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ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の2)



* コリンスのアテネへの憎悪
これでコリンスがアテネにけしがたい憎悪をもつ。そのはじまりである。というのはこの両者の関係をみる。するうとそこで彼らはかならずしも非友好的でなかった。現状を容認し問題なしとしたことがあった。しかしこれからはおおきな問題をかかえることとなったのである。

これはツキジデスの著作をよむことでわかるが、紀元前四三一年の戦争、これは大ペロポネソス戦争であるが、これを引きおこすのにコリンスが決定的役割をはたしたのであるといってる。これがアテネの決断がはらわねばならなかった一つの結果である。もしツキジデスの判断を大ペロポネソス戦争にあてはまると、またこの状況にあてはめると、非常にうまく適合するようにおもえる。彼はアテネの拡大してゆく力はスパルタのおそれを引きおこしたと、いった。それを強硬措置て増大させたと、彼はいった。アテネの力が拡大したことは間違いない。

アテネがメガラとむすんだ同盟により地政学的優位性を獲得した。これは突然、アテネを巨大なものにし、スパルタがおれるようになったのは間違いがない。究極的にアテネとの戦争を決意するほどの脅威となった。私は第一次ペロポネソス戦争についていうならツキジデスとおなじ意見である。私はこのことを問題にしてるわけでない。一つのおおきな疑問がある。大ペロポネソス戦争についてだが、これがあてはまるのか。彼の評価がこの戦いにあてはまるのか、である。私はまずあきらかにしておくが、ほとんどの学者は大ペロポネソス戦争のツキジデスの評価と解釈がただしいとみとめている。しかし私は同意しない。

彼は私とちがうところにいる。私よりおおくをしってる。彼は私よりずっとかしこい。私が彼が間違いというなら、それで私の判断の評価に貴重な材料をえるだろうとおもう。我々はこの戦争につきここで詳細をのべないが次のことをいっておく。アテネは戦いの火蓋をきった。概していうとアテネは海でたたかい、そこで勝利した。陸でたたかう時はそうでなかった。数年間も継続するおおきな戦いはなかった。戦いのほとんどはペロポネソスの東南部とその周辺でおきた。どれも決定的なものはなかった。紀元前四五七年だが、これらの時期はすべて不確定、海についてはぼぼ定説があることををことわって、すすめる。アテネはエジプトの支配者から招待状をもらった。彼らはペルシア帝国に反乱をおこそうとしてた。彼はアテネに援軍をよこすようもとめた。アテネは同意しツキジデスによれば二百艘の艦船をおくった。この当時としては巨大な艦隊である。当時、アテネが保有する艦船はそれよりおおきかった。彼らはこれだけの艦船をおくる能力をもってた。しかし彼らにとって相当の大事業だったとおもう。これだけのことを何故したのか。それはエジプトからえられる利益がおおきいとおもってたからである。エジプトは地中海において巨大な穀倉である。アテネは常に穀物の供給源について関心をもってる。

* エジプトの反乱
エジプトは肥沃な土地をもち夢のように富裕である。アテネが分け前にあずかるなら利益となる。また公式にはアテネはまだペルシアと戦争状態である。ペルシアがえている利益をはがして、もってこようとするのはまったく問題がない。これらからその決定は充分に理解できる。もう一つの問題がある。あなたはペロポネソスのいくつかの国との戦争に巻きこまれてる。スパルタはまだ行動にでてないが、それを予想できる状況にある。そこでまたペルシアとの戦争に踏みだすよい時期といえるのか、である。

で、彼らはできるとかんがえた。彼らが当時は自信過剰になってた。その証拠があるとおもう。それが自信過剰だったことはこれからしることとなる。これらは、ギリシャ人の感覚、ギリシャ人の理想、ギリシャ人の宗教、そして神話にみごとに適合する。これは無神論者のツキジデスでなく、ヘロドタスがかくならば、みごとな実例となるものだった。

ところでツキジデスが無神論だったとの確証はないが、非常に懐疑的だったことは間違いない。彼らがそうなるのが充分ありそうな状況だったから、ヘロドタスなら傲慢についておおいにかたったことだろう。エジプトにおけるアテネの軍の活動は当面わすれて、紀元前四五七年の状況についてみてみる。ここで我々はたしかな証拠がある。それは埋葬時にのこされた碑文である。アテネの一つの氏族のものだが、彼らがたたかい、死亡し、それを名誉におもってのこしたものである。

* 傲慢さをみせるアテネ
彼らが男の英雄的行為を誇りとしてたとおもう。彼らは、それまできいたことのない、登場したことのない土地でたたかった。その宏大さについてもまた誇りとしてたとおもう。それはエジプト、フェニキア、ハリエス(Halias)、これはペロポネソスの北部の都市である。アジャイナ(Aegina)、サロン湾の沿岸にあり、アテネの対岸にあたり、アテネの宿敵である。そしてメガラ。このおなじ時期にたたかった土地である。これは猿人が自分がいかにつよいかを胸をたたいてしめす実例である。これは傲慢をしめす。そして神による天罰をよぶものといえる。だがただちに天罰はくだらない。そのかわりに勝利である。アジャイナ、その島がアテネにより奪取された。アジャイナはつよい海軍をもってた。

アテネは敵からつよい海軍力をうばい自軍にいれた。間違いなく制海権、これはもうすでにもっていたが、さらに強固にした。誰も海で彼らにかなうものはいない。メガラとの同盟があり、北西部の完全な安全をえた。それだけでない。最後に、私の推測だが、スパルタはこれらがおきたこと、アテネの拡大する力に恐怖をかんじ行動をおこした。ちいさな手をうってきた。その決定的要ケーガンギ歴、ペロポネソス戦争(17、3の2)

* コリンスのアテネへの憎悪
これでコリンスがアテネにけしがたい憎悪をもつ。そのはじまりである。というのはこの両者の関係をみる。するうとそこで彼らはかならずしも非友好的でなかった。現状を容認し問題なしとしたことがあった。しかしこれからはおおきな問題をかかえることとなったのである。

これはツキジデスの著作をよむことでわかるが、紀元前四三一年の戦争、これは大ペロポネソス戦争であるが、これを引きおこすのにコリンスが決定的役割をはたしたのであるといってる。これがアテネの決断がはらわねばならなかった一つの結果である。もしツキジデスの判断を大ペロポネソス戦争にあてはまると、またこの状況にあてはめると、非常にうまく適合するようにおもえる。彼はアテネの拡大してゆく力はスパルタのおそれを引きおこしたと、いった。それを強硬措置て増大させたと、彼はいった。アテネの力が拡大したことは間違いない。

アテネがメガラとむすんだ同盟により地政学的優位性を獲得した。これは突然、アテネを巨大なものにし、スパルタがおれるようになったのは間違いがない。究極的にアテネとの戦争を決意するほどの脅威となった。私は第一次ペロポネソス戦争についていうならツキジデスとおなじ意見である。私はこのことを問題にしてるわけでない。一つのおおきな疑問がある。大ペロポネソス戦争についてだが、これがあてはまるのか。彼の評価がこの戦いにあてはまるのか、である。私はまずあきらかにしておくが、ほとんどの学者は大ペロポネソス戦争のツキジデスの評価と解釈がただしいとみとめている。しかし私は同意しない。

彼は私とちがうところにいる。私よりおおくをしってる。彼は私よりずっとかしこい。私が彼が間違いというなら、それで私の判断の評価に貴重な材料をえるだろうとおもう。我々はこの戦争につきここで詳細をのべないが次のことをいっておく。アテネは戦いの火蓋をきった。概していうとアテネは海でたたかい、そこで勝利した。陸でたたかう時はそうでなかった。数年間も継続するおおきな戦いはなかった。戦いのほとんどはペロポネソスの東南部とその周辺でおきた。どれも決定的なものはなかった。紀元前四五七年だが、これらの時期はすべて不確定、海についてはぼぼ定説があることををことわって、すすめる。アテネはエジプトの支配者から招待状をもらった。彼らはペルシア帝国に反乱をおこそうとしてた。彼はアテネに援軍をよこすようもとめた。アテネは同意しツキジデスによれば二百艘の艦船をおくった。この当時としては巨大な艦隊である。当時、アテネが保有する艦船はそれよりおおきかった。彼らはこれだけの艦船をおくる能力をもってた。しかし彼らにとって相当の大事業だったとおもう。これだけのことを何故したのか。それはエジプトからえられる利益がおおきいとおもってたからである。エジプトは地中海において巨大な穀倉である。アテネは常に穀物の供給源について関心をもってる。

* エジプトの反乱
エジプトは肥沃な土地をもち夢のように富裕である。アテネが分け前にあずかるなら利益となる。また公式にはアテネはまだペルシアと戦争状態である。ペルシアがえている利益をはがして、もってこようとするのはまったく問題がない。これらからその決定は充分に理解できる。もう一つの問題がある。あなたはペロポネソスのいくつかの国との戦争に巻きこまれてる。スパルタはまだ行動にでてないが、それを予想できる状況にある。そこでまたペルシアとの戦争に踏みだすよい時期といえるのか、である。

で、彼らはできるとかんがえた。彼らが当時は自信過剰になってた。その証拠があるとおもう。それが自信過剰だったことはこれからしることとなる。これらは、ギリシャ人の感覚、ギリシャ人の理想、ギリシャ人の宗教、そして神話にみごとに適合する。これは無神論者のツキジデスでなく、ヘロドタスがかくならば、みごとな実例となるものだった。

ところでツキジデスが無神論だったとの確証はないが、非常に懐疑的だったことは間違いない。彼らがそうなるのが充分ありそうな状況だったから、ヘロドタスなら傲慢についておおいにかたったことだろう。エジプトにおけるアテネの軍の活動は当面わすれて、紀元前四五七年の状況についてみてみる。ここで我々はたしかな証拠がある。それは埋葬時にのこされた碑文である。アテネの一つの氏族のものだが、彼らがたたかい、死亡し、それを名誉におもってのこしたものである。

* 傲慢さをみせるアテネ
彼らが男の英雄的行為を誇りとしてたとおもう。彼らは、それまできいたことのない、登場したことのない土地でたたかった。その宏大さについてもまた誇りとしてたとおもう。それはエジプト、フェニキア、ハリエス(Halias)、これはペロポネソスの北部の都市である。アジャイナ(Aegina)、サロン湾の沿岸にあり、アテネの対岸にあたり、アテネの宿敵である。そしてメガラ。このおなじ時期にたたかった土地である。これは猿人が自分がいかにつよいかを胸をたたいてしめす実例である。これは傲慢をしめす。そして神による天罰をよぶものといえる。だがただちに天罰はくだらない。そのかわりに勝利である。アジャイナ、その島がアテネにより奪取された。アジャイナはつよい海軍をもってた。

アテネは敵からつよい海軍力をうばい自軍にいれた。間違いなく制海権、これはもうすでにもっていたが、さらに強固にした。誰も海で彼らにかなうものはいない。メガラとの同盟があり、北西部の完全な安全をえた。それだけでない。最後に、私の推測だが、スパルタはこれらがおきたこと、アテネの拡大する力に恐怖をかんじ行動をおこした。ちいさな手をうってきた。その決定的要素は中部ギリシャの小国、ドリス(Doris)があたえた好機である。これはドリアン(Dorian)の言葉の起源となる国である。理論的にはすべてのドリアン人の先祖にあたる都市である。スパルタとはあきらかに友好的関係にあった。彼らは隣国のどこかと問題を引きおこした。典型的なギリシャの都市国家間の紛争である。スパルタに援軍をおくるようもとめた。

* スパルタ、ドリスに援軍
私はスパルタが通常のやりかたをとったかどうか確信がない。というのほ、そうすれば中部ギリシャと対決をすることとなるからである。アテネがメガラでやったことをかんがえると、彼らは徒歩で進軍することはできないはずであるからである。惟一いえるのは、船にのってコリンス湾をわたりそこにゆくことである。しかしアテネあるいはノーパクティスを占拠してる奴隷たちから発見され軍は攻撃され艦船は沈没させられるからである。

この方法は秘密裏に渡航する必要がある。通常ではありえないとおもう。だが通常でないのかもしれない。歴史家、シシリーのダイオドロスがこういってる。ツキジデスはふれてないが、シーブス(Thebes)、ビオーシャの指導的立場にある都市、これは常に野心をもちビオーシャの覇権をねらってる。そして常に反抗する。シーブスがこの機会にスパルタの援助をもとめた。彼らがスパルタにこういった。

* スパルタ、シーブスと関係をふかめる
スパルタがやってきて、シーブスがビオーシャの支配を強化するのをたすけるならば彼らはアテネの攻撃に参加する。だから、同意したからスパルタがやってこれたと私はおもう。彼らはそして、ドリスの問題をあつかうより大量の軍をつれていった。ただちにたたかいの場所にいった。どうおもうか。彼らはビオーシャとともにはアテネの国境にやってきた。タナグラ(Tanagra)という都市のちかくである。もちろん、スパルタはコリンス湾をひそかに渡航した。どうしてアテネや奴隷たちが気づかなかったのか疑問かもしれない。それはスパルタがこんなことをやったことがなかったからと私はいう。とにかく彼らはやってきた。

* タナグラでの戦い
戦いがおきたが、戦力についてである。スパルタは一万千人をおくった。これは彼ら自身とペロポネソス同盟のもつ戦力よりおおきい。彼らとビオーシャを集結させたものである。ビオーシャは優秀な戦士たちである。アテネもこれに対抗する軍をおくった。その大部分はアテネの陸軍からなる。これはギリシャの水準からいうと極めて大規模な戦いである。その結果はほぼ引き分けだった。とはいえ技術的な判定ではスパルタの勝利である。彼らは戦いがおわった時にその優位をたもった。兜(trophy)を戦場にたて、彼らの死者をあつめた。

アテネは戦場にもどり彼らの死者をあつめる許可をもとめた。だから重装歩兵の戦闘のやりかたからいえばスパルタの勝利は間違いない。だが戦略的な観点からと、現在の我々の立場からいうと、それは引き分け、あるいはアテネの勝利ともいえる。というのはスパルタはアテネをたおすためにやってきて、アテネがやろうとしたこと、やってきたことすべてをすてさせる。そのための戦いだったからである。

この点で彼らは失敗した。というのは彼らは戦闘においてひどい損害をうけた。さらにこれから戦いをはじめアテネ軍を崩壊させる余力はなかった。スパルタはそのままペロポネソスにもどっていった。アテネもそれを阻止する力はなかった。こんなものだった。あるいはこの後の状況からかんがえるとアテネの戦略的勝利という見方も成立する。というのは、まず、アテネは崩壊してない。実質的に敗北してない。彼らがやろうとしてたことを阻止できてない。その証拠にアテネはスパルタがビオーシャにひいた時に、ビオーシャの軍をオイフォニタ(Oephonyta)とい場所でやぶってる。

* アテネ、シーブスをやぶる
次に、アテネはっビオーシャのすべての都市国家、アテネに友好的なものだが、そこにおいて民主主義政府の樹立に成功した。ここで私は冷戦時代との比較をしたい。ソ連の陸軍が優勢だった場所において、ソ連が占領した地域には共産主義政府があった。その政府の役割はソ連の支配の手段として機能するものだった。こんな比較ができるということである。

およその考えはおなじである。その都市国家をうごかす人々はアテネにくみする人々である。つまりアテネはビオーシャで支配的勢力である。ここでしばらく、身をひいてアテネのアクロポリスにたって周囲を見わたす。すばらしい状況にある。まるで一つの国が出来上がったような状況である。北をみれば、今までのべたことからビオーシャをとおした侵略はない。北は安全である。もし北西をみるとメガラは同盟国である。アテネの軍が駐屯する。そこは閉鎖されてる。抜け穴はない。

* アテネ、拡大の極地
だがスパルタがコリンス湾を渡航したことがある。この再来を阻止しなければななない。スパルタとその同盟はペロポネソスに閉じこめられてる。海はアテネが完全に支配してる。私はアテネがアテネとパイリアス(Piraeus)を連絡する通廊の壁の建設を丁度、この時に完成させたことをいってなかった。想像しにくいがスパルタがアティカに侵入することに成功したとしても戦闘にはいる必要はない。彼らに降服する必要もない。というのは誰も壁で防禦された都市をうばう方法をしらない。スパルタもしらない。だから飛行機を発明しなければアテネは完全に不可侵である。

飛行機はそこから二千年も後の発明だ。ということは夢のように安全だ。だから不可侵と断定できる。そこではやりたいことができる。それも誰からも罰もない。私はこれがアテネにとり非常に重要な瞬間だった。またギリシャの歴史においてもそうだったとおもう。そこには自分たちが成しとげたこと、成しとげられること、将来のあらゆる状況にねらうべきことにむかって、けっしておどろかないアテネ人がいた。

ではペロポネソス戦争である。そこでアテネがスパルタと平和を交渉することのできる瞬間がおとづれるのである。戦争で合意し、あるいは拒否することができる。私はツキジデスや他の人々が、彼らは正気をうしなったと示唆してるとおもう。それはたぶん、そうかもしれない。彼らには集中できる何かがある。それはかっておきたことの記憶であり、これからやってくるかもという意識である。

それはおそらく神がゆるさないことである。そのことをあなたも私もしってる。アテネ人はこの状況をくつがえす、とんでもない逆風をむかええた。エジプトから不幸がやってきた。アテネはそこでやぶれた。ペルシアが彼らをやぶった。どれだけの艦船がうしなわれたかおおいに議論があるが、とにかく彼らはおおいにやぶれた。戦略的に重大な敗北である。その損害は甚大で、アテネ帝国のデリアン同盟の国々の反乱があいついだ。しばらくのあいだ、アテネはその鎮圧にいそがしかった。

* アテネ、エジプトでの敗北
ところでこの敗北の時期だが、おそらく紀元前四五五年。この次の年、四五四年、四五三年は確実で、アテネが同盟の金庫をデロス(Delo)からアテネのアクロポリスの上、パルテノン神殿の後ろの部屋にうつした。これは戦いのすぐ後に建築した。もう一つの重要な点である。この金庫の資金は海軍と表面上は同盟目的でつかわれる。この同盟目的だがすでにのべたように彼ら自身の目的につかうことができた。それはセイソスの時におきたことである。だがそれでも艦船と乗員のためだった。ところがアテネはあたらしい方針をきめた。これをどうみるか、私は彼らが帝国をつくったとおもう。

* アテネ帝国の出発
もはやそれは自発的にうまれた連合体というものでない。というのは彼らは毎年、金庫にある資金の六十分の一をとる。これは女神アテナへの貢納金であるが、これはアテネと言いかえることができる。彼らは今や、利益をうばう。同盟国からの税金である。これは将来、どのようにつかうか論議の的になる。彼らはそれは我々の金であり、我々が我々のやりたいようにつかうことができると主張することになる。

二つのことが二つのちがった方向にむかう。同盟におきるすべての問題、これが彼らに同盟の性格をかえざるをえなくする。問題はむずかしい。スパルタとたたかうこと、深刻な段階になってる。アテネ人は追放されてたキーマンを呼びもどした。というのは彼らはスパルタとの和平をのぞんでおり、それにふさわしいのがキーマンであるとおもってたからである。

* キーマンの復活
彼のことだが、彼はもっとはやく再登場との説もあるが、彼が紀元前四五一年に再登場した。というのは十年間の陶片追放が解除されたからである。彼はスパルタと交渉し五年間の和平を実現させた。これは両国が長期の和平の協定の交渉をおこなうとの了解のもとになされた。キーマンはこれを実現させ、陶片追放がどのようにはたらいたかをしめし、彼はただちに将軍にえらばれた。彼はまるで追放されなかったかのようだった。彼はただちに活動にうつった。彼がやりのこしてたことをはじめた。それはペルシアとの戦いだった。

彼は艦隊をつれキプロス(Cyprus)にむかった。その一部分はペルシア領だった。ペルシアとたたかい、それをやぶった。だが不幸にも死亡した。これでキーマンはアテネの政治からいなくなった。これは重大なことである。民衆の支持をえ、カリスマをもち、あたらしく登場してくるアテネの重要な指導者、ペリクリースに対抗できる政治家がいなくなったということである。これはペリクリースが比較的若年であるのに、前例がないほどの影響力をもつ人物となることができた理由でもある。彼があらたな権限を創設したり、軍事的勢力をえたことではない。
(3の2、おわり)
素は中部ギリシャの小国、ドリス(Doris)があたえた好機である。これはドリアン(Dorian)の言葉の起源となる国である。理論的にはすべてのドリアン人の先祖にあたる都市である。スパルタとはあきらかに友好的関係にあった。彼らは隣国のどこかと問題を引きおこした。典型的なギリシャの都市国家間の紛争である。スパルタに援軍をおくるようもとめた。

* スパルタ、ドリスに援軍
私はスパルタが通常のやりかたをとったかどうか確信がない。というのほ、そうすれば中部ギリシャと対決をすることとなるからである。アテネがメガラでやったことをかんがえると、彼らは徒歩で進軍することはできないはずであるからである。惟一いえるのは、船にのってコリンス湾をわたりそこにゆくことである。しかしアテネあるいはノーパクティスを占拠してる奴隷たちから発見され軍は攻撃され艦船は沈没させられるからである。

この方法は秘密裏に渡航する必要がある。通常ではありえないとおもう。だが通常でないのかもしれない。歴史家、シシリーのダイオドロスがこういってる。ツキジデスはふれてないが、シーブス(Thebes)、ビオーシャの指導的立場にある都市、これは常に野心をもちビオーシャの覇権をねらってる。そして常に反抗する。シーブスがこの機会にスパルタの援助をもとめた。彼らがスパルタにこういった。

* スパルタ、シーブスと関係をふかめる
スパルタがやってきて、シーブスがビオーシャの支配を強化するのをたすけるならば彼らはアテネの攻撃に参加する。だから、同意したからスパルタがやってこれたと私はおもう。彼らはそして、ドリスの問題をあつかうより大量の軍をつれていった。ただちにたたかいの場所にいった。どうおもうか。彼らはビオーシャとともにはアテネの国境にやってきた。タナグラ(Tanagra)という都市のちかくである。もちろん、スパルタはコリンス湾をひそかに渡航した。どうしてアテネや奴隷たちが気づかなかったのか疑問かもしれない。それはスパルタがこんなことをやったことがなかったからと私はいう。とにかく彼らはやってきた。

* タナグラでの戦い
戦いがおきたが、戦力についてである。スパルタは一万千人をおくった。これは彼ら自身とペロポネソス同盟のもつ戦力よりおおきい。彼らとビオーシャを集結させたものである。ビオーシャは優秀な戦士たちである。アテネもこれに対抗する軍をおくった。その大部分はアテネの陸軍からなる。これはギリシャの水準からいうと極めて大規模な戦いである。その結果はほぼ引き分けだった。とはいえ技術的な判定ではスパルタの勝利である。彼らは戦いがおわった時にその優位をたもった。兜(trophy)を戦場にたて、彼らの死者をあつめた。

アテネは戦場にもどり彼らの死者をあつめる許可をもとめた。だから重装歩兵の戦闘のやりかたからいえばスパルタの勝利は間違いない。だが戦略的な観点からと、現在の我々の立場からいうと、それは引き分け、あるいはアテネの勝利ともいえる。というのはスパルタはアテネをたおすためにやってきて、アテネがやろうとしたこと、やってきたことすべてをすてさせる。そのための戦いだったからである。

この点で彼らは失敗した。というのは彼らは戦闘においてひどい損害をうけた。さらにこれから戦いをはじめアテネ軍を崩壊させる余力はなかった。スパルタはそのままペロポネソスにもどっていった。アテネもそれを阻止する力はなかった。こんなものだった。あるいはこの後の状況からかんがえるとアテネの戦略的勝利という見方も成立する。というのは、まず、アテネは崩壊してない。実質的に敗北してない。彼らがやろうとしてたことを阻止できてない。その証拠にアテネはスパルタがビオーシャにひいた時に、ビオーシャの軍をオイフォニタ(Oephonyta)とい場所でやぶってる。

* アテネ、シーブスをやぶる
次に、アテネはっビオーシャのすべての都市国家、アテネに友好的なものだが、そこにおいて民主主義政府の樹立に成功した。ここで私は冷戦時代との比較をしたい。ソ連の陸軍が優勢だった場所において、ソ連が占領した地域には共産主義政府があった。その政府の役割はソ連の支配の手段として機能するものだった。こんな比較ができるということである。

およその考えはおなじである。その都市国家をうごかす人々はアテネにくみする人々である。つまりアテネはビオーシャで支配的勢力である。ここでしばらく、身をひいてアテネのアクロポリスにたって周囲を見わたす。すばらしい状況にある。まるで一つの国が出来上がったような状況である。北をみれば、今までのべたことからビオーシャをとおした侵略はない。北は安全である。もし北西をみるとメガラは同盟国である。アテネの軍が駐屯する。そこは閉鎖されてる。抜け穴はない。

* アテネ、拡大の極地
だがスパルタがコリンス湾を渡航したことがある。この再来を阻止しなければななない。スパルタとその同盟はペロポネソスに閉じこめられてる。海はアテネが完全に支配してる。私はアテネがアテネとパイリアス(Piraeus)を連絡する通廊の壁の建設を丁度、この時に完成させたことをいってなかった。想像しにくいがスパルタがアティカに侵入することに成功したとしても戦闘にはいる必要はない。彼らに降服する必要もない。というのは誰も壁で防禦された都市をうばう方法をしらない。スパルタもしらない。だから飛行機を発明しなければアテネは完全に不可侵である。

飛行機はそこから二千年も後の発明だ。ということは夢のように安全だ。だから不可侵と断定できる。そこではやりたいことができる。それも誰からも罰もない。私はこれがアテネにとり非常に重要な瞬間だった。またギリシャの歴史においてもそうだったとおもう。そこには自分たちが成しとげたこと、成しとげられること、将来のあらゆる状況にねらうべきことにむかって、けっしておどろかないアテネ人がいた。

ではペロポネソス戦争である。そこでアテネがスパルタと平和を交渉することのできる瞬間がおとづれるのである。戦争で合意し、あるいは拒否することができる。私はツキジデスや他の人々が、彼らは正気をうしなったと示唆してるとおもう。それはたぶん、そうかもしれない。彼らには集中できる何かがある。それはかっておきたことの記憶であり、これからやってくるかもという意識である。

それはおそらく神がゆるさないことである。そのことをあなたも私もしってる。アテネ人はこの状況をくつがえす、とんでもない逆風をむかええた。エジプトから不幸がやってきた。アテネはそこでやぶれた。ペルシアが彼らをやぶった。どれだけの艦船がうしなわれたかおおいに議論があるが、とにかく彼らはおおいにやぶれた。戦略的に重大な敗北である。その損害は甚大で、アテネ帝国のデリアン同盟の国々の反乱があいついだ。しばらくのあいだ、アテネはその鎮圧にいそがしかった。

* アテネ、エジプトでの敗北
ところでこの敗北の時期だが、おそらく紀元前四五五年。この次の年、四五四年、四五三年は確実で、アテネが同盟の金庫をデロス(Delo)からアテネのアクロポリスの上、パルテノン神殿の後ろの部屋にうつした。これは戦いのすぐ後に建築した。もう一つの重要な点である。この金庫の資金は海軍と表面上は同盟目的でつかわれる。この同盟目的だがすでにのべたように彼ら自身の目的につかうことができた。それはセイソスの時におきたことである。だがそれでも艦船と乗員のためだった。ところがアテネはあたらしい方針をきめた。これをどうみるか、私は彼らが帝国をつくったとおもう。

* アテネ帝国の出発
もはやそれは自発的にうまれた連合体というものでない。というのは彼らは毎年、金庫にある資金の六十分の一をとる。これは女神アテナへの貢納金であるが、これはアテネと言いかえることができる。彼らは今や、利益をうばう。同盟国からの税金である。これは将来、どのようにつかうか論議の的になる。彼らはそれは我々の金であり、我々が我々のやりたいようにつかうことができると主張することになる。

二つのことが二つのちがった方向にむかう。同盟におきるすべての問題、これが彼らに同盟の性格をかえざるをえなくする。問題はむずかしい。スパルタとたたかうこと、深刻な段階になってる。アテネ人は追放されてたキーマンを呼びもどした。というのは彼らはスパルタとの和平をのぞんでおり、それにふさわしいのがキーマンであるとおもってたからである。

* キーマンの復活
彼のことだが、彼はもっとはやく再登場との説もあるが、彼が紀元前四五一年に再登場した。というのは十年間の陶片追放が解除されたからである。彼はスパルタと交渉し五年間の和平を実現させた。これは両国が長期の和平の協定の交渉をおこなうとの了解のもとになされた。キーマンはこれを実現させ、陶片追放がどのようにはたらいたかをしめし、彼はただちに将軍にえらばれた。彼はまるで追放されなかったかのようだった。彼はただちに活動にうつった。彼がやりのこしてたことをはじめた。それはペルシアとの戦いだった。

彼は艦隊をつれキプロス(Cyprus)にむかった。その一部分はペルシア領だった。ペルシアとたたかい、それをやぶった。だが不幸にも死亡した。これでキーマンはアテネの政治からいなくなった。これは重大なことである。民衆の支持をえ、カリスマをもち、あたらしく登場してくるアテネの重要な指導者、ペリクリースに対抗できる政治家がいなくなったということである。これはペリクリースが比較的若年であるのに、前例がないほどの影響力をもつ人物となることができた理由でもある。彼があらたな権限を創設したり、軍事的勢力をえたことではない。
(3の2、おわり)

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