美味しんぼの鼻血 [脱原発]
グルメを題材にした美味しんぼ、という面白い漫画がある。これが、4月28 日号と5月7日号で福島を舞台にした。そこで福島原発事故をとりあげた。登場した前町長は被爆のせいで鼻血がでた。そんな症状の人がほかにもいる。これを取材した記者も帰宅後に鼻血をだした。そんな画面がネットに掲載された。福島県も原発がある双葉町も怒った。風評被害を助長する、といった。環境庁長官ほかも否定のコメントをだした。出版元は、不安と疲労から鼻血がでた。原発が原因と断定してない、というところらしい。前の町長さんも取材にこたえ、発言をくりかえすとともに、被害をうけた人は、かくしていないで、堂々と賠償請求すればよいとまでいった。なお、5月14 日号でこの件の特集号をだす予定だ。
わたしが考えたこと
2011年3月11日、わたしは神奈川県のある町にいた。ちょうどガソリンスタンドの横をとおりかかった。突然地面が揺れだした。ものすごい揺れである。こんなに地面が動くものか。立っているのも困難だった。まるで公園のブランコを立ちこぎしてる気分だった。それから災害報道をみた。無惨だった。わたしは歴史をよんでいる。だからいえるのだが、この国の人々はこのような惨事に何度もあっている。そしてどうするか一定のパターンがきまってる。なくなった人を悲しみ、諦め、やがて運命をうけいれる。こんな簡単にいってしまうのは失礼な気がするが、しようがないと思う。ところが、原発事故だけがちがった。こんなに長引き、はっきりと割り切れないものか。影響が世界にまでおよんだ。わたしは必要があって放射線安全について勉強したことがある。その話しである。
まず原則論。人体への障害について、閾値(しきい値)というものがある。これは、これ以上なら障害がでるが、それにたっしないならあらわれない、という値である。つまり、しきい値にたっしない放射線ならいくら被爆しても安全だという値である。こういう値があるのか、というと、ない。より正確には、安全のため、ないという前提で放射線安全を考えようというのだ。これが議論をものすごく複雑にしてる。また、具体的値は呼び名も数値もかわっているようなのであげない。
一般人には年間線量を設定、放射線作業従事者にはそれよりも高い線量を設定する。何故か。これは一般人は原発、レントゲンによる胃の検査などから間接的に利益をえる。しかし原発や非破壊検査などで放射線作業に従事する従事者はより直接の利益をえている。さらに必要な放射線管理もおこなっている。こんな理由である。なお、ここでは高線量の被爆は問題にしない。その説明である。
チェルノブイリで1986年に原発事故がおきた。炉心が溶融した。この事故後に現場に立ち入った専門家はすぐ頭がいたくなった。その後この人はしんだと思う。ラジウムをつかった非破壊検査をする時、安全を無視したあつかいをすることがあった。ラジウムの針をお尻のポケットにいれておいた、従事者が甚大な被害をこうむった。放射線は熱線による火傷をひこおこすのと同じだそうだ。こんなものはここで問題にしない。低線量の話しである。
放射線は細胞のDNAにはたらいて、突然変異をひこおこしたり、ガンの原因となる。ショウジョウバエの突然変異の研究では放射線をあてた。どんな低線量であっても、それはガンになる原因となる。これが放射線安全の出発点だ。じゃあどうすればいいんだ。ここからがややこしい。
1) 仮にガンになったとする。それが、どの放射線によるものか特定できない。それどころでない。現代社会では、自動車からの排気ガス、食品にふくまれる添加物、タバコにふくまれるニコチンなどガンの原因となる物質があふれている。これによるかどうかも特定できない。だから、利益と被害の関係で割り切り、という考えがでた。
2) 一般人と放射線従事者とは異なる線量やちがう管理をもうける、という考えだ。
この時よんだ教科書では、人々は利益と危険を合理的に判断し、無意識のうちに自分の行動を選択しているのだ、とおしゃっておられた。そんなものか。気がつかないわたしが変なんだなと、思った。が、しかし福島事故がおきた時、世界中の人は日本に旅行して大丈夫か、日本からの食物は安全かと心配しだした。放射線安全の基準はICRP(International Commission on Radiation Protection)によりさだめられ世界共通である。それを世界の人々、特に欧米の人々は当然のこととしてうけいれていると思っていた。ところがこの騒ぎである。無意識のうちに合理的判断をしてるなんて、もろいものだと思った。つまり、これだけで人々の不安は解消されない、ということだと思った。で、どうするんだ、である。
で、どうする
わたしがよんだ教科書は古い。でも基本的にはかわってないようだ。福島事故のあと注意してみたが、気がつかなかった。で、この考えで話す。わたしがどうするか、である。
1)わたしは、老人、男、子どもをつくる気がない。なので、全然気にしない。
それには充分な理由がある。
2) 老人はストレスによわい。くよくよすると、それだけで寿命をちじめる。年をとれば誰でも体内にガン因子をかかえこむ。これがストレスによって発現する。老人のガンもまた老人だ。老人にとりガンでしぬか、寿命でしぬかは、競走だ。どっちが先でもさほどの差がない。まあ、このほかはつけたしみたいだが、いう。
2) 自分がどう生きるかが基本だ。年をかさねたのだから、行動選択の基準としてもっていなければいけない。チェルノブイリの専門家も現場にはいらねばならなかったから、はいった。当然の選択だった、と思う。福島でくるしんでる人をささやかだが助けたい。東北の仙台のリンゴだったと思う。みかけたので購入した。福島のにも同じような行動をとるだろう。世の中には 不安商法があるらしい。不安をあおると売上がふえるらしい。わたしの心がよごれているのかな。この出版にその臭いがする。わたしは、この漫画をよまない。前の町長さんの発言に、被害でくるしんでいる人々を助けたいとの気持があると思うが、政治的思惑もかんじてしまう。くるしんでいる人々をさらにくるしめることのないように注意しようと思う。さて、結論である。
結論
放射線安全は、その人の生き方の反省まで必要とする、ややこしい複雑な問題である。ここで一般の人々のために、まとめた。
1) 自分の生き方を反省する。何が大切なのを考える。つまり必要もない被曝はさける。
2) 世の中には必ず、責任者、担当者がいる。どんなことをいってるか、たしかめる。絶対安全などという基準はない。しかし、安全の基準がある。これが出発点だ。
3) 専門家のさまざまの意見も必要があればきく。そこからたしかな事実をつかむ。
4)さわがないで、自分できめる。
これからは、わたしの助言である。参考にしてほしい。
子ども、妊娠可能な女性はできるだけ、被爆をさけたほうがよい。35歳までは、レントゲンによる胃の検診はさけたほうがよいという研究があった。これは、若い人で胃がんがみつかっても、進行が早く治療の効果がひくい。それより被爆によりガンとなる危険性の方がたかいからという。
わたしが考えたこと
2011年3月11日、わたしは神奈川県のある町にいた。ちょうどガソリンスタンドの横をとおりかかった。突然地面が揺れだした。ものすごい揺れである。こんなに地面が動くものか。立っているのも困難だった。まるで公園のブランコを立ちこぎしてる気分だった。それから災害報道をみた。無惨だった。わたしは歴史をよんでいる。だからいえるのだが、この国の人々はこのような惨事に何度もあっている。そしてどうするか一定のパターンがきまってる。なくなった人を悲しみ、諦め、やがて運命をうけいれる。こんな簡単にいってしまうのは失礼な気がするが、しようがないと思う。ところが、原発事故だけがちがった。こんなに長引き、はっきりと割り切れないものか。影響が世界にまでおよんだ。わたしは必要があって放射線安全について勉強したことがある。その話しである。
まず原則論。人体への障害について、閾値(しきい値)というものがある。これは、これ以上なら障害がでるが、それにたっしないならあらわれない、という値である。つまり、しきい値にたっしない放射線ならいくら被爆しても安全だという値である。こういう値があるのか、というと、ない。より正確には、安全のため、ないという前提で放射線安全を考えようというのだ。これが議論をものすごく複雑にしてる。また、具体的値は呼び名も数値もかわっているようなのであげない。
一般人には年間線量を設定、放射線作業従事者にはそれよりも高い線量を設定する。何故か。これは一般人は原発、レントゲンによる胃の検査などから間接的に利益をえる。しかし原発や非破壊検査などで放射線作業に従事する従事者はより直接の利益をえている。さらに必要な放射線管理もおこなっている。こんな理由である。なお、ここでは高線量の被爆は問題にしない。その説明である。
チェルノブイリで1986年に原発事故がおきた。炉心が溶融した。この事故後に現場に立ち入った専門家はすぐ頭がいたくなった。その後この人はしんだと思う。ラジウムをつかった非破壊検査をする時、安全を無視したあつかいをすることがあった。ラジウムの針をお尻のポケットにいれておいた、従事者が甚大な被害をこうむった。放射線は熱線による火傷をひこおこすのと同じだそうだ。こんなものはここで問題にしない。低線量の話しである。
放射線は細胞のDNAにはたらいて、突然変異をひこおこしたり、ガンの原因となる。ショウジョウバエの突然変異の研究では放射線をあてた。どんな低線量であっても、それはガンになる原因となる。これが放射線安全の出発点だ。じゃあどうすればいいんだ。ここからがややこしい。
1) 仮にガンになったとする。それが、どの放射線によるものか特定できない。それどころでない。現代社会では、自動車からの排気ガス、食品にふくまれる添加物、タバコにふくまれるニコチンなどガンの原因となる物質があふれている。これによるかどうかも特定できない。だから、利益と被害の関係で割り切り、という考えがでた。
2) 一般人と放射線従事者とは異なる線量やちがう管理をもうける、という考えだ。
この時よんだ教科書では、人々は利益と危険を合理的に判断し、無意識のうちに自分の行動を選択しているのだ、とおしゃっておられた。そんなものか。気がつかないわたしが変なんだなと、思った。が、しかし福島事故がおきた時、世界中の人は日本に旅行して大丈夫か、日本からの食物は安全かと心配しだした。放射線安全の基準はICRP(International Commission on Radiation Protection)によりさだめられ世界共通である。それを世界の人々、特に欧米の人々は当然のこととしてうけいれていると思っていた。ところがこの騒ぎである。無意識のうちに合理的判断をしてるなんて、もろいものだと思った。つまり、これだけで人々の不安は解消されない、ということだと思った。で、どうするんだ、である。
で、どうする
わたしがよんだ教科書は古い。でも基本的にはかわってないようだ。福島事故のあと注意してみたが、気がつかなかった。で、この考えで話す。わたしがどうするか、である。
1)わたしは、老人、男、子どもをつくる気がない。なので、全然気にしない。
それには充分な理由がある。
2) 老人はストレスによわい。くよくよすると、それだけで寿命をちじめる。年をとれば誰でも体内にガン因子をかかえこむ。これがストレスによって発現する。老人のガンもまた老人だ。老人にとりガンでしぬか、寿命でしぬかは、競走だ。どっちが先でもさほどの差がない。まあ、このほかはつけたしみたいだが、いう。
2) 自分がどう生きるかが基本だ。年をかさねたのだから、行動選択の基準としてもっていなければいけない。チェルノブイリの専門家も現場にはいらねばならなかったから、はいった。当然の選択だった、と思う。福島でくるしんでる人をささやかだが助けたい。東北の仙台のリンゴだったと思う。みかけたので購入した。福島のにも同じような行動をとるだろう。世の中には 不安商法があるらしい。不安をあおると売上がふえるらしい。わたしの心がよごれているのかな。この出版にその臭いがする。わたしは、この漫画をよまない。前の町長さんの発言に、被害でくるしんでいる人々を助けたいとの気持があると思うが、政治的思惑もかんじてしまう。くるしんでいる人々をさらにくるしめることのないように注意しようと思う。さて、結論である。
結論
放射線安全は、その人の生き方の反省まで必要とする、ややこしい複雑な問題である。ここで一般の人々のために、まとめた。
1) 自分の生き方を反省する。何が大切なのを考える。つまり必要もない被曝はさける。
2) 世の中には必ず、責任者、担当者がいる。どんなことをいってるか、たしかめる。絶対安全などという基準はない。しかし、安全の基準がある。これが出発点だ。
3) 専門家のさまざまの意見も必要があればきく。そこからたしかな事実をつかむ。
4)さわがないで、自分できめる。
これからは、わたしの助言である。参考にしてほしい。
子ども、妊娠可能な女性はできるだけ、被爆をさけたほうがよい。35歳までは、レントゲンによる胃の検診はさけたほうがよいという研究があった。これは、若い人で胃がんがみつかっても、進行が早く治療の効果がひくい。それより被爆によりガンとなる危険性の方がたかいからという。
鼻血 [脱原発]
福島原発事故の影響はほうぼうに、ひろがり、今なおつづいている。ドイツは2022年までに原発をすべて廃止、再生可能な自然エネルギーに代替するとの政策に突入した。2011年からみて、今ドイツがどうなってるのか。週刊新潮に在独の川口マーン恵美氏が報告してる。
結論は大失敗。政府の助成策により風力と太陽光の発電能力は700万kw(キロワット)となった。これは冬場需要のピーク時、800万kwの90%にたっする。ところが自然条件に左右されるので年間稼働率は20%を下まわっている。それを実は火力発電がおぎなう。そのためCO2排出が極端に増加。それは電気料金の上昇という形で負担となる。大企業は 優遇策がある。裕福な一般家庭は風車や太陽発電パネルを付設し、売電ができる。結局のところ一般庶民がそのコストを負担するという状態だという。送電の実情をみても問題山積である。
需要に関係なく発電される。過剰に供給される電力は捨て値でうらねばならない。ヨーロッパ全体の送電に影響している。どんどんと送電されては隣国がこまる。そのため電力遮断装置が設置されているという。だったらやめればいいじゃん、となりそうだが、中央政府はそうしたいらしいが、州政府は助成策の廃止に反対、風車や太陽光発電を提供する企業も反対らしい。わたしはこれで二度目だなと、思った。ドイツの家庭では石炭で暖房する。酸性雨がうまれる。美しいドイツの森が禿山となる。緑の党が政権をとって、脱原発に舵をきった。だが数年後企業が国際競争力低下に悲鳴をあげた。政策が転換された。だが、福島原発の事故でまた、脱原発が復活した。
理知的なドイツ人だが、環境保護にロマンをかんじるらしい。日本でも福島以降、脱原発が盛りあがってるようだ。まず薄っぺらな反論だ。大量の風力発電は風向きをかえる。あるいは風をなくする。これは自然破壊だ。太陽光発電パネルの製作には石油を消費する。どれも環境保護にぶつかる。アメリカから飛行機にのってやってきて、歌って踊って原発反対は、大量に消費した石油と環境保護をはかりにかけて、どれほどのメリットがあることやら。必要もなく自動車を運転することも、ゴールデンウィークにどっと海外旅行にでかけるのも、どれほど環境保護を考えてるのか。冬場、電車の中でお尻がヤケドするほど熱くなって平気でいる人もどうもあやしげだ。この国にはあやしげな環境保護者がいるようだ。話しがかわる。
政府のやることの大半はただしい。あるいは合理性がある。それを揺さぶるの は簡単じゃない。原発はかっこうのネタだ。たしかに、間違えたらとんでもない。間違えないようにしてるから、今がある。でも千年、五百年に一度といった地震がきたら大丈夫とはいいにくい。攻める方は簡単だ。そういってながらもまず、おきないから本当は安心して攻めているようだ。それで政権がころがりこんだら、儲け物だろう。原発問題は経済や学問の問題より、政治の問題だと思う。さて、結論である。
結論
日本のやり方にあってるのは漸進主義である。ドイツのやり方をありがたがる必要はない。いい所があれば取りいれればよい。もし素晴らしい成果があがったら、立派と褒めればよい。ドイツ人は間違いに気がついたら、政策を転換するだろう。
結論は大失敗。政府の助成策により風力と太陽光の発電能力は700万kw(キロワット)となった。これは冬場需要のピーク時、800万kwの90%にたっする。ところが自然条件に左右されるので年間稼働率は20%を下まわっている。それを実は火力発電がおぎなう。そのためCO2排出が極端に増加。それは電気料金の上昇という形で負担となる。大企業は 優遇策がある。裕福な一般家庭は風車や太陽発電パネルを付設し、売電ができる。結局のところ一般庶民がそのコストを負担するという状態だという。送電の実情をみても問題山積である。
需要に関係なく発電される。過剰に供給される電力は捨て値でうらねばならない。ヨーロッパ全体の送電に影響している。どんどんと送電されては隣国がこまる。そのため電力遮断装置が設置されているという。だったらやめればいいじゃん、となりそうだが、中央政府はそうしたいらしいが、州政府は助成策の廃止に反対、風車や太陽光発電を提供する企業も反対らしい。わたしはこれで二度目だなと、思った。ドイツの家庭では石炭で暖房する。酸性雨がうまれる。美しいドイツの森が禿山となる。緑の党が政権をとって、脱原発に舵をきった。だが数年後企業が国際競争力低下に悲鳴をあげた。政策が転換された。だが、福島原発の事故でまた、脱原発が復活した。
理知的なドイツ人だが、環境保護にロマンをかんじるらしい。日本でも福島以降、脱原発が盛りあがってるようだ。まず薄っぺらな反論だ。大量の風力発電は風向きをかえる。あるいは風をなくする。これは自然破壊だ。太陽光発電パネルの製作には石油を消費する。どれも環境保護にぶつかる。アメリカから飛行機にのってやってきて、歌って踊って原発反対は、大量に消費した石油と環境保護をはかりにかけて、どれほどのメリットがあることやら。必要もなく自動車を運転することも、ゴールデンウィークにどっと海外旅行にでかけるのも、どれほど環境保護を考えてるのか。冬場、電車の中でお尻がヤケドするほど熱くなって平気でいる人もどうもあやしげだ。この国にはあやしげな環境保護者がいるようだ。話しがかわる。
政府のやることの大半はただしい。あるいは合理性がある。それを揺さぶるの は簡単じゃない。原発はかっこうのネタだ。たしかに、間違えたらとんでもない。間違えないようにしてるから、今がある。でも千年、五百年に一度といった地震がきたら大丈夫とはいいにくい。攻める方は簡単だ。そういってながらもまず、おきないから本当は安心して攻めているようだ。それで政権がころがりこんだら、儲け物だろう。原発問題は経済や学問の問題より、政治の問題だと思う。さて、結論である。
結論
日本のやり方にあってるのは漸進主義である。ドイツのやり方をありがたがる必要はない。いい所があれば取りいれればよい。もし素晴らしい成果があがったら、立派と褒めればよい。ドイツ人は間違いに気がついたら、政策を転換するだろう。