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密集隊戦法(簡略ギ歴) [英語学習]

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* 内容の 紹介
古典時代ギリシャの基本的な戦法である密集隊を説明する。ギリシャとペルシャの戦い、その後のギリシャ本土内の戦い、アレクサンダー大王の遠征にもかかわる。
(Ancient Greek History - The Phalanx - 05、Historyden)

* はじめに
今回は密集隊、古典時代ギリシャの戦闘法につい説明する。むず基本的な説明。古代のポリス(都市国家)の発展とともに密集隊も発展してきた。これは地中海領域においては、きわめて特異な戦闘法であった。その構成員は様々な農園、農地にはたらく農民である。それら農園、農地は都市国家をかこむ。都市国家は紀元前八世紀にはじまったという。おそらく密集隊も紀元前七五〇年頃にはじまった。外部からの攻撃はまず都市国家をかこむ農園、農地に侵入する。農民は農園に逃げこみ、攻撃から防御する。そこを根拠にたたかう。彼らには共通の目標がうまれる。都市国家の防衛である。彼らの生存の生命線である。そのためにたたかい、その働きは都市国家によりたたえられる。その構成員たる重装兵士の誇りと栄誉は都市国家との関係で理解できるのである。

* 都市国家への忠誠
都市国家への忠誠心が兵士にもっとも重要である。たぶん個人の価値をこえていた。個人の兵士のレベルでは複雑な様相をもつ。個人同士は競いあい、戦果をあげようとする。そこでの戦果は英雄の道をひらく。尊敬をあつめ栄誉があたえられる。その名前が記憶される。戦争での戦功は自分自身は勿論、家族、都市国家の栄誉でもある。ギリシャ人はこの栄光をもとめてたたかう。個人のレベルでも他を凌駕しようとする。栄光の反対はかぎりない恥辱である。戦場からの逃亡、戦闘でのひるみ、おくれ。それははなはだしい恥辱である。ギリシャ人は軍事をこのむ。社会の中心に軍事がある。それにあった仕組みを都市国家は構築してる。軍隊を誕生させ、密集隊を生みだす。都市国家はこれに重大な役割をはたした。

* 功名の不死性
補足である。不死性ということである。ギリシャ人はクリスチャンのいう意味で不死性をしんじてない。しかし死後にも名前が永遠に記憶されるという意味の不死性をしんじてた。そのために彼らはポリスのためにたたかう。戦功によりたたえられ、名前がのこる。戦功が必要だった。個人としての戦功もつよくもとめた。都市国家への強固な忠誠心がつくられた。農民が軍に参加する。これがふえることにつれ政治にたいする発言力も増大していった。

* 重装兵士による密集隊
密集隊は歩兵隊である。ギリシャ人はその歩兵を重装兵士(ホップライト)とよぶ。その名前は彼らがつかう楯、ホップローンに由来する。装備は彼ら自身の負担である。都市国家は提供しない。それはけっして安価なものでない。富裕層に限定される。貧困では困難。したがって密集隊に参加できない。つまり政治への発言権がない。ギリシャ人はペルシャとちがい、補充兵をつかわなかった。この点ではスパルタは特異だった。制約のある農民の歩兵とちがいスパルタは年中たたかえる常備兵だった。

* 兵士の装備、武器
個々の兵士の装備である。その中心にあるのは楯。おおきく体のほとんどを防護できる。重量は二十ポンド(約十キロ)、差渡しはすくなくとも三フィート。基本的構造は木製。おもい木をつかってる。その操作には熟練をようする。

時には表面を皮革または青銅でおおう。楯の裏側には二つの革製の持ち手がついている。これで自由に操作する。楯その他の装備も防御を目的にしてる。兜は通常は青銅製、重量は五ポンド。コリンシアンとよばれる。頭部全体を防護する。もっとも大切にされる。そのため父から息子に引きつがれる。四十ポンドの胸当て。脛当て。これらにより頭から踵までを防御する。槍が攻撃の武器である。投げつけない。ついて攻撃する。できるかぎり、これで攻撃し敵をころす。これがつかえなくなると短剣にかえる。その刃の部分は鉄、また青銅のこともある。

* 密集隊の編成、戦い方
密集隊の編成てである。正方形あるいは長方形の単位からなる。それは四から八の階層からなる。これはその都市国家かもつ供給能力による。前述のように楯の差渡しが三フィートである。それが密集するので、ほどんど突破不可能の防御線となる。兵士同士がくっつきあう。これで一体感を維持する。戦場にむかう時も密集して行軍する。ギリシャの密集隊戦法はかぎられた場所での戦いとかんがえられてた。平坦な場所での戦いは通常さけられた。この戦法に必須の一体感がゆるむからである。

* 密集隊の優位
戦いは長時間はつづかなかい。三十分間程度である。戦いがおわれば兵士たちはその仕事場にかえる。つまり農地にもどる。重装兵士同士の戦いは凄惨だった。数の多寡は大事だが決定的ではない。多数に時間的余裕がある。重装兵士と非重装兵士の戦いでは、ギリシャがまける場面はかんがえられなかった。まるで戦車のように相手を刈りたおした。後年、ローマが重装兵士をたおしたが、それまで無敵をほこってた。年齢は二十歳から六十歳まで。前線部分に若年層が投入される。彼ら戦いの中で集中力、忍耐力を身につけてた。

* 戦闘方法
戦術について。それぞれの軍はさまさまな神に犠牲をささげて幸運をいのる。通常 、戦いは朝にはじまる。こころのこもった朝食が提供される。恐怖をおさえるためワインも提供される。その後、野営地をでて戦場にゆっくりと行進する。編成の隊において右側に位置することがたかく評価される。右からだんだんと左に移動してたたかう。指揮官は常に右側にいる。たかい戦果をもとめるなら常に右側が有利である。

主な戦術は敵方の一体性を破壊することである。特に弱点の左翼を粉砕することである。もし左を攻略できたら中央を攻撃できる。こうして完全な隊形を崩壊させる。ついには退却においこむ。隊形の崩壊は通常、戦いの敗北を意味する。このため隊形の維持が非常に重要。もし戦闘の兵士が瀕死となったら、すみやかに次の列の兵士がそこをうめる。さもなくば、そこに敵が侵入してくる。相手の隊列の中に楔を打ちこむことになる。その時、隊はみだれ逃亡がはじまる。つよい部隊も戦いにやぶれる。隊がこの混乱にはいった時はもっとも脆弱となる。退却の時がもっとも犠牲者がでる。

* 勝敗の決着
やぶれた側の振る舞いは勝者の選択にゆだねられる。死者の引き取り、埋葬の許可ももとめることもある。ここで勝者と敗者があきらかとなる。敗者は勝者の前で屈辱にたえねばならない。

* あたらしい戦闘方法の開発
あたらしく開発された戦術のことである。隊の片側に意図的に戦力を集中する。これにより敵側の前線をできるだけすみやに不安定にする。これをギリシャ隊列とよぶ。これによりスパルタの右翼の隊すらやぶった。この戦法に対応できなかったからである。

* 農民、市民から職業軍人、傭兵の登場
最後にギリシャの初期の密集隊は後年のローマのそれとはまったくちがったものだった。その構成員が市民、農民であった。それがアレクサンダー大王の時代から変化してきた。職業軍人、傭兵が隊に編入されるようになった。ペルシャにたいしアレクサンダー大王は長期間にわたる戦いを必要とした。当然のこと、兵士たちがすぐにマケドニアにもどることはむずかしい。これらが一年をとおして従軍する兵士をうみだした。彼は給与をあたえたばかりでない。戦争の略奪品の一部を分配した。

* ギリシャ兵士の優秀性
ギリシャの兵士は外国にやとわれた例がある。当時、最強の兵とみとめられてたから不思議でない。ペルシャさえもやといギリシャの他の軍隊とたたかわせた。自国の軍、特に前線における兵に信頼がおけなかった。特定の専門性をもつ傭兵隊が登場した。投石器、飛行物をとばすもの。これらは重装の隊の戦いがはじまる前のものだった。

* 密集隊の弱点
古典時代のギリシャをつうじ密集隊は支配的な編成方法だった。それはペルシャをふくむ外国の軍隊を屈服させた。しかし弱点はあった。特に後年、ローマにそこをつかれた。将軍が常に前線にたつ。これにより軍隊の士気がたかまる利点がある。しかしもし将軍が死亡すると指揮をとるものがいなくなる。そのため事前の作戦が広範なものとなる。いったん密集隊が前進はじめると後退がまずかしい。

その欠点をローマがついた。ギリシャはローマのような予備隊の戦術がなかった。彼らは単純に前進するだけだった。方向転換がむすかしい。横や後からの攻撃に脆弱だった。ローマも当初この戦術だった。後に三つの隊よりなる編成に変更した。以上でこの話しはおわる。

(おわり)

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