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一万人の行進、前篇(簡略ギ歴) [英語学習]

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* 内容の紹介
歴史的に有名な一万人の行進をあつかう。ここではペルシャに行進しキュナクサで戦うところまでである。
(Ancient Greek History - Part 1 March of the 10000 - 33, Historyden)

* おどろくべき一万人の行進、関係者三人
ペロポネソス戦争の三年後、おどろくべきことがおきた。スパルタの覇権の時代に一万人の行進ということがおきた。これはギリシャの傭兵隊がペルシャ帝国のおくふかくまで行進したということである。この出来事に関係する三人の人物がいる。

ペルシャの大王の息子の一人、サイラス、
スパルタの将軍、クリオカスと
後に歴史家として有名なゼネフォン(クセノフォン)
である。その背景である。

* 王位をねらうサイラス
ダライアス(ダリウス)二世がペロポネソス戦争の終了とともに死亡した。その息子、アーティゼクシがその後をついだ。しかしもう一人の息子、サイラスも王位継承をのぞんでた。ペロポネソス戦争の時代にダライアス二世はサイラスを西に派遣しアテネに対抗しスパルタに協力させた。彼は資金をスパルタの将軍、ライセンダに援助。これで艦船が建造された。サイラスは西の州の長官にティシファンズとファイナベイシスを任命した。ペロポネソス戦争がおわって彼はアーティゼクシから王位を奪取しようと陰謀をたくらみ軍の反乱を計画した。

* 乱暴者、死刑判決で進退きわまったクリオカス
ビザンチウムにおけるスパルタの守備隊の隊長にクリオカスという人物がいた。彼はペロポネソス戦争の期間中にヘルスポント(ダーダネルス)の戦いにふかく関与した。彼は粗暴な支配者だった。短期間ビザンチウムをはなれた時に市民たちは門をあけアテネのアルソバイアデスにその都市を引きわたした。彼はまったくたたかわず都市を手にいれた。クリオカスはスパルタにもどり復讐の機会をまった。ペロポネソス同盟の軍を引きいてビザンチウムにむかった。

しかし長老会議がこの事件を彼の粗暴な支配による革命として軍の召喚命令をだした。彼はこれを無視しついにビザンチウムを取りもどした。だがこれで問題は解消されず彼には死刑の宣告がくだされた。当然のことだった。彼はこのような反抗的な行為で有名だった。このような人柄はむしろペルシャと関係する問題をあつかう。この点では適任ともいえた。ペロポネソス戦争がおわって彼はその軍隊とともに何もすることなくビザンチウムにとどまってた。

* サイラスがクリオカスに近づく
ところでこの事態はサイラスにとっては好都合だった。彼はクリオカスにお金をあたえギリシャ人傭兵をやとおうとした。クリオカスはこれにおうじた。というのは彼にはすでに死刑判決がくだされてる。スパルタにもどれない。サイラスの話しにのっても何もうしなうものはない。これを拒否する理由はない。ここで指摘するがサイラスはギリシャ人に西にむかうのはティシファンズと戦うためといって、その真意をあかしてない。

* 各地からあつまってきた傭兵たち
この一万人の行進の兵たちである。彼らはメガラ、アテネ、シーブス、シラキュウースなどからあつまってきた。一万人のことである。こういいならわしてるが実数は一万三千人。一万四百人の重装兵士、二千六百人の軽装兵士からなる。さらにクリオカスをふくむ複数のギリシャの将軍がいた。クリオカスは彼らを統括する位置にいた。そして彼らは傭兵である。給与をえてたたかう。ペロポネソス戦争はおおくのギリシャの都市の経済を破壊した。そのため生計の手段にこまりおおくの兵士が生活のために傭兵となった。これがギリシャの最初の傭兵の実例ではないが、この頃から他の都市にやとわれる傭兵の活躍が目だつようになった。歴史家、ゼネフォンのことである。

* ソクラテスに相談したゼネフォン
彼はこの作戦に参加した将軍、ビオーシャのプロキシメスの友人だった。彼にさそわれた時、きめかねてソクラテスに相談した。すると神託をきけといわれた。ゼネフォンは神託にしたがい参加をきめた。その地位はおそらく中級の将校だった。彼はこの作戦の一年後にこれを記録した。

* 行進のはじまり
さてサイラスは兵をサルディスにあつめ準備をととのえペルシャの中心部にむかった。ティシファンズはこれへの参加を拒否しペルシャの首都、スーサにもどった。そこでアーティゼクシ大王に報告した。

* 傭兵隊の反抗、賃上げ要求
彼らがタシスにきた時、傭兵たちは前進をやめた。その行き先がアーティゼクシであるとうたがってる。それは当初の約束にはない。ゼネフォンがいう。クリオカスは傭兵たちをとにかく前進させようとした。すると彼にむけ石を投げつける者がでた。あやうくころされそうになった。そこで無理押しをあきらめた。傭兵たちが商行為のように約束の履行をもとめてることに気がついた。すみやかに彼らと集会をもった。彼らの信頼を回復しようとしていった。

自分はサイラスからえた資金を独り占めにすることもできた。しかしそれをきみたち兵とともにわけあうこととした。きみたちがこれ以上前進しない。自分のいうことにしたがわない。なら自分はサイラスかきみたちのどちらかをえらばなければならない。ならばきみたちをえらび、けっして裏ぎらない。きみたちがえらんだところにゆく。このように傭兵たちを説得した。なかなか上手な演説だった。問題はすべてサイラスにおしつけ傭兵たちの信頼を回復した。彼が傭兵たちとサイラスの二者をだましてることはあきらかだった。

* 巧妙なクリオカス、雇用主、サイラスと傭兵たちをだます
サイラスは非常な混乱に落ちいった。ギリシャ人たちに何がおきたのかを理解できなかった。そこでクリオカスを自分のテントによび話しをきいた。ただちに問題を解決するようもとめた。しかしクリオカスは拒否した。ところで彼はサイラスに秘密裏にメッセージをおくってた。それはサイラスが彼を何度もテントに呼びつける。そこでクリオカスが何度も拒否する。これを繰りかえす。これによりクリオカスは傭兵たちからみると良い人になりサイラスは悪い人になる。しかしサイラスに最後にはうまくゆくと約束した。これは極限の状況ですべてが敵対する。そこに自分は調停役として振るまう。まるでアルソバイアデスのように振るまったと私はおもう。サイラスが傭兵たちの真意は給料の値上げだとさとった。その時、それを約束した。傭兵たちは前進をはじめた。

そしてついにサイラスは彼の本当の目的がバビロニアにあることをあかした。これはアーティゼクシ大王との戦いである。ついでまた問題が発生した。

* 傭兵たちの内紛、わってはいるサイラス
当然、ギリシャ人たちの問題である。それはクリオカスの派遣隊とほかの派遣隊とのいざこざだった。彼が川に差しかかってたが、もどってきた。そこでほかの派遣隊から攻撃をうけた。ギリシャにおいて出身地がことなる隊がいっしょに行動すると常に紛争がおきる。こうかんがえるべきと私はおもう。積年の怨みがいつ噴出するかわからない。クリオカスは自分の隊に武器を装備するようめいじ、相手の隊も武器を持ちだした。そこであわや戦闘がはじまりそうになった。

そこに騎馬にのったサイラスがわってはいった。怒りで興奮したギリシャ人のあいだにわってはいる。勇気ある行為である。さらに馬からおりてこう宣言した。もし。このままぶっかるなら、この軍の運命はきわまる。すべての兵がしぬといった。これが事態を沈静化させた。ギリシャ人たちも自分たちの雇用主をころしたいとおもわなかったのだろう。そしてこの狂気にみちた行進がまたつづく。このような混乱をおさめたサイラスの能力はたしかにすぐれてる。彼に王位をのぞむだけの能力がある。さて彼らには一大決戦がまってる。それはキュナクサの戦いという。

* 大王との一大決戦、キュナクサの戦い
サイラスが最初に戦場についた。アーティゼクシをそこでまつ。ゼネフォンがいう。巨大な雲が平原に立ちのぼってた。大王の軍がやってきた。大王が中央、ティシファンズが左翼にいた。これにたいしサイラスは中央に親衛隊、六百人とともにいた。ギリシャ人たちは名誉の右翼に位置する。大王の中央をみてサイラスが傭兵隊に中央の攻撃をめいじた。しかしクリオカスはこれを拒否し説明した。相手の左翼はおおきく展開してる。もし中央をせめると自軍は後に回られ窮地に落ちいる。自分の考えで攻撃する。すべてはうまくゆくと請けおった。戦場についてのべる。

サイラス側の右手にユーフラテス川がながれてる。大王側からみると左手となる。このように両者は対峙する。サイラス側の野営地はその後にある。大王側はその右手のややはなれたところにある。

* 戦いのはじまり、ティシファンズの陽動作戦
戦いがはじまった。ギリシャがペルシャの左翼を攻撃する。全面にいたペルシャ二輪戦車がギリシャの進撃の方向に逃げだした。そしてペルシャへの攻撃をゆるした。ギリシャは猛烈に攻撃した。そのためギリシャはペルシャの左翼とともに戦場からはなれてしまった。これについて何故戦闘経験の豊富なティシファンズがこのような戦いをしたか。いくつかの推測がある。通常は左翼が崩壊するとその残りの軍も勝敗がついたとして退却にうつる。ところがペルシャの中央と右翼は戦闘態勢を維持してた。それはティシファンズはギリシャの攻撃はペルシャを圧倒する。しかし編隊を維持しつつ退却する。これで相手のもっとも強力な編隊を戦場から離脱させることができる。このような戦略ではないかという。

* 追いこまれたサイラスの突撃、戦死
ペルシャの中央と右翼はこの戦略を事前にしってた。したがって退却にうつらなかった。かえってのこった相手の編隊の攻撃に集中する。これはハンニバルがローマの軍にもちいた作戦であった。左翼に攻撃を仕かけた大王側はサイラス側の背後に回りこんだ。そこで編隊を二手にわけた。一つはサイラスを攻撃し、もう一つは左翼を攻撃する。左翼にいた大王の騎馬隊はサイラスの攻撃にくわわった。この戦いのなかでサイラスの野営地は破壊され食糧、資材が略奪された。この戦いに勝利するためにサイラスは大王をころすしかなかった。彼は六百人の親衛隊とともに自分自身で攻撃にはいった。そしてアーティゼクシの中央にむかう。そこではげしい戦闘がおきた。彼とほとんどの親衛隊はころされた。ペルシャの反乱軍はいっせいに逃走しだした。ペルシャの中央に空白がうまれた。アーティゼクシも負傷したが生きのびた。こうして彼は王位を維持した。

* 前途の見込をうしなったクリオカス
もどってきたギリシャ軍は野営地が破壊され略奪されてることを発見した。ほかの将軍とともにこのまま野営地にとどまるか。あるいはどこにゆくかを議論した。ティシファンズがギリシャにたいし最後の攻撃を仕かけようとした。ギリシャ軍はこの頃、サイラスがどこにいるのか、また反乱軍がどこかをさがしてた。いずれにせよ彼らは大王の軍と対峙しなければならない。クリオカスは編隊をととのえ前進をめいじた。しかしペルシャはこれをまつこともなく、ただちに逃走し自分たちの野営地に逃げこんだ。

ギリシャ軍は野営地にもどり待機した。ここで太陽がしずみ夜となった。攻撃の中止をめいじた。野営地ではすべてが破壊されていることを発見した。すべての食糧、資材がうしなわれ、さらにわるいことにサイラスがどこにいるのかわからなかった。夜間に戦場をうかがい矢や槍をあつめ、これで火をおこした。翌日になってサイラスが死亡したことをしった。彼らには雇用主もなく食糧、資材もなく確保されるべき退路もなく、しかもわるいことにペルシャのまっただなかにいる。このおそろしい事実をしった。

* 大王側とクリオカスとの交渉、歴史的退却へ
アーティゼクシはギリシャ軍にたいし武装解除をめいじた。ギリシャはこれを拒否した。つぎに伝令をつうじギリシャは戦争か平和かどちらをのぞむかときいてきた。クリオカスは回答を拒否したが翌日、また戦場にもどり戦闘態勢をととのえた。これにおどろいたアーティゼクシはギリシャに和平交渉をもとめた。食糧、資材を提供し安全な退却を約束した。それは道々の田園地帯で略奪をしないとの条件がついていた。クリオカスはこの条件を受けいれた。これにより歴史上もっとも有名な退却がはじまる。

(おわり)

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