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トロイ戦争はあったのか(六の六) [英語学習]

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* 内容の紹介
トロイ戦争の後にマイシーニアンのギリシャとトロイが、またエーゲ海地域がどうかわっていったかをかたるとともに、六作シリーズの最後に作者が見つけたトロイ戦争をかたる。

* はじめに
伝説によればここにトロイがあった。おおくの人が謎の答をもとめてやってきた。伝説は考古学上でどうかんがえられるか。

トロイはダーダネルスのちかくのヒストリクの丘にたつ。一二五〇年頃、ヒッタイトとマイシーニアンのギリシャの衝突によりこの都市は略奪をうけた。その直後、二つの勢力は衰勢にむかい暗黒時代へとはいった。ウィルヘルム・ドップヘルトがトロイの遺跡を発見し、さらにコールド・リーガンがその後の遺跡を発見した。両者の時期の開きは十年から八十年である。英雄時代がおわり、海の民がやってきて、またトロイの略奪があった。

* 英雄時代の終わり
ホーマーがいう。勝利の後にアガメムノンが帰国するが妻の手で暗殺され、あたらしい王がたてられた。考古学ではマイシーニは衰勢の時代にむかった。これは伝説に合致する。都市が外敵をおそれ防御能力を強化した。私は今、ここ、四十フィートをくだった地下にいる。ここは三インチの厚さの漆喰に塗りこめられてる。長期の城攻めにそなえた貯水施設である。当時の近東の都市に普通にみられる。安全がおびやかされ、隣国といえども安心できない。

* 都市国家の衰退
マイシーニアンのギリシャが統一されたことはない。独立した都市がゆるやかに連合したものである。マイシーニ、ネストールのパイロス、メネレアスとヘレンのスパルタ、エディプスのシーブス、ジェイソンとアルゴノスのイオルコス。時に連合し時に対立しながら衰勢にむかった。

ここはギリシャ中部、オコメノスの平野、かって湖沼であった。紀元前十三世紀に巨大な堤防がきすかれ農耕地が開発された。人口増をささえ、後に衰勢にむかう圧力となった。これは三ヤードの厚さ、粗い積みみあげの石垣、六十ヤードの長さの施設。湖に流入する川を調節する貯水池。これらにより二十または三十平方マイルの広さの農耕地を提供した。これは王国の軍事力にまもられていた。ホーマーがオコメノスはマイシーニとならぶ黄金にとむ国たった。隣国のシーブスとの関係悪化により堤防が破壊され、オコメノスもやかれ略奪をうけた。

* シーブスの衰退
シーブスはゆたかな富でマイシーニと対抗してた。父殺しの悲劇のエディプスが有名。ここも略奪、放火の対象となった。その場所はタブーのようにながく人が立ちいらなかった。この地下室にはいる。当時の状況をかんじる。収蔵庫からの収蔵物が散乱してる。宝石、黄金の装飾品。ラピス・ラズリの宝石で装飾されてる円筒形の印章。象牙製の脚をもつ家具の一部、たぶんエディプスのもの。焼け跡がのこってる。

* パイロスの衰退
紀元前十二世紀頃、考古学上からオコメノスは成長し、シーブスが衰退にむかってた。パイロスの線文字Bの記録かいう。当時、外部の脅威がせまっていた。要衝の地に指揮官を派遣した。パイロスは要塞をもたなかった。攻撃をうけ略奪をうけた。

パイロスはその後、無人の地として放棄された。マイシーニは人口の過剰、農業生産の失敗、土地の収奪など複合した要因で衰退にむかった。おおくの宮殿が略奪されたが、マイシーニは一二〇〇年頃の地震にもかかわらず存在しつづけた。ティレンはアーゴリド地方で有力であったが、マイシーニがその地位をうばった。

* ティレンの衰退
ドイツの発掘隊によれば、一二〇〇年以降、ティレンは都市内で建物がふえた。城外の周辺には多数の人々が流入した。あきらかに避難民の定住化であった。ティレンも紀元前一一〇〇年頃、マイシーニとおなじように放棄された。

* ドーリアンの流入、線文字Bの消滅
伝説がいう。トロイ戦争の後に、三世代がすぎ、マイシーニアン地方にギリシャ語をはなすドーリアンが流入してきた。たぶん宮殿の周辺部に生活する、小作農だったろう。
体制の衰退は官僚制の崩壊を意味した。粘土板の記録がおこなわれなくなり口誦伝承のみがのこった。それが四百年もつづいて、ホーマーに伝来した。

* ヒッタイトの衰退
紀元前一二〇〇年ころの衰退は地中海世界に共通する。アナトリアにおいて。ヒッタイトの外務当局はギリシャの衰退をしってた。紀元前一二三五年、トーシャリスト三世の死亡。それをついだ息子のハリアッシュは多方面から攻撃をうけた。城壁を強化した。現在にのこる六十フィート高さの城壁である。紀元前一二一〇年、ハリアッシュが死亡、その息子が王位をついだ。

当時の都市の変容である。要塞化が強化。市内の警戒網も強化。地下の坑道を開設、水の供給を確保。あきらかに脅威がたかまっている。だが、どこからか。

ヒッタイトの公式記録にはない。しかし例えば、その周辺地域で緊急事態をしらせるやりとりがのこってる。敵が襲来した。邪悪なことをした。我が軍の船はいない。どうすればよいか。命令を。ボアズコイは紀元前一一八〇年頃、焼き討ちされ完全に滅亡した。

* 海の民の襲撃
エジプトの外交官は両国の状況をみてた。それがパピルスや寺院の石に記録されてる。外国人が島々に陰謀をたくらんでる。突然に襲撃、誰もふせげない。アザワ、キプロス、カルカミッシュ、ヒッタイトは分断された。英国博物館の記録には奇妙な名前がのこってる。ダヌナ、チェッケル、クリサチなどである。エジプト人がのこしたものから彼らの具体的イメージが想像できる。リバープール大学のエジプト学者、ケン・キッチンはいう。紀元前一二一〇年、 一一八〇年のはじめての攻撃の情報は外交官がもたらした貴重なものである。

エジプトはこの海の民の攻撃を撃退した。大量の捕虜が彼らの傭兵となった。エーゲ海地域やアナトリア沿岸からきたことはわかったが、元々どこの出身かはわからない。研究者、アンシ・サウンドがいう。それはマイシアの人々である。それはどうやらあたらしい世代があらたな土地に植民してゆく動きでないか。構成員の記録を分析してこう推測できる。バイキングの活動にもみられたもの。しかしその確証はない。

しかし私はこの時期にマイシーニアンが移民していった証拠をしってる。またオッデセイのオッデセウスのような流浪譚がこれを示唆してる。

* 海の民陰謀説への批判
海の民陰謀説を 批判する人がいる。ケンブリッジ大学、トリガラアンフォード教授は海の民という単純化した原因は真実にとおい。初期の文明は脆弱。人口の過剰、社会の専門化の行き詰まりで簡単に崩壊にむかう。現象面をことさらに強調、崩壊の原因となった複雑な社会的要因を軽視してる。

では注意深く事実を確認してゆこう。紀元前十二世紀、ギリシャもヒッタイトも繁栄の時をむかえてた、それ以降、衰退にむかった。政治的空白がアナトリアにおきた。トロイにつながる。混乱がうまれた後世これを暗黒時代とよんだ。紀元前一二〇〇年の直前に西部アナトリアに飢饉がおそった。移民のおおくがここから、うまれた。この時期にギリシャとヒッタイトの脆弱な都市は消滅した。

* トロイ戦争の時期、いつが適合するか
この時期にトロイ戦争がおきたか。それがホーマーの物語りに、あるいはヒッタイトの公式記録に適合するか。トロイ戦争は一二五〇年より前におきた。その頃はヒッタイトはアナトリアと同盟関係があり、ギリシャの有力国から干渉をうけた。また当時のトロイは繁栄し、おおくの国と交流があった。そんな時期かふさわしい。

トロイの発掘にかんしてである。合計五十の地層があり、その主なものでは九層となる。九回の略奪をうけた。その一つがトロイ戦争だといったら、充分あり得る。さらにしぼると、リーガンの第七層Aかドップヘルト第六層のどちらかとなる。トロイで発掘された壺の様式を検討する。LHIIIAとLHIIICがある。後者は紀元前一二〇〇年以降にはいってきた。これはリーガンの第七層Aから発見されてる。衰退期のものである。

* 繁栄期か衰退期か
イスタンブールにのこされたリーガンによる壺の発掘品の写真をとった。それをエリザベス・フレンチ博士にみせてきく。写真の壺はたしかにLHIIICだがこれから層の時代特定には問題がる。出土品の時代区分と出土層の時代を厳密に対応させられない。さらにトルコでは地震がある。このことから確たる結論はでなかった。LHIIICの時期はトロイ戦争がおきた時期よりあたらしすぎる。どうおもうかときいた。特に回答はなかったがこの時期にはトロイは対外的に活発な交流をもってなかた。それは島々とくらべいわばドロップアウトした状況だとの指摘をうけた。

私がやはりトロイ戦争の時期は第六層Aにもとめるべきかというと。ならば、地震による破壊と人為的なものとの区別が問題となる。困難な問題という指摘をうけた。

壺のLHIIIC様式の壺がリーガンのトロイに多数発見された。これはパイロスとスパルタが崩壊した時期、紀元前一一八〇年頃にはいる。ホーマーがいうトロイ、マイシーニアンが隆盛だった時期におきたという考えを否定すればともかく、これに合致しない。地震により崩壊したとドップヘルトがいうトロイ第六層Aなら、ホーマーのトロイに合致するのだが。

* 地震と略奪は区別できるか
では地震と人為的破壊をどう区別するのか。ケンブリッジ大学にゆきクイーンズ・カレッジのジェームズ・ジャクソン博士にきいた。リーガンが地震が原因と判断したこと否定も肯定もしなかった。

これでリーガンが第六層のトロイが地震により崩壊したとの主張に証拠があるとはいえないことがわかった。ではホーマーがいう、都市の塔がアガメムノンの軍によりたおされた。これがただしかったのか。

ここで次の疑問がのこった。地震におそわれた都市が略奪をうけたのか。それをしめす証拠を三人の 発掘者がもってるのか。シュリーマンはトロイでおおくのマイシーニアンの斧、弓、矢の武器を発見した。何故ここにマイシーニアンの武器が存在するのか。第六層のトロイは大火に見まわれた。ここに略奪があったのかも。そうもかんがえられる。略奪の際には塔を人力でたおすのは伝統的におこなわれた。第六層のトロイで倒壊した塔は略奪の際の破壊行為でないか。

結局、第七層トロイがホーマーのトロイか。壺の様式から紀l元前一二五〇年からさほど昔にさかのぼらない。ヒッタイトの記録からアナトリア西部の都市、ウィルーサでの衝突があった、この時にトロイの略奪もあった。これが適合するともいえる。

* 作者のあつい思い
六回にわたり作者は「トロイ戦争はあったのか」というテーマで調査を遂行してきた。その熱情は充分につたわったが、一体この人は何をさがしてるのかと違和感をかんじることもあった。ホーマーのイリアドがそのまま歴史に実在するはずはない。他方、その物語りをつくった人物、出来事が歴史に由来するともいえる。そこに歴史的事実がある。では調査の終わりに作者は何を見つけたのか。最後に熱情をもってかたってくれる。次に原文をそのまま掲載する。これをよんで読者はどう共感するのか。

* トロイ戦争はこのようにあった
In the Bronze age on the shore of the Dardanelles, there was a city, perhaps, it was called Troy. In its hay day was the most beautiful city in the Aegean world with fine walls, elegant mansions, surly marvelous palace on the top of the hill. It was ruled by vigorous and able royal family confident and wealthy went its own way for 500 years old. Safe behind its walls in the last day of its hay day after the year 1300 BC it tower were built.

And this, without any reasonable doubt, is the city reflected in the poem of Homer, the Greek poet who composed story of Troy 500 years on. He tells the city of wide streets, fine walls, a horse breeding city, a royal citadel. This city Troy VI fell around 1250 to an earthquake the excavators said. But I don't think their evidence can tell us whether this city not leveled deliberately, its walls were pushed over by attackers. And in any case how can archeology distinguish between earthquake and sack of the city, if they both came together at same time ?

Just look at what happened afterward. The place was rebuilt but in a very jelly built way, packed with shianties, dismal tenement, a soup kitchen, something worth what happened to Troy VI than mere earthquake. What it looks like is royal family had been exterminated. Troy VI had been sacked. Chief candidates, chief suspects surely are the Myceneans. Those sackers of the city seized the treasure and women who followed up their trading throughout the Aegean world with aggression. And it is the Greek legend that the Myceneans did indeed sack Troy. That story, the tale of Agamemnon's expedition to Troy as we have seen goes back to the Bronze age. Elements in it must be in sung by the Mycenean ballad before the fall of their world. And that, I suppose, means that I think Trojian war did happen which I didn't think when I set out on this search.

As for the sequel poor successor city Troy VIIA eat out his existence for few decades and around year 1180 was sacked by the sea people, Its shianties burned, bodies were left unburied in the streets.

Sad end of the story, tying up the loose end, did Agamemnon really exist. I don't see any reason why not. Why shouldn't ballad preserve the pedigrees of the last great king of Mycenea? So maybe Agamemnon did indeed ride through this gate and up this street of Troy as a conqueror. What about the Archilles and Nector. Well their names are Bronze age names. But I suspect their role of the story are the invention of wonderful poet. What about the wooden horse. Well classical writers thought the story so absurd. They rationalized it is a siege engine, one of those great covered wooden battering ram which held many men to sack a city. But if it was an earthqueke that gave the Greeks key to Troy. Is it not possible that in gratitude they left the idol in the image of earthquake god Poseidon, a wooden horse. I almost fogot. What about Helen of Troy herself, histories golden girl, the face that launched a thousand ships. Did she really exist? Well, in the archelogical record, love leaves no trace.

(おわり)

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