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ケーガン、ギリシャ歴史、アテネ帝国(14)、(3の3)



* デリアン同盟の形成過程、同盟国の立場
欧州側と米国の両者はよろこんでこの立場を受けいれた。ではデリアン同盟である。紀元前四七八から四七七年にかけデリアン同盟が形成された。あきらかに国境をせっする都市や海にめんする都市は、もしペルシアがもどってきたら、極めて危険な状態になる。もしかりにアテネが関心をもたず、自国にかえってしまったら、エーゲ海のまずしい都市をのぞいてギリシャの軍はいなくなる。そこにペルシアがやってきたら抵抗できない。彼らにとっては生きるか死ぬかの問題となる。すくなくとも自由はなくなり奴隷のおそれがある。彼らはアテネを説得しなければならない。

* アテネの立場
ところがアテネの立場である。あきらかに彼ら自身の必要がある。黒海への交易路の必要性、彼ら自身の小アジアにたいする親密な感情、彼ら自身のペルシア脅威の恐れである。これからでてくるのは共通の結論である。これから両者は同盟を結成したのである。もしこれが誰かが強制したからできたといったら、おおきな間違いであるとおもう。プルタークによれば、アテネ人には説得する必要があったという。アリスタイディ(Aristides)、アテネの艦隊を指揮してたが、小アジアにおいて主導権をにぎってた。このアテネ人のところにやってきて、どうか指導者となってくれないいかとたのんだ。彼はこの約束をする前に要求した。きみたちがまず我々に確信をもてるように覚悟をみせねばならないといった。アテネを利用してスパルタはこちらにこないようにして、アテネねを都合よく利用する。そんなことをしないと約束せよといった。セイモス海軍の指揮官、ユライアディス(Uliades)が船をまわし旗艦のパウセニアスのところにいった。彼はまだそこにいたが、ユライアディスは船をぶつけた。そこでスパルタとのあいだに何かの取引があったかもしれない。それはともかく、この時点からアテネが指導権をにぎり、作戦をすすめるようになった。

* デリアン同盟の二つの規定、恒久条約
紀元前四七八年から四七七年の冬のあいだ、デロス島で関係するギリシャ人があつまって会合をひらいた。デロスはエーゲ海の真んなかにある。アポロ神、アルテミス神の生誕の島であり、アポロはイオニア人たちの信仰があつい。そこで会合するのは自然なことである。ここでデリアン同盟の考えを議論した。

彼らは同盟をどのようにうごかすか、それをさだめる規則を議論した。目的は、同盟国はペルシアに対抗してたたかうである。最初の条項は、ペルシアがギリシャにあたえた損害に報復する。次に、ペルシアから戦利品をあつめる。それで損害を補償する。規定はこれだけ。だが直接の規定はないが、ペルシアの支配をだっしギリシャの自由を確立、維持する。この目的をふくむことはあきらかである。ツキジデスはいってないが、幾人かの学者がそれはふくまれてないと誤解してる。だがこれがなければ同盟が機能しない。ペルシアの支配下におかれ自由がうしなわれる。これでは何もできない。規定にはないが、彼らにとっては当然に前提となってることである。

普通にやることだが、共通の敵と味方を規定する。これを合意した。共通の外交政策である。彼らはすべてを誓約した。それが彼らの条約署名だ。次に鉄を水中におとした。これは条約が永遠のものだという象徴である。というのは鉄片が水の表面に浮かびあがるまで有効につづく。すなわち永遠につづくというわけである。次のことをしるしておく。ギリシャでは条約は永遠でない。アテネとスパルタのあいだで紀元前四四五年の条約は三十年の平和だった。紀元前四二一年のは五十年だった。もう一つのは五年のだった。これが普通におこなわれるものだった。

* 百四十八の同盟員
その構成員だが若干正確でないが、二つの地域にわかれる。これはほぼ正確にいえることだが、エーゲ海の島々。その島々の二十の都市があった。イオニア、これは小アジアの沿岸だが、三十六の都市。ヘルスポントにそった都市、黒海につうじるルートにそう三十五。キャリア(Caria)、これは小アジアの南端部である。二十四。スレイス(Thrace)これはエーゲ海の北部にある。ギリシャにあるところ。三十三。合計で百四十八である。

およそ百五十の都市があつまってる。これはおどろくべきことである。ペロポネソス同盟はこれほどでない。とはいっても大袈裟にかんがえないでほしい。都市は極めてちいさいからである。特に島に限定するとまったく小規模なものだった。ただしそこにセイモス、キオス(Chios)、レスボス(Lesbos)というおおきな規模の島の都市がふくまれている。小アジアのも小規模だが、マイリーダス(Miletus)のような大規模で重要なのもふくまれている。ここで注目してほしいのはペロポネソス同盟の都市がふくまれてない。この同盟と関係がないということである。

* 三つの同盟の説明
次のことしるしておく。三つの組織がふくまれてる。まず、ギリシャ同盟、ペルシアに対抗するギリシャ同盟。これは紀元前四八一年に形成された。これはペロポネソスの都市とそれ以外がふくまれてる。それから最古の同盟、ペロポネソス同盟。これはすこしの例外があるが、この地域に限定される。それでも海をわたったところにある都市はない。そして最後にできたデリアン同盟、これをギリシャ人はギリシャ(theGreeks)とよぶ。これは前にある同盟とおなじ名称であるが、こうよんでる。この違いをあきらかにするためにはデリアン同盟とよぶのが簡明とおもう。

ここで比喩をつかう。ペルシアに対抗するためのギリシャ同盟、これは国連とみることができる。とゆうのは二つの立場の国々がはいってるからである。ペロポネソス同盟やデリアン同盟は国連の下部組織とかんがえられる。だから、一つをNATOとみて、もうひとつをワルシャワ条約機構とみることもできる。この両者の構成員はギリシャ同盟の構成員でもある。国連の憲章は地域の同盟をみとめてる。からである。NATOとワルシャワ条約機構は地域の同盟である。両者の関係について、特に規定があるわけでないが、両者は他者を否定するものでない。おなじくペロポネソス同盟はデリアン同盟を否定するものでない。これがギリシャの国際関係の現状である。ペルシア戦争の推移とともに出来上がってきたのである。

* デリアン同盟の拠出金、貢納金
もうすこしデリアン同盟についてのべる。これはペロポネソス同盟とおなじく、覇者をさだめる(hegemonial)同盟である。そこには指名された覇者、アテネがいるからである。だが新味といえるものがある。これは海軍同盟である。金がかかる。重装歩兵による軍事同盟ではかからない(兵自体が自弁する)。それは同盟の資金がいることである。この目的でフォロス(phoros)をあつめることが宣言された。これは政治的意味をぬいた言葉としては拠出金(cotribution)である。これは時間の経過とともに、強制的に賦課される貢納金(tribune)となっていった。はじまった当初のものを拠出金とよぶ。額や内容をさだめる査定官はアテネの将軍である。

* 査定、管理、指揮官
アリスタイディであるが、彼は事情をよくしってるので適任だった。構成員の都市がいくら拠出すべきかを査定した。一番最初には金をあつめることからはじまったが、はじめの頃には、艦船、船員の拠出もあった。だが、ペロポネソス戦争がすすむにつれ、艦船や船員がなくなった。たんに資金のみの拠出にかわっていった。そのはじめの頃のはなしである。アテネ人が査定官となり、アテネ人が資金管理官、ヘリオノトミアス(hellenotamias)となった。彼は資金あつめとその看守にあたる。デリアン同盟の陸上または海上の作戦行動だが、アテネ人の将軍がおこなう。ここで繰りかえすが、アテネのやりかたが帝国主義だ、強制だというかもしれないが、ちがう。同盟国がアテネにそうするようもとめたのである。

* 同盟国からもとめられたアテネ
彼らはアテネ人がにげることをおそれ、にげられないようにしたのである。これはギリシャのもった過去の同盟と比較していうと極めてすぐれた組織であった。まず効率的。とゆうのは指導者が指名され、その活動に充分に関与する。ふかい関心ももってた。意志決定機関(synod)は各国の代表者からなる。同盟がやるべきことをすべて決定することができる。この機関でのみ決定することができる。ほかとちがい、自分自身の資金をもっている。また軍隊ももってる。これはその憲章にさだめられてた。これらにより、効率的決定とその実施が可能となったのである。

* 議決権
この仕組みでは、一都市、一議決権であった。アテネも一議決権であった。彼らはほかの都市より圧倒的な勢力をもってたがそうだった。ではアテネがやりたいようにやることができたか。こんな疑問がでるが、アテネは権威と勢力をもつ。だからアテネはその羽根の下に弱小の都市をおいて保護する。だから、アテネがやりたい方向に彼らが忖度し賛同した。アテネがやりたい方向とちがう決定は一度もおきなかった。

* デリアン同盟の変質
しかし時間の経過とともに変化がおとづれた。都市の自治という問題とアテネがやりたいことがぶつかることがうまれるようになった。アテネがこの自治に干渉して、彼らの方向をかえることがおきた。これをアヘイ(arche)と彼らはよぶ。その意味は帝国のことである。それは紀元前四七七年まではおきなかったが将来におきることである。当時は共通の利害があった。それは非常に強力なものだった。ペルシアの脅威に対抗しし、それに報復し、賠償をもとめるという動きである。変質がおきたのは、ペルシア侵入のおそれがひいていったた時である。これはNATOに問題がしょうじてる事情とおなじである。同盟国がかんじる脅威の減少がおなじである。ということでデリアン同盟の当初の状況であった。

* アテネの帝国形成
ここから、どのようにしてアテネ帝国の形成にむかったかをはなす。最初にふれておくことである。デリアン同盟は大成功した同盟であったということである。紀元前四七七年、イオンという島の一つのちいさな都市がペルシアの支配下にあった。それはスレイスのストライモン(Strymon)川の河口にあった。アテネの指揮官が同盟の艦隊を引きつれてそこにいき、そこのペルシア人を追いだした。次の話しはツキジデスによるものである。時期はさだかでないが、話しの中心がそれでないので、そのままつづける。デリアン同盟が設立されて、数年がたった頃の話しである。この頃は、アテネの指揮官が同盟におおきな役割をはたし、同時にアテネの政治においてもそうであった。キーマン(Cimon)、アテネの指揮官であるが、彼は同盟の軍をつれて、エーゲ海のスキロス(Skyros)島にいった。スキロスはギリシャ人がすむ島でない。彼らは海賊を生業にしてた。はっきりしてることだが当時、この海域では同盟のみならずおおくの都市が海賊の横行に損害をうけてた。キーマンはこれを壊滅させ、島から追いだした。アテネ人による植民都市(cleruchy)とした。アテネ人の兵を植民し守備隊の役割をはたさせた。これはすでにカルキースでのべたが、彼らはアテネ市民権をもって、守備隊の役割をはたすものである。こうして島がまた悪者に占拠されないようにするためのものである。これは当然の処置とみとめられるが、これで海賊行為がこの海域でなくなった。次の話しはカルキースにうつる。

* カルキースの話し、従属国
ここはペルシア人のつよい圧力にまけて土と水を差しだした。これで判断すれば彼らはミダイザ(ペルシアに臣従する者)である。彼らは強制的にデリアン同盟に加盟させられ、貢納金をおさめることとなった。艦船の拠出をみとめられず、従属国との扱いをうけた。これはデリアン同盟に規定されてなかったが、最初の従属国となった。たぶん、紀元前四七〇年である。次にネクサスの話しである。

* ネクサスの紛争
ここは常に問題をおこす島である。彼らはもうペルシアの脅威はなくなったと判断し、ペルシアがせめてこないので同盟から脱退するといった。すでにのべたこの同盟は恒久のものである。脱退はできない。なので反乱とみなされ攻撃され降服した。これにより彼らの資格はうばわれ、もう一つの従属国となった。彼らは貢納金をおさめねばならない。都市の壁がこわされ、艦船はうばわれた。これが同盟としての責任をはたさない。あるいは反逆した同盟国にたいする処置である。これにたいして他の同盟国がどうおもってたか。反対する意見はきかれない。やはり彼らは同盟を必要としてたとおもう。

* ユーリマダンの攻撃
紀元前四六九年である。時代をかくする出来事がおきた。小アジアの南端にユーリマダン(Eurymedon)川がなれてる。そこにペルシアは艦隊と内陸に軍をもっていた。同盟はそこに出かけた。キーマンが指揮し攻撃し破壊した。艦船を破壊し、上陸して軍をやぶった。これはペルシアの東エーゲ海にある拠点への痛烈な打撃だった。とゆうのはペルシアはその地域から撤退したからである。この事態で人々は、紀元前四七九年当時に想定していた事態はなくなり、ペルシアの脅威はさった。こう判断しても不合理でないが、アテネの見方はちがう。 また他の同盟国のおおくもそうだった。ところがそうおもはない同盟国もあった。これまでどうり拠出金をはらい、あるいは艦船を提供することに疑問がうまれた。

* ペルシアの脅威の判断
名前はわすれたが、ウェスト・ポイント(米国士官学校)の卒業者でNATOの第二位の司令官。彼がツキジデスのことをしっておりデリアン同盟のこともしってたが、この当時と比較して、NATOの同盟側がソ連の脅威がうすれると拠出金をためらうようになり、逆に脅威がますと、あつまってきて拠出金をだすと言いだした。これはデリアン同盟においておきたこととおなじだといってる。この同盟をつづけてゆくのかどうか。これが問題となってゆくが、これは次にのべる。
(3の3おわり)

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