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ケーガンギ歴、ペロポネス戦争(18、2の3)



* ビザンチウム反乱の動き
セイモスの人々は樹立したばかり、寡頭政治から発展しはじめた民主主義政府をたおした。事態は深刻であるがさらに深刻な知らせがはいってきた。都市国家、ビザンチウム(Byzantium)、これは後にコンスタンチノープル(Constantinople)となり、イスタンブール(Istanbul)となるところだが、ここは非常に重要な戦略の要地である。ボストラス(Bostras)にあるが、ここで反乱がおきた。またであるが、ツキジデスは後におしえてくれるが、その時期は明確でない。ミタリニ(Mitilini)島、これは有力な独立した都市国家、海軍をもつ重要な都市国家であるが、ここが反乱をかんがえていた。この時期はいくつか曖昧だが、アテネはここで突然、従来にないような危機にめんしたのである。まず、これが拡大してゆくと反乱が全帝国にひろがりかねない。次に、ペルシアがアテネ帝国にたいし積極的攻勢にでている。セイモスの反乱をたすけたのはすでにのべた。我々にも、アテネにもわからないことだが、州長官、ピサスニイスが大王の命令におうじ行動をとるが、大王の指示にしたがう行動か、あるいは彼独自の判断によるかわからない。最初なら非常に深刻である。これはペルシアからの主要な脅威といえる。次のはすこし緩和された脅威である。判断がつきかねるというのは、まったく時間があたえられてないのか、ピサスニイスが大王に相談するのか。それにより時間がかわる。大王がすんでるスーサ(Susa)から命令がもどってくるには数ヶ月かかる。まずかんがえるのは、ピサスニイスが彼独自の行動にでるということである。問題は彼が大王がどのように反応するかをしってるのかである。我々はただ推測するのみである。しかしここでアテネにとり本当の災厄といえる三つ(trinity)ある。うちの二つである。

* ペルシアの策謀
これはアテネにとり大厄災だった。もし我々がペロポネソス戦争を将来にみるならば、それをしらべればわかるが、アテネをおわらせ、その帝国をおわらせるものとわかる。それは帝国における反乱の頻発であり、ペルシアによる反乱の幇助だった。三つ目だが、スパルタが戦争に参加すること。決定的な事態である。その内容はアティカに侵入体制をととのえ、あるいはその実行とアテネとの陸上における戦闘である。この三つ目だが、紀元前四四〇年、スパルタはペロポネス同盟の会合を招集した。そこでアテネと戦争するかも。そこにはアティカへの侵入もある。ここで戦争が発生する。ではアテネをまかすに何が必要か。この問題が取りあげられた。紀元前四三一年、四三二年にしることとなるが、四三三年になされた演説がある。それを私は取りあげる。そこにコリンスの態度がどうだったか。これが戦争に突入する決定的事項だった。コリンスの戦争への動きは紀元前四三三年からはじまってた。すくなくとも戦争への動きはそうだった。

* 内政干渉に反対するコリンス
コリンスの蠢動<はスパルタが戦争にはいるのに決定的な役割をはたしたとおもってる。彼らは何をした。彼らはアテネにゆき、アテネが戦争に突入するような手段をとらないように主張した。彼らはこういった。セイモスが反乱をおこした時に、ペロポネス同盟の国のなかでこれをたすけるかどうかの問題で投票をおこなった。意見がわかれた。コリンスはアテネに対抗する意見をとらなかった。それだけでなく我々は二つの同盟はそれぞれの規律をまもり他の同盟の内政干渉をすべきでないと公然と主張した。これは極めて重要である。当時は全員が合意してアテネを攻撃するとなったかもしれない。それを我々が阻止した。そう主張したのである。これは真っ赤な嘘とはいえない。というのは、アテネもギリシャの世界の誰もその会議でおきたことしってた。おそらく彼らは自分の役割を都合よく誇張しただろう。だが、彼らがスパルタに同調し戦争に参加すると誤解させることをしなかったろう。

私はこんな疑問をもってる。アテネがどうでるかを憂慮してたコリンスのことである。紀元前四六一年、四六〇年にアテネとメガラが同盟してコリンスに敵対した。これで最初のペロポネソス戦争がおきた。彼らはこれをわすれたのかということである。ツキジデスはコリンスがアテネを憎悪する原因となったといってることである。にもかかわらず、戦争に反対するという立場をとったという。何故なのか。

* 平和維持の可能性
私の答。それはイタリアの植民都市、シリアイである。私はペリクリースやアテネ人たちがこれをとおしておくった外交的メッセージをコリンスは受けとってたとおもう。それを理解し彼らの外交政策を変更した。アテネが彼らの支配領域の外にいるかぎり彼らは平和をまもってゆくとした。もしあなたがこの類推に同意するならばこれは非常に重要な話しである。四四〇年には戦争への危機がたかまった。平和はの維持はむずかしくなった。だがなおも私は平和への道は可能であったとしんじる理由がここにあった。

私はさらにいいたい。この重大な危機を切りぬけ、平和への道がさらにあったとおもう。両方が相手を信頼することができるとしんじる理由があり、両方が構築してきた規則にのっとり行動するとしんじる理由があったからである。だがちいさな問題、それは非常にちいさいとはいえないのだが、問題があった。それはコリンスがかんがえていた平和の内容が、アテネがかんがえてたものと、まったくおなじといえないことである。そしてこれが最後の危機にめんした時に深刻となりうるものだった。

* スパルタが会議を招集
紀元前四四〇年にいたるまでは、セイモスの反乱は戦争が必然といえない状況だったと私はおもう。両方の頭のなかにある考えは完全におなじだった。現代の言葉でいうところの力の均衡が成立、両方ともが相手をみて同等とみてた。両者はそれぞれの勢力範囲を確立し、その外に相手がいた。その状況はどちらにとっても満足できるものだった。スパルタが直面する問題とその対処の議論はまさにこの点に集約してた。ある学者はいう。スパルタはアテネとの戦争をやりたがっててたと強調する。そして、そうでなかったらこのペロポネス同盟の会議を招集しないという。そのとおり会議は招集された。彼はその事実を戦争は決定されたと主張する。それがコリンスや同盟国の話しにより外にもれたのだという。私はそうでないと解釈する。私は紀元前四四〇年のスパルタは第二次ペロポネソス戦争がはじまる頃とおなじ。つまり意見はわかれ、決断できなかった。攻撃的スパルタの一派はセイモスの反乱が絶好の機会をあたえたととらえた。

* ツキジデスは戦争不可避と
だが、より保守的、伝統的なスパルタの一派はアテネとの戦争には慎重であった。タカ派はスパルタを強制して同盟国にうったえる、その力を充分にもってた。同盟国に決断をせまることができた。私の見解はこうである。保守的スパルタは通常多数派である。彼らは極めて特殊な環境、条件でなければ戦争を決断しない。そしてコリンスはこんな状況はめったにおきないとおもってた。注意してほしいが、これはすべて解釈の問題である。ツキジデスは、結局のところ戦争はおきるとかんがえてた。私もおおくの人も、それが彼の考えとおもう。

* 両者の戦争への思惑
私がのべた両者の存在が事態の進展に影響をあたえたと彼自身はのべてない。しかし我々は証拠をもっており、それで、自分の考えをまとめる。私の結論はのべたとおりだ。この後に、アテネはセイモスの反乱を制約なしで鎮圧した。ビザンチウムでは帝国を回復させた。さらにのこりの年月、あるいは戦争にむかう年月において彼らはエーゲ海の支配を強化し、当面の帝国の支配を強化してゆく。

また戦争は不可避と主張する学者はこの後に帝国を強化してゆく、それはアテネの勢力の拡大であるというが、私にはこの言葉の意味の拡大解釈のようにおもえる。それは彼らがすでにもっていたものをよりたしかなものとしたいうべきとおもう。

* 第二次ペロポネス戦争
私がのべたところだが、アテネの行動がスパルタにおそれをあたえ、あるいは困惑させたかどうか、まったく証拠はない。これは重要なことだった。それは最後の危機状況となった時にアテネがやったことにおおくの不満がきかれたからである。だが、アテネが拡大していったとの事実、いくらかの学者がそうかんがえているが、それへの言及はまったくない。それはともかく、また危機は乗りこえられた。私がここでいいたいことだが、状況をかえるようなあたらしい要素がないにもかかわらず戦争がおきるという主張に理由がまったくないとゆうことである。こんな状況で最後の危機状況にうつった。これが私が戦争は不可避でなかったといいつづけてた事情である。 それでも戦争がおきた。なら私は何故戦争がおきたか、いわねばならない。それをいおうとおもう。まずツキジデスが話しをはじめようとしたところからはじめる。それはどのようにアテネが帝国となっていったかをのべたところからである。

* 戦争のはじまり
彼の歴史書のIの最初の部分で、アテネとスパルタはギリシャをそのあいだで分割した。その姿をあつかってる。これはIの第二十四章にうつる。ここで突然危機が発生する。どこではじまったか。それはエピデムニス(Epidamnus)という町からである。ギリシャ半島の西部沿岸、イオニア海(Ionian sea)にせっするところ。ローマ時代ではディラキウム(Dyrrachium)とよばれてた。当時は重要な道路がはしってた。だがギリシャ時代では僻地だった。当時の重要な都市につながってもいなかった。私はネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)を思いだす。戦争の危機が中欧のチェコスロヴァキア(Czechoslovakia)という場所でうまれた時に彼がいった。それは常に我々がまったくしらない僻地でおきるといった。私は一九三七年にそういわれてもおどろかない。でもこれをエピデムニスにいうのは相当のことである。つまり当時のギリシャ人にとってまったくしらないとんでもない僻地であったからである。その町はまったく重要といえないものである。これは本来ではまったく重要でない場所だが、ある条件のもとで重要となった場所である。そこから大戦争がはじまるというおおくの例の一つである。エピデムニスがこの場合に重要となったのは、それがコサイラ(Corcyra)により創設されたという事情である。これはエピデムニスのずっと南にあるコフウ(corfu)という島にある。

* エピデムニスとコサイラ
ところでこのエピデムニスだが現代はアルバニアになる。そこのドゥレス(Durres)とでもいうところである。それはともかく、コサイラがそこに植民都市をつくった。数百年前のことだった。ところでコサイラ自身はコリンスがつくった植民都市だった。すでに前の学期でのべたが、それは非常に特殊な植民都市だった。それと母都市との関係はまったくかわってた。ツキジデスがいう。歴史上、両者のあいだで最初の三段櫂船による戦闘がおこなわれた。紀元前七世紀のことだった。

* エピデムニスの内乱
それから繰りかえし戦いが両者間で百年間に何度もおきた。両者は互いに憎みあった。長年の憎悪が数百年間も伝承されてきた。これがここでおきる事態を理解するのに重要な点である。それはさておき、紀元前四三六年頃、エピデムニスにおいて内乱がおきた。これはギリシャ世界ではめずらしいことではない。民主主義側と寡頭政治側のあいだに発生し、一方が政権をにぎり、他方を追放した。追放された側は近隣の蛮族に助けをもとめた。

* コサイラの中立政策
これは辺境で非ギリシャ系の蛮族がいる地域でおきることである。そこで城攻めにあった側がその母都市に代表団をおくった。つまりコサイラに助けをもとめ、城攻めを解放し平和をもたらすようもとめた。だがコサイラはこれに興味をしめさなかった。たすけようとしなかった。彼らはどちらかに味方しようとした形跡がなかった。この争いに関与する意義を見いださなかった。コサイラにとっては戦争がおきるかもしれないという事態に意味を見いださず関心ももたない。すべてに中立を維持するという立場だった。彼らはペロポネス同盟に参加してなかった。またアテネ同盟にも、どことも連合してなかった。

* コリンスに助けをもとめるエピデムニス
実際、彼らは有名だった。もしコリンスのいうことをしんじるなら、彼らは極めて横柄であり、誰とも連合しなかった。もしコサイラ人にたずねると、彼はソルズベリー卿(Lord Sallsbury)の言葉、十九世紀末期の英国は偉大な孤立をたのしむという彼の言葉をつかうだろう。だがソルズベリー卿や他の人々が孤立主義がそれほどすばらしいものでないことに気づくのにはおおくの年月がかからなかった。それはコサイラもおなじだった。コサイラは当面の対応として、そんな内部の争いは関係ないとの態度をとった。そこでエピデムニスは船にのってコリンスにいった。ここから人間の行動の原理、その重要なものをしることができる。

あなたが、お母さんのところにゆき、車の鍵をかしてくれといたら、何がおきるか。彼女はいうだろう。駄目お婆さんのところゆきなさい。するとお婆さんはなんというか。ふるくからある話しの筋はこうだ。どこかの隣人がお婆さんにいう。あなたの孫は隣人の子どもをつかまえ、三階の窓から放りなげた。お婆さんがいうには、それはでかした。元気がいい。それでコリンスの反応だが、お婆さんのようなものだった。彼らは城攻めにあってるエピデムニスの人々に助けをおくることを了解した。そして陸軍をおくることも了解した。まず艦隊をおくった。次に陸軍をおくるという。彼らはそこにゆき、あらたに植民都市の再建をやるつもりである。というのは都の内部は分裂してた。

* コリンスの介入
もし内部の市民が最終的に勝利するなら、彼らはあたらしい市民を必要とする。というのは、彼らは自分たちをころそうとしてた人々にもどってほしいとおもわない。そこでコリンスはそこに移住する植民集団を組織した。そしてエピデムニスにかんがえられるすべての便宜をあたえた。さて、コリンスがどうしてこのような莫大な便宜を遠隔の地のあらそいにあたえたようとしたか。その理由である。学者は数百年以上、現地調査をして、具体的な利益が何かかんがえたが、まったく見つからなかった。コリンスにとっての経済的利益、説得力のある理由はない。もしエピデムニスにたいする何かの支配力を手にするのか。否である。そこで我々はツキジデスの質問と答の記述にもどってしまう。コリンスとコサイラのあいだのいざこざがが何に起因するか。彼は両者のあいだにある憎悪感情といった。そこの文章をよくみてかんがえる。というのはツキジデスは我々がこれに首をかしげるだろうとしってたからである。では彼はいう。毎年、コリンスは宗教の祭事をひらく。彼らの土地にすべての同盟都市の代表団がやってくる。これは本当に普通のこと。母都市として彼ら、代表団を待遇する。敬意、尊敬、感謝、親切をもって待遇する。コサイラについてはどうする。彼らには公然と馬鹿にする。名前をよび侮辱する。

* コリンスのコサイラへの憎悪
まるで彼らをゴミのようにあつかう。つまり家族の前で侮辱するようなもの。つまり、コリンスは彼らを本当に毛嫌いしてる。彼らがやってることはこの結果である。これは現代の学者を困惑させる。学者たちは人々が戦うのは二つのことからと理解してる。まず過去にもあり、現代にもおおくがみとめてるもの、すなわち金である。経済的な利得。これはマルクス(Marx)に感謝できることである。

数百年以上ものあいだ人々はお金という利得をのぞいて大切なものはないということを理解できなかった。そうであることを説明しよと学者は努力したができなかったのである。もう一つは力なのだが、もしあなたがこの国にくみするなら、それは勢力の均衡をあなたに有利にする。ところでエピデムニスの場合は本質的に力の問題は無関係である。つまりコリンスとコサイラの力関係はかわらないとゆうことである。

* 両者の争いの不思議さ
コリンスがエピデムニスを取りこんだとしても、あるいは非常に戦略的な利益をあたえたとしても、コサイラがそれだけまずしくなるわけでなく、弱体化するわけではない。もしあなたがエピデムニスを利用して攻撃できるならば、それ以外の領域ではなく、ここエピデムニスからだとして、否である。結局、ツキジデスがいってることの他に理由はない。つまり名誉と不名誉で損害をあたえることである。非常に迂遠な理由といえないか。二十世紀、二十一世紀において名誉をどれほど重要視するのか。なんと馬鹿げたことか。私は今日の世界で、あなた方や他の人がどんな問題でもしめせるが、特に衝突についてはそうだが、これ以外の理由でおきてることをしめせる。

名誉とあなたの生き方や生活への影響をかんがえる。具体的な説明をしよう。重要なのは否定的な側面である。名誉より不名誉が重要である。人々は不名誉にさらされることをきらう。こんな時につかう俗語がある。私が子どもの頃にはつかえなかった。あったのだが、つかうのはゆるされなかった。それをいうと、彼は私を侮辱したである。この意はわかりますか。これをいうとあなたの前歯が危険になる。もしわるい連中をそうした場合のことである。こんなことが人々に常に影響をあたるとおもいますか。

私はそれをあなたにしめしてきた。不名誉が常に国民をうごかす世界について説明してきた。今日において、また、二十年前、あるいは五百年前、あるいは二千年前についてである。まさにツキジデスがここで我々にしめしてることである。これは重要で普遍の真実である。これがツキジデスが現代の政治学の学者、国際関係を研究分野としてる学者よりすぐれているところである。彼らはこれらを理解しようとしないが、ツキジデスは理解してる。それで私はここでおきてることを指摘するが、コサイラにとってはっきりしてきたことは、コリンスが関与し、戦いにむかおうとすること、コサイラに不名誉をあたえて、彼らの植民都市をうばおうとしてることである。

コサイラは一つに怒りをはっし、他方で恐怖をもった。というのはコリンスが強大な力をもつ国であり、さらに重要なのはコリンスがスパルタの非常に強力な同盟国である事実である。もしコリンスがコサイラに苦しみをあたえようとするなら、これはペロポネス同盟がさらにコサイラを圧迫する事態の前の段階である。そう認識すると、コサイラはコリンスに協議をもとめる。そしてやってきたのだ。そしてこの問題を平和裏に片づける道を見つけようとした。それは和平交渉だった。コリンスは強硬だった。彼らはいった。あなた方は平和をもとめる。それはあなた方がやらねばならないことである。軍をこの都市、城攻めをかけてるところから引きあげねばならない。というのはコサイラは艦隊を繰りだし、たたかい勝利したからである。

* 両者の交渉の膠着
コサイラは何をしてたか。彼らの陸軍は平野にいて、海軍は海にいる。これらは都の内部にいて抵抗してる人々にむかってるのである。そこでコリンスがいう。あなた方は彼らとたたかってる。だがそこであなた方の軍を引きあげる。そうすると我々は和平について話しあう。これは抵抗する人々を有利にするものである。コサイラはとんでもないという。またいう。あなた方が人々を引きあげるなら、我々も引きあげるという。コリンスはとでもないという。

このやりとりは実は重要とおもう。コサイラはこの争いを拡大しようとおもってない。おわらせたいとおもってる。それは彼らが平和をあいし、好人物であるからではない。この状態が進展する先に不安をかんじてるからである。我々は今や二十世紀で成果があがる取引をおこなってる。紛争の拡大は彼らがねがうところでない。我々はここでちいさな争いをすすめてる。しかし次の段階ならばペロポネス同盟が関与してくるだろう。コリンスはあきらかにこれを心配してない。これがまさに我々が心配しなければならないことである。コサイラがいう。この交渉が成功させられないなら我々は同盟をもとめることになるだろう。それは我々がもってる以外のものである。ツキジデスが我々にいう。

彼らは現在他に同盟をもたない。では彼らがもとめるという同盟はどこか。どこか、わかる人は。そう、アテネである。まさにそうである。誰もが彼らがしめしてることは、わかる。これは脅威である。交渉でコリンスは強硬姿勢をしめしてる。それは彼らはスパルタをたよりにしてるからである。では、もしそうするなら、我々はアテネに助けをもとめる。するとどうなるか。これで事態はまた一歩前進した。コリンスは脅しにまけない。もしそれが脅しだけだったらということである。私はコサイラはこの会合でこの争いを調停者に提出するといったとおもう。

* アテネとの同盟へ
これは仲介(mediation)でない。それを第三者に提出しその解決にまかせるのである。だがコリンスはこれを拒否した。私はこのことだけでも、この時点で誰が戦争をのぞみ、誰が平和をのぞんでたかをしめすとおもう。さらに三十年和平協定で中立国は自由にどちらの側にも参加できると規定されていたことを注意する。
(2の3おわり)

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