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アレクサンダー大王、その二の九、バルカン遠征 [英語学習]

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* はじめに
アレクサンダーはフィリップの暗殺後の混乱を乗りきった。まず有力将軍の支持をえて王位継承者の地位を確保、アテネ、シーブスなどにギリシャの覇者をみとめさせた。北の反乱をおさえ領土をダニューブ川まで拡大した。西の辺境の反乱も平定した。フィリップの後継者たる地位を確立しさらに東進しギリシャ人の都市をペルシアから解放するとかたりはじめた。
(Alexander the Great: The Balkan Campaign (336 to 335 B.C.E.)、Historia Civilis、2017/10/31 に公開)

* 暗殺後に有力将軍がアレクサンダーを支持
フィリップ三世が暗殺されだ。このような場合には王位継承が問題となる。しかし息子、アレキサンダーが有利な位置にいたことはたしかである。彼は三人いた息子の上から二番目である。一番目は認識に障害があり政治に関与してない。ところでおおくの人がしんじてるところだが三番目、幼児であるが、彼をフィリップが王位の継承者とかんがえていたという。おさない王は十数年にわたり摂政が政治をおこなうことを意味する。野心的な重臣たちはこの実現をもとめる。王にかわって実権をふるうことができる。フィリップのもっとも信頼がたかかった将軍、アンティパータ(antipater)がいち早くアレクサンダーのもとに軍を引きいてやってきた。このことはアレクサンダーこそがフィリップが予定してた継承者だと公然と主張したことにつながる。

これにより他の有力な将軍たちもアレクサンダーのもとにやってきた。マセドニアの軍は彼を支持した。幼児を王位につけようという陰謀は彼の死とともになくなった。その後の数ヶ月は事件がつづいたが事態が落ちついた。三つのことがかわった。

一、アレクサンダーは父の有力な支持者のすべてを味方につけ彼らを顧問に任命した。
二、アレクサンダーからなんらかの保証をえて臣下たちは満足して彼にしたがった。
三、アレクサンダーの有力な対抗馬であったフィリップのおさない息子はしんだ。うたがわしい状況のもとでの死であることを公平のため付言しておく。

* 内政安定化にうった手段
一、王として彼が最初にやったのはすべての税金を廃止。今後の国の歳入を鉱山開発と征服によるとした。これにより臣下は非常に満足した。これが彼を支持する条件の一つとなった。
二、フィリップが公布した法律、命令のすべての維持を誓約。これは軍の古老を満足させアレクサンダーを支持する条件の一つとなった。

* アレクサンダー、ギリシャの覇者の確認
王位の維持にどのような条件が必要かをみるのは興味ぶかい。マセドニアの権力組織をまとめあげた後には新王はギリシャ全土が彼の王位をみとめるかどうかをたしかめる必要がある。またフィリップの承継者としてギリシャの覇者である地位は要求しうる。これらをたしかめる必要がある。

* 各都市を巡行、テッサリの妨害
アレクサンダーは三千の騎馬隊を引きつれて南にむかった。テッサリのちかく山をぬける惟一の道にやってきた。テッサリが軍をうごかし道を封鎖してた。テッサリはアレクサンダーに使者をおくりまってくれとたのんだ。アレクサンダーと軍をとおすかどうかを検討してるといった。これは無礼な行為であった。フィリップはその統治時代にテッサリを併合していた。つまりここはマセドニアの領土である。彼らはアレクサンダーを外国の王のようにあつかった。この道は非常にせまく衝突をおこすのは小規模の軍を引きいるアレクサンダーにとり不利だった。彼はまった。

彼はひそかに山の道を切りひらくようめいじた。数日後に馬にのったまま山をこえた。間道をぬけたマセドニアはテッサリが何がおきたかをしる前に道にもどりテッサリ軍の後をすすんでいた。テッサリはとっさの判断で態度をかえアレクサンダーを新王として歓迎した。彼はこの服従の姿勢をそのまま受けいれた。

* アテネ、シーブスの服従、スパルタの姿勢
また南下をつづけた。おおくのギリシャの都市から外交使節がやってきた。彼をあらたな覇者としてみとめた。ところがシーブスとアテネは不気味な沈黙をまもってた。ところがさらに南下するのをしり不承不承に外交使節をおくり彼を覇者としてみとめた。ほこりたかいスパルタはアレクサンダーの覇者をみとめようとはしなかった。しかし文書をおくった。それにはおおくの人々のやることを追いかけるのは我々のやりかたでない。むしろこれらの人々を先導するのがやりかたである。すでにのべたがスパルタは当時、千の軍を編成するのが限界。それにくわえて奴隷の軍を編成するのがやっとだった。もはやマセドニアの脅威ではない。ある人はスパルタがはいってることが南の都市をおどす材料になるといった。ギリシャ人はマセドニア人を信用してない。だがギリシャ人はそれ以上にスパルタを嫌悪してた。

* デルファイの神託、不敗神話のもと
すべてのギリシャは平定した。アレクサンダーはすぐ軍をもどし神託をもとめデルファイにいった。これは父、フィリップもやったこと。ところが問題があった。神託は冬にはでない。寺院でアレクサンダーは拒否された。彼は事情をしらず激怒した。ある説によると寺院を急襲した。そして女神官の長に乱暴な行為をおこなった。彼女を椅子のうえに押しあげさらに暴力をふるい神託を要求した。この過程のどこかで神官が彼は無敵であるといったという。ややしんじがたいところがあるが彼はこれを真実の言葉と受けとった。ある人の見解ではアレクサンダーをおとしめる宣伝工作という。しかしこれを彼がしんじたとすると彼は自分は戦いでしぬことはないとしんじてマセドニアにもどったことになる。

* 北の辺境の反乱、スレイスの荷馬車攻撃をかわし勝利
さてアレクサンダーがその権力の確立にいそがしかった頃に、マセドニアの後背地で反乱がおきた。これらの地域はフィリップにより近年に征服されたものである。北部と西部の反乱は独立を要求してる。ところでマセドニアの北の辺境はダニューブ川の南、そこには五日の進軍でゆける距離にある。アレクサンダーは北方の辺境を永続的にするためダニューブ川のところまでひろげることにした。冬に彼は山で攻撃作戦をおこない春にさらにすすんで北方の脅威と向きあうことにした。ヘーマスモンスという現在のブルガリアにぞくする地点でスレイスの軍と遭遇した。道をすすんでた時である。

スレイスは丘のうえで待ちかまえてた。前面に荷馬車をおいて防禦としてた。アレクサンダーは斥候をおくり彼らを回避できる道をさぐらせたが見つからなかった。彼はいらついて後をむいて歩兵隊にめいじた。まっすぐ敵にむかえ。疎開しゆっくりした歩調ですすめといった。彼は慎重になり荷馬車がおいてある理由を予想した。予想はあたった。マセドニアが丘の中腹にきた時、スレイスはその荷馬車をおし斜面をすべらせてマセドニアのほうに突っこませた。アレクサンダーは冬のあいだにこのような作戦への対応を兵に訓練してた。彼の合図とともにマセドニアの兵は体を地面に投げだし盾で頭をかくした。荷馬車はいきおいよく滑りおち、うつむいたマセドニアの兵を乗りこえていった。若干の擦傷、切り傷をのぞくとまったく無傷のままでおわった。この荷馬車による攻撃はなかなかすばらしいものだった。マセドニアの無敵の密集歩兵隊をやぶったかもしれない。だが実際はそうならなかった。攻撃の道がひらけたのでマセドニアは丘の上の敵に直接攻撃をおこなった。弓矢隊は矢をさかんにいて歩兵を援護した。歩兵はすばやく攻撃をおえ、まったく損害がでなかった。

* ダニューブまで領土を拡大
アレクサンダーが王としての最初の作戦はまったく完璧な勝利だった。しかしバルカン遠征はまだおわってない。アレクサンダーとその軍がダニューブ川についた時に敵対する部族がいるのを発見した。彼らはアレクサンダーが北上するのを妨害していたものだった。彼らが川中の島にもどっていった。彼らはもしマセドニアが島に上陸しようとするならばいつでもたたかう用意がある。そうみえた。川をわたった北の岸べには別の敵が待ちかまえていた。彼らは草原からやってきた放牧の部族である。マセドニアを注意ぶかく観察してた。アレクサンダーはこの複雑な状況によい答がないかかんがえた。島への上陸作戦は被害がおおきいだろう。どのような方策があるのか。

彼には考えがあった。騎馬隊を扇型にひろげた。ちかくの村から釣り船をうばってきた。のこりの軍にはどんなものでもよから筏をつくるようめいじた。夜陰にまぎれて軍の一部を筏にのせた。島にわたるのでなく向こう岸にわたった。彼らは穀物畑の背後に上陸した。これらは充分に背がたかくそこに身をかくすことができた。彼らが下船しおわると朝日がのぼってきた。歩兵隊は横一列にならんび前進をはじめた。アレクサンダーは騎馬隊を引きいた。マセドニアを観察してる中立軍を攻撃した。放牧の部族は数ではアレクサンダーより優位にっあた。たぶん三対一だろう。だが彼らはまったく不意をつかれた。川からはなれ退却にうつった。彼らの野営地にもどると彼らは軍を再度編成した。ところがマセドニアがまだおっかけてきたのでおどろいた。放牧の部族は野営地を放棄し草原にきえていった。アレクサンダーにはおおきな勝利だった。しばらく略奪をおこないダニューブ川にもどった。川中の島にいた部族は川の両岸にマセドニアがいることを発見して非常におどろいた。彼らは島にとどまり長期の城攻めにたえるより降服をえらんだ。

アレクサンダーは神をしんじる気持のつよい人物である。マセドニアがここにとどまり神に彼らの勝利を感謝するために一連の儀式をおこなうよう主張した。軍を引きいてダニューブ川をわたることは兵站作戦のみごとな成果である。この後の数日間は他の部族があらわれて降服を申しでた。マセドニアの領土はこうしてダニューブ川まで拡大した。遠征の目的はみたされ、北方の国境は確保された。

* 西の辺境の平定、イィリアンの軍と遭遇
しかし西の国境についてはなお脅威がのこってた。イィリアン(illyrian)はアレクサンダーの父、フィリップの時代に降服していた。しかしフィリップがひいた国境線には満足してなかった。彼らはこの不安定化した時期こそこの問題を有利にすすめる絶好の機会ととらえた。アレクサンダーはイィリアンが進軍してくるのをきいた、ダニューブからただちにこちらにむかった。彼はペリアムというちいさな砦のちかくですすんでくるイィリアンをとらえた。イィリアンはこの砦にはいったがこれは賢明だった。その砦は東、北、西にかけて三つの丘でまもられさらにその南は川でまもられてた。丘をぬけて砦にむかうただ一つの道があった。アレクサンダーはそこにとどまり城攻めの準備にはいった。だがこれは戦術的には失敗だった。

* アレクサンダー、罠にはまる
ほとんど同時にまるでアレクサンダーをまってたかのようにもう一つのイィリアンの軍がやってきた。彼らは丘にのぼりマセドニアを包囲した。アレクサンダーはまるで罠に自分からはいっていったようなものだった。しばらくのあいだイィリアンはマセドニアとの距離をたもってた。この道は隘路となってた。この谷をぬける、あるいははいるにも一日仕事になるものだった。

もしマセドニアが谷から抜けでようとするとイィリアンは丘をくだりマセドニアを背後から追撃できる。これをよくみると砦をマセドニアが包囲しそのマセドニアを丘にいるイィリアンが包囲してる。イィリアンにとってはじっくり腰をすえてアレクサンダーが間違いをやらかすのをまつ状況となった。数日かけて彼と助言者のあいだで議論がかさねられた。次のような狂気じみた作戦を実行することとなった。それはマセドニアが絶望的な状況になってることをかんじさせるものだった。これはすばらしい作戦だった。彼らは戦いにはいるため兵をうごかした。ながい隊列をつくった。兵が実際よりおおくいるようにみせた。それから演習をおこなった。これが彼らがかんがえた作戦だった。これはさらにいえば見世物だった。歩兵隊が前進する。次に停止する。次に方向をかえる。隊形を変更する。これらはまったく合図なしだった。前進してる時に長槍を前後に振りまわす。そして完全に同期して長槍を前に突きだす。槍が風をきる音がする。それは丘のうえにいる敵にもきこえた。

* アレクサンダー、奇策で相手をまどわす
なんの合図もださずマセドニア軍のすべてが沈黙をやぶり戦闘の雄叫びをあげた。武器で盾をたたいて音をたてた。おどろくべきことだが、これはおおきな効果があった。イィリアンはこれほどの規律ある動きをみたことがない。それは人間業にみえなかった。ある部隊はおそろしくなって逃げだすこととにした。退却の動きがでたここが絶好の機会である。合図がはっせられた。マセドニアは丘の上の敵にまっすぐ攻撃を仕かけた。アレクサンダーも騎馬隊を引きいて攻撃した。イィリアンにとっては完全な不意打ちだった。

散発的な戦いがあったがイィリアンは総退却にうつった。マセドニアはこれで誰一人うしなうことがなかった。 アレクサンダーは自分をほめてよい。自分から危地にはいり、しかしそこから成功裏に抜けだした。それもまったく損害をださずにである。アレクサンダーは今や谷を支配下においた。イィリアンはまだ地平線のどこかにいる。アレクサンダーには食糧補給の問題があった。彼は食糧補給線をどのように確保するかをかんがえねばならなかった。彼は騎馬隊と弓矢隊を丘のうえにのこした。そしてそれ以外のすべてをつれて川にむかった。しばらくかんがえてから彼は道をとおって谷をぬけるより川をわたることにした。

* アレクサンダー、川をわたり戦況を好転
安全をたしかめるためまず選抜された盾持隊が最初にわたった。歩兵がその後につづいた。こうしてるなかで丘のうえにいる騎馬隊と弓矢隊はイィリアンがもどってくるのを監視してた。軍の大半が川をわたった頃騎馬隊と弓矢隊は丘をおりてきた。川をわたろうとした。するとイィリアンがもどってきた。すぐ川をわたってるマセドニアに気づいた。彼らは丘をおりてマセドニアの後方を追撃した。向こう岸にいたマセドニアの歩兵隊は投石機の攻撃の準備をととのえた。それは砦の城攻めのために用意してたものである。イィリアンが谷をすすんできた時に投石機の攻撃がはじまった。ある人によればこれは歴史上はじめて城攻めの投石機が野戦でつかわれた例だという。

川をわたっていた弓矢隊は川の途中で向きをかえ矢による攻撃を仕かけた。この一斉攻撃はイィリアンの進軍をとめるに充分だった。これによりマセドニアは余裕をもって川をわたることができた。これらを振りかえっていえるのはアレクサンダーは幸運だったということである。

* アレクサンダー、攻撃の仕上げ
アレクサンダーはこちらの岸で野営地を設営した。彼は馬糧調達の部隊をおくり供給線を確保した。ここでやっと食糧の荷物を受けとることができた。彼はここで猶予の時間をえた。数日後、川岸に斥候隊をおくった。そこでイィリアンが何をしてるか観察した。おどろいたことに彼らはただそこにいるだけで何もしてなかった。監視の兵すらおいてなかった。 彼らはまるで戦いに勝利したかのような振るまいだった。アレクサンダーは選抜された盾持隊と弓矢隊の兵を引きいて川をわたり夜討ちを仕かけた。予想したとおりだが敵はまったく気がつかなかった。監視の兵もおいてなかった。テントを攻撃した盾持隊はまったく気づかれないまま睡眠中の兵をころしていった。

敵襲撃に気づいた頃には野営地からおおくの兵が逃走してた。多数がころされそれ以上の数が捕虜となった。この攻撃だけでイィリアンの軍は消滅した。翌日、砦のイィリアンが降服した。ヘーマスモンスの城攻めは奇妙なものだった。

* ゴールズと友好関係をむすぶ
アレクサンダーは自分自身の失敗から危地に落ちいりそこから抜けだした。そこでしめした彼の行動はまったく天才を発揮した。彼がペリアム、ダニューブ、ヘーマスモンスでおさめた勝利は間違いなく一つのメッセージを周囲におくった。アドリア海沿岸のゴールたちがいつしょになり、このわかい王と外交関係をむすぼうとした。

彼が彼らゴールの代表団とあった時に彼らが彼の足下にひれふす機会をあたえた。そこでまずきいた。貴下は世界でもっともおそれてるものは何か。彼らはひれふすかわりに率直にこたえた。天が頭のうえにおちてくることである。あきらかにゴールの神話からきたものだった。神をしんじることのあついアレクサンダーはこの奇妙な答に感心した。彼は彼らに友好関係をむすぶことをみとめた。そして彼らが平和裏に彼のもとをさることをゆるした。彼の我儘がでた時だが後に自分の部下にむかってゴールズが彼を尊敬せず傲慢だと文句をいった。

* 権力移行をみごとにやりとげたアレクサンダー
我儘がでることは別にしてアレクサンダーが自分自身をたかく評価するだけの充分な根拠がある。彼の父の突然の死が混乱を引きおこした。この期間にフィリップの征服の成果をうしなうことなく、むしろそれを拡大させた。マセドニアを内乱からすくった。権力移行の困難な時期に重要なものをうしなうことなく権力移行を成しとげた。あかるい未来がみえた。国境地帯が平定されたことをうけ彼は公然と父がもってた夢の実現をかたりはじめた。それは東にすすみペルシアの支配下にあるギリシャ人の都市を解放することである。この目標を達成するためにも彼はほかのギリシャ人と協力する必要がある。そして当面の彼らの忠誠心はまだあきらかではない。

(おわり)
お知らせ
次の簡略ギリシャの歴史シリーズを窮作文庫に収録しました。ブログ掲載分を修正し転載したものです。みやすくなったとおもいます。一度のぞいてみてください。

序論など)
序論
ミノア文明
マイシニ文明の一
マイシニ文明の二
ホーマーと暗黒時代
古代ギリシャと都市国家
密集隊戦法
スパルタ
アテネ
ペルシア
(ギリシャとペルシアの戦いなど)
マラソンの戦い
テルモピレの戦い
サラミスの戦い
プラティアの戦い
マイカリの戦いとデリアン同盟
アテネ帝国
ペリクリースの時代
(ペロポネソス戦争)
第一次ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争の一
ペロポネソス戦争の二
ペロポネソス戦争の三
ペロポネソス戦争の四
ペロポネソス戦争の五
ペロポネソス戦争の六
ペロポネソス戦争の七
ペロポネソス戦争の八
ペロポネソス戦争の九
ペロポネソス戦争の十
ペロポネソス戦争の十一
ペロポネソス戦争の十二
ペロポネソス戦争の十三
ペロポネソス戦争の十四
ペロポネソス戦争の十五
(スパルタの覇権など)
スパルタの覇権
一万人の行進の一
一万人の行進の二
小アジアの騒乱
(コリンス戦争)
コリンス戦争の一
コリンス戦争の二
コリンス戦争の三
コリンス戦争の四
(スパルタの崩壊など)
コリンス戦争のあと
平和なし
ルトラの戦い
アルカディアとマシーニアの反乱
マンテニイの戦い、最終のゲーム
ウルブルンの難破船

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