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ペロポネソス戦争、その十四(簡略ギ歴) [英語学習]


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* 内容の紹介
陸での劣勢のなかアテネ海軍はまた戦果をあげた。しかしペルシャの助けをえてペロポネソス同盟も頑強に対抗する。しかしアテネは海で勝利した。和平の絶好機をのがしなおたたかいはつづく。アテネの最後の輝きをあつかう。
(Ancient Greek History - Part 14 of the Peloponnesian War - 30、Historyden)

* はじめに、制海権の確保からアテネの反撃
前回にはアビドースとシジカスをふくむ三つの戦いをのべた。これによりアテネがヘルスポントにおける完全な制海権をうばった。しかしペロポネソス同盟とペルシャはアビドースの占領地とヘルスポントの周辺にあるビザンチウムの支配権を保持してる。ここでアテネは海ばかりでなく同盟がなおもにぎってる陸の支配をうばうためにあらたに艦船を送りこんだ。

* アルソバイアデスの絶頂期、アテネに凱旋
紀元前四〇九年から四〇八年にかけてはアビドースの港をなお同盟が保持。しかしアテネの優勢がつづいた。これはアルソバイアデスの力がおおきい。この頃が彼の絶頂期たった。これが紀元前四〇七年のアテネ帰還につながった。数千の支持者が歓呼の声でむかえた。さらに将軍にえらばれた。ヘルスポントの勝利がこの人気の源泉。彼が勝利をつづけるならばこの人気がつづくだろう。アテネは戦争の終結をねがって彼を百の艦船の指揮官にした。その野心的使命はエーゲ海におけるすべての拠点の回復である。

* あせらぬスパルタの反撃、ライセンダ将軍の任命
他方スパルタは大敗北にかかわらず、あきらめなかった。艦船をつくりライセンダという人物を指揮官にした。紀元前四〇七年、彼はイオニアの沿岸にむかった。七十の三段櫂船を引きいた。彼にはアテネで卓越した指揮官であったという前歴があった。スパルタにおいてである。彼のやりかたは前任者とちがってた。彼は人材をあつめ訓練をほどこす。これによりすぐれた海軍をつくる。その期間は戦いを賢明にもさけた。あわてず時期をまってアルソバイアデスとの戦いにそなえた。エフェソスに港をつくった。マイリーダスより良港であった。

* ペルシャとの良好な関係、潤沢な資金
また彼とペルシャの関係は良好だった。従来は関係が事情により粗密になる。しかし彼はちがってた。行動をつうじてペルシャの信頼をえ交渉がおこなえる。そんな人柄だった。ペルシャの援助は金銭以上のものがあった。お金のことである。スパルタは独自の通貨をもってない。だが乗組員にも船の建造にもお金がいる。スパルタの重装兵士とちがい彼らは自由人であり給料を受けとる。ペルシャのおかげでライセンダは充分な給料をあたえることができた。

* 資金不足のアテネ、あせるアルソバイアデス
ライセンダとちがいアルソバイアデスはもうまってられない。エフェソスの北にあるノティアムというところに船でむかった。彼は問題をかかえてる。乗組員にライセンダのような充分な給料をあたえられない。財源が常に枯渇していた。乗組員はスパルタよりおとった者しか確保できなかった。アルソバイアデスはいつまでもまてない。ライセンダを港外におびきだそうとした。ライセンダはその手にのらない。まてばまつほど自分に有利としってた。なんどもの誘いも効果がなかった。ところでスラシビュウラスが同盟の都市を城攻めしてる。アルソバイアデスはそれをたすけるためノティアムをはなれた。そのさい後をまかせたアンティヤカスにどのような事態になっても戦いにはいるなと命令した。おもな艦船ものこした。

* アルソバイアデスの油断と失敗、海での敗北
しかしこれが大失敗だった。アンティヤカスはこの命令にしたがわなかった。二つの問題があった。彼は将軍ではない船乗りだった。 全艦船を指揮する能力はなかった。もう一つ。彼はアテネがシジカスでつかった計略をまたつかおうとした。一度成功した計略をまたつかう。その成否はあやうい。彼は十の艦隊を引きいてエフェソスに近づいた。彼は小艦隊とみて同盟がおってくる。そこを待ちぶせの艦船が攻撃する。この目論見がとんでもない展開となる。

おなじく小艦隊でおうライセンダの艦船はアンティヤカスにおいつき沈没させた。彼も殺害された。さらに攻勢をゆるめない。全艦隊がいっせい攻撃にでた。待ちぶせしてたアテネは予想外の攻撃にたじろいだ。アテネは二十をうしなった。ライセンダの勝利である。しかし大勝利とはいえない。おもなアテネの艦隊はまだのこってる。ノティアムに帰還し艦船を再編した。

* アルソバイアデスの罷免、コナンに交替
ちいさな敗北だったがアテネの政界ではおおきな影響がでた。アルソバイアデスは指揮官の職をとかれ議会は彼に譴責決議をくだした。これで二度目の譴責である。これにより政界を引退し自分が保有する島で隠遁生活にはいった。二度と指揮官の職につくことはなかった。彼を引きついだのはコナン。艦隊の指揮官となった。

* ライセンダをついだカリクロデデス
ライセンダはノティアムの戦い後にその職をとかれた。スパルタでは将軍の任期は一年とされてる。そのための解職である。カリクロデデスが後任となった。ところが彼のもとで同盟とペルシャの関係は悪化した。彼は戦果をあげ実力をしめそうとおもった。それでレスボスに城攻めの攻勢をかけコナンに圧力をかけた。

* カリクロデデス、アテネに攻勢
同盟はアテネの二倍の艦船を保持する。レスボスへの城攻めによりコナンはおなじ島のメディタリニに避難せざるをえなかった。だがそこもカリクロデデスにより封鎖された。 コナンは一艘だけでこの封鎖を突破しアテネにもどった。そこで緊急に救援をおくるようもとめた。あたらしい百五十五をメディタリニにおくった。この艦船は八人の将軍が指揮するものだった。ここにコナンはふくまれない。彼はメディタリニにとどまった。カリクロデデスは百二十によりあらたな事態に対抗しようとした。五十をのこし、メディタリニの城攻めにあてた。ここにアルジヌサの戦いの舞台がそろった。

* アルジヌサの戦い、はやるカリクロデデス
アテネは三つの編隊にわかれた。左翼、右翼、中央である。これらが島を背にして横一列にならんだ。スパルタはひらかれた海を背にし横一列につらなった。アテネのように編隊に細分されなかった。アテネの編隊の左翼と右翼は複数の列をなしている。このためスパルタは背後に回りこまれる危険性があった。カリクロデデスは右翼にいたが、副官はこの編隊を問題にして戦闘を中止し他日の攻撃にそなえる。こう進言したが聞きいれなかった。そのままアテネに近づいた。敵が背後に回りこむ。この危険をさけるため彼は編隊を二つにわけ横にひろげるよう命令した。右翼が相手の左翼に左翼が相手の右翼にあたるよう命令した。

* スパルタ、中央に弱点をもったままの戦い
もしこれがうまくはたらくとスパルタに勝利がみえる。では現実はどうか。スパルタはアテネ中央にたいし極めて脆弱な姿をみせてる。アテネの中央はまず戦況を見まもり好機に行動をおこす。戦いがはじまった。戦闘は両翼においておこなわれた。その戦いは熾烈で数時間つづいた。そして戦闘中にカリクロデデスが殺害された。これによりスパルタは逃走にはいった。満をじしてたアテネの中央はこの時とばかり殺到した。アテネはおおくの戦果をあげた。これはアテネのあきらかな勝利であった。

* 勝利をおさめた八将軍、それを弾劾するアテネ議会
アテネはこの勝利の後、機会をえてさらに攻撃を仕かけスパルタを壊滅。戦争を終結させることができたかもしれない。しかしちがった。そのおおきな理由は八人の将軍が生存者をすくわなかったとして罪にとわれたからである。

議会は二つの事項に激怒した。生存者を救出しなかった。しかしこれは将軍の全面的責任とはいえない。嵐がやってきて救出作業が困難になった。これはエーゲ海によくあるもの。はじまるとすぐはげしくなる。当然作業は困難になる。
もう一つは戦死者を埋葬しなかったこと。これも弁護の余地がある。将軍はなお戦闘がメディタリニでつづく。嵐と継続中の城攻めで時間がなかった。議会の見解はちがう。すべての将軍は有罪となった。なおそのうち二人は議会の聴聞にたつ前に逃亡した。のこりの六人は 処刑された。これでは将軍の人材が枯渇する。ペリクリース、ニキアスはすでになく、スラシビュウラスは信頼をうしない、アルソバイアデスの復帰もない。すぐれた将軍が必要な状況でおきた議会の貧弱な決定である。

* スパルタの和平提案を拒否するアテネ議会、ライセンダの復帰
ここでスパルタがその艦船のすべてうしなった。和平の提案がアテネになされた。彼らが占拠してたアティカのデッセリアの返還があった。しかしアルジヌサの勝利を理由にこれを拒否した。これでよかったのか。スパルタの海軍にライセンダがかえってくる。アテネはこの決断を後悔することになる。こうして戦いはどこまでもつづくようにみえる。しかしおわる。それを次回にのべる。

(おわり)





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