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アテネ(簡略ギ歴) [英語学習]

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* 内容の 紹介
アテネの勃興から民主主義への発展までをあつかう。
(Ancient Greek History - Athens - 07、Historyden)

* はじめに
スパルタの対抗勢力であるアテネについて、はなす。スパルタ人は規律をおもんじる。ところがアテネ人は自由をもとめる。また、アテネはもっともふるい歴史をもつ都市の一つである。考古学上から七千年以前にさかのぼることができる。新石器時代である。マイシーニアンの時代をへて他の地中海の都市とおなじく、経済の衰退を経験した。その名前は女神アテナに由来する。紀元前六世紀アテネで民主主義の考えがつくられた。アテネの地理である。

* アテネの地勢
れが所在するアティカはギリシャ南部、陸地はすくない。古代のアテネがつよい海軍力をもつ。地勢が関係する。メガラのシーブスはイスミスにあり、そこをへてペロポネソスにつながる。スパルタはこの経路をつかいアテネを攻撃した。面積は千平方マイル。アティカの住民のほとどはアテネ人。ギリシャは山がちである。アティカは平坦で海にちかい。 アティカの港、パイリアスについてである。アテネにきわめてちかく重要な生命線である。もし遮断されたら海をつうじた貿易が不可能となる。そのため海からあるいは陸からの攻撃にそなえ防御壁がたてられた。港をつうじた貿易はおおくの富をもたらした。スパルタと比較するとスパルタは山、生活に困難な土地。海からとおい。軍は陸戦を得意とする。アテネは海軍力を発展させた。

* アテネの経済力
アテネの巨大な経済力について。アティカ南部におおくの銀が埋蔵されてた。この富が東地中海で最大の海軍を可能とし莫大な費用をかけた建築の建設をも可能とした。もう一つの富の源泉は壺の製作。アティカの周辺からとれる 良質の赤土によりつくられる。地中海全域からの需要がたかかった。スパルタは壺を軍を維持するためにつくった。アテネはこれに力をいれ古典時代をとおして輸出しつづけた。アテネは葡萄とオリーブを栽培できた。これが農業の主力だった。他のギリシャとおなじく穀物も生産した。それを可能とする肥沃な土壌ももってた。

* 都市と政治の歴史
都市と政治制度の歴史である。三つの段階がある。まず 貴族政治の支配。上層部の任用権を支配し政府上層の職を独占した。経済も支配。次は独裁もふくむ専制政治である。今日では評判がわるいが当時はかならずしもそうでない。おおくの市民は 貴族政治にたいする対抗勢力としてみてた。最後は民主政治である。

スパルタはドリアンである。アティカ地域はドリアンの進出をまぬがれた。そのためアテネの人々はホーマーの時代から連綿とつづく伝統を誇りにした。アティカの人々とペロポネソスの南部の人々の文化、言語の間には違いがあった。アティカの南端、ボイシアは時に同盟し時に離反した。シーブスはその主要な都市である。アテネの初期およびアティカでの勃興について詳細はしられていない。しかしスパルタのような征服戦争はなく平和裏にすすんでいったようである。アテネとアティカの住民のほとんどはアイオニアン系である。彼らのほとんどは小アジアにすんでいる。両者の文化は共通する。

* 貴族政治
紀元前八世紀、 貴族政治が支配したとアリストートルがいってる。有力な氏族が 貴族政治を支配した。しかし多数の氏族がいたのでスパルタのような寡頭政治にはならなかった。その支配を正当化するのは生れつきの特権だった。四つの主要な氏族がいた。かってのローマのように氏族に従属する軍隊をもった。また氏族のまとまりには宗教があった。

彼らは政府の農園を支配し、法を支配した。問題がおきれば貴族のところにゆく。彼らは法を解釈し適用する。平民に法はしらされてなかった。貴族の末裔たちが上流層を形成した。平民は貴族の召使い、あるいは農園の農奴としてはたらいた。紀元前七世紀にはいりアテネの社会に根本的変化がうまれた。商業が成長しはじめた。ちなみに、ここでの商業は農業以外を意味する。他の都市と同様にアテネもあたらしい収入源をえた。貿易はあたらしい富をもたらした。

* あたらしい階層の誕生、最初の僭主
あたらしい階層がうまれた。これは従来が生れによりきまってたものが、金によりきまる、ということである。ズーガタイとよばれ中間層を形成した。富裕な農家である。たぶん重装兵士の起源である。これらの独立した農家の人々は貴族たちとおおいにちがった。ふえつづける重装兵士の集団は政治に力をもちだした。このようななかでうまれた僭主や重装兵士の集団は貴族支配に対抗しはじめた。紀元前七世紀の晩期に貴族層と対立するようになった。市民の間に不満がたかまり紛争がおきた。僭主の一人が専制政治の樹立を目ざした。彼はカイロンという。紀元前六二三年、失敗した。

これをドラゴーとよばれる。そこからドラゴーの法典がうまれた。従来の口誦伝来の法が書物に記録された法に変化した。これは重大なことである。市民が法をしり将来を予測し行動できる。そのことを他の市民におしえることもできる。これは貴族権力をそぐ。紀元前六世紀ころおおくの法の記録化が進行。だがそれで問題が解消したわけでない。依然として奴隷制があった。 負債により奴隷となった市民は多数にのぼった。アテネの社会では深刻な問題となっていった。

* 社会の対立、ソロンの改革
貴族からかりた金がかえせない。そこで農奴となり農園ではたらく。この問題の解決をもとめる声がたかまってきた。周辺の都市も同様の問題をかかえてた。ここに僭主が登場する。人々は一人の人物をえらんだ。ソロンである。かれは将軍であった。貴族でない。中間階層の出身。人々からの人気がたかかった。その施策はおだやかであった。彼は借金を取りけし奴隷化をおわらせた。だがそのほかの負債の問題は手をつけなかった。彼は下層民にも貴族層にも宥和的だった。

ほかに 移民問題に取りくんだ。アテネに定住する外来の人々に市民権をあたえた。つまりアテネ生れとの制限をはずした。これは貿易にすぐれた人材の流入をうながした。たぶんもっともおおきな影響をあたれたのはソロンがつくった憲法である。

その前に一言。従来の政治制度は貴族層のみに開放されてた。では本題に。四つの階級が規定された。生れに関係なく一年間の所得額による。ペニティアカシムジムノイ、最上級市民。年間五百ブッシェル。ヒッペイ。三百ブッシェル。ズーガタイは二百ブッシェル。最初の重装兵士を生みだした階級。シート、最下層。百九十九ブッシェル以下。ソロンがうみだした政治制度は四つの階層をもつ。最上層が行政長官。ペニティアカシムジムノイとヒッペイのみが就任できた。しかしソロンはズーガタイのために別の組織を創設した。審議会。この詳細は不明である。シートもこれに参加することができた。もっともおおきな変革はヘリヤヤ、上訴裁判所の創設である。誰もが上訴できた。行政長官がだしたすべての決定をくつがえせた。行政長官の悪政を牽制する仕組みといえる。

彼はこの改革への反発があることを予測してたろう。すべての法律をとおしたソロンは一年後にしりぞいたという。予想どおり貴族層の反発があった。三つの有力な一族がしられてる。彼らは改革に反発するとともに互いにもあらそった。有力な勢力の説明である。

* 改革後の対立
まず、ペディアまたはペディオコイ。ライカーガスという人物が指導者。これはスパルタの時の同名人とはまったく別人である。彼らはアテネの穀物のほとんどを生産した。食糧不足の時にはつよい影響力をもった。彼らはふるい 貴族政治にもどることをのぞんだ。第二の勢力はポロリア。彼らはアティカ南端に居住する。メガクレスとよばれる人物に指導されてた。ペディオコイにくらべて力がおとった。それは穀物の生産能力がおとってたからである。彼らはソロンのおだやかな政策をすすめることをもとめた。フーペアアキオイが第三の勢力である。彼らは特定の住民、勢力とむすびつかなかった。ほとんどが丘の上にすんでた。彼らは穀物生産に従事しなかった。彼らは蜂蜜と羊毛を生産した。彼らはパイシトラテスとよばれる人物に指導された。彼は彼らを組織し勢力を築きあげた。だが人数でペディオコイをうわまわることができなかった。しかしその後の二十年にわたりパイシトラテスは政界では鍵をにぎる人物となった。

* 直接民主主義へ、パイシトラテスの施策
彼は根本的な改革をのぞんだ。憲法を貧民のためにかえようとした。彼はアテネにとって最初の僭主となった。彼は五年間、権力をにぎった。その権力にたいする嫉妬から他の二つの勢力により追放された。しかし彼は引きさがらなかった。メガクレスとむすびライカーガスとその勢力を駆逐した。彼はふたたび僭主の力を回復した。しかし事態は安定せず、メガクレスが反対勢力とむすび彼を閉めだした。彼は強靱な精神力をもってた。地中海領域を遊説し資金と武器をあつめた。今度は妥協せずマラソンに上陸し、すべての敵対勢力とたたかい僭主に復帰した。それから十年間、彼は権力の座にいた。ところで彼はわるい独裁者でない。おだやかな政策をとった。市民の人気がたかかった。その執政は寛容であった。興味ぶかいことにソロンの法律のほとんどをいかした。彼が創設した組織を活用した。彼はまたはじめての周回道路をアテネに敷設した。周辺部住民の声が政治にとどきやすくなった。

彼を批判する声である。市民から武器を取りあげた。武器は反乱や騒乱の誘因であった。これへの対策である。またおおくの政敵を追放した。さらに縁故主義の蔓延である。また非常に評判のわるい税制を導入した。しかし彼はよき政治家をつらぬき市民から重税の負担を取りのぞいたといえる。

* パイシトラテス死後の政変
紀元前五二七年にパイシトラテスが死亡。息子のヒポクアスとヒピアスがそのあとをついだ。紀元前五一四年にヒポクアスが暗殺された。ヒピアスは暗殺をまぬがれたが、人柄がかわった。周囲の人物を信用しなくなった。多数の人を罪におとした。対抗者は硬化しスパルタにアテネにくるようたのんだ。五一〇年、アテネの有力者を支援しヒピアスを追放した。その後、勢力間の争いが再燃した。紀元前五世紀初頭にむかって 貴族政治から民主政治への過渡期がおとづれた。

* 最初の民主主義の樹立、クライストニ
二つの勢力があらそった。一つはスパルタをモデルとした寡頭政治を目ざした。貴族層の権力の回復をねがうものである。もう一つはクライストニが引きいる勢力である。彼らは直接民主義の実現をもとめた。アイサゴラスが最初勝利し紀元前五〇八年に政府の長となった。クライストニはあきらめず、直接民主主義の実現を強力にもとめた。スパルタは彼の勢力の拡大をおそれ干渉してきた。ここで市民が立ちあがり、深刻な対立がうまれた。しかしクライストニは勝利した。ここに世界初の民主主義政治がはじまった。彼は十のあたらしい氏族を創設した。それは既存の氏族の跋扈を牽制する目的があった。これらの氏族にはアテネとアティカを均等に代表する権限をあたえた。それぞれの氏族は地域、住民を代表する権限をもった。アテネ、アティカ、沿岸部をそれぞれ代表させた。権限を細分化し現在の市長や町長のような仕組みをつくったという。それらは儀式を主宰する宗教的権限をもつものだった。

彼はまた紀元前五〇〇年にあたらしい議会を創設した。それはすべての成人男子に参加資格があった。すべての構成員に議会で発言することができた。世界初の言論の自由の実現であった。法律は階級の違いにかかわりなく平等に適用された。このように民主化がすすんだにもかかわらず、アテネ人たたちは僭主政治の復活を非常におそれた。

陶片追放の制度をつくった。これはどのような理由でもよい。一年に一人の人物を追放の刑におとすことができるものである。これにより一人の人物が強大な権力をにぎることを牽制した。すべての市民の投票できまった。追放された人物はその財産をうばわれなかったが十年間アティカをはなれる。しかし帰還することができた。つまり完全な追放ではない。これでアテネの民主主義の話しはおわりである。次回にペルシャとの戦いを取りあげる。

(おわり)




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