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マイシニア文明(簡略ギ歴) [英語学習]


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* 内容の紹介
ミノア文明につづき青銅器時代の後半にあらわれたマイシニア文明をあつかう。強力な王が領域を支配し中央が管理する経済と交易でさかえた。
(Ancient Greek History - Mycenaean Civilization - 02、Historyden)

* はじめに、マイシニア文明の出現
おおくの文明が紀元前二〇〇〇年の頃にうまれた。マイシニア文明がギリシャ本土でさかえミノアがギリシャの島々でさかえた。マイシニア文明が後期青銅時代からはじまった。もうすこしくわしくいう。まず青銅時代のはじまりはほぼ紀元前三〇〇〇年である。そしてほぼ紀元前一〇〇〇年におわる。エーゲ海地域の青銅時代は青銅の出土状況から他の地域とことなるかもしれない。ミノア文明の青銅時代とマイシニアとはおなじでない。別の存在である。最初の定住者、彼らはギリシャ語をはなす人々のことだが、紀元前二〇〇〇から一九〇〇年にやってきた。そして一六〇〇年頃、ここに文明の出現をみた。

* その特徴、都市が支配
それは建築、都市が支配する文化である。マイシニア文明がこの時期に出現した。ここで都市とは市民の集まりである。彼らは消費のための直接の生産はおこなってない。そこは農業従事者がすむ村でない。青銅時代のはじめの頃の定住者だったが都市はおおきかった。それらが統一された文明といえるのは特徴ある壺と共通の言語だった。マイシニアはながい期間さかえた。

ほぼ四百から五百年である。比較するが古典ギリシャの時代はほぼ三百年。しかしほぼ紀元前一二〇〇年あるいは一一五〇年に彼らはいなくなった。その地理をみる。

* その地域、マイシニ、パイロス、アテネ、シーブスなど
文献資料がないので考古学者や歴史学者は葬制と壺の様式にたよってその歴史をしらべる。最初のマイシニア文化の埋葬例がペロポネソスである。南部、中部にもみとめられ数はすくないが北部にもあった。ミノア文明崩壊後に島々にもその例があった。ミノアがいなくなって事情は不明だが彼らがのこした住居にすんだ。それは先住者を追いだしたものなのか、あるいは何故ここに移りすんだのかもわからないが。

* 首都はマイシニ
その首都はペロポネソスの北東にある。それはマイシニとよぶのんが適切である。ペロポネソスの南西のパイロス、古典ギリシャの主要都市だったアテネ、シーブスもマイシニア時代の都市だった。ミノア文明で最初の都市であったクノソスもそうだった。ちなみにマイシニは十九世紀に考古学者が発明したものだった。繰りかえしになるがマイシニアについてまとめる。

* ひとりの王、地域をすべる強力な支配
それは青銅文化である。パイロスの遺跡から青銅の短剣。がでた。マイシニアの都市は農業で維持されてる村とちがう。主要都市は共通の言葉と文化により結びつけられ、その首都、マイシニには王がいる。そこに一人の王と王宮があった。現在までのこってるが巨石による構造物、おおくのライオン門がある。彼らは初期のギリシャ語をはなす。これは書き言葉の言語でない。話し言葉であることを注意しておく。では記録された言葉である。

* ギリシャ語をはなしたマイシニア人
マイシニア人がギリシャ語をはなすといった。どうしてそういえるか。それは線文字Aと線文字Bにかかわる。これらは粘土板に記録された。その粘土は火でやく。これが現在までつたわった理由である。ところが後世にのこそうとした結果でない。もともとは王の財産管理の記録である。その財産目録である。ここからマイシニア人の様子をしることはむずかしい。王はマイシニアの社会ではすべてを支配する。これがわかる。王のかずかずの財産、臣民がはらうべき税が記録されている。その文字の種類である。

* マイシニア語というギリシャ語
線文字A、これはふるい。ミノア人によりつかわれてた。現在まで解読されてない。これがどんな言語だったかわからない。ここにあらわれてる字形が何を意味するのかもわからない。後期にはいり線文字Bが出現した。これはあきらかにふるいギリシャ文字との関連がわかる。マイシニアの文字である。関係があるが同じではない。マイシニア語とよぶのが適切であろう。

* 都市の特徴
マイシニアの都市と建築物である。マイシニアの都市は通常は丘のうえにたつ。陸からか海からかはわからないがあきらかにその攻撃の防衛を考慮してる。通常はそこに砦と宮殿がある。そこに付設されるものに有名なライオン門がある。巨大な石が石工によりつまれてる。そのうえに手がくわわってない巨石がおかれ、うえまで積みあがってる。古典ギリシャ時代に比較すれば石積みは精錬されてない。一定のおおきさの石がつまれる。そこにしょうじるすき間はちいさな石でふさがれる。門の周囲は水平をたもつようにおおきな石が積みあげられる。この門の厳重なつくりはたぶん当時の戦いが第一線の兵士同士により門前でおこなわれる。そのため厳重となったのかもしれない。古典ギリシャ時代の人々はこのような巨大な建築物は伝説にでてくるような巨人のみがきづいたとかんがえてた。マイシニアの王たちである。

* 強力な王、継続した王統
巨大な支配力をもつ。すべてを一人の王が支配し文化はその王の支配のもとに統合されてた。王は継承された。非常に安定した時代だった。当然だが後の古典ギリシャの共和制を生みだした都市国家とは類似点がない。このような政体は後世のギリシャ人はみとめないだろう。マイシニで発見された王の埋葬をみる。それは巨大である。あるものは五十フィートの広さをもつ。考古学者はそこで豪華な宝飾品、黄金の仮面、つまり豪華な黄金のデスマスクを発見した。これは埋葬された死体にかぶされてた。つぎにマイシニアの経済である。

* 宮廷経済、王のもとでの中央管理、交易で繁栄
宮廷経済とよぶ。これは財物の管理を中央があつかうことを意味する。いったん中央にあつめられたものは必要とする人々に再配分される。この再配分のためのお金や通貨はなかった。マイシニアの経済をうごかすもの何か。その一つ。農場経営である。もう一つがおおくの貴重な骨董品である。通常、都市は農地にかこまれてた。この農地が第一番に重要な食糧の供給源だった。マイシニア人は書斎に閉じこもる人たちでなかった。彼らは地中海全域にわたり交易をおこなった。エジプト、メソポタミアに彼らの特徴ある壺が発見されてる。交易がマイシニアを極めて富裕にし強力にした。マイシニアのおわりはよいものでない。

* 突然の消滅、不可解なおわり、暗黒時代に
紀元前一二〇〇年頃である。非常事態がおきた。その都市は放棄あるいは破壊 された。 ほとんどの場合はひどいものだった。放棄され都市は二度と人がすまなかった。この崩壊が何によるのかわからない。このような例がないわけでない。ヒッタイトもおなじである。その説明をする人がいる。いろいろな種類の侵入者の存在。自然災害、経済崩壊。だがいずれにせよマイシニアはいなくなった。その後はわからない。おどろくべきことだがマイシニアがもってたものが何も古典ギリシャに受けつがれなかった。その文字は受けつがれなかった。マイシニアがいなくなりギリシャの暗黒時代がはじまる。ここでいくつかの疑問がある。

マイシニアがいなくなるとどうして暗黒時代がはじまるといえるのか。もちろん、文献資料もない。それは鉄の武器の導入である。マイシニアは青銅時代だった。次は建築様式である。それはマイシニアとくらべて非常にちがってる。また墓制があきらかにちがう。次の時代はギリシャの暗黒時代となる。

(おわり)


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