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ミノア文明(簡略ギ歴) [英語学習]

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* 内容の紹介
ギリシャ最初の文明、ミノア文明につき、建築様式による時代区分、パイシトスの円盤、クノソスの宮殿、王座の間、列柱の間、多数の部屋、開放的構造などの特徴をあつかう。
(Ancient Greek History - Minoan Civilization - 1.5、Historyden)

* ギリシャ最初の文明、ミノア文明
これからミノア文明についてかたる。前回にはマイシニアからはじめるつもりだったがギリシャにおける最初の文明がミノア文明である。こちらからはじめる。ミノア文明とマイシニア文明が二つの重要なな青銅期の文化である。これらどちらも消滅し暗黒時代にうつってゆく。そこをでてアルカイックのギリシャにうつり、そこで速度をあげ古典ギリシャの時代にはいった。ではまずミノア文明からはじめる。

* 文献のない時代の歴史の研究
この時代を建築様式の変遷から四つに区分できる。文献資料がない時代の区分である。王も女王もその名前がわからない。戦争にも名前がない。戦争による時代区分ができない。建築にたよらざるをえない。考古学にたより歴史をさぐる。ここで想像をふくらませよう。

もしラテン文字が解読できなかったらどうなる。プルターク、リビの歴史書は存在しないのとおなじこと。またもしローマが放棄され廃虚がのこったとする。そこでおおくの共通の様式をもった建築をみつける。これは同一の文明の所産かと気づく。偉大な文明の所産であると気づく。そしてローマにたどりつく。中心となった丘がのこってる。そこにたどりつく。では最初にたどりつく重要なものとは。それはこの文明が生みだしたもの。次々とみつける。紀元前六、七、八世紀とわかる。最初がこれとわかる。放射性炭素を利用して年代測定できるからわかる。これを確定できれ ばローマ文明の出発点がわかる。さらにこれが首都であると結論できる。だがこれがたとえできてもローマがどのようにして共和制をはじめたのか。しることはむずかしい。

それは文献資料にたよらざるをえない。たとえば彫刻にジュリアス・シーザーの像がのこってる。しかしラテン文字がよめない。するとこの人物の名前はわからない。でもこれが非常に重要な人物と判断できるかもしれない。非常に重要、ならば神像だと判断するかも。この判断は一部はただしいが彼は神格化されたが神でない。また彼が重要な内戦に勝利した重要な将軍である。これをしることはむずかしい。建築様式の変遷や考古学的手法でわかることには限界がある。これがミノア文明の探求でぶつった考古学者や歴史学者の問題である。

* 建築様式による四つの時代、準備期
では四つの時代にうつる。まず準備期である。これは非中央集権的性格をもつ文化である。そこには中央集権的な権威がいない。後年にあらわれるものだが。その社会は共同体的であり地域的である。次である。

* 古宮廷期
古宮廷期である。これは考古学による判別された。これまでに広壮な宮殿が発見されてる。それはその集落の中心である。ここでミノアの文明が発展していった。この期間に王とよぶべき人物が出現した。したがって貴族、平民、たぶん奴隷の身分があったろう。紀元前一九〇〇年から一七〇〇年とみられてる。二〇〇〇年までさかのぼる学者もいる。一七〇〇年の頃に何かの非常事態がおきた。

* 繁栄期
巨大な地震がおきたといわれてる。これが当時、存在してた宮殿をなぎたおした。しかしすぐに復興した。。それまで以上の広壮ではなやかな宮殿が建設された。クノソスの宮殿はその一つである。この時期は紀元前一七〇〇年から一四〇〇年である。この宮殿についてはなす。

この時期がミノア文明を代表する時期である。この時期に広範囲にわたる道路網が整備された。宮殿や町のあいだをつないだ。広範囲にわた交易がおこなわれた。ミノアの壺である。東方、エジプト、あるいはメソポタミアにおいてもその特徴のある壺が発見されてる。これらはすべてクリート(クレタ島)でつくられた。ミノア文明はおおくのエーゲ海の島々にひろがった。この文明は多大の影響をあたえた。

* マイシニア侵入期
紀元前一六〇〇年である。あたらしい競争者があらわれた。マイシニア人である。彼らはギリシャ本土を支配してた。ミノアはおもに島々である。最後の時期、ここで紀元前一四〇〇年から一一五〇年である。基本的にはマイシニアがミノアの宮殿や町をうばった。ここでミノアに何がおきたか、よくわかってない。しかしこの頃までに彼らがいなくなったこと。これはたしかである。これについていわれてることである。火山の噴火。これが大規模な津波を発生。ミノアの艦船が全滅。彼らは巨大な艦船をもってた。これをうしなった彼らは防衛する力をうしなった。これがマイシニアの侵入を呼びおこした。

これが史実とする根拠はかならすしもない。また別の考えがある。ミノアが単純によわかったからマイシニアがここを占領したという。いずれにしてもたしかなことは、マイシニアがミノアがもっていた地域をうばったという事実である。しかし彼らの勝利はながくつづかなかった。数百年のながさでだった。彼らもいなくなった。そして暗黒時代にうつってゆく。

* エヴァンスのクノソス発掘
ミノア文明にかかわった有名な学者はサー・アーサー・エヴァンスである。英国の考古学者である。彼により研究がおおいにすすんだ。彼は最初の調査をクノソスからはじめた。彼は遺跡を発掘して、そのあまりの宮殿の巨大さにおどろいた。この宮殿はクリートで最大だった。そのため彼はここがギリシャ神話でいうミノス王の宮殿である。そのためこれは偉大な文明によりきづかれたとしんじた。これによりミノア文明とよぶこととなった。したがって彼らが自分たちをそうよんだわけでない。また彼らがどう自分たちをよんだか正確なところはわかってない。そこで発見された線文字Aは解読されてない。またミノアにかんする神話の数々は彼らがいなくなって後に生みだされたものである。だが古典時代のギリシャ人はクノソスにミノス王がいたとしんじてた。しかし考古学上の証拠はみつかってない。さてミノス王の神話である。

* ミノタウロスの神話
彼はクリートに宮殿をもち、そこの王であった。海の神、ポセイドンが王にしろい牡牛をあたえた。かれはこれを飼育する。しかしこれは神に許可をもとめねばならないことだった。彼はこれ無視した。ポセイドンは激怒し呪いをかけた。すると王の妻がおどろくべきことだが牡牛に恋した。彼女は半人半獣のミノタウロスを産みおとした。王はこまった。彼はこのミノタウロスをかくすために迷宮をつくり、そこに閉じこめた。十六世紀にえがかれた図には迷路とその中心にいるミノタウロスがえがかれている。迷宮にはいって逃げだした者はいなかった。逃げだすには凶暴なミノタウロスをたおさねばならない。

ところでミノス王はアテネと戦争をした。勝利して戦利品としてそれぞれ七人のわかい男女を要求した。彼らはクリートにおくられ牡牛にあたえられた。ここでアテネの英雄ティシアスがみずから志願してこの七人のなかにはいった。彼らは島におくられた。そこで幸運なことに王女に出あった。彼女は恋におちた。この迷宮から抜けだすために糸玉を彼にあたえた。彼はこの糸をのばして帰り道を確保しながらすすむ。そこでついにミノタウロスと対決したおした。糸をたよりに脱出に成功した。彼の働きによりアテネの苦しみがのぞかれた。

どうしてこのような神話がうまれたか。その説明がある。ギリシャ人がクリートをおとづれ宮殿にかざられたたくさんの牡牛の絵をみた。そこからこの神話がうまれたというもの。ところでミノアの人々が暴力的だったという証拠はない。むしろ平和をあいする人々だといえそうである。彼らは自然と融合して生きていた。おおくの壁画、モザイクにのこされた絵柄にはドルフィン、牛、鳥がある。ではミノアのクリートについてである。

* クリートのミノア遺跡、パイシトスの円盤
クリートの島内の各所にミノアの遺跡がある。それらほ巨大な建物群である。クノソスだげが惟一の宮殿ではない。パイシトス、ツリハーダ、マリア。その宮殿はすべてことなる。クノソスが最大である。南にゆくとパイシトスがある。考古学調査によりパイシトスの円盤とよばれるものが発見された。この目的、意味は不明である。これは古代の考古学上の最大の謎である。どのような目的でつかわれたのか。そのうえにある印、図形の意味は解読されてない。しかし一つの説明がある。

これは各種の文字をまとめてあつめたもの、そのもっともふるい時期の例である。それをつかってやわらかな粘土に印字する。これは古代のグーテンベルクの活字である。ひろがることなくきえたという。そうならおどろくべき発明である。そこをよくみると人の頭や角をあらわしてるものがある。

* クノソス宮殿
次はクノソスの宮殿である。ここはエヴァンスが最初に調査をはじめた場所である。現状は建築物がある。しかし当時は瓦礫の山だった。彼は発掘作業をすすめながら建物を復元していった。ここをあるけば往時の姿がよみがえる。貯蔵用の壺が発見されてる。各所に発見されてる。これは宮殿が王と家族の住居だけでない。行政の中心として機能してた。宮廷経済という言葉がある。これはマイシニアについてもつかわれる。この意味である。

宮廷は巨大な資源の再配分をおこなう。その中心だった。この言葉は数百年後につかわれる。まだこの時代にはつかわれない。これを注記しておいていう。農民についてかんがえる。農作物を収穫する。それを宮殿にもってゆく。ここの部屋の一つに貯蔵する。ここには実際おおくの部屋がある。この貯蔵物が最後には周辺の人々に再配分される。あるいは別の品物と物々交換する。これは再配分の中心であって市場、そこで物をうったりかったりする場所でない。さてもっともおおきな部屋のことである。

* 王座の間、牡牛の跳躍
王座の間とよばれる。ここは王がいるところかもしれない。ある学者はここは高位の僧侶の間であるという。文献資料がないので明確な答はない。しかし王がいた間ではないとおもう。この部屋の壁にはグリフィンの絵がのこってる。もう一つミノアにのこってる絵柄に両刃の斧がある。そのおおきさはさまざまだが、おおきいのは人の身長もある。ミニチュアサイズのものもある。いろいろな目的におうじてつかったものだろう。宗教的目的、あるいは護身のお守りだったかもしれない。また別の図柄である。牡牛の跳躍である。牡牛の背の上を人間が飛びこえる。これをミノアの人々が参加する有名な遊びだった。現在はスペインに闘牛がのこってる。牡牛をつかってあそぶ。この精神は時代をこえて今にいたる。

* 列柱の間、蛇神の像
列柱の間といわれる部屋がある。これは宮殿の庭にめんしてる。宮殿の中央に位置する。大事な行事がここでおこなわれたとおもわれる。そこの広場では牡牛の跳躍もおこなわれた。いくつかのちいさな彫像がみつかった。蛇神の像とよばれる。明確な答はないが、考古学者によって女神の像、女王、高位の僧侶などという。まとめである。

* クノソス遺跡の特徴、開放的構造の意味
現代の目からみても巨大である。千をこえる相互につながった部屋がある。その構造だが開放的である。周囲をめぐる壁がない。警護のための壁がない。ここから想像できることである。一つはミノアは完全に島全体を支配してた。したがって周囲の敵の脅威はなかった。もう一つは極めて強力な海軍をもってた。外部の海からの脅威もなかった。それでこのような開放的な宮殿を建設できた。そして自然に溶けこんだ構造をもってた。ちなみにクリートの周囲にある宮殿であるがおなじような構造である。さてどうして考古学者がミノアの宮殿の復元のように精密にできるのか。これをかんがえる。

それは複数階建設の特徴と関係がある。もし地震がおきたら建物は崩壊しあとにのこるのは一階、二階と層になって積みかさなった瓦礫である。このため復元が容易であった。これは古代においては他に例をみない。ミノア文明は極めて先進的な文明だった。しかしマイシニアの登場によりおわりをつげる。それは次回にのべる。

(おわり)

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StevBike

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