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簡略ギリシャ歴史、マセドニアの興隆1


* はじめに
(Ancient Greek History - Rise of Macedon Part 1 - 45、Historyden、2017/10/22 に公開)。 注) マセドンとは、現代におけるマセドニア、ギリシャ、ブルガリアのそれぞれ一部からなる地域で、古代の王国。

* 疲弊する南部都市国家
これまでギリシャの南の都市国家をあつかってきたが、これから北のマセドンを説明する。すでに説明したように絶え間のない争いで南ではスパルタ、シーブス、アテネが国力を損耗していった。これは特に、紀元前三六二年、マンテニアの戦い以降に顕著となった。アテネは従前の栄光の再構築をはたした。モンテニアの戦い以降ではもっとも重要な都市国家となった。だがそこにマセドンが登場し、ギリシャの覇権をねらう国となった。

* マセドンの台頭
この後、二十年の活動はおおきかった。フィリップが王位についた紀元前三五九年から紀元前三三〇年の間、ギリシャ都市国家の独立が崩壊していった。マセドンの体制はそれまでの都市国家にぞくしてない。フィリップはこの独立をのぞまなかった。独立と外交の自由は都市国家におい必須である。フィリップが南の都市国家を侵略することにより独立と外交がおびやかされた。その抵抗の中心にいたのがアテネだった。アテネは防御壁を回復し、艦船を再建していた。主要な覇権国だった。

* マセドンはギリシャといえるか、二つの理由
さてマセドンをギリシャとみるか、否定する議論は次のようである。まず、都市国家の仕組みである。これまでものべたがマセドンは都市国家の仕組みをもたなかった。これは南において確立してた。そのため彼らは北部を半野蛮国とみなしてた。マセドンをふくむ北のおおくが都市国家の仕組みをもたなかった。そこには王がいた。宮廷があり服従する臣民もいた。おおくの部族があり、それを支配する貴族たちもいた。彼らは時に王に忠実であり、また時に王から完全に独立した存在ともなった。フィリップはこれらの部族を統一し、彼らから絶対忠誠を勝ちとった。それは以前の王がけっしてもつことができなかったものだった。おおくの点でマセドンの王は中世の封建君主だった。もう一つである。

地理的条件である。マセドンやほかの部族は山岳地帯にすんでた。そのため地中海の文明からとおく切りはなされてた。そのため文明化した文化にふれる機会がすくなかった。南部のギリシャ人が享受してたものだった。だがこのような事情にもかかわらずマセドンは自分自身のことをギリシャ人とかんがえてた。

* マセドニア人、自分自身をギリシャ人
特に、フィリップとアレクサンダー大王の時代はそうである。さらにギリシャ語をはなした。おおくの歴史家はマセドンをギリシャとかんがえてる。それではマセドンの歴史をフィリップにいたるまでのべる。

* マセドンの歴史
初期のマセドンの歴史についてはよくわからない。おそらく、スメアプ湾北岸への大量の移民が発生した。南部ギリシャにおいては北より混乱がはげしかった。国境線が頻繁に変更された。同盟の形成と崩壊、戦争と絶え間のない裏切りと暗殺がおきた。マセドンではいくつかの有力部族の争いがあった。

そのためいつも王の座をめぐってはげしい争いが繰りひろげられた。そのため王の座についた者は有力者を追放する必要があった。政争に犠牲者がいつもでた。マセドンにおいて王は王位につく正当性とその座を維持するだけの力をもってることが必須とかんがえられてた。実際、フィリップは王位についた後にも有力者を追放してる。およそ紀元前七〇〇年から紀元前三一〇年の間、彼らはアジアの王権やギリシャの支配の下にあった。

* 王の系譜
最初の王は神話の世界にはいるが、アミンテスは歴史上の王である。紀元前五四七年から四九八年まで統治した。この時代にペルシアと接触した。彼はペルシアとあらそわないこととし、臣従の印の土と水を差しだした。その後、ペルシアにしたがうところとなった。これが紀元前五一四年からマラソンの戦いまで、ぼ二十五年間つづいた。この戦いは四九〇年である。ペルシア戦争の間はマセドンはペルシアにしたがった。それは次の十年以上もつづいた。だがマセドンはペルシアにしたがいながらも、相当程度の自治をたもってたこと注意しておく。

* ペルシア戦争時のマセドンの王たち
次はアレクサンダー一世である。彼はギリシャ・ペルシア戦争の前に王位につき戦争中も王位をたもった。戦争が勃発するすこし前にマセドンはそれまでみとめられてた自治を完全にうしないペルシアに臣従した。アレクサンダーはサラミスの海戦の敗北の後、紀元前四八〇年、ペルシアを代理して和平交渉にあたった。臣従していたが彼は南のギリシャの諸都市をたすけもした。紀元前四七九年、プラティアの戦いについてペルシアの攻撃を事前にしらせた。プラティアでやぶれ退却するペルシアに攻撃をくわえ千名をころした。ギリシャ・ペルシア戦争の後に完全にペルシアとの臣従関係をたった。彼は紀元前四五四年にしんだ。その死後、王国は混乱におち、おおくのマセドンの部族たちは独立した。そしてアルシイタス二世が王位をついだ。

* ペルシア戦争後の王たち
彼の統治は六年間だけだった。彼の従兄弟、アカレイアスに暗殺された。暗殺はマセドンの宮廷では普通におこることだった。アカレイアスのわかい兄弟、ペルディカスが王位をついだ。この時代にはアテネの覇権がおおいに拡大した。アテネは北に進出しスメア湾の地域を完全に掌握した。紀元前四三七年、北方における貿易の中心、主要都市としてアンティポリスをつくった。これはマセドンの脅威となった。これでアテネの海上覇権の抑止が困難となり、マセドンとの間に時々、争いがおきた。

* アテネとの争い
紀元前四三四年、ペルディカスのわかい兄弟、フィリップが王位をねらって画策した。アテネはフィリップをたすけることとした。ペルディカスはアテネに朝貢してるいくつかの都市に謀反をそそのかした。アテネは艦船をおくりピッドナに城攻めをかけた。そこでアテネの宿敵、コリンスが注意をそらすためにパディデアに攻撃を仕かけた。アテネはマセドンとの戦いをおわらせるためにペルディカスと同盟をむすんだ。そのうえでパディデアに進軍した。これはペルディカスの賢明な譲歩であった。彼はすぐにアテネと条約をむすんだ。そしてパディデアに援軍をおくった。アテネはパディデアで勝利した。この出来事はペロポネソス戦争においてスパルタをたすけることとなった。

* ペロポネソス戦争にかかわる王たち
ペルディカスはペロポネソス戦争でアテネをたすけることとした。この結果、アテネはフィリップ反乱の支援をやめた。フィリップは最終的にとらえられた。ところでペルディカスはアテネにとっては非常に頼りにならない同盟国だった。紀元前四二四年、彼はスパルタのブラスディスの味方についた。スパルタがアンティポリスを奪取するのをたたすけた。ここはアテネの在外の要衝の地であった。おおくの富をアテネにもたらしアテネの艦船を構築、修理する材木を提供する場所であった。しかしスパルタとペルディカスの仲がすぐ悪化しペルディカスはまたアテネと同盟関係にはいった。紀元前四二三年のことだった。この期、その死にいたるまで彼は何度も同盟関係をかかえた。紀元前四一三年、彼がしにアカレイアスは数人の対抗者をころして王位についた。そのおなじ年にアテネはシシリーのおいて壊滅的な敗北をきっし、すべの艦船をうしなった。

この敗北後、アテネは壊滅した艦船を再建するため材木を必要とした。アカレイアスはこれをたすけアテネに大量の材木を提供した。これにより莫大な資金えてアカレイアスは野心的な社会インフラの整備をすすめた。道路の拡張、整備をおこなった。さらにパラにおいて宮廷を建築した。紀元前三九九年、狩猟にでた彼は暗殺された。その後、十年間、政情不安と宮廷の混乱がつづいた。オレスタス、暗殺された息子の父だが彼が王位を継承した。彼は息子のイーロパス二世のたすけをえて共同で宮廷を支配した。紀元前三九六年のことだった。その後の一年間、紀元前三九五年にはイーロパスが単独で宮廷を支配した。アカレイアス二世が父のイーロパスをついだがその統治はながくつづかなかった。

* 混乱のなかの王たち
その死はおそらく暗殺だったろう。その息子、アミンテス三世がその後継になろうとした。彼はオリンテスのチェルシアン同盟にはいった。その交換にアミンテスはマセドンの材木を提供した。これはアテネにおくられ艦船をつくることとなったが彼の統治の時代にあたらしい脅威が登場した。紀元前三九三年、ダルダニアンの王、バーダラスがマセドンに侵入した。彼はあたらしい戦法によりアミンテスを戦場にやぶって彼を追放した。

バーダラスはそこに傀儡の王をたてた。紀元前三九二年アミンテス三世はテッサリと同盟し、マセドンをダルダニアンから回復した。しかしダルダニアンはつねに北部と西部に侵入を繰りかえし紀元前三七二年までつづいた。このためマセドンはダルダニアンに貢納金をはらってた。アミンテスには三人の息子がいた。アレクサンダー二世、ペルディカス二世、フィリップ二世である。紀元前三七一年、最年長のアレクサンダー二世が王位についた。ただちに北西部にダルダニアンの侵攻をうけた。東部のプリテンダにポセニアスという名前の人物の侵入をうけた。彼はただちにいくつかの都市をうばい、パラの宮廷にいた女王の母をおどした。そこにはわかい息子たちもいた。

アレクサンダーはアテネの将軍フィクラテスの助けをえてこれをやぶった。彼はアンティポリスを奪回しようとマセドンの沿岸を航行していた。勝利はながくつづかなかった。アレクサンダーはお祭りの最中に暗殺された。これはかれの野心的な義理の兄弟、プトレミによるものだった。

ペルディカス三世が王位を継承しようとした。プトレミも王位継承をねらったが失敗した。しかしペルディカスは支配をおこなうにはわかすぎた。そのためプトレミは彼の摂政となった。これは一種の妥協である。これはたぶんシーブスに追放されてそこにいたフィリップに関係があったのだろう。フィリップはここですぐれた軍事の教育をうけてた。

* フィリップの登場まで
ペルディカス三世が成年にたっした時に彼はただちにプトレミを死罪にしマセドンの完全な支配を回復した。彼は北部における支配を回復するためダルダニアンを攻撃した。紀元前三五九年の春に北部にすすみバーダラスと対峙した。マセドンは千人の軍をうしない完全に無力化された。

バーダラスは南下し、アウレド湖にいたった。西部は上部マセドンにまで勢力を拡大した。こうして彼はマセドンをほとんど消滅させた。おおくの歴史家は彼がもっとふかく侵攻しなかったことを批判した。マセドンの軍がほとんど崩壊してた。ペルディカスも戦いでバーダラスによりころされた。だがこれはフィリップ二世が王位をねらう道をひらいたことでもある。これは次のビデオで説明する。


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