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マンテニイの戦い、最終のゲーム(簡略ギ歴) [英語学習]


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* 内容の紹介
ペロポネソスへの侵攻がつづく。アーゴス、アルカディア、シーブスとアテネ、スパルタ、コリンスの対立の構造で随時、衝突がおきるが、偶発的な衝突がより混乱をます。マンテニイの一大決戦がおわりスパルタとシーブスが力をうしないアテネの力がます。アテネの栄光が復活してゆくが北方が影をおとす。このような混乱の姿をあつかう。
(Ancient Greek History - End Game: Battle of Mantinea - 44、Historyden)

* ペロポネソスへの侵攻、その二回目
前回は最初のペロポネソスの侵攻まで、それは紀元前三七〇年。翌年に第二次の侵攻があった。アーゴスとアルカディアは再度のスパルタ侵攻をかんがえた。彼らはスパルタをロープにとらえ最後のとどめをさしたいとおもった。それでシーブスに助けをもとめた。イパマナンデスがまたその遠征を指揮する。アテネとコリンスとスパルタはこれに反応する。三者は共同して軍をだしシーブスがやってくるのを阻止するためイスミスの街道をまもった。

* アーゴス、アルカディア、シーブス対アテネ、コリンス、スパルタ
シーブスは彼らがまもってるちかくで野営した。イパマナンデスはもっとも脆弱なところを攻撃する。それはたまたまスパルタだった。夜明けに不意打ちした。スパルタの警備の交替時期をねらった。これはスパルタを完全な混乱に落としいれた。彼らは高台にのがれ軍をととのえた。停戦が合意。ゼネフォンによればスパルタにくらべてシーブスに都合のいいものだった。これはシーブスが自由に山のむこうに兵をおくることができるものだった。たただちにそうした。彼らはイスミスを突破した。

* シーブスがイスミスを突破、コリンスで衝突
シーブスはアルカディアとアーゴスに連絡がとれた。シーブスと同盟はスパルタと同盟のいる都市に進軍した。おもにシーブスが周囲の田園地帯を略奪した。そしてコリンスの門の前にやってきた。そこにはコリンスの警護の軽装兵士が待ちかまえてた。シーブスはコリンスを追いつめた。しかしコリンスは死体を壁に引きよせてふんばり、ついに旗をたて勝利のトロフィーをたてた。スパルタ側は士気を回復した。この敗退があったもののシーブスはなおも田園地帯で略奪と破壊をおこなった。

アテネとコリンスの騎馬隊は安全な郷里をたもってシーブスについてきた。シーブスの軍は数において絶対の優位にあった。冬が近づいてシーブスは自国にもどった。これは勝敗がどうなったか不明の戦いであった。紀元前三六九年のことである。

* アルカディア、オメイデスが主導して侵攻へ
紀元前三六八年、イパマナンデスがまた政敵の非難をあびた。今度はやぶれ彼は将軍の職をうしなった。シーブス側にあるペロポネソスの都市は自分の考えがあった。オメイデスとよばれる人物がアルカディアに登場、アルカディア同盟を主導するようになった。彼はほとんどすべてのアルカディアの都市の尊敬をうけた。彼はアルカディア人がペロポネソスのなかのもっと重要な存在である。アルカディアがもっともすぐれた戦士をもつ。そして演説の聴衆にむかってアルカディアは戦いにおいて何度も スパルタを補佐してたかった。アルカディアがスパルタを軍事大国に変身させた。そして今はシーブスの支配の下にあるからアルカディアはシーブスをたすけスパルタにつぐ大国になるべきといった。

彼らはシーブスと相談なく攻撃を仕かけた。大胆にもアテネとコリンスを攻撃してるアーゴスをたすけた。次に彼らはマシーニアに進軍しスパルタの守備隊を攻撃した。その司令官をころし略奪をおこなった。この独断専行はシーブスとの関係に水をかけた。

* シーブスとテッサリが小競り合い、ペルシャの仲介
ところでテッサリとシーブスに衝突があった。シーブスがおくった外交使節、ペロポテスが監獄にいれられた。シーブスは軍をおくり救いだした。この事件はシーブスのペロポネソス関与をすくなくとも短期間かもしれないがさまたげた。

もう一つの出来事である。長期的平和に貢献するといえるもの。関係者がデルファイにあつまった。これをペルシャが仲介役をつとめた。 ここでスパルタがマシーニアをまた属国とみとめるよう要求した。シーブスが拒否した。このため不成功におわった。しかしペルシャがスパルタにあたらしく資金提供を約束した。スパルタはこれで傭兵を増強した。

* スパルタ、シラキュース、アルカディアに侵攻
ところでシラキュースがスパルタに援軍をおくってきた。この援軍をふまえアテネとスパルタは次の手をかんがえた。 アテネはそれをシーブスにおくりたい。スパルタはアルカディアの活発な動きが脅威である。ラコニアにおくりたいといった。最終的にラコニアになった。シラキュースとスパルタの共同の軍が編成された。それをアカデミスが引きいた。アルカディアを南進しケライをうばった。市民を刀でおどした。彼はアルカディアの軍がやってきたことをしった。彼を阻止しようとやってきた。

ゼネフォンはいう。空がたちまちくらくなり雷光がひかり雷鳴がひびいた。よいしらせだ。アカデミスはさらにアルカディアにむかってすすんだ。ヘラクレスの像のそばで気勢をあげ、そして勇躍攻撃にはいった。スパルタにも高揚した気分があった。この戦いで一人のスパルタ兵士がしんだ。ゼネフォンがいう。同盟のシーブスでもこの結果を小気味よくみた。アルカディアの単独行動をにがにがしくおもってた。これはシーブス側にとりよい教訓となった。やはりシーブスが統括しなければいけない。

* シーブス、イパマナンデスがアキーアに侵攻
翌年の紀元前三六七年。シーブスはペロポネソスの支配をたしかなものにしたかった。スパルタ支配の回復がどの程度か。アルカディアとマシーニアへの支配はスパルタのペロポネソスの封じ込めに最重要である。イパマナンデスは軍をアキーアにすすめた。彼らはシーブスに降服した。シーブスは軍をビオーシャにもどした。これは奇妙な同盟関係である。アキーアの政体は 貴族政治である。当然スパルタに友好的である。これをアルカディアの人々はスパルタのためにアキーアをきれいにしてやった。それででていったといった。

* アキーアの民主化が失敗
イパマナンデスの政敵とシーブスは地方長官をおくり貴族政治家を追いだした。アキーアの全土に民主政治を打ちたてた。シーブスは民主政治である。しかしこの民主政治はながくつづかなかった。貴族政治は復活し、その動きは全土にひろがった。おどろくことでないがスパルタへの忠誠をあきらかにした。

* アテネとシーブスの国境紛争、直接対決の危機
奇妙な出来事がアテネにおきた。シーブスとのあいだの国境紛争である。ルービスという町が長年の紛争地であった。紀元前三六六年、セミストン、ユバウアの専制的支配者であるが、彼がこの町をうばった。ここはアテネの経済活動に極めて重要な町である。アテネはかなりの規模の軍をおくった。セミストンはアテネとあらそうことはせぜず、これをシーブスにゆずった。これでアテネが取りもどすにはシーブスと全面的に対決しなければならない。アテネは協力者をペロポネソスにもとめたがむずかしかった。しかしアルカディアがこれにこたえた。

* アテネとアルカディアが同盟関係に
アテネを潜在的同盟者としてアルカディアが協議にはいる。これはまるで喜劇のような展開である。ここにも奇妙なことがおきた。アテネはシーブスとの対決にスパルタとの協力を取りつけてる。ところがアルカディアはスパルタとはげしく対立してる。スパルタとはシーブスの弱体化という共通の目標がある。当時のアテネの外交はシーブスの弱体化が優先した。ところでアカデミスは暗殺さたが、この関係には影響しなかった。和平協定がむすむすばれた。アテネはイスミスの支配をペロポネソスにまかせた。それはもっとも重要なスパルタとアルカディアがはいってるからである。

* アテネ、コリンスに圧力
さらにくわえてコリンスにある守備隊を増強した。実際にはコリンスに進出しそれをうばってしまおうというものだった。アテネとは同盟関係にあるがこの動きを敵対行為とみなしてアテネの海軍がコリンスの港にはいることを拒否した。しかしアテネはすでにイスミスを自国領としてコリンスから保護してた。コリンスの反発の理由である。将来、アテネが攻撃するとおそれてた。アテネはおおくの同盟都市をペロポネソスにもってる。コリンスはペロポネソス戦争以前の大国でない。海軍も陸軍も弱体化した。

* シーブス、コリンスと同盟関係、ペルシャが和平攻勢
これを見すかしシーブスが同盟を提案した。コリンスはこれに署名したが、それはあきらかにスパルタの容認があった。とはいえこれは軍事協定ではない。それはスパルタとたぶんアルカディアを刺激するものだろう。平和への動きがペルシャにあった。仲介で再度あつまった。シーブスも和平の提案をした。しかし失敗におわった。我が物顔に振るまうシーブスにたいしギリシャの都市が反感をたかめた。そして戦いがあいかわらずつづく。

* たかまるシーブスへの反感、マンテニイの動き、イパマナンデスが反発
紀元前三六二年になった頃いくつかの都市国家があからさまにシーブスへの反感をあらわした。代表例がマンテニイである。彼らはシーブスはペロポネソスを完全に破壊するといった。そのためアテネとスパルタにあたらしい同盟の創設をもとめて使節をおくった。イパマナンデスはだまってなかった。再度のペロポネソスの侵攻をかんがえた。最大の目的はマンテニイの攻撃である。その軍はビオーシャ、ユバウア、テッサリからなった。その頃はアーゴスとマシーニアの協力が期待できた。マシーニアはこの騒乱の時代に引きつづき友好的であった。アルカディア同盟は完全に 分裂した。タジアとメガロポリスはシーブスの側にたつことにしてた。マンテニイはスパルタとアテネと同盟を形成した。状況が混乱してる。

シーブスがペロポネソスに侵入してきてからタジアに基地をつくった。ここがすべての資材の収蔵庫となった。シーブスの側のものである。他方、スパルタはマンテニイにやってきた。これで戦いの舞台がととのった。当時として最大の規模の戦いである。たぶん六万もの軍がこの戦いに参加することとなる。

* マンテニイの戦い、イパマナンデスの死
マンテニイの戦いである。その編隊の説明である。マンテニイは名誉の右翼である。アルカディアとスパルタがその次である。オリアとアキーアが中央、アテネが左翼である。これにたいして、イパマナンデスはルトラで採用した編隊、五十列の編隊で左翼をしめタジア、アーゴスは中央、その他の同盟軍が右翼をしめる。両軍の両翼はともに騎馬隊で防御されてた。戦いのあいだマンテニイの騎馬隊はシーブスとテッサリの騎馬隊に追いつめられた。もう一つの翼ではアテネの騎馬隊がシーブスの騎馬隊に撃破された。シーブスの歩兵はスパルタの左翼にわってはいった。これには騎馬隊の援助があった。しかしこのシーブスの成功は挫折した。

イパマナンデスがたおれた。彼は胸部を槍でさされた。スパルタが彼をころそうとねらってはなったものという。たおれたイパマナンデスをめぐって熾烈な戦いがスパルタとシーブスのあいだにおきた。シーブスがやっと彼を確保した。彼がはこばれるあいだに味方にどちらが勝ちかたずねた。自軍がかっているときくと彼はただ一言、もうしぬといった。彼は歴史家からもっともすぐれた将軍でかつ政治家の一人といわれてる。ゼネフォンの記述はここでおわる。

* 歴史家ゼネフォンのいらだち、歴史をうごかす北方の動き
そのさい、こんなことをいってる。マンテニイの戦いがおわってこれまで以上の不確実性と混乱がギリシャ全土をおおった。ここにゼネフォンのいらだちがかくされてる。ともかく戦いがおわった。スパルタとシーブスが力をうしなった。アテネは力をましエーゲ海の覇権を回復し、かっての栄光を取りもどしてきた。ただし北方にちいさなかげりがあるのをのぞいてである。これは将来おおきなものになってゆくが、これについては次回にのべる。

(おわり)

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