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ケーガン、ギリシャ歴史、アテネ帝国(14)、(3の1)



* 関連年表
499 イオニアのギリシャ都市の反乱
4\\90 マラソンの戦い
480 サラミスの戦い
479 プラティアの戦い、マイカリの戦い
478-7 デリアン同盟の結成

* 敗戦でペルシアがかんがえたこと
ペルシア人たちはやるべきことがおおかった。それにギリシャにまたもどってくることもかんがえねばららなかった。大王はちっぽけなギリシャ人に敗北したといことをみとめたくない。個人な面子もあったろう。だからペルシア人は多忙だった。

* サラミスの戦いの意義、三十一の参戦
私はここで紀元前四八〇年の戦いの詳細をのべるつもりはない。一連の戦いが大ペルシア戦争をつくってる。そこの個々の戦いの意義であるが、紀元前四七九年のペルシアの敗北は、紀元前四九〇年のマラソンの敗北より、広範な影響をあたえるものだった。その一つは、ギリシャ国民への影響である。ここではおおまかな意味で国民といってるが、ギリシャには千をこえる都市国家がある。この戦いに参加したのが三十一だった。マラソンはアテネ、スパルタ、ほかだった。

紀元前四八〇年に、これだけがペルシアに抵抗すると署名した。そこにはギリシャの最重要、最大、最強規模の都市国家がふくまれてたが、全ギリシャの勝利というほどでないとおもう。マラソンはさらにそうである。次に自由の問題である。

* 自由への戦いだった
彼らがこれまでどおりの生活をつづけられるか、都市のなかで自由にくらし、彼らの生活のやりかたを発展させてゆく。独自の生活を発展させる。あるいは、そうでなく、ペルシアの支配にふくし、一つの州としてくらす。これはおおくの民族がやってることである。どちらだろうか。

イースカレス(アイスキュロス Aeschylus)があらわした最古の演劇脚本がある。そこに当時の人がペルシア人をどうかんがえたかをみることができる。

そこで中心事件はサラミスの海戦である。ここでギリシャがペルシアの艦船をやぶった。これは大ペルシア戦争でもはやペルシアがかつことはないという意味をもった。これから後の二つの決定的な戦いでペルシアを徹底的に追いやったのだが、かれの劇中人物がこういう。

おおきな声がひびく。ヘラス(Hellas)の息子たちよ。お前たちの母国の地を支配から解放せよ。子どもたちを、妻を、お前たちの父なる神々を、そして先祖の墓所を解放せよ、といってる。別のかたちで説明する。

この劇はサラミスの戦いからほぼ七年、同時代といえる出来事を取りあげたものである。これはわかるように中心テーマは自由である。そしてこの年の後に二つの決定的な戦いがおきた。

* プラティアとマイカリの戦いの意義
南部、ビオーシャ(Boeotia)のプラティア(Plataea)での戦い、ここでスパルタ、アテネをふくむギリシャの陸軍がペルシアの強力な陸軍を迎えうち、やぶった。ヘロドタスがいう。すばらしい偶然の一致がおきた。たぶん本当のことだろうが、おなじ日、小アジアの沖、マイカリ(Mycale)の戦いで勝利した。これはほとんどが海戦だった。ギリシャの艦船がペルシアの艦船をやぶった。ペルシアはただ逃走しただけだった。ギリシャはこれをおって、可能なかぎりおおくの敵をたおした。この戦いの後に重要な会合がひらかれた。

* デリアン同盟の発足へ
これは将来にわたって影響をあたえつづけたものである。小アジアの沖にある重要な島、セイモス(Samos)で キオス(Chios)、レスボス(Lesbos)、セイモスの人々があつまった。これはこれからの戦争を遂行してゆくため会合だった。彼らはアジアの非常に重要な島々である。彼らはこの会合を利用して、彼らは紀元前四八一年に結成されたペルシアに抵抗するための同盟への加入がみとめられるよう希望を表明した。彼らはこれを単純にギリシャ(Hellenes)同盟とよんでた。何故このような希望がでたのか、である。

* 三つの島の思惑
この同盟はペルシアとたたかうための同盟である。我々からみればペルシアとの戦争はおわった。ペルシアは追いだされた。またもどってくるとか、ギリシャの勝利を長期間にわたりみとめない。そんなことはないとおもう。しかしギリシャ人はこれをしらない。ペルシア帝国はまったくそこなわれてない。彼らはなおも宏大な地域を強力に支配しさかえてる。ギリシャ人にとってそのペルシアがまたやってこないとしんじないのは無理がないだろう。こんな事情がある。この三つの島の人々は、もしペルシアがやってきたら自分たちをまもる。そのための同盟にはいることを希望したのだ。

* スパルタの思惑
そこで会議が開催された。これにたいする思惑はいろいろだった。誰の参加をみとめるかどうか、問題となった時のスパルタの対応であるが、基本的に否だ。これには彼らの合理性がある。彼らは安全と安定を優先する。予測可能な将来に危険がないとおもってる。つまり、ペルシアがまたギリシャに侵攻してきた。そしてペロポネソスに覇権をもつスパルタに脅威をあたえる。その可能性をかんがえる。また国内事情から、スパルタは自国をとおくはなれることをもっともきらう。海をわたって戦場におもむくことをきらう。また恒久的に軍を外に駐留させることをきらう。これは伝統的な対応である。活動をおわらせ軍を本国にもどす。これをさまたげる責任を引きうけることをきらう。もしこの島々を同盟にいれたら、彼らのため、彼らの自由のためにたたかわねばならない。ところでアテネ人である。

* アテネの思惑
彼らは反対の見方をする。彼らは同盟に迎えいれることは極めて好意的である。これにも合理的理由がある。スパルタと状況がちがう。彼らは海上にいる。海になじんでいる。そこに彼らがいきてゆくうえで、極めて重要な供給路をもってる。彼らは外にでてゆかねばらず、海において自由が確保されてる必要がある。そのためにはペルシア人を排除する必要がある。エーゲ海、ヘルスポント、海峡など。自由な航行を確保する必要がある。

この理由だけでもこの三つの島の要求を真剣にかんがえねばならないが、さらにたとえばセイモスには親戚がいる。アテネ人はイオニア人にとっては模範とみなされる都市である。このような心情的な親近感もある。よりはっきりといえば、エーゲ海からペルシア人を排除する必要があるということである。紀元前四九九年の反乱からここまでアテネはペルシアから小アジアのギリシャ人たちが解放されることを希望してた。アテネは議論で勝利した。この三つの島の加入をみとめた。同盟がペルシアの脅威から彼らをまもる。

* スパルタ、ペロポネソスの離脱、戦いの継続
この合意の後にそこにいたスパルタ艦船の司令官、レオティキダス(Leotychidas)王は帰国した。当然、スパルタの兵たちも帰国した。私はそこにはペロポネソスの兵たちもふくまれてるとおもう。それにたいしアテネの司令官、クサンシッパス(Xanthippus)はとどまり、さらにその地にいたペルシア人との戦いを継続したとおもう。ちょっとした証拠である。

クサンシッパスの息子はペリクリース(Pericles)である。彼のことは後にもっとふかくふれる。ペルシアは逃走したがなお、ヨーロッパ側の都市のいくつかにはペルシア兵がのこってった。そこに非常に重要な都市、セストス(Sestos)がある。これはダーダネルスのヨーロッパ側にある。クサンシッパスはこれに城攻めをかけた。アテネとまだのこってたギリシャ人が参加した。すこし時間がかかったが、城攻めに成功し、ペルシア人を排除した。戦いの結果はギリシャの自由の擁護と正当性のあかしである。この勝利で彼らはこれまでやってきた生活をつづけることができる。

* アテネ海軍の増強
もう一つの重要なことがある。紀元前四八二年、アティカの南部で銀鉱山が発見された。極めて優良な品位の銀山だった。これがアテネの議会で取りあげら、銀をどうするか議論された。最初の考えは、皆んなによろこばれるもの。平等にわける。都市国家というものは資本を持ちよった企業のようなもの。だから素敵なものができると、投資家に配当する。こういう考えである。セミストクレスは別の考えだった。ペルシアの脅威が常に存在する。その戦いにそなえることが必要だ。彼は海軍力の増強が重要とかんがえた。これまでほかのギリシャ人たちがかんがえたことのないものだった。

彼は次の提案をした。アテネに艦隊をそなえる。そのため艦船をつくる。最終的に二百隻の三段櫂船(トライレム:trireme)をそなえた。これは古代ギリシャの戦艦である。サラミス、マイカリの海戦においてペルシアをまかした中核艦船だった。スパルタは陸海の二つにおいて指揮権をもった。だが彼らは海軍はすぐれてない。アテネはすぐれてた。アテネの艦隊が中核だった。それが最大のもっとも効率のよい働きをした。サラミスの海戦はアテネの内海の戦いだった。セミストクレスとそのすぐれた艦船は勝利の道をすすんだ。。最初は彼はギリシャ軍をサラミスでたたうようにしむけた。次にサラミスで勝利した。ペルシア侵攻の結果うまれたことがある。

それはそれまでなかったもの。アテネの強大な海軍力である。その威力のすばらしさが戦いで実証された。それは武力のなかのあたらしい要素、極めて決定的なものだが比較的にあたらしい要素である。海軍による戦いが重要なこともあった。だがこれはこれまでにない次元のものである。アテネはあたらしい軍事力を作りあげ、実績をあげた。もう一つの戦争の結果である。

* 汎ギリシャの意識高揚
それは ギリシャ人の自信を前例のないほどにたかめたことである。誰もが予測してなかった。それはおどろきである。このことは強調してもすぎることがない。もし大王が真剣になって、軍をおくってきたら、十万、二十万という数字になるだろう。ヘロドタスがそういっているが誇張されてるれるといわれてる。本当のところはわからないが、ギリシャを数で上まわってた。誰もがペルシアが簡単に勝利するとおもってた。ギリシャ人はペルシア戦争の勝利はギリシャ人が自分たちが他の人種よりすぐれているとの優越感をもつことを、ただしいとかんじるようになった。アテネ人も、その勝利で中心の役割をはたしたから、当然おなじようにかんじてた。これは従来なかったものである。彼らの心と頭脳のなかにあるものである。他人が注目するものである。彼らが誇りにおもって当然である。それを彼らがやったという感覚があった。私は彼らは壮大なこと、今後もつづけていってよいことをやったとかんがえたとおもう。

もうひとつの重要なことである。これは彼らがはじめてやった偉大な全ギリシャを包括する汎ギリシャ的(panhellenic)活動であった。バラバラにわかれがちな彼らのなかにはギリシャ的(Hellenes)とよぶような何かがある。そういう意識がだんだんとあきらかとなってきた。それはギリシャの人々をギリシャでない人々とちがったものとするものである。彼らがおこなう重要な体育競技大会、宗教的祭典であきらかなかたちとなっていった。

これらがギリシャ的であり、その感覚をそだてた。だが勝利がその感覚をそだてた程度はこれと比較にならないほどだった。この戦争で汎ギリシャ主義(Panhellenism)が水平線のうえに顔をだした。私はギリシャ人たちが単一のまとまった人々にかわったとか、地方主義(localism)、あるいは自らの都市をあいすることをやめたといってるのでない。だが、これらの伝統が汎ギリシャ主義とかならずしも対立するものでない。

これはローカリズムや個々のポリスを結びつける働きがある。これと比較できるものがある。第一次大戦の後のことである。戦勝国側の人々のなかには共同して世界平和をもとめようとした。さらに第二次大戦の後にもみられれた。いくらかの人々は準宗教感情をもって、偏狭な(parochialな)国益の主張をさけようとした。これが国際関係の役割をかんがえる時にあらわれた。これが機能するにはすべてのことが、まるで世界政府が存在し、それが管理してるかのように、きちんと事がはこばれねばならないことなのだが。しかし存在しないことが真実であることも人々はしってる。いずれにしても汎ギリシャ主義の考えにはよいところがある。というのは、あなたがこれからはじまる歴史において、いろいろな思想家や演説家があきらかにする意見にみとめられる考えである。国や政府がその主権や独立性、自治を制限するということは一つの考えなのである。

* ギリシャ世界の分断
もう一つの戦争の結果だが、ギリシャの世界の分断である。アテネがこの戦争のなかで強大な勢力に台頭してきた。誰もが勝利のなかでその指導的役割をみとめる。スパルタだが、誰もがみとめる公的指導者である。スパルタの王がプラティアの陸戦で指揮官であり、海戦においても彼らが指揮した。アテネは戦果をあげ実績をのこした。そこで疑問がうまれた。従来スパルタがもってた指導的役割はどうなるのか。スパルタが惟一の指導者の地位を保持するのか。アテネが台頭しこれに対抗するのか。それはすぐあきらかとなった。アテネが対抗し取ってかわろうとするのである。

これからくる五十年の主要な問題はアテネとスパルタの衝突である。私はそれを冷戦とよぶが紀元前四七九年から紀元前四六〇年頃まで、実際に戦いはなかった。両国が直接に衝突するのは紀元前四五七年である。この戦いは停止し平和が回復し、今度はペロポネソス戦争にはいっていった。これがこの世紀の最後の三分の一を支配した。これが将来の展開だが、今、ここの時点であきらかにいえること。それは体制がかわったのでその転換が必要だということである。

戦争の前は、一つだったがその後はあきらかに二つとなった。ギリシャ人はこの戦争が作りだした問題に答をださねばならない。その一つは誰が指導するか。さらに、問題がある。戦争をとおしていくつかの都市はペルシア側にはいった。これを人々はミダイザ(Medizer)とよぶ。これをどうするか。極論がある。こられの都市は完全に破壊してしまう。もう一つが過ぎたことは過ぎたことと放置するものである。この中間に答えがありそうだが、この問題も答えがでないまま問題としてのこってる。さらにである。

* 将来のペルシアの脅威、二つの考え
ペルシアは将来、脅威となるのか。もしなるのなら、いくつかの対応策をまとめた政策が必要となるのでないか。もしそうでない。ペルシア問題はなくなったとすると、我々はこれまであった正常な日常にもどれるのか。これまでの政策を修正しない。すでにのべたが、スパルタとペロポネソスの都市はペルシアの脅威はさったとかんがえがちである。アテネ人、島の人々、イオニ人たちは、否、まだまだ脅威があり、すぐにも現実化するとおもってる。ペルシャ問題はおわってない。たたかいつづけねばならないとかんがえる。

* 前のギリシャ同盟の結成
これから、あたらしいペルシアへの対応策についてのべるが、まず紀元前四八一年に逆のぼる。この年にゼクセスは進軍を開始した。ペルシャ帝国からギリシャにむかっての進軍だった。これをしってギリシャはコリンスに三十一の都市があつまった。そこで誓約し団結して、ペルシアとたたかうときめた。彼らは公式にスパルタを同盟の指導者(hegemon)と指名した。スパルタが陸においても海においても指揮する。戦いがはじまれば命令をはっする。もちろん、何をするか。どこにいってたたかうか。いつたたかうか、などの決定は三十一の同盟国からなる合議体が決定する。スパルタはこれらについて彼らの意志を制約しない。これが平等の参加者からなる同盟のやりかたである。だが実際は都市国家の力はちがう。当然、スパルタの力と他との差はあきらかである。また大規模の海軍をもつアテネの影響力もおおきい。これが実際のギリシャ同盟が機能するやりかたである。スパルタが指導者となるがこの同盟とペロポネソス同盟は別物である。相互の関係も同盟員の資格もちがう。ギリシャ同盟はペロポネソスの都市でない都市やスパルタと同盟関係にない都市もふくんでる。彼らは次の誓いをたててる。

ギリシャ人は共有する自由のためにたたかう。島々と小アジアのギリシャ人を解放するためにたたかう。恒久の組織である。
(3の1おわり)

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