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ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の3)



* ペリクリースの登場
彼は議会を説得し、彼がやりたいことを実現する。それをほとんど成功させる能力以外に何も変更はなかった。彼はまもなく重要な問題にぶつかるが、それは後述する。紀元前四四九年の戦争の話しをつづける。紀元前四四九年、和平の交渉があった二年後にスパルタはフォシス(Phocis)の都市国家フォシスを攻撃した。ふたたび中部ギリシャのことである。そこまで、どのように進軍していったのかはわからない。だがデルファイの神託への支配を取りもどした。隣国のフォシスの人々から取りもどした。彼らは長年にわたりデルファイの神託への支配をその神官たちからうばおうとたびたびこころみてた。

スパルタがたたかったのはこの神官のためだった。フォシスをやぶり、本国にかえった。二年後の紀元前四四七年、アテネは陸軍をそこに派遣した。アテネはフォシスと同盟をむすび、デルファイの神託を取りもどし、フォシスにわたした。これは和平がうまく機能してない証拠である。両者は将来にわたり平和裏に共存する方法を見つけてない。紀元前四四六年、一連の動きがあった。それは一時的にせよあったギリシャ世界の平和と均衡をみだすものだった。

* ビオーシャの寡頭政治の復活
まず、ビオーシャの寡頭政治政府の反乱があいついだ。彼らはアテネに同調する民主主義政府を追いだした。突然、ビオーシャは敵対地域、もはや友好地域でなくなった。アテネにとり問題のある場所となった。アテネではどうするべきか議論が巻きおこった。ペリクリースはいう。何もしない。アテネは強力な相手に地上作戦をおこなう力がない。やってみても、ビオーシャを維持することができない。ビオーシャの思惑でうごくにまかせるという。それに対抗する将軍がいた。アテネの将軍である。おどろくのは彼の名前である。アテネの歴史に突然登場する。小説にでも登場するような名前、人々がしると笑いだすようなものである。トーメディズ(Tolmades)、これはギリシャ語のtolmao、禿ると蛮勇をふるうの意味である。彼はビオーシャに進軍しアテネのために土地をうばいかえした。言いかえると彼はこの問題についてはペリクリースとの論爭にかったのである。当然だが彼が議会の承認なしでこんなことを実行できるはずがないからである。しかしアテネ人は正気をうしなったのだろう。そこにいってビオーシャをやぶり、その土地をうばいかえそうといった。トーメディズはとんでもない敗北をきっし、甚大な犠牲者をだした。ビオーシャはこれきりもどってこなかった。

ところで、トーメディズがころされた戦いはコロニア(Coronea)である。アテは中部ギリシャから追いだされた。私がえがいた栄光にみちた絵は敵対する北部の軍隊によりよごされた。おきたことはこれだけでない。アテネで問題がおき、弱体化した。脆弱化し、敗戦の危機もあらわれた。突然、ちまたにいた不幸な連中がこの機会にとびついた。

* ユビアの反乱
アティカの東にあるユビアの島で反乱がおきた。これはペリクリースの観点からもでも致命的であった。彼は帝国における島の反乱を放置できない。海における支配をおびやかす。彼はその独立をゆるさないというのでなく、帝国において反乱を成功させることができない。といのは、それが他の反乱をよび、拡大してゆくという意味である。

彼らはエジプト敗戦後に反乱の気運がたかまるなか、戦いをとうして道を切りひらかねばならなかった。ペリクリースは自ら軍を引きい、艦船にのりユビアにゆき、屈服させた。彼がユビアにいっているあいだに、すでにのべたがビオーシャの敵対気運がたかまり、メガラで反乱がおきた。この同盟は常に非常にあやふやなものだった。過去の二つのことを指摘する。両者は数百年のあいだ、きびしい敵対関係にあった。つまりその同盟は不自然である。時の勢いでむすばれた合意である。メガラのなかにはこれに反対する多数の人々がいる。機会をうかがい彼らはうごく。もう一つの点である。アテネはまとまってない。彼らの軍が別のところにいる。

* メガラの反乱の動き
ペリクリースは非常に危険な事態とおもった。もしメガラの反乱が成功したなら、彼らはスパルタの侵入から防禦がなくなる。そう予測して当然であり、実際のそうおきた。ペリクリースはユビアの反乱をおさめた後に、ただちにアテネにもどり、侵入してきたペロポネソスを向かえうった。これはアティカの北の平野であった。

スパルタが侵攻した。ペリクリースはアテネの陸軍を引きいた。これはアテネが敗北する場面である。というのはペロポネソス側は数でまさってるだろう。彼らの軍の優秀さがここで発揮されるだろう。だが我々はここで簡単な勝ちをみることはないだろう。アテネはそれがもつたかい戦闘能力をみせたようだ。彼らは勝ちをおさめたのではない。

* 睨み合いから暫定和平
両者は向いあった。まさに戦いがおきようとしてた。突然、スパルタ軍から使節がやってきた。ペリクリースが彼らをむかえた。すこし対話があった。両者はそれぞれの軍にもどった。スパルタを引きいてたのは、王、プライスタイアニクス(pleistoanax)であった。彼はペリクリースと信頼関係のある人物だった。彼は軍をひいてスパルタにもどった。彼らは恒久的な和平を実現するための四ヶ月の和平に合意したとあきらかにした。ここでは何がおきようとしてるのか。スパルタは複雑な経路からこの知らせをうけた。最初の反応はプライスタイアニクスへの怒りだった。何故、アテネ人を殴りつけ徹底的にやっつけなかったのか。最終的には彼や顧問たちの処分がきまった。彼らを追放した。この好機をのがした彼らにたいする怒りだった。

でも結局、またアティカに侵攻したのである。アテネとたたかい、あるいは田畑や家屋を破壊、略奪する。すくなくともアテネ人を不幸にし外にでてたたかわせる。何故彼らはやらなかったのか。たしかにやらなかった。二つの根拠がある。プライスタイアニクスは非常に特別な機会をうしなった。

その時はアテネのすべての前線がばらばらになりそうだった。それがまさに戦いがもとめられてた時である。他方、スパルタはおさえられていた。ユビアは静かになった。アテネはすべてを整理してた。しかし私が最初にいってたことは真実だった。もしその気になればやってきて戦いに持ちこむことができた。だが何故たたかわなかったか。私はペリクリースがプライスタイアニクスにあることが真実であるとみとめさせたからとおもう。

スパルタが冷静になった時に何をするのが合理的とスパルタ人がかんがえたからである。では、もしたたかえば何がおきたか。我々はすこし前にたたかった。そこの何が彼らにおきたのか。あなた(スパルタ)は我々をまかした、だが徹底的でなかった。あなたは戦いでおおくをころした。だがそれを利用して自分の有利につかわなかった。それは、当時の状況よりさらに今日の状況で成立してる真実である。それは、もしあなたが我々をまかすと我々は何をするか、それから真実とわかる。我々は我々の壁にもどる。門からなかにはいる。あなたは我々をくるしませることができない。もし我々がそうおもうなら、たたかわないですませる。それは我々が海上を支配する艦船をもっているからである。我々は同盟国から資金をえてる。それが艦船につかえる。我々が海の支配を維持するかぎり、我々の田畑を略奪しても我々は輸入により必要な穀物を入手できる。

ではあなたはどうするか。あなたは無駄に戦死者をだす。それでもあなたは我々を望みの方向にもってゆけない。この議論をペリクリースがプライスタイアニクスとやったことはないだろう。プライスタイアニクスのやったことをみると戦争をやりたがる人物でない。むしろ機会があればよろこんで戦争をさける。スパルタの軍はそれをできたのに、やらなかった。私はこの考えが彼らには現実感をあたえ、説得力をもったとおもう。それで、四ヶ月の和平が成立した。

* 三十年和平の協定
アテネとスパルタががそれぞれの同盟を代表し交渉にはいった。そして三十年間の和平の協定が締結された。紀元前四四六年から四四五年の冬のことである。和平の条件は、アテネがエーゲ海の外の陸におけるすべての奪取してた土地を放棄する。ただしノーパクティスは例外で奴隷たちにのこす。

一言でいうと誰も公式にみとめないが、アテネが決定した国をアテネの同盟にふくめる。それをスパルタがみとめた。またアテネ帝国を正当なものとみとめたことを意味する。また将来の戦争を防止するためにあたらしい規則をさだめた。ほとんどの協定がそうであるように未来の戦争を防止しようとした。この戦争がどのようにはじまったかを振りかえり再度発生しないよう配慮した。たとえば、この戦争は同盟を変更することからはじまったので、この協定では禁止した。ではこんなことをかんがえる人がいるにちがいない。中立国が一つの側からもう一つにかわったらどうする。さらにこの国が戦略的に重要だったら。これは和平にとって問題にならないたろうか。

* 協定、のこった中立国問題
彼らはそうならないと結論した。というのはどちらの側に参加するのも自由だといった。彼らは問題とかんがえなかった。というのは中立国はどちらに参加するのも自由としたからである。言いかえると、もし中立国が一つの側に参加すると、誰もそれを了承といえない。それは戦争の理由となる。というのはそうならないといえないからである。最後にもっとも気になること、独創的、まったく例をみない独創的な考えがでた。歴史上、かったなかったものである。それは協定の条項である。将来、両方に意見の相違、相手方への不満がうまれた場合の条項である。

この案件は裁定者に申しでて決定しなければならいというものである。ここで注意するうが、これは、ではもう一度話しあおうというよううな仲介者のことをいってない。それは権限と任務をもち、正誤の判定をする裁定者についてはなしてる。もし、この条件がまもられるなら論理的には両者の側に戦争はおきないといえる。これはおどろくべき考えである。私はこれは、何度もかんがえたが、証拠はないのだが、ペリクリースの考えとおもう。

というのは、私は普通でないこと、前例のないことすべてにはペリクリースがからんでるという意味である。彼はそういう考えをもつ人物である。発想がゆたかでふるくからの問題をあつかう、あたらしいやりかたを容易にみつける人物であるからである。私はこれは彼の考えであり、この方法が将来、戦争の危機がせまった時に意見の相違を調停することになる。それしかないとかんがえていたとおもう。この裁定による方法があって、紀元前四三一年にしめした彼の立場をよく説明することになるとおもう。これは非常に重要なことである。

私はスパルタがこの方法にどのようにかんじてたかしらない。あるいは彼らが将来どのようになるかしってたかをしらない。実のところ彼らはしらなかった。しかし彼らはこの協定に合意した。それが両方が誓約して三十年間、まもらねばならない協定であった。この三十年の協定、私はこれをツキジデスをしらべてその議論をもとに評価しなければならない。それについてはなす。

* 和平のいろいろ
すなわち、和平があった。いろいろとあった。それらはおなじものでない。私はあなた方のために三つの和平の種類をしめす。このどれにはいるかをしめす。第一次大戦、いやベルサイユ(Versailles)の平和、これは専門家からカルタゴ(Punic)の平和といわれる。彼らは第二次カルタゴ戦争でハンニバル(Hannibal)とむすんだ和平についてはなしてる。しかしカルタゴの都市がほろびた第三次カルタゴ戦争ではない。

そこではころされなかったカルタゴ人が追放された。田畑は破壊され潮をまかれた。そこでは何もそだたないとかんがえられた。これがカルタゴの和平である。その和平は、もはやその国とは戦争をすることはない。もはや何も存在しないからである。これが一つの極端な例である。もう一つの極端な例である。勝者側がきびしい和平を押しつけることができる。だがよりおだやかな和平をあたえる。それは相手側と将来の友好関係を希望してのことである。それは相手を信頼しておこなう。時には破壊をともなわない。

このような例がある。敗者側は弱体化させる。それは将来に問題がおきないといえるまでにおこなう。またこんな和平がある。ウェストフェリア(Westphalia)、欧州の三十年戦争がおわり一六四八年にむすばれたもの。そこでは誰もが敗者となってない。それとともに明確な勝者もいない。すべての者が戦争により予想もしない費用をついやし、もはやそれ以上の戦争をつづけられなくなった。妥協せざるをえなくなった。

この和平がつづくかはわからない。将来の状況の変化による。では、たぶん最悪といえる種類の和平がある。プロシア人(Prussians)が一八七〇年にフランス人に押しつけた平和である。普仏戦争の後に押しつけたもの。そこでの大問題はアルザス・ロレーヌ(Alsace-Lorraine)をフランスからうばい、ドイツに編入した。それと同時にフランスを二度と脅威とならないようにきびしくはあつかはなかった。しかし予想可能な将来、もしかしたら永遠かもしれないが、フランスがいかり、不満をもち、どうしてもアルザス・ロレーヌを取りもどそうとする、それは戦争にまでいたらないかもしれないが、それを予想できた。

ある程度、それは本当だった。だがもっともたしかな証拠は一九一四年までにフランスがアルザス・ロレーヌを放棄してた、また人々はそれがフランスが戦争にむかう理由となるといってた。だがそれは事実ではない。しかしまたそうしんじてたフランス人もいた。しかしバランスをとってそうならなかった。私がしるもっとも不満がのこった和平の例はベルサイユの和平である。それは第一次大戦をおわらせたものであるが。そこではドイツが非常にきびしくあつかわれた。彼らの意見ではそうである。だが、それはもっときびしいあつかいもあったが、拒否された。そうはいっても彼らはおおくの領土をうしなった。また制約をかけられた。しかし恒久的な損失をあたえる制約、ドイツが復興した時に、協定の決定をくつがえすことができない。これを確保するような制約はかせられなかった。

これはこんなひどい状況でもっあた。敗戦側は和平に完全に不満がのこり、それをやぶろうとする方向にむかえるほど強力であった。

* 三十年和平の評価
さて、こららの例では三十年の和平はどれに整合するか。もっともちかいのはウェストフェリアである。両方はどちらも満足しなかった。納得のいかない戦争、危険をもたらすもの。どちらの側も予測しないような危険をもたらすものである。またその時の軍はこの戦いをここでおわらせる利益があるとかんじてなかった。どれほどど利益がえられるかがが鍵だった。

これで和平は可能となるだろう。これでこれからのペロポネソス戦争は不可避でなくなる。学者はいまも議論してる。ツキジデスはどうか。彼はさけられたといったと私はおもう。おおくの学者もそうおもってる。幾人かの人々はちがうという。でもそれらは学者がそういってる考えを反映してる。私は否、さけられなかったとおもう。その理由であるが、これまであなた方にしめした事由による。これが重要であるが、客観的な状況が影響することが重要ではあるが、意図が重要とおもう。ここが歴史家と政治学者との見解がわかれるところである。

* 政治学者と歴史家の違い
政治学者は意図におもきをおかない。自動的というか、体系的にかんがえる。彼らはそのようにかんがえるのをこのむ。国同士はビリヤードの玉のようにぶつかる。その内面には立ちいらない。その内部は人々で構成されてない。党派で構成されてない。国々はそうならねばならないことをする。それは卓上のおかれた状況の必要のとおりにうごく。

歴史家は関係する人々がどうしたいとおもってたか、どうしたくないか、誰にはたらきかけようとしてたかをかんがえる。これをこのむ。これが正統な歴史家である。そんな歴史家を見つけるのはどんどんむずかしくなってるのであるが、あまりにもおおくの政治学者が歴史家のなかにかくれている。ここで鍵となる質問である。この和平がつづくのにこれら人的要素が関係するのか、これが鍵と私はおもう。ここでの演者はどうかんじてるのか。これがこれからおきることを彼らがどのようにみてるのか。和平をもとめてるとしてどうかんがえてるのかである。あるいは彼らは避けがたいとおもったのでただ現状を受けいれたのか。私は証拠からおもうのだが、条約を締結した人々は戦争より平和がよいという考えを受けいれてたとおもう。

そして彼らは戦争がおきるのをより困難とするのに努力しようとした。ペリクリースは、私はおもうが、紀元前四三一年になるとはっきるするが、そうしてたとおもう。だが、私はそれは平和を志向した党派だったとおもう。ではまた、スパルタでは保守的で、将来の戦争の可能性を拡大することに抵抗をしめす人々がいたとおもう。そして私はそれがスパルタの正常な党派であるとおもう。

これはすべて議論のいるところだが、スパルタの正常な状況だと私はおもう。もし和平をやぶろうとしたら、何かが、あるいは出来事、状況、恐怖、好機、これらが次々とおきて*和平をやぶる事態とならねばならない。では私は私の考えをはっきりとのべる。もう一つの戦争が必然である。ではそういう人は戦争が勃発し、和平がやぶられたという理由を明確にする責任がある。これが次にのべること。紀元前四四五年から四三一年の状況をしらべる。そこで和平に問題がうまれ最後に和平がやぶれる前の状況についてのべる。これが次回にのべることである。
(3の3、おわり)

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