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トロイ戦争はあったのか(六の二) [英語学習]


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* 内容の紹介
トロイ戦争が実在したのか。シュリーマンを引きついだウィルヘルム・ドップヘルトとあたらしい科学をもたらしたコールド・リーガンの探求、クノッソスを発掘したアーサー・エヴァンスの探求を取りあげ、マイセニア文明とミノアン文明の対立をあきらかにする。

* はじめに
これはアテネにあるシュリーマンの家である。彼はトロイ戦争が実在したのか。その探求に精力を使いはたした。しかし謎は未解決のままだった。シュリーマンはその探求の師父。ウィルヘルム・ドップヘルトはその弟子である。英国人、アーサー・エヴァンスと米国人のコールド・リーガンはあたらしい科学をもってその探求に参加した。

* 物語、トロイ戦争
昔、昔のこと、トロイとよばれる都市があった。紀元前七〇〇年頃生存したといわれる詩人のホーマーがこういってる。トロイは偉大で富裕な都市である。それはダーダネルスの近くに所在する。トロイの王子、パリスはスパルタを訪問し、そこの女王、ヘレンに魅惑され、二人でトロイに逃げかえった。ギリシャ人は千艘もの船をもって後をおった。その時の指導者はアガメムノン王である。その王国はマイセニア、黄金にとむ国とうたわれてた。

十年にわたる戦いの後に有名なトロイの木馬の策略によりトロイは開城し略奪にさらされれた。これがトロイの物語りであるが、これはたんなる物語りであるのか。

* ギリシャ本土で発見
一八七六年、マイセニアにおいてシュリーマンはその探求を開始した。そこで富裕で強大な力をもつ青銅時代の王の墓を見つけた。王は文字どおり黄金にうまり青銅の武器により武装してた。マイセニアの近くのティレンにおいて、巨大な壁の背後にシュリーマンは青銅時代の宮殿遺跡を発掘した。それはホーマーによってうたわれたものと、にていた。そこの壁画には戦いがあった当時、紀元前一二〇〇年の人々の姿が生き生きとえがかれてた。一方、三百マイルはなれたトロイにはおおくの謎がのこってた。

* シュリーマンのトロイ発見の評価
シュリマンはヒストリクとよばれるちいさな丘、現在はトルコ北西部にあたる。ここにトロイがあったと主張した。彼はちいさな先史時代の砦を発掘した。しかし、このわずか百ヤードの差渡しの都市がホーマーがほめたたえた都市であるか。彼の妻をかざった宝飾品、発見時ヘレンの宝飾品といわれたもの。それは千年もふるいものと後に判明した。

* コンピュータによる復元図
私の探求はつづく。マンチェスターにもどって私の関心は彼の弟子、ドップヘルトにむかった。彼はシュリーマンの成果の正しさを証明しようとした。私は考古学はもっともロマンチックな学問だとおもう。彼はシュリーマンとならびその典型である。彼はほぼ一九〇〇年にいたるまでギリシャのレフカースにすんだ。ホーマーのオッデセイにおけるオッデセウスの王国であるエシカ。それがここであると証明しようとした。二人は共通の目標に取りくみドップヘルトには、すこしおおくの幸運がおとずれた。

ヒストリクの地層は異常なほど複雑である。九の都市遺跡の地層。これをコンピュータの技術により一つの層だけをぬきだしてディスプレイ画面でみることができる。ヒストリクの現場にゆく前に当時の彼には不知だったこと、ほぼ既知だったことを説明しておく。彼は基礎となる各層の構成を確立した。すなわち、まず一番上にローマ時代の層。その下にギリシャ時代の層、イリオンといわれる層。これはアレクサンダー大王が訪問したことがある。次に中間の時代の層。これは第六番目の層とよび、時代を確定できない。次に先史時代、ホーマーの時代の層。そして一八九〇年に二人は一緒にこれらの外側を発掘、建築物、要塞の一部を発掘。付随してマイセニアの壺類を発見。これがトロイ戦争との関係を示唆してるものである。

ドップヘルトはこれら手掛かりとして考えをまとめた。家屋の一部はシュリーマンが破壊した。周郭の壁の一部とおもわれる部分。それはシュリーマンがすでに見つけてたもの。北の周郭の壁の一部。シュリーマンが二十年前に破壊してた。彼はこれらをつなぎあわせ復元した。建築家であればこそできたことだった。画面にあるこれがその様子である。では現場にゆく。

* ドップヘルトの発見
一八九三年、ドップヘルトはヒストリクにもどってきた。五十フィートにたっする土、瓦礫、古代遺跡。シュリーマンの発掘の残滓である。彼は青銅時代晩期の巨大な壁を発掘した。その中にこのすばらしい方形の見張り塔があった。私はこれはイリオン時代にも存在してたとおもうが、見事な大理石の建築物である。なぜシュリーマンが破壊したのかわからない。いまも二十フィートの高さ。かってはさらにその上があった。三十フィートだったろう。さらにその上に建築物がのせられたと想像される。これはまるで戦艦から突出し立ちならんだ櫂の列。戦場を威圧してたろう。

* 見張り塔
そのうつくしい姿をドップヘルトがとった写真からみえる。それはホーマーのイリオンのよう。ホーマーが壮麗な建築とたたえる。それにくらべマイセニアは洗練にかけ野蛮ですらある。ドップヘルトはさらにその基礎を発掘した。ホーマーはうつくしい塔と門とうたってる。その一つがスキアン門。当時門は両側の塔によりまもられてた。

* うつくしい要塞の出現
ドップヘルトは防御壁に奇妙な傾斜があることに気づいた。ペトロプラスがむきだしの手で角にあたる城壁をのぼろうとしたとホーマーがイリアドで三度いってる。そこはマイセニアよりちいさい七百ヤードの円周をもつ。精密に組みあげられた石造り、うつくしい建築構造、エーゲ海でもっともうつくしい要塞である。彼はおおいに満足した。長年の論争はこれでおわった。プライアン王やヘクターの都市の遺跡についに光があたった。すべての謎は解消したとおもった。

* ドップヘルトの確信
これにより彼がトロイと証明したとまでいえない。青銅時代晩期の砦があったこと、そこがマイセニアと交流があったこと。そこがダーダネルスの入口というただしい場所で確認できたこと。ホーマーがえがいてることに奇妙な類似性があること。これらである。では彼がいう証拠である。戦いがあり、破壊された跡がのこってる。各所に大火の跡がある。建物、壁の上半分の壁と塔が打ちたおされてる。建築の内部が平坦に整地されてる。これらがらこの都市が敵の手で破壊されたことをしめすという。

* エヴァンスの発見の衝撃
この重要な発見を記録した彼の著書はドイツ語から他国語に翻訳されなかった。それを発刊する前におどろくべきニュースがとびこんできた。一九〇〇年、この発見を色あせさせる発見。エーゲ海のクレタで発見された。考古学に革命をもたらした。それは一人の英国人の天才、アーサー・エヴァンスにより成しとげられた。そしてシュリーマンとドップヘルトとがかんがえてたロマンチックなホーマーの世界を破壊したのである。

* その生い立ち
一八五一年、彼は誕生。ビクトリア朝、工業化の時代であった。一家の会社が後年の考古学研究の資金を提供した。彼の父は製紙会社の所有者、と同時に先史時代の指導的学者だった。シュリーマンと対比できる存在であった。エヴァンスが歴史と著作物に魅力をかんじたのは自然な流れだった。


* クレタにむかう運命
独学だったシュリーマンとちがい、彼は公立の学校からオックスフォードに進学した。そして考古学への情熱からオックスフォードにもどってきた。一八八〇年代のオックスフォードは地質学と先史についてのあたらしい考え方をそだてた。またチャールズ・ダーウィン、彼の父の友人でもあったが、その進化論の影響下にあった。帝国主義進展の副産物、あたらしい文化の発見はビクトリア時代の想像力に根ざしてた。またそれは原始的文明が高次の文化に進化するという考え方をうみだすのに役にたった。そのような考え方は彼の歴史の発展についての見解、そこからうまれる疑問、何故マイセニア文明が文字資料をもたいないのか。これはシュリーマンがもたなかった疑問である。この問題意識はギリシャにゆく相当前に形成されてた。

彼の人生の方向をきめる大事な年、すなわち一八九三年は同時に悲劇の年でもあった。その年妻をなくした。彼は四十一歳。その二月、アテネの蚤の市で骨董をさがしまわってた。そこで三面ないし四面をもち、その内部に文字のようなものがきざまれてる。封印石に出あった。それはクレタから出土したとおしえられた。拡大して自分自身の目で確認した。それは古代エジプト文字のようなものとおもわれた。近東、エジプトに文字の存在はしられてた。しかしヨーロッパにも存在し得るという考えは当時の学者にはなかった。しかしシュリーマンや何人かはクレタで見つかるかもしれないとおもってた。かくしてエヴァンスが運命にみちびかれるようにクレタにむかった。

* クレタの伝説
クレタは伝説の島である。ここにマイノス王がいて、エーゲ海をその海軍により支配してた。それはトロイ戦争があったはるか以前のことだった。そこには迷宮があり半人半獣の怪獣ミノタウロスがひそんでた。ここには建築家、ダイダレスがいて翼をつくった。それでイカロスはクレタを逃げだし太陽の近くにいった。ホーマーによれば、ここからアイダモニアス王が八十の黒船をともないトロイにむかった。

* 最初のクレタ
一八九四年三月、エヴァンスははじめてクレタを訪問した。ピレスから二十四時間の長旅で悪寒になやまされたといってる。彼はギリシャ文明の起源を見つけるためやってきたという。それはすべての偉大な文化の起源であるかもしれない。

* クレタの概要
クレタは大陸の縮小模型である。それはヨーロッパと近東、アフリカをつなぐ踏み石である。住民は先史時代の人々、ギリシャ人、ローマ人、アラブ人、トルコ人などの子孫である。彼はどこから調査をはじめるべきか。なおも船酔いの後遺症になやまされながらその最初の日、ミラキオの市場をさまよった。そこでさらにおおくの封印石を見つけた。自分は手掛かりをえた。それにしたがう。必要なら迷宮の奧の奧までゆくといっている。

* クノッソスの丘へ
封印石はまさに伝説の迷宮から出土する。特徴のないその丘が今はクノッソスとしられてる。歴史と神話の世界がだんだんとちかづいてきた。エヴァンスが当時みた丘は現在のとはちがってた。というのは発掘の後で彼は宮殿の一部を復活させることにしたからである。では当時はどうであったか。

* 粘土板の文字の発見
発掘はかくれてたものをはがしただけだった。わずか一インチ下に玉座の部屋を見つけた。その保存状態はおどろくほどよかった。壁画の一部がなおのこってた。食料保存室の壺の中には穀物の粒、乾燥した豆粒などがのこってた。これでエヴァンスははっきりとわかった。マイセニアである。クレタの宮殿はマイセニア本土人に征服され最終的に紀元前一二〇〇年頃に破壊された。この考えはホーマーがいうアイダモニアス王の治世にトロイ戦争があったという記述に合致する。宮殿はマイセニアのそれとよくにてる。壁画はティレンのそれとにてる。宝物庫の扉の花模様はマイセニアのそれである。とりわけと彼がいう。壺の形状はもっとも普通のマイセニアのそれである。しかしこのマイセニアとは。それにこたえる手掛かりが彼の発見にあった。やかれた粘土板である。そこに未知の表記方法による文字がのこってた。

* ミノアン文明の発見
彼はうしなわれたつながり。近東の文化と初期ギリシャ文化との間のつながりを発見したと確信した。それは古代の重要な言語のひとつである。他の発見物をふくめて彼はマイセニアとよんだ。しかし一カ月後それを変更しミノアンとよぶことにした。それはマイノス王から採用したもの。それはミノアンを代表しシュリーマンのマイセニアも支配するものだった。エーゲ海の青銅時代を象徴するものとしてミノアンの牡牛は黄金の仮面にとってかわった。クノッソスの宮殿は帝国の中心。それはその海軍によりエーゲ海を支配した。その人々は行動に配慮がいきとどき生活をたのしむ。牡牛から飛びおりるような奇妙な形の野外運動をこのむ。フレスコ画にえがかれえていた。

* 人々の暮らし
エヴァンスにとっては彼らは自然の世界を愛する人々である。その儀式と祭はうしなわれた黄金時代の姿を彷彿させるものである。その政治は欧州初の法律を発布した王の主宰によりおこなわれた。エヴァンスはこのような自分が作りあげた世界につよくこだわった。たぶんこれが宮殿の一部を復旧した理由だろう。

* エヴァンスの心のうち
私は彼の心の中に思いをはせる。彼は熱情においてシュリーマンと共通する。しかし時代の子であった。一八九〇年代と一九〇〇年代初期はおおくの問題があらわれた。創造にたずさわる人々は工業化社会、帝国主義がもたらした問題にくるしめられた。芸術家、ポール・ゴーガンはうしなわれた純朴な世界をもとめてタヒチに逃避した。また知識人のH・G・ウェルスもそうだった。エヴァンスはそのうしなわれた純朴さをここに見つけた。彼の姉妹がいう。彼はロマンチックな性格。現実から逃避する場所を必要とした。このあたらしい文明は彼の心にかなった。彼は現実に心の安息を見いだすことができなかった。

* ミノアン文明のエーゲ海支配
このようにエヴァンスのエーゲ海の青銅時代の歴史にホーマーがはいる余地がなかった。歴史をつくりその勝利者となったのはクノッソスからきた善意にあふれた帝国主義者だった。紀元前一五〇〇年頃のエーゲ海ではミノアンの王が支配者だった。彼が主人であり文明をもたらした。詩にうたわれたマイセニアの世界はクレタからの植民者によりつくられた。偉大な建築物が本土にのこってるが、それはマイシニのエイトリアドの宝物庫のようにクレタ人のつくったもの。たぶんクノッソスの偉大な建築家、ダイダレスによるもの。

紀元前一四〇〇年頃、クノッソスは没落し、その後、マイシニも沈滞した。ここから海をわたる帝国主義的遠征があったかもしれない。いずれにせよトロイ戦争はおとぎ話にすぎないとエヴァンスはがかんがえた。

* エヴァンスの私的世界、ひととなり
エヴァンスの見解が学会の定説となった。彼の存在そのものも議論を抑止するものとなった。私は彼の孫にあたるジェームズ・キャンディにあった。エヴァンスのちがった側面をおしえてくれた。彼はいう。この扉をあけて中にはいればわかる。すばらしい。エヴァンスは人工の湖と別荘をつくってた。願いはかなわなかったが早逝した妻とともにすごすつもりだった。クノッソスにいってない時、彼はこのような私的な世界にくらしてた。彼はミノアン文明の世界を確立した。今や別荘はなくなったがこの庭園はのこってる。キャンディが少年時代の彼の思い出をかたる。

彼はここでも探検家だった。コインを拡大鏡でしらべた。学問の世界では重厚で貴族的だったがもう一つの側面があった。子どもたちをあつめ迷路が織りだされた絨毯の上で迷宮遊びをやった。ミノタウロスの真似をして子どもたちをこわがらせた。彼はあなたにミノアンの発見をどのようにおしえたか。具体的にはなしてくれた。地震があった時、彼はベッドの下にもぐりこみ、ぐらぐらとゆれる音について、あれはミノタウロスのうなり声だといった。すばらしい。

* 未解読の線文字B
エヴァンスは五十年間にわたりこの分野の巨人として君臨した。彼の精細をきわめた著作、クノッソスの宮殿は、たぶん考古学においてもっともすぐれたものである。彼ほど学会で支配的であった人物はいない。ただ主要な問題が未解決のままのこってた。その一つが文字の解読だった。一九〇九年、彼はその考えをまとめた著書、ミノアンの文字を出版した。線文字Bとよばれる文字、これが未解読のままだった。次に当時のギリシャ人の状況だった。彼と意見をことにする人々はいう。マイシニは常にクレタから独立しておりその最盛期である紀元前十三世紀には同盟を主導しエーゲ海を支配してたという。その代表者は米国人、コールド・リーガンである。

* 対抗するリーガン
彼はわかく信念にみちてた。当時はフィルムの時代となってた。これまでの考古学に新鮮な風を吹きこんだ。世界大不況がおわった頃だった。彼は一八八六年の誕生。エヴァンスの名声がたかまった頃に考古学を専攻した。しずかな中西部の出身者だった。彼はエヴァンスのミノアンの学説に戦いをいどんだ。おなじ発見にちがった見解をしめした。ギリシャ本土、地中海全域にひろがる壺から沈滞にあったというマイシニが紀元前十三ないし十四世紀において支配的地位にあったとかんがえた。彼には英国人アラン・ウェスという仲間ができた。

一九三〇年代にかけて二人は壺の様式で系統図を完成させた。それにより正確な年代をさだめることができた。二人はホーマーがえがいた帝国マイセニアの世界は基本的にただしいとかんがえた。ここからトロイは歴史に実在しヒストリクがそれだとかんがえた。アテネ、一九三一年七月九日、トロイはすばらしい場所だ。まだ発掘の余地はある。そこで何とか発掘をしたいとウェスに書きおくってる。それに必要な資金もあつめたいが残念ながらむずかしい。しかし一九三二年、ドップヘルトの助けによりチャンスがめぐってきた。四十年前にドップヘルトが手をつけなかった場所を発掘することとなった。

* リーガンの発掘
探求がふたたびホーマーの世界をおいかける。ヒトラーがドイツで勢力をました時に第三次のヒストリクの調査がはじまった。彼は、最初の発掘についてフィルムにおさめてる。彼は九つの地層を確認した。それはトロイ戦争の時代からみて、ながい過去とその後をふくんでる。それは人間の歴史の断面図である。うつくしい角の壁をもったドップヘルトの都市は実際にイリアドの出来事を目撃したのか。もともと複雑な話しにまた複雑な事情がくわわった。

* 地層の確認
彼はドップヘルトが発見した都市遺跡の崩壊がアガメムノンの軍隊によるだけでなく自然現象にもよるとあきらかにした。つまり地震である。ここからコンピュータで表示して説明する。

ホーマーの話しがどこで展開されたのかをしるため、われわれは地震で崩壊した遺跡の上にドップヘルトのトロイがどのように積みかさなったのかをみる必要がある。彼は四つの領域を発掘した。北の円郭の壁、これはシュリーマンが破壊した。西。ここで要塞の基礎部を発掘した。地上から二十三フィートの深さにたっしてる。これは反対側の要塞と対称となってる。南側、その基礎部にはうつくしく立ちならんだ家々を発掘した。三十ヤードの長さの主要道路がついてる。このうつくしい都市は地震により崩壊したという。そしてホーマーの話しとの関係ははっきりしない。

* 地震と人の手による破壊
彼の関心はここに接続したトロイ第七層のAに焦点があてられた。壮麗な住宅地域だった場所の性格が変化した。多数の人々がすむ地域となった。地震がおそった後に、人々は瓦礫をかたづけ可能な場所に建物を建てなおした。しかし事情はこのましいものでなかった。建物の中にはいればわかる。彼は三つの完全とはいえない建築物を発見した。最大のものはパン屋とかんがえた。麦からパン粉をひく挽臼。パンをやく竃(かまど)の部屋、あちらの隅には地中海に普通にみられるおおくの木箱。そこに食材を保存する。さらにここにワインが保存され、供給される。さらに彼は指摘する。ここに傾斜した皿状のものがあり、そこから水分が排水される。彼はこれをワインが供給されるところとかんがえた。ここの遺跡の解釈である。

この一連の建物群は、パン屋、ワインを供給するところ。そこに隣接するキオスクという。つまり一日の戦いにつかれはて空腹をかかえた英雄たちがここに立ちよるというのである。これは考古学者の空想の産物である。第二次大戦後のスープ・キッチンがモデルとなってる。リーガンはトロイは、まず地震におそわれ、その後すぐ人の手により破壊されたとかんがえた。

* 敵の攻撃の証拠
すべての状況が適合するようだ。地震前に繁栄してた頃、二十四軒のひろい家があった。それが 区ぎられ細分化された。陰鬱なバンガロー、そのパーティションはプレハブ製である。床下には地面にしずめられた保存用の壺がならぶハニカム構造をつくってた。平石でおおわれ、中に豆類、穀類、燻製肉が保存されてた。都市は大火により破壊された後に、たぶん一世代の間に再建されたろう。

この街路の瓦礫は五フィート。炭化した木の塊、小石、灰。軽食堂の入口に人間の頭蓋骨、たぶん店の主人。その近くに二つの骸骨。それをおおう大量の灰、ここの西の部分には人間の顎の骨。それと矢。彼はこの人種を地中海系と同定した。壁の下には二つの骸骨、それは攻撃してきたギリシャ人だろう。その頭部は強打されくだけてた。都市はまちがいなく敵の攻撃により破壊された。状況はホーマーの物語りと合致する。その時期を彼は紀元前一二四〇年と推測した。彼にとってはうたがう余地のないものだった。トロイへの攻撃は事実だった。想像力は考古学者がもつべき重要な資質である。しかしこれまでの証拠は充分だろうか。

* トロイの実在を確信
私はそれに答えをもとめてリーガンとともに発掘にたずさわった人物、ジェロームス・バーリングをアテネにたずねた。そしてこんな疑問を口にした。ヒストリクの発掘の際し考古学者はホーマーのこと気にしないでいられるか。リーガン、シュリーマンやドップヘルトもそうだが、彼らはそこに彼らが見つけたかったものを見つけるためにそこにいったのか。その答は奇妙なほど曖昧だった。

自分にとってこの批判はあまり意味がない。何故ならすべての人のトロイはすべての他の人のトロイとことなるからである。それは、ホーマーの物語りをよんで何を発掘しようとかんがえたか、どれだけ考古学についてしってるか、どれほどそれを気にするか、どれだけ自分の想像力をつかうか。これらにかかってる。たとえば、葡萄を貯蔵する壺を第七地層Aにある住居に見つける。するとこれでトロイの人々は軍隊が遠征してくるということをしってたことを意味すわけでない。それがアガメムノンのひきいる軍であることもしってたわけでない。それは単純に次のことを意味するかもしれない。彼らは自分たちの国土を葦ばかりがしげる場所にしたくなかった。そうなれば当然一年の収穫をうしなうから。

私がきく。あなたは頭蓋骨、骸骨などののこる遺跡の状況から、それはホーマーがいうようなギリシャ軍の遠征によるとかんがえないか。その答は然りとも否ともいえる。私は軍の遠征がアガメムノンのそれかどうかを明確にしなければならないともおもわない。私はホーマーをよみ、それに魅惑されている。その力に圧倒されている。詩がつくりだす真実は人々がかたる希望、絶望、問題、衝突の中にある。ふうん。しかし考古学の真実は解釈にたよってる。

* 文字資料の探求
リーガンはこの確信にまったく疑念をもたなかった。この考えから紀元前十三世紀はマイセニアがもっとも強大をきわめたことになる。これはエヴァンスの考えとことなる。彼はこの問題の解明が線文字Bにひそんでるとかんがえた。エヴァンスの期待にはんし全世界の学者がこの問題に取りくんだが解読はできてなかった。エヴァンスが公表した文字の例はあまりにもすくなかった。リーガンがギリシャ本土の記録保管所、未発掘の宮殿をさがすことにした。彼はペロポニーズ西部にむかった。サンディーパイロスである。そのうつくしい海岸線のどこかにアガメムノンの盟友、ネストール王の宮殿があるとホーマーがいってる。地元民が彼をアングリアーノスという丘に案内した。その最初の日、頂上で彼は記録保管所を見つけた。数百の粘土板である。線文字Bだった。彼が発掘した宮殿は紀元前一二〇〇年からまったく放置されてた。

われわれには彼が記録したフィルムがある。王の間、そこで王は饗宴をひらいた。収蔵庫にはこなごなとなった宝物があった。宮殿にみとめられる文化はクノッソスとおなじである。粘土板が見つかった。マイセニアの謎が解きあかされる時がやってきた。

* 線文字Bの解読
大量の線文字Bの資料が公表された。これが解読の道をひらいた。一九五二年の夏、ラジオBBCで報道した。三十三歳の建築家、マイケル・ヴェンチュリスがいう。自分はこの数週間で突然、結論をえた。クノッソスとパイロスの線文字Bはギリシャ語でかかれている。難解な古代のギリシャ語である。ホーマーより五百年前のもの。かなり簡略化された書式を採用してる。しかしギリシャ語である。リーガンにとっては歓喜の瞬間である。エヴァンスにとってはおおいなる心の痛手となるものだったろう。しかし彼はすでに一九四一年、九十歳で死亡してた。

* エヴァンスの晩年
キャンディが彼の晩年をかたる。当時自分は結婚しており、彼をたずねた。おおきな客間に黒猫をかたわらにおいてすわってた。私がきく。クノッソスは彼を破滅させないまでも、あれだけながい期間がかかった。莫大な費用と労力をつぎこんだ。彼は最後に消耗し疲れはてていたとおもうか。然り。そうか。ある晩、私に自分はもう生きるべきでないといった。ええというと。自分はすべての金をクノッソスにつかいはたしたといった。

* マイシニに征服されたミノアン
エヴァンスのミノアン文明、その担い手の初期ギリシャ人はギリシャ本土のマイセニア人によって征服された。クノッソスは青銅時代の種族により支配された。ホーマーはただしかったことがわかった。

今回は文字資料の探求であった。次回はホーマーについて探求する。


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