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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(16、3の3)


* 宗教における女性の役割
都市国家の宗教における各種の儀式、祭事のいろいろな役割が女性の惟一の公的役割だった。あたらしく刊行された本がある。コネリー(Connelly)という名前の大学の教授によるもの。これは古代ギリシャの女神官について詳細な研究をした。以前には我々がよくしらなかったものをあきらかにした。女性はすくなくともこの世界では非常に重要である。それがその他の世界をかえたといえないが女性は中心的な役割をはたしてたとおもう。しかし物事の宗教的側面に充分な周囲をはらってこなかった。我々は彼らが極めて世俗的な生活をしてるようにみえるが宗教が非常に重要な役割をはたしてた。

* ペリクリースの寡婦と母親への呼び掛け
宗教は彼らの考えかたのなかで非常に重要であった。これら宗教的事項をはなれても、アテネの女性はしずかに注意をひかないように家庭にとどまることを期待されてた。ペリクリースはペロポネソス戦争の第一年目にしんだ男たちの寡婦と母親にむかって話しかけた。こういった。彼の有名な葬式の言葉であるが、その最後にその寡婦と母親にむけいったもの。その出典はほぼ正確だろうとおもう。私にはすこし、あるいはまったくわからないものである。このような死者にこれらの言葉がはっせられたのか。それは一般的事項についての常識的な知恵をしめした。あなた方にあたえられる栄光はあなた方が自然にあたえられた特質にとどまるものでない。女性のもっとも偉大な栄光は男たちからほとんどかたられたことがない。それが善であっても悪であっても。では、ここで彼らは何故このような言葉がはっせられたのか、どうとらえたのか。誰でもよいがいつか私に説明してくれる人がいたらありがたいとおもってる。

* 一般像とちがう女性像
これらの情報源からえられる全体像はほぼ正確とおもう。だが、ちがった情報源からえられる全体像とうまく整合しなようだ。それをのべてみる。情報源だが、花瓶にかかれ絵画のような画像芸術、さらにおどろくかもしれないが悲劇、喜劇。これらはアテネにおいて毎年、二つの有名な祭事があり、そこで公演されてた。最後にはアテネの宗教的伝統といえる神話である。

* 強力な人物像
これからみると、公的あるいは私的世界において女性は中心かつ強力な人物として登場する。クライデムネストラ(Clytemnstra)、アイスキュロス(Aeschylus)の悲劇、アガメムノン(Agamemnon)に登場する。彼女は夫である王の殺人の用意をし、彼女の支配にいる愛人の専制政治を打ちたたる。次にエウリピデスのおそろしいメディア、彼女は王たちと交渉し、怒りのなかでおそろしい犯罪をおかす。それはエウリピデスによればその行為とちがい、その怒りは極めて正当と示唆してる。これはおおくのなかから、二つの例である。ここで女性は、中心的、重要で強力で能動的な役割をはたす。けっして受動的でない。

* 悲劇の女主人公、メディア
我々はあきらかに矛盾す姿にぶつかってしまう。それはエウリピデスの悲劇、メディアの有名なセリフにあらわれてる。次にそれをのべる。アテネのディオニドスの祭りでえんじられた劇にある。その女主人公、メディアは外国の女性である。彼女は尋常でない力をもつ。魔女といえる。ハロウィンの魔女を想像してはいけない。彼女の美貌はあなたを魅惑する。彼女は強烈な力をもつ外国の女性である。その劇中で彼女は女性の運命、それはあきらかに紀元前五世紀のアテネの女性の状況を正確に説明してるが、その運命についてはなす。

* 内面の言葉
いきてるもの、分別のあるもののうち、女性はもっとも不幸な存在である。まず過剰な富が我々、女性は夫をかうようもとめられ、我々の体のために主人をもつことをもとめられる。それが一人でなければ、事態はさらにわるくなる。そして問題は深刻になる。どちらがよいか、わるいか。女性はこの状況からの逃げ場をみつけるのは容易でない。あるいは拒否も容易でない。結婚は女性を追いつめる。その行動、身振りがかわり別の世界にうつる。

彼女に預言者のような能力が必要である。それは寝所をともにする夫を自在にあやつるのをまなんでいないならだが。もし我々がこれをうまく、注意ぶかくあやつれたなら、そして夫が我々とともに生活し、夫の負担をともにするなら、この生活は人がうらやむほどすばらしい。そうでないならしんだほうがよい。男が夫婦生活にあきたなら、彼は家をでて、その退屈さをおわりにする。そして友人や同年輩の仲間のほうにゆく。しかし我々は一人、家にとどまることをしいられれる。彼らはなんというか。我々は家庭の平和をたのしむ。だが彼らは戦争にいってたたかう。なんと馬鹿なことか。私は一人の子どもをうむより、戦線の前にでて三度立ちむかうだろう。

これをきいてアテネ人の男たちや聴衆はどうおもったのかしりたい。メディアがえがいた姿、女性は男に従属するものという姿は証拠からよく整合する。だが女性の運命に異議をとなえ文句をいう女性は彼女の名前をとった悲劇において強力で中心的人物であることに注意する必要がある。ところでこれだけでない。アテネ風の演劇のソフィクリ(Sopheclea)の悲劇、アンティゴニ(Antigne)がある。彼女もまた英雄的な女性である。王とその他の人々にさからい正義をつらぬこうとした。その信念をすてるよりむしろ死を受けいれた。これはペリクリースが思いえがいてた女性たちでない。かたることをやめ、放置した女性である。

これは、おおくのアテネ人の前で国の費用でえんじられたものだ。その脚本はアテネの有名な詩人であり演劇家である人物によりかかれた。メディアは中秋に恐怖をあたえた。それと同時に不正義の犠牲者として哀れみと同情をよぶ対象だった。彼女はその善悪をとわず、もっとも男たちによりかたられることのない人物だった。これらの男たちは劇場をでて一週間はメディアのことをかたることだろう。アテネの女性の役割は法がしめすより、もっと複雑であったとしんじる理由がある。女性について相互に矛盾するところがあり、それの充分な説明をもってない私がいえるのはここまでである。私は学界の論爭に立ちいらない。しかしここでのべた分裂は過去の証拠にあらわれてる。我々はさらなる何か、証拠を必要としてる。この両者がどれほど真実かをしるには、ぬけてるものがあるとおもう。次に奴隷制についてのべる。

* 奴隷制
ギリシャ、紀元前五世紀頃から家に付属した奴隷が(chattel slavery proper)はふえていった。社会で重要な要素となった。奴隷の主要な供給源は戦争捕虜、海賊行為による捕虜。彼らは人々を捕獲し奴隷としてうることを主要な生業としてた。もちろん、捕虜となった人々は最初、戦争、海賊などにより奴隷となり、奴隷商によりうられた。アメリカ南部の奴隷とちがいギリシャ人は彼ら自身で奴隷をつくろうとしなかった。あるいは成功しなっかった。

* 奴隷の起源
彼らは奴隷商から買いとるのが典型だった。中国、エジプト、ほとんどすべての文明をもつ人々とおなじく、ギリシャ人は外国人を劣等の人々とみなしてた。そして彼らをバーバリアン(barbarian)とよんだ。彼らの言葉が bar bar のようにきこえたからである。ギリシャ人のためにはたらく奴隷のほとどは外国人だった。ギリシャ人は時には、ギリシャ人を奴隷にすることがあったが、ギリシャ人の家庭でははたらかなかった。あるいはおおくはなかった。すでにのべたが奴隷は農夫たちとともに農場ではたらかせた。これが普通だった。この事情は二十世紀がはじまる前までは事情が同じだった。

* 農家ではたらく奴隷
ギリシャの大多数の農家は小規模だった。貧農では一人の奴隷をかかえれば幸運だった。はっきりといえないが、一人あるいは二人の奴隷をかかえ自分たちとともにはたらいたのだろう。以前にのべたが重装兵士の農家はこの程度だったとおもう。上層の人々は大規模だった。それは自由な借地人に貸す。それは奴隷がたがやし、また奴隷が監督するものもあった。

より大規模の土地をもつ人々はひとつのおおきな農地をもつのでない。私はあなた方に米国南部の状況、一人の農業主のもとに、おおくの奴隷を一カ所にかかえ大規模経営する姿を思いうかべないようにおねがいする。それはギリシャの典型的姿ではない。富裕な農業主は都市国家のなかに散在する小規模な農地をもつていた。このような状況では後代の新世界の綿花や砂糖黍栽培ではたらくような多数の奴隷を生みだす方向にははたらかなかった。そこで奴隷はすこしおかしな表現だが古代の工業ではたらく手工業者のようにはたらいていた。

* 鉱業における奴隷
しかしこのような例にあてはまらないものがあった。それは鉱業である。アテネ南部の鉱山の状況である。ちがった姿をみせる。ニキアス、紀元前五世紀、アテネの富豪は数千人をかかえてた。彼はそれを鉱山開発をうけおう人々に貸しだした。それで利益をえてた。だがこれは例外的な存在だった。これ以外の例はしらない。これが個人がかかえる奴隷の数の最大のものだった。

* 小規模奴隷、盾製造
アテネのもう一つの大規模奴隷の所有は居住外国人の家族百二十人ほどの奴隷を彼らの盾製造工場にやとってた。それはアテネの軍事鉱業複合体だった。ほとんどの製造工場は非常に小規模だった。その工場に一人ないし二人、少数の奴隷だった。ほとんどすべての商業には手工業とおなじく奴隷がはたらいてた。彼らは農業とおなじくその主人といっしょにはたらいてた。もしこれらの奴隷をよくみるとアテネの大多数の奴隷は自由人の手工業者、職人、普通の労働者のようだった。

* 小規模奴隷、商業
店舗にいる彼らもそうだった。というのは多数の労働者を前にし鞭をつかう人はいなかったからである。もし三人がはたらいてたら、一人が所有者でほかの二人が奴隷だろう。相当の数の奴隷が家庭内の従者としてはたらいた。おおくは羊飼いだった。公的にやとってた奴隷としては警察官だった。といってもびっくりしないでほしい。彼らは非常に少数だった。また監獄の監視人がいた。監獄も非常に少数で囚人もそうだった。事務員にもいた。彼らは秘書だった。そのうちの何人かは働きを評価され昇進した。これは普通のことで、商業においていえば、特に銀行にいた。紀元前四世紀のアテネでもっとも富裕な人物に、パジアン(Pazian)とよばれる人物がいた。彼は才能を発揮し自由を金でかった。そして富豪となった。これは奇人伝の話しである。このような例がおおくあるとおもわないでほしい。こんな一面もある。古代ギリシャの奴隷の数である。

* 奴隷の総数は
明確な答をだすだけの証拠がないので、ずっとながく論爭の的となってきた。奴隷の数の明確な数字はない。アテネをのぞいて自由人と奴隷の割合をしめす数字もない。

古典時代の奴隷の人口を証拠から推定するが、それは紀元前五から四世紀における奴隷だが、二万から十万とみる。そこで私は六万人とみてる。アテネの同時代の自由人の推定だが、四万世帯から六万世帯という推定がある。これから私は五万世帯とみる。これから一世帯に二人の奴隷がいて、アテネの自由人の四分の一から三分の一だけが奴隷をもってたとみる。

* 奴隷の分布
奴隷の分布は均一でない。ほとんどの家族は奴隷をもたない。ある家族は多数をもつ。ある歴史家の推定だが、南北戦争以前の米国南部で全人口の三分の一、自由南部人の四分の三は奴隷をもたなかった。奴隷制が南部の経済において需要だったからこれらの歴史家はこんな推定をしてる。古代アテネにおいても同様に重要であり、抑圧的だった。だが私はこの推定にいくつかの問題をかんじる。

その一つは南北戦争以前の南部の綿花地帯との差がある。そこで奴隷の解放はすでにあったが、大量の奴隷人口が有利にはたらく単一の商品作物が経済と社会を支配してた。ところが、アテネのようなところであるが、その経済は複数の作物から成りたち、せまい土地が散在している。そこでは大規模の奴隷制は適合しにくい。また、別の違いだが、奴隷がどの程度、解放されるかとの事情である。南部では比較的にまれであり、ギリシャでは極めて普通のことだった。もっとも有名な例はすでにのべたが、銀行の事務員から身ををこし、かせいで自由を買いとったパズアンがいる。彼はアテネのもっとも富裕な銀行家となった。市民権もあたえられた。だが奴隷自身で自由を勝ちとることはなかった。

* 奴隷の解放
人々はしばしばその死を契機に奴隷を解放した。またたびたび様々の理由で解放した。また、米国南部との違いだが、そこでは奴隷は主人と皮膚の色で違いがわかる。主人は奴隷解放に強硬に反対し、その反乱をおそれる。古典時代のアテネは非常にちがう。そこでは奴隷は街中を階級意識のつよい貴族をおこらせるほどに街中を濶歩する。プラトンがアテネの民主主義について文句をいってる。うられた奴隷の男女の自由は、彼らをかう人々とさほど差はない。紀元前五世紀の無名の著作家がその振る舞いに嫌悪をしめしてる。彼らをこらしめてもよいのに、しない。彼らは人がとおる時に脇によけないといった。

* 寛容な扱い
もし自由人が奴隷をうつことに法的正当性があった時に、アテネ人がしばしば奴隷と間違えられてうたれることがある。自由人の衣服が奴隷と居住外国人とくらべ特にすぐれてるわけでない。アテネ人は奴隷が贅沢にくらすことをゆるしてた。ある者は極めて贅沢な状態だった。

海軍力にたよる状況において、奴隷の労働は必要で金でかう。彼らの働きから利益をえる。奴隷が富裕になってしまうと、自分の奴隷があなたをおそれる必要がなくなる。スパルタでは自分の奴隷があなたをおそれるがアテネでは、もしあなたの奴隷があなたをおそれたなら、おそらく彼の金をつかって危険をさける措置をとるだろう。

馬鹿げたことをいうようだが、言論の自由のなかで奴隷と自由人を平等の関係におく事情である。これはアテネの民主主義になやまされた右翼の人物がはっした言葉のようだ。だがこれが真実をあらわしていて、馬鹿馬鹿しいといっても、それにかわる説得力をもつ考えがないので、否定できないものである。これで私は奴隷がアテネで一定の安心をかんじてくらしてたとおもう。古代アテネでは奴隷と自由人を識別するのが簡単にはできなかった。これは米国南部の状況と対照的な部分である。

* 奴隷解放の例
さらに特記すべきはアテネ人は彼らがもってたすべての奴隷を解放することもかんがえたことがある。紀元前四〇六年、アテネはペロポネソス戦争で敗北に直面した。彼らは軍役にこたえられる年齢のすべての奴隷を解放した。さらにアーグヌゥシ(Arginusae)の戦いに勝利した艦船にのった奴隷たちの市民権をみとめた。二度、重要な時点で、成功はしなかったのだが、同様の提案をおこなった。さて、南北戦争で奴隷を解放し南軍に参加させるという提案を南部政府に提案した人々がいた。だがでるたびにつぶされた。ここで我々はあきらかな違いを両者にみることができる。南部人におそれがあった。彼らは奴隷を信用せず、もし武器があたえられたら彼らに背をむけ彼らをころすというおそれだった。アテネ人はその恐れをまったくもってなかった。私は二つの体制の違いをしめす大事な話しだとおもう。

* 質疑応答、奴隷へのおそれ
では、この主題ではなすことはおわった。七分から八分あるので質問をうける。

学生:どうしてアテネ人が奴隷をおそれなかったのか。
教授:まず、アテネ人は奴隷にひどい扱いをしなかった。なので根本的憎悪がうまれなかった。次に、解放される可能性がないわけでなかった。これらがはたらいて両者のきびしい対立をうまなかった。つぎに、奴隷をアテネ人は自分をころそうとおもってるという感覚をもってなかった。これはおおくの奴隷が家庭にいたことに関係するとおもう。米国南部では家庭内の奴隷は非常にすくなかった。彼らは友愛的あるいはあたたかい感情をうむかもしれない存在である。さらにもう一つの状況がある。アテネの奴隷は主人といっしょになってはたらいてた。監視された集団ではたらいたわけでない。農家の農夫の同僚労働者としてはたらいてた。このような状況すべてが関係した。我々はアテネにおいて奴隷の反乱をきいたことがない。ところが ヘロットがスパルタでは反乱をおこしてた。彼らはスパルタとはちがう。紛争はあったが反乱はなかった。これらが理由となってる。

* 解放への仕組み
ほかに。(質問者の発言は不明)。彼らが技術を習得した時、程度はちがうが米国南部でもおきた。その場合、それだけ生産性がたかまるから主人側の利益でもある。だから奨励し、その見返りもあった。それはふえた利益から一定部分をとっておくことである。これを蓄積して、最後に自由を買いとることにいたる。これは米国南部でもおきたことである。

* 逃走奴隷
他は。(質問不明)
逃走奴隷はいたとおもう。だが私のしるかぎりおおきな問題ではなかったとおもう。米国の場合は、逃走奴隷の扱いをさだめる法律の制定において南北間のおおきな問題となった。私は逃走奴隷はそんなにおおくなかったとおもう。というのは、奴隷がどこににげたとしても、そこにも奴隷制があった。だからアテネからビオーシャににげたとして、彼らはビオーシャの奴隷となる。このことと、すでにのべたがおだやかな扱いが逃走奴隷がおおきな問題となるのをふせいだとおもう。

* アテネとスパルタの違い
他に。学生(アテネとスパルタの状況の比較)。
次のことを指摘しておきたい。ある男が紀元前四世紀の初頭に集団を引きいて反乱をおこした。それは ヘロットとスパルタ兵士(spartiates)でないいスパルタの地にいる人々の集団だった。彼らはよろこんでスパルタの秩序にさからう人々だった。

(以下、裁判についての質問があったようだが、以下は省略する)
(3の3おわり)

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