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ペロポネソス戦争、その十(簡略ギ歴) [英語学習]


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* 内容の紹介
アテネがいったん勝利したものの城攻めとその対抗戦で拮抗し、つづく消極策で泥沼化、やがて全面敗北する。この悲劇をあつかう。
(Ancient Greek History - Part 10 of the Peloponnesian War - 26、Historyden)

* はじめに、アテネの城攻め
ここでは紀元前四一五から四一四年のシラキュウースとの城攻めの戦いをあつかう。前回にのべたようにアテネはシラキュウースとの最初の戦いに勝利したが最終的な決着をつけられなかった。そこでシラキュウースの北部で冬の休戦にはいった。紀元前四一四年の春、アテネ軍がもどってきた。城攻めの体勢にはいった。この城攻めは歴史にのこる偉大なもの。ペロポネソス戦争に重大な影響をあたえた。城攻めの柵を建設、すると対抗の柵を建設する、相手の動きにおうじて建設がすすむ。状況が複雑にかわる。

* 地理の説明
まず地理的な説明である。シラキュウースはシシリー島に付随した島である。その南東にグレイトハーバーという湾がひろがる。沿岸線はアルファベットのCの字をなす。シラキュウースはその文字の上端にぶらさがるようについてる。ここやグレイトハーバーはシシリーの東南部にある。グレイトハーバーの北にはエピポリという隆起した平原がひろがる。これはグレイトハーバーやシラキュウースのうえにかぶさるようにせりでてる。グレイトハーバーの沿岸線にそってずっと沼沢がつながる。なおシラキュウースの南端とグレイトハーバーの沿岸線がつくる陸地は海をかこむ。内海から外海にぬける開口部はせまい。このような場所で戦いが繰りひろげられる。

* 海上封鎖から陸も封鎖、城攻め
紀元前四一四年春、アテネはシラキュウースの海上封鎖を完了していたので城攻めの柵を構築してシラキュウースを降服に追いこもうとした。最初にレブダハンに供給のための拠点をつくった。これはエピポリの平原の北西部にある。この頃、援軍の兵がやってきた。この兵もくわわり平原にサークルとよばれる砦をつくった。これは平原の中央にある。これが城攻め全体の拠点として機能した。ここを起点として一つは北にのび、もう一つは南にのびグレイトハーバーにいたる。アテネはこの二つの柵をできるだけはやく完成したいとおもった。これでシラキュウースを取りかこむ。

* 南北にのびるアテネの柵、シラキュウースの対抗柵
北の柵はのびて海をのぞむ。南はのびて沼沢をわたり湾にいたる。シラキュウースはこの動きをしり恐怖した。これでは陸からも封鎖される。陸上の交通を確保する。そのためアテネの建設を阻止する。これに対抗する柵をつくりはじめた。しばらくのあいだおどろくべき事態がおきた。両者は建設に没頭しどちらも攻撃しなかった。しかし気づいてアテネが三百の兵で攻撃した。シラキュウースの建設した柵の一部を破壊した。シラキュウースは前につくってあった主柵に逃がれた。これでアテネは自分たちの柵をつくり沼沢をわたった。シラキュウースはあきらめない。二番目の柵を沼沢をつっきり建設した。この意図はアテネの柵の列を邪魔である。

* シラキュウースの反撃、ラマカスの戦死
そこでアテネが二度目の攻撃をした。シラキュウースはにげた。二つにわかれた。一つは都市にもどる。もう一つはシラキュウースの砦であるオリンピアにもどる。ここはグレイトハーバーの西にある。この集団をを三百人がおう。しかし追撃はむずかしい。アテネの主力部隊は背後にのこってたからである。アテネはナプールス川をわたる前に追撃したいとおもったが、ここにシラキュウースの騎馬兵が登場した。これは常にアテネをおびやかした。彼らは友軍をすくったばかりでなく三百を攻撃した。さらに主力部隊にまで攻撃しはじめた。これで戦況はまった逆転した。アテネは退却しはじめた。ここでラマカスは部隊を落ちつかせたが、ここで戦死した。これでニキアス一人が将軍としてのこった。

* アテネの中心の砦を攻撃、アテネ海軍の援護
シラキュウースはアテネの主力部隊の手薄をついて砦のサークルを攻撃した。ニキアスは砦にあった材木に火をつけさせ攻撃をとめた。ここで時間をかせいでいると主力部隊がもどってきた。この頃にアテネの海軍がグレイトハーバーにやってきた。この情勢にシラキュウースは都市に退却した。この援軍もくわえて、南の柵を二重にした。これで防禦をさらにかためた。また木の板をつかって沼沢をわたりやすくした。この二重柵によりアテネはシラキュウースの妨害をうけずに海から補給をうけることができるようになった。もしアテネが北についてもこのような柵を完成させたら、それはシラキュウースの絶体絶命。するとシラキュウースは降服するだろう。

* スパルタの援軍到着、意気あがるシラキュウース
前回にスパルタが少数の艦船を派遣したといったが、それが
グリッパスが指揮する艦船である。彼らは途中の停泊地をへてやったきたのでシシリーの情勢をよくしってた。アテネが海上封鎖してるのでグレイトハーバーからはいることができない。しかし北の柵は未完成。彼らは上陸し陸路シラキュウースにはいった。またコリンスから資材と船の救援があった。シラキュウースはアテネの攻勢におされていた。降服もありえた。しかしスパルタの将軍の到着で和平交渉の可能性がきえた。グリッパスは彼らの士気をたかめることに成功した。

* スパルタが攻撃、砦を奪取、ニキアスの消極策
グリッパスは大胆に行動した。レブダハンをアテネからうばった。これはこまった。重要な補給の拠点だった。彼はアテネの北への柵が全体の戦いをせいする重要な要素と見きわめた。平原を横ぎる第三の対抗柵の建設をはじめた。この完成はシラキュウースの城攻めの戦いをおわらせる。

ニキアスは何をおもったのか、これを意にかいさず、そのかわりにプライマリオンに第三の砦をきづきはじめた。これはシラキュウースの対岸、グレイトハーバーの出口をやくする場所に位置する。アテネが万一退却する時にそなえた脱出拠点となる。しかしアテネは砦をきづきにきたわけでない。シラキュウースとの戦いに勝利するためである。これは二重の柵を建設するのにつかうことができた。ニキアスはあまりにも慎重でありすぎた。そしてこれがアテネにおおきな惨禍を呼びいれた。

* シラキュウースの第三の柵が完成、その優勢があきらかに
とはいえニキアスは北の柵建設を放置できなかった。その結果、二つの戦いが北でおきた。第一はアテネが勝利、第二はグリッパスが勝利した。この勝利でシラキュウースの第三の対抗柵は完成した。これはアテネには大障害だった。彼らがたてた全体戦略はまったく無駄となった。さらにわるいことにグリッパスが砦、ユリディアスをきづいた。ここはレブダハンの南西、平原のうえにある。これで三つの砦ができた。シラキュウースはこれでアテネに攻勢にでれる。さらに心づよい情報がはいった。コリンスが到着しペロポネソス艦隊がさらに増強した。突然、アテネはハンターから逆に追いかけられる存在となった。

* アテネ議会、さらに二将軍を派遣
紀元前四一四年の末、両軍は冬の休戦にはいった。ニキアスは伝言をおくり島をはなることを許可する。あるいはさらに援軍をおくるようもとめた。陸における戦況は不調だがアテネはまだ海上の支配権はにぎってた。おどろくべきことだがアテネの議会はまだあきらめない。デモスタニイとユーリマダンを将軍に任命し彼らの指揮する艦隊をシシリーにおくった。

* アテネの銀鉱山を占領、ニキアスの平和協定の崩壊
この頃、スパルタは亡命したアルソバイアデスの助言によりテッサリを占領した。紀元前四一三年だった。これでアテネは有力な銀鉱山をうしなった。アテネの艦隊はシシリーにとられていたので、これに何もできなかった。これはアテネの戦費調達に深刻な影響をもたらした。資金はほとんど底をついてた。このスパルタの攻撃によりニキアスの平和協定はまったく実体をうしなった。

* シラキュウース海軍の増強、士気おとろえるアテネ
シシリーである。グリッパスはシシリーからさらにおおくの船をあつめた。戦いの決定的勝利はアテネ海軍の敗北が不可欠である。こう確信してた。だからできるだけおおくの艦船をあつめるよう懇願した。紀元前四一三年春、グリッパスは海陸共同でアテネに攻撃を仕かけた。その主目標はプライマリオンの奪取だった。アテネ海軍は勝利した。しかしそれに集中してる時、グリッパスがひそかにプライマリオンを攻撃し奪取した。そこにある三つすべてを奪取した。これでアテネには崩壊が目前にせまってきた。ツキジデスがいう。この時、プライマリオンの喪失でアテネの兵の士気は最低だったという。この頃、グリッパスのもとにはつぎつぎと援軍がやってきた。シラキュウースの海軍はますます強力になってきた。グリッパスはグレイトハーバーにいるアテネの艦船に恒常的に攻撃を仕かけた。シラキュウースはアテネの艦船に有利にたたかうため艦船に一つの改良をほどこした。船首をあつくした。これで湾内における接近戦に有利になる。それは当時の戦いかたがただぶっつけることだったからである。この戦いでアテネは押しこまれ湾外に押しだされた。これは陸上のアテネ軍にとっては危機。彼らの補給は海軍にたよってる。このようにアテネが窮地に落ちいってた時にデモスタニイが到着した。

* アテネの二将軍の到着、ただちに攻撃、敗北
この援軍をえてアテネは制海権を取りもどした。デモスタニイはニキアスができなかったことにただちに取りかかった。第三の対抗柵の破壊に取りかかった。これが成功すれば北の柵の延長を完成できる。二万の兵で大胆にも夜戦を仕かした。最初は極めてうまくいった。第三の対抗柵をうばった。ツキジデスがいう。アテネは勝利によってた。いったんはひるんだもののグリッパスはすぐ体勢を立てなおし反撃にでた。アテネは完全に混乱に落ちた。おおくの兵が道にまよい混乱のなかで二千人の兵がシラキュウースによりころされた。はじめは大勝利を期待させる状況だったが実はとんでもない結果におわった。この敗退でまたアテネの士気がおちるところまでおちた。

* 窮地のアテネが十日間の持久戦へ
デモスタニイは状況に絶望をかんじて可能性のあるあいだに船で退却しようとかんがえた。ところがおどろくべきことにニキアスがシシリーにとどまると主張した。 ニキアスは城攻めの続行をもとめた。たぶんもし空手でアテネにかえると議会がどのような態度にでるかを予想したのだろう。むしろシラキュウースにとどまるのが最善とかんがえた。しかし戦況である。シラキュウースとペロポネソス側は日をおうごとに優勢となる。アテネ側はその逆である。最後にデモスタニイにおれて十日間まつ。それから撤退するという作戦となった。

* 一斉攻撃、海から陸に追いつめられたアテネ
シラキュウースはアテネが撤退するとしった。いつせいに攻撃を仕かけた。両方の柵に攻撃する。艦船にも攻撃する。シラキュウースはできるものはなんでもアテネの艦船に投げつけた。アテネはおされついに下船、上陸を余儀なくされた。それから南の二重になった柵に退却した。これはアテネ海軍の最初の敗北である。まだ海にアテネの艦船がいる。それは湾外にのがれようとした。しかし口をシラキュウースが艦船で封鎖してる。これを突破しなければならない。熾烈な戦いがおきた。終日つづいた。しかし船首をあつくした艦船が対抗する。封鎖してる艦船は無傷のままだった。アテネは野営地にもどらざるをえなかった。ニキアスとデモスタニイは相談した。ニキアスは最善の方法は北のカタナに退却することといった。それはもちろん陸路による。しかしアテネは常に騎馬兵に攻撃された。

* 二将軍の死、アテネの全面敗北
とうとうニキアスとデモスタニイの二人はとらえられ処刑された。のこった兵は奴隷がはたらく鉱山に強制的におくられた。おおくがそこでしんが。ツキジデスがいう。ほとんど一月たらずでしんたという。これは完全な敗北、完全な破滅である。これがペロポネソス戦争における重大な転機となった。アテネはすぐれた将軍をうしない数千もの兵士をうしなった。また数百の三段櫂船をうしない、それ以降は元の姿を取りもどすことはなかった。

(おわり)


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