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アレクサンダー大王、その九、マリアン遠征作戦 [英語学習]

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* はじめに
ヒダスペスの戦いを勝利したアレクサンダーはさらに東進したがヒファシスで遠征を断念した。帰国の途についた彼はインダス川流域を船でくだり、そこの部族、マリアンを平定した。さらに南下し海岸線をすすみ沙漠横断をこころみるなどしてスーサについた。ペルシアとの融合のためペルシアの王女を妻とし、さらなる遠征を夢みたが突然の熱病にたおれかえらぬ人となった。
(Alexander the Great: Mallian Campaign 326 BC、BazBattles、2017/10/22 に公開)

* さらなる東進
紀元前三二六年七月、インド、ヒダスペスの勝利の後でアレクサンダーに引きいられたマセドニアの軍はパンジャブにいた。アレクサンダーのインド亜大陸の未知の土地にたいする征服意欲はおとろえることがなかった。当時のギリシャ人は世界の陸は海にかこまれてる。この大陸をぬけるとその海にぶつかるとしんじてた。

アレクサンダーの野望はパンジャブ征服だけではみたされなかった。彼は東にむけ出発する。ガンジス川流域の人口のおおい地域への遠征作戦に取りかかった。モンスーンの季節であった。はげしい雨がマセドニア軍の進軍をさまたげた。ヒマラヤの雪解け水の増水も川の横断をむずかしくした。だが彼らはハイドロオテス川を妨害にあわずすすんでいった。

* 四千八百キロ、東征のおわり
彼らが本土をたってから八年がすぎた。三三四年にダーダネルス海峡をわたりペルシアにむかった。すぐれた指揮官に引きいられマセドニア軍はほぼペルシア全土を征服した。そしてその遠征は東の端をこえた。母国から三千マイル(四千八百キロメートル)もはなれた。神話やおとぎ話の世界で地図にのってない場所にはいってしまった。彼らの装備は擦りきれ衣服もぼろぼろになった。常に雨がふってる湿気のおおい気候は彼らの進軍をますます困難にした。そしてとうとうアレクサンダーがモンスーンで増水した川、ヒファシスをわたろうとした時である。兵のおおくが川をわたることを拒否しもどりたいといったという。このあからさまな反逆行為はアレクサンダーに忠実な将校たちも支持した。部下のためにこの遠征作戦はこれ以上はすすめられないといった。アレクサンダーはこの反乱を予期したか彼らの意気阻喪ぶりをいかったのかはあきらかでない。あるいは、彼が軍の士気低下をしっていた、どこか適当なところで遠征をやめるつもりであったのかもしれない。彼の虚栄心が引きかえすと発言させなりかったのかも。たぶん彼はこの軍の士気低下とか突然月食がおきたとかわるい予兆を口実に彼の偉大な計画、征服を破棄することを正当化しようとしたのだろう。

成人した彼がこれまでてあじわってきたのは戦争の勝利だった。偉大な成果の連続であった。このことをかんがえると彼は神にあいされ神ともおもわれる特性をあたえられた人とであるとかんがえたかもしれない。真相はわからない。だが彼は部下たちの要求にまけヒファシスでとまった。ローマの記録によれば彼は帰国にむかうにさいし十二の祭壇の建立をめいじ野営地の大規模な要塞化をおこなった。これは後世の人々の記憶にのこる記念碑とするためのものだった

* 帰国準備、艦船隊の編成、南下
マセドニアの遠征軍がヒダスペスの川岸にもどってきた。アレクサンダーはすでに平定した地域を単純にもどることははずかしくてできなかった。それはまるで敗北の行軍にみえる。それで中央アジアの道をとるのをやめ南に進路をとることにした。インダス流域を南下し海にいたる。そこから海岸沿いにバビロニアにむかう。そのため次の二ヶ月を部隊をのせられる艦船の作成にかけた。これで川をくだるのである。

艦隊が完成する直前にスレイスから増援隊が到着した。一万五千の新規の兵だった。それといっしょに今まさに必要とする兵の衣服、鎧兜、武器、その他におおくの備品もおくられてきた。彼らは本隊に合流した。もし彼らがアレクサンダーが前進を断念したヒファシスにいたる前に合流していたら彼は部下にむかってさらに東にすすもうと呼びかけ部下を説得したかもしれない。だが紀元前二三六年十一月のはやくだが艦隊はできあがりモンスーンの季節はおわってた。マセドニアの軍は南にすすんでいった。

* オックスドラシァンとマリアンとの敵対
アレクサンダーはほぼ十万の兵を指揮下においた。兵站のため三つの部隊を編成した。プトレミとクラテラスがそれぞれの分遣隊を指揮しアレクサンダーも分遣隊を指揮し川をくだった。数週間後、これらの部隊はインドの二つの部族、警戒をようする部族がすむ土地に上陸した。オックスドラシァンとマリアンという。彼らはギリシャの軍に敵対的であった。

にわかに敵が出現したので二つの部族はあらそいをやめ一時的に同盟をむすんだ。マセドニアの軍はヒダスペスとアセシンズの川が合流してるところにやってきた。そこに野営地を気づ★き部隊は再合流した。ニアカスが指揮する艦隊はアセシンズ川をくだった。そして次のハイドロオティエス川と合流する地点に橋頭堡をきづいた。クラテラスの艦隊はその後にしたがい川をくだっていった。アレクサンダーは最大の部隊を指揮した。両方の川のあいだにある砂地においてインドの敵を攻撃するべく用意した。

* マリアンとの戦い、砂州での衝突
これは非常にむずかしい作戦である。アレクサンダーの攻撃はまったく効果がないかもしれない。しかしこんなことははじめてでない。彼は敵をおどろかすため予想外の手をうってくることがあった。彼はマリアンがこの地域でもっとも獰猛で好戦的な部族であるとしらされてた。この警戒のあまりマセドニア軍は進軍の道筋の街の住民を虐殺していった。さらに恐怖をあたえるために分遣隊を組織しおくった。これで征服の効率をあげ完璧にするためであった。複数以上のギリシャの部隊が巡回した。マリアンはこの侵入者の追及をのがれることがよりむずかしくなった。

安全に逃げだす惟一の方法は南のマリアンの首都にむかうことだった。アレクサンダーは首都にだんだんと近すいていった。それはハイドロオティエス川にそってすすむものだった。その進軍の途中でマセドニアは組織的な反撃をうけた。それは浅瀬をまもる警護隊だった。アレクサンダーは彼の騎馬隊とともに川をわたり攻撃を仕かけた。それはすぐ敵を恐慌におとしいれ防禦をわすれ逃げだした。あきらかにギリシャ軍の凶暴さが地域に周知となってるとわかった。マセドニアの騎馬隊はにげる敵を追いかけていった。しかし敵の指揮官はギリシャの騎馬隊の数が少数であることに気づいた。それでとどまりアレクサンダーとたたかうことにした。小規模な戦いがおきた。アレクサンダーは数で圧倒されているので本格的な戦いにはいるのをさけた。

* マリアンへの城攻め、アレクサンダーの負傷
まもなくこの戦いにギリシャの軽装歩兵隊が合流した。これでマリアンは総崩れになり彼らの砦に逃げかえった。マリアンの最後の抵抗はすぐ包囲されギリシャの軍は城攻めの態勢にはいたっ。その外壁はギリシャの軍の襲撃によりくずれた。しかしそのなかにある壁は強固だった。アレクサンダーはすぐ城攻めがはかどらないことに、いらつきはじめた。壁をのぼる梯子を取りだし壁の攻撃にかかった。彼にしたがうのは少数の親衛隊であった。マセドニアの兵はあわてて王の支援にはしった。彼はすでに壁のうえにたってたたかっていた。おどろくことでないが彼は胸に矢をうけた。彼の危険を無視した攻撃の結果だった。

しかし彼の無謀な行動は兵の急襲を加速した。砦はまもなくおちた。アレクサンダーが死亡したとの噂が彼の兵たちの怒りをよび都市住民の殺戮を加速した。数千人が刃にたおれた。復讐の行為だった。ささった矢は外科医のクリトメダスがぬいた。彼はその後数日、生死のあいだをさまよった。彼の健康がやや回復してマリアンの降服を公式に承認した。その地域にギリシャ人の行政長官をおいた。彼の傷はインダス川を南下してゆくあいだ痛みがつづいた。だがもはや生命の危険はなかった。

* マリアンで帰国準備
マリアンを平定してるあいだマセドニアはこの年の半分をつかって本国への帰国を準備した。紀元前三二五年、モンスーンの季節がおわろうとしてる時である。アレクサンダーが指揮した五万の兵が西に帰国の途についた。ニアカスは自分の艦隊を大洋の航海にたえるように整備した。この艦船は海岸線をすすむ軍にしたがった。だがう都市についた。そこはドランギアナの肥沃な土地からうまれるおおくの供給品をえることができた。

* スーサに到着、合同結婚式、王女を妻に
紀元前三二四年一月である。アレクサンダーはパソガディについた。そこから二ヶ月でスーサについた。そこで彼はニアカスと再会した。そこで彼はあたらしく征服した領土との一体性をたかめる努力をした。忠誠心に問題があるおおくの州長官を更迭し時には死罪とした。マセドニア人とペルシア人のあいだを強固にするためスーサにおいて合同結婚の宴をひらいた。おおくのマセドニアの高官はペルシア人女性を妻とした。アレクサンダー自身もペルシアの王女を妻とした。

* 突然の死
莫大な仕事と努力がこの広大な領土をもつペルシアを統合するのに必要だった。それにもかかわらずアレクサンダーはアラビアと西地中海への遠征を計画してた。しかしもはや征服の途にのぼることはなかった。紀元前三二三年六月である。

突然彼の軍人としての経歴がとだえた。彼は戦いでなくなった友人、ヘイフスティアンをしのぶ集まりをひらいていた。突然胸に痛みをかんじた。痛みをかんじたまま酒をのみつづけた。翌日、彼はおもい熱病を発症した。そして急激に健康をそこなっていった。六月十一日、三十三歳の誕生日をむかえる一月前、その力が頂点にある時に、死亡した。この突然の死は彼の友人や政府の高官にとってはまったく予期してなかった。その後には規則にそぐわない出来事がつづいた。アレクサンダーがきすいた帝国はだんだんとばらばらになりあわててあつまってきた承継者に引きつがれていった。

次は補注のようなもの。
一、アレクサンダーの提唱からはじまったギリシャ人とペルシア人との合同結婚はながくつづかななかった。彼の死後、ほとんどすべてのギリシャ人貴族は離婚した。これはあきらかにアレクサンダーが二つの文化を融合しようとしたことへの彼ら貴族の考えかたをしめしてる。


二、都市、アガディについてアレクサンダーはペルシャの王となろうとした。だが、この都市の滞在中にはできなかった。紀元前三三〇年にサイラス大王の墓があらされたことによって、ペルシアの王となる戴冠式はもう一度延期せざるをえなかった。

三、ヒファシスの反逆からアレクサンダーは保守派の将軍、クラテラスを宮廷からとおざけた。こうしてクラテラスの部隊はインダス流域の反乱を鎮圧するようめいじられ、またすでに平定ずみの中央アジアの道筋をたどりもどるようめいじられた。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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