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ペロポネソス戦争、その一(簡略ギ歴) [英語学習]

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* 内容の 紹介
ペロポネソス戦争の後に三十年間の和平協定が成立した。それが途中で破綻する。大ペロポネソス戦争につながるさまざまな出来事をのべる。
(Ancient Greek History - Part 1 of the Peloponnesian War - 17、Historyden)

* はじめに、和平協定
前回にのべたようにアテネとスパルタは和平協定を締結した。しかしそれはながくつづかず紀元前四三一年に大ペロポネソス戦争がおきた。この協定の精神を両方が真摯にまもり大戦争をさけようとかんがえたとおもう。そのために二つのことをやった。

* 平和への対応、その手段
一つ目。戦争をおわらすことをする。戦争への切っかけをさける。それはメガラとコリンスとの争いにアテネが関与した。メガラはここでペロポネソス同盟をはなれアテネ側のデリアン同盟にはいった。それが第一次ペロポネソス戦争の主な原因だった。

* 同盟へ新規加入を否定、中立国は例外、紛争の種
それぞれがペロポネソス同盟あるいはデリアン同盟にあたらしい加入を禁止する。スパルタもアテネもその同盟のなかから別の同盟に乗りかえようとしても、それを拒否する義務がある。これは極めて重要な規定である。これで大戦争につながるのをふせごうとする。また他の同盟の内部事情に不関与との意味である。どちらの同盟にもはいってない国についてである。それは正当な働きかけであるならばみとめる。これは中立国を同盟側に招聘すること。ところが問題をふくむ。後の大ペロポネソス戦争につながる紛争を引きおこす。

* アテネ側で内紛、セイモスとマイリーダス
協定発行の第三年目、紀元前四四〇年に事件が周辺国でおきた。アテネやスパルタでない。セイモス島とマイリーダスが関係する。両者ともにプライニーニの植民都市である。このプライニーニはすでにのべたマイカリの戦いにおいて勝利をおさめた場所である。両者は同盟の構成員であるが戦争状態にはいった。アテネはセイモスに攻撃中止をめいじたがこれを受けいれなかった。彼らは強力な都市だった。アテネの指示のすべてにしたがう必要はないとかんがえた。アテネは海軍を派遣し彼らを崩壊させた。その過程で民主主義の統治を注入した。

* ふるい 貴族政治を打倒、その復活、ペルシャの支援
ふるい 貴族政治を追いだしたが、この支配層はあきらめなかった。ペルシャに助けをもとめた。援助をうけ貴族政治が復活した。事態を複雑にしたのがビザンチウムも反乱をおこしたことである。アテネにとり深刻な事態。内部における最初の反乱である。このような事態は他に波及してゆく。ペルシャの登場は驚きである。彼らとは数年前に和平協定を締結、これでアテネはペルシャへの侵攻をやめた。

* スパルタがアテネ攻を問題視、コリンスの反対
さらに事態を深刻にしたもの。スパルタの陰がみえた。アテネは両者の貴族政治を廃止したがスパルタはむしろこの体制をこのむ。ここでスパルタはどのような考えだったか。それはスパルタの戦争審議会をみればわかる。議題はアテネのセイモスへの攻撃およびセイモスの貴族政治の廃止、これらについて戦争をおこすべきかである。この干渉は協定に違反してる。ここでコリンスは反対票をとうじた。これはコリンスがもつアテネへの怨みをかんがえれば面白い。彼らは内部の反乱鎮圧はゆるされる。またペロポネソス同盟は干渉すべきでないといったのだ。この危機は議論の段階で回避された。アテネはこの頃、帝国内のゆるみを締めなおしていた。

* 北方のエピデムニス紛争、 貴族政治を追放
紀元前四三六年である。これが学者たちが大ペロポネソス戦争を引きおこした年とかんがえてる。ギリシャ文化の影響がうすれる地域にエピデムニスがある。ペロポネソス半島の北端。この北になると非定住民族がすみギリシャ文明にせっしてる。現在のアルバニア。どうしてこれが原因となるのか不思議だろう。ギリシャによくあること、都市間での民主政治と貴族政治の争いである。民主主義勢力がそれまで支配してた貴族政治勢力を追いだし政権をうばった。

* コサイラに支援をことわられる貴族側
しかし貴族政治勢力もあきらめない。南に位置するコサイラとよばれる都市に助けをもとめた。現在のコフウである。これがエピデムニスをつくった母都市である。ところで彼らは現在のスイスのように孤立政策をとってた。他の都市の問題に関与しない。求めを拒否した。そこで彼らは北にゆき非定住民族から兵をつのり民主主義勢力を攻撃した。敗戦の危機である。

* 民主側はコリンスに支援を、コサイラとコリンスの険悪な関係
そこでコリンスに助けをもとめた。ところがコリンスにはコサイラにかかわる歴史があった。コリンスは百年前にコサイラをつくた母都市だった。しかし縁はそこできれ両者は百年にわたりはげしく憎みあってる。ところで植民地は母都市の指導にしたがうのが普通である。コサイラは民主主義勢力がコリンスに使節をおくったことをしり自分たちも使節をおくった。コリンスがコサイラの支配にしたがうべき都市に関与する。これに異議をとなえた。スパルタはこれに重大な関心をよせ使節を派遣した。通常だったらエピデムニスのような弱小都市には関心をもたない。しかしこれが重大事に発展することをおそれたのだろう。使節をつうじて事態の収集をはかった。

* 関与に異議のコサイラ、強硬なコリンス
この問題はコリンスには特に関係なかった。しかし軍事介入をもってしてもエピデムニスに関与する。その決意はかたかった。攻撃の艦隊をおくった。ところがコサイラの海軍がコリンスをやぶった。これは屈辱的だった。コリンスはいっそう強硬に対処する。あたらしい船を派遣する。ここにスパルタがもっともおれたことがおきた。コリンスは他のペロポネソス同盟の都市の参加をもとめ、さらにペロポネソス同盟周辺都市に艦船の寄贈をもとめた。その海軍力が増強する。この時点でのコサイラの勝利はたまたまのものだった。コリンスの反撃が予想される。従来の中立政策をおおきく変更し外部の援助をもとめだした。しかしそれまでに紛争をおこしてたこともありスパルタにも他のペロポネソス同盟の諸都市にも援助をもとめられない。それ以外の助けである。ここでアテネが登場する。

* コサイラがアテネに支援をもとめる
彼らは使節団をアテネにおくって同盟関係をもとめた。これは和平協定上では問題ない。コサイラは中立国である。アテネとの同盟関係は可能である。彼らはこれをもとめさらにいう。戦争は必然である。ならば同盟をむすび海軍力を増強すべき。さらにもしコサイラをやぶるとコリンスがコサイラの海軍を吸収し増大する。それはアテネの脅威となるだろう。これはアテネには見すごせない点。海軍力の明確な優位が基本的な戦略である。

* コリンスがアテネに異議を
コリンスがおなじくアテネに使節を派遣した。彼らはコリンスとコサイラの問題にアテネが関与しないようにもとめた。コリンスの行動は協定の条項違反でない。その精神にはんしてるかもしれない。さらに彼らの意識を推測すると、もしコサイラと同盟関係にはいればコリンスはアテネの艦船も攻撃することになる。そうなれば両同盟の諸都市があらそう。まさに協定がおそれていた重大な事態。アテネは非常にむずかしい決断に追いこまれた。

* コサイラとアテネの防御同盟
アテネはコリンスに配慮した。コサイラとは防御同盟をむすぶ。それはもコリンス侵入の危機をふせぐためアテネはコサイラに艦船を防御目的で派遣する。十の艦船である。コリンスがコサイラの艦船のなかにアテネの艦船がはいってるのをみたらコリンスが攻撃をやめるだろう。この艦船派遣は平和への象徴である。

* 海戦でコサイラを圧倒するコリンス、アテネの援軍
ところが効果はなかった。コリンスは困難な戦いの後に勝利した。これをシボータの戦いという。その詳細である。アテネの艦船がはいってたが戦況には影響しなかった。コサイラは島に退却した。コリンスの勝勢があきらかとなった。アテネはその瞬間に一群の艦船二十をおくってきた。しかしコリンスの勝勢はかわらない。しかし水平線のうえにさらにおおくの船がみえた。これは分遣隊の艦船だったがコリンスはアテネの艦隊がやってきたとみた。コリンスは攻撃をやめた。戦況は 停滞状況となった。コリンスは戦いにかったがコサイラの島をうばえなかった。彼らはおおいにいかった。

コリンスの目からみればアテネは自分からペロポネソスの問題に関与してきた。五年前にアテネはセイモスの反乱を鎮圧した。この時、コリンスはペロポネソス同盟が関与しないよう説得した。これをわすれたのかとおもった。これでコリンスは外交方針を根本的にかえた。ペロポネソス同盟をアテネとの戦いにみちびく方向に転換したのである。その機会をねらってた。それがポチディアの事件である。

* 怨みからアテネ側の内乱工作のコリンス
これはアテネ帝国の構成員である。条約からいえばコリンスやスパルタにとっては関与不可の問題である。しかしポチディアは特別な関係をコリンスともってた。ポチディアに反乱をそそのかした。それが大戦争へのきっかけとなる。そんな関係である。反乱がおきた。この前にスパルタにいって、もし反乱がおきたらそれを支援するようもとめた。スパルタは同意。だが協定違反、秘密裏におこなわねれた。アテネもこれを察知したのかも。艦船をポチディアにおくり、その壁を取りこわす。これで反乱の動きを抑制する。しかし艦船が到着するとすでに反乱はおきてた。

* アテネの対抗策に私兵二千をおくるコリンス
ますアテネは反乱を鎮圧、さらに将来の反乱にそなえた。他方コリンスは二千の重装兵士を市民としょうしおくった。これは表向き協定に違反しない。彼らはポチディアにはいり、これを戦争状態と認定するようスパルタにせまった。スパルタにおいてすべての都市国家が出席する会議が招集された。これにはアテネもコリンスもふくまれてた。

* 和平会議でスパルタとアテネの対決
コリンスがはじめに発言しアテネの攻撃を非難した。次にアテネである。この戦いの動向はスパルタにとって容易ならざる事態となる。戦いは重装兵士によるものにならない。アテネおよびその港湾都市、パイリアスはもはや防御壁でまもられてる。さらにこの戦いは将来世代を巻きこむと主張した。スパルタが簡単に決断できない問題。協定をやぶったのはスパルタ。アテネはその帝国内で反乱を鎮圧する権利がみとめられてる。

* スパルタがついに決断、大戦争に
紀元前四三二年七月、スパルタはついに開戦という歴史的決断をする。しかし実際の戦争は数ヶ月後である。これは次回にのべる。

(おわり)

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