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ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の3)



* ペリクリースの登場
彼は議会を説得し、彼がやりたいことを実現する。それをほとんど成功させる能力以外に何も変更はなかった。彼はまもなく重要な問題にぶつかるが、それは後述する。紀元前四四九年の戦争の話しをつづける。紀元前四四九年、和平の交渉があった二年後にスパルタはフォシス(Phocis)の都市国家フォシスを攻撃した。ふたたび中部ギリシャのことである。そこまで、どのように進軍していったのかはわからない。だがデルファイの神託への支配を取りもどした。隣国のフォシスの人々から取りもどした。彼らは長年にわたりデルファイの神託への支配をその神官たちからうばおうとたびたびこころみてた。

スパルタがたたかったのはこの神官のためだった。フォシスをやぶり、本国にかえった。二年後の紀元前四四七年、アテネは陸軍をそこに派遣した。アテネはフォシスと同盟をむすび、デルファイの神託を取りもどし、フォシスにわたした。これは和平がうまく機能してない証拠である。両者は将来にわたり平和裏に共存する方法を見つけてない。紀元前四四六年、一連の動きがあった。それは一時的にせよあったギリシャ世界の平和と均衡をみだすものだった。

* ビオーシャの寡頭政治の復活
まず、ビオーシャの寡頭政治政府の反乱があいついだ。彼らはアテネに同調する民主主義政府を追いだした。突然、ビオーシャは敵対地域、もはや友好地域でなくなった。アテネにとり問題のある場所となった。アテネではどうするべきか議論が巻きおこった。ペリクリースはいう。何もしない。アテネは強力な相手に地上作戦をおこなう力がない。やってみても、ビオーシャを維持することができない。ビオーシャの思惑でうごくにまかせるという。それに対抗する将軍がいた。アテネの将軍である。おどろくのは彼の名前である。アテネの歴史に突然登場する。小説にでも登場するような名前、人々がしると笑いだすようなものである。トーメディズ(Tolmades)、これはギリシャ語のtolmao、禿ると蛮勇をふるうの意味である。彼はビオーシャに進軍しアテネのために土地をうばいかえした。言いかえると彼はこの問題についてはペリクリースとの論爭にかったのである。当然だが彼が議会の承認なしでこんなことを実行できるはずがないからである。しかしアテネ人は正気をうしなったのだろう。そこにいってビオーシャをやぶり、その土地をうばいかえそうといった。トーメディズはとんでもない敗北をきっし、甚大な犠牲者をだした。ビオーシャはこれきりもどってこなかった。

ところで、トーメディズがころされた戦いはコロニア(Coronea)である。アテは中部ギリシャから追いだされた。私がえがいた栄光にみちた絵は敵対する北部の軍隊によりよごされた。おきたことはこれだけでない。アテネで問題がおき、弱体化した。脆弱化し、敗戦の危機もあらわれた。突然、ちまたにいた不幸な連中がこの機会にとびついた。

* ユビアの反乱
アティカの東にあるユビアの島で反乱がおきた。これはペリクリースの観点からもでも致命的であった。彼は帝国における島の反乱を放置できない。海における支配をおびやかす。彼はその独立をゆるさないというのでなく、帝国において反乱を成功させることができない。といのは、それが他の反乱をよび、拡大してゆくという意味である。

彼らはエジプト敗戦後に反乱の気運がたかまるなか、戦いをとうして道を切りひらかねばならなかった。ペリクリースは自ら軍を引きい、艦船にのりユビアにゆき、屈服させた。彼がユビアにいっているあいだに、すでにのべたがビオーシャの敵対気運がたかまり、メガラで反乱がおきた。この同盟は常に非常にあやふやなものだった。過去の二つのことを指摘する。両者は数百年のあいだ、きびしい敵対関係にあった。つまりその同盟は不自然である。時の勢いでむすばれた合意である。メガラのなかにはこれに反対する多数の人々がいる。機会をうかがい彼らはうごく。もう一つの点である。アテネはまとまってない。彼らの軍が別のところにいる。

* メガラの反乱の動き
ペリクリースは非常に危険な事態とおもった。もしメガラの反乱が成功したなら、彼らはスパルタの侵入から防禦がなくなる。そう予測して当然であり、実際のそうおきた。ペリクリースはユビアの反乱をおさめた後に、ただちにアテネにもどり、侵入してきたペロポネソスを向かえうった。これはアティカの北の平野であった。

スパルタが侵攻した。ペリクリースはアテネの陸軍を引きいた。これはアテネが敗北する場面である。というのはペロポネソス側は数でまさってるだろう。彼らの軍の優秀さがここで発揮されるだろう。だが我々はここで簡単な勝ちをみることはないだろう。アテネはそれがもつたかい戦闘能力をみせたようだ。彼らは勝ちをおさめたのではない。

* 睨み合いから暫定和平
両者は向いあった。まさに戦いがおきようとしてた。突然、スパルタ軍から使節がやってきた。ペリクリースが彼らをむかえた。すこし対話があった。両者はそれぞれの軍にもどった。スパルタを引きいてたのは、王、プライスタイアニクス(pleistoanax)であった。彼はペリクリースと信頼関係のある人物だった。彼は軍をひいてスパルタにもどった。彼らは恒久的な和平を実現するための四ヶ月の和平に合意したとあきらかにした。ここでは何がおきようとしてるのか。スパルタは複雑な経路からこの知らせをうけた。最初の反応はプライスタイアニクスへの怒りだった。何故、アテネ人を殴りつけ徹底的にやっつけなかったのか。最終的には彼や顧問たちの処分がきまった。彼らを追放した。この好機をのがした彼らにたいする怒りだった。

でも結局、またアティカに侵攻したのである。アテネとたたかい、あるいは田畑や家屋を破壊、略奪する。すくなくともアテネ人を不幸にし外にでてたたかわせる。何故彼らはやらなかったのか。たしかにやらなかった。二つの根拠がある。プライスタイアニクスは非常に特別な機会をうしなった。

その時はアテネのすべての前線がばらばらになりそうだった。それがまさに戦いがもとめられてた時である。他方、スパルタはおさえられていた。ユビアは静かになった。アテネはすべてを整理してた。しかし私が最初にいってたことは真実だった。もしその気になればやってきて戦いに持ちこむことができた。だが何故たたかわなかったか。私はペリクリースがプライスタイアニクスにあることが真実であるとみとめさせたからとおもう。

スパルタが冷静になった時に何をするのが合理的とスパルタ人がかんがえたからである。では、もしたたかえば何がおきたか。我々はすこし前にたたかった。そこの何が彼らにおきたのか。あなた(スパルタ)は我々をまかした、だが徹底的でなかった。あなたは戦いでおおくをころした。だがそれを利用して自分の有利につかわなかった。それは、当時の状況よりさらに今日の状況で成立してる真実である。それは、もしあなたが我々をまかすと我々は何をするか、それから真実とわかる。我々は我々の壁にもどる。門からなかにはいる。あなたは我々をくるしませることができない。もし我々がそうおもうなら、たたかわないですませる。それは我々が海上を支配する艦船をもっているからである。我々は同盟国から資金をえてる。それが艦船につかえる。我々が海の支配を維持するかぎり、我々の田畑を略奪しても我々は輸入により必要な穀物を入手できる。

ではあなたはどうするか。あなたは無駄に戦死者をだす。それでもあなたは我々を望みの方向にもってゆけない。この議論をペリクリースがプライスタイアニクスとやったことはないだろう。プライスタイアニクスのやったことをみると戦争をやりたがる人物でない。むしろ機会があればよろこんで戦争をさける。スパルタの軍はそれをできたのに、やらなかった。私はこの考えが彼らには現実感をあたえ、説得力をもったとおもう。それで、四ヶ月の和平が成立した。

* 三十年和平の協定
アテネとスパルタががそれぞれの同盟を代表し交渉にはいった。そして三十年間の和平の協定が締結された。紀元前四四六年から四四五年の冬のことである。和平の条件は、アテネがエーゲ海の外の陸におけるすべての奪取してた土地を放棄する。ただしノーパクティスは例外で奴隷たちにのこす。

一言でいうと誰も公式にみとめないが、アテネが決定した国をアテネの同盟にふくめる。それをスパルタがみとめた。またアテネ帝国を正当なものとみとめたことを意味する。また将来の戦争を防止するためにあたらしい規則をさだめた。ほとんどの協定がそうであるように未来の戦争を防止しようとした。この戦争がどのようにはじまったかを振りかえり再度発生しないよう配慮した。たとえば、この戦争は同盟を変更することからはじまったので、この協定では禁止した。ではこんなことをかんがえる人がいるにちがいない。中立国が一つの側からもう一つにかわったらどうする。さらにこの国が戦略的に重要だったら。これは和平にとって問題にならないたろうか。

* 協定、のこった中立国問題
彼らはそうならないと結論した。というのはどちらの側に参加するのも自由だといった。彼らは問題とかんがえなかった。というのは中立国はどちらに参加するのも自由としたからである。言いかえると、もし中立国が一つの側に参加すると、誰もそれを了承といえない。それは戦争の理由となる。というのはそうならないといえないからである。最後にもっとも気になること、独創的、まったく例をみない独創的な考えがでた。歴史上、かったなかったものである。それは協定の条項である。将来、両方に意見の相違、相手方への不満がうまれた場合の条項である。

この案件は裁定者に申しでて決定しなければならいというものである。ここで注意するうが、これは、ではもう一度話しあおうというよううな仲介者のことをいってない。それは権限と任務をもち、正誤の判定をする裁定者についてはなしてる。もし、この条件がまもられるなら論理的には両者の側に戦争はおきないといえる。これはおどろくべき考えである。私はこれは、何度もかんがえたが、証拠はないのだが、ペリクリースの考えとおもう。

というのは、私は普通でないこと、前例のないことすべてにはペリクリースがからんでるという意味である。彼はそういう考えをもつ人物である。発想がゆたかでふるくからの問題をあつかう、あたらしいやりかたを容易にみつける人物であるからである。私はこれは彼の考えであり、この方法が将来、戦争の危機がせまった時に意見の相違を調停することになる。それしかないとかんがえていたとおもう。この裁定による方法があって、紀元前四三一年にしめした彼の立場をよく説明することになるとおもう。これは非常に重要なことである。

私はスパルタがこの方法にどのようにかんじてたかしらない。あるいは彼らが将来どのようになるかしってたかをしらない。実のところ彼らはしらなかった。しかし彼らはこの協定に合意した。それが両方が誓約して三十年間、まもらねばならない協定であった。この三十年の協定、私はこれをツキジデスをしらべてその議論をもとに評価しなければならない。それについてはなす。

* 和平のいろいろ
すなわち、和平があった。いろいろとあった。それらはおなじものでない。私はあなた方のために三つの和平の種類をしめす。このどれにはいるかをしめす。第一次大戦、いやベルサイユ(Versailles)の平和、これは専門家からカルタゴ(Punic)の平和といわれる。彼らは第二次カルタゴ戦争でハンニバル(Hannibal)とむすんだ和平についてはなしてる。しかしカルタゴの都市がほろびた第三次カルタゴ戦争ではない。

そこではころされなかったカルタゴ人が追放された。田畑は破壊され潮をまかれた。そこでは何もそだたないとかんがえられた。これがカルタゴの和平である。その和平は、もはやその国とは戦争をすることはない。もはや何も存在しないからである。これが一つの極端な例である。もう一つの極端な例である。勝者側がきびしい和平を押しつけることができる。だがよりおだやかな和平をあたえる。それは相手側と将来の友好関係を希望してのことである。それは相手を信頼しておこなう。時には破壊をともなわない。

このような例がある。敗者側は弱体化させる。それは将来に問題がおきないといえるまでにおこなう。またこんな和平がある。ウェストフェリア(Westphalia)、欧州の三十年戦争がおわり一六四八年にむすばれたもの。そこでは誰もが敗者となってない。それとともに明確な勝者もいない。すべての者が戦争により予想もしない費用をついやし、もはやそれ以上の戦争をつづけられなくなった。妥協せざるをえなくなった。

この和平がつづくかはわからない。将来の状況の変化による。では、たぶん最悪といえる種類の和平がある。プロシア人(Prussians)が一八七〇年にフランス人に押しつけた平和である。普仏戦争の後に押しつけたもの。そこでの大問題はアルザス・ロレーヌ(Alsace-Lorraine)をフランスからうばい、ドイツに編入した。それと同時にフランスを二度と脅威とならないようにきびしくはあつかはなかった。しかし予想可能な将来、もしかしたら永遠かもしれないが、フランスがいかり、不満をもち、どうしてもアルザス・ロレーヌを取りもどそうとする、それは戦争にまでいたらないかもしれないが、それを予想できた。

ある程度、それは本当だった。だがもっともたしかな証拠は一九一四年までにフランスがアルザス・ロレーヌを放棄してた、また人々はそれがフランスが戦争にむかう理由となるといってた。だがそれは事実ではない。しかしまたそうしんじてたフランス人もいた。しかしバランスをとってそうならなかった。私がしるもっとも不満がのこった和平の例はベルサイユの和平である。それは第一次大戦をおわらせたものであるが。そこではドイツが非常にきびしくあつかわれた。彼らの意見ではそうである。だが、それはもっときびしいあつかいもあったが、拒否された。そうはいっても彼らはおおくの領土をうしなった。また制約をかけられた。しかし恒久的な損失をあたえる制約、ドイツが復興した時に、協定の決定をくつがえすことができない。これを確保するような制約はかせられなかった。

これはこんなひどい状況でもっあた。敗戦側は和平に完全に不満がのこり、それをやぶろうとする方向にむかえるほど強力であった。

* 三十年和平の評価
さて、こららの例では三十年の和平はどれに整合するか。もっともちかいのはウェストフェリアである。両方はどちらも満足しなかった。納得のいかない戦争、危険をもたらすもの。どちらの側も予測しないような危険をもたらすものである。またその時の軍はこの戦いをここでおわらせる利益があるとかんじてなかった。どれほどど利益がえられるかがが鍵だった。

これで和平は可能となるだろう。これでこれからのペロポネソス戦争は不可避でなくなる。学者はいまも議論してる。ツキジデスはどうか。彼はさけられたといったと私はおもう。おおくの学者もそうおもってる。幾人かの人々はちがうという。でもそれらは学者がそういってる考えを反映してる。私は否、さけられなかったとおもう。その理由であるが、これまであなた方にしめした事由による。これが重要であるが、客観的な状況が影響することが重要ではあるが、意図が重要とおもう。ここが歴史家と政治学者との見解がわかれるところである。

* 政治学者と歴史家の違い
政治学者は意図におもきをおかない。自動的というか、体系的にかんがえる。彼らはそのようにかんがえるのをこのむ。国同士はビリヤードの玉のようにぶつかる。その内面には立ちいらない。その内部は人々で構成されてない。党派で構成されてない。国々はそうならねばならないことをする。それは卓上のおかれた状況の必要のとおりにうごく。

歴史家は関係する人々がどうしたいとおもってたか、どうしたくないか、誰にはたらきかけようとしてたかをかんがえる。これをこのむ。これが正統な歴史家である。そんな歴史家を見つけるのはどんどんむずかしくなってるのであるが、あまりにもおおくの政治学者が歴史家のなかにかくれている。ここで鍵となる質問である。この和平がつづくのにこれら人的要素が関係するのか、これが鍵と私はおもう。ここでの演者はどうかんじてるのか。これがこれからおきることを彼らがどのようにみてるのか。和平をもとめてるとしてどうかんがえてるのかである。あるいは彼らは避けがたいとおもったのでただ現状を受けいれたのか。私は証拠からおもうのだが、条約を締結した人々は戦争より平和がよいという考えを受けいれてたとおもう。

そして彼らは戦争がおきるのをより困難とするのに努力しようとした。ペリクリースは、私はおもうが、紀元前四三一年になるとはっきるするが、そうしてたとおもう。だが、私はそれは平和を志向した党派だったとおもう。ではまた、スパルタでは保守的で、将来の戦争の可能性を拡大することに抵抗をしめす人々がいたとおもう。そして私はそれがスパルタの正常な党派であるとおもう。

これはすべて議論のいるところだが、スパルタの正常な状況だと私はおもう。もし和平をやぶろうとしたら、何かが、あるいは出来事、状況、恐怖、好機、これらが次々とおきて*和平をやぶる事態とならねばならない。では私は私の考えをはっきりとのべる。もう一つの戦争が必然である。ではそういう人は戦争が勃発し、和平がやぶられたという理由を明確にする責任がある。これが次にのべること。紀元前四四五年から四三一年の状況をしらべる。そこで和平に問題がうまれ最後に和平がやぶれる前の状況についてのべる。これが次回にのべることである。
(3の3、おわり)

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ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の2)



* コリンスのアテネへの憎悪
これでコリンスがアテネにけしがたい憎悪をもつ。そのはじまりである。というのはこの両者の関係をみる。するうとそこで彼らはかならずしも非友好的でなかった。現状を容認し問題なしとしたことがあった。しかしこれからはおおきな問題をかかえることとなったのである。

これはツキジデスの著作をよむことでわかるが、紀元前四三一年の戦争、これは大ペロポネソス戦争であるが、これを引きおこすのにコリンスが決定的役割をはたしたのであるといってる。これがアテネの決断がはらわねばならなかった一つの結果である。もしツキジデスの判断を大ペロポネソス戦争にあてはまると、またこの状況にあてはめると、非常にうまく適合するようにおもえる。彼はアテネの拡大してゆく力はスパルタのおそれを引きおこしたと、いった。それを強硬措置て増大させたと、彼はいった。アテネの力が拡大したことは間違いない。

アテネがメガラとむすんだ同盟により地政学的優位性を獲得した。これは突然、アテネを巨大なものにし、スパルタがおれるようになったのは間違いがない。究極的にアテネとの戦争を決意するほどの脅威となった。私は第一次ペロポネソス戦争についていうならツキジデスとおなじ意見である。私はこのことを問題にしてるわけでない。一つのおおきな疑問がある。大ペロポネソス戦争についてだが、これがあてはまるのか。彼の評価がこの戦いにあてはまるのか、である。私はまずあきらかにしておくが、ほとんどの学者は大ペロポネソス戦争のツキジデスの評価と解釈がただしいとみとめている。しかし私は同意しない。

彼は私とちがうところにいる。私よりおおくをしってる。彼は私よりずっとかしこい。私が彼が間違いというなら、それで私の判断の評価に貴重な材料をえるだろうとおもう。我々はこの戦争につきここで詳細をのべないが次のことをいっておく。アテネは戦いの火蓋をきった。概していうとアテネは海でたたかい、そこで勝利した。陸でたたかう時はそうでなかった。数年間も継続するおおきな戦いはなかった。戦いのほとんどはペロポネソスの東南部とその周辺でおきた。どれも決定的なものはなかった。紀元前四五七年だが、これらの時期はすべて不確定、海についてはぼぼ定説があることををことわって、すすめる。アテネはエジプトの支配者から招待状をもらった。彼らはペルシア帝国に反乱をおこそうとしてた。彼はアテネに援軍をよこすようもとめた。アテネは同意しツキジデスによれば二百艘の艦船をおくった。この当時としては巨大な艦隊である。当時、アテネが保有する艦船はそれよりおおきかった。彼らはこれだけの艦船をおくる能力をもってた。しかし彼らにとって相当の大事業だったとおもう。これだけのことを何故したのか。それはエジプトからえられる利益がおおきいとおもってたからである。エジプトは地中海において巨大な穀倉である。アテネは常に穀物の供給源について関心をもってる。

* エジプトの反乱
エジプトは肥沃な土地をもち夢のように富裕である。アテネが分け前にあずかるなら利益となる。また公式にはアテネはまだペルシアと戦争状態である。ペルシアがえている利益をはがして、もってこようとするのはまったく問題がない。これらからその決定は充分に理解できる。もう一つの問題がある。あなたはペロポネソスのいくつかの国との戦争に巻きこまれてる。スパルタはまだ行動にでてないが、それを予想できる状況にある。そこでまたペルシアとの戦争に踏みだすよい時期といえるのか、である。

で、彼らはできるとかんがえた。彼らが当時は自信過剰になってた。その証拠があるとおもう。それが自信過剰だったことはこれからしることとなる。これらは、ギリシャ人の感覚、ギリシャ人の理想、ギリシャ人の宗教、そして神話にみごとに適合する。これは無神論者のツキジデスでなく、ヘロドタスがかくならば、みごとな実例となるものだった。

ところでツキジデスが無神論だったとの確証はないが、非常に懐疑的だったことは間違いない。彼らがそうなるのが充分ありそうな状況だったから、ヘロドタスなら傲慢についておおいにかたったことだろう。エジプトにおけるアテネの軍の活動は当面わすれて、紀元前四五七年の状況についてみてみる。ここで我々はたしかな証拠がある。それは埋葬時にのこされた碑文である。アテネの一つの氏族のものだが、彼らがたたかい、死亡し、それを名誉におもってのこしたものである。

* 傲慢さをみせるアテネ
彼らが男の英雄的行為を誇りとしてたとおもう。彼らは、それまできいたことのない、登場したことのない土地でたたかった。その宏大さについてもまた誇りとしてたとおもう。それはエジプト、フェニキア、ハリエス(Halias)、これはペロポネソスの北部の都市である。アジャイナ(Aegina)、サロン湾の沿岸にあり、アテネの対岸にあたり、アテネの宿敵である。そしてメガラ。このおなじ時期にたたかった土地である。これは猿人が自分がいかにつよいかを胸をたたいてしめす実例である。これは傲慢をしめす。そして神による天罰をよぶものといえる。だがただちに天罰はくだらない。そのかわりに勝利である。アジャイナ、その島がアテネにより奪取された。アジャイナはつよい海軍をもってた。

アテネは敵からつよい海軍力をうばい自軍にいれた。間違いなく制海権、これはもうすでにもっていたが、さらに強固にした。誰も海で彼らにかなうものはいない。メガラとの同盟があり、北西部の完全な安全をえた。それだけでない。最後に、私の推測だが、スパルタはこれらがおきたこと、アテネの拡大する力に恐怖をかんじ行動をおこした。ちいさな手をうってきた。その決定的要ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の2)

* コリンスのアテネへの憎悪
これでコリンスがアテネにけしがたい憎悪をもつ。そのはじまりである。というのはこの両者の関係をみる。するうとそこで彼らはかならずしも非友好的でなかった。現状を容認し問題なしとしたことがあった。しかしこれからはおおきな問題をかかえることとなったのである。

これはツキジデスの著作をよむことでわかるが、紀元前四三一年の戦争、これは大ペロポネソス戦争であるが、これを引きおこすのにコリンスが決定的役割をはたしたのであるといってる。これがアテネの決断がはらわねばならなかった一つの結果である。もしツキジデスの判断を大ペロポネソス戦争にあてはまると、またこの状況にあてはめると、非常にうまく適合するようにおもえる。彼はアテネの拡大してゆく力はスパルタのおそれを引きおこしたと、いった。それを強硬措置て増大させたと、彼はいった。アテネの力が拡大したことは間違いない。

アテネがメガラとむすんだ同盟により地政学的優位性を獲得した。これは突然、アテネを巨大なものにし、スパルタがおれるようになったのは間違いがない。究極的にアテネとの戦争を決意するほどの脅威となった。私は第一次ペロポネソス戦争についていうならツキジデスとおなじ意見である。私はこのことを問題にしてるわけでない。一つのおおきな疑問がある。大ペロポネソス戦争についてだが、これがあてはまるのか。彼の評価がこの戦いにあてはまるのか、である。私はまずあきらかにしておくが、ほとんどの学者は大ペロポネソス戦争のツキジデスの評価と解釈がただしいとみとめている。しかし私は同意しない。

彼は私とちがうところにいる。私よりおおくをしってる。彼は私よりずっとかしこい。私が彼が間違いというなら、それで私の判断の評価に貴重な材料をえるだろうとおもう。我々はこの戦争につきここで詳細をのべないが次のことをいっておく。アテネは戦いの火蓋をきった。概していうとアテネは海でたたかい、そこで勝利した。陸でたたかう時はそうでなかった。数年間も継続するおおきな戦いはなかった。戦いのほとんどはペロポネソスの東南部とその周辺でおきた。どれも決定的なものはなかった。紀元前四五七年だが、これらの時期はすべて不確定、海についてはぼぼ定説があることををことわって、すすめる。アテネはエジプトの支配者から招待状をもらった。彼らはペルシア帝国に反乱をおこそうとしてた。彼はアテネに援軍をよこすようもとめた。アテネは同意しツキジデスによれば二百艘の艦船をおくった。この当時としては巨大な艦隊である。当時、アテネが保有する艦船はそれよりおおきかった。彼らはこれだけの艦船をおくる能力をもってた。しかし彼らにとって相当の大事業だったとおもう。これだけのことを何故したのか。それはエジプトからえられる利益がおおきいとおもってたからである。エジプトは地中海において巨大な穀倉である。アテネは常に穀物の供給源について関心をもってる。

* エジプトの反乱
エジプトは肥沃な土地をもち夢のように富裕である。アテネが分け前にあずかるなら利益となる。また公式にはアテネはまだペルシアと戦争状態である。ペルシアがえている利益をはがして、もってこようとするのはまったく問題がない。これらからその決定は充分に理解できる。もう一つの問題がある。あなたはペロポネソスのいくつかの国との戦争に巻きこまれてる。スパルタはまだ行動にでてないが、それを予想できる状況にある。そこでまたペルシアとの戦争に踏みだすよい時期といえるのか、である。

で、彼らはできるとかんがえた。彼らが当時は自信過剰になってた。その証拠があるとおもう。それが自信過剰だったことはこれからしることとなる。これらは、ギリシャ人の感覚、ギリシャ人の理想、ギリシャ人の宗教、そして神話にみごとに適合する。これは無神論者のツキジデスでなく、ヘロドタスがかくならば、みごとな実例となるものだった。

ところでツキジデスが無神論だったとの確証はないが、非常に懐疑的だったことは間違いない。彼らがそうなるのが充分ありそうな状況だったから、ヘロドタスなら傲慢についておおいにかたったことだろう。エジプトにおけるアテネの軍の活動は当面わすれて、紀元前四五七年の状況についてみてみる。ここで我々はたしかな証拠がある。それは埋葬時にのこされた碑文である。アテネの一つの氏族のものだが、彼らがたたかい、死亡し、それを名誉におもってのこしたものである。

* 傲慢さをみせるアテネ
彼らが男の英雄的行為を誇りとしてたとおもう。彼らは、それまできいたことのない、登場したことのない土地でたたかった。その宏大さについてもまた誇りとしてたとおもう。それはエジプト、フェニキア、ハリエス(Halias)、これはペロポネソスの北部の都市である。アジャイナ(Aegina)、サロン湾の沿岸にあり、アテネの対岸にあたり、アテネの宿敵である。そしてメガラ。このおなじ時期にたたかった土地である。これは猿人が自分がいかにつよいかを胸をたたいてしめす実例である。これは傲慢をしめす。そして神による天罰をよぶものといえる。だがただちに天罰はくだらない。そのかわりに勝利である。アジャイナ、その島がアテネにより奪取された。アジャイナはつよい海軍をもってた。

アテネは敵からつよい海軍力をうばい自軍にいれた。間違いなく制海権、これはもうすでにもっていたが、さらに強固にした。誰も海で彼らにかなうものはいない。メガラとの同盟があり、北西部の完全な安全をえた。それだけでない。最後に、私の推測だが、スパルタはこれらがおきたこと、アテネの拡大する力に恐怖をかんじ行動をおこした。ちいさな手をうってきた。その決定的要素は中部ギリシャの小国、ドリス(Doris)があたえた好機である。これはドリアン(Dorian)の言葉の起源となる国である。理論的にはすべてのドリアン人の先祖にあたる都市である。スパルタとはあきらかに友好的関係にあった。彼らは隣国のどこかと問題を引きおこした。典型的なギリシャの都市国家間の紛争である。スパルタに援軍をおくるようもとめた。

* スパルタ、ドリスに援軍
私はスパルタが通常のやりかたをとったかどうか確信がない。というのほ、そうすれば中部ギリシャと対決をすることとなるからである。アテネがメガラでやったことをかんがえると、彼らは徒歩で進軍することはできないはずであるからである。惟一いえるのは、船にのってコリンス湾をわたりそこにゆくことである。しかしアテネあるいはノーパクティスを占拠してる奴隷たちから発見され軍は攻撃され艦船は沈没させられるからである。

この方法は秘密裏に渡航する必要がある。通常ではありえないとおもう。だが通常でないのかもしれない。歴史家、シシリーのダイオドロスがこういってる。ツキジデスはふれてないが、シーブス(Thebes)、ビオーシャの指導的立場にある都市、これは常に野心をもちビオーシャの覇権をねらってる。そして常に反抗する。シーブスがこの機会にスパルタの援助をもとめた。彼らがスパルタにこういった。

* スパルタ、シーブスと関係をふかめる
スパルタがやってきて、シーブスがビオーシャの支配を強化するのをたすけるならば彼らはアテネの攻撃に参加する。だから、同意したからスパルタがやってこれたと私はおもう。彼らはそして、ドリスの問題をあつかうより大量の軍をつれていった。ただちにたたかいの場所にいった。どうおもうか。彼らはビオーシャとともにはアテネの国境にやってきた。タナグラ(Tanagra)という都市のちかくである。もちろん、スパルタはコリンス湾をひそかに渡航した。どうしてアテネや奴隷たちが気づかなかったのか疑問かもしれない。それはスパルタがこんなことをやったことがなかったからと私はいう。とにかく彼らはやってきた。

* タナグラでの戦い
戦いがおきたが、戦力についてである。スパルタは一万千人をおくった。これは彼ら自身とペロポネソス同盟のもつ戦力よりおおきい。彼らとビオーシャを集結させたものである。ビオーシャは優秀な戦士たちである。アテネもこれに対抗する軍をおくった。その大部分はアテネの陸軍からなる。これはギリシャの水準からいうと極めて大規模な戦いである。その結果はほぼ引き分けだった。とはいえ技術的な判定ではスパルタの勝利である。彼らは戦いがおわった時にその優位をたもった。兜(trophy)を戦場にたて、彼らの死者をあつめた。

アテネは戦場にもどり彼らの死者をあつめる許可をもとめた。だから重装歩兵の戦闘のやりかたからいえばスパルタの勝利は間違いない。だが戦略的な観点からと、現在の我々の立場からいうと、それは引き分け、あるいはアテネの勝利ともいえる。というのはスパルタはアテネをたおすためにやってきて、アテネがやろうとしたこと、やってきたことすべてをすてさせる。そのための戦いだったからである。

この点で彼らは失敗した。というのは彼らは戦闘においてひどい損害をうけた。さらにこれから戦いをはじめアテネ軍を崩壊させる余力はなかった。スパルタはそのままペロポネソスにもどっていった。アテネもそれを阻止する力はなかった。こんなものだった。あるいはこの後の状況からかんがえるとアテネの戦略的勝利という見方も成立する。というのは、まず、アテネは崩壊してない。実質的に敗北してない。彼らがやろうとしてたことを阻止できてない。その証拠にアテネはスパルタがビオーシャにひいた時に、ビオーシャの軍をオイフォニタ(Oephonyta)とい場所でやぶってる。

* アテネ、シーブスをやぶる
次に、アテネはっビオーシャのすべての都市国家、アテネに友好的なものだが、そこにおいて民主主義政府の樹立に成功した。ここで私は冷戦時代との比較をしたい。ソ連の陸軍が優勢だった場所において、ソ連が占領した地域には共産主義政府があった。その政府の役割はソ連の支配の手段として機能するものだった。こんな比較ができるということである。

およその考えはおなじである。その都市国家をうごかす人々はアテネにくみする人々である。つまりアテネはビオーシャで支配的勢力である。ここでしばらく、身をひいてアテネのアクロポリスにたって周囲を見わたす。すばらしい状況にある。まるで一つの国が出来上がったような状況である。北をみれば、今までのべたことからビオーシャをとおした侵略はない。北は安全である。もし北西をみるとメガラは同盟国である。アテネの軍が駐屯する。そこは閉鎖されてる。抜け穴はない。

* アテネ、拡大の極地
だがスパルタがコリンス湾を渡航したことがある。この再来を阻止しなければななない。スパルタとその同盟はペロポネソスに閉じこめられてる。海はアテネが完全に支配してる。私はアテネがアテネとパイリアス(Piraeus)を連絡する通廊の壁の建設を丁度、この時に完成させたことをいってなかった。想像しにくいがスパルタがアティカに侵入することに成功したとしても戦闘にはいる必要はない。彼らに降服する必要もない。というのは誰も壁で防禦された都市をうばう方法をしらない。スパルタもしらない。だから飛行機を発明しなければアテネは完全に不可侵である。

飛行機はそこから二千年も後の発明だ。ということは夢のように安全だ。だから不可侵と断定できる。そこではやりたいことができる。それも誰からも罰もない。私はこれがアテネにとり非常に重要な瞬間だった。またギリシャの歴史においてもそうだったとおもう。そこには自分たちが成しとげたこと、成しとげられること、将来のあらゆる状況にねらうべきことにむかって、けっしておどろかないアテネ人がいた。

ではペロポネソス戦争である。そこでアテネがスパルタと平和を交渉することのできる瞬間がおとづれるのである。戦争で合意し、あるいは拒否することができる。私はツキジデスや他の人々が、彼らは正気をうしなったと示唆してるとおもう。それはたぶん、そうかもしれない。彼らには集中できる何かがある。それはかっておきたことの記憶であり、これからやってくるかもという意識である。

それはおそらく神がゆるさないことである。そのことをあなたも私もしってる。アテネ人はこの状況をくつがえす、とんでもない逆風をむかええた。エジプトから不幸がやってきた。アテネはそこでやぶれた。ペルシアが彼らをやぶった。どれだけの艦船がうしなわれたかおおいに議論があるが、とにかく彼らはおおいにやぶれた。戦略的に重大な敗北である。その損害は甚大で、アテネ帝国のデリアン同盟の国々の反乱があいついだ。しばらくのあいだ、アテネはその鎮圧にいそがしかった。

* アテネ、エジプトでの敗北
ところでこの敗北の時期だが、おそらく紀元前四五五年。この次の年、四五四年、四五三年は確実で、アテネが同盟の金庫をデロス(Delo)からアテネのアクロポリスの上、パルテノン神殿の後ろの部屋にうつした。これは戦いのすぐ後に建築した。もう一つの重要な点である。この金庫の資金は海軍と表面上は同盟目的でつかわれる。この同盟目的だがすでにのべたように彼ら自身の目的につかうことができた。それはセイソスの時におきたことである。だがそれでも艦船と乗員のためだった。ところがアテネはあたらしい方針をきめた。これをどうみるか、私は彼らが帝国をつくったとおもう。

* アテネ帝国の出発
もはやそれは自発的にうまれた連合体というものでない。というのは彼らは毎年、金庫にある資金の六十分の一をとる。これは女神アテナへの貢納金であるが、これはアテネと言いかえることができる。彼らは今や、利益をうばう。同盟国からの税金である。これは将来、どのようにつかうか論議の的になる。彼らはそれは我々の金であり、我々が我々のやりたいようにつかうことができると主張することになる。

二つのことが二つのちがった方向にむかう。同盟におきるすべての問題、これが彼らに同盟の性格をかえざるをえなくする。問題はむずかしい。スパルタとたたかうこと、深刻な段階になってる。アテネ人は追放されてたキーマンを呼びもどした。というのは彼らはスパルタとの和平をのぞんでおり、それにふさわしいのがキーマンであるとおもってたからである。

* キーマンの復活
彼のことだが、彼はもっとはやく再登場との説もあるが、彼が紀元前四五一年に再登場した。というのは十年間の陶片追放が解除されたからである。彼はスパルタと交渉し五年間の和平を実現させた。これは両国が長期の和平の協定の交渉をおこなうとの了解のもとになされた。キーマンはこれを実現させ、陶片追放がどのようにはたらいたかをしめし、彼はただちに将軍にえらばれた。彼はまるで追放されなかったかのようだった。彼はただちに活動にうつった。彼がやりのこしてたことをはじめた。それはペルシアとの戦いだった。

彼は艦隊をつれキプロス(Cyprus)にむかった。その一部分はペルシア領だった。ペルシアとたたかい、それをやぶった。だが不幸にも死亡した。これでキーマンはアテネの政治からいなくなった。これは重大なことである。民衆の支持をえ、カリスマをもち、あたらしく登場してくるアテネの重要な指導者、ペリクリースに対抗できる政治家がいなくなったということである。これはペリクリースが比較的若年であるのに、前例がないほどの影響力をもつ人物となることができた理由でもある。彼があらたな権限を創設したり、軍事的勢力をえたことではない。
(3の2、おわり)
素は中部ギリシャの小国、ドリス(Doris)があたえた好機である。これはドリアン(Dorian)の言葉の起源となる国である。理論的にはすべてのドリアン人の先祖にあたる都市である。スパルタとはあきらかに友好的関係にあった。彼らは隣国のどこかと問題を引きおこした。典型的なギリシャの都市国家間の紛争である。スパルタに援軍をおくるようもとめた。

* スパルタ、ドリスに援軍
私はスパルタが通常のやりかたをとったかどうか確信がない。というのほ、そうすれば中部ギリシャと対決をすることとなるからである。アテネがメガラでやったことをかんがえると、彼らは徒歩で進軍することはできないはずであるからである。惟一いえるのは、船にのってコリンス湾をわたりそこにゆくことである。しかしアテネあるいはノーパクティスを占拠してる奴隷たちから発見され軍は攻撃され艦船は沈没させられるからである。

この方法は秘密裏に渡航する必要がある。通常ではありえないとおもう。だが通常でないのかもしれない。歴史家、シシリーのダイオドロスがこういってる。ツキジデスはふれてないが、シーブス(Thebes)、ビオーシャの指導的立場にある都市、これは常に野心をもちビオーシャの覇権をねらってる。そして常に反抗する。シーブスがこの機会にスパルタの援助をもとめた。彼らがスパルタにこういった。

* スパルタ、シーブスと関係をふかめる
スパルタがやってきて、シーブスがビオーシャの支配を強化するのをたすけるならば彼らはアテネの攻撃に参加する。だから、同意したからスパルタがやってこれたと私はおもう。彼らはそして、ドリスの問題をあつかうより大量の軍をつれていった。ただちにたたかいの場所にいった。どうおもうか。彼らはビオーシャとともにはアテネの国境にやってきた。タナグラ(Tanagra)という都市のちかくである。もちろん、スパルタはコリンス湾をひそかに渡航した。どうしてアテネや奴隷たちが気づかなかったのか疑問かもしれない。それはスパルタがこんなことをやったことがなかったからと私はいう。とにかく彼らはやってきた。

* タナグラでの戦い
戦いがおきたが、戦力についてである。スパルタは一万千人をおくった。これは彼ら自身とペロポネソス同盟のもつ戦力よりおおきい。彼らとビオーシャを集結させたものである。ビオーシャは優秀な戦士たちである。アテネもこれに対抗する軍をおくった。その大部分はアテネの陸軍からなる。これはギリシャの水準からいうと極めて大規模な戦いである。その結果はほぼ引き分けだった。とはいえ技術的な判定ではスパルタの勝利である。彼らは戦いがおわった時にその優位をたもった。兜(trophy)を戦場にたて、彼らの死者をあつめた。

アテネは戦場にもどり彼らの死者をあつめる許可をもとめた。だから重装歩兵の戦闘のやりかたからいえばスパルタの勝利は間違いない。だが戦略的な観点からと、現在の我々の立場からいうと、それは引き分け、あるいはアテネの勝利ともいえる。というのはスパルタはアテネをたおすためにやってきて、アテネがやろうとしたこと、やってきたことすべてをすてさせる。そのための戦いだったからである。

この点で彼らは失敗した。というのは彼らは戦闘においてひどい損害をうけた。さらにこれから戦いをはじめアテネ軍を崩壊させる余力はなかった。スパルタはそのままペロポネソスにもどっていった。アテネもそれを阻止する力はなかった。こんなものだった。あるいはこの後の状況からかんがえるとアテネの戦略的勝利という見方も成立する。というのは、まず、アテネは崩壊してない。実質的に敗北してない。彼らがやろうとしてたことを阻止できてない。その証拠にアテネはスパルタがビオーシャにひいた時に、ビオーシャの軍をオイフォニタ(Oephonyta)とい場所でやぶってる。

* アテネ、シーブスをやぶる
次に、アテネはっビオーシャのすべての都市国家、アテネに友好的なものだが、そこにおいて民主主義政府の樹立に成功した。ここで私は冷戦時代との比較をしたい。ソ連の陸軍が優勢だった場所において、ソ連が占領した地域には共産主義政府があった。その政府の役割はソ連の支配の手段として機能するものだった。こんな比較ができるということである。

およその考えはおなじである。その都市国家をうごかす人々はアテネにくみする人々である。つまりアテネはビオーシャで支配的勢力である。ここでしばらく、身をひいてアテネのアクロポリスにたって周囲を見わたす。すばらしい状況にある。まるで一つの国が出来上がったような状況である。北をみれば、今までのべたことからビオーシャをとおした侵略はない。北は安全である。もし北西をみるとメガラは同盟国である。アテネの軍が駐屯する。そこは閉鎖されてる。抜け穴はない。

* アテネ、拡大の極地
だがスパルタがコリンス湾を渡航したことがある。この再来を阻止しなければななない。スパルタとその同盟はペロポネソスに閉じこめられてる。海はアテネが完全に支配してる。私はアテネがアテネとパイリアス(Piraeus)を連絡する通廊の壁の建設を丁度、この時に完成させたことをいってなかった。想像しにくいがスパルタがアティカに侵入することに成功したとしても戦闘にはいる必要はない。彼らに降服する必要もない。というのは誰も壁で防禦された都市をうばう方法をしらない。スパルタもしらない。だから飛行機を発明しなければアテネは完全に不可侵である。

飛行機はそこから二千年も後の発明だ。ということは夢のように安全だ。だから不可侵と断定できる。そこではやりたいことができる。それも誰からも罰もない。私はこれがアテネにとり非常に重要な瞬間だった。またギリシャの歴史においてもそうだったとおもう。そこには自分たちが成しとげたこと、成しとげられること、将来のあらゆる状況にねらうべきことにむかって、けっしておどろかないアテネ人がいた。

ではペロポネソス戦争である。そこでアテネがスパルタと平和を交渉することのできる瞬間がおとづれるのである。戦争で合意し、あるいは拒否することができる。私はツキジデスや他の人々が、彼らは正気をうしなったと示唆してるとおもう。それはたぶん、そうかもしれない。彼らには集中できる何かがある。それはかっておきたことの記憶であり、これからやってくるかもという意識である。

それはおそらく神がゆるさないことである。そのことをあなたも私もしってる。アテネ人はこの状況をくつがえす、とんでもない逆風をむかええた。エジプトから不幸がやってきた。アテネはそこでやぶれた。ペルシアが彼らをやぶった。どれだけの艦船がうしなわれたかおおいに議論があるが、とにかく彼らはおおいにやぶれた。戦略的に重大な敗北である。その損害は甚大で、アテネ帝国のデリアン同盟の国々の反乱があいついだ。しばらくのあいだ、アテネはその鎮圧にいそがしかった。

* アテネ、エジプトでの敗北
ところでこの敗北の時期だが、おそらく紀元前四五五年。この次の年、四五四年、四五三年は確実で、アテネが同盟の金庫をデロス(Delo)からアテネのアクロポリスの上、パルテノン神殿の後ろの部屋にうつした。これは戦いのすぐ後に建築した。もう一つの重要な点である。この金庫の資金は海軍と表面上は同盟目的でつかわれる。この同盟目的だがすでにのべたように彼ら自身の目的につかうことができた。それはセイソスの時におきたことである。だがそれでも艦船と乗員のためだった。ところがアテネはあたらしい方針をきめた。これをどうみるか、私は彼らが帝国をつくったとおもう。

* アテネ帝国の出発
もはやそれは自発的にうまれた連合体というものでない。というのは彼らは毎年、金庫にある資金の六十分の一をとる。これは女神アテナへの貢納金であるが、これはアテネと言いかえることができる。彼らは今や、利益をうばう。同盟国からの税金である。これは将来、どのようにつかうか論議の的になる。彼らはそれは我々の金であり、我々が我々のやりたいようにつかうことができると主張することになる。

二つのことが二つのちがった方向にむかう。同盟におきるすべての問題、これが彼らに同盟の性格をかえざるをえなくする。問題はむずかしい。スパルタとたたかうこと、深刻な段階になってる。アテネ人は追放されてたキーマンを呼びもどした。というのは彼らはスパルタとの和平をのぞんでおり、それにふさわしいのがキーマンであるとおもってたからである。

* キーマンの復活
彼のことだが、彼はもっとはやく再登場との説もあるが、彼が紀元前四五一年に再登場した。というのは十年間の陶片追放が解除されたからである。彼はスパルタと交渉し五年間の和平を実現させた。これは両国が長期の和平の協定の交渉をおこなうとの了解のもとになされた。キーマンはこれを実現させ、陶片追放がどのようにはたらいたかをしめし、彼はただちに将軍にえらばれた。彼はまるで追放されなかったかのようだった。彼はただちに活動にうつった。彼がやりのこしてたことをはじめた。それはペルシアとの戦いだった。

彼は艦隊をつれキプロス(Cyprus)にむかった。その一部分はペルシア領だった。ペルシアとたたかい、それをやぶった。だが不幸にも死亡した。これでキーマンはアテネの政治からいなくなった。これは重大なことである。民衆の支持をえ、カリスマをもち、あたらしく登場してくるアテネの重要な指導者、ペリクリースに対抗できる政治家がいなくなったということである。これはペリクリースが比較的若年であるのに、前例がないほどの影響力をもつ人物となることができた理由でもある。彼があらたな権限を創設したり、軍事的勢力をえたことではない。
(3の2、おわり)

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ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の1)



* はじめに
引用:17. The Peloponnesian War, Part I、YaleCourses、2008/11/20 に公開

* 年表
465 セイソスの反乱
461 メガラとコリンスの紛争
457 エジプトへの出兵、453頃、敗北
453 デロス同盟の金庫が移転
451 キーマンの復帰
449 フォシスをスパルタが攻撃
447 フォシスにアテネが進軍
446 ビオーシャで民主政府を追放
445 和平の協定
431 第二次ペロポネソス戦争勃発

* 講義の対象、ペロポネソス戦争
我々は次の二、三週間において大ペロポネス戦争(the Great Peloponnesian War)のはじまりと戦いをしらべる。これはギリシャ人自体にとり極めて重要な問題あり、古代ギリシャに関心のある人々にとり重要である。というのは固有の重要性をさておいて、アテネの市民、オロラス(Olorus)の息子、ツキジデス(Thucydides)、彼はこの戦争の参加者で同時代の人物であるが、彼が我々のためにかたってくれている。ながい千年をこえて極めてすぐれた歴史家とみとめられてる。私もそうおもってる。

* 歴史家、ツキジデス
というのは、彼は西欧と世界の思想においておおきな影響をあたえた人物であるからである。現代における第一次大戦、第二次大戦、それにつづく冷戦を研究してる人々にとりツキジデスのペロポネソス戦争の歴史はおおくの示唆をあたえる。またさらに、歴史と戦争についての彼の考えかたがもそうである。

国際関係において、大衆のなかでの人間の行動についてもそうである。これが彼の歴史を注意ぶかく、他の歴史と比較しながらしらべる理由である。これは紀元前五世紀のおわりのほぼ三十年間にわたりアテネ帝国がスパルタの同盟とたたかい、それによりギリシャ世界とギリシャ文明をかえ今にいたるものである。

紀元前五世紀においてペロポネソス戦争は世界大戦といってよい。ツキジデスが取りあがげたが、ギリシャを巻きこみ、それにとどまらず、ペルシアが重要な役割をはたし、同様にマセドニアも、またシシリーやイタリアの人々も巻きこんだ。それはギリシャ人の観点からはおおきな防衛を必要としなかったが世界大戦であった。ギリシャの歴史にとり決定的な転換点であり、莫大な人命と財産を破壊し、きびしい党派の分裂と階層間の敵対心をうみ、ギリシャの都市国家の分断を引きおこした。

ギリシャ内部ではギリシャ全土における内乱である。これは都市国家内部の階層の関係を不安定とし、究極において都市国家間の関係もそうした。後世の人からみればギリシャの力をそぎ、外部の脅威への抵抗力をよわめ彼らの独立と自治をうしなわせる状況を生みだす傾向をうながした。

私は次の点を強調する。おくの点から戦争は悲劇であり、信頼と希望のおわりである。ペルシア戦争とペロポネソス戦争の五十年間はギリシャの偉大な時代である。我々が評価するおおくの事柄がうまれた時期である。それをギリシャ人たちが創造し発展させたのである。それは人間の能力の確信させ将来に花ひらくという希望の証拠をみつけた時代である。このようなことがあったからこそ、はなはだしい逆転の苦しみをあじわった時代でもあった。

ペロポネソス戦争が引きおこしたものから暗黒の時間がはじまったのだった。それはギリシャ人の命に前例のない残酷さがおそった戦争だった。ギリシャ人の戦いの作法がすでにボロボロとなっていたのに、さらにそれを破壊する戦いだった。それは蛮行と文明的行為からはるかにとおい行為の戦いだった。

このような見方はツキジデスにとってふるからある考えだった。これを彼が歴史において私におえしえくれた。残酷さ、凶暴さをへだてるうすい壁がある。それは社会にいる人間のあいだに存在する。そして社会はそれをおおいかくす。それは文明とよぶものににてるといえる。

しかし戦争というものはその防御壁を破壊する方向にはたらく。これは社会が個人にくわいえる圧力である。戦闘がながびくと怒り、焦り、復讐欲が増大する。残虐行為はつづく。捕虜を切りきざみ殺害する。 立坑に投げこむ。乾きと飢餓に放置し、死にいたらせる。これはシシリーでおきたことである。海にほうりこみ溺死させる。これはペロポネソス戦争の末期には普通のこととなった。

略奪者の集団がやってくると、彼らは無辜の学童を殺害し、都市国家全部を破壊し、男をころし、女性と子どもを奴隷にうった。ペロポネソス戦争の前にも残虐行為がなかったとはいわないが、これだけ集中し、これだけひどいものはなかった。

一つの理由はこうである。過去の戦争はみじかった。そしてツキジデスがまさに我々につたえようとしたことだが、戦いがながびけばそれだけ、残酷さをまし文明をたもつ基準がよりひくくなる。もし戦いを評価する文明度があり、それにはんするひどい戦いの方法があるとするならばという意味である。

これは二千四百年も前におわった戦争だが今日も読者を魅了しつづけてる。私はペロポネソス戦争と題する本をかいた。五万部もうれ、本当におどろいた。出版社もおどろいた。しかし私はおどろくべきでなかったとおもう。というのはたぶん百年ものあいだ人々はツキジデスとその歴史について研究してきた。あるいは研究してなくともそれについてきいてきた。すぐれた学者により参考文献がつくられた。マーシャル将軍は有名な引用集において引用した。彼が国務省長官であった時だった。人々はこれにつき話しつづけた。私はこれは親近感というより好奇心からくるとおもう。これは一体なんだろうかというものである。しかしツキジデスとペロポネソス戦争については、士官学校(military academy)でおしえてる。国際関係論のなかでもおしえてるだろう。中国の聖人、孫子(Sun-tzu)の兵法とともに最初の教科書でまなぶものである。古典のなかでよくよむものである。

しかし私がもとめるものはそうでなく、確信でき、学者によって支持されるものである。古典主義者(classicist)によってではない。それはかわらない意味、価値をもつ。我々がツキジデスの歴史からまなぶことができるものである。私はあなた方が文献をよむ負担を軽減したい。あなた方の時間を無用にうばうことのないようにしたい。それがこれからやることである。

あなた方がいろんな現象をしりたいだろうが。私は戦争の起源、戦争の原因、戦争の勃発の疑問についてかんがえたい。ツキジデスはこれらに非常に興味をもち、その説明にすぐれてるとおもう。それにかわるものがなく、さらにこの時代にぴったりと対応してないからである。ツキジデスの最初の本はこの主題に、すなわち戦争がどのようにおき、何故おきたかを取りあげている。これは極めて興味ぶかく、重要なものである。というのは歴史の事実、すなわち文明化された人類の歴史のほとんどが戦争の歴史であるという事実に我々が直面すべきであるからである。

* 戦争がおきる理由
人類の社会は戦争をたたかうために組織化されるといってよい。だが二十一世紀の時代にこれはわるい結論であるというべきである。現在、戦争は過去において積極的な機能がみとめられ、種々の理由から時にはほめたたえられたかもしれないが、それがすばらしいというには、あまりにもうしなうものがおおきい。話しをすすめよう。

戦争が何故おきたか、それらがどのようにさけられるのかという問題は私には重要である。ツキジデスはこれをかんがえるうえであじわうべき材料をあたえてくれる。さて彼は事実をしらべ第一の書で真実の原因、真実の説明をおこない、結論をまとめてる。その引用である。「真実の説明は、もっとも推奨されてないものだが、私はアテネが成長し偉大さにたっした時に、スパルタ人(Lacedaemon)は恐怖をかんじ彼らを戦争に追いやった。

学者により多少のちがいがあるが、次の点はほぼおなじである。彼はいう。この戦争はある時点で不可避となった。それはアテネ帝国、アテネの偉大さだが、それが拡大し、スパルタに警戒心を引きおこした。アテネの拡大を阻止するために戦争をはじめようとする時点である。私がここまでにいったことに批判や不同意、論爭をしてもらってよい。だが私がのべたことは独自あるいは私しかもたない見解ではない。次の点が重要と指摘したい。ツキジデスは戦争が勃発して紀元前四百三十一年におきたことをしらべて前述の見解をしめしたのでない。その根拠は彼が真実と主張してる事実、それにくわえ急激に戦争においやる理由と我々がかんがえてる出来事に焦点をあて、あまり真実といえないとして拒否してるからである。

* ツキジデスの考え
彼は戦争の説明をペルシア戦争のおわりの事実、デリアン同盟の形成を重要とかんがえてるところだが、説明はそこまでさかのぼる。これはアテネ帝国が出現しはじめた頃である。これが一つの転換点だが、さらにアテネとスパルタのあいだに不信感がうまれた時期にまでさかのぼるのである。これがギリシャ世界における重大な分断をもたらした。あきらかに疑いはおそれを生みだすものだからである。次に第二の点にふれる。アテネの勢力の拡大とスパルタにおける男女差別のおそれをツキジデスがかたってる。私が素晴しいとおもう点は、何故かを説明してるツキジデスの洞察力である。それが大学院レベルの国際関係論でおしえられる点よりすぐれてること。彼が人間の感情、情動をかたってる点である。

あなたが大学教授となるのに必要な構造についてかたってない。それは説得力にとむ。彼は構造について興味をしめしているが、問題を取りあげる最初の手順である。それは重要とおもってるが、何故、国は戦争をするのかを説明する段階になると、そこにいる人々の感情についてしらべる。我々はすでに彼がかたったいくつかの点について彼の説明から材料をえてはなした。私はデリアン同盟のはじまりとアテネ帝国への転換についてはなしたが、セイソスの反乱にいたるところまでははなしてない。

* アテネの野望、セイソスの反乱
そこではアテネ人が従来より攻撃的に振るまったことをしることができる。これをまだはなしてなかったのは、次のような文脈があるのでのこしておいたのである。ツキジデスはいう。紀元前四百六十五年、セイソスがアテネに反乱をおこした時に、彼らは最初にスパルタにゆき、もし我々がアテネに反乱をおこしたら、あなた方はアティカ(attica)に侵攻するかたずねてる。外交を担当するところの長老会議(ephors)にたいしきくとは然りとこたえたという。しかし彼らはそうしなかった。というのは彼らが実行しようとした時に大地震がおきてそれができなくなったからである。これらのやりとり、セイソスとスパルタのあいだを行きかったやりとりは秘密であった。

この時点でアテネはこの会話をしらなかったとおもう。というのはもしきいてたならば彼らが四千の重装歩兵をスパルタにおくらなかったはずである。それは奴隷の反乱を抑止するためスパルタをたすけるものだった。これから我々はツキジデスの状況理解の正しさをみとめざるをえない。

これで状況がわかる。スパルタがアテネにもってる不信感、それへの彼らの振る舞いがわかったはずである。これがアテネ人のつよい怒りを引きおこし、それが国内的な革命をよぶ。キーマン一派はエフィオルテスやペリクリースの一派、より急進的な民主主義者の一派にかわったという状況である。さらに外交上の革命、アテネがスパルタが主導するギリシャ同盟からの離脱がおきたのである。

そしてスパルタの宿敵、アーゴス(Argos)とはじめて同盟をむすんだ。次に、テッサリとも、アテネは彼らに将来の戦いにそなえ騎馬兵の提供を期待してるのである。これが両勢力のあいだの最初の紛争の転換点である。その深刻さから現代の歴史家は第一次ペロポネソス戦争のはじまりという。この戦いの結末におきたもう一つの点がある。

* 奴隷の反乱
この場面からアテネは退場するが最終的にスパルタが奴隷のことをどう処理したか。彼らは奴隷を抑止すること、イソーミ(Ithome)山の砦から引きおろすことができなかった。なので次のような取引をした。安全な下山とペロポネソス以外の別のところへの移動を保証する。彼らはあきあらかに奴隷たちが各所に散在することを期待してた。一定の一所への移動はないとかんがえた。どうなったか。アテネがうごいてある場所を確保した。どんな手段によるかはわからないが、コリンス湾の沿岸、ノーパクティス(Naupactus)である。これは良港をもち海軍の基地として好適である。コリンス湾を制約する位置にある。アテネがペロポネソスをにげた奴隷たちにあたえたものである。

これはスパルタの頭になかった。交渉でそのような事態をふせぐ手段を事前にとらなかった。アテネがスパルタにやった有害行為である。コリンス湾の仇敵と同盟国を困難に落しいれるものである。これで翌日にはがらりと状況がかわり別の世界となった。私はこれでスパルタ側とアテネ側のあいだの平和は消滅寸前となったとおもう。これで両方の協力の可能性はなくなった。アテネ側はスパルタ側と敵対した。アテネは奴隷たちを戦略重要地点においた。これは良好な関係を作りあげる方法でない。まさに一触即発の状況となった。人々はこれを戦争をはじめるきっかけにする。時にはそうでないが、この時はそうである。後でわかるが、この出来事の後ではアテネとスパルタのあいだが爆発するのにおおくはいらない。花火がスパルタ側のペロポネソスにある二つの国、メガラ(Megara)、コリンス(Corinth)のあいだにうまれた。これらはイスミス(Isthmus)で隣接する国だった。ここから北部ギリシャにむかったり、アテネにむかう場所である。両方ともスパルタ陣営だから、どちらよりの立場をとるか問題となる。

* メガラとコリンスの紛争
すぐに選択をせまられた。とゆうのはコリンスは論爭を優位にすすめ、どうやら戦争になっても優勢のようだった。なのでコリンスはメガラに攻撃を仕かけた。メガラはスパルタにやってきて助けをもとめ、戦いを有利にしたいといった。スパルタは否、我々は干渉しない。あなたの問題だが我々の問題ではないといった。興味ぶかいことだが我々はこれに何がいえるのかわからない。両者は自治権をもつ。理論にもとづきお互いにたたかうときめた時に、スパルタにどのような義務がうまれるか。ほとんどいえない。というのは条約上の違反があると誰もいってない。スパルタはこの出来事を無視する権利がある。

スパルタは数百年、それ以上、同盟国同士の紛争を無視してきたにちがいない。そうかんがえるべきである。戦いはすすみ、やがておさまる。紛争国のもとめるようにである。紛争に関与してスパルタがどちらかに勝ちをあたえるなどやらない。傍観者としての態度が好都合とおもう。これは次のことからいえる。まだスパルタは地震やその後の奴隷の反乱の影響から充分に回復してない。さらに混乱を持ちこみたくない。スパルタが過去にこのような傍観者的態度をとれたのは彼らがギリシャ世界で惟一の巨大国だったことによる。しかし紀元前四百六十一年は事情がちがう。助けをえられなかったメガラはアテネにゆくことができ、そうした。コリンスとの戦いで助けがほしいといった。たすけてもらえるなら、我々はペロポネソス同盟を離脱する。アテネ側につく。これは状況があたらしくなったからである。

これは、冷戦をしってる人々にとり、その類似性におどらくところである。そこでは北大西洋条約機構(NATO)とソビエトとワルシャワ条約機構(Warsaw Pact)のあいだに紛争があった。だが、そこには戦争を呼びおこす、あるいは戦闘を呼びおこすようなものはなかった。ところがアフリカだが、彼らは一つの陣営にゆきいう。援助してほしい。もしだめなら、もう一つの陣営にゆく。これは両陣営のあいだに深刻な紛争を引きおこす。我々はある国に損害をあたえたいわけでない。だがロシア人がその国に被害をあたえることをのぞまない。またその反対もおなじだ。

これはこのような状況でみることができる問題である。これでアテネは極めて困難な決断をせまられる。これがどれほどのものか私はあなた方につたえたい。すぐ予想できる反応はこれである。何故、我々がペロポネソスからの離脱者を受けいれねばならないのか。というのは、これはスパルタの怒りをよびペロポネソスとの戦争を呼びこみかねない。これは重大事である。我々はメガラとコリンスの争いにどんな気遣いができるか。もう一方の考えは次のようだ。否、我々はメガラとコリンスの争いに立ちいらない。だがメガラは我々の側にくる気持がある。もしメガラを支配できれば、我々の側につくなら、彼らはイスミスのアテネ側に所在してるのだ。

* アテネの地政学的勝利
さらにであるが、山岳がメガラをはしってる。もしここで軍隊が妨害してきたらその侵入は非常に困難となる。つまりメガラの協力はスパルタのアテネ侵入を困難とし、さらにそこをぬけて北部への進出も困難にするだろう。もっとはっきりいうと、メガラを支配すればアテネはスパルタの侵入にまったく安全となる。

彼らはこの申し出をうけたら、スパルタと戦争になるとかんがえてたろう。しかし、おおくのアテネ人が戦いはどのみちおきるとおもってた。我々がかんがえるべき問題はこうである。戦いに有利な条件をもつがスパルタと戦争をするのか。あるいは、それがない従来の状況でスパルタに対抗し、結局、侵攻をゆるし、山野の破壊をゆるすのか、とゆうことである。これは結局、敗北である。

というのは、アテネはまだアテネとパイリアスをむすぶ通廊の壁をまだ建設してなかった。これではスパルタはアテネに侵入しその港との連絡を遮断できる。アテネは必要な食糧を供給できない。つまりこのようなことを当時のアテネ人がかんがえたことだろう。ここで決断をするなら、決定的なのは将来がどのようになるかの予測である。あなたがもしスパルタとの戦争がないとみるなら、強硬策をつづける。しかしスパルタとの戦争の危険性があるなら何故、スパルタにたいする脆弱性を放置しておくのか。どちらをとるにせよ、一方に危険性があり他方に不確実性がある。こんな時に私は単純にいう。現実の世界、うつくしい世界に向きあいなさい。そうすれば決断がいかに困難なのかがわかる。

アテネの決断はこうである。メガラをアテネの同盟に引きいれる。それによりうまれる危険性を覚悟する。その対処のためにメガラとサロン湾(Saronic Gulf)にある港、ニセア(Nicea)のあいだに壁でまもられた連絡路をつくった。これはアテネの沿岸につづき、都市、ペガイ(Pegai)を支配下におく。ペガイはイスミスの北側にあったとおもう。そこを要塞化し兵力をおく。言いかえるとアティカに侵攻しようとするスパルタに障壁をきづくことである。この政策はおおきな成果となる。だが痛みをともなう。ツキジデスがこういってる。
(3の1、おわり)

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