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ケーガンギ歴、アテネの民主主義(16、3の2)



* 経験をつんだ聴衆の存在
彼らは日常の経験をつうじてまなび議会における非常に手強い聴衆となる。だがこんな疑問がある。議会における討議である。が特別な知識も能力もない市民がよくしってる人の助けもなしに参加できたか。証拠からみて私はなかったといいたい。というのは議会や五百人委員会には発言したがらない人物がいた。それは経験不足、情報不足、教育不足によるものである。そこには公式に、あるいは非公式にはっきりとした抑止があったからである。

* 勝手な発言を抑止するもの
また、もう一つの比較を紹介したい。私は何年ものあいだ米国の有名大学の学部の会議に出席してきた。そこでみたもの。それは、ほんのすこしだげが発言し、さらにすこしが思いきってする。それは百人をこえない集団で議論されたが、非常な対立をよぶとはおもえない問題につき、賛成あるいは反対の意見をいう時である。

問題の議論が熱情を呼びおこす時で、まれな、あるいはより大規模な会議においての状況はいうまでもない。この学部の会議に出席してる人々は極めて教育水準がたかく、普通人よりはるかに聡明で、公衆のまえではなすのが職業の一部である人々である。会合は規則にそい端正さをもってすすめられる。規則は議事の妨害、個人攻撃を禁止してる。

もしある人があの男は大嘘つきといったら、別の人は彼に説明をもとめ、その発言は個人の名誉を毀損するという。その発言は削除しなければならない。こんなことはアテネの議会ではおきなかった。このような非常におだやかな学部の会合においても発言は非常にすくない。それは何が抑止してるのか。何故か。その答は、あなた方はわかってて、はなそうとしてない。何故か。

* 人々が発言をおそれる理由
何故、あなた方は発言をおそれてるのか。(学生が「愚かとみられれたくないから」と発言)。ありがとう、それが答である。人々は愚かとみられることをおそれる。誰もそれをいわないのにおそれる。それが彼らのやりかただ。これがすばらしい抑止力となる。これを理解してないとアテネの議会がどう機能したかを理解できない。

* アテネ議会の抑止力
アテネにはもっとおおきな問題がある。アテネの議会はしずかでない、時々事件がありそうだ。アリストファネスの演劇でデカイオプリスがピニックスにすわっていったが、大声でおどし、演説者の邪魔をする。プラトンもおしえてくれる。アテネ人が演説者をどのようにわらい、茶化すかを。彼らは必要な専門知識がかけてたのである。

このような非公式の抑止力だけでも演説者の数を減少させたとおもう。だが公式の仕組みもあった。ピニックスでの議論で話しにわってはいろうとした時にすこしかんがえる時間をつくるとか演説者の発言に注意をはらう。これらを促進する措置である。それはたぶんペリクリースの時代のどこか、あるいは彼の死後十五年以内の時点でアテネ人はグラフェ・パラ・ノモ(grae para nomo)という手続を議会に導入した。それは議会の市民を政体の守護者とする効果があるものである。

* 議会の特別な手続
市民なら誰でも五百人委員会あるいは議会においてだされた提案に異議を申したてることができる。条件は現存する法と矛盾するというもの。その申立てはその提案の効果を失効させ、あるいは法案がすでに通過していても法律化を中断させる。その申立人は法廷にだされ、もしそこで否定の表決がでたら、その申立てはみとめられず、彼には罰があたえられる。

* 民主主義、不安定化
三つの事実がある。ある人がこれをやって市民権を剥奪された。議会とその手続が期待するものは、公式、非公式をとわず議論において無知と無能が影響をあたえることを極力さけようとゆうものである。もちろん、無知の低能者がなんら影響をあたえないことがある。我々の社会でもおなじである。ここに一つのより深刻な指摘が民主主義になされるようになった。

ペリクリースにより、不安定さがまし、分派活動や階層間の争いがふえてきたという。それは所有権の軽視をよび、少数の富裕者にたいする多数の貧者の支配につながったという。この指摘は合衆国の建国者の考えかたにおおきな影響をあたえた。彼らは民主主義を拒否した。このことをしかっりしっておく必要がある。だが彼らが民主主義と理解してたのは批判者がいってるものである。

* 民主主義の中断と復活
彼らは意識して民主主義を拒否した。彼らはそれでないもの、大衆的な共和制をかんがえた。その共和制は民主主義とすこしちがうものだった。エフィオルテスとペリクリースによりはじまったより完全な民主主義がはじまった。強固で秩序だった政権は百四十年つづいた。それは二度、貴族政治により中断された。最初はクーデター、くるしい戦いのなかのものだった。四ヶ月つづいた。

二度目はペロポネソス戦争を勝利したスパルタの強制による。 一年たらずだった。それらは、階層間の争い、殺人、追放の報復、財産の没収もなく、より完全な民主主義は復活した。長年にわたる戦争の遂行、敗戦、外国による占領、貴族政治があったがアテネの民主主義は規律と、おだやかさをもって存続した。それは世界に比類ないものだった。
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この変容は政治と政体の状況にてらして注目すべきものだった。それがペリクリースとその後の時代の民主主義にひろがっていった。だがアテネの大衆は軍産複合体勢力の存在に無縁であり、点検と均衡(check and balance)の政府の複雑さや無思慮なロビー活動、捏造にはしりがちなマスメディアの世論操作の妨害はうけなかった。この点を指摘しておく。彼らは議会がひらかれる日にピニックスの丘にゆき、演説し、投票するだけだ。そこでもっとも過激な社会、経済の変化を生みだしていったのだ。

* 政治的平等と経済的平等
彼らやりたいとおもってることができた。貧民に有利となるであろう債務の取りけし、貧民に有利となる富裕者への没収的税制の導入、少数の富裕者からの単純な土地収用、これらはすべて可能だった。何者も彼らをとめられなかった。だが彼らはやらなかった。法の前の平等が民主主義の基本原則だがペリクリース時代のアテネ人には政治上の平等はあったが経済的平等の場所はなかった。

反対にペリクリースが主導した民主主義は私有財産の保護をはかり不平等な富の分配につき、変更の努力はなかった。陪審員になる時の宣誓だが次の条文があった。私は私的債務を消滅させ、アテネの市民の土地、家屋を再配分させることをゆるさないといった。さらに主たる行政長官は毎年職につく時に宣誓する。職につく時にもっていたものをもち、職をさるまでかえないといった。アテネ人は私有財産を尊重し、経済的平等が行きすぎることを拒否した。これが彼らの民主主義が平和的で、安定し、持続した説明になるとおもう。

* アテネ成功の理由
何故、大多数のアテネ市民は控え目でおだやかだったのか。それは紀元前五世紀のアテネは比較的多数に富が分配されてたという事情があった。これは寡頭政治や貴族政治がおこなわれた都市国家と比較してという意味である。

繁栄拡大していった時期には合理的でおだやかな政治をおこなうことが困難だった。おおくが貧困である時期もそうである。このことからもアテネの民主主義が成功したといえる。しかし常に、極めて富裕な者と何千人もの貧者が存在する。どの時代のアテネにおいても大多数の市民は重装歩兵になれるほど富裕でなかった。それは家族で農業を経営し、歩兵をささえるほどは富裕でなかったという意味である。

それはつまり、おおくの貧者がいなかったとはいえないということ。最貧層は歩兵としての質をたもてるほどの財産もない人々だ。だが彼らが艦船に乗りこみ、アテネに富、力と栄光をもたらした、その人々である。この三十年間は、戦争、疫病、貧窮、敗北の最悪の時代だった。にもかかわらず私有財産権に文句をいわず、経済的平等化として、債務の取消し、土地の再分配のような革命的政策をもとめない。ペリクリース時代のアテネ人は、ただ法の前の平等をもとめたのだ。

* ペリクリースの政治、二つの平等
私はアテネの民主主義をかんがえる時に、基本となるものだとおもう。すべての市民に完全な政治的権利をというのがアテネの民主主義を他の都市国家の寡頭政治、貴族政治と区別するものである。法の前の平等とすべての市民の政治参加という二つの平等により彼らには機会があたえられてる。これらが支配する社会でアテネ人はひどい国難、危機にむかっていった。政治的平等、個人主義をゆるす法、民主主義の堅持、それの寛容な解釈、これこそペリクリースがおおいに貢献し同僚市民にむけ誇りと信念をもってうったえ、その考えを共有したものである。

アテネ人は合理的、世俗的、世界的視点にたって人生に向きあってた。政治的自由、個人自治の重視を大切にしてた。公民としては共和制で、かつ民主主義のもとにくらしてた。このようなペリクリース時代のアテネ人は我々の時代の支配的な考えや価値観に非常にちかい。それは古代からのどの文化と比較してもそうである。それがペリクリース時代のアテネが我々に重要な意味がある理由である。

* アテネ人の特色
アテネと我々を比較して、類似からまなぶところがあったのだが、むしろ違いからもおおくをまなぶことができる。アテネ人は富や財物を評価するが、その地域社会への貢献への参加とそこで評価されることとくらべれば、それほど高貴で重要とはおもってない。彼らは個人の重要性、自己決定権、法がみとめる権利の主張には先駆的だったが、規律のとれた政治の世界に関与することを重視し、自己の精神世界の充実をもとめることを想像できなかった。ペリクリースとその時代の人々を理解するためにはこれらの違いの重要さをもっとしる必要がある。その時、我々はすこし謙虚になってまなぶべきとおもう。アテネ人は古代の人々だが彼らは我々がわすれ、あるいはけっしてしらないことをしっておりしんじてたのかもしれない。彼らはある点においてただしかったのでないかという可能性を率直にみとめるべきとおもう。

* 市民の範囲
私はここまで活発に活動する市民のためのアテネの政体の状況をはなしてきた。この市民は両親が市民権をもつ成人男子である。そこではアテネにすむおおくの人々が排除されてる。そこで二種類の人々に突きはなす。政治から排除されてる女性と奴隷である。両者は古代アテネの非民主主義的側面、我々の基準からみてそうである側面を暴露したいとおもう現代の学者が注目してる人々である。この学者たちはすべての生ける者は平等でなければならないともとめてるようだ。

* 差別の問題
人々が男女間に差別があってはならないとおもってることを私はしってる。奴隷が存在すべきでない。また市民でない人々が市民権をえたりその権利をえられれようにすべきという声がある。人間にかぎられてる保護につき動物にもっと保護をあたえるべきと、ねがうおおくの人々もいる。これらの保護に木々や他の植生をくわえるべきとねがう人々もいる。それでアテネと我々の状況とその判断をくらべてみる。

* 女性の地位
まず女性からはじめる。歴史にあらわれるおおくの文化と同様にギリシャも男性に支配されてた。これはペリクリースの時代のアテネもそうだった。それはまた他のギリシャの都市国家ともかわらない。古典ギリシャの女性の地位についてはながいあいだ論爭の的となってきた。アテネの法、規則、哲学的あるいは道徳的文書あるいは日常生活をや社会組織の情報をおしえる記録、これらから証拠がえられる。

* 女性の公的参加
女性は公的生活のほとんどの場面から排除されてた。 彼女たちは投票できなかった。政治的集会に参加できなかった。公職につけなかった。政治に直接に参加できなかった。ところが、すべての階層の男性は公的な責任をもちそれに参加する機会があった。

* 女性の結婚
女性はわかくて結婚する。十二歳から十八歳、平均では十五歳だろう。夫であるが三十歳を下限としそれ以上で結婚する。女性は常に娘と父親のような関係にいたのが実情である。結婚は常に事前に用意されてた。社会の階層のうえになるほど父親がでて経済的、社会的条件を配慮した結婚が用意された。

社会的地位がさがるとこれはあたらないかもしれない。証拠がないのだが、上層階級より非公式となり当事者間の希望にもとづいた結婚がおおくなるようだ。証拠がある話しをすると、最貧の女性にはあてはまらない。通常、女性は夫を選択する権利はない。女性の持参金は男性の親戚により管理される。離婚は非常に困難である。そのためには男性の親戚の承認が必要で、かりに承認があっても、離婚後の守護者となる意志がなければならない。持参金は離婚の場合、女性とともに返却される。そしてそれはまた元の父親、あるいは然るべき男性の親戚の管理にはいる。

* 跡継ぎをうむ仕事
社会的に尊敬される女性は夫の家族における跡継ぎをうむこと、それが仕事であり責任とみられてる。しかしもし女性の父親の家族に跡継がなかったら、ギリシャ語でエピクレイロス(epikleros)とよばれ、その家の財産を引きつぐ女跡継ぎとなる。その場合、彼女は法定の血縁と結婚しなければならない。それは彼女の父親の血縁で、父親の次の順位の血縁者となり、その家の男の跡継ぎをうむこととなる。男子の子孫のためにはアテネ人の観点からは女性はある家族からある家族に貸しだされる。それはオイコス(oikos)、家族の単位(family establishment)が存続に必要な男子の跡継ぎをうみ、そだてるための目的があるのである。

それぞれの子孫が純粋で正当に継続されることが重要であったので女性は注意ぶかく家族外の男子から分離されていた。また家庭内においても女性専用部分に閉じこめられてた。男子は性的満足を家庭の外、高級あるいは下級の娼婦にもとめることがある。彼女たちのおおくは外国からあつめられた。尊敬をうける女性は家庭にととまり、子どもをそだて、料理をし、衣をおり、家事の監督をした。
(3の2おわり

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