SSブログ

簡略ギリシャ歴史、マセドニアの興隆2


* はじめに
Ancient Greek History - Rise of Macedon Part 2、Historyden、2018/10/25 に公開)

* マセドニアの事情
これまでのべたようにマセドンは南部ギリシャから切りはなされてた。その理由の一つは地理的条件だった。オリンポス山がマセドニアとテッサリのあいだの境界線となってた。オリンポス山は五十二の峰をもち、最高峰は三千メートルだった。北部のマセドニアから中央ギリシャには非常に困難な道をこさねばならなかった。マセドニアとテッサリの境界線となってた。

* マセドンの王たち
これからマセドンの王についてのべる。アレクサンダー一世とアカレイアスは卓越した王だった。アレクサンダーはギリシャ・ペルシア戦争のなかですぐれた働きをした。彼はペルシアに従属したが状況におうじてうごいた。彼は忠誠心にかけてたともいえる。マセドンはペルシアから独立できるほど強力な軍隊をもってなかった。他方、南部ギリシャの都市国家はより強力だった。そのため力のつよいほうになびいたといえる。

* ペルシアからギリシャへ
ペルシア戦争がおわってからは、マセドンはペルシアと完全に手をきった。そしてもっとギリシャの政治に関係をもつようになった。マセドンはアカレイアスの治世のあいだに興隆した。彼は材木をアテネにうって国庫を非常に豊かにした。それをつかってマセドンの社会インフラをおおいに整備した。

* ダルダニアンに敗北
王位がアミンテス三世につがれた。彼はアレクサンダー三世、ペルディカス、そして勿論、フィリプという三人の息子をもってた。最年長のアレクサンダー二世は暗殺されたのでペルディカスがそれをついだ。彼はダルダニアを国内から追いだそうとした。この大胆なこころみは最終的にはどんでもない惨事でおわった。マセドンは四千人をうしなった。さらにわるいことに戦闘でペルディカスがダルダニアンにころされた。彼の息子、アミンテス四世が王位をついだ。

* フィリップの登場
彼は幼児だったのでフィリップが摂政となった。だが予想できたが王位を要求し紀元前三五九年、王位についた。これは通常の状況ではおきないことだったが、当時は通常ではない。マセドンはあらゆる方面からの危機に面してた。そのため強力で有能な指導者を必要としてた。フィリップはあきらかに適任であり困難な課題に立ちむかった。そしてマセドニアを完全な崩壊からすくった。彼はこの前に三年間、シーブスで捕虜としてすごした。そこで外交と軍事につきすぐれた教育を将軍、イパマナンデスによりうけた。彼が成功をおさめることにイパマナンデスの力がおおきかった。すでにのべたがフィリップは非常な危機に王位についた。

* フィリップの統治
フィリップの統治はまず外国の侵略に対抗することだった。スレイスとレリアンが彼をおびやかした。すぐに対応しなければならなかった。ところが紀元前三五九年の敗北があったからマセドニアには実質的に軍隊はなかった。まず外交で対処しなければならなかった。彼は単純にスレイスの軍を賄賂によって退却してもらった。

* 対外融和策
ダルダニアンである。彼らは上部マセドニアを占拠し恒常的な脅威であった。フィリップはこれに戦闘で勝つ力がなかった。王政の統合をなしとげ軍を再建する。それにはもっと時間がかかった。ダルダニアンと同盟関係をかためたのは賢明だった。婚姻だった。ダルダニアンの王、バーダラスの最年少の孫娘との婚姻だった。これにより時間をかせぎ当面の侵入をふせいた。これで王の権威を確立することができた。当面の外国からの侵入をふせいで彼は潜在的王位の競争相手と対抗するうこととなった。

* 王位をねらう競争者の排除
もっとも深刻なものがアジーアスとのものだった。彼はアテネを説得して王位につく支援の約束をえていた。アテネは艦船と三千の重装歩兵をおくってきた。アジーアスととアテネはアンティポリスに進軍することとしてた。しかし彼はマセドニアの大衆の支持をえることができなかった。そのため彼はアテネの主要基地、ミソニにもどることとなった。フィリップは退却する彼をとらえその軍隊に打撃をあたえた。このときアテネとの友好に配慮しアテネの捕虜を傷つけず送りかえした。それはすこしばかりの勝利だったが、マセドニアの軍の士気をおおいにたかめた。

* 軍の再編、強化
歴史家によると彼は最初の戦いに勝利したことでより大胆に次の戦いにのぞめるようになったという。こうして国境と王位をかため、紀元前三五九年と紀元前三五八年に彼は軍の再編に取りかかった。これがマセドニアの軍を古代の世界がうらやむほどの軍をつくることになった。戦いに生きる人としてフィリップは当然、マセドンをもっとも強大な勢力とし、ギリシャの覇権をにぎろうとした。

* フィリップに影響をあたてた医大な将軍たち簡略ギリシャ歴史、マセドニアの興隆2

* はじめに
Ancient Greek History - Rise of Macedon Part 2、Historyden、2018/10/25 に公開)

* マセドニアの事情
これまでのべたようにマセドンは南部ギリシャから切りはなされてた。その理由の一つは地理的条件だった。オリンポス山がマセドニアとテッサリのあいだの境界線となってた。オリンポス山は五十二の峰をもち、最高峰は三千メートルだった。北部のマセドニアから中央ギリシャには非常に困難な道をこさねばならなかった。マセドニアとテッサリの境界線となってた。

* マセドンの王たち
これからマセドンの王についてのべる。アレクサンダー一世とアカレイアスは卓越した王だった。アレクサンダーはギリシャ・ペルシア戦争のなかですぐれた働きをした。彼はペルシアに従属したが状況におうじてうごいた。彼は忠誠心にかけてたともいえる。マセドンはペルシアから独立できるほど強力な軍隊をもってなかった。他方、南部ギリシャの都市国家はより強力だった。そのため力のつよいほうになびいたといえる。

* ペルシアからギリシャへ
ペルシア戦争がおわってからは、マセドンはペルシアと完全に手をきった。そしてもっとギリシャの政治に関係をもつようになった。マセドンはアカレイアスの治世のあいだに興隆した。彼は材木をアテネにうって国庫を非常に豊かにした。それをつかってマセドンの社会インフラをおおいに整備した。

* ダルダニアンに敗北
王位がアミンテス三世につがれた。彼はアレクサンダー三世、ペルディカス、そして勿論、フィリプという三人の息子をもってた。最年長のアレクサンダー二世は暗殺されたのでペルディカスがそれをついだ。彼はダルダニアを国内から追いだそうとした。この大胆なこころみは最終的にはどんでもない惨事でおわった。マセドンは四千人をうしなった。さらにわるいことに戦闘でペルディカスがダルダニアンにころされた。彼の息子、アミンテス四世が王位をついだ。

* フィリップの登場
彼は幼児だったのでフィリップが摂政となった。だが予想できたが王位を要求し紀元前三五九年、王位についた。これは通常の状況ではおきないことだったが、当時は通常ではない。マセドンはあらゆる方面からの危機に面してた。そのため強力で有能な指導者を必要としてた。フィリップはあきらかに適任であり困難な課題に立ちむかった。そしてマセドニアを完全な崩壊からすくった。彼はこの前に三年間、シーブスで捕虜としてすごした。そこで外交と軍事につきすぐれた教育を将軍、イパマナンデスによりうけた。彼が成功をおさめることにイパマナンデスの力がおおきかった。すでにのべたがフィリップは非常な危機に王位についた。

* フィリップの統治
フィリップの統治はまず外国の侵略に対抗することだった。スレイスとレリアンが彼をおびやかした。すぐに対応しなければならなかった。ところが紀元前三五九年の敗北があったからマセドニアには実質的に軍隊はなかった。まず外交で対処しなければならなかった。彼は単純にスレイスの軍を賄賂によって退却してもらった。

* 対外融和策
ダルダニアンである。彼らは上部マセドニアを占拠し恒常的な脅威であった。フィリップはこれに戦闘で勝つ力がなかった。王政の統合をなしとげ軍を再建する。それにはもっと時間がかかった。ダルダニアンと同盟関係をかためたのは賢明だった。婚姻だった。ダルダニアンの王、バーダラスの最年少の孫娘との婚姻だった。これにより時間をかせぎ当面の侵入をふせいた。これで王の権威を確立することができた。当面の外国からの侵入をふせいで彼は潜在的王位の競争相手と対抗するうこととなった。

* 王位をねらう競争者の排除
もっとも深刻なものがアジーアスとのものだった。彼はアテネを説得して王位につく支援の約束をえていた。アテネは艦船と三千の重装歩兵をおくってきた。アジーアスととアテネはアンティポリスに進軍することとしてた。しかし彼はマセドニアの大衆の支持をえることができなかった。そのため彼はアテネの主要基地、ミソニにもどることとなった。フィリップは退却する彼をとらえその軍隊に打撃をあたえた。このときアテネとの友好に配慮しアテネの捕虜を傷つけず送りかえした。それはすこしばかりの勝利だったが、マセドニアの軍の士気をおおいにたかめた。

* 軍の再編、強化
歴史家によると彼は最初の戦いに勝利したことでより大胆に次の戦いにのぞめるようになったという。こうして国境と王位をかため、紀元前三五九年と紀元前三五八年に彼は軍の再編に取りかかった。これがマセドニアの軍を古代の世界がうらやむほどの軍をつくることになった。戦いに生きる人としてフィリップは当然、マセドンをもっとも強大な勢力とし、ギリシャの覇権をにぎろうとした。

* フィリップに影響をあたてた医大な将軍たち
フィリップのかがやかしい生涯をのべる前に、ここで何人かのすぐれた将軍についてのべる。これはすでにのべた物語りのなかからえらんだものだ。まず、マラソンの戦いに勝利したミルタイアディ、彼は意図的に編隊の中央をよわくした戦術をとった。こうして両翼を強化した。これで数倍の戦力をもつペルシアの軍隊に対峙した。次にペロポネソス戦争の時のすぐれた将軍である。

ブラスディスとデモスタニイである。ブラスディスはアンティポリスをうばった。デモスタニイはペロポネソス戦争の流れをかえた。その大胆な作戦でスパルタからパイロスをうばった。

ゼネフォンは配慮にとんだ退却作戦を成功させた。ペルシアの奧ふかく侵入し、そこから一万人の傭兵隊を見事に退却させた作戦である。さらにイパマナンデスがいる。

彼は古代と現代の歴史家からもっともたかい評価をうけてる将軍である。左翼に分厚い戦力を配備するという彼の作戦がルトラの戦いでスパルタをやぶった。これがギリシャ全土を支配しようとするスパルタの野望を打ちくだいた。

また革新的な軽装歩兵の作戦を発明したアテネのフィクラテスをわすれてはならない。これはコリンス戦争においてスパルタ軍をなやませた。フィリップはこれらの戦術、戦法をまなんできた。彼は天才だった。何が役にたつか、何がそうでないかを見事に識別した。

* フィリップの戦術の特徴
彼は役にたつ要素を取りいれ自分の軍と仕たてあげた。おどろくべきはその速さである。ある歴史家の言である。彼はおおきな危機をまえにしてもけっしてあわてない。マセドニア人を一連の集会にあつめ、雄弁により彼らの士気をたかめ、軍を編成し、適切な武器を配備し、一定の戦術にしたがい繰りかえし訓練をおこなう。こうして無駄なくまとまった密集編隊を完成させた。盾を横につらねることで兵を保護する接近戦法を取りいれた。これはトロイの戦士たち戦法をまねたものである。これが最初のマセドニアの密集編隊であるという。

* 常備軍の編成
フィリップはギリシャ征服のために、無敗の軍をもとうとした。彼は年中行動できる職業的な軍をつくった。これで軍は一年中はたらける職業的な軍となった。召集におうじて編成されるのでなく常時存在する常備軍である。これでいつでも作戦が実行できる。随時にもとめられる作戦や脅威に対応できる。そして兵には給料がはらわれる。ただし重要なことだが傭兵ではない。彼らは完全にマセドニアに忠誠をちかった兵である。いろんな点から彼らは現在のアメリカ、ロシア、フランスの軍とおなじである。彼らは給料がもらえる。そして自分たちの国に忠誠をちかってる。では、マセドニアの編隊についてみてみよう。

* 軍の編隊の特徴、重装歩兵に長槍
まず、重装歩兵、えらばれた重装歩兵、重装騎馬兵である。この他については後にのべる。密集編隊の主要部隊であるのが重装歩兵である。マセドニアの騎馬兵は優秀である。だが歩兵に問題がある。これが弱点である。彼が最初に手をつけた改変だった。彼らが南部の重装歩兵たちに立ちむかうのであるから。彼がやったもっともすぐれた革新はサリッサ、長槍の導入だった。長さで当時の歩兵がつかうドリスという槍より圧倒的にながく有利だった。ドリスは二から二メートル半だったが、サリッサは四から六メートルもあった。この長さの槍をあやつるには両手で操作する。そのため彼らを保護する盾は通常は首からつるした。

サリッサのこの長さはドリスとの戦いできわめて有利となった。相手が攻撃を仕かけようとすると、まずこのながい槍をかいくぐって近づかなければならない。このためマセドニアは相手を草でもかるように、戦車が相手を蹴ちらすようにすすめた。これは編隊の中央をしめる重装歩兵隊があつかった。このためマセドニアの密集編隊の終局の目標は相手を押しこみ一定の距離にとどめることだった。これはマセドニア軍の不敗の戦線となった。もし戦いが接近戦にうつったとしても、彼らは対応策をもってた。非常にたくみに相手の前線からの攻撃にたえ、時にはその前線を切りさいた。

* えらばれた重装歩兵隊
次に有力な戦力はヒパスパスト、えらばれた重装歩兵である。彼らは盾をもちドリスとおなじような槍をもってた。彼らは重装歩兵の両翼をしめた。重装歩兵の方向転換は容易でない。そのため側面攻撃を保護するおおきな役割をもってた。ヒダスペスの保護は騎馬兵と軽装歩兵がおこなった。ギリシャの歩兵編隊は横からの攻撃に弱点があったので、このような編隊で横からの攻撃をふせいだ。繰りかえすがこうしてヒダスペスは密集編隊の主要部隊である重装歩兵の前線が攻撃に専念できるようはたらいた。彼らはこれで実質的に不敗の部隊となった。ただ、ヒダスペスの機能や武器については色々な意見があることを付記しておく。しかしヒダスペスがフィリップの部隊において不可欠な部隊であることは間違いない。

* コンパニオン騎馬兵
最後にコンパニオン騎馬兵についである。彼らは最良の馬にのり最良の武器をつかった。コンパニオン部隊はおもに上流層の市民から編成されてた。つまり彼らはそこに必要とする馬や武器の費用をまかなう余裕がある人々だった。通常は騎馬隊は八の部隊にわかれ、それぞれがほぼ三百の馬をもつ。コンパニオンは通常、楔形の形で攻撃する。おおくの場合、騎馬隊が最初に攻撃しショックをあたえるものだった。後年、アレクサンダー大王は彼みずからがこの部隊を引きい、相手の部隊に決定的打撃をあたえた。マセドニアの編隊では彼らは最右翼、ヒダスペスヒダスペスの右をしめた。おどろくような短期間でフィリップは古代の世界ではもっともすぐれた部隊を作りあげた。

* ダルダニアンへの攻略
紀元前三五八年までに軍隊の再編をおえて活動できるようにした。彼はマセドニアにはもっとも危険な存在存在をを取りのぞく決意をかためた。それはダルダニアンだった。ダルダニアンは当初、マセドニアの北部にいた。それが西部の山岳地帯の上部マセドニアに進出してきた。ここは外国勢力をさえぎる境界として機能してきたものだった。フィリップが対応しなければならない問題だった。ダルダニアンがここを占拠してる限り、永遠に脅威はさらない。すでにのべたが彼らを掃討してその脅威を消滅させる決意をかためてた。その意図をバーダラスは察知して、現状を維持する条約を提案してきた。フィリップはただちに提案を拒否し、ダルダニアンの軍はこの上部マセドニアから退去しなければならないといった。

* 両軍の編隊
バーダラスもただちにこれを拒否した。両者は戦争にむかうこととなった。両者の戦力は拮抗していた。フィリップは一万の歩兵、六百の騎馬兵。バーダラスは一万の歩兵、五百の騎馬兵である。ダルダニアンは横一線の編隊、両翼に騎馬兵を配置した。おそらく最良の兵を中央に配置した。フィリップもおなじように中央の左に重装歩兵を配置、騎馬兵を両翼に配置した。フィリップはいつものように名誉の右翼をしめた。そこに最強の兵がいた。右翼にヒダスペスを配置した。彼は重装歩兵がダルダニアンの中央に対抗し、ヒダスペスが相手の左翼に突入することを期待してた。

* 戦いの開始
角笛がならされて両軍は前進した。はげしい戦いがはじまった。戦いはどちらが有利ともいえないままにつづいた。だがじょじょに、また着実にフィリップのヒダスペスの部隊がダルダニアンの左翼に侵入していった。ダルダニアンの左翼はおされ後退し、ささえきれなくなった。コンパニオンの騎馬隊の右翼での攻撃も成功していった。このためダルダニアンの編隊が切りさかれた。ダルダニアンの左翼は士気をうしない、戦場から逃げだした。それをみた他の兵たちもおそれおののいて逃げだした。

* フィリップの完勝
フィリップの完勝だった。ダルダニアンは半分の兵力をうしなった。五千の死者、千の捕虜をだした。マセドニアは三百から二百の死者だった。これで完全にダルダニアンの脅威はさった。さらにダルダニアンが占領していた都市を回復した。さらに重要なことはマセドニア西部の状況を有利にすることができた。リリアンのオレド湖にいたる地域を自国領に編入した。これにより国境の安定を確保できた。ここは自然の国境地帯となるとともに、将来の攻撃にそなえた緩衝地帯となった。

フィリップの遠大な征服計画はまだ姿をあらわさない。次にフィリップは北部のギリシャの統一を目ざしてゆくが、それは次のビデオでのべる。


フィリップのかがやかしい生涯をのべる前に、ここで何人かのすぐれた将軍についてのべる。これはすでにのべた物語りのなかからえらんだものだ。まず、マラソンの戦いに勝利したミルタイアディ、彼は意図的に編隊の中央をよわくした戦術をとった。こうして両翼を強化した。これで数倍の戦力をもつペルシアの軍隊に対峙した。次にペロポネソス戦争の時のすぐれた将軍である。

ブラスディスとデモスタニイである。ブラスディスはアンティポリスをうばった。デモスタニイはペロポネソス戦争の流れをかえた。その大胆な作戦でスパルタからパイロスをうばった。

ゼネフォンは配慮にとんだ退却作戦を成功させた。ペルシアの奧ふかく侵入し、そこから一万人の傭兵隊を見事に退却させた作戦である。さらにイパマナンデスがいる。

彼は古代と現代の歴史家からもっともたかい評価をうけてる将軍である。左翼に分厚い戦力を配備するという彼の作戦がルトラの戦いでスパルタをやぶった。これがギリシャ全土を支配しようとするスパルタの野望を打ちくだいた。

また革新的な軽装歩兵の作戦を発明したアテネのフィクラテスをわすれてはならない。これはコリンス戦争においてスパルタ軍をなやませた。フィリップはこれらの戦術、戦法をまなんできた。彼は天才だった。何が役にたつか、何がそうでないかを見事に識別した。

* フィリップの戦術の特徴
彼は役にたつ要素を取りいれ自分の軍と仕たてあげた。おどろくべきはその速さである。ある歴史家の言である。彼はおおきな危機をまえにしてもけっしてあわてない。マセドニア人を一連の集会にあつめ、雄弁により彼らの士気をたかめ、軍を編成し、適切な武器を配備し、一定の戦術にしたがい繰りかえし訓練をおこなう。こうして無駄なくまとまった密集編隊を完成させた。盾を横につらねることで兵を保護する接近戦法を取りいれた。これはトロイの戦士たち戦法をまねたものである。これが最初のマセドニアの密集編隊であるという。

* 常備軍の編成
フィリップはギリシャ征服のために、無敗の軍をもとうとした。彼は年中行動できる職業的な軍をつくった。これで軍は一年中はたらける職業的な軍となった。召集におうじて編成されるのでなく常時存在する常備軍である。これでいつでも作戦が実行できる。随時にもとめられる作戦や脅威に対応できる。そして兵には給料がはらわれる。ただし重要なことだが傭兵ではない。彼らは完全にマセドニアに忠誠をちかった兵である。いろんな点から彼らは現在のアメリカ、ロシア、フランスの軍とおなじである。彼らは給料がもらえる。そして自分たちの国に忠誠をちかってる。では、マセドニアの編隊についてみてみよう。

* 軍の編隊の特徴、重装歩兵に長槍
まず、重装歩兵、えらばれた重装歩兵、重装騎馬兵である。この他については後にのべる。密集編隊の主要部隊であるのが重装歩兵である。マセドニアの騎馬兵は優秀である。だが歩兵に問題がある。これが弱点である。彼が最初に手をつけた改変だった。彼らが南部の重装歩兵たちに立ちむかうのであるから。彼がやったもっともすぐれた革新はサリッサ、長槍の導入だった。長さで当時の歩兵がつかうドリスという槍より圧倒的にながく有利だった。ドリスは二から二メートル半だったが、サリッサは四から六メートルもあった。この長さの槍をあやつるには両手で操作する。そのため彼らを保護する盾は通常は首からつるした。

サリッサのこの長さはドリスとの戦いできわめて有利となった。相手が攻撃を仕かけようとすると、まずこのながい槍をかいくぐって近づかなければならない。このためマセドニアは相手を草でもかるように、戦車が相手を蹴ちらすようにすすめた。これは編隊の中央をしめる重装歩兵隊があつかった。このためマセドニアの密集編隊の終局の目標は相手を押しこみ一定の距離にとどめることだった。これはマセドニア軍の不敗の戦線となった。もし戦いが接近戦にうつったとしても、彼らは対応策をもってた。非常にたくみに相手の前線からの攻撃にたえ、時にはその前線を切りさいた。

* えらばれた重装歩兵隊
次に有力な戦力はヒパスパスト、えらばれた重装歩兵である。彼らは盾をもちドリスとおなじような槍をもってた。彼らは重装歩兵の両翼をしめた。重装歩兵の方向転換は容易でない。そのため側面攻撃を保護するおおきな役割をもってた。ヒダスペスの保護は騎馬兵と軽装歩兵がおこなった。ギリシャの歩兵編隊は横からの攻撃に弱点があったので、このような編隊で横からの攻撃をふせいだ。繰りかえすがこうしてヒダスペスは密集編隊の主要部隊である重装歩兵の前線が攻撃に専念できるようはたらいた。彼らはこれで実質的に不敗の部隊となった。ただ、ヒダスペスの機能や武器については色々な意見があることを付記しておく。しかしヒダスペスがフィリップの部隊において不可欠な部隊であることは間違いない。

* コンパニオン騎馬兵
最後にコンパニオン騎馬兵についである。彼らは最良の馬にのり最良の武器をつかった。コンパニオン部隊はおもに上流層の市民から編成されてた。つまり彼らはそこに必要とする馬や武器の費用をまかなう余裕がある人々だった。通常は騎馬隊は八の部隊にわかれ、それぞれがほぼ三百の馬をもつ。コンパニオンは通常、楔形の形で攻撃する。おおくの場合、騎馬隊が最初に攻撃しショックをあたえるものだった。後年、アレクサンダー大王は彼みずからがこの部隊を引きい、相手の部隊に決定的打撃をあたえた。マセドニアの編隊では彼らは最右翼、ヒダスペスヒダスペスの右をしめた。おどろくような短期間でフィリップは古代の世界ではもっともすぐれた部隊を作りあげた。

* ダルダニアンへの攻略
紀元前三五八年までに軍隊の再編をおえて活動できるようにした。彼はマセドニアにはもっとも危険な存在存在をを取りのぞく決意をかためた。それはダルダニアンだった。ダルダニアンは当初、マセドニアの北部にいた。それが西部の山岳地帯の上部マセドニアに進出してきた。ここは外国勢力をさえぎる境界として機能してきたものだった。フィリップが対応しなければならない問題だった。ダルダニアンがここを占拠してる限り、永遠に脅威はさらない。すでにのべたが彼らを掃討してその脅威を消滅させる決意をかためてた。その意図をバーダラスは察知して、現状を維持する条約を提案してきた。フィリップはただちに提案を拒否し、ダルダニアンの軍はこの上部マセドニアから退去しなければならないといった。

* 両軍の編隊
バーダラスもただちにこれを拒否した。両者は戦争にむかうこととなった。両者の戦力は拮抗していた。フィリップは一万の歩兵、六百の騎馬兵。バーダラスは一万の歩兵、五百の騎馬兵である。ダルダニアンは横一線の編隊、両翼に騎馬兵を配置した。おそらく最良の兵を中央に配置した。フィリップもおなじように中央の左に重装歩兵を配置、騎馬兵を両翼に配置した。フィリップはいつものように名誉の右翼をしめた。そこに最強の兵がいた。右翼にヒダスペスを配置した。彼は重装歩兵がダルダニアンの中央に対抗し、ヒダスペスが相手の左翼に突入することを期待してた。

* 戦いの開始
角笛がならされて両軍は前進した。はげしい戦いがはじまった。戦いはどちらが有利ともいえないままにつづいた。だがじょじょに、また着実にフィリップのヒダスペスの部隊がダルダニアンの左翼に侵入していった。ダルダニアンの左翼はおされ後退し、ささえきれなくなった。コンパニオンの騎馬隊の右翼での攻撃も成功していった。このためダルダニアンの編隊が切りさかれた。ダルダニアンの左翼は士気をうしない、戦場から逃げだした。それをみた他の兵たちもおそれおののいて逃げだした。

* フィリップの完勝
フィリップの完勝だった。ダルダニアンは半分の兵力をうしなった。五千の死者、千の捕虜をだした。マセドニアは三百から二百の死者だった。これで完全にダルダニアンの脅威はさった。さらにダルダニアンが占領していた都市を回復した。さらに重要なことはマセドニア西部の状況を有利にすることができた。リリアンのオレド湖にいたる地域を自国領に編入した。これにより国境の安定を確保できた。ここは自然の国境地帯となるとともに、将来の攻撃にそなえた緩衝地帯となった。

フィリップの遠大な征服計画はまだ姿をあらわさない。次にフィリップは北部のギリシャの統一を目ざしてゆくが、それは次のビデオでのべる。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。