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スパルタの栄光、その一、テルモピレの戦いまで [英語学習]

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* はじめに
ギリシャの数ある都市国家で異彩をはなつスパルタについてのべる。かってさかえたマイシニア文明がおわった後に暗黒時代がおとずれ、やがて肥沃な土地をもとめてやってきたスパルタ人がギリシャ西南部、ユラテス川流域にスパルタを建設した。周囲のギリシャ人を奴隷化し国をつくった。数で圧倒的におとる彼らは軍事力で住民を支配した。軍事力の優先が他の都市国家から際だつ特殊な社会をつくった。三部作の第一でテルモピレの戦いまでをあつかう。
(The Spartans - Part 1 of 3 (Ancient Greece Documentary)、Timeline、2017/08/25 に公開)l

* 古代ギリシャを代表するスパルタ
古代ギリシャをかんがえるとアテネのパルテノンが思いうかぶ。そこは西洋文明の起源を象徴する。 哲学、科学、芸術、建築、民主主義の源泉がある。しかし古代ギリシャにはアテネよりもっとみるべきものがある。かっての都市の悲劇の記念碑である。三百人のスパルタの戦士が埋葬されてる塚である。彼らは紀元前四八〇年、テルモピレにおいて最後までたたかってちった戦士たちである。彼らは巨大なペルシア軍の侵攻に抵抗した。ほぼ四十倍の敵にかこまれ玉砕した。彼らはここに埋葬されている。碑文で彼らの行為を顕彰しこういってる。

ここに通りがかった異国の人よ。スパルタの人につたえてくれ。スパルタの法にしたがい我々がここにねむることを。

* スパルタの特徴
アテネとちがいスパルタには高名の哲学者はいない。政治家、芸術家についてもおなじである。彼らは二つで有名だった。

一、倹約ぶり、我々スパルタは言葉を節約する。寡黙な戦士が有名である。密接に関連するが、
二、厳格な行動規範。スパルタの社会でその行為にもとめられる。それは極端な規律遵守と自己犠牲にある


彼らの目的は完全な都市国家をつくり、それを完全な戦士でまもることである。

完璧性の追及はスパルタを奇妙なところにした。お金を法律で禁止した。平等を強制した。虚弱な子どもはすてた。男性中心主義を強制した。一定程度の社会的および性的自由が女性にみとめられた。これは古代の世界できいたことのないものだった。粗暴な軍国主義であり大規模な奴隷社会だった。現代の全体主義の政府をおもわせるものだった。

しかしそれと同時にスパルタは市民の権利と義務を最初にさだめた都市国家だった。スパルタはアテネとともにペルシア帝国からの奴隷化をすくった。それはつまり西洋社会の奴隷化をもすくった都市国家である。スパルタの硬直した理想主義にはアテネ文明がもってた魅力はなかったが西洋文明にとっておなじ程度に重要だった。それはパルテノンが象徴する崇高な理想とおなじ程度に崇高だった。スパルタの物語りは我々自身の物語りである。西洋文明に流しこまれたいくつかの考えが二千五百年前のギリシャの軍国主義国家においてその妥当性をとわれた。


* ペロポネソス半島にまもられたスパルタ
スパルタの物語りには私を劇的感動にさそう歴史がある。私はある旅行にむかった。そこにはその感動に合致する環境があった。それはペロポネソス半島である。そこには岩肌をみせる山脈があった。谷筋がいくつもはしってる。これらがギリシャ本土最南端の景観をつくってた。古代のギリシャ人はそれを島とかんがえてた。

これからする物語りよりもずっと前にスパルタにはかたるべき歴史があった。あのトロイ戦争をたたかったギリシャ人のおおくはここからやってきた。ギリシャを指揮するアガメムノンはペロポネソスの東部のマイシニアをおさめてた。南のスパルタにはメネレイアスとその妻ヘレンの宮殿があった。ヘレンはその美貌ゆえにトロイ戦争を引きおこした。だが紀元前千百年前にすべてがきえた。何がおきたのかたしかなことはわからない。地震、奴隷の反乱。あるいは小惑星が原因かもしれない。ヘレンがいた東地中海の地域のすべてが灰燼にきした。その残滓が数百年つづいたが、突然おわった。

* 北からやってきたスパルタ人
そしてギリシャに暗黒時代がやってきた。歴史の連続がとだえた 。中央で暗黒がつづくあいだに北からあたらしい人々がより肥沃な土地、より住みやすい土地をもとめてやってきた。彼らはあたらしいギリシャの方言をはなす。羊や山羊をつれわずかな財産をもってやってきた。彼らはペロポネソスの全域にひろがった。メネレイアス王がかって支配した土地にもやってきた。くるしい旅のかいがあった。やってきた人々はここに理想郷をみたとおもう。平原がひろがる。ユラテス川がながれる。川は南北に五十マイル(八十キロメートル)ををながれる。土地を渇望してたギリシャ人には肥沃な貴重な農地であった。川は一年中ながれてた。そこの七十パーセントは農地に適当でなかった。そのわずかの農地が山と海にはさまれてた。その西にはジーザス山脈が八千フィート(二千四百メートル)以上の高さの山があった。春から夏になろうとしてる頃にも残雪があった。その斜面で狩をすれば鹿、猪、またゆたかな山菜、木の実などがとれた。ここには数字であらわせないすばらいいものがあった。

安全の感覚である。 どこをみても、どこの水平線をみても丘や山並みがまもってくれる。まさに安全である。そうだから家畜をおう人々がオリーブの木の下で羊をうる。そしてそこに定住する。つまりあたらしいスパルタ人がうまれる。彼らはここにメネレイアスの寺院を伝説の王、メネレイアスとその妻ヘレンをたたえてたてた。暗黒時代がおわりあたらしい時代にスパルタのようなあたらしい都市がギリシャ各地にうまれた。

* 都市国家をつくるスパルタ
その規模、勢力はさまざまだった。しかし一つ共通する。たがいが合意した法と習慣にしたがい統治がおこなわれたことである。その規則の内容はことなるがそれが目的とするところはほぼおなじである。善良な秩序と正義をつくる。そして混乱と無法状態にたいしてそれらをまもる。今日の考古学者はここに三千年前に最初にやってきたスパルタの人々の生活を描きだそうとしてる。

理想を夢み都市を建設した人々、ユートピアを夢みた人々である。ほとんど手がかりになるものをのこしてない。彼らの再構築は容易でない。彼らがのこしたもの。それはうまったままか現代の都市が建設された時に破壊されたものである。建築計画がすすむ時はいつも小片があらわれ謎をおしえてくれる。スパルタ人はアテネ人とちがう。材料をのこさない。建築物をたてない、ものをつくらない、自分たちのことを記録にのこさない。これらで有名であった。このため古代都市と文明について関心をもつ人々にとりスパルタはことさらに関心をよぶ存在である。

* 二人の王の神話と歴史
たとえばスパルタの王である。スパルタはわかってる範囲でずっと王は二人、二つの王宮があった。この独特の仕組みについてスパルタ人はこう説明する。彼らは神話の英雄、ヘレクレスに直接むすびつく子孫である。伝説では双子の二人である。彼らはアガメムノンの子孫からペロポネソスの支配を安定させたという。人々がいう彼ら自身の物語りは示唆にとむ。これは攻撃的な王位簒奪者の二人による領土の奪取だが、神話では高名な英雄の子孫への継承である。これは周辺の人々の不安を掻きたてるメッセージとなってる。

* 奴隷化をすすめるスパルタ、ペリオイコイ
そしてほどなくスパルタ人はユラテス川流域の各地の測量をおこない季節の流量の調整をはじめた。また、それほどとおくない頃に非スパルタ人の奴隷化をはじめた。彼らの公民権をうばいペリオイコイ、周囲にすむ人々という意味だが、こうよぶようになる。彼らは職人と商人となりスパルタの経済活動をになう人々となった。この隣人の奴隷化がスパルタの最初の拡張だった。ユラテス谷に充分な広さがあったにもかかわらずスパルタは他の都市と同様に土地にうえて拡張をもとめた。他の都市はこれを植民都市の建設あるいは衛星都市の建設によってみたした。その西の極限はジブラルタル海峡である。東は クリミアの黒海にいたる。スパルタ人も自分たちの都市建設に取りかかる。

* 奴隷化をすすめるスパルタ、ヘロット
彼らの目は西にむいた。そして山をこしたむこうには彼らの欲求をみたす土地があるかも、また理想郷かもしれない。あるいはまた彼らの暗黒面をあらわにするところかもしれない。それはつまり彼らが主人となり奴隷国家をつくることであるからである。ジーザス山脈の谷筋の道を車でゆくが二千八百年の昔にはスパルタ軍がこうして西に遠征した。領土の獲得をめざし山中のきびしい行軍を数日つづける。そこはマイシニアである。スパルタは領土ばかりでなく住民の自由もうばう。彼らはマイシニアをヘロットにした。それはとらわれた者という意味つまり奴隷である。自分たちの生活のなかに奴隷がいることは古代ギリシャにおいて受けいれられる概念である。しかし奴隷は外国人、あるいは野蛮人とかんがえられギリシャ語をはなさない人々である。そうであれば奴隷という存在は受けいれやすい概念である。ところがおおきな規模でギリシャ人を奴隷にする。これはおなじといえない。マイシニアを奴隷化したことは他のギリシャの都市との違いをきわだたせた。それはまたスパルタが社会の不安定化におびえ反乱がおきることを極度に警戒しなければならない社会に仕たてることを意味する。マイシニア人を奴隷とすることは容易でなかった。

二回の全面戦争が必要だった。それぞれ二十年をようした。ここで二度目の戦争について我々がしってることをのべる。我々はその戦いの目撃者をもってる。その最初はターティエスというスパルタの兵士であり詩人である。

* 奴隷化戦争、マイシニアの侵略
勇敢な男が死ぬことはすばらしい。自分たちの祖国のため戦いの前線にでてたおれ死ぬことはすばらしいことである。この国土のため情熱をもやしたたかおう。我々の子どもたちのために死のう。もはや自分の命をおしむ時ではない。若者よきたれ。自分の心のなかにある情熱をもやし男々くたぎらせよ。戦いに身をおく時に自分の命をおしむべきでない。

ターティエスは戦争詩人である。彼が戦争に身をおく時にあわれみの心をもってなかったとおもう。これらの詩の文章はまるで戦いの雄叫びである。兵を引きいる軍曹のような率直さで意気地なく逃げだそうとする人にもし自分の国土をもとめるなら、たたかって奪取しなければならないとその性根に叩きこんだ。

* 重装兵士の誕生
これはターティエスが重装兵士(ホップライト)とよぶ兵士たちに語りかけたものである。彼らは八フィートの槍とまるい盾をもつ兵士たちである。紀元前七世紀のおわり頃すべてのギリシャの都市は彼ら自身の軍をもってた。彼らは重装兵士である。彼らはフルタイムの職業軍人でなかった。彼らは農民である。彼らは祖国をまもるため鋤をすて槍をとる。彼らは横につらなって敵に立ちむかう。この兵は勇気をしめすばかりでない市民という特権がある資格をもってることをしめしてる。

ここは各種競技がおこなわれることで有名なオリンピアである。そこはまた非公式の重装兵士の寺院でもある。そこに兵士たちが装備した武器を勝利の感謝の意味をこめてささげるところである。ここにかざってあるのは盾についてたホップロン(hoplon)である。重装兵士の装備品である。その兵士の名前がはいってるだろう。これは中央にある革の板に左腕をとおし、縁の革紐をつかむ。こうして盾をささえる。木と金属でできてる。その重量は二十ポンド(九キログラム)。これで一日たたかうから相当の重さである。しかし鎧や盾をおとすことは最大の恥辱であった。

* 密集歩兵隊のたたかいかた
重装兵士の戦法はチームプレイである。盾は自分をまもるともにその左の味方をまもる。重装兵士たちはたがいに近よって強固な防禦をつくる。これを密集歩兵隊とよぶ。七あるいは八の列が縦にかさなり、おそらくその一列は横に五十の盾がならぶ。協同と規律が重要となるがもっとも大事なのは信頼である。もし隣りの兵士がくずれ逃げだしたらその兵士は剥きだしになり敵の槍の餌食になりかねない。二つの密集歩兵隊がぶつかった時は兵は右に位置をかえようとする。これは本能的に隣りの兵の盾の後にかくれようとする動きである。この時、密集歩兵隊の規律がこわれる危険がある。これをまもるため兵たちは歯をくいしばり自分の位置をたもつことが大事である。ターティエスが有益な助言をしてる。しっかりとそれぞれが自分の位置をたもち敵の前線にむかい接近戦にいどむ。そうすれば死者はすくなくなる。そうすると彼らは後の部隊をより安全にする。

いったん密集歩兵隊がぶつかったら、その戦術はおおくない。戦場は粉塵のなかですべてがみえなくなる。そして相手を押しあげる。後列はラグビーのスクラムのように力をだしてこの押しあげをたすける。敵の槍の攻撃にさらされる範囲は前から三列までである。ここの状況が生死をわける。これは盾についてるゴルゴン、神話の女神の飾りである。彼女がにらむと男は石となるという。さてスパルタはこのような戦闘に関連する美術品では他のどの都市よりもすぐれている。彼らは隣人、マイシニア人たちをたおし奴隷にしなければならなかった。紀元前六五〇年頃にそれは完了した。次の三百年のあいだマイシニア人は奴隷となった。スパルタ人の田畑で農奴となりはたらき驢馬のようにおもい荷物をかついだ。ターティエスはそういってる。

* 軍事立国スパルタ、理想郷の維持
マイシニア人の征服をおえたら次にスパルタ人がかんがえたのはこれをどうして維持するかである。ギリシャのほかの都市においては市民戦争により富裕な人々とまずしい人々が分裂した。スパルタにおいてもマイシニア人の反乱の危険が非常にたかまった。ここでスパルタは思いきった方法をとった。まず彼らの理想郷の実現と維持を国家の目標とした。彼らのすべてをそんな完璧な社会にささげることにした。重装歩兵による密集歩兵隊、規律ある集団主義と自己犠牲のうえにつくられた理想郷。これを目ざす革命であった。

* 建国の指導者、ライカーガス
すべての革命には偉大な指導者が必要である。スパルタではライカーガスである。彼は狼の労働者(wolf worker)といわれる。彼が実在したと言いきれない。だがスパルタ人はそうしんじる。彼は奇跡をおこす労働者。神々の助言をえて天と地をつくったという。古代においてこんなに極端にはしたっ文明をつくったのは、彼かもしれない。あるいはある集団にぞくした人々かも。あるいはある複数世代にぞくする 人々かもしれない。

スパルタを変革した革命は紀元前六五〇年頃、スパルタの隣国マイシニアの奴隷化が完了した時である。ヘロットを平定し彼らの反乱をおさえるためスパルタは強力で規律ある専門軍人による重装兵士を作りあげた。かってのギリシャになかった。スパルタの社会は実質的に軍人養成の訓練場となった。スパルタ人は漁師でも農夫でもなく職人でも商人でもない彼らはただたたかう人々だった。彼らがたたかってない時は訓練をうけてる。訓練をうけてない時は同僚の兵士と外をぶらつく。家族のまとまりはほとんど重要視されなかった。大事なのは男子の同輩のあいだの連帯、密集歩兵隊の一体性を強化するものであった。

* スパルタ兵士の育成、きびしい選別
彼らはひたすら脇見もせずにそれを追及した。スパルタにうまれてもそれだけで充分でない。すべての男子はながい期間をかけてきびしい競争にたえて市民としての権利を勝ちとる。それは非常にくるしい訓練の連続だった。最初の関門はうまれてすぐである。ここの渓谷はスパルタから数マイルのところにある。デポゼータイ(処理場)とよばれてる。そこはまた拒絶の場所ともよばれた。生まれたばかりの赤子が投げすてられるところだったからである。スパルタの基準からみて適合してない、身体的能力が完全でないと判断された赤子である。幼児殺しは古代ギリシャにおいてどこでもおこなわれていた。必要とされない女児は山間に置きざりにされた。たびたびおきる普通のことである。時には籠または壺にいれられる。そうするともしかすると誰かがひろってくれる。またはなにかがおきて生きのびるかもしれない。スパルタにおいては事情がちがう。男子のほうが選別される。女子より男子が犠牲となる。判断するのは両親ではなく都市の長老である。神話にでてくるような子どもをそだてようとする女狐や羊飼いは絶対にいなかった。長老の判断は最終的で絶対だった。

最初の試練を生きのびた男子は七歳の時に家族からはなれる。アゴギといわれる一連の訓練にはいる。これはそだてるという意味だが動物よりすこしよい条件であつかうということである。スパルタ人の少年にとってはこれは教室である。ここ、ジーザス山脈のふもとで彼らはスパルタの言葉でブウアイ、蓄牛の一団に編成される。年長の子どもが世話する。彼は規律をまもらせ罰をあたえる。集まりの責任者である。そこで重視されるのは生きのびること。最低限の衣服があたえられる。秋の好天ではよいが冬の零下六度になる状況では不十分である。供給される食糧はわずかである。彼らは他人の配給品をかすめとることを奨励される。もしそれがみつかると彼らは棒でうたれるが理由はぬすみでなく発見されたからである。それは訓練というより悲惨な運命にたえることである。訓練によりきたえることでない。

この山を背景に本当かとうたがわれるスパルタの秘儀がある。クリプテアである。これは秘密の使命をおびた旅団という。極端な例がわかってる。ナイフが各自にあたえられ日中に散開、身をひそめる。夜に彼らは谷に侵入する。獲物をさがし見つけたヘロットをころす。この真相はあきらかでない。だがこのような血にうえた集団がいると噂となり地域にひろまる。これは恐怖による支配をつづけるのに好都合である。奴隷たちをしずめ従順にするのに完璧な戦術であるともいえる。スパルタは集団主義を重視したが個人の業績をよりたかく評価した。子どもたちは他の子どもと比較され評価され、また自分自身の限界との比較で恒常的に評価された。

* スパルタ、恐怖のアルテミス
ここは恐怖のアルテミス(artemis)の聖域があった場所である。ここでスパルタがもつ競争重視の考えが極端なかたちであらわれる。最初の五年のアゴギをこなした子どもたちは十二歳となる。彼らがここにくる。残酷な通過儀礼がおこなわれる。 そこ に祭壇をきづき、チーズがつまれる。そしてそこからチーズをぬすむ。どれだけおおくのチーズをぬすむかがためされる。その前に年長の男子がならんでる。彼らはそれぞれ鞭をもってる。彼らの使命は無慈悲にためらいなく祭壇をまもることである。彼らは忍耐とねばりづよさを徹底的に教えこまれてた。おおくの目があるなかで絶望にかられた十二歳の子どもたちが籠手、それは決闘におうじる印となるが彼らが年長にいどむ。何度も何度もいどむ。ひどいいたみにたえる。ひどい傷をおう。あるものはこれによりしぬものもいたという。このような残酷な訓練につよい嫌悪感をもつかもしれない。だがここアルテミスにかざられている素焼きの陶器の仮面は、このような暴力とはあまりにも縁どおいものとみえる。

こんなことにおどろくのは現代人だけでない。アリストートルもスパルタ人は彼らの子どもを動物におとしめたと批判してる。あるいは別のギリシャ人は蜂の巣のまわりにむらがる蜂とみなした。個性をまったくうしなったものとみてる。これが何世紀ものあいだにスパルタとはそういうものだといわれてきたものである。だが、集団行動のなかでその部分となることは限界からの解放である。もしフットボール場のなかのメキシコの波の集団行動のなかにいたり聖歌隊のなかで合唱したり抗議運動で行進したりすると群集のなかの部分となる。これは自己を極小にするよりむしろ自己を極大にさせ自己の限界を拡張させ自己の自覚を強大にする。このことに気づく。これらがスパルタ訓練の基本的魅力である。自己の限界を超越し自分よりおおきなもの、すぐれたものに属するという感覚になる。これが重要な点である。

* 集団行動を重視した訓練
十二歳になればきびしい訓練が可能になる。読み書き、現代に我々がいうところのものだが、それがおしえられる。これは必要なだけである。そして音楽と踊りは必須とかんがえられてた。重装兵士がぶつかる戦場は戦いの舞踏場といわれることがある。みごとな共同歩調をもってうごくことのできる密集歩兵隊はすばらしい舞踏の相手をつとめることができる。それでスパルタ人はおおくの時間をつかい戦争の音楽といわれる律動のある演習を完全なものにするのにつとめる。方向転換したり歩速を変化させたりを音楽的につたえる。スパルタ人はもっとも音楽をこのみ、かつ戦争をこのむ人々として有名となった。

* 最後の選別、共餐仲間への入会
二十歳のおわり頃に訓練もおわりに近づく。スパルタ人男子はもっとも重要な試験をうける。共餐仲間の一員にえらばれるかどうかである。えらばれたら彼らはほとんどの時間をそこですごす。もちろん、戦いと訓練がない時間である。この男性だけしかはいれない仲間にはいれるかどうかは保障されてない。この入会は現在の構成員の投票によりきめる。これに失敗することははずかしいことでありうまれた地域社会から排除されることである。もし受けいれらたらおおきな土地を国家からもらい、それをたがやす一定数のヘロットもつけられる。それで自分と自分の家族の生活をささえる。これで彼はホミオエの一人、えらばれた戦士となる。彼はスパルタの最上層にぞくすることになる。

共餐仲間のクラブはスパルタの中心から一マイルほどのところにあった。これは都市の政治をうごかす必須の仕組みであった。不協和音やあらそいを寄せつけないようにすることを意図してる。年長者と若者がまざりあい世代間の対立をやわらげる。この争いは他のギリシャでは恒常的にみられた。さらにもっと重要なのは富者と貧者が同一の条件で出あうことである。現実にある差があらわになることをきらう。それはほとんど強制である。この行動原理のうしろにスパルタの平等主義がひそんでいる。たとえもっていても見せびらかさない。それは家屋はもちろん、衣服、食事すら、これにあてはめる。ギリシャの他の場所では富裕なものは二人の売笑婦をしたがえ、仲間をよびワインをあけ雲雀の舌と蜂蜜づけの炙ったツナの食事を振るまう。スパルタでは贅沢な食事の時間はなく、共餐のクラブでは毎日きまった料理がでる。それは豚の血液を沸騰させ酢を調合してつくるスープである。これはメラスゾマスという。悪名たかいくろいスープである。こういう逸話がある。イタリアのシバラス、そこは贅沢で大食で悪名たかいところだがその住民がくろいスープの作りかたをきかされた。なるほどそれでスパルタ人がすぐしにたがるのか、といった。

スパルタの吝嗇ぶりはその同時代の人々をおどろかせ、また現代人もそうだろう。彼らの食事をさておいても、このくろいスープは栄養価がたかく健康的である。食事をとってるスパルタ人の彫像がある。満足そうな表情をうかべてる。この食事は充分に美味だったとおもう。栄養があり生活にあくせくすることなく隣人と協調している。これはスパルタの社会がもとめるきびしい条件にかかわらず、よき生活とは何かをしってる人である。それはまたまったくあたらしい種類の人間、つまり市民という身分の人間である。スパルタの社会は非常にはやい段階から社会契約を導入した社会である。そこでは個人の義務がある種の特権と権利によってバランスされていた。それはふかい意味をもった概念である。他のギリシャの都市よりも数百年もはやく取りいれたものである。

* ギリシャの危機でしめされたスパルタ精神
しかし理想郷は保護が必要である。紀元前四八〇年おそろしい知らせがスパルタにとどいた。ペルシャ帝国がうごきだした。巨大な軍が陸路と海路から西にむかってる。そこでスパルタがギリシャを崩壊からすくうこと、その有名をはせた兵士がその期待にこたえる実力があるのか。それをみせる時がきた。

考古学の目がスパルタにはいったのは近年のことである。一九〇六年、英国の一団が組織的に発掘作業にはいった。一九二五年、原寸大の上半身像が出土した。それがすこしづつ引きだされた時、すばらしい戦士像であることがわかった。ギリシャ人発掘作業員の一人が躊躇なくいった。レオナイデスだ。スパルタの傑出した王。彼は三百人の兵士とともに巨大なペルシアの軍に立ちむかい玉砕した。ギリシャ中部のテルモピレでの悲劇である。これが彼か、たしかな証拠はない。時代があうので可能性はある。私はこの作業員がこうかんがえたことはゆるせる。誰もがしってる伝説上の英雄に顔がないのはいやだろう。

近頃、この戦士はスパルタの博物館にかざられた。それをレオナイデスとよぶが、一応注釈がついてる。彼の彫像は印象的な作品であることは間違いがない。あの謎めいた笑いをうかべた表情はこの当時の典型的なものである。今は彼の目は眼窩だけがのこり空白だが、かっては水晶と貝殻がはめられてかがやいてたろう。その胸回りは将軍にふさわしく力づよい。髮の毛はととのえられ上唇のうえには髭がない。きれいにそられてる。それはライカーガスの改革にある身嗜みにそう。スパルタの男子は髭をたくわえてはいけないというものである。もしあなたがスパルタ人の典型をみたいのならこれがまさしくそれである我々はレオナイデスのことをほとんどしらない。彼はアガダイの家系の一人である。歴代王をだす家系の一つである。在位十年をへた。その時ペルシアが西に侵攻してきた。

* ペルシア帝国が侵攻
ペルシアはエジプトからインドの西端にひろがる超大国だった。東地中海の領域においても超大国だった。ギリシャはとるにたりない存在だったが、だんだんと彼らの西端をさわがす存在となった。ギリシャ人はその領土、小アジアにおいて何度か反乱をおこしてる。最初の軍をおくったのはダリウス王である。彼は懲罰のため軍を陸路、マラソンにおくったが、アテネとその同盟に敗北をきっした。その恥をはらす軍をおくろうとしたが、はたせずしんだ。その仕事は彼の息子、ゼクセスが引きついた。

ペルシャは陸路と海路で紀元前四八〇年のはやくに出発した。陸軍は非常にはやかった。歴史家のヘロドタスがいう。ペルシア軍は川の水を飲みほした。ペルシアは百五十万人にたっしたというが、より厳密な推測では三十万人をこえないという。ギリシャの都市を粉砕するのは充分である。スパルタはペルシアの侵攻時にデルファイに神託をうかがった。神託は神がはっした言葉であるとかんがえられてた。それは神がのりうつった女神官の唇をとおしてはっせられるとかんがえられてた。スパルタは純粋に神をしんじてた。彼らはそれをまるで軍隊の命令のようにあつかった。神託をまじめに読みとく必要がある。スパルタは謎にみちたまわりくどい文章から二つの選択肢を読みといた。降服せよ、さもなくばたたかえ。スパルタ人はスパルタ人である。後者をえらんだ。その侵略への抵抗の先頭にたった。

* テルモピレのたたかい
ペルシアの軍はおおきく南にふれてギリシャの心臓部にむかった。指揮をとるレオナイデスはこれを阻止するべく北にむかった。そこはテルモピレ、ギリシャ語で火の門である。紀元前四八〇年、ここは自然がつくった地形、瓶の首のようにせばまってる。現在は海岸線が数マイル沖にさがってるが南にぬける道は海岸線と山によってせばめられてた。七千から八千の重装兵士がギリシャ全土からやってきた。彼らがまずやったのは、もっもせまい場所に壁をつくること。彼らはここのうしろにしゃがんでペルシアをまつ。ここで進軍を阻止しようとした。

ギリシャの兵力は圧倒的におとってた。しかし彼らは地理をよくしる。ペルシアの進軍をおそくできたなら、もっと強力な陸と海の守りをつくれる。レオナイデスと彼に引きいられた三百の兵にとってはテルモピレは彼らにとりスパルタ人がなんたるかをしめす場所でもあった。ギリシャでは祖国のために貴族である彼らが死におもむく。その姿にさまざまな声があった。何をいわれようとも彼らがそこでもとめたのはカロス・タナトス、うつくしい死という意味の言葉、これの実践だった。

詩人ターティエスがいう。敵にしずかに前進してゆけ。けっして戦場から逃げださず死をまるで恋人のように抱きしめよ。戦いでは神に捧げ物をする。エロスは愛の神である。うつくしい死は真の意味で犠牲の捧げ物である。有限の命をもつものを神聖なものにかえることである。ここでレオナイデスは年長者と若者が心を一つにするようつとめた。彼は誰も祖国にもどることはないとかんがえてた。テルモピレでたたかつたスパルタ人は強力な神風特攻隊であった。

三日間、ギリシャはペルシアをまってた。壁のむこうに身をかくし、くればそこから反撃にでようとしてた。重装兵士の部隊は三度ペルシアの攻撃をうけ、三度反撃に成功した。ゼクセスはほとんど攻撃をあきらめかけた。そこで彼は秘密の抜け道があるといわれた。それは山をぬけギリシャの壁の後にまわることができるものである。レオナイデスはペルシアのこの動きをしった。勝敗の帰趨をさとった。まもなくギリシャは包囲される。まだ逃げだす時間があった。彼は同盟軍の戦場離脱をみとめた。そして歴史にのこる最後の戦いの舞台をととのえた。最後の日の朝、スパルタ人は戦場にむかう前の儀式を取りおこなった。はだかになった。準備運動をした。油を体にぬった。ながい髮を櫛でたがいにととのえあった。木の小枝に名前を書きこんだ。それを腕につけた。それで死体が特定できるようにするためである。ペルシアのスパイはこの奇妙な行動をみてゼクセスに報告すると彼はわらった。彼らはまるでパーティの準備をしてるようだとわらった。だが彼らは自分たちをより偉大にもっと高貴にもっとおそろしくしてた。

* スパルタ軍の玉砕
ヘロドタスがしるしてる。朝、ゼクセスはのぼる朝日にむかい神に神酒をささげた。そして前進をめいじた。レオナイデスの配下にある兵たちはこの戦いが最後の戦いになることをしってた。道のもっともひろいところにむかってすすんでいった。彼らは誰も助けにきてくれないなかで何者もおそれずたたかった。まだ剣をもっていたら剣で。なかったら手で。あるいは歯でたたかった。ペルシアは前からと後からも近づいてきた。

軍事の専門家からいえばテルモピレはたいした意味がない。これでペルシアの進軍は一週間たらずおくれた。そしてすぐまた南下をはじめた。この後にほどなくもう一つの戦いがはじまる。それはここにちかいサラミスである。そこではアテネに引きいられた艦隊がペルシアの艦船を撃破した。テルモピレは価値のない人にしられたくない虐殺であった。しかしサラミスはテルモピレがはじめたことをおわらせた。ペルシアはついにギリシャから追いだされた。この勝利の後である。

* テルモピレ、スパルタ精神の発揮
このテルモピレの悲劇における英雄たちの物語りがギリシャ人の心をつかんではなさなかった。テルモピレはスパルタ人がどのような人々であるかを世界にしめすかっこうの舞台となった。そこをつうじ彼らがその都市の理想を実現し彼らがもとめた理想郷がただしいことだとしめした。さらにヘロドタスがいう。テルモピレがスパルタ人に他の都市がけっしてえることのできないたかい栄誉を作りだした。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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