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第一次カルタゴ戦争、その五(簡略ロ歴) [英語学習]

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* 内容の紹介
アフリカから撤退したローマが抵抗するシシリーのカルタゴをついにやぶり第一次カルタゴ戦争がおわる。そこでのリラベヤムの戦い、ヅポナの戦い、エーゲティスの戦いをあつかう。
(Ancient Rome History - Part 5 of the First Punic War - 27、Historyden)

* ローマ、アフリカの撤退からシシリーでの戦い
前回にローマのアフリカにおける敗北、シシリー沖の船の被害についてのべた。ローマはそれでも勝利を目ざしたたかう。二百二十の艦船の新造をきめた。これはおどろいたことに数ヶ月で完成した。次の目標はリラベヤムである。これはシシリーの西端にありカルタゴにとっては最重要な都市である。ここをうしなうと他の都市もうしなう。危険な状況がうまれる。ローマの最初の攻撃は反撃にあい退却する。その後の紀元前二五三年である。ローマはふたいたびアフリカを攻撃する。それは成功したが帰途についた艦船に嵐がおそった。シシリー沖で百の艦船がうしなわれた。

* 追いつめるローマ、リラベヤムの城攻め
この後にローマは陸上の攻撃に集中する。シシリーの北部である。その攻撃は成果があった。紀元前二五二年、サマイという都市をうばった。一年後にはカフラダムとパノウマンをうばった。カルタゴはシシリーのほんの一部を確保するだけとなった。ローマは最後の一押しをすることにした。ローマの元老院は二百の艦船と十万の兵の増強をきめた。海軍はリラベヤムの港の入口でその封鎖をおこない城壁のちかくに城攻めの塔をたてた。カルタゴの必死の抵抗としてあらたな艦船をおくった。封鎖を突破し、さらに離脱しまたやってきた。これはローマを非常にいらつかせた。ローマはこの対抗策に港を瓦礫でうめようとしたが成功しなかった。だが一部はあさくなりカルタゴの船が座礁するものがでた。

* カルタゴが焼き討ち、ローマがヅポナで敗北
カルタゴは城攻めの塔に火をはなち不意打した。塔の構造は材木である。風にもあおられ全焼した。ローマはこれで塔による城攻めはあきらめ、たんに周囲を取りかこむだけにした。これはカルタゴの士気をおおいにたかめた。しかしローマもまけてない。この情報がはいると元老院は一万人の兵の増強をきめた。さてローマの指揮官のクロディアス・クロチァーはこの戦況の停滞に我慢できなくなった。北にあるカルタゴの都市、ヅポナを攻撃することにした。これによりリラベヤムに圧力をくわえようとした。深夜、ローマは海岸線にそって近づいた。カルタゴはこれを察知し港外で待ちうけた。攻撃を仕かけてすぐ逃走し、ついに彼らの後にまわった。ローマは編隊を立てなおそうとしたができなかった。艦船は岸に追いこまれ九十三の艦船がうばわれ、あるいは破壊された。

* 英雄ハンニバルの父、 ハミルカーのゲリラ戦
これはカルタゴの海戦におけるかがやかしい戦果となった。これでローマはかぎえられた期間だが陸に集中せざるをえなかくなった。指揮官のクロチァーは追放された。この敗北にもかかわらずローマは勝利への決意はおとろえることがなかった。停戦への動きはなかった。なおもリラベヤムにおける城攻めはつづいた。このためカルタゴは必死の反撃をこころみた。しかしローマはこれにたえた。紀元前二四八年である。ローマは艦船団を増強しシシリーにむかわせた。しかしまたも嵐により船がうしなわれた。さて紀元前二四七年、カルタゴから有名な将軍、ハミルカー・バカがシシリーに派遣された。彼はすべてのシシリーにおけるカルタゴの艦船団を統括し指揮することとなった。彼はアルプス越えで有名なハンニバルの父親である。

ハンニバルは父が派遣された年にうまれてる。 ハミルカーはその作戦の拠点をパノウマンにちかい場所を選定した。拠点は山の頂上にあり要塞化され周囲からはとてものぼれない崖でかこまれてた。頂上にいたる道はかぎられローマの攻撃はほとんど不可能だった。ほぼ三年間、ここでローマと対決した。彼の行動をたかく評価されてないが、ここでゲリラ活動をとりローマをおびやかしたという。いくつか勝利をおさめたが決定的勝利をあげることはできなかった。彼はカルタゴ領ちかくにしか拠点をおくことができなかった。よりおおくの兵力があたえられてたらちがったかもしれない。紀元前二四四年、カルタゴにおいてあたらしい勢力が政治をにぎった。それは土地持ちの貴族、ハノ・ザ・グレイトに引きいられた勢力である。

* カルタゴの国論の分裂、つけこむローマ
彼はローマとは戦いをおわらせアフリカでカルタゴ帝国の拡大をはかる。これは従来のシシリーでの勢力拡大の方針を根本的に変更する。その戦力を引きあげアフリカに集中しようとする理解しがたい方針であった。これはローマにかかってた圧力をおおきく軽減する。また海上の優位を回復できる。これはカルタゴの国力を分裂させる。平和と戦争の勢力のあらそいがおおきな問題をおこした。この分裂はローマの統一のとれた姿と対称的である。ローマはこの好機をとらえてあらたな艦船団をつくった。しかし問題があった。それはローマの財政が枯渇した。市民の寄付が必要となった。ローマ人はこれに熱狂的にこたえ寄付をおこなった。これで次の決定的対決への舞台がととのった。

* 増強されたローマ海軍とカルタゴの対決
ガイアス・カツゥラスが執政官に任命された。ローマ海軍を指揮する。また乗員の訓練を監督する。二百の艦船である。嵐によりつよいものをつくった。このように充分訓練をうけた艦隊を引きいてリラベヤムにむかい海上封鎖をおこなおうとした。カルタゴも海軍力について真剣にかんがえるようになった。そこで二百五十の艦船団をつくった。そして紀元前二四一年、エーゲティス諸島にむかいローマの海上封鎖を解除しようとした。この情報にせっしてローマはリラベヤムの海上封鎖をやめて直接カルタゴの海軍と対決すべくむかった。ここの時点で比較する。ローマにはゆきとどいた乗員訓練と充分な装備があった。たいしてカルタゴは装備もからならずしも充分でなく、また乗員の経験も充分ではなかった。これは方針変更によるシシリー海軍解散の悪影響である。

* エーゲティスの戦い、カルタゴの大敗
ローマはエーゲティスの戦いにおいてカルタゴの艦船の半分をうばい、あるいはしずめた。ローマの勝利は決定的だった。元老院は勝利の宣言をした。その後にアフリカからの補給をうしなったハミルカーは降服した。しかし彼とその海軍はアフリカへの帰国をゆるされた。これで第一次カルタゴ戦争はおわった。二十三年間つづいた戦いであった。しかし両国には交渉すべきことがあった。

* おもい賠償金をはらうカルタゴ
第一次の交渉でカルタゴは二十年間で二千二百タレントをはらうこととなった。ローマの元老院と市民はその大枠は受けいれたが金額を増額した。十年間で三千三百タレントをはらうというものだった。支払いの期間は二十年から十年に、そのうち千タレントは即時にはらうというものだった。さらにカルタゴはシシリーとシシリーとアフリカのあいだにある島々を放棄する。さらにイタリアとシシリーから兵をやとわないと約束した。またローマの捕虜の返還に賠償金をもとめない。ところがカルタゴの捕虜については賠償金をはらう。その賠償金がどの程度か。おそらく一万以上になったのだろう。

この戦いでうしなわれた艦船はカルタゴについては五百、ローマは七百という。この戦いのはじまる前、カルタゴはその富においても軍事力においても優位にあった。しかし戦いの結果、ローマは最大規模の勢力を獲得し地中海における最強といえる海軍力を保持することとなった。この問題はこれでけりがついた。だが問題はとおからず発生する。それが第二次カルタゴ戦争である。

(おわり)

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