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明日ママ [テレビ]

日本テレビが今年の一月中旬から「明日、ママがいない」を放映した。いろいろな事情で親元を離れてくらす児童養護施設(コガモの家)を舞台にしたものだ。第一回目にポストという女の子が登場した。熊本県の滋恵病院で「赤ちゃんポスト」と通称される匿名で遺棄された赤ちゃんを受けいれる窓口がある。これからきてる。コガモの家の施設長は、自らの施設をペットショップだ。子どもたちはペット、里親希望者はペットをほしがるお客となぞらえる。子どもたちに、かわいくみせるため、泣き真似を強要するという、びっくりの演出である。評判になるとともに、非難の声があがった。当然、滋恵病院の反発はつよかった。全国児童養護施設協議会、里親の会からも非難の声があがった。視聴者の反発をおそれたスポンサーが第三回目までにすべておりてしまった。日テレは滋恵病院を訪問し謝罪したが中止の要請にはおうじなかった。この騒ぎは、おおきな広がりをみせた。


骨組


ドラマの骨組を紹介する。主要登場人物は下表のとおり。親にすてられたりして幸せをもとめる子どもたちが主役である。この他にも不幸をせおった人物が次々に登場する。毎回これでもかと事件がおきて、不幸と貧乏の大盛りがあじわえるそうな。最終的に子どもたちは幸せをみつけて、おわる。全部で九回つづいた。


主要人物の紹介
呼び名性別、年齢生い立ち
ドンキ女、9母が愛人を鈍器でなぐる。この傷害事件のため施設にはいる
ポスト女、9赤ちゃんポストにすてられる。子供たちのリーダー的存在
ピア美女、9裕福だったが、父の会社が倒産し施設にはいる。ピアノの才能がある
ボンビ女、9貧乏(ビンボ)のため施設にはいったと思っていたが、両親を災害でなくしたため
オツボネ女、17母親が原因で瞳に傷害がある。眼帯をして隠している。施設をでなければと焦ってる
魔王男、48施設の長。つねにステッ キをもち子供たちに威圧的にせっする

母親が傷害事件をおこし、ドンキが施設にやってきた。そこからドラマがはじまる。そこには、子どもたちのリーダー的存在のポストがいる。母親がむかえにきてくれると信じているドンキに、あきらめろという。ここからさまざまなドラマが展開される。子どもたちは、ややどぎついアダ名でよばれている。子ども同士の対立、葛藤があり、里親と実母の間で選択になやむ。里親に気にいられるため男の子になろうとしたりする。学校の男の子に恋心をいだき、他の女子を恋敵と意識する。ピアノの道を断念しようとすると、それを助ける友情もある。現実から逃避し映画スターとの結婚を妄想する。この種のドラマに定評のある野島伸司氏が脚本監修し、各回は別の脚本家が担当した。


さまざまな反応


ドラマをめぐりさまざまな関係者がいる。子どもが傷つくと懸念する、大人がいる。滋恵病院、全国児童養護施設協議会、里親の会である。施設にいる子どもたちの声もきこえてくる。一般の声として、有識者、視聴者がいる。放送する側として日テレは当然だが、第三者的にかかわる放送倫理・番組向上機構がいる。その概要は下表のとおりである。


さまざまな反応
分野対象批判
大人滋恵病院放送中止、後に取り下げ
全国児童養護施設協議会内容の改善
里親の会内容の改善
子ども施設の子ども心に傷
施設の経験者批判
一般有識者批判
視聴者賛否両論
CMスポンサー降番
放送者日テレ謝罪
放送倫理・番組向上機構委員会が許容できる範囲と判断

滋恵病院が、ポストという子どものアダ名を問題にした。これでは学校でのいじめを誘発するという。全国協議会は施設の職員が子どもたちに暴力をふるったり、虐待したりしている姿を問題にした。施設が誤解されるという。里親の会は、えがかれている里親が変質者のように戯画化された姿を問題にした。日テレは謝罪するとともに最後までみてほしいと要望した。このやりとりの中で、どうやら、あざとい演出をかえるようだとの感触があったようだ。滋恵病院も放送中止を撤回した。見守るという姿勢にてんじた。CMスポンサーは当初のはげしい拒否反応におそれをなしたようだ。三回目の放送までに、たしか八つあったと思うが、すべておりて、番組終了までスポンサーなしの異例の放送となった。子どもの反応はどうか。


学校でいじめられたり、心にきずをおったという報道があった。大人となった施設経験者の発言はもうすこし複雑であった。施設側に暴力や虐待の例があったことを指摘した。声高に日テレをせめる姿に嫌悪感をしめす反応もあった。ドラマは子どもの実感をよくしめしているとの評価もあった。これは子どもたちが力強く生きようとしているとの主張でもあった。有識者、視聴者などの評価はどうか。


ナイナイの岡村さんは、いちはやく放送中止の動きに危機感をしめした。こんなことではテレビは死んでしまうといった。爆笑問題の太田さんは演出のあざとさを批判し、作品の質を問題にした。他の批判である。脚本監修の野島氏について、例によって炎上商法という辛辣な批判や、あえて現場取材をしない姿勢を確信犯とした。しかし嘘から生まれた関係が真実となりえるかというテーマがあるとして、作品に一定の評価をあたえる批評もあった。視聴者の感想である。


施設経験者ではないが、このドラマからフラッシュバックが生まれるという深刻な批判があった。現実からかけはなれているという批判もでた。また、鹿児島の高校生が七千人の署名をもとに放送中止と謝罪をもとめた。ところがドラマがすすんでゆく中で、内容を評価する声が目立つようになった。放送倫理・番組向上機構の委員会は、人権侵害との申し出があったが全体として許容できるものとの判断をしめした。これが総括としての評価であろう。なお、視聴率は話題をよんだものの、最高で15.0%、ほぼ11%台の平凡なものだった。


悲しい子ども


昔、散髪屋にいったら、そこには時間つぶしのために新聞、雑誌のたぐいがおいてあった。わたしはそこで、いつも特定の雑誌をよんだ。それはおそらく散髪屋などを対象に発行されるものだろう。各地の名所旧跡を紹介するものだった。パラパラとめくっているうちに気がついた。そこで沼や淵が紹介されると、そこにまつわる昔話もいっしょに紹介される。それは悲しい話しだった。いつも若い女の子が身をなげる。それは、二人の恋人に求愛されて、こまりはてての後に身なげする。親、村の悲劇にかかわって身投げする、などである。気づいてから、チェックするようになった。まったく例外がない。この国の人は沼や淵をみたら必ずとびこみたくなるように、習慣づけられているのか、と思った。小学校で林間学校といって旅行にいった。


高野山にいったら、刈萱童子の話しをきかされた。吉野にいったら義経の愛人の静御前の悲劇をきかされた。そこで私の学友が、唄をつくった。「吉野山、義経逃げた吉野山」だった。刈萱童子の話しをする。


石童丸は高野山で出家した父をしたって、母とともに山をのぼってくる。女人禁制のため単身で父と再会する。しかし父は自分が父であることは、しらせない。やむえず石童丸は下山するが、ふもとで急死した母をしる。悲しみのうちに、再度高野山にのぼり、それとしらずに父のもとで仏道の修行をかさねる。その後、修行して高僧となる話しである。父が親子であることをつげなかったのは、事情があるのだが、わたしはずいぶんいじわるだなと思った。旅先で石童丸にもみとられることもなく死んだお母さんもかわいそうだったし、その後で出家を決意する石童丸もかわいそうでならなかった。この話しはたしか宿坊のお坊さんからきいた。おそらく宿泊客にはきまってきかせていたものだろう。わたしは、すこしもうれしくなかった。こんな話しをどうしてきくのか、わからなかった。何故この国の人はこんな悲しい話しが好きなのかと思った。だいたい、身をなげた女、孤児となり諸国をさまよう子ども、戦争なら必ずまけた者に注目があつまる。それでいいのか。


貧乏でも、それにへこたれず、たくましく生きてゆく子どもたち、からみあった恋愛模様をくぐりぬけ幸福になる女性とか、ボロ勝ちしなくていいけど敵国に対抗して生きぬく武将とか、そんなのはないのかと思った。だから早くから子どもをいじめる話しには拒否反応がでた。子どものための世界文学とかいって、学習雑誌に、クオレ、家なき子、母をたずねて三千里とかが紹介されたが嫌いだった。母をたずねてなど、マルコが目的地につくたびに、お母さんがすでに出発していて、また、その先の目的地にいかなくちゃいけない。もうすこし待ってやれよとツッコミをいれたくなった。マッチ売りの少女、フランダースの犬、人魚姫なども、どれもいやだった。まともによんだことはない。テレビの「おしん」もまともにみたことがない。でも、この国だけではない、こんな子どもをいじめる話しが好きな人は世界中にいるらしい。何故なんだ。わたしの考えである。


世界中には不幸と貧乏がごく普通にある。おおくの人々はその近くにすんでいる。子どもをいじめる物語は、おおくの人にとって身近であり、そこからおおくのことを学ぶ。また人は他人の不幸と貧乏をのぞきみて、自からのなぐさめにしたり、芸術に昇華して生活の豊かさをつくる。すべての人がすきとはいえないが、文学の大切な分野である。これは将来もかわらないだろう。この分野をなくすことは施設にいる子どもたちの楽しみをうばい、豊さをうばうことにつながる、と思う。


結論


滋恵病院、協議会、里親の会に対して、世の中にむけ発言する時、世の中のためになるという気持を忘れないでほしい。こんな騒ぎで注目度がたかまったから、ここぞとばかり、自分たちの存在の意義、世の中への貢献をおおいに訴えてほしい。それもできるだけ、あかるくである。あかるくといった。それは次に関連する。


大人に対していうことである。このような騒ぎとなって子どもたちには好奇の目がそそがれる。いろいろ傷つく子どももでてくるかもしれない。不安になっている子どもたちは、周囲の大人をみる。そこで被害者の立場ばかりを強調していては、子どもたちへの応援にならない。これを絶好の機会ととらえ、前向きに世の中に 立ち向ってる大人の姿に安心をかんじると思う。子どもたちの将来はけっして幸せにみちていない。しかしかわいそうな子どもの境遇に満足してない。自分の幸せをもとめ、世の中のためになるような生き方をしたいと願っている。そんな子どもへの応援になる。


いわゆる、子どもの不幸文学をなくすべきでないと、わたしがいうのも、この意味である。嫌いだという子どももいるだろうが、文学の分野としてやはり必要である。子どもたちに豊かさをあたえるものだ。そこで日テレにいうこととなる。質のたかいものを提供してほしい。



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