイル(十九キロメートル)の堅固な壁が完成した。これはアテネの富をまもり他の都市の干渉を排除できるものである。アテネは東地中海における警察官となった。

同盟国はアテネにしたがい貢納金をおさめることが期待された。もしこれにさからうならば彼らの港にアテネの艦船があらわれるであろう。これは三段櫂船外交というものである。このような力の均衡の変化をスパルタが見のがすはずがない。海軍の急激な発展はスパルタにとって充分な脅威だった。だがそのうえに防御壁の建設をしり彼らの憂慮はいっそう深刻となった。

* 台頭するアテネを懸念するスパルタ
スパルタは防御壁をきらう。壁は都市をつくり都市は注意してないと民主主義のようなものを輸出する。彼らは壁にまもられた都市をおそれ、それ以上に民主主義をおそれた。スパルタは壁をもたないことで有名であった。こういうことがいわれてる。壁は若者である。国境はその槍の先の刃である。スパルタ人にとって都市をつくるのは法、壁やおおきな建築物でない。それは彼らの思い、理想である。

アテネとスパルタは明快に違いをみせる二つの存在である。スパルタは軍事国家であり外国人ぎらいである。アテネは躍動的で世界に門戸をひらいてる。もちろん、実情はそれほど簡単でない。アテネは帝国主義的で傲慢で攻撃的だった。その民主主義は女性、外国人、奴隷を排除してる。ギリシャ人にとりアテネの問題は、彼らのはげしい移り気、ギリシャ人が大切にしてるよき秩序を破壊しようとしてることである。

紀元前五世紀の詩人、ピンダーがいう。よき秩序は都市をささえる強固な基盤である。これがおびやかされると何がおきるかギリシャ人はしってる。都市を二分する内乱、田園地帯で収穫の放置。都市での流血。スパルタのやりかたは平等主義と選抜主義をたくみに混合したもの。おおくのギリシャ人には魅力的であった。スパルタは良識、義務と一体性を重視しよき秩序を保障してくれるようにみえた。

* スパルタにおける女性の独特な地位
しかし他のギリシャの都市からみるとスパルタのよき秩序には極端な性にかんする政治的な扱いがある。これに他のギリシャ人はおどろきおそれた。保守的スパルタはあきらかに極端であった。紀元前五世紀頃のアテネで女性はどうだったか。その生活はけっしてたのしくなかった。都市における芸術、建築、民主主義はすべて男性が享受するものだった。女性ができることといえばおもに従順で男をたてる妻をえんじることだった。事実、古代のギリシャにおいては女性は外部の人からみられるものでも、その話しをきかれるものでもなかった。歴史家のゼネフォンがいう。女性は家庭にとどまるようすすめる。演説家、ペリクリースは公式の場において女性について言及することははずかしいこととおもってた。

アテネの女性は家庭のおくふかくにまもられ生活をおくる。家庭内で女性がおこなうべき仕事をこなす。そのための訓練をのぞいて彼女たちは最小限度の教育のみをあたえる。社会において女性の発言権はなかった。教育はよくいって無目的であり、もっとひどくいえば危険なものだった。ある風刺詩人がいう。女性に文字をおしえることは間違いである。それはおそろしい毒蛇にさらに毒液をあたえるようなもの。アテネの少女たちは十二歳のわかさで結婚するがめずらしいことでない。彼女のために適当な男がえらばれる。すると彼女は家族をはなれ夫の家庭のなかに姿をけした。女性の役割は家庭内を切りもりし雑用をこなし穀物を粉にひき、洗濯してパンをやく。奴隷をもつ富裕な女性は家計のお金を切り盛りする。こういうことなので女性はたまにある家庭の用事や宗教行事への出席、これらをのぞくと家庭内にとどまっていた。

ところがスパルタでは女性はどこにでもでかけた。もし六十や七十の年寄男性をのぞくとして空中から市街をながめる。すると少年より少女をおおくみつける。彼女たちは少年とちがい国の教育訓練の対象となってない。もし戦闘や訓練がないなら男たちは共餐仲間がすむ住居で休息してる。女性が街の日常生活を支配してた。スパルタの女性が外にでる生活様式は非スパルタ人男性からおそれられ魅惑の対象ともなった。ホーマーはスパルタを美女の土地とよんだ。トロイのヘレンの美貌はもともとスパルタにあった。トロイの王子と駆け落ちしてトロイのヘレンとなったと神話にある。もちろん、スパルタの女性がすべて美人であるはずがない。しかし彼女たちはその肉体をきたえていた。それはギリシャではみられないものだった。

* 肉体をきたえるスパルタの女性
国から彼女たちも少年とおなじ食事をあたえられた。ワインをのむこともゆるされた。国は歌唱や踊りの指導もした。レスリングも指導し投げ槍のなげかた円盤のなげかたも指導した。彼女たちは国により少年たちとおなじように競争にかつことをすすめられた。少年や少女の訓練は裸でやった。そしてそこには女性らしいつつしみはなかった。裸は規則である。というのは極端なつつしみぶかさをやめさせることが肉体をきたえることを増進するとかんがえたからである。そしてそれは効果をあげた。肉体的に彼女たちははるかにすぐれてた。アテネの喜劇作家はアテネの女性たちがスパルタの女性の肉体の美くしさを褒めたたえるセリフをのこしてる。

ここに神に願いをかける捧げ物として鉛のちいさな人形が展示されてる。当時のスパルタ女性のおどる姿を模型にしたものである。これをみるとアテネの男たちが熱狂したという理由がわかるような気がする。スパルタの踊りはその独特の躍動ぶりで有名であった。特に運動とちかいかたちの踊りはそうである。女性は飛びあがり臀部を踵でたたかねばならなかった。それをできるだけおおくやらねばならなかった。それは非常にむずかしかった。非常に重要なことはそれが裸の太腿部の大部分をあらわにすることだった。これはたぶん スパルタの少女たちを太腿露出狂とよぶ理由だった。国の教育の一部として彼女たちはここのような川岸にやってくる。ある詩人がいう。神々しい夜とよぶその時に彼女たちが性的興奮の儀式の踊りをおこない歌唱の競技会をおこなう。少女たちはたがいに歌いかける。下肢はゆるみ、ながい髪の毛を振りみだす。それは乗馬にのっている時のようである。愛の表現に疲れはてる。スパルタは非常にめずらしい性格をもつ古代の都市である。それはおどろくべきことでない。つまり女子同士の愛を奨励していた。

* スパルタ、独特な結婚観
スパルタの女性と男性は別々にくらすという生活になれていた。七歳になると少年は家族をはなれてアゴギにおくられる。きびしい妥協をゆるさない訓練をおこない戦争のやりかたをまなぶ。男同士のつながりは奨励されるというより強制される。十二歳の時に彼らは年長の男性と組をつくらされる。通常は二十歳から三十歳までの未婚の男性である。この男性は少年たちの物質的な必要をみたし世話をし住居の面倒もみる。彼らは母親と父親のかわりをつとめる。また教師であり家庭教師でもある。それにくわえて愛人、制度化された男色の愛人でもあった。

スパルタの戦士たちの対人関係の実相である。親密な関係は男たちの精神的、情緒的な側面に継続的な影響をあたえてるようである。結婚の時である。結婚に円滑にはいってゆくためにおおくの調整が必要となってくる。実際的なスパルタ人は普通でない方法で対応する。とらわれの結婚とよぶ方法を実践してる。結婚の夜、花嫁は頭をみじかく剃髪する。それはアゴギにいる少年のようである。花嫁は男の外套をき足にはサンダルをはく。そしてくらい部屋に一人おかれる。その頃夫は共餐仲間の館からしずかに抜けだす。彼女のもとにくる。彼女を藁のふとに横にする。愛の営みがある。抜けだした夫は共餐の館にもどる。同僚とともにねる。つまりふだんどおりの生活にもどる。古風でおもしろい。これは結婚の夜だけの風習でない。その後、数ヶ月あるいは数年もつづく。

このおどろくべき風習の意義についておおくの議論がある。だが女性の前で男性を最高に仕たてる舞台装置となってることはあきらかである。女性にとってはその時が男とのはじめての愛の経験である。スパルタ人がどれほどわかい男たちに結婚したくなるよう仕むけても、あるいは彼らに義務をはたすよう説得しようとしても問題はおきる。こんな話しがのこってる。たぶん誇張があるだろう。スパルタの女性が男の頭をなぐり祭壇のまわりを引きすりまわす。結婚を約束をすることをもとめる。またもっとありそうな話し。結婚してない男性が衣服を剥ぎとられ裸にされる。冬の最中、市場(いちば)の周りを行進させられる。そしてこの罰が正当であるという歌をうたう。これは彼らがスパルタの法がもとめるところをうまくすりぬけてるからである。スパルタには独身主義者をゆるす余地はなかった。

* スポーツをきそうスパルタの女性
これらの男子にあたえられる仕打ちは極端にみえる。しかしそのきびしさは次世代の戦士を生みだすことが本当に必要だということからきてる。女子に競争を持ちこみ肉体をきたさせる。そこにはおなじ不安が反映してる。女子に配慮された食事があたえられるのは健康な女子が健康な赤子を生みだす可能性をたかめるからである。これはイリシア、安産の女神の彫像である。一部がかけたものだが彼女の表情にはっきりとしたくるしみがある。妖精が彼女に寄りそい、その腹をなぜはげしい痛みにたえられるようたすけてる。スパルタの女性はこの女神にふかく帰依した。彼女たちは常に健康な男の子どもをうむべしという圧力をかんじていたからである。スパルタの戦士の数をおおきくたもつことがが何にも優先する目標であった。戦士の数は最大で一万であった。これは紀元前五世紀をとおしへりつづけた。その理由の一つがスパルタの女性は十八歳まで結婚せず、男性は二十四歳から二十九歳までは結婚しなかったという事情がある。これは他のギリシャと比較するとしんじられないほどおそいものだった。だがスパルタの女性は子どもをうむだけの存在ではなかった。

ある一定の時期になるとギリシャの女性は外にでなくなる。そうすることが期待されてた。だが彼女たちは彼女たちとして固有の力と責任をもっていた。スパルタの女性は政治の世界でも街中でも男に対抗する存在であった。特に神聖とみられてたスポーツ競技場においてたたかう人たちであった。外部のギリシャ人をおどろかせたのほスパルタの女性の肉体のうつくしさではない。彼女たちがしめす自由奔放さである。それが悪名として有名となった。アリストートルはいう。女たちがほしいままに社会をうごかしてるという。これはけっしてほめ言葉でない。アテネや他のギリシャの都市では女性は土地を所有すること、おおきな財産を所有することがゆされなかった。女性の相続人や未亡人は父の望みにそって結婚した。年長の兄弟あるいは従兄弟や叔父がそれをしたかもしれない。それは家族の富をへらさないためのことであった。

葬式や結婚式の出席に牛が引っはる車にのることはあるが乗馬はありえなかった。スパルタで女性は財産を管理する力がある。土地を所有することも財産を所有することもできた。彼女たちは財産を相続することもできた。結婚において誰と結婚するか、あるいは結婚するかしないかも自分できめた。経済的に独立した彼女たちは乗馬でスパルタから外にでゆき鞭をふるって物事をうごかしてゆく。アテネにおいて女性が公衆の面前にでることは制限されてたがスパルタで女性は社会的にみとめられる活躍をした。彼女たちは有名人となった。そのなかでもっとも有名なのはカイネスカ、スパルタの王女である。彼女はスポーツの世界で伝説の有名人となった。彼女の名前はちいさな犬という意味をもつ。

* 二輪戦車の優勝に名をのこすスパルタ女性
彼女はスポーツを愛好する家族にぞくし男の子のような活発な女性であった。彼女は二輪戦車競争で優勝したチームのオーナーである。カイネスカは乗馬の専門家であり非常に裕福であった。まさにつよいチームをつくる責任者として完璧な資格をもってた。彼女自身は競技に参加してないが男をやとい戦車をはしらせた。彼女は自分の野望をかくそうとはしてない。オリンピックゲームにチームを参加させた。そこにはギリシャ全土からすぐれた運動選手たちがあつまりその力を競いあった。彼女の勝利はおどろきだった。その四年後にもまた勝利した。残念なことだが彼女はその勝利を自分の目でみることはできなかっただろう。オリンピアにおい競技は男子のみが参加するという規則だった。

しかし彼女は自分の功績が忘れさられることがないよう手をうった。記念碑をオリンピアに奉納した。オリンピックの聖地の中心に記念碑がおかれた。そこにこうきざまれてる。

私、カイネスカは脚のはやい馬にひかれた二輪戦車の競争で勝利したので、ここに記念碑をたてこう宣言する。自分はギリシャ全土のなかでこの王冠を獲得したただ一人の女性である。

* 政治につよい影響力をもつスパルタ女性
しかし女性が 活躍したのはスポーツにおいてだけでない、彼女たちは都市の政治においても重要な役割をはたした。彼女たちは公衆の面前で演説するよう訓練されてた。彼女たちは公的な決定に権限をもっていなかったがその意見が尊重されるように手をうってた。彼女たちは戦士がその倫理を実行しようとする時にもっとも強硬な意見をいうようだ。スパルタの法律となってないが法について地域社会の声をきき何が正義かを見いだそうとする。その時に勇者をたたえ臆病者を非難する。その時声をあげる最前線にたつのが女性であった。スパルタの女性はおしゃべりで弁論の達人であった。適切にそれがつかわれた時には鎧、兜をまとった戦士たちをもうごかした。

戦士が同僚を勇敢な死と評価する時、女性はすばらしい高貴な旅立ちという。あなたもゆくべきだったのではという。ある男が自分の剣がみじかすぎると文句をいった時に一歩前に踏みこめば充分にながくなるとその母親がいった。スパルタの女性は言論の自由と経済的な権利をもっていたがスパルタを女性にとって夢の国とみなすのは間違いである。 スパルタの女性は軍の連隊の母である。社会の仕組みにおいてそれがスパルタの中心となる。彼女たちは子どもをうみ七歳にアゴギに手ばなす。スパルタは常に出生率の低下を懸念してる。スパルタの男子は母親にとって大切なものだった。奴隷がいて家事の雑事をやる必要がない。わが子に充分な時間をそそげる。しかし時がくればわが子をアゴギに手ばなさなければならない。それは非常な苦しみである。ためらうことはゆるされない。これがスパルタである。母の本能がみたされるより国の目的が優先される。我々がかんがえる母親の姿は母と子どもの関係を大切にしはぐくむものである。だがスパルタで感情的な側面が関与する余地はほとんどない。

* きびしい戦士の母、スパルタ女性
国家レベルではゆるぎない従順さ、生死の行動原理をつらぬく。彼ら個人の生命より重視される。母親においても息子がその義務をはたす。これをなによりも希望する。そのやりかたはまるでナチであり養育ではなかった。息子が戦いにむかつ時に母親がいう伝統的な別れのことばがある。盾をもて、そうでないならそのうえに。これは勝利の帰還、さもなくば死という意味である。もし息子がこの教えにそむくならば母親からの同情はほとんど期待できない。こんな話しがある。逃亡してきた息子に出あった母親が自分のスカートを引きあげ息子に自分がもともと生まれでたところにもどるかときいたという。

* スパルタとアテネの対立を誘発した地震
ペルシアが敗北したその後のこと。スパルタの男たちは母がほこらしくかんじるようなことをほとんどやらなかった。敗北の後からスパルタとアテネは平和裏に共存をつづけた。両者の同盟は問題があったものの維持されてた。しかし両者の考えかたはあまりにも違ってた。そのために相互信頼がうしなわれてしまった。あきらかな抗争の段階である。天変地異がおきた。これで両者の同盟が崩壊し対立から抗争の段階にはいった。紀元前四六五年、一連の地震がスパルタをおそった。被害はおおきかった。おおくの人命がうしなわれた。だがそれはスパルタ社会のなかにいる敵に絶好の機会だった。人口の大半をしめるヘロットが蜂起した。マイシニアの中心にあるアトミ山に反乱の奴隷がやってきた。

それは彼らの母国の象徴でありスパルタによりうばわれたものである。そこに要塞をきづきスパルタの到来をまった。スパルタは敵を山からおろすことができなかった。紛争はながびき、彼らは同盟都市であるアテネに助力をもとめざるをえなかった。アテネは反乱軍を山からおろすために部隊をおくり城攻めの機械をもってきた。それは伝統的戦術に固執するスパルタにはないものだった。この時である。ここでスパルタは不安をかんじた。さて概していうがギリシャで奴隷をもつことは問題でない。だがギリシャ人全体を奴隷とすることは簡単にはみとめることではない。

* ヘロットの反乱に干渉したアテネ
スパルタはこの事実をしってた。さらに彼らの偏執的な不安がある。もしアテネが 反乱者を支持したら、民主主義の病原菌をスパルタにひろめたらどうなるか。この危険を放置できなかった。アテネ軍には本国にもどってもらった。アテネはこの行為を侮辱ととり憤慨した。アテネは同盟を破棄した。そしてスパルタと衝突しはじめた。彼らはスパルタの敵と結託し妨害工作をし、さらに 反乱者をたすけ逃亡を援助した。そのためあたらしい都市まで用意した。あきらかな敵意があらわれた。

* あたらしい戦いのはじまり
今度は両者のあいだに戦いがはじまろうとする。戦いがはじまった。その原因はいろいろあっあったが、その中心には過去五十年のあいだにアテネがおおきな力を獲得した。それがスパルタのあるペロポネソス半島に影響がおよび脅威となったという事実である。紀元前四三一年、ささいな口実をとらえスパルタはアテネに戦争を宣言した。彼らは軍をアテネの領域におくった。彼らはアテネに七マイル(十一キロメートル)のところまで軍をすすめた。すでにのべたがアテネは厳重な壁によりまもられてる。かって友好国であったが今や不倶戴天の敵となった。

戦争最初の年、アテネの犠牲者である。ここの墓地にほうむられてる。都市の壁の外にあった。ペリクリースが公衆にむかって熱情的に演説した。この歴史的な名演説で彼はいった。この戦いでアテネがやったことすべてはただしくスパルタがやったことすべては間違いであるという前提があり、いうところ。

* 両者の違い、国に誘導された勇気と自発性による戦い
スパルタは幼少期から少年たちに重労働のようなくるしい訓練をしいている。ところがアテネでは少年たちはこのような制約なしで成長してきた。ところがおなじ脅威に立ちむかうに、我々は危機に自発的にむかう。国家が誘導した勇気をもってでなく自然な姿で立ちむかう。

彼はスパルタが社会の仕組みや政治、あるいは彼らの性格があまりに異質で平和的な共存は不可能であるといってる。演説はこの総力戦が前例のないほど大規模なもの残酷なものとなるとの見通しを示唆した。実際、戦いは西はシシリー東はダーダネルス海峡まで、また二十年以上もつづいた。残酷な戦いだったがどちらにも決定的な結果がでないまますぐ 停滞状況になった。スパルタは陸でアテネは海で支配を維持した。五年間にわたり毎年、スパルタはアテネの領土を侵略し田畑に放火し収穫物を台なしにした。アテネは田園地帯から逃げだし都市の壁のなかに退避した。その都市と港、パイリアスは壁で厳重にまもられてる。

* 停滞状況におちた戦い
孤立した都市は港町の艦船をつうじて住民の食糧、資材を確保した。一年すぎる頃、疫病が都市におきた。死体が道に積みあがった。人口のほぼ三分の一が死亡した。歴史家、ツキジデスは人間がたえられる限度をほぼこえてたといった。財力も権力もまもってくれなかった。ペリクリース自身もこの疫病にたおれた。スパルタにとってペリクリースの死は神の加護が自分たちにあることをしめすものだった。しかしそうでないこともおきた。ツキジデスがいう。こんなことがおきるとはとギリシャ全土がおどろいた。それはスパルタの裏庭というべきこの島でおきた。パイロスはペロポネソスの西端にある島である。戦略的な重要地点である。紀元前四二五年である。

* 西の重要都市をうばったアテネ
この島がそれまで奴隷でスパルタに反乱をおこした人々のたすけによりうばわれた。地震の後の出来事だった。スパルタはこの挑発に我慢ができず軍をおくりパイロスをうばいかえそうとした。彼らの計画は島と海でアテネを阻止しようというものだった。パイロスとアテネにたいし城攻めにうつった。ちいさな部隊を岩のうえにおいた。その岩は長さが一マイルと半分(二キロメートル強)パイロス湾を横ぎってのびていた。スファテリア島であった。スパルタは相手をみくびってたことをしる。アテネは海で活躍する人々である。

彼らは艦船をおくり数日後にやってきた。彼らはすぐ制海権をにぎった。戦況は一変した。スパルタは四百の部隊をのこし退却。部隊はスファテリア島に駐屯した。彼らは完全に包囲された七十二日がすぎた。ここでおどろくべき失敗をやった。何人かの兵たちが焚き火の管理に失敗し火はもえひろがり防禦施設を消滅させた。彼らは身をかくす場所をうしなった。アテネはこの状況からどこに何人の兵がいるのかをしった。彼らは島をうばうことにした。八百の弓の射手と八百の軽装の兵が参加した。
* 孤立したスパルタの守備隊
彼らは上陸したがスパルタとの接近戦はさけた。矢をいかけたり投げ槍の攻撃をしたがスパルタが接近してくるとすぐ距離をおいた。この戦い後に三百の死体をのこしスパルタはもどった。生きのこった者たちは防禦ができる島の北端に立てこもった。アテネは弓の部隊をおくった。距離をたもって矢の攻撃をおこなった。スパルタは完全に包囲された。かってのテルモピレの状況ににてきた。そこでは三百人がスパルタの栄光のためにたたかい玉砕した。しかしスファテリアではそのような栄光はなかった。アテネは巧妙な作戦をとった。彼らはしばらくの猶予をおいて使者をおくり丁寧に降服の意志をきいた。おそろいたことに彼らは降服に同意した。

* 百二十のスパルタ兵の降服
これがスパルタ以外だったらおどろくべきことではない。スパルタの兵たちは二ヶ月以上ものあいだ、ほとんどのまずくわずで閉じこめられてた。アテネの射手は毎日、弓矢の練習をかねて彼らを攻撃した。このような状況で彼らはスパルタ人として犠牲者をだしながら降服を拒否してた。ペリクリースがあざけっていった国により誘導さた勇敢さがアテネの巧さにより崩壊させられた。彼らはスパルタがもとめる体がぶつかりあう戦いをさけた。アテネは彼らに死か栄光かの選択以外の、彼らが予想してなかった選択をあたえた。スパルタがもっていた無敵神話がここでくずれた。

これはアテネをすくう勝利である。ここに戦利品がかざってある。盾である。その傷跡からみて投げすてられてあったものを持ちかえったのだろう。そこにアテネがラコニア人からパイロスで獲得したものとかいてある。これは簡潔な勝利の宣言である。このほかに百二十のスパルタ兵が捕虜としてアテネにおくられた。もしスパルタがアテネの領域で活動をするならば彼らは処刑されるとう脅しである。スパルタ人捕虜はアテネ人の好奇のまととなった。彼らは公衆にまるでめずらしい動物のように展示された。アテネ人は押しあいへしあいして捕虜をながめた。喚声をあげた。ツキジデスがいう。群集のなかの一人があざけるようにきいた。本物のスパルタは島でしんだ。針仕事をやってるのがちょうどよい。スパルタはこれにこたえた。針はスパルタでは矢の意味がある。彼らは矢をつかった攻撃は女々しく卑怯の攻撃といったという。

* スパルタの和平とあらたな戦いのはじまり
スファテリアの敗北はスパルタに大騒ぎを引きおこした。すぐ和平をもとめる動きがでた。アテネにはこれにおうじる寛容な雰囲気はまったくなかった。この機会を最大限に利用し有利な条件で合意しようとした。スパルタの捕虜が帰国できたのは五年後のことだった。彼らが帰国しての扱いであるが、臆病者として罰をあたえられることも市民権をうばわれることも街を散歩することを禁止されることも街中で棒でうたれることもなかった。アテネ人のあざけりをだまらすようにまた戦いがはじまった。血まみれの戦い、最後の幕である。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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